第六話 旅立ち




一、


 その晩、ささやかな宴が天道氏の館で執り行われていた。


 乱馬は茜郎女と共に仲良く中央に座し、絵に描いたような睦まじさだった。軽くさした紅が愛らしい。


「今宵は百取の机代物だ。これで、晴れて、乱馬殿は婿殿になれる。今日は目出度い日だ。」
 早雲もすこぶる上機嫌だった。
 最初、乱馬が妻問いに現われたときは、あれほど渋った縁組だが、斎媛の御子とわかって、心が少し解きほぐされたのだろう。勿論、斎媛のことは乱馬にもあかねにも内緒のことではあったが。


 乱馬も目を細めながら、隣に侍る郎女に満足しきっていた。手や足には生々しい火傷の痕や切り傷、擦り傷が無数に散らばっていたが、その痛みすら、気にならない。
 何より、自分の手で茜郎女を手に入れたという満足感が、気持ちすら和やかにさせていた。
 絶対に我が物にする。そう強く願った媛を手に入れたあかね、彼女の笑みを傍らで受けながら、饗宴に高じていた。
 早雲が酒を酌み入れる。あまりいけた口ではないが、彼もほろ酔い加減に口にする杯。
 御饗(みあえ)を口にするということは、相手方の家に受け入れられた証であった。そう、相手方のカマドの火で炊かれた食物を共に食することにより、この一族に取り込まれたという意味を持つのである。
 だからこそ、結婚披露宴のような饗宴は必要であったし、嬉しさも倍増するのである。
 この宴の後は、共に寝屋へ入り、夫婦としての契りをする。
 今後は暫く、子供ができるまで、乱馬が足繁くここへと通うことになろう。
 子供が出来た時、改めて、己の氏である響からも独立し、また、あかねの氏でもある天道氏からも巣立つ。新しい家を建て、そこで夫婦として長く暮らすことになるのだ。


 あかねはだんまりを決め込んでいたが、仄かに顔が赤く染まっていた。


 乱馬に縋って泣いた夜明け。包んでくれた腕は、優しくそして、逞しかった。多分、この人をずっと待ち続けて居たのだとそう思った。
 十六歳という年齢は決して結婚するのに若くはなかった。当時としては、むしろ遅い方かもしれなかった。女は初潮を迎えるや否や、大概結婚へと突き進む。男が通い出すのもその頃だろう。
 だが、あかねはその激しい気性から、長らく男を寄せ付けなかった。勿論、美媛だったので、九能に限らず、言い寄る男も数多あったが、全て遠ざけてきた。
 これと思う男が存在しなかったことにも大きく起因していたが、彼女の気の強さは、並みの男では持て余すことは確かなようだった。
 武人の娘らしく、勇猛果敢で、ひ弱な男など、容赦なく背負い投げた。剣や弓矢、果ては乗馬の腕前も男並だったのだ。
 そんなあかねの気の強さも、全て飲み込める乱馬はまさに理想に近かったかもしれない。いや、この時初めてあかねは、自分が女であることを意識したかもしれなかった。
 女は強い男に惹かれるものだ。
 乱馬は強い。
 一度、手合わせをしただけだが、簡単にのされた。あの時砕け散ったのは、武人としての自信。彼には敵わなかった。
 飛び込み様に奪われた唇の記憶。屈辱である筈なのに、心の底では彼をすぐさま受け入れていた。


「どうか末永く、この娘を愛してやってくれたまえ。」
 父親として早雲は乱馬にそう言い含めた。
 手塩にかけて育て上げた娘との惜別の時だった。




「斎媛様もご一緒に列席されれば良いのに…。」
 なびきが傍らで言った。
「いいえ、私は一介の斎媛。この氏の人間ではありませぬ。末座にも列することすらおこがましいこと。私は離れたここで、若いお二人の行く末を祈らせてもらいますわ。」
 斎媛はそう言って寂しげに笑った。


 乱馬の前に出てしまうと、母としての想いが抑えられるかどうか、自信がなかった。
 彼とて、母など居ないものとして育てられてきている筈だ。彼を嫡男として育てた、響の邑の長にも迷惑がかかるだろう。
 今更母親だと名乗られても、乱馬の混乱を招いてしまうだけだ。それは斎媛とて十分に承知していた。
 引き裂かれてしまったあの日から、我が子はこの世に居ないものと諦めるしかなかった。それに、斉明女帝の血を引いた孫と公にされても、敵と為政者に見られるだけでも負の効果だ。
 斉明女帝はもう半世紀以上生きた老女帝。この不摂生かつ無医者の時代において、五十歳を越えて生きられるだけでも、十分、長生きの部類に入る。
 斉明女帝の唯一の気がかりは、舒明帝の前に嫁いでいた高向王との間にできた、最初の息子、漢皇子の行く末だろう。人々の口さがない噂によると、長閑との件が露呈した後、彼は蟄居させられた。いわゆる左遷である。遠国へと流されたと聞くが、その後隠遁地から行方をくらませてしまった。ふっつりと途切れてしまった漢皇子の消息。
 生きているか死んでいるかすらわからない。
 斉明女帝は再婚後、舒明帝との間に、ニ男一女をもうけている。葛城皇子と大海人皇子、そして間人皇女だ。その三人にも勝るとも劣らない愛情を、長子、漢皇子に注いでいたことは間違いが無い。漢皇子が舒明帝の血を受けていずとも、皇子姓を名乗れたのは、女帝のきめ細やかな配慮があったからだと言われている。
 その女帝には、長閑郎女の妊娠のことは知らされたが、一応「死産」として届けられている。その息子が無事に生まれ、育ったことを知る人はほんの一握りだ。恐らく宮中の人間は殆ど知ることもないだろう。
 ひっそりと生まれ、ひっそりと引き取られていった赤子。
 斉明女帝から見れば孫にあたる。それが乱馬だ。もし女帝の知るところになれば、慈悲深い女帝のことだ。漢皇子の血を受けた乱馬と謁見なさろうとするだろう。
 ただでさえ、政局は混迷しかけているという。斉明女帝の後継者がまだはっきり決まらないからだ。一応、皇太子(ひつぎのみこ)は葛城皇子ということになっている。それは序列から見て明らかである。だが、必ずしも今上天皇の血族がすんなりと天皇になるとは限らなかったのである。まだ長子相続が決まり事のようになっていた時代とは違ったのだ。
 そんな中、乱馬の存在が女帝に知れると、政局も少なからずは影響を受けるだろう。
 つい先頃、有間皇子が葛城皇子の姦計にはまって自害を余儀なくされた事変が起こっている。世に伝えられる「有間皇子の乱」だ。成人し、新勢力として台頭してきた有間皇子が、それを疎んじた葛城皇子に謀殺された事件と言われている。「万葉集」に有間皇子の辞世の歌が残り、有名になっているから、有間皇子の悲劇は御存知な方も多いだろう。
 中央政治の場はまた「権力」という恐ろしい魔物が棲む場所でもあった。
 そんな渦中へ息子を投じたくない。彼にはこのまま地方豪族の嫡子として平凡でも幸せな一生を送って欲しい。そう願っていた。


 いや、彼女は知らなかったのだ。元々、己と漢皇子の色恋沙汰が、政敵を遠ざけようと企んでいた葛城皇子が裏側で糸を引いていたことを。いや、そればかりか、乱馬と己を引き裂いたのは、彼女の父、蘇我蝦夷ではなく、本当は葛城皇子その者だったということに。


 茜郎女と結ばれ、この上ない平凡な夫婦生活の第一歩を踏み出すことになる筈だったのだ。
 時の流れとは無常なもので、そんなささやかな斎媛の願いすら、終ぞ聞き入れられることは無かった。


 時代の激流が乱馬とあかねを襲ったのである。




 宴もたけなわになった頃、突然、予期せぬ客が乱入したのである。


「お待ちくださいませっ!」


 俄かに表が騒がしくなった。


「何事ぞっ?」


 バタバタと足音。彼は周りが目に入らぬ如く、ずかずかと天道氏の館へ入り込んだ。


「乱馬っ!乱馬は居らぬかっ!?乱馬。居たら返事しろっ!!」


 聴き覚えのある声。

「良牙?良牙かっ?」
 乱馬はその声に反応した。


「おお、乱馬っ!ここに居たか。」
 良牙が顔を出した。


「何だ?響の里の者か?」
 早雲が訝しげに彼を見た。


「無礼を承知で上がらせていただきました。乱馬に急な用がありましたゆえ。」
 良牙は一礼して無礼をまず詫びた。
 それから乱馬に向かって言い放った。


「乱馬っ!大変だっ!雲斎殿が…。雲斎殿が危篤だっ!」


「親父が?」


 乱馬はそのまま絶句した。
 信じられぬと言う顔を手向けた。当然だろう。父親は乱馬がこの適妻の儀式に望む前、元気に激励を送ってくれた。そう、俄かに病を得て倒れるなどということは考えられなかった。


「良牙っ!親父はどうしたんだ?狩にでも出て、大怪我でもしたのか?」
 乱馬の方が必死の形相になった。食って掛からんばかりに問いかけたのだ。


「いや、怪我じゃねえ。」
 良牙はふうっと息を整えた。落ち着くためだ。
「俺が狩から帰って来たときに、里の楡の大木の傍で倒れていた。俺も驚いて飛び出してきたところだから詳しいことはわからねえ。乱馬。あの様子だと雲斎殿の命は危ない。雲斎殿はおまえの名前をうわ言のように呼んでいるんだ。慶び事の夜だということはわかってる。だけどそのまま捨て置けねえ。乱馬っ!俺と一緒に直ぐ里へ帰ってくれっ!頼むっ!」


 良牙が要請するまでもなく、そうするつもりであった。


「茜郎女。」
 乱馬は憂いの目を彼女へ手向けた。
「そういうことだ。すまないが、今夜のところは響の里へ帰らせてくれ。そう、この婚儀、暫く預けておいて欲しいのだが…。」


「親の一大事は子の一大事。私のことは後でもかまいませぬ。どうぞ、存分にしてくださいませ。」
 あかねは凛とした声で乱馬に言った。


「すまない…。途中でこんなことになってしまって。」


 茜郎女は肩をそっと叩いて、乱馬に言った。


「いいえ。あなたは我が一族の適妻の試練に見事耐え抜きました。だから、私は平気です。」


 早雲も複雑そうな表情で言った。


「よく言った、茜郎女。乱馬殿は父上が大変なのだ。お仲間と共に直ぐにでも帰りたまえ。二人だけで夜道を走るのも大変だろう。我が眷属の舎人を何人か連れて行くが良い。」


 彼の申し出はありがたかった。
 暗い夜道を良牙と二人馬を飛ばすことは、なかなか大変なことだったからである。昼間なら二時間も馬にまたがれば着く距離でも、夜の闇の中を駆けるとなれば、相当時間がかかるものだろう。夜道は暗い。
 明かりのある現代と違って、本当に月明かりしか頼るものはない。その月さえも、昨日が朔となれば、天上には光っていないのだ。
 何人かで徒党を組み、それぞれ松明を灯せば、真っ暗な野道も心強い。


 乱馬は良牙と共に、道を急いだ。


 父、雲斎の様子が分からない以上、懸命に駆け抜けた。
 心は次第に不安が増殖していく。父にもしものことがあったら…。いや、そんなことは考えたくない。そう思わずに居られなかった。
 そんな彼の遥か頭上で、天の川が落ちこぼれそうなくらい、澄んだ秋の夜空の中、光り輝いていた。








二、


 乱馬が天道氏の館から馳せ参じた時には、響の里中が異様な雰囲気に飲まれていた。
 そこここで松明が灯され、眠りに就いても良い時間帯にも拘らず、老いも若きも、雲斎の寝屋を取り巻いていた。
 邑の中央にある広場には祭壇が設えられていて、神の口寄せをする巫女や男たちが輪になって、口々に祈りを捧げながら天を仰いでいた。
 その様子を見ただけで、雲斎の様子が事情ではないことは、容易に想像がついた。
 乱馬が帰ると、人々はちらりと彼を見やった。そんな視線などもろともせず、良牙と共に、呪術用の赤土が塗りたくられた家へと入る。
 中に入ると、一族の長老、八宝斎の爺様が真摯な目で雲斎を見守っていた。


「親父っ!」
 息せき切って乱馬が呼びかけた。
 部屋の中央のわらの上に寝かされた雲斎は血色を失っていた。枕元で焚かれた松明の炎に、張り巡らされた呪符が赤く光っていた。


「良かった…。息がまだあるうちに帰り仰せよったか。」
 八宝斎は乱馬を見やった。
「爺様。親父は?」
 思わず声を荒げた。
 八宝斎はその問い掛けには答えず、ただ、首を横に振るだけだった。


「そんな…。」


 蒼白になった雲斎の顔。苦しい息の下から乱馬を呼んでいた。

「最後の別れを…。乱馬よ。」


 八宝斎は静かにそう言うと、周りに居た祈祷師や身内の者たちに目配せした。今際の言の葉は、この一族の規則で、その嫡男たる者のみが聞くことができる。だから、他の者はたとえ兄弟や子どもと言えども、外へ出る。
 一同は八宝斎の言葉を受けて、静かに表へと立ち去った。


 辺りは急に静まり返り、ロウソクの赤い火だけがゆらゆらと揺れていた。


「親父…。」


 乱馬は切ない表情をして、苦しむ父親を覗き込んだ。
 良牙の父、雲牙が飲ませたのは、どうやら即効性ではなく、ある程度遅効性のある薬物だったようだ。
 彼はこの場には居なかった。どこに行ったのか、姿が見えない。当然あるべき筈なのにである。
 だが、乱馬は叔父が居ないことを特別、変だとは思わなかった。まさか、この事態を招いたのが、雲斎の異母弟であるとは信じられなかったし、毒そのものの存在すらわからなかったからだ。


「どうしてだ…。親父。」


 乱馬はそう呟くと頭を垂れた。


「乱馬…。乱馬よ。」
 雲斎は苦しい息の下から乱馬を呼んだ。


「俺はここだ。ここに居るぞ、親父っ!」
 乱馬は思わず雲斎の右手を握った。体温が通っていないのかと思えるほど、雲斎の手は血が凍れるように冷たかった。
 乱馬の手のぬくもりに反応したのだろうか。雲斎は必死に乱馬へと呼びかけた。
「乱馬…。乱馬か。おお、この手はまさに乱馬じゃ。」
 少し嬉しげに答えた。だが、目はもう見えないのか、空を泳ぐだけだ。


「親父っ!一体どうしてこんなことに…。」
 狼狽する乱馬へと一喝入れた。
「うろたえるな、乱馬よ…。俄かに病が起こっただけだ。」
 雲斎はなだめるように言った。決して毒を盛られたということは口にしなかった。彼にしてみれば、この事態を引き起こしたのは、異母弟の雲牙に違いないと思えた筈だったが、あえてこの場では一切沈黙を守った。いや、単に毒を盛ったのは雲牙だとは信じたくなかっただけなのかもしれない。
 力ない声、でも、精魂込めて乱馬へと言葉を手向けた。


「俄かにこうなったのも運命じゃ…。わしの命はもうすぐ尽きる。」
「親父っ!」
 乱馬が何か言おうとしたのを小さく制した。
「わしにはわかるのだ…。もうそろそろ死神のやつめが枕もとの四隅に立っておろう。」
「そんな気弱なこと…。」
「人には死期というものがある。たまたまそれが今やって来ただけの事。だから、うろたえるな。乱馬よ…。それより、おまえに言い残しておかねばならぬことがある。だから、おまえを待っていた。命が尽きそうになるのを耐えてな。」
 雲斎は途切れ途切れに言葉をかけた。喋れるのが奇跡に近かったのかもしれない。最早「気力」だけが雲斎をつき生かしていたのだろう。
「わかった…。親父。何なと希望があったら言ってくれ。俺は何だってする。」
「希望など死に行く者にはあるまいて…それより、おまえにどうしても言っておかなければならぬことがある…。乱馬よ、部屋の隅にあるあの木箱を持ってまいれ。」
 雲斎に言われて乱馬は箱を持って来た。
「開けてみよ。」
 そう静かに言った。
 言われたとおり、木箱を開ける。
「こ、これは…。」
 そこにあったのは一振りの太刀。それも立派な装飾が施された美しいものだった。
「親父…。何だこの太刀は。」
 乱馬が始めてみる宝だった。雲斎も太刀は数多持っていたが、これほど美しく荘厳な太刀の存在など、今の今まで知らなかったのだ。
「これをおまえに返しておく。」
 雲斎はそう言うとにっこりと微笑んだ。
「返すだって?どういう意味だ。親父。」
 乱馬は不思議そうに雲斎を覗き返した。
「これは、おまえの本当の父親から預かった刀だ。」
「俺の本当の父親だって?」
 乱馬は思わず声を張り上げた。何を言い出すのかと父親をとがめだてするような声だった。


「良く聞け。おまえはこのわしの血を受けた子どもではない…。他所からこの刀と共に預けられた男児だ。」


「そ、そんなこと、初めて訊くぜっ。俺はっ!!」
 乱馬は思わず声を荒げた。

「当たり前だ。初めて話す。……。おまえの父親の手がかりはおそらくこの太刀にあろう。恥ずかしい話だが、おまえの本当の父親については、わしも知らぬ。それを明かさぬ約束でこの刀とおまえを貰い受けた。」


 雲斎は遠い目を乱馬に向けた。


「あれは、こんな秋の夕暮れだったな。都から来たという武人がおまえを連れて来たのだ。わしの父がまだ長として君臨しておったときのことじゃ。…大和朝廷と和議を結ぶ証に、この赤子を与えると言ってな。赤子を育てるなり、生贄にするなり、奴婢にするなり、それは我が一族に任せると言って。」


「嘘だ…。なら、母者はどうだったんだ?あんなに優しく俺を育ててくれたじゃねえかっ!…。」
「母者は丁度、おまえと年恰好が同じ赤子を亡くしたところじゃった。だから、その子の代わりができたと、枯れやらぬ乳をおまえに与えて育てたのじゃ。」
「そんな…。」
「おまえには恐らく、大和朝廷の血が入っている。ワシはそう睨んでいる。父親が誰で母親が誰か、そこまでは知りえぬがな…。」
「何で今頃俺にそんなことを言った。親父。」
「このまま墓の中まで持っていこうかと思ったが…。おまえはやがて大和へ出なければならぬ時が来るだろう。その折に、いつか、自分自身のことを知るやもしれぬ。ならばワシの口から言っておきたかったのだ。乱馬よ…。たとえおまえに我が一族の血が入っておらずとも、おまえは私と銀英の子だ。誇りを持って生きて行け。どんな荒波にも負けぬ力と運をおまえは持っている。」
「親父っ!」
 訳が分からぬほど、涙が頬を溢れ出していた。
「茜郎女。せめて、そなたが選んだ妹背を、一目見ておきたかったがな…。乱馬。…おまえを育てられて、良かった…。本当に、良かった…。銀英、今行くぞ。おまえの元へ…。」


 すっと差し上げられた雲斎の手が崩れ落ちた。


「親父ーっ!!」


 乱馬の雄叫びが響き渡る。


 それを合図に、寝屋へと再び入ってくる一族の人々。
 臨終だった。
 乱馬の生い立ちを最後に口にした雲斎は、軽く微笑んでいた。今際にきっと亡き妻が迎えに現われたのだろうか。
 乱馬はそのままその場に泣き崩れた。手には雲斎から託された一振りの太刀が握り締められていた。


 響雲斎、享年四十五歳。




三、

 泣き女と呼ばれる、女たちが大袈裟に雲斎の亡骸の前で泣いてみせる。その中を乱馬は一人佇んでいた。
 肩はすっかり落ち、いつもの勢いがない。
 良牙はそんな彼を見てどう声をかけてよいやらわからなかった。
 父親を亡くした事がどういうことなのか。肉親を亡くしたことがない良牙は、その気持ちを量りかねていた。




 族長の死は同時に族長の交代をも意味していた。
 族長を失った一族は、新たな族長を求める。立ち止まることは許されない。
 それはどんな世の中でも同じだった。


 雲斎の次の族長は、雲牙と決まっていた。
 だから、雲斎の亡骸から、族長の証である一族伝来の勾玉が雲牙の首へと新しく掲げられた。
 一族の長の葬儀は一週間に渡って、派手に繰り広げられた。薄葬礼が出ていたとしても、族長の死はそれなりの儀式を伴って執り行われる。
 死はある意味「ハレ」の場でもあった。「ケ」ではない。
 死者の死後の安泰を祈ることは即ち、一族の安泰をも願うことに通じる。
 泣き女は夜毎死者を囲んで泣き喚き、術者たちは死者の功績を誉めそやす。そして、死者の魂を亡骸から追い出すのだ。
 まだ火葬が大衆に浸透していなかったので、雲斎もこの一族の手法に乗っ取って塚に土葬される。少し前までは立派な墳丘が作られたが、それも今はしない。雲斎は愛妻、銀英の横へと塚が築かれることが決まっていた。


 遺体を納めた柩が築かれた塚へ葬られ、長い葬儀が明けたとき、新しい族長となった雲牙が一族を呼んだ。
 小難しい顔をして、一族の男たちを集めたのである。


「ワシの族長としての最初の仕事が決まった…。」
 思わせぶりに雲牙は一同を眺めた。


「先頃この辺りを治める九能氏の元へ、大和から使者が来た。」


 ゆっくりと言葉が継がれ始める。


「大和から使者?」
 ざわつく男たち。


「何でも大王様は戦を始められるらしい。」


 その声に一層、男たちはざわめき始めた。


「戦だって?」
「どこと交えるんだ?」
「この前、粛慎(みしはせ)を征討したばかりではないのか?」


 ううんと咳払いして、雲牙は人々を静めた。


「先頃、百済から大和朝廷へ援軍の申し出があったそうじゃ。大王はそれに答えて、行軍を編成されることに相成ったそうじゃ。」


 それは唐突な言葉だった。
 百済への援軍。それが意味するものは何か。俄かには理解できぬ人々。


「百済の国が最近、唐と新羅の連合軍に破れた。大和へ入られていた余豊璋と共に兵士を派遣されるというのだ。その行軍のために、朝廷は我が里からも数名、兵を差し出せと言ってきた。つまり、貴殿たちの中から何名かを大和へ防人として派遣せねばならぬのだ。」


 人々はどよめいた。


「わしは一晩寝ずに考えた。この中から、今から呼ぶ者を一族の代表として大和へ行って貰おうかと思う。いかがか?」


「それが大和朝廷の命令ならば仕方あるまい。」
 雲牙の元で彼の子飼いの男が言った。いつも雲牙の傍に居て、彼の面倒を見ている腰巾着のようなごつい男だ。雲牙の言葉を受けてそれに同調することで否を言わせない、そんな役目も担っていた。


「猪造、玉麻呂、霧麻呂、鹿目、狩野目…。」
 順に名前を呼び上げる。
 何人か呼び上げたあと、雲牙は最後に乱馬を見て言った
「乱馬よ、父親殿を亡くして直ぐで悪いのだが、おまえ以外にこの一族を代表して行ける猛者は居まい。どうだ?この者共をまとめる統率者として、行ってはくれまいか。」
 と。
「この俺がですか?」
 乱馬は雲牙を省みた。
「ああ、九能氏の方から是非におまえを加えてくれと要請があったのでな。おまえをこの辺りから派遣される兵卒の大将として是非にと頭を下げられたのだ。」
 雲牙は静かに言った。
「九能氏が…。」
「それ相応の身分も与えられるそうだ。おまえほどの力量と器量があれば、舎人となることだって夢ではあるまい。」
 舎人とは天皇や皇族に近侍して仕えた者のことだ。


 乱馬は暫く黙った。
 九能氏が雲牙を通じて是非に大将にと言ってくるあたりがきな臭さを物語っている。
 だが、誰かが引き受けなければならぬ役目だろう。


「わかりました。私でよければ、大和へ参りましょう。」


 淡々と言った。


「おお、引き受けてくれるか。」
 雲牙は嬉しそうに笑った。








 実はこの人選は九能氏の若が事前に仕組んだものだった。
 彼は大和から要請が最初に来た時に、既に乱馬の名前を推挙していたのだ。
「本当に、帯刀殿は用意周到でござるな。」
 近侍の佐助が舌を巻いたほどだ。
「ふふふ…。だから言ったろう。あやつは茜郎女とは添えぬのだと…。」
「でも、兵役は三年でござろう?三年経てば乱馬とて、戻って来られるのでは…。」
 佐助の言葉に若はあっさりと答えた。
「その間に、朝鮮半島へ挙兵したらどうなると思う?無事で居られるかな…。それに三年もあれば、茜郎女を私の元へ引き付けるのは簡単なことだ。」
「なるほど、そこまで計算済みでござったか。」
「当たり前だ。あの乱馬を追い出すにためならば禍つ者に魂を売り渡してもかまわぬわ。はっはっは。」
 色恋は人間をかくも狡猾な生き物へと変えたがるらしい。
 後へは引けぬ状態にさせてから、響の里の長へと兵役を押し付けたのである。








四、


「あれは絶対に、親父の計略だっ!」


 明郎女の元から帰ってきた良牙が兵役の話を聞いて、乱馬の元へ意気込んできた。


「雲牙様に限ってそんなことはあるまい。」
 乱馬は静かに良牙をなだめた。
「だってよう、何で俺の留守中にそんな重大なことを勝手に決めちまうんだ?俺はあいつの嫡子だぜ。ったく!違うか?」


 良牙は雲牙が彼が明郎女の里へ出ている隙を狙うように、乱馬を対象に決めたことに憤りを感じているらしい。


「仕方ねえだろ?誰かが行かなくちゃならねえんだし…。」
「でも、おまえ、茜郎女のことはどうするんだ?兵役は数年間あるんだろ?」
「ああ、だから、俺が行くのがいいんだよ。片時も良牙、おまえは、妹背をほってはおけまい?赤子だってできるんだから。」
 乱馬は淡々と答えた。
「だからって何で乱馬なんだよっ!おまえだって、妻問いしたところだろうが!」
「いいんだ。あいつは待つと言ってくれた。だから…。」
 乱馬は言った。










 実は、良牙が帰宅する前、乱馬は己に大和朝廷から兵役の命令が下ったことを報告がてら、茜郎女の元まで行ってきたのだ。




「そは誠でございますか?」
 あかねは驚いた表情で乱馬を見返した。


「ああ、俺に是非ともという命が下ったらしい。」
 乱馬は早雲と茜郎女の交互を見詰めながら説明した。さすがに「九能氏から要請があった」とまでは言えなかった。
「乱馬殿は素晴らしき益荒男ぶりでございまするからなあ…。きっと大和のこっぱ役人の目に留まったのでございましょうなあ。」
 早雲は目を細めた。
 彼は武人である。阿部比羅夫の東国遠征にも同行して手柄を挙げたような男でもあった。だから、婿となる乱馬がこうやって大将に任命されることは、決して疎まれることではなかった。むしろ喜ばしいと思うたほどだ。
 だが、あかねのことを考えると、喜んでばかりも居られない。せっかく婿として認めたところなのだ。


「早雲殿、悪いが茜郎女殿との婚儀、一応白紙に戻してはくれぬか。」


 乱馬は当然の如く切り出したのだ。


「じ、冗談じゃないわっ!」


 怒り出したのはあかねの方だった。


「私とあなたは妹背よ。あなたが私に妻問いし、私はそれに答えたわ。だから、白紙になど戻せませぬ。」
 あかねははっきりと言い切った。この娘の気丈さは倭国一だ。
 そんなあかねだからこそ、愛しさが満ちてくる。乱馬に思わず笑みがこぼれた。
「茜郎女がああ申しておる。私もこのまま乱馬殿を迎えたいと思う。三年いや、それ以上とて待とう。茜郎女がそれでもかまわぬと申すなら。」
「勿論、かまいませぬ。何年でも待つわ。私はあなたの妻ですから。」
 きっぱりと言い切ったあかね。


 その夜、早雲は乱馬をあかねの寝屋へと導いた。一緒に床を過ごしてもかまわぬと暗に示したようなものだった。


 並べられた布団に入る前、乱馬はあかねに言った。


「あかね…。俺はまだおまえと結ばれる気はねえんだ。」
 そうはっきりと口に出した。
「結ばれたくはないの?」
 あかねは不安げに夫を見上げた。
「俺は兵役に出るんだ。つまり、明日をも知れぬ境遇に暫くは身をさらさねばならねえ…。おまえを抱けばきっと俺は、兵役になど出たくはなくなるだろう。そうなれば武人の名折れだ。おまえは俺を待つと言ってくれた。何年でも。…そんなあかねだから俺が兵役を明けて帰って来るまで綺麗な身体で居て欲しい。俺は、おまえを大切にしたいんだ。だから…。」
 あかねの目に思わず涙がこぼれた。
「わかった…。私、綺麗な身体のまま、あなたを待ってる。兵役が明けて晴れて帰って来るその日まで。乱馬。」
「あかね…。」
 乱馬はそっとあかねの身体を引き寄せて口付けた。
 己の中に眠る激情を耐え忍ぶように。だが、あわせた唇だけは熱く萌えていた。
 あかねの香や唇の感触をしっかりと己の記憶に焼き付けるように。
 そしてその腕にあかねをしっかりと抱きこみ、長い夜を過ごした。柔らかなあかねの身体へと伸びる手をぐっと堪えながら。ただ、目を閉じて添い寝した。
 欲情に身を任せることも可能だったが、あえてそれはしなかった。
 だが、今の彼はそれだけでも幸せだった。
 お互い、そのくらい純情に愛し合いはじめていたのだ。
 あかねもじっと乱馬の腕の中で身を寄せながら、目を閉じてその温もりを感じ続けていた。
「乱馬…。きっと戻ってきてよ…。約束よ。」
 あかねはそう何度も胸の中で呟いていた。その度に、逞しい腕は彼女を包んだ。






 夜が明けると共に乱馬は帰って行った。
 胸には後朝の別れのときに、あかねから手渡された青い勾玉が光っていた。
 そう、あかねの胸に乱馬の勾玉とともに光っていた蒼瑪瑙の勾玉だった。
「あなたの玉は私が持つわ。だから私の玉はあなたに預ける。」
 そう言って微笑んだ。
「ここにいつも私が居るわ。そして、こちらにはあなたが…。」
「ああ、そうだな。」
 今一度、二人は再びきつく抱き合った。別れを惜しむように。


 朝もやの中に佇む二人の若い男と女。その切なげな別れを見ながら、早雲はそっと斎媛に声を掛けた。


「このまま別れてしまっても良いのですかな。斎媛様。」
 暗に母親として彼の目の前に立たなくて良いのかと問うたのだ。
「いえ、いいのです。彼には私の存在などどうでもいいこと。こうしてあの子の姿を見送れるだけで充分ですわ。今まで生死すらわからなかった息子ですもの…。それに、あの子たちの別れを邪魔する権利など、私にはございませぬわ。」
 そう言って微笑んで見せた。


 やがて、乱馬を乗せた馬が朝もやの向こう側へと消えていく。それを見えなくなってもずっと佇んで見送る、妹背となったあかねと、名乗れない母親と。
 新しい夜明けはどこへ二人を連れて行こうとしているのだろうか。


 朝霧の向こう側に、新しい朝日が光を称えて上り始めた。
 闇の向こう側には必ず朝が来る。希望の朝は別れの朝でもあった。
 いつまでも二人の女性は、互いにそこへ佇んで、じっと去っていった若者を惜しんでいた。











 第一部 完




    次回より第二部「大和編」







<用語解説>
孝徳天皇(在位645年〜655年)
 大化の改新後に葛城皇子らによって担ぎ出された天皇。
 斉明(皇極)女帝の同母弟、軽皇子(かるのみこ)。
 飛鳥から都を難波の長柄豊碕宮(ながらとよさきのみや)へ遷した。後に葛城皇子と対立し、孤独のうちに没した。


葛城皇子(かずらぎのおうじ)
 中大兄皇子のこと。父は舒明帝、母は斉明女帝というサラブレッド(笑
 後の天智天皇です。中臣鎌足(藤原鎌足)とつるんで蘇我入鹿を討った「乙巳の変」は俗に「大化改新」と呼ばれています。
 幼年時代の養育は葛城氏と深い関わりがあったと言われています。皇子皇女の名前は、養育した氏族や生まれた(養育された)場所などからつけられることが多かったようです。
 彼の同母弟の大海人皇子の「大海人」も、その養育に関わったのは「大海連(おおあまのむらじ)」と言われています。また、その母である斉明女帝も「宝皇女(たからのひめみこ)」と呼ばれていましたが、その養育も江沼財臣(えぬのたからのおみ)という氏族で育てられてのでついた名だと言われています。
 また、名前にある「大兄」とは「立太子」と関わりのある言葉とされています。大兄表記を持つ皇子は次期天皇として有力だったと言われています。(これに関しては諸説あり)。
 また「皇太子」を「ひつぎのみや」や「東宮」と呼ぶのは、太陽が東から昇るのを天皇交代に結びつけたためだと言われています。
 本作では教科書などで広く使われている通称の中大兄皇子は使わずに本名の「葛城皇子」と記します。…単に一之瀬の好みによる(笑
 字も本当は「葛」の中が「ヒ」では無く、「人」が正解なのですが、パソコンの字体では出ないので「葛」を使用しています。予めご了承くださいませ。
 以後、この物語に彼も関わってきますのでお楽しみに。









 導入部の第一部でこの長さかようっ!!
 これで多分四分の一くらい。いや五分の一かも。
 壮大なプロット。書きとおせるんだろうか・・・不安を抱きつつ。
 年の瀬で16話(第四部)途中です。
 このまま書きとおすと七部くらいになる予定です。