第八話  大海人皇子




一、


 雨の音がだんだんと激しくなる。近くを流れている小川の水がごうごうと流れ出す音も聞こえてくる。
 乱馬はにやっと薄ら笑いを浮かべながら、じっと外の様子を伺った。


 ごくん。


 千文の喉が鳴った。
 もしかして自分はとんでもない男の元へ近づいてしまったのではないか。その時初めて戦慄のようなものを覚えたのである。彼の目は獲物を狙う野性の光をたぎらせている。自分が長年仕えてきた、鷹麻呂とは本質的に違う。澱みない鋭い輝き。


「存分にやりなされ。ここまで来たら後へも引けぬじゃろうて。」
 爺さんもまたにっと抜け落ちた歯を見せながら笑った。


「さて…。行くか。」
 乱馬は何事もないかのように、宿の戸板をゆっくりと開いた。
 それから矢を構えると、闇に向けて一発解き放った。


 シュンと音をたてて飛んだ矢は、獲物に突き刺さったようだ。
「ぎゃあああっ!」
 男の悲鳴が聞こえた。それを受けてどよめく草むら。
 臆することなく、乱馬はだっと闇に向けて駆け出していた。


 速いっ!


 傍らで刀を握り締めていた千文が唸った。


 トンっと地面を蹴り出すと、身を躍らせて乱馬は男たちが剣を構える真ん中に切り付けた。
 剣が空を切る音が響き、そこらじゅうで男たちの怒号が響き始める。あっという間に五人くらいの男を倒した。
 降りしきる雨の中、乱馬はなおも怯まずに盗賊たちの中へと入っていく。







「ふん、なかなかやりおるだな。」


 戦闘の背後で、乱馬と夜盗たちの戦いぶりを冷静な目で分析しながら見ていた男女一組が居た。


「沐絲はまだ行かないのか?」
 傍で珊璞がせっつくように吐き出した。
「言われんでもそろそろ参戦するだ。しっかりと見届けるがええだ。オラの技を。」




 しゅたっと高木から飛び降りると、彼も闇に向かって駆け出した。ばしゃばしゃと水溜りを蹴り上げながら進む。そして、闇に紛れ、鷹麻呂一味に紛れ込む。




 乱馬は襲い来る夜盗たちに向かって剣を振りかざし続けていた。 何人の猛者たちをその場へと倒したのだろう。
 降り注ぐ雨の中、次々と倒れる大の男たち。


「すげえ…。あいつ、あんなに強いなんて。」
 その様子を感じながら、千文は思わず興奮し始める自分を覚えていた。いつも己を虫けらの如く、扱う男たちが容赦なく投げ飛ばされ、泥水の中に投げ込まれていく音がする。辺りは真っ暗で良く目を凝らさねば見えぬが、気配でわかるのだ。


 乱馬も絶好調で次々と男たちを薙ぎ倒して行った。勿論恐れなどどこにも存在しない。向かってくる男たちを的確に捉えて、剣先をかわし、切り込んでいくのだ。




「ふふふ。オラの傀儡術を喰らうがええだ。」
 沐絲はぼそぼそと呪文を口元で唱え始めた。
 彼も可崘と同じ一族。唐国の道士だった。その呪力を持って戦いに臨む。


「何だ?」


 と、その時であった。
 乱馬はふっと周りの気配が変わったのを感じ取った。嫌な闘気がふいに背後から湧き上がる。
 思わず、ぞわっと身の毛が立った。


「な、何っ?」


 今度は目を凝らした。
 今しがた倒した男たちが、すっと立ち上がるのが見えたからだ。確かに自分が一刀両断に斬りつけて倒した男が、むっくりと闇の中に立ち上がる気配を感じた。それも、一人や二人ではない。
 次々と起き上がる、倒した筈の男たち。
 そして、ゆらりと揺れながら立ち上がった男たちは、乱馬目掛けて襲い掛かってきた。


「くっ!」


 乱馬の目の前を男がすり抜ける。と、間髪おかずにもう一人が切りつけてくる。


 それを剣で薙ぎ倒し打ち払った。だが、前のめりに水溜りに沈んでも、すぐさま立ち上がってくる。


「一体全体どうなってやがるっ!」
 乱馬は信じられぬという顔を手向けた。




「くくく…。オラの傀儡術(かいらいじゅつ)にかかっては、貴様もこれまでだや。倒した男たちの恨みの剣を受けるがええだ。」
 背後で沐絲がほくそえんだ。
 そう、闇の中から、男たちの屍を自在に扱っていたのは沐絲であった。己の道術で意識を失った肉体を透明な糸を使って自在に操っていたのである。糸に絡め取られた男たちの躯がそのまま武器となって乱馬を襲っていたのだ。
 これぞ彼の得意技、傀儡術であった。
「このまま、亡霊どもにもてあそばれて討たれるがええだ。」


 並みの男であれば、己が倒した敵が再び立ち上がって襲い掛かって来た時点で正気を失う。そう、屍(しかばね)が立ち上がり己を襲うことに慌ててしまうのが普通だ。
 乱馬は目の前の光景が俄かに信じられなかった。八百万の神々が自分たちの生活圏の中に息づいていた古代では、屍は畏怖の対象であったからだ。普通ならば、うろたえてしまい、冷静さを欠き、その後は戦いにもなにもならず、傀儡主である沐絲へと事態は最良に流れる筈であった。
 現に乱馬の動きが一瞬鈍った。その隙を突いて、沐絲は巧みに屍を操り動かし、攻撃を仕掛け続けていく

「痛っ!」
 乱馬の腕先に激痛が走る。屍の剣が彼の腕に当たって皮膚がざくっと切れたのだ。


「ふふふ、そのまま屍どもを使って、体中を切り刻んでやるだ。血まみれになって斃れるがいいだっ!」


 また乱馬の傍らをすり抜けた屍が血を滴らせた。
 ポタポタと血が地面へと落ちていく。


 沐絲はにっと嫌な笑みを浮かべた。獲物をもてあそぶような嫌な瞳だ。彼にとって乱馬は最早、術中にはまった哀れな獲物でしか映りはしない。


 乱馬は苦労していた。
 急に動き出した屍。そこに虚をつかれていた。屍が踊りながら己を襲ってくる。それに対する恐怖は全くなかった。こんな非現実的なことは在り得ないとさすがに思っていたからだ。彼は信心深い類の人間ではなかった。
「畜生っ!相手に気配がねえから、どう襲ってくるかわからねえっ!」
 そう思って焦っていたのだ。
 屍には意志はない。従って、攻撃の指標となる「気」が存在しないのだ。優れた狩人でもあった彼は、動物の攻撃本能と直結している「野性の感」が人一倍強かった。そう、獲物を気配で嗅ぎ分ける力を持っていたのである。彼の武器は、鍛え抜かれた狩人の感。
 それが事切れた屍には通用しないために、何度か襲い来ることを許してしまっていたのだ。


「にしても、どうやって屍を操ってやがるんだ?」
 必死で避けながら乱馬は辺りを探った。


 何度目かに屍が背後から襲い掛かって来た。


「くっ!」
 間一髪のところで避け通せたとき、足元に剣とは違う感触が走った。そう、何かが絡まったのだ。
 はっとして足元を見た。と、切れた雲間から覗いた月明かりに照らし出されて、何かがキラッと光るのが見えた。
「糸?」
 煌めく輝きから目を背後へと転じた。


(居るっ!誰かわからないが、糸を背後で操っている奴が。どこだ?どこで屍たちを操ってやがるっ!)


 乱馬はその場で目を閉じた。じっと全身の神経を研ぎ澄ませ、襲い来る屍たちの向こう側にある一点の気配をまさぐったのだ。


「諦めよったか?ならば行くぞっ!」
 沐絲は立ち止まった乱馬目掛けて、糸の一杯繋がった右手をざっと差し上げた。


「そこだっ!」


 乱馬はくわっと目を見開いて、その糸の引きあがる方向目掛けて思いっきり傍に落ちていた剣を握ると、沐絲目掛けて投げつけた。


「うわあああっ!」
 今度は沐絲の悲鳴だった。彼が握っていた糸が、一気にその剣で切り落とされたのだ。バランスを失って後ろ側につんのめった。
 乱馬は間髪入れず、己を狙っていた気配に向かって突進する。
「くっ!」
 沐絲はぐらついた体制を建て直し、必死の思いで、懐から煙球を投げつけた。パンと何かが弾ける音がして、煙が辺りを立ち込めた。何か粉を一杯浴びせかけられたようなそんな匂い。
 思わず咳き込み、後れを取った。その一瞬の隙を突いて、沐絲は戦線を離脱しに掛かった。
 ゴホゴホとその場で咳き込んだ乱馬は、とうとう沐絲を見逃してしまった。
「畜生、逃したかっ!」
 どこか別の場所へと逃げていく気配を追いながら、乱馬はようよう、煙の中から身を立て直した。


「この勝負。沐絲の負けね。惨敗ある。」
 小高い木の上から、一部始終を見ていた珊璞が情け容赦なく呟いた。
 そう、敵前逃亡した沐絲の負けとなることは明らかだった。沐絲は乱馬を倒せなかった。それだけで充分ではないか。己の気配を完全に断ち切ることのできなかった唐国の道士沐絲の負けであった。
「にしても…。あの乱馬とかいう男、なかなかのものあるね。」
 珊璞はにっこりと微笑んだ。
「今度は私が直接試してあげるわ。…ふふ、それで良ければ、おまえの子種、貰うね。」
 珊璞は沐絲を待つことなく、夜陰の中へと消えていった。






二、


 沐絲が離脱してしまうと、屍たちは動きを止め、ただの躯(むくろ)へと戻った。


「取り逃がしちまったか。」
 乱馬はハアハアと肩で息をしながら、降りしきる雨の中へと佇んでいた。


「すげえっ!兄貴っ!すげえよっ!」
 がっと飛び出して来たのは千文だった。
「お、おいっ!こらっ!痛いじゃねえかっ!」
 乱馬は受けた傷をかばいながら千文を見返してにっと笑った。
「ほっほっほ。戦いが終わったら傷を消毒じゃ。そこから瘴気が入って身体を腐らせぬとも限らんでな。」
 爺さんはそう言うと持って来た小さな壷を出して傷の手当てをし始めた。慣れた手つきである。
 医者など居ないに等しいこの時代、傷口からばい菌が入り込み、破傷風などの重い病を起こし、非業の死を遂げる者が後を絶たなかった。迅速な傷口の消毒はそういった死を避けるためにも必要なことだったのである。
 この老人は長く生きている分、その辺りの知識があったらしい。
 じくっと傷口に傷みが走ったが、我慢した。




 朝になると、役人たちが大慌てで駆けつけて来た。今頃何しに来たかと言わんばかりに、彼らを迎える。
 中には昨日、海石榴市で言葉を交わしたこっぱ役人どもも混じっていた。
 役人たちは偉そう乱馬の前に立ちはだかった。こちらの方が位が高いと言わんばかりに。


「そなたたちか、この騒ぎの元凶は。」
 一番偉そうな役人がそう高らかに馬上から声を掛けて来た。役人たちの頭なのだろう。着ている服や装飾品からそれは如実に伺えた。


「俺たちは元凶なんかじゃねえぜ。こいつらが勝手にはむかってきやがったんだからな。」
 乱馬はむっとして答えた。


「何を申すか。元々貴様が鷹麻呂一味のその小僧をかまい立てしたことに遠因があろう。」
 昨日、海石榴市で見た役人が進み出てそれを咎める。
「へっ!こいつはいやいやその鷹麻呂って奴に使われてただけだぜ。な?そうだろ?千文。」
 乱馬はにやっと後ろへ視線を投げた。千文は黙って首を縦に振った。
「同じことではないか。貴様、それとも大王様の治めるこの飛鳥を警護する我らに歯向かう気か?」
 自分よりも位が低いと見なすと、役人どもは容赦などない。ただ、高飛車な態度に出るだけであった。


「何が大王様の飛鳥を警護する役人だよ。こんな夜盗一味を野放しにしている奴等が。」
 乱馬ははっしと睨み挙げた。
「何だとっ!」


「やめておけ。こやつが言っているのも事実であろう?貴様ら、一人でも鷹麻呂の一味を仕留めたことがあるのか?」
 馬上の役人が一声牽制を挙げた。
 握り締めた刀から役人たちは手を離した。馬上の役人からそう声をかけられなかったら、もしかしたら、乱馬とやりあっていたかもしれない。


「それにしても…。どこの郡の者だ?」
 馬上の役人は声を掛けた。
「俺は常陸の国、響の里の者だ。」
 乱馬はそう吐き出した。
「東国の田舎者の分際でっ!」
 昨日の役人が傍でこそっと吐き出した。


「さっきから失礼な奴だな。都の役人は、自分らで挙げられぬ手柄をさておいて、暴言を吐くのが主義なのかよう。」


 乱馬はそいつを流し見た。強い目の光。思わず馬上の役人はその目に畏怖を抱いた。


「ふふふ、なかなかはっきりと物申す奴ではないか。」


 後ろからまた一つ声がした。
 はっとして乱馬と対していた役人が立ち返る。後ろには何人かの男たちを引き連れた男が馬に乗っていた。一目見ただけで、相当な位の高さだとわかる。馬に使われている鞍にきらびやかな装飾品をつけていた上に、着ている服も明らかに良い物だとわかる艶やかさがあったからだ。髪の毛もきっちりと結われている。
 大慌てで役人たちがその場に平伏したことからも、格の違う男が来たことを物語っていた。偉そうに乱馬を馬上から尋問していた役人も、ざっと馬から飛び降りると、平伏した。
 乱馬たちだけはそれが誰がわからずに、ただ、ジッと見上げた。


「こらっ!立ったままとは無礼千万過ぎようぞっ!この方は皇子様なるぞっ!」
 その様子を見てさっきの役人が声を荒げた。乱馬たちが平伏し無いことを、咎めたのだ。

 皇子。そう天皇の皇子だ。


「まあ、良い。この度の活躍ご苦労であった。鷹麻呂の一味にはほとほと余らも手を焼いておったところじゃ。幾人かの若衆を殺られて、奴等も暫くは大人しくしておろう。はっはっは。」
 男は愉快そうに笑った。
「にしても、おぬし、東国の者と言っておったが…。兵役に出てきたのか?」
 皇子に向かって物怖じせずに乱馬は答えた。
「はい。こたびの徴兵ではるばる不死の山を越えてここまで。都と聞き及んで勇み足でやって来ましたが、ここも賊どもが我が者顔で荒らしまわっておられるのですなあ。」


「こらっ!」


 役人が大慌てで乱馬を牽制した。


「わっはっは。これまた痛いところを突きおる。」
 そう言いながら皇子は乱馬を見下ろした。乱馬も視線を逸らすことなく、真っ直ぐにその瞳を見上げた。
 じっと交わす瞳。互いに凛として譲り合わぬ。
 皇子は乱馬の瞳の中に、都の役人どもにはない、意志の輝きを感じた。
「面白いっ!貴様、乱馬とか申したな。ワシと共に来いっ!」


 どよっと役人たちがさざめいた。
「み、皇子様っ。何を申されます。このようなどこの者ともわからぬ男を。」
「そんな男を雑兵としておまえたちは都へ招き入れておるのか?」
 皇子はにっと笑って役人の頭に問いかけた。役人たちの投げた会話を逆手に取ったのだ。
「いえいえ、滅相もない。ちゃんと各郡から伝達を受けて、身元のはっきりしておる者だけをここまで連れてきてございまする。」
 慌てて役人は否定しにかかった。
「ならば、良かろう。乱馬よ。おまえを私の舎人として召し上げよう。供の者は乱馬の供人として良きに計らえ。いいな。」
 そう念を押すと、貴人は、ははっと身を伏せた。


 この時代、まだ明確な戸籍は登場していなかった。わが国初めての戸籍は六七〇年に天智帝が作らせた「庚午年籍(こうごねんじゃく)」である。戸籍は主に年貢を差し出させるためを目的につくられたものだ。戸籍を元に、大和朝廷は巧みに税を民から吸い上げた。戸籍は何も生まれを明らかにするためだけに作られたものではない。民から租税を搾り取るために作られ始めた。
 戸籍の登場は強固な支配に直結している。
 まだ、戸籍は登場してはいなかったが、それに類したものはぼちぼちと各地で編纂され始めていた。戸籍は大化の改新以後、中央政府が中国に倣って作ることを前提にし始めていた新しい文化であった。
 とにかく、兵役を課されて集められてきた人々を、各部隊へ振り分けて編成するのも、容易なことではなかった。実際、此度、連れて来られた兵士たちは、右往左往している状態で、まだ自分たちがどこの部隊に所属するのかさえ聞かされてはいなかった。


「おまえたち、何をぼんやりとしておる。」
 役人は乱馬たちを振り替えた。
「一緒に参れっ!皇子様がお帰りになられるぞっ!」
 乱馬は言われたとおり、立ち去る大将を追って、蔀屋を離れた。そう、晴れて舎人としての処遇が決まったのだ。
 舎人。皇子直属の近衛部隊。
 一介の田舎者としては、最初から順調なスタートだった。


「ふふふ、大海人皇子が直々、品定めして、直属の舎人へ入れなさったか。尽く面白い男よのう、乱馬殿は。」


 爺さんが人知れず愉快そうに笑った。






三、


 乱馬を認めた皇子。それは大海人皇子であった。
 斉明女帝が舒明帝との間に儲けた三人目の末子である。兄に、天智帝となった葛城皇子、姉には孝徳帝の正妃となった間人皇女が居る。兄の天智帝が死後、二分された勢力の一つを率いて、天智帝の嫡子、大友皇子を退け、即位した。後の天武帝、その人であった。
 まだ当時は斉明女帝が存命であり、政界は彼の兄、葛城皇子が事実上実権を握っていた。だから中央政界へは躍り出ず、他の皇子たちと同じく、政界の中にあってはそう際立った存在ではなかった。
 敢えて目立たぬように権勢の中を泳いでいたと言った方がしっくりくるかもしれない。
 年は既に三十歳を超えており、青年と言うよりは壮年と言った方がよかったろう。思慮に長けた皇子であった。
 同母兄弟というだけあって、兄の天智帝とは所々似通った顔立ちであった。だが、知略に長けた兄よりは、武勇に秀で、武王の風格が備わっていた。だからこそ、この度集めた兵士たちを払拭して周り、これと思う者を自分の元へと多数引き連れて来たようであった。
 乱馬もその一人として、大海人皇子に召し上げられたのだ。


 乱馬たちが連れて来られたのは、斉明女帝の後飛鳥岡本宮(のちのあすかおかもとみや)近くの宮里だった。現在の飛鳥坐神社(あすかいますじんじゃ)辺りだろうか。近くに蘇我氏が建立した飛鳥寺が聳え立っていた。主がなくなって後、少し荒廃した感じもあったが、その伽藍は往年の蘇我氏の栄華を誇るかのように飛鳥の里へそそり立っていたのである。


 乱馬が大海人皇子の舎人となって、仕え始めて数日後の或る日のことだった。大海人皇子の付き添いで、宮廷へとくっ付いてきた。物珍しさで、きょりきょろと視線を流した。
「何だかなあ…。大掛かりな人造物だなあ。」
 乱馬は目を丸くして、初めて目にする導水施設を見入った。
 飛鳥は水の都とも呼ばれていたように、この辺りを中心に、巨大な庭園や導水施設が当時にはたくさん作られていたらしい。
 乱馬たちの時代にも、その片鱗は既に出来上がっていた。岡本宮辺りには、飛鳥川から水を引くための石桶(せきひ)が至るとことに露呈していた。「狂心(たふれごころ)の溝(みぞ)」と人々が嘲笑した運河である。
 宮廷の周りには至る所に水の施設が敷設され、ちろちろと水の流れる音がそこここから響き渡ってくる。
 少し離れた箇所には大きな石の石像が作られ、噴水のように水が石を流れ落ちていた。異国風な顔つきをした男や女の像が彫られて所かまわず置かれている。


「ふふふ、おまえたちにもこの庭園は狂心(たぶれごころ)に映るか?」
 傍らで大海人皇子が言った。
「いえ、そういう意味で申したのではありませぬが…。」
 と言葉を濁したのを、大海人皇子は高らかに笑い飛ばした。
「ほんに、おまえは面白い男だのう。ここにおる奴らは兄者が怖くて、まともな物言いは出来ぬというのに。…言葉は飲み込んだが、顔には書いてあるぞ。「狂心(たぶれごころ)の庭園だ」とな。」
 乱馬は思わず困惑した。
 確かに、この宮に並ぶ石の像や水の施設は無用の長物に見えたのだ。
 何を言いだすかと、案の定、大海人皇子の近侍たちが。乱馬を睨みつけている。さすがにこの場で思ったとおりを言うわけにはいかないだろう。あまりにも間が悪い。


「おまえはわかるか?兄者が何故、このような水の施設にこだわるかが…。」
 大海人皇子は乱馬にかまわず語りかけた。
 皇子は乱馬を自分の近侍として傍らに連れて来てからは、折に触れて彼を好んで傍に侍らせた。その剛健さが気に入ったのだろう。
 官位の高低にこだわる、他の皇子たちや大臣、大連たちと違って、大海人皇子はそんな形式ばったものにはこだわらない性質をしているようだった。気に入ったものは近くに侍らせる。嫌いな者は位が高かろうと、あまり好んで近づけない。ことのほか、はっきりとしていた。


「いいえ、いったい何のためにこのようなものをここへ作らしめたのか、私にはその理由が一向に浮かんできませぬ。」


 乱馬は小首を傾げながら主に言った。本当に見当がつかなかったからだ。


「ふふふ…、この水の施設はな、「漏刻(ろうこく)」なのだよ。」
 大海人皇子が説明し始めた。
「漏刻…にございますか。」
 漏刻。初めて耳にする言葉であった。
「ああ。これは兄者が唐国を手本に作らしめた「時を計るための装置なのだよ。」
 そう言った。
「時を計るための装置…。」
 乱馬にはぱっとイメージが思い浮かばなかった。


 大海人皇子が見詰めていた大きな階段状の人造物は現在「水落(みぞおち)遺跡」と呼ばれている。飛鳥寺と飛鳥川との間で発見され、発掘調査されたのは記憶に新しい。
 水を通す銅の管、うるしの木箱、そして、それを固定するために固められた礎石と建物の遺構。サイフォンの原理を利用して水を溜め、水量で時を計る施設。それであった。


「そうだ、これで兄者は時間を計って、天下に広く示されているのだ。時間が来れば人は朝来し、勤めに励み、また時間が果てれば退散して行く。各々の時は鐘でそれを知らせ、それを合図に人々は日々を営んでいる。どうだ?この地ではおまえの故郷とはその辺りが全然違っているだろう?ここ、飛鳥では時が人間を支配しているのだ。」
 大海人皇子はじっと水の滴り落ちるのを見ながらそう解説した。
 なるほど、この地では時を告げる鐘が全ての時間の秩序であった。己がついこの前まで暮らしていた響の里とは根本的に生活サイクルが違う。響の里では、太陽が昇ると同時に活動を始め、太陽が沈んでしまうと一日は終わった。
 いや、響の里だけではあるまい。殆どの里が、「太陽」の到来と共に田畑を耕し、狩に出る。俗の時間を送り、そして、「太陽」の帰還と共に夜の神々の支配する時間へと交替したのだ。一日は太陽と密接な関係があり、また、月の満ち欠けを知ることによって、季節への移り変わりを計っていたのである。
「兄者は大陸のように、「暦」で人々を支配しようろ目論んでおられるのだ。時を司ろうとこのような施設を進んで作られた。時を支配するものがこの国を支配する。そう申されてな。」
 大海人皇子はそう言いながら目を細めた。


「時を計る漏刻か…。」
 乱馬はふっと言葉を途切れさせた。まだ、東国から出てきたばかりの彼にとっては、時間を管理することの意義など、簡単に理解できるものではなかった。人間は太陽の動きと同時に、懸命に生きていれば良いではないか。そういう古来の考えが浮かんだからだ。
 きちんと時を計ってそれに準じて生活する。それにどんな意味があるのか。
 ろうろうと流れ落ちる水を見ながらふとあかねの横顔が浮かび上がった。


(あかねなら、これを見て何と言うだろう…。凄いと言って目を輝かせるか、それとも、そんなものは無用の長物と笑い飛ばすか…。)


 急に黙ってしまった乱馬に大海人皇子は言った。
「いずれにしても、この決まった時という概念が、広く民に受け入れられるまでは、まだまだ時間がかかるに違いないがな…。人々はまだ、太陽と共に生きている。だが、いつか、時を正確に図り、それによって暮らすことの意義を知ることになるだろう。人々は時間に支配され、また、人々の時間を支配する者、それが天帝となる。そんな時代は目の前だ。」
 と。


 彼の視線の先に、一人の男が現われた。


「兄上か…。」
 大海人皇子はそう呟いた。乱馬はそれを聞くと、その場に平伏した。一応、仕えている大海人皇子より位が高い皇子であったからだ。「中大兄皇子」人は葛城皇子のことをそう呼び始めていた。


「おお、大海人皇子。ここに居たのか。」
 大海人皇子よりも甲高い神経質な声がすぐ上で響く。大海人皇子に比べて葛城皇子はか細かった。
 上背も体格も、どれを取っても、大海人皇子の方が兄の葛城皇子よりも一回り大きい。それに肌の色も随分と白かった。髪に混ざり始めた白髪が、大海人皇子よりもかなり年上だと露呈させる。この時、葛城皇子は四十歳を目の前に控えていた。
「これはこれは、兄上直々に、漏刻をお見回りか。」
 大海人皇子はにっと笑って見せた。少し揶揄的な言葉尻があったが、そんなことは気にせぬと言わんばかりに葛城皇子は言った。
「出立の時が決まったのでな。」
 そう一言告げた。
「すぐに来い。詳細を大王様へも献言さしあげるでな。」


 葛城皇子はそれだけを言うと、傍らでひざまずく乱馬には目もくれずに宮殿の方へと行ってしまった。


「これから小難しい兄上の話に付き合わされるか。…。」
 大海人皇子はふっと溜息を吐いた。乱馬には見当がつかないが、どうもこの弟皇子にとっては兄皇子の話は面倒臭いらしい。
「これ、大海人皇子殿、かようなことを浅はかに申すではありませぬぞ。」
 後ろから一人の家臣がにょっと顔を出した。今、大海人皇子が履き棄てた言葉を耳にしたのだろう。気軽にとがめだてした。
「何だ、大臣(おおおみ)殿か。」
 大海人皇子は背後の男に一礼して笑いかけた。
 大臣、中臣鎌足。後に天智帝から「藤原氏」を下賜された宮中きっての重鎮である。この時、齢(よわい)、四十五歳。脂の乗り切った実年に達していた。
「…正直に物申して何が悪い?」
 悪戯な瞳が鎌足を捕らえた。
「ったく、大海人殿は相変わらず、はっきりとしたお方じゃ。じゃが…、滅多なことを宮中では口になさいますな。兄君はなかなか智謀に長けたお方であることはあなたも御存知であろう?口さがない噂に身を滅ぼさぬように、常日頃、皇子たるもの襟元を正す必要があろうというもの…違いますかな?」
 鎌足はそう言って笑った。子どもの頃からこの皇子を見ている彼にとって、腹心を誓った葛城皇子の弟は、己の弟とも見紛うほどに可愛い。そう思っていたに違いない。だからこそ、気軽に忠告もできたのだろう。


 まだ、葛城皇子と大海人皇子の確執は、深刻化してはいなかったが、彼らの腹の中では共に探りあいに近いものが露呈し始めていたのである。神経質なくらい緻密で完璧主義の葛城皇子と、大雑把に見えて案外計算された思考を持つ大海人皇子と。双頭の鷹が斉明女帝の皇子として後ろに控えていた。
 勿論、世間は斉明女帝の後継者は有無も言わさず葛城皇子と見ていた。だが、その次、帝位はどこへ行くか。そこまでは推し量れなかった。まだ、その時代は嫡子相続と決まったわけではなく、皇位は流動的であった。そう、長子ではなく末子へと受け継がれることも珍しくはなかったからだ。
 それに、葛城皇子には男児が少ないという致命的な事柄があった。男児が数人居ても、いずれも、位が高い皇女腹ではなく、采女腹という身分が低い母から生まれていた。大王になるには父親だけではなく、母親の血の正統さも重要な要素とされたいたのだ。高貴な腹の男児が居ないこと、これもまた、葛城皇子の血族の弱さを物語る材料になり得た。
 いくら女帝へ皇位が受け継がれても、やはりそれはその場しのぎという性質があろう。人民や家来たちの期待はどうしても男子に向くのも、中国の儒教的思想が影響され始めたことを物語っていた。
 斉明女帝亡き後はその嫡子、葛城皇子が引き継いだとしても、その後はどう後継されるのか。まだ未知と言えた。
 後に、天智系(嫡子、大友皇子系)と大海人系が壬申の乱で争ったが、まだこの時点ではそこまでの禍とはなってはいなかった。勿論、壬申の乱へ導かれた禍は萌芽はし始めていたのかもしれないが。


「たく、大臣殿は小うるさい。」
 大海人皇子はそう言って笑った。
 乱馬は勿論、この同母兄弟の確執など、知る由もなかったので、いったいこの家臣が何を言っているのか、首をかしげながら聞いていた。
「時に、新しい子飼いの舎人とはこの者のことですかのう。」
 鎌足は傍らに控えている乱馬へと視線を流した。
「ああ…。常陸の国から最近出て参ったところだという。」
「ほう。東国の者ですか。皇子殿もこれまた大胆な抜擢をなさる。」
 鎌足は目を丸くした。
「大臣殿も聞き及んでおられよう?こやつ、一人で夜盗一味を壊滅させるくらいの力量を持った武人だというからな。ふふふ、面白いではないか。それに…、どことなく親しみを持てる奴だったのでな。」
「ということは、ただのお戯れではないということですかな?」
 鎌足はそう言葉を投げた。
「ああ、まあな。これから戦地へ赴くのだ。何事が起こるともしれぬ。このように腕の立つ武者が必要となるだろう。鎌足、おまえも武勇の誉れが高い武人であったならわかろう?この者の瞳の強さを。」
 大海人の皇子はにやっと笑った。
「どうれ…。顔を上げられよ。」
 乱馬は命じられるままに鎌足を見上げた。その真っ直ぐな瞳は鎌足をも射抜くくらいの勢いがあった。


「確かに…。この者の瞳は澄み切っておる。まだ、政界のドロドロした魔物にも魅入られてはおりませぬな…。大海人殿が気に入られたのもわかりまするな。」
 鎌足はそう言い切った。
「それに…。」
 鎌足は言葉を切った。
「どうした?大臣殿。」
 大海人皇子が語りかける。
「いや…。何かしらこの者とは初対面な感じが致しませぬ。」
「ほう…。鎌足は乱馬に逢ったことがあるとでも言いたげだな。乱馬よ、おまえ、鎌足殿にお逢いしたことはあるか?」


「いえ…今日が初対面にございます。」


 乱馬は強く言い切った。本当に鎌足と会ったのは今日が初めてだったからだ。


「おい、乱馬はそう申しているぞ。鎌足。」
 けらけらと大海人が笑った。
「ぼけるにはまだ早いのではないか?」
 と付け加えることも忘れずに。
「これは手厳しい…。気のせいでござりましょうな。」
「さて、早く行かねば、兄上が待ち焦がれて気分を害されるぞ。鎌足。」
「そうですな。水がもうあそこまで落ちましたな。」
 傍らの漏刻に目を転じると鎌足はそそくさと一礼してその場を去った。
「たく、相変わらず大臣殿はお忙しい方よなあ…。」
 その後姿を見送りながら大海人皇子は呟いた。
 葛城皇子はともかく、大海人皇子も鎌足を多大に信頼していた。
 だからこそ、彼の忠告は真摯に受け止める。
「さてと…。私もそろそろ参ろうか…。乱馬よ、悪いが次の間に控えて待っていてはくれぬか?」
「勿論です。」
 乱馬は答えた。主を待つのは侍従の務めでもあったからだ。




 転じて鎌足は、やはり不思議に思っていた。逢ったことはないはずなのに、何か心に引っかかるものを乱馬に感じたからだ。
「わしの記憶も鈍ったかのう…。まだ老け込むには早いが…。」
 そう思いながら、葛城皇子が先に行った朝堂へと急いだ。


 実は鎌足と乱馬は、これが初めての対面ではなかったのだ。
 鎌足が不思議に思ったことは道理がない。
 乱馬は母親の長閑郎女と似通った顔立ちをしていたし、その瞳の光は或いは父、漢皇子のそれに匹敵したかもしれないからだ。いや、何より、この世に生を受けたばかりの乱馬を生母の元から引き離した武人は鎌足その人であったからだ。
 舒明の勅命を受け、生れ落ちたばかりの赤子の性別を尋ね、そして男と分かるや否や連れ去った武人。それこそが中臣鎌足その人だったのである。
 まさか、あのとき引き離した赤子が乱馬であったなどとは、露にも思いはしない。長閑郎女から引き離した赤子を東征のため大和を発つ阿部比羅夫に預けるまでは、彼の元で数日間育てた。
 そんな経緯など、鎌足も乱馬も気がつかぬまま、久々の対面は行われた。
 或いはそれがまた、運命の邂逅であったのかもしれない。




第九話 皇祖母尊 へつづく







大海人皇子(天武天皇)
 「日本書紀」によれば、舒明帝と斉明女帝の間に生まれた第二皇子。壬申の乱を経て、天武帝として飛鳥に即位。正妃は鵜野讃良皇女(のちの持統女帝)。
 天武帝の時代より「天皇」という称号が用いられるようになったと言われています。ただ、この大海人皇子には諸説あります。
 例えば、葛城皇子(中大兄皇子)とは異母兄弟だとか、斉明女帝の前夫の子「漢皇子」が彼にあたるとか、他所から乗り込んできて天皇の座を奪っただとか…。正記とされる「日本書紀」は天武帝の正当性を広めるために書かれただとか。想像は妄想を呼びこみます。壬申の乱イコール王朝交代説が根強いのも納得がいくような日本書紀のぼかし方です。葛城皇子は生年がはっきりわかるのに大海人皇子はわからないことから諸説言われています。ただ、「日本書紀」に於いては、生年がわかることの方がはっきり言って珍しいので、だから大海人皇子は葛城皇子と血縁ではないと結論付けるのは、私は早いような気がします。
 なお、本作では、通説に準じ、葛城皇子の同母弟として、乱馬と出合った六六〇年は彼が三十歳くらいと設定して書いています。
 戦前は「不敬罪」という、学術関係の探求のためにも天皇家を批判できない法律があったために、まだまだこれから天武以前の古代史は紐解かれていくことになるのでしょう。また、大王墓の殆どは宮内庁が所有しているため、祭祀の上からも殆ど発掘を許可されていません。(この辺り考古学者は一様に嘆いています)。もし、日本中の古墳がちゃんと発掘調査されたら、記紀の謎ももう少し解明できるかもしれません。
 六七二年、「壬申の乱」にて天智の嫡子、大友皇子の一派から天皇の座を奪い取りましたが、八世紀後半、平安朝を擁立した桓武帝へ皇位が移るに際し、天武を開祖とする天皇は日本史の表舞台から姿を消します。現在の天皇家は天智系から流れているのです。痛烈な歴史の皮肉とも言われています。




中臣鎌足(藤原鎌足)
 平安期に栄華を誇った大貴族、藤原氏の始祖です。蘇我入鹿を謀殺した「乙巳の変」の後、「大化の改新」を中大兄皇子共々成し遂げたのは有名なこと。今から十年ほど前に調査された大阪府高槻市の阿武山古墳は彼を葬ったものではないかとも言われています。
 藤原という名前は死の直前に天智帝から賜ったと言われていますので、作中表記は「中臣」で書かせていただきます。
 この人がもう少し長く生きていれば、壬申の乱も別の形になっていたかもしれないと言われていますが、いかがなものでしょうか。






 漏刻のことや飛鳥岡本宮のことはだいたい言われている通説から引っ張っています。
 娘にこの時代のことを問われて、この章を読めば脳内イメージできると言った私ですが(笑


(C)2004 Ichinose Keiko