第二章  立身編




第七話  大和へ





一、


 斉明六年、十月。乱馬は育った故郷、常陸の国を後にした。
 初めて育った響の里から大きく外へ出る。
 彼が黙って九能氏の要請に従ったのは、運命に誘引されたことも大きかったが、一度、外の世界を垣間見たいと言う好奇心の後押しもあった。
 

 勿論、茜郎女と別れることは辛い事ではあった。が、新しい世界への期待も胸に光り輝いていた。
 道すら整備されていない当時にとって、生まれ故郷を遠く離れることは、並大抵の決意ではできなかった。不慮の事故で命を落とすことも多く、街道脇には途中で力尽きた旅人の亡骸が討ち棄てられている光景も珍しくは無かった。
 古代日本では、共同体を越えて行き来することは容易ならざることであった。例えば、京と地方を行き来する「役民」が路上で倒れても、街道筋に住む人々は何故我が地で死なせたと、死者の同行人に「祓えの物」を差し出させると言う習俗が残っていた。そのため、たとえ死んだのが自分の身内であろうと、道中の死者は捨て置かれた。そんな時代であった。


 長い道を行きながら響雲斎の今際の言葉が、乱馬の脳裏にこだました。


『おまえには恐らく、大和朝廷の血が入っている。ワシはそう睨んでいる。父親が誰で母親が誰か、そこまでは知りえぬがな…。』


 彼の言葉が繰り返し思い出される。
 その死の間際まで、実の父と疑うこともなかった雲斎。優しかった母、銀英。その二人の顔を思い出しながら、複雑な思いに捕らわれる。
 何故父は墓場まで持っていこうと思った衝撃の事実を乱馬に打ち明けたのか。暗に大和へ向かえと言わんとしたのか。今となってはわからない。
 だが、彼を大和へと運命は導いている。
 己の本当の父と母が誰だったのか、養父の雲斎すらわからないと言った。
 生きているのか、死んでいるのかもわからない。
 だが、己のルーツを探すことを、暗に雲斎は指し示してくれたのかもしれない。


(親父め、だから、俺に響の里の娘と結べとうるさかったのか。俺の中に響の里の者の血がないから…。もしかしたら、雲牙殿は厄介払いしたくて俺を兵役へと駆り立てたのかもしれぬしな。)


 改めて回顧してみると、何かしら自分を見る、他の里の者の目が冷たかったのも納得できた。きっと、雲斎が目の黒いうちは、乱馬へその生い立ちが何事も耳に入らぬように気配りしていてくれたのかもしれない。父の雲斎や母の銀英が実子の如く育てあげてくれたことは、感謝しなければなるまい。
 それを全く知る由もなく、気ままに育って暮らしてきた自分の愚かしさが腹立たしくてならなかった。父も母も自分に良くしてくれた。実の血の繋がりがなくても、立派な親子だったと言う自負だけは変わらない。
 それだけに、自分だけが何も知らされずに過ごしたことが、悔やまれたのだ。
 父や母は、自分が事実を知れば、里を離れるとでも思ったのだろうか。


(いずれにしても、響の里へはもう帰れないかもしれない。)


 漠然とだがそう思った。
 雲牙にとっては自分は厄介者以外の何者にもなれぬだろう。戦で手柄を立ててもそれは変わらないに違いない。彼が息子の良牙と己を、何かにつけて比較したがったのも、きっと己に響の血が混入されていないことを暗に表していたのだと思う。


 もし、己がもっと早くに自分の境遇に気がついていたら。


 どうなったのだろうかとふと考えた。
 少なくとも、もっと早くに嫁を貰う気持ちにはなっていたかもしれなかった。だが、そうなると茜郎女とは出会えなかったろう。いや、出会ったとしても、もっと別の関係だったかもしれない。
 それが結果的に良かったのか悪かったのか。
 まだ結論を出すには年月が必要だ。


 乱馬と共に旅する、他の東国の兵役者は、それぞれ言葉数少なく歩いていた。不死の山と称えられた、富士山を通り過ぎ、故郷を遠ざかるに連れて、どことなく諦めに近い空気が漂い始めている。
 皆、好きで都へ行くわけではないようだ。
 自分と年端の変わらぬ若者も居れば、実年の男も居る。それぞれの事情を抱えての都行き。まだ、女を知らぬ若者だけがやたら元気そうに見えたのも、自分に背負わされる柵(しがらみ)が軽いからのように思えた。
 ある者は嫁を、またある者は老父母を、またある者は幼子を故郷へ残したまま旅立った。彼らを取り巻く複雑な心境が見え隠れする。


 何故今頃になって、大掛かりな挙兵が行われるのか。
 人々は皆不安げな表情を浮かべる。
 数珠繋ぎになって歩く連隊は、西へ行くほどに少しずつ増えていく。東国だけではなく、そこら中からかき集められている。まさにそんな感じであった。


「何で大王(おおきみ)様はわざわざ俺たちのような農民までお集めなさるのだ。」
「聞くところによると、近く大きな戦が行われるらしいぜ。」
「唐が我が国へ攻めあがって来るともっぱら噂じゃ。」


 そんな声が口々に囁かれる。
 確かに、乱馬のような根っからの武人は少ないようだ。掻き集められてくる軍勢の殆どは農民。そんな風だった。おそらく剣や矢の一つもまともに扱えぬのではないかと思われる。だが、朝廷の役人は容赦なく、人民を集めている。時々怒声が響く中、一行はひらすら大和を目指す。
 これだけの人民を集めている朝廷には、それなりの事情があった。
 この時代の徴税は米や絹衣といった農作物や織物だけではなく、人力、つまり労働力もしかりとした納税品の対象になっていた。一時代遡れば、労働役は巨大墳墓の造営に使役されたし、現在は都などの造営にも関わらされている。
 近年の大造営といえば、難波宮の造営であったろう。
 六四五年の大化改新後、大和から都は一時期、難波宮へと遷った。理由はいろいろ言われているが、手狭になった飛鳥から一度離れて、大きな都を制定しようと孝徳帝が考えたらしい。
 当時、都は天皇が即位するたびに作り変えられていた。同じ飛鳥の中に宮があっても、天皇が変わると、それぞれ宮を造営し直したのだ。
 倭国には古くから「穢(けが)れを忌(い)む」という慣習があり、天皇が代替わりすると、その「死穢(しあい)」を嫌って別に新しい宮を造営しなおしたのであった。天皇が死ぬとその土地もその穢れに犯される。そう信じられてきたのだ。
 代替わりした新しい天皇のために、また新しい宮代を作る。その労力と創造営費もバカにはならなかったという。
 孝徳帝が死ぬと、皇極女帝が重祚(ちょうそ)し、再び斉明女帝として即位した。女帝の下、難波宮から都は飛鳥へと帰した。飛鳥を恋しがる人々にとって、飛鳥へ都が戻ることは歓迎には違いなかったが、また新たに都の造営を強いられると思うと、諸手を挙げての歓迎とはいかない複雑な事情もあったのである。
 斉明女帝は日本史上、様々に前例の無いことを成した、興味深い天皇として日本史上に伝えられている。
 舒明帝の正妃となる前に一度結婚し、男児を儲けている。これも極めて珍しいことだ。彼女と前夫、高向王の間に漢皇子という息子がいたことは「日本書紀」にも明記されているが、何故、結婚生活が解消されたのか、高向王と漢皇子はその後どうなったのかに関しては言及がない。早くに死に別れたのか、それとも別の理由で別れたのか。
 その時代、民間においては、女性の再婚は珍しくはなかったらしい。一人の男に縛られずに、奔放に恋をした風潮を忍ばせるが、天皇の妃が再婚というのは、当時としても珍しかったろう。斉明女帝は後添えの舒明帝との間に、三子を儲けていると「日本書紀」は伝える。葛城皇子(天智帝)、間人皇女(孝徳皇后)、大海人皇子(天武帝)の三人である。
 更に、重祚(ちょうそ)したのも斉明女帝が初めてであった。
 天皇が一度退位し、再び即位することを「重祚(ちょうそ)」と言う。平安末期の院政の時代には天皇が退位して上皇となり実権を握ったことはあったが、重祚という例はその後、たびたびあったわけではない。天皇は古来一度即位すると、死すまで退位できなかったが、途中で退位したのも実は彼女が日本史上初であったのだ。人臣に見放されても死ぬまで大王で在り続ける。それがそれまでの「しきたり」であったにも拘らずだ。
 そう、一度「皇極女帝」として立っていた皇位を譲位した。
 何故譲位したのか。その影には政治的駆け引きがあったと言われている。
 皇極として玉座にあったときに、目の前で寵臣、蘇我入鹿が葛城皇子(中大兄皇子)らによって暗殺された。世に言う「乙巳の変(いっしのへん)」である。この変の首謀者は皇極女帝と舒明帝との間にできた、息子の葛城皇子。そしてその寵臣、中臣鎌足だった。
 女帝は、乙巳の変直後、大王の位を同母弟の孝徳帝に譲り退位した。一説には、葛城皇子の進言だとも言うし、政変が目の前で行われたことに衝撃を受けたからだとも、いろいろ言及されている。
 だが、時代の荒波は再び彼女を帝位へと導くことになった。孝徳帝はいつしか、彼を担ぎ出した葛城皇子と対立。孤立を強めた。晩年の孝徳帝は、大和朝廷では主流派だった葛城皇子と対立を深め、孤独を極めたと言われている。
 そして、難波宮で孝徳帝が死すと、再び斉明女帝が即位したのだ。


 まさに、斉明女帝の頃、時代の波が激しく移り継いだ証拠だろう。
 彼女の人生は、波乱万丈でもあったのだ。
 斉明女帝の実子である葛城皇子にとって、母、斉明女帝は「利用価値のある母」だったに違いない。


 今また、彼女は葛城皇子に担ぎ出されようとしていた。今度は「朝鮮半島挙兵」という大義名分のためにだ。


 七世紀中頃、朝鮮半島は激動を続けていた。
 新羅、百済、高句麗と三国が朝鮮半島を三分割し、それぞれ拮抗しながら治世を進めていたが、唐の台頭により、その均衡が破られたのである。
 六五五年、高句麗と百済が手を結び、新羅北部へ侵入した辺りに発端があった。新羅で親唐政策を進めた武烈王が唐へと援軍を求めたのだ。
 少しでも領土を東へ広げたかった唐は、その招請に応じ、高句麗へと二度にわたって進軍した。その後、なかなか倒れない高句麗侵攻から、唐は百済へとその矛先を変えたのである。
 唐の高宋(こうそう)は水陸十三万の兵士をもって百済を攻撃。ついに新羅と共に百済の都、扶余(ふよ)を攻め落としたのである。
 倭国は昔から百済と一番関係が蜜であった。
 たくさんの帰化人が百済から渡ってきているし、仏教が正式に伝えられたのも、百済からだったと言われている。聖徳太子の一族も、また、蘇我本宗家も百済とこぞって関係を結んでいた。その百済は首都を攻め落とされ、大和朝廷へと援軍を要請してきたのである。あわせて、来日していた百済の王子、余豊璋を送還してくれるようにも頼んできたのだ。
 百済との親交を守るか、それとも、唐と敵対するのをやめるか。
 斉明女帝を影で動かしていた、葛城皇子は悩んだに違いない。
 再三にわたって、百済の将軍、鬼室福信(きしつふくしん)は援軍と余豊璋の帰還を要請してきた。大和国内に多数暮らしていた、百済系の人々の声も無視できない大和朝廷は、遂に、援軍を送ることを決定したのである。


 そのための徴兵に集められた人民たちであった。


 乱馬は黙って大和を目指していた。
 どこまでもはてしなく続く街道。その中を、共に徴兵された人々と歩き続ける。その道のりの遠さが、生まれ故郷との距離を実感させた。


「お若いの、おまえさんは何故この援軍に参加なされたかのう。」
 道すがら一人の爺さんと親しくなった。彼もこの兵役に臨んではいたが、どう見ても武器を持って戦うような感じではなかった。何より年を取りすぎている。
 小休止に入ると、じっと道端に座り込み天を仰いだ。このあたりは山道もきつい。隊列を組んでも遅れてくる者がちらほらと出始める。と、時々こうやって足を止め、休息を営んだ。


「いろいろ各人理由はあろうが…。見たところ、かなりの武人とお見受けするが。やはり、兵役に参加し、地位を安泰させようという野望でもお持ちですかな?」
 爺さんは蓄えた白髭を撫でながら乱馬に話しかけてきた。
「いや…。名誉や地位などどうでも良いこと。それより、生まれ故郷以外の広い世界を見てみたい…。敢えて言うならそんなところかな。」
 乱馬はそう言葉を返した。
「若いということは素晴らしいことじゃのう…。じゃが、おまえさんが向かうのは戦じゃ。殺し合いじゃぞ。」
 爺さんはそう言って乱馬を見上げた。
「殺し合い…。確かにそうだな。」
 乱馬はふうっと溜息を吐いた。殺し合いがどんなものか、全く知らないわけではなかったが、比較的平和な邑で育った自分にとっては、その重さは計り知れなかった。
「この世に生きて、ワシなど、どのくらい争いを見受けてきたことか…。乙巳の変(大化の改新)、蘇我倉山田石川麻呂の変、そして有間皇子の変…。大和中央政権もその手は血塗られているからのう…。そして、こたびの百済援軍の編成とな。葛城皇子様は何を考えておられるのやら…。おっと、これ以上は言えはせぬな。役人どもに聞かれると気を悪うする。」
 爺さんはにっと笑った。
 そう、この三つの事変は全て、皇太子、葛城皇子が影で絡んでいると言われていた。
 乱馬は黙って爺さんの語りにつきあっていた。








「あの男だか…。」


 乱馬をじっと眺める妖しい瞳が少し離れた山の小高い場所にあった。
 草木が多い茂る山道にさしかかったところだ。
 ここからは鈴鹿の山が連なっている。ここを抜ければ大和は近い。だが、この山道を抜けていくにはまだまだ日数がかかるだろう。


「あの男がオババ様が見初めた乱馬とかいう野郎じゃな。」
 男は傍らの女性にそう訊いた。
「そうある。あれがオババ様の言ってた男あるね。なかなか良い体つきをしてるある。」
「ふん!見てくれだけの奴かもれぬだぞ。」
 男は思いっきり言葉を吐き出した。
「沐絲、妬いてるあるか?」
 女性はにっと笑って男を見返した。
「妬いてなどおらぬだ。」
「まあ、オババ様が薦めた男あるからね、沐絲が妬くのもわからないでないが…。」
「だから妬いているなどとはいってねえだ!」
 沐絲と呼ばれた男はソッポを向く。それから再び目線を珊璞へと返した。
「なあ、珊璞。オババ様の言われたとおり、あんな男の子種を貰うつもりじゃあ…。」
 沐絲は真剣な顔を彼女へと手向けた。どうやら、彼女に惚れているらしい。
「さあね…。それはわからないある。」
 珊璞は思わせぶりな言葉を吐いた。沐絲は眉間に皺を寄せた。
「オババ様も何であんな倭人の男をおまえにすすめるだ。その気が知れぬだ!」
 そう小さく吐き出した。
「私たちの一族、優秀な男なら、たとえ他の民族の血が混じろうと厭わない。これ昔からのこと。同じ民族ばかりの血を受けると、その血、濃くなって優秀な子ども生まれなくなること、知ってるから。…だから、強い男なら、喜んで子種貰う。そうやって良き子孫伝えていく役目、女にある。」
 珊璞は沐絲に良い含めるように言った。
「そんなこと、オラだってわかってるだ。でも、本当にあいつが珊璞、おまえに子種を与えられる器があるかどうか、疑わしいと言ってるだ。」


「なら、試してみるか?」


 珊璞はそう言ってにっこりと微笑んだ。


「な?」
 沐絲は珊璞を覗き返した。何を言いたいと言わんばかりに。


「だから、あの男、沐絲、おまえより優秀な力持ってるかどうか、試してみないかと言ってるある。もし、勝負してあの男、おまえよりも劣っていること証明できたなら、私、おまえの子種貰うある。沐絲。」


 空風がひょおっと通り抜ける。かさかさと音をたてながら、落葉樹が地面へと落ちて行く。


「本気で言ってるだか?」
 沐絲は珊璞を見返した。
「戯れでこんなこと言えるわけないね…。」
 小悪魔のように珊璞はにこっと微笑み返した。
「オババ様だって、おまえがあの男倒したら、許してくれるに違いないある。オババ様の推挙した男よりおまえが強いと証明できれば、誰も文句は言わないあろう?」
 妖しげな瞳が沐絲の心を捉えた。
「乗った!その話、乗っただっ!」
 思わず強く叫んでしまった。




「誰だっ?」
 思わず近くに居た乱馬が咎めた。


 さっと隠れる二つの人陰。


「どうした?お若いの。」
 乱馬と話していた爺さんが話しかけた。
「いや…。誰かに見張られている視線をさっきからずっと感じていたもんで。」
「大方、山の獣どもではあるまいかのう。」
 爺さんは顔中に皺を寄せながらにっと笑った。




「あの男、気配を読めるのか…。」
 沐絲がほうっと息を吐き出した。
 団体が再び動き出すのを見送り、珊璞へと声を掛けた。
「ふふ、さすがにオババ様の目に留まっただけはあるね。これはなかなか侮れるものではないようね、沐絲。」
 珊璞もにっと笑った。
「そうだな…。じゃが、オラにかなう相手ではないだ。珊璞、見てるだ。オラはきっとあの男を倒して、おまえを嫁に迎えてみせるだ。…きっとな。また大和で会おう、珊璞。」
 沐絲はそれだけを言いおくと、さっとその身を隠して行ってしまった。なかなか早い足並みだった。気合が充分に感じられる。
 その気配を見送りながら珊璞が吐き出した。


「ふふ、まんまと沐絲の奴、乗せられたある。あの様子じゃあ、本気で戦ってくれるあるね。」
 そう木陰に向かって吐いた。
「始めからそれが狙いじゃったのだろうが…。」
 ふと声が聞こえた。がさっと音がして可崘が顔を出した。
「珊璞よ。おぬしもなかなかどうして、男を手玉にとるようになってきたのう。さすがにワシの孫じゃ。」
 そう言って笑った。
「オババ様の聞いてのとおりある。あとは、沐絲と乱馬の戦いを横から眺めていればいいだけある。」
「己の手は汚さずに、乱馬のことを試せると言うわけじゃな。」
「そうある。まだ、私は乱馬という男、認めたわけではないからな。私が直接当たる前に、まずは沐絲を使って試させて貰うある。」
「沐絲は棄て駒というわけか。」
「まあ、そんなところある。」
「いずれにしても、楽しい余興になりそうじゃな。」
「オババ様も一緒に見届けるといいね。」
「無論、そのつもりじゃ。」


 二人の女の笑い声が谷間にこだました。






二、


 ほぼひと月近くをかけて、一行は大和へと入った。
 もう師走に入っていた。
 大和朝廷は援軍の準備に暇なく、飛鳥の都は戦の前のきな臭さが立ち込めていた。
 その中にあっても、人々は新しい年を迎えるために、どことなく気忙しく動き回っていた。都は乱馬たちのように東国方面から掻き集められてきた兵士たちで活気に満ちている。
 急に人口が増えたので、そこここの宿は人で溢れかえっていた。仮設の小屋が建てられ、兵士たちは郡(こおり)別に収監されたのである。
 中央政府は彼らの編成を整えるのに役人たちが走り回っていた。一人でも多くの人員を掻き集めたい。彼らはそう思っていた。


「お若いの、どうやら、大王様も一緒に西へと御幸(みゆき)されるようでございまするなあ。」
 爺さんが乱馬に話しかけた。鈴鹿辺りで一緒になって以来、爺さんは、ずっと乱馬にくっついている。名前を砺波(となみ)と言った。
「大王様が御幸されるってか?」
 乱馬は目を丸くした。大王が都を離れて軍と共に動くなど、異例と言っても良かったからだ。
「そのくらい事態は逼迫(ひっぱく)しておるのじゃろうて。」
 砺波のご老人は、そう言ってにっと笑った。
 爺さんの言うとおり、朝鮮半島の情勢は、大和朝廷の存在をも脅かすような状況になっているのかもしれない。
「何でも、数年前に送られた遣唐使たちが、ずっと唐の高宗に拘束されて帰れずに留められておるとも言われておりますでな…。」
 爺さんは何者なのか、朝廷の情勢に明るかった。乱馬が思いも寄らぬ情報をどこからともなく仕入れてきて、彼に話してくれたのだ。年寄りになつかれ易い性質をしているのかと、最初の頃は困惑していた乱馬だが、ずっと一緒に旅するうちに、いつの間にか、爺さんの傍らに居るのが普通というような状況になってきていた。
 都に着いたはいいが、まだ軍勢の編成には時間がかかるのだろう。何も沙汰がないままに数日が瞬く間に過ぎた。


「お若いの、退屈そうじゃのう。」
 良く晴れた冬の昼下がり、砺波は乱馬に声を掛けた。
「どうじゃ?今日は市が立つらしいので、ワシと一緒に行っては見ぬか?」
 そう言って誘ってきたのだ。
 ずっと宿舎に居ては身体が鈍り、退屈してきたところだったので、彼は二つ返事で同行することにした。


「なあ、爺さん。爺さんは都のことにやけに詳しいが…。何度か来た事があんのか?」
 乱馬は歩きながら砺波を見返した。
「ふぉっふぉっふぉ、人間年を重ねた分、いろいろな体験がありますでな。若い頃はこれでもこの辺りをぶいぶい言わしめておりましたのぞ。」
 と愉快そうに笑った。
「ふうん…。」
「この辺りも昔の喧騒に比べたら、少し寂しいくらいになりおったわい。」
「もっと昔は賑やかだったのか?」
 乱馬は目を見張った。
「ああ、海石榴市(つばいち)はもっと昔は歌垣などが催されて、それはそれはたいそう賑わっておったのですぞ。」
「歌垣…。かがひのことか。」
「海石榴市のかがひといえば、都中の年頃の男女で溢れ返ったものですからのう…。」
 爺さんは遠い目をした。
「数々の恋人たちがあの歌垣で生まれましたから。勿論。皆が幸せになったわけではなく、中には時世に飲まれた妹背(いもせ)たちも多かったのでござりましょうがな。」
 歌垣と聞いて、心が少し騒いだ。己も歌垣で出会った妹背、茜郎女が居たからだ。彼女のことは片時も忘れたことはなかったが、できるだけ平常には思い出さぬように心がけていた。寝屋に入った折にだけ、青い勾玉を握り締めて、彼女の柔らかい吐息を思い出していた。
 今頃どうしているのか。
 それを思うと望郷の念に駆られる。
「今では歌垣もすっかりと廃れてしまったそうですからのう…。都が難波へなどへ遷ってしまったからじゃ。」
「でも、また飛鳥に戻ってきたじゃねえか。」
 乱馬は不思議そうに言った。
「それも、いつまでこの地にあるか。噂では、葛城皇子様は別のところへ都を造営したがっていると言われておる。」
「別のところだって?」
「例えば近江など。」
「近江…。」
「大きな湖のある土地のことですじゃ。まあ、この先がどうなるかはまだ予想もつきませぬがな…。それより、ほら、あそこの賑わい。あれが海石榴市ですじゃ。」
 老人は遥か先を指差した。
 建物が軒を連ね、人々の往来が一段と激しくなっている。
 背後に神の山、三輪山臨み、広がる土地。ここに最古の市、海石榴市があった。


「ここに大和の国中からいろいろな物品や人が集って来まする。一時期の勢いはないにしろ、それでも、賑やかな場所には違いませぬからのう。」
 爺さんはあれこれと軒先を歩きながら、市に並ぶものを物色して歩いた。美しい髪飾り、勾玉などの装飾品はもとより、絹織物もある。かと思えばそこここで食べ物の言い匂いも漂ってくる。


 と、いきなり周囲が騒ぎ始めた。


「誰かーっ!そいつを捕まえてーっ!」
 中年女の甲高い声だった。
 バタバタと音がするほうを見れば、一人の少年が必死でこちらに逃げてくるのが見えた。何か武器を手に持っている。刃物のほうで、鈍い光が見えた。大方こそ泥だろう。
 武器を手にしているので、人々は彼を避けて通す。誰も、手出ししようとはしなかった。下手に関わって怪我をするのを恐れてのことだろう。
 少年は物凄い勢いで乱馬たちの方向へと走り抜けてくる。
 乱馬はがっと中央へ仁王立ちすると、少年を真正面から見据えた。


「どけーっ!どかねえと、怪我するぜっ!」
 少年は立ちはだかった乱馬に向かって言葉をはきかけながら突っ込んでくる。
 だが、乱馬はそんな脅しをもろともせず、がっと少年を睨みつけた。
 少年は持っていた刀を振りかざすと、かまわず乱馬に斬り付けた。


 きゃああっと女たちの悲鳴が上がる。
 人々の視線は乱馬のほうへと釘付けられた。


 乱馬は軽く彼の切っ先を交わすと、前へと足を踏み込んだ。


「でやーっ!!」


 一撃だった。
 刀の先が頬を掠めていくと、みぞおちへ一発、拳を突き上げた。


「うぶっ。」
 少年は思わず腹を抑えた。カランと音がして刀が転げ落ちた。
 そのまま前のめりにひざを突いて少年はうずくまる。そのくらい乱馬の一撃は強烈だったのだ。


「盗人めっ!」
 ようやく、追いかけてきた役人が追いついて来た。


「くそっ!…。」
 少年は乱馬をやぶ睨みした。激しい瞳だった。


「こいつめっ!売り物に手を出しよってっ!」
 こっぱ役人たちが周りを取り囲んで少年を足蹴りにし出した。
 乱馬は落ちた刀を取り上げると、追ってきた店番の女らしき者へ目を向けた。
「これが売り物か?」
 乱馬は女へ言葉を投げた。
「そうだよ、これはうちの店にあったものだ。」
 女は額にかいた汗を拭いながら答えた。白い蒸気が荒い息と共に口元から吐き出される。
「ほうら。」
 乱馬は懐から持っていた小銭を出した。
「これで買い取れるか?」
 当時流通していた中国大陸からの渡来銭が数枚、掌に乗っていた。故郷を出るときに良牙が餞として持たせてくれた物だった。
「こんなにいいのかい?」
 女は目を輝かせた。
「ああ、これで買い取ってやらあ。それなら文句あるまい?」
「兄さん、なかなか気前がいいねえ。」
 そう言いながら貰った銭を自分の懐へと取り込んだ。そして、ぺこっと頭を下げると、そこを立ち去った。厳禁なものである。金を貰えれば文句はない。それがいつの世でも商人のあるべき姿だったのかもしれない。


「さてと、こっちは片付いた。あとは…。」
 少年を袋叩きにしている役人どもへも目を転じた。
「おい、もうそれくらいにしておけよ。刀は俺が買い取った。だから、盗み騒動は終わりだ。」


「何を言うか。こんなごろつきの少年をこのままほっておいては役人の名折れ。」
「そうだ、しょっぴいて厳罰を加えなければならぬ。」


「だから、この刀は俺が買い取ったし、こいつは無罪放免だって言ってるだろう。それとも何か、俺の所存に文句でもあんのか?」
 乱馬は傍にあった木をバンっと拳で叩いた。バキッと乾いた音がして、木枝が真っ二つに折れた。並大抵の腕力では折れる筈のない太さだ。
「ひい…。」
「か、かまわぬ。この少年は今日のところは見逃してやろう。だが、今度、悪さをしたときは、…覚えておれっ!」


 乱馬の剣幕に気圧されるように、役人どもはそこから逃げるように立ち去った。


「たく、意気地がねえぜ。ざまあねえや、大和の役人はよう。」
 そう言うとぼこぼこにのされてもなお、意識を保っている少年へと目を転じた。
「くそう…。余計な真似を。」
 少年は荒んだ目で乱馬を見上げた。
「余計な真似だと?おまえ、自分の立場がわかってんのか?」
「わかるもわからないも…。俺は自分の生きるために身体張ってんだ。おまえみたいなナマッチョロ田舎武者とは違うんでいっ!」
 そう吐き出した。
「それに…。おまえみたいな若造に助けられたなんて親方に知れたら…。」
 そう言ったきり黙った。
「親方?」
 不思議そうに乱馬が目を転じると、ずっと黙ったまま成り行きを見ていた砺波が口を開いた。
「大方こいつを子飼いしていた盗人の親方だろうて。」
「盗人の親方?」
「ああ、俺たちみたいに兵役を得て都へ上ってきた奴らの中には、故郷へ帰らないでそのまま都へ居つく奴等が出てくる。その中で舎人など、真っ当な職につくのはごく限られた人間だけだ。他は故郷へ帰る路銀もなく、ごろつきになったり、盗人になったりすることもある。大方、この少年の親方というのも、そんな兵役上がりのごろつきじゃろうて。のう。」
 爺様はそう言って少年を見下ろした。
「だったらどうだってんだいっ!」
 あくまでも反抗的だった。
「なるほど…。ただのごろつき少年か。」
 乱馬はにっと笑うと少年の手をがっと掴んだ。
「な、何しやがるっ!」
 突然の乱馬の行為に、少年の方が驚いた。


「その腐った根性叩き直してやるってんだよ。俺と一緒に来い。」
「お、おい。乱馬殿よ。」
 爺様は慌てた。
「一人くらい兵士が増えたところで、かまわねえだろう。これから大きい戦をしようとかかってる大和朝廷だ。今は一人でも人員が欲しいだろうからな。」
 そう言うと、ぐっと少年の手を引いた。連れて行こうとでもいうのだろう。


 その有様を影から見ていた少年がもう一人二人居た。


「大変だ。千文が訳のわからねえ、男に連れて行かれるぜ。」
「兄貴、親方に報告だ。」
「そうだな。おまえがひとっ走り行ってこい。俺はあいつを見張る。裏切りは許されざるべき行為だからな。」
「ああ、親方に言って何とかしてもらわあっ!千文の奴、生意気だったからしめるのに丁度いいや。」
 そうはき棄てると、雑踏の中に飲まれて消えていった。




「たく。物好きにもほどほどがございまするよ。乱馬殿は。」
 呆れ顔で爺さんが後からついてくる。乱馬の直ぐ脇には、放せと叫び続ける少年がその手を引かれている。
 ずんずんと歩いて海石榴市から遠ざかる。
「その子に何をさせようと思ってなさる?」
 砺波が視線を手向けた。
「何、あそこでぶつかったのも何かの縁だろう。だから、こいつの盗人根性を鍛え直してやろうと思ったまでだ。」
 毅然と言い放つ。


「はなせっ!俺は嫌だぞ。親方のところからなんて、絶対に抜けられるもんか!」
 少年はジタバタと抵抗を続けていた。


「その子の言うとおりだぞよ、乱馬殿。」
 爺さんも心配げに乱馬を見た。
「何が言うとおりなもんか。そんな盗人の集団なんて、やっちまえばいい。」
 乱馬は意気揚々と声を荒げた。
「盗人集団をやめると言ってもだな、察するにこいつの親方はこの辺りを広く脅かす夜盗の一派、鷹麻呂あたりだろて。となると、ちょっとやそっとでは抜けられぬことになりまするぞ。」
 爺さんの危惧は直ぐに現実となった。


 爺さんが思ったとおり、千文の親方は鷹麻呂だったからだ。
 チンピラどもの報告を受けた、鷹麻呂が、仕掛けてきた。
「その田舎から出てきた若造とそんなやつに簡単に捕まっちまいやがった千文を血祭りに挙げて来い。」
 と命令が飛んだのだった。
 鷹麻呂一派とは、砺波爺様が危惧したとおり、この辺りを暴れまわっている夜盗の集団だった。
 鷹麻呂は大和から少し外れた山間を中心に活動していた盗賊集団だった。その実、朝廷も手を焼いていた盗賊一味だったのだ。難波へ一度遷都してしまって以降、荒廃し掛けた大和の地を我が者顔で荒らしまわって勢力を伸ばしたのだ。
 一説に寄ると、鷹麻呂は兵役上がりで、名うての武人でもあったという。その力を持って、大和辺りのチンピラどもをまとめていたのだ。昼間は人の集る市で低年齢の者を使ってスリや万引きを強要していた。めぼしい物品を奪っては私利私欲を増やす。そんなどうしようもない奴が鷹麻呂であった。


 乱馬は千文を連れてくると、女から買い受けた刀を渡した。


「何のつもりだ?」
 千文は刀を持つと、乱馬を睨み返した。合点がいかぬという目でだ。


「何のつもりも、おめえも武人になるなら刀は必要だろう?」
 乱馬はにやっと笑いながら言った。


「じ、冗談じゃねえやっ!誰が武人になんか。」


「ほお…。なら何で刀に手をかけた?」


「親方が刀を盗って来いと言ったからだっ!」
 そう言うと千文は刀を投げた。
「馬鹿っ!武器は武人の命だ。乱暴に扱うんじゃねえっ!」
 乱馬は千文を睨みつけながら怒鳴った。
「誰が武人になんかなるもんかっ!」
 そう言って千文も突っかかる。
「そうか…。でも、おまえ、いつまでもその親方のところに居たいのか?そんなに痣だらけにされてもよう。」 
 目を流しながら乱馬は言った。
 千文の身体中に今つけられたばかりではない蒼痣や黒ずみが至る所にあるのを乱馬は見逃さなかった。
 千文はそのまま押し黙ってしまった。
 恐らく、日常的にその親方や兄貴分から暴力を受けているのだろう。盗品をノルマ分持って行けなければ、満足に食事も与えられていないかもしれない。千文がその年頃の少年としては痩身で、あばら骨が透けて見えそうなのが何より如実に物語っている。
「自分の運命は自分で切り開いていくものだぜ。」
 乱馬は己にも言い聞かせるように呟いた。
 千文は床に落ち、土がついた刀を再び手に持ってみた。ずしっと重い。暫く何も言わずに考え込んでいた。


「どっちにしても、おまえ、もうそお親方のところへは帰れねえかもしれねな。」
 乱馬は宿となっている布施屋(ふせや)の外を眺めながら言った。表はいつ降り出したのか、雨が音をたてている。冷ややかな湿った空気が蔀の隙間から流れ込んで来る。
 その問い掛けにも答えずに千文はじっと刀を持っていた。
「ここを抜け出してその刀を獲物として持って帰ったところで、親方はいろいろ難癖つけておまえを責めるだろうよ…。骨の一本や二本、いやそれ以上を覚悟しねえといけねえだろうな。」
 別に脅しているつもりはなかったが、乱馬の口調は厳しい現実を突き刺すように続けられる。


「でも、ここに居たら、おまえも俺と同じ目にあうかもしれないんだぜ?」
 千文はようやく口を開いた。
「あん?」
 どういう了見だと言わんばかりに乱馬は視線を巡らせた。
「鷹麻呂の親方は、あれでいて執念深いんだ。今頃きっと、あんたのことを探し回ってるだろうよ。俺の他にあの場所に仲間が居たからな。一部始終見ていたにちげえねえんだ。」
「ま、そうだろうな…。じゃねえと、ビンビンと強い殺気なんか感じねえだろうしよう…。」
 表を見ながら表情一つ変えずに乱馬は言った。


「え…?」


 驚いたのは千文の方だった。


「へへへ。あちらの方から出向いて来てくれたみてえだぜ。それも、ご丁寧に何十人も連れて来てやがる。」
 と嬉しそうに言い放つのだ。
「何十人もって…。」
 千文の方が青くなっていた。
「大丈夫だ。雑魚が何十人寄っても敵にはならねえ。さてと…。爺さんはどっかその辺りにでも隠れてろ。」


「ああ、言われんでもそのつもりじゃあ。ワシは年寄りじゃてなあ。」


「千文、おまえ、その刀で自分の身は自分で守っとけ。人間、修羅場になれば底力も出るだろうしな。武人になりたかったら、その剣で何とかすればいい。」


「あんたはどうするのさ。」
 千文はぎゅうっと刀を握り締めると乱馬に問いかけた。


「そんなの、決まってらあ。売られた喧嘩は買う。それが、響の里の武人の掟だからな。」
 乱馬はそう言うと、弓と剣を手に取った。


 雨脚が激しくなり始めた。
 乱馬はふっと傍にあったロウソクの火を消した。






第八話  大海人皇子 へ続く







砺波の爺さん(となみ)
一之瀬の創作上のオリジナル人物です。
名前は富山県の地名ですが、実は「戸浪」から名前をつけています。「戸浪(門浪)」とは、瀬戸に立つ波のことです。何故この名前がついたのかについては、そのうち。


千文(ちふみ)
一之瀬の創作上のオリジナル人物ですが、名前は故あって万葉集から拾いました。何故この名前を拾ったかについては最終話あたりで露呈すると思います。この名前でピンときたら、相当な万葉集マニアでしょう(笑


乱と変について
歴史上いろいろと変や乱がありますが、「変」は仕掛けた方が敗者となった場合、「乱」は仕掛けた方が勝者となった場合を意味していたという説があります。「乱」は後世になると広く一般の戦乱を表す言葉になりましたが…。
本文中の歴史的背景は一応、言われている通説などに沿って書いています。


人間関係が複雑になってくるので、そのうち「系図」を作ります。


(C)2004 Ichinose Keiko