◆雨と蚊と夏の終わり


 夏休みの最終日。しとしと雨の日。

 あかねはふうっと長い溜息を吐き出した。

「何だよ。その色気のねえ溜息は。」
 鉛筆を加えながら乱馬があかねをちらっと見返した。
「色気がなくって悪かったわね。」
 そう言いながらタンっとノートを机に縦に打ち付けた。
「悪態ばっかり吐いてたら宿題、知らないわよ…。」
「あ、ま、待てっ!言葉のあやだよ…。」
「どうだか…。」
「はあ…。だけど面倒だよな。宿題なんて。」
「今ごろ泣きついて来るあんたが悪いんでしょ?」
「今年は酷暑だったんだから、宿題なんて出さなきゃいいのによ…。」
 そう言いながら乱馬は後ろに手を組んで椅子を後ろに浮かせた。
「そんなこと言ってる暇なんてないでしょ?さっさとやっちゃわないと間に合わないわよ・・。」
「ちぇっ!面倒だから全部写させてくれたら、とっとと終わるのによぅ…。」
「ダーメっ!虫が良すぎるわよ。でも、付き合ってあげてるんだから文句言わないの・・。ほら、次訳してっ!」

 幾分涼しくなってきた。
 今日は朝から雨が降っているので、余計にそうかもしれない。雨の匂いがつんと鼻をかすめてゆく。

「雨…かあ。嫌だな…。」
 英語が一区切りついて、乱馬がぼそっと吐き出した。
「やっぱり、雨、嫌い?」
 あかねはノートをかばんに仕舞いこみながら言葉を継いだ。
「ああ…。好きじゃねえな…。」
 無表情に答える。
 当然だろう。彼は、水に濡れると女に変化してしまう体質を持ってしまっている。雨に濡れれば女になってしまう。そんな自分が不甲斐なかった。
「ねえ…。その…女になる前はどうだったの?やっぱり嫌いだった?」
「さあな…。」
 乱馬は恨めしそうに雨雲を見上げた。
「あたしも…嫌いだったな。雨…。」
「ふうん…。何でだ?」
「だって、雨が降ると外へ行けないじゃない。雨が降ると家に閉じ込められているようなそんな気がしてさ、子供の頃から好きじゃなかったな…。それに、あたしって雨女なのか、行事の度に雨が降って。楽しみにしていた運動会や遠足がいつもないがしろになるの。そんな経験ない?」
「…。俺はさあ、ずっと親父と二人だったろ?オフクロの存在なんて知らなかったし。運動会に雨が降るとすっとしたっけな…。母さんと一緒に食べられないお弁当なんて欲しいと思わなかったっていうか…。だから雨天順延になると嬉しかった…。ひねくれてたからな。」
「そっか…。あたしは、お姉ちゃんやお父さん達に囲まれてたから、そうは思わなかったな…。お母さんが居なくても…。その分恵まれていたのかもね。」
「俺が雨、嫌いになったのは最近だからな…。」
 言葉が途切れたとき、乱馬がほっと叫んだ。
「おっと…。蚊だっ!」
 薄暗いのが好きなのか、プーンと羽音を響かせて飛んできた小さな黒い縞模様の虫。薮蚊。
 目で追うと、あかねの足に止まった。

 パチンっ!

 音がした。
「痛いっ!」
「ちえっ!逃げられた。」
「あん、もう、人の足、叩くことは無いでしょうに…。」
「あ、そっち飛んでったぞ…。」
 こういうのはムキになる。血を吸う不快な虫だから余計といったところだろうか。

 息を潜めてずっと気配を伺って。

 バチンっ!


「あーっ!こいつ、血吸ってやがった…。」
 乱馬が思わず叫ぶ。
 見ると潰れた蚊と噴出した血が紅くべっとり。
「やん、さっき叩かれたところ、痒い…。」
 あかねが足を見た。ぷくっと赤く膨れている肌。
「あかねの血か…。」
 乱馬はじっと掌を見た。
「何感心してるのよ…。」
「あ、いや…別にそんな訳じゃねえけど…。あかねの血吸ってやがったのか、こいつ。」
「憎い?」
「さあな…。あかねの血を飲んだのか…。物好きな蚊だな…。」
「たくっ!何を言ってんのよっ!」
「あ、もう一匹居やがるっ!」

 大騒ぎだ。
「そっち行ったわよっ!」「うわ、こっちだっ!」
 バチン、バチンと空振りの音がする。

「また、こいつ、血吸ってやがる…。」
 だぼだぼの大きな腹をどてどてさせて飛ぶ蚊を見て乱馬が叫んだ。
「えいっ!」
 今度仕留めたのはあかね。掌で昇天した蚊…。
「やだっ!ほんとに血吸ってたのね…。」
「くそっ!今度のは俺の血吸ってやがったな…。痒いっ!」
 バリバリと右腕をかきむしり始めた乱馬。
「蚊取り線香焚いた方がいいわね…。手を洗うついでに貰って来るわ。」
「あ、俺も洗う…。」

 お互いの血を掌にくっつけて二人は笑った。

 洗面所でごしごしやる。乱馬は女に変身するのを嫌がってお湯で洗う。洗いあがった手からは石鹸の淡い匂いがした。

 雨音が走り出した。

「本降りになってきちゃったね…。」
「雨ってどことなく寂しいよな…。特にこんな日には…。」
「こんな日って?」
「夏休みの終わり…。昨日まであんなに暑かったのに、今は涼しくて。これも雨の仕業だろ?あんなに燃えるほど暑かったのに。もう秋かって、そんな現実を突きつけてきやがる。だから…。」
 タオルで手をふき取りながらそう言ってほうっと吐く溜息。

「乱馬にも似合わないね…。溜息。」
 くすっとあかねが微笑んだ。
「おめえほどじゃねえ…。」
 言い返してくる悪態。
「何よ…それ。」
「溜息っていうのはなあ、やっぱ「色気」がなくっちゃなあ…。」
「憎まれ口ばっかり叩いているんなら、数学、知らないからね…。」
「あっ!薄情者っ!」
「ふふんっ!お互いさまだよーだっ!」
「あーっ!もうっ、色気もなければ可愛くねえなっ!」
「言ったわねっ!」
「へんっ!」

 ふざけあって触れる洗いたての手。
 少し水に当たって冷たいあかねの手に触れて、二人は動きを止めた。
「やっぱ、男のままのほうがいいや…。」
 にっこりと微笑む。乱馬はあかねの手をそっと握り返した。
「うん…。そうだね…。」
 あかねは恥ずかしげに俯いて頷いた。

「だーっ!たく、昼間っぱらから何やってるのよっ!こんなとこでっ!目に毒よっ!あんたたちっ!」

 なびきの声が背後で響く。

「わたっ!」「やんっ!」
 触れた手をぱっと離す純情な二人。
「宿題終わったの?乱馬くん?」
 なびきはにやにやしながらそう言い放つと向こうへ行った。
「そうだ…蚊取り線香…。かすみおねえちゃんっ!」
 照れ隠しにあかねがそう言って廊下を駆け出した。
「走ってると転ぶぜっ!」
 後ろで怒鳴る乱馬…。



 雨。
 落ちてくる雨。
 夏の終わりの二人を柔らかく包む雨音。








さらば夏休み…

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