名残火
「意地っ張りっ!」
「うるさいわねっ!!」
また響く罵声。
いつもだ。そう、いつもこうやって言い争い、喧嘩している。
「かわいくねえっ!!」
乱馬はいつものようにそう言い切ると、道場を抜けた。
「悪かったわね…。可愛くない女で…。」
その後姿に吐き出す溜息。
そうなのだ。いつも、こうなってしまう。
素直に自分を表現できない。そんな自分にいつも嫌気がさしてしまう。
何をそんなに強がっているのか。何をそんなに意固地になってしまうのか。自分でも良くわからなかった。
わかっているのは、喧嘩になった気まずさと後悔と自己嫌悪と。
乱馬はそれっきり帰って来なかった。
いや、正しくは彼の父親と共に修行へと出てしまった。
あかねに何も告げずに。
乱馬とその父、玄馬はが居ない天道家は火が消えたように静かになった。
「あの親子が居ないだけで、随分家の中が涼しくなったわよね。」
なびきはアイスキャンデーを頬張りながらそうあかねに吐き出したほどだ。
「あらまあ、どうしましょう…。つい、お夕食作りすぎてしまったわ…。」
かすみは主婦の会話を暢気に差し向ける。
あかねは気にも留めない振りをしてテレビを見詰める。
「明日は母さんの墓に参るからな…。」
その傍らで父、早雲がぽつんと言った。
盂蘭盆会。
地獄の釜も休憩に入ると言う真夏の行事。
それぞれ故人を偲んで様々な行事を営む。天道家とて例外ではなかった。
庭先になすびやキュウリの馬を置き、迎え火を焚く。静かな炎が亡くなった人を迎えるそんな気にさせる。いつもより仏壇が華やぐ。葡萄や桃、梨といった供物の果物や色とりどりの干菓子が並ぶ。線香も絶やさない。
あかねにとっては、先祖に会えるというより、幼い頃に亡くした母の面影を辿る数日でもあった。
暑くなる前にと早い時間に家を出て、菩提寺に向かう。通い慣れた参道の上には眩しい真夏の太陽が燦々と降り注ぐ。かすみが差し出す日傘の影も、こう照らされては効果がないだろう。白い敷石は太陽の光線でますます白い。じゃりじゃりと踏みしめながら天道家の四人は静かに歩く。
普段は毒舌のなびきも、今日ばかりは静かだった。
新聞紙にくるんだ花々。鶏頭や桔梗、百合といった花が色鮮やかに揺れていた。
「あれ?」
先を行くなびきがふと声をあげた。
「どうしたのかね?なびき…。」
早雲が立ち止まる。
「ほら…。誰か先に来たのかしら。花がそこに…。」
指差す墓石の下に、真新しい花が供えてあった。
「秋桜…。ね。誰が差したのかしら…。」
かすみが囁くように言った。
凡そ墓に供えるには可憐過ぎるその花。ピンクや紅い花が風に揺れていた。
「まだ、新しいから。昨日か早朝ってところかしらね…。」
なびきがそう言った。
あかねはピンクの花に何故か心がざわついた。
(ひょっとして、乱馬?)
だが、慌てて否定した。
彼は今修行に行っている筈だ。それに、あの無粋者がこんな酔狂なことをするわけがない。そう否定した。
「誰が来てくれたんだろうね…。」
早雲はそれでも満足げに頷いた。今まで盆や彼岸に先に参ってくれた人は居ない。
気になりつつも嬉しそうな表情をした。
「少なくとも、母さんに好意を持ってくれた人がお参りしてくれたのだろう…。秋桜。母さんが好きな花の一つだから…。」
早雲はそう言って微笑んだ。
秋桜の花はたおやかに揺れている。
かすみは丁寧にそれを取ると、持ってきた花と共に生けた。
「さあ、蝋燭と線香を母さんやご先祖様にあげよう…。」
神妙に早雲が言った。
乱馬たちが留守の天道家はずっと静かだった。
あかねにはその静かな空間が我慢できないくらい寂しいものだと思った。寂しくて寂しくて、自分がどうにかなってしまいそうな、そんな気がした。
喧嘩したことなど、もうとうの昔に忘れ去っていた。
『乱馬のばか』
宿題のノートに薄く鉛筆でなぞってみる。
「ばか…ばか、ばか…。」
口に出して一緒に言ってみる。
はあっと息を吐き出してあかねはそのまま机に突っ伏した。コトンと消しゴムが畳に転がった。
そのまま寝入ってしまったあかね。
淡い夢を見た。
懐かしいその人が目の前に現れた。
「あかね…。もっと素直になりなさい…。もっと自分の本当の気持ちを大切にしないと、愛は逃げていくかもしれないわよ。あかねは昔から強情で意地っ張りで。強い女の子だったわね。私が一番良く知っているもの。でもね…あかね。人を愛することは時には自分を見詰め返さないといけないこともあるのよ。あなたの前に差し伸べられた暖かい大きな手を離しちゃいけないわ。あかねを理解し、真っ直ぐに見詰めるその真摯な瞳の主を見失わないように…。」
「お母さん…。」
あかねの目に涙が溢れた。
はっとして目が醒めた。
カーテンが揺らめいて、月が深々と照り注いだ。
確かに其処にいたのは母の影。
「お母さんだったの…?」
あかねは夢とも現ともわからない面影を追って窓辺へ出た。
「あかね…。早く来なさいよ…。送り火を焚くわよ…。」
下で姉の声がした。
「そうか…。母さん、帰っちゃうんだ…。」
あかねは寂しさに身を打ちひしがれるような気がした。
階下へ降りると、仏壇に供えられていた供物が少し、広げられている。そこへ父が送り火の用意をしていた。
「また、来年…。母さんはここへご先祖様たちと帰ってくる、そう思いたいね…。」
父が寂しそうに笑った。ここ数日間は、仏壇の前を嬉々と動き回っていた父。盆を迎えると、愛した母が傍に降り立つようなそんな気配を父は感じているのかもしれない。
「母さん…。この子たちも大きくなった。そのうち、ここからお嫁に行ってしまうこともあるだろう。でも、ずっと何年も私が生きている限り、またここへ戻ってきておくれ。また、来年…。きっとまた…。」
早雲はそう言いながら夜空へ舞い上がる煙をじっと見送った。
この煙に乗って、母の魂はまた天へと帰ってゆくのだろうか。
あかねは黙ってそれを追いかけた。
送り火が終わって家人たちが家に入っても、あかねはじっとそこへ佇んでいた。
何故か涙が頬を伝った。
ふと後ろで気配がした。
「何、黄昏てんだよ…。らしくねぇ…。」
懐かしい声。
「乱馬?乱馬っ!!」
夢中で彼に縋っていた。
「お、おいっ!!」
慌てたのは乱馬だったかもしれない。あかねはしっかりと彼の胸に顔を埋めた、止め処なく流れる涙を隠すこともなく、ただ、ひたすらに懐かしい彼の腕に身を預けた。
「寂しかった…あたし。不安だった…。でも、帰ってきてくれて嬉しい…。乱馬…。」
途切れ途切れにあかねは囁いた。素直な言葉だった。
「たく…。何だっていうんだよ…。帰った早々…。」
乱馬はそう言ったが、その言動に似合わないくらいに優しい柔らかさであかねをそっと抱きしめた。
胸から伝わる乱馬の鼓動。確かに此処に居て、生きていて自分を包んでくれている。
「送り火か…。あかねの母さんたちを送ったんだな…。」
乱馬はひとしきり腕で泣いていたあかねから目を離し、名残を惜しむように燻る微かな火を見ながら、言葉を継いだ。
それからふっと天を仰いだ。
「あかねの母さん…。また来年、ここに戻って来るんだな…。来年は一緒に出迎えようぜ…。今年は墓に秋桜しか供えられなかったけどな…。」
そう囁いて、あかねの頬にそっと触れた。
「乱馬?」
あかねは目を見開いた。いたずらっぽく笑う乱馬の微笑み。
『あの秋桜、やっぱり乱馬が供えてくれたの?』
続けてそう象ることはできなかった。乱馬の柔らかい唇に口を塞がれたから。
「ただいま…あかね…。」
心で声が響いたような気がした。あかねはその声を微かに聞きながらそっと目を閉じた。
天空で一斉に星たちがざわつき始めた。
月明かりは二人のシルエットを照らし出す。
傍らでは虫の声。
そう、盂蘭盆会が過ぎれば、もうすぐ秋。
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