◆花火 その壱


 真夏の風物詩のひとつに、打ち上げ花火大会がある。
 広い河川敷で繰り広げられる、夜空のパレード。

「ねえ、早く早く…。始まっちゃうわよ。」
「おい…。そんなに走ると転んじまうぞ!」
 揃いの浴衣を着て駆け抜ける男女一組。
 まだどこか童顔が残るお下げ髪の少年とショートヘヤーの少女。
「あっ!」
 言ってる真っ先に少女がつまずく。
「おっと…。」
 間一髪、彼女を支える逞しい腕。少年のか弱さには似合わないくらい鍛え上げられた筋肉が袖から覗く。
「たく…。言わんこっちゃねえ…。」
「あ、ありがとう…。」
 抱きかかえていた手を照れながら外す少年。抱えられて染まる少女の頬。
「どうせ、今から行ったって、いい場所には人がいっぱいだろうぜ…。人ごみ見に行くのかそれとも花火を見たいのかわかんないだろうからな…。」
「うん。それはわかってるけど…。」
 少女は黒くて丸い瞳を瞬かせながら少年を見つめた。
「出てくるのが遅かったからな…。ま、仕方ねえけど…。」
「ごめん…。」
「おめえのせいじゃねえし…。そうだ…。取って置きの場所があらあ!」
 ぽんと手を叩いて少年はにっこりと微笑む。そして、今来た道を引き返し始める。
「ねえ、そっちは川原と反対の方向よ…。」
 慌てて少女は少年を追いかける。
「いいからいいから。俺について来いよっ!」
 少年は流れてくる人並みに逆らいながら上流へ向かって早足で歩き始めた。
「もう、いつも勝手なんだから。」
 そう言いながらも後ろを従ってあるく少女。
「待ってよ…。あたしぞうり履き慣れてないから、そんなに早く歩けないわよっ!」
 少年の姿を見失いそうになって思わず声をあげる。
「しょうがねえなあ…。ほれ。」
 少年は呼び止められて後ろを振り向くとさっと左手を出した。繋げとでも言いたいのだろうか。少女が戸惑って手を出しあぐねていると、痺れを切らしたのか、さっと右手を掴んだ。
「早く来いよ。じゃねえと始まっちまうぜ。」
 心なしか紅潮した少年が嘯く。
 少年の手は大きかった。力強くて優しい。二人は小走りに目的地へ急いだ。

「ここ…。」
 少女は歩みを止めた少年をじっと見上げた。
 連れてこられたのは出発点。自分の家の道場の前だった。
「へへ…。この上からだとちょっと遠いけど綺麗に見えるぜ。」
 そう言っていたずらっぽく笑う傍らの少年。
「おめえなら、平気だろ?上にあがるの。」
 少女は少し戸惑った。お転婆で鳴らしたとはいえ、今は着慣れない浴衣を着ている。普段なら別にどうってことはないだろうが、今日は無理かもしれない。珍しく弱気だった。
「どうした?早く来いよ…。」
 一足先に上がった少年が呼ぶ。
「上れないわよ…。だって、あたし…。」
 少女は小さく返事した。浴衣を着ているからと返答すれば、少年に何と言われるか。
「しょうがねえなあ…。待ってろっ!」
 上からトンと少年が降りてきた。
「ほら…。」
 そう言うと、少女を軽く腕に抱き上げた。
「ちょっと…。」
 躊躇する間もなく、少女は少年に抱えられたまま、屋根の上に上っていた。
 
 いきなり目の前の闇の中に美しい花が開いた。
 ちょっと間があって「バアンッ!」と弾ける音がした。
 花火が始まったのだ。

「綺麗…。」
 少年の腕の中で思わず洩らす声。
 次々と花開く大輪の花火。赤や青、緑や黄色。様々な色の競演が夜空で繰り広げられる。

「ほら…。間近で見るのもいいけど、ここだって捨てたもんじゃないだろ?」
 満足げに微笑む少年に少女はこくんと頷いた。
 確かに、仕掛花火は見えないものの、打ち上げ花火を見るには十分の観覧席だろう。
 少年は少女をそろりと瓦の上に降ろし、一緒にちょこんと腰を下ろす。少女はいつもより少しだけ少年の方へと身を寄せてみた。短い彼女の髪が微かな夜風に揺れて、少年の耳元でサラサラと音を立てているような気がした。
 蒸し暑い都会の夜空。浮かび上がる花火。
 インターバルの静けさが来る度に二人はほっと溜息を吐く。
「なんだか儚いね…。」
 その空白に耐えかねた少女がぽつんと呟いた。
「あたし、本当は花火あまり好きじゃなかったの…。子供の頃、お母さんと連れ立って見にいって、音ばかりでかくて怖くて楽しめなかった。気がついたらお母さんの背中で泣きじゃくっていたのよ。」
「ふうん…。おめえは泣き虫だからな…。」
 少年はそう言って少女を見詰めた。
「泣き虫で悪かったわね…。」
 そう言い掛けたとき、また夜空に花火が舞い始めた。バンバンと音は遅れてこだまする。
「だからほっておけねえんだよ…。」
 そんな言葉が風に乗って聞こえた。
「え?なんて?」
 聞き返した。が、少年はそのまま黙ってしまった。
 それからは身を寄せたまま、黙って夜空を見る。きらきらと星のように舞い落ちる火の粉。飛び出す光の輪。

 小一時間そうしていたろうか。
 華やかに舞い上がるフィナーレの乱舞が終わると、辺りは元の暗い夜空へと戻ってしまった。
 終わりを告げるアナウンスも何もない。ただ、静かな空間が二人の上を降りて来る。

 終わってしまった時間を惜しむように、少年と少女はただ黙って終わった空を見上げている。
「降りようか?」
 少年がふと言葉を継いだ。
「もうちょっとだけ、ここに居たい…。」
 少女は消え入りそうな声でそう告げた。
「そっか…。」
 少年はそう切り返すと、少女の儚げな横顔を盗み見た。
 静まり返った辺りには、どこからともなく虫の声が響きだす。
「もうすぐ、夏、往っちゃうんだね…。」
 少女の呟いた言葉が虚しくて、狂おしいほど愛しくて、少年は彼女の肩をそっと引き寄せた。
 この瞬間を留めたいと思ったから、彼は、少女を腕の中に抱き寄せた。
 微かな衣擦れの音が聞こえる。熱い吐息と流れ出す想いと。
 少年の優しさに身を任せながら、少女は静かに空を見上げた。星がささめきながら二人の上を輝いていた。

 帳は下りてくる。
 静かに二人の上を。
 通り過ぎる夏…。








いろいろ錯綜を続けた作品の一つ。
通常版…なので物凄くあっさり書いています。



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