第五話 誓約(うけい)
一、
『待っておったぞっ!乱馬っ!!』
老婆の声が乱馬を咎めた。
「だ、誰だっ!」
乱馬は歩みを止めて辺りの気配を伺った。
剣を右手にぐっと構え、いつでも切りつけられる状態にして。
と目の前をふわっと老婆の姿が浮かび上がった。蒼白く光りながらすっと木立の上に立っていた。
「てめえかっ!俺をここへ誘い込みやがったのはっ!」
乱馬はきっと睨み付けた。
「ふふふ。威勢の良いものよのう。」
妖しげな光を解き放ちながら老婆が見下ろして言った。
「てめえ、九能氏の回し者かっ!」
「いかにも、そのような者じゃ。ここで殺すには惜しい男じゃなあ…。どうじゃ?茜郎女は諦めて、ワシの孫娘と縁を結んでみぬか?悪いようにはせぬぞ。おまえのような生きの良い血を我が一族に迎え入れるのもまた一興なのでな。」
老婆はにっと笑って乱馬へ吐き出した。
「断るっ!俺は茜郎女しか興味がねえんだっ!」
「ほお、この婆(ばあ)の申し入れを受けぬか…。ふふ、それも良かろう。ならば、覚悟は良いな…。」
老婆はぞわっと髪の毛を逆立てると、持っていた杖を翳した。
乱馬はぎゅっと剣を握って中段に構えた。
「行くぞっ!」
老婆はすっと持っていた杖を天へと翳した。
と、いきなり雷鳴が辺りに轟いた。
ぴかっと激しい光と共に、雷光が辺りへと飛び散った。
それと同時に、辺りの草木に火が点いた。ボボボボッと音がして赤い火が燃え始めた。
『ここで焼け死ぬが良いっ!ここがおまえの墓場となるのだ。…丁度良いではないか。古代のこの地の王と共に、塵と化せ。ほーっほっほっほ。』
老婆の声が遠ざかった。その声が途切れると同時に、火柱が上がった。
「くっ!火責めかっ!」
乱馬は燻る煙を避けながら、辺りを探った。
燃え盛り始めた炎は草や木にゴウゴウと燃え移り、勢い良く火柱を上げていく。乱馬が火に取り囲まれるまで時間はかからなかった。
ここは前方部の真ん中辺りだろうか。両脇とも草木が生い茂る。その後ろには蟲たちがザザザと音をたてて迫り来る。蟲たちは乱馬目掛けて襲い来る。それを剣で薙ぎ払いながら血路を見出そうと乱馬は必死で辺りを伺った。
火に毒虫。襲い来る毒虫を薙ぎ倒しながら、彼は逃げ場を探した。地面に這う蟲たちもまた、火に焼かれ始めた。何とも度し難い匂いが当たり一面覆い始める。焼けた蟲の毒気と燃え盛る炎の熱気。そして、延々と上がる煙。
あたり一面異様な匂いと煙に包まれていく。
ごほごほとむせこみながら、乱馬は炎に囲まれてしまった。火は熱気を孕んで乱馬に襲い来る。ちりちりと火の粉が髪や着物に降り注いでくる。
「くそっ!このままやられちまうのかっ!」
乱馬は息苦しさを堪えつつ活路を見出そうと必死であった。
後方部の異変は対岸からもはっきりと見えた。
「あれはっ!」
斎媛と早雲もはっと息を飲み込んだ。
「まさか、墳墓に火の手とは。」
そのおぞましさにぎゅっと早雲は手を握った。
「乱馬…。」
斎媛も思わず我が子の名前を呼んだ。
燃え盛る炎は、勿論、あかねの目にもはっきりと飛び込んできた。同じ墳丘の延長線上に居る自分だ。
否が応でも煙と共に炎を目の当たりにする。
「九能の若っ!」
彼女の怒声が響き渡った。
「ふふん、始まったか…。何ご安心なさいませ。ここまで火は入らぬように、ちゃんと溝を掘らせて対策は練ってありまする…。黒い水(石油のこと)も、ここへは撒いておりませぬ上、あちら側を焼き尽くせば消えるように手筈も整えてございますれば…。」
あくまで対岸の火事だと言わんばかりに九能は軽く言い放った。
「何て事を…。あなたはご自分でなさったことがお分かりなのですか?」
あかねはきっと見返しながら言い放った。
九能のやったことは先祖の霊への冒涜にあたる。ここは彼の先祖の陵墓だ。それを焼き尽くそうとするとは、これが重大な罪とならずに何としよう。あかねはそう言わんとしたのだ。。
「何、ここは我が先祖の墳墓であれば、私のためなら先祖様もお許しくださるでしょう。」
九能の若には全く罪の意識はないようだ。むしろ薄ら笑いを浮かべながら、燃え盛る炎を見ていた。
「乱馬…。」
あかねはぎゅっと赤い瑪瑙の勾玉を胸の前で握り締めた。神に彼の無事を願わずには居られなかった。
「畜生っ!」
目の前がかすんできた。
ゴウゴウと燃え盛る炎は一向に衰える気配もなく、いやむしろ、乱馬を焼き尽くさんとその気炎を吹き上げてくる。
熱で意識も朦朧とし始める。
最早、頭もぼうっとして、立っていることもままならぬようになってきた。
限界だった。
このままこの業火に飲まれて焼き尽くされるのか…。
そう思った時だった。
「え?」
彼の立っていた足元が急にぐらついた。
ゴゴゴゴゴゴゴゴ。
軽い地鳴りが辺りに響いた。
「こ、これはっ!」
早雲も目を見張った。
「地が震(な)うっている。」
あかねが思わず玉座にしがみついた。
地震だった。
激しい揺れが地面を伝わってくる。まるで、この墓の主が怒りを表したの如く、地が震えた始めたのだった。
乱馬の足元が一番揺れたかもしれない。
立っているのもままならない揺れ方だった。
周りの業火がかすんで見えた。
いきなり足元が崩れたのだ。
それだけではない。ぐらついた拍子に、足元にぽっかりと穴が開いた。
「うわーっ!」
バランスを失ったまま、彼はその穴へとはまり込んでいった。土砂が一緒に落ちてくる。必死で岩壁へとしがみつく。思わず掴んだ木の幹が一緒に崩れ落ちた。
揺れが収まったとき、我に返った。
カビ臭い土塊の匂いがふっと鼻をつく。
「ここは…。」
目の前に開けた地下の空間。
どうやら、この墓の主の眠る玄室に続く横穴の羨道らしい。
羨道(せんどう)とは、古墳の横穴に通じる玄室への道筋だ。普通、後円部に作られるが、この墓の主の好みだったのだろうか。前方部から作られていたようだ。
暗い道筋の先から空気が流れ込んでくる。
上はまだ炎が燃え盛っているようで、バチバチと音が弾けている。乱馬は一緒に掴んで落ちてきた木を持つと、飛んできた燃える木切れを押し付け、火を灯した。松明のように持っていた生木に火がともる。煙が一緒に上がった。
「先へ行くしかねえか…。」
乱馬は意を決した。ここに居てはいずれ火に飲まれて焼け死んでしまうだろう。後へは戻れない。前に突き進むのみだ。
灯した松明を翳して、奥へと続く羨道を歩き出した。おたおたしていると、ここへ火と煙が回る。それまでに炎の下を潜り抜けなければなるまい。
中は案外広く、腰を落とさずに悠々と歩けるくらいの高さがあった。石積みも立派で、被葬者のかなりの身分の高さを感じられた。九能氏の先祖ということであったが、彼の祖先は大型墳墓が作られた時代からこの辺りを治めていたのだろう。
やがて、西から上がって来た大和政権へ権力そののもは譲渡してしまったようだが、往年の権勢振りが忍ばれた。或いは、子孫の体たらくを嘆いて乱馬をここへと導いてくれたのかもしれない。
ただひたすらに前の暗闇へ向かって歩いて行った。
二、
地震の揺れが収まってから、九能の若が勝ち誇ったようににんまりと笑った。
「これでどちらが勝ったかは、明らかですな、媛様。」
目の前を燃え盛っていた火はだんだんと緩やかになっていく。煙が棚引くように天へと上っているのがわかる。
あたり一面、燃えた草木の匂いが立ち込めてくる。バチバチとまだ炎に立ち木が悲鳴をあげるのが聞こえていた。
「あの炎の中で、奴は今頃、骨も皮も燃え尽きて煙と共に天へと上っておられるところでござりましょうな。」
そう言って九能の若は愉快そうに笑った。
あかねはただ、ぎゅっと唇を真一文字に結び、九能の問い掛けには答えなかった。あまりに卑怯で常識はずれなやり口に、答える術を失っていたのだ。
「これで暁は媛とこの私の二人で見ることになりまするな…。約束どおり、媛には私の元へ降嫁していただきまする。」
舐めるようにあかねの方を見やった。その視線の下衆な輝きにあかねは思わず虫唾が走った。
この男の腕にだけは抱かれたくない。それは生理的拒否に近かった。
(乱馬…。)
ぎゅっと握り締める勾玉。
(あの炎に焼かれてしまったの?)
誰に問いかけるでもなく、心で叫んだ。
「まだ、彼が死んだと決まったわけではありませぬ。」
あかねは心の動揺を収めるように言い放った。
「ふふ、媛は奴の死体を確認するまでは信じたくはないと言うおつもりですか…。ならば、朝日が昇った後、一緒に確かめまするかな?奴の亡骸を。」
冷徹な言葉を投げつける。
あかねはそれには答えなかった。
どこかで鴇(とき)の声が聞こえた。
この近くの邑里で飼われている鶏だろうか。
まだ暗い夜の闇を切り裂かんばかりの鶏鳴だった。
そろそろ夜明けが近いのだろう。空気もだんだんと澄んでくるのがわかる。もうすぐ東雲の空が明るくなるだろう。新しい朝が来る。
「さあ…。茜郎女。いや、我妻よ…。」
強引に伸び上がってくる腕。
「何をなさいますっ。」
あかねはそれを薙ぎ払った。
「相変わらず、きつい媛君だ。ふふ、それだけに手なずけるのも面白い。その気高さ。」
薙ぎ払われてもなお、強引に引こうと九能は手を伸ばした。
「たく…。嫌がってる女を無理やりなびかせようだなんて…。本当に腐った奴だな。」
傍で声がした。
九能の若がぎょっとしたようにそちらへと振り返る。
「乱馬っ!」
「貴様っ、生きていたのか?」
思いかげない乱馬の出現に、九能は口をあんぐりと開いたまま、彼を見詰めた。
「ああ、おかげさまでな…。おめえの先祖様に助けられちまったさ…。」
腕組みしてたっていた乱馬が静かに言い放った。
「ご先祖様に助けられただと?」
「炎が迫って来た時に襲った地の揺れのおかげで、この墓の主の元へ辿る羨道が開けたんだ。おかげで炎の下をかいくぐってここまで辿り着けたんだよ。」
乱馬は九能と真正面から対峙した。
「この試練、俺の勝ちだ。」
乱馬は言い放った。
「いや、勝つのは私だっ!」
次の瞬間、九能が飛び出していた。手に太刀を引き抜き、いきなり切り付けたのだ。
「でやーっ!」
乱馬はさっとそれを交わすと、そのまま九能の若の胸倉を引っつかんで後ろへと投げた。
どおっと鈍い音がして彼は仰向けに倒れこんだ。
「俺とは格が違うんだよ…。おめえくらいの奴は素手で十分だ。太刀を抜くまでもねえ。」
勝敗は決したのだ。この試練は乱馬の勝ちとなった。
「茜郎女…。」
真っ直ぐに見下ろす煤けた顔。
わざとその視線を乱馬から外したあかねは、くるりと背を向けた。
「良くここまで辿り着けたわね…。」
そうきつく言葉を吐き出した。
「たく…もっと可愛げのある言葉、かけられねえのか?命を賭してここまで辿り着いた男によう。」
そう言いながら肩に手を伸ばそうとして、はっと息を飲んだ。
と、伸び上がった手が止った。
細い肩がわなわなと震えているのがわかったからだ。
泣いてる…。
「茜郎女。」
思わず後ろを向いた肩をぐいっと引き寄せた。彼女の涙を確かめたかったからだ。
頬を伝う透明の雫。堰を切って流れ出したのか、そのままあかねはわあっと泣き崩れた。
「もう…来ないと思ってた…。あの火に…火に焼き尽くされたかと。」
途切れ途切れに言いながら、胸に顔を埋めた。
あかねが乱馬に全てを任せた瞬間だった。
愛しい。他の誰よりも愛しい。
彼はぎゅっと両手であかねの身体を抱きしめた。
堪えていた想いが逆流するかのように。もう離さぬと言わんばかりに抱きかかえた。
東の空を上り来る真新しい太陽の光が、離れようとしない二人を包むように射し込めて来た。
また、新しい一日が始まる。
三、
乱馬があかねを手に入れたその日、響の里では異変が起ころうとしていた。
響の一族の長、雲斎はその日、いつもと同じように狩に出ていた。乱馬が留守の間、いつもよりも倍は、獲物を獲らなければならない。鹿肉でも、雉肉でも何でも良かった。
良牙もこのところ、すっかり貫禄がついた。彼は既に意中の人を手に入れ、新しい命を吹き込んでいた。かがひの折に見初めたこれまた初恋の女性と結ばれたのだ。互いに一目ぼれだったらしく、また、部落も近かったことからとんとん拍子に話が進んだ。
そろそろ新しい住処を建てて彼女と共に暮らしてもよいのではないかとまで話が進んでいた。良牙の父親の雲牙は、彼が妻問いしてからは、すこぶる上機嫌だった。少しでも早く孫を、それも男の孫を望みたい。そう思っていたからだ。
何だかんだと言っても、同族内の序列は、重く雲斎の弟雲牙にものしかかってきている。今の族長の次のナンバーツーは自分だとしても、良牙に必ずしも族長の順が回ってくるとはいえなかったからだ。それは兄の息子、乱馬が居たからだ。たとえ乱馬が養子でも、彼に一族の相続権があることは否めない。彼の父でありこの邑里の長である雲斎の息子である限り、彼にも長の権利が回ってくる。
いずれ族長の座を巡って息子の良牙と張り合うことになるだろう。己と兄、雲斎もそうだったからだ。いつも競い合うように日々の生活に励んでいた。だが、一族の相続の掟により、彼らの父の死後、族長は兄の雲斎へと回されていった。
何故か無性に悔しかった。それほど族長と言う地位に固執したかったわけではないが、何より、異母兄に年が少しだけ上だという理由だけで跡目を持っていかれたのが悔しくてならなかった。年が近い兄弟なら、その思いはひとしお強いだろう。
この上は、一族の血を受けていない息子、乱馬へ相続権がうつることだけは阻止したかった。表面上はともかく、腹の底では、乱馬のことを快くは思っていなかったのだ。
乱馬の生い立ちも気に食わなかった。どうやら大和朝廷の高貴な身分の落とし子らしい。それだけで兄はありがたがって彼を懸命に育て上げた。
良牙も優秀な息子だったが、それ以上の器を持つ乱馬が憎いほど気に食わなかったのである。
良牙の生みの母、己の正妻にも良牙に族長の順位が渡るようにせっつかれた。
『この響の血を受けていない息子になど族長の座を渡すはご先祖様に申し訳立ちませぬ。』と。
同じ年に生まれた乱馬と良牙。
良牙に一族の長を渡すためには、兄より自分が一日以上長生きし、そして良牙が乱馬より早く嫡男を儲けること。それにかかっていたのだ。それさえこなせば、乱馬に順位は回りにくくなる。
親の欲は闇を孕む。
良牙の父、雲牙もこの日は兄の雲斎と一緒に狩に出ていた。
近くの森で獲物を狙う。
と、雲牙は途中、良牙や雲斎の一行とはぐれてしまった。ポツンと一人、深遠な森の中。
「ここはどこだ?」
辺り一面、もやがかっていた。
ふんと香る黴臭い匂い。じめじめした湿地へと足を踏み入れてしまったようだった。
まだ昼間だというのにぼんやりとあたりは霞んで来る。
「早く、この湿地帯を抜けなければ…。」
焦りはますます大きな焦りを産む。雲牙はすっかり動転していた。
と、バサバサと大きな鳥が飛び立つ音を聞いた。
「ひっ!」
案外臆病なこの男は、乗っていた馬の背へと顔を埋めた。鳥が飛び立ってしまったあと、そっと顔を上げる。
『雲牙よ…。』
木立の奥から妖しげな老婆の声が響いてきた。
「だ、誰だっ?」
雲牙は持っていた弓矢を構えた。
『響雲牙よ…。私はこの森の神だ。』
女の声は言った。
「この森の神だって?」
持っていた弓矢を下ろすと声のする方向に向かって言葉を継いだ。
『そうだ…。この森の土地神、葦媛(よしひめ)じゃ。』
「そ、その土地神様が私に何用があるのだ?」
雲牙は怪訝に言葉を投げた。
『おまえの強い思いがおまえをここへ導いたのだ…。』
「強い思い?」
雲牙は声を仰いだ。
『ふふふ…。私は何でも知っておるぞ。おまえの望みをな…。』
老婆の声は不気味に響き渡る。
辺りを探ったが、人間の姿はどこにも見えない。
「私の望みですと?」
『そうじゃ。おまえは兄の雲斎から一族の長の身分を引き継ぎたいのであろう?…そして、可愛い息子の良牙へとその地位を引き継がせたいと…。』
「な、何故それを知っておられるっ!」
雲牙は驚いた。
『わたしはこの森の神。知らぬことはない。…おまえが乱馬を快く思っておらぬことも知っておるぞ。奴が妻問いをしたこともな。』
雲牙の顔は蒼白になった。不気味さにすぐにでもここから立ち去りたい、そう思ったのだ。
『ふふふ…。恐れることは無いぞ。おまえの願いをかなえるために私はここに降臨したのじゃからな。』
「願い事?かなえる?」
『ああそうじゃ。おまえの望みは唯一つ。一族の長たる地位を自分の血族に伝えていくことじゃろう?その願い、かなえてやろう。』
「ほ、本当にございますか?」
『ワシは嘘は申さぬ。これからワシの言うとおりにすれば、願いはかなう。まず、これからワシが与える物を、響雲斎の食事に混ぜるが良い。俄かに病が起こって奴は命を落とす。さすれば、まず、一族の実権はおまえに。』
ごくんと雲牙は唾を飲み込んだ。これは毒殺ではないか。そう思ったのだ。
『それで終わりではないぞ。ここからが肝心なことだ。良く訊いておけっ!』
妖しげな声は迫り来るように雲牙へと語りだした。恐るべき陰謀を。
最初は半信半疑で聞いていた雲牙も、だんだんと顔つきが変わり始めた。
『良いか、今言ったことを即座に実行するのだ。さすれば、確実におまえとおまえの一族に響の邑里は伝えてゆける。』
「でも、葦媛命様、そのようなことは…。
『私が信用できぬというのか?』
荒々しい声が響く。
「い、いいえ…。信用できぬなどと、そのようなことは…。」
『ならば実行せよ。既に貴様は私の御言葉を聞いてしまったのじゃ。今更、できぬと怖気づいたのであれば…。代わりに貴様を成敗してくれようぞ…。』
バチバチバチッと音が弾けた。
「ひいい…。滅相もござりませぬううっ!」
雲牙は馬から飛び降りて平伏した。
『ならば、私の言ったとおりに実現せよ。勿論、このことに関しては他言は無用じゃっ!もし、その約が守れぬときは…。』
再びバチッと音がして、空から光が輝いた。轟き渡る雷鳴。
「ひっ!」
再びその場に倒れ伏す雲牙。
木が焦げた匂いがする。そっと顔を上げて仰天した。自分の目の前の木が黒焦げに焼け爛れていたからだ。瞬時に燃えたのか、ぶすぶすと燻っている。
『おまえの運命もこうなるものと肝に銘じよ。よいな、これを雲斎の食事に混ぜて食べさせるのだぞ…。』
と、上空からトンっと布切れに包まれた木の根っこのようなものが投げ捨てられた。
「わ、わかりました。仰せのままに…葦媛命様。」
雲牙はぶるぶる震えながら、落ちてきた布袋を伏し頂いた。
「オババ様は悪戯が過ぎるあるね。」
若い女性の声がした。
配下を見下ろせば、布切れを手に、おたおたと雲牙が帰っていくのが見えた。
「珊璞か。いつ来たんだい?」
婆さんがにっとふっと厳しい瞳を緩めて振り返った。九能が雇った、唐国の道士、可崘だった。
「今朝着いたばかりよ。こっちへ来る船に忍んでここまで来たね。」
髪の毛を後ろになびかせながら女が笑った。
彼女の名は珊璞。可崘の孫娘だった。
皺だらけの可崘とは違って、背も高くすらっとしている。可愛らしい顔ではあったが、唐風の装束がどことなく妖艶さをかもし出していた。
彼女もまた、婆様の可崘と同じく、道士であり、呪術を使いこなせる。
「でも、いつ見ても、オババ様は鮮やかね。すっかりあの男、オババ様がこの森の神、葦媛命様だと信じたようだよ。」
「ふふん、あのくらい驚かすので丁度良いのさ。」
「で、良いのか?トリカブトなど…。猛毒あるね。」
「良いんじゃよ。そのくらい毒性がきついのでぴったりだ。ふふふ。」
「あの男をそそのかして、響の邑を手に入れるつもりか?」
「まあ、そんなところだねえ。」
「こんな倭国の小さな邑に…。物好きなことある。でも…。」
珊璞は婆さんをちらっと見下ろした。
「オババ様らしくない。今朝方、敵を殺し損ねたそうじゃないか。さっき九能の里に居た仲間が言っていたぞ。」
暗に乱馬を仕留め損ねたことを言ったようだ。
「ああ、やり損ねたのは確かじゃな。じゃが、簡単に殺ってしまうのも惜しい男じゃったから、深追いはしなかっただけじゃ。いや、実は試してみたかったのよ。あの場に置いて、見事逃げ遂せるか否かをな。ふふふ。」
可崘はにんまり笑った。
「殺してしまうに惜しい男?」
珊璞は不思議そうに婆さんを見た。
「なあ、珊璞よ。そろそろ身を固めぬか?」
可崘は唐突に言葉を投げた。
「身を固める?この私がか?オババ様。」
いきなり話を飛ばされて彼女は丸い目を更にまん丸に見開いた。
「ああ、おまえに丁度良い男を見つけたのでな。」
可崘はにっと笑って見せた。
「オババ様の目にかなった男ねえ…。まさか、今朝仕留め損ねた男などと言うことは…。」
「そうじゃ。そやつのことじゃ。ふふふ。良い男じゃぞ。」
珊璞は呆れたと言わんばかりに祖母を見詰め返した。
「まあ、嫌だというのなら無理にはすすめぬが…おまえもそろそろ適齢期を迎えるでな。優秀な子孫を次の世代へ伝えると言う大切な役目を果たさねばならぬ時が近づいているのは確かなことだろ?」
「確かに…。子どもを産める体にはなってるある。」
「その男、悪運も良い奴じゃったでな。あの場面で運も味方しよったからな。それ以上手出しをしなかっただけじゃ。」
「なるほど…。オババ様に狙われて命を永らえるなどとは不思議に思ったある。オババ様が逃してみたくなった男か…。」
珊璞は腕組みして暫く考えると、意を決して言った。
「わかった。オババ様が薦めるのならその男、本当に私と契るだけの価値があるかどうか試してみるね。」
「試すじゃと?」
「当然ね。その男と交わるのは私。全てを投げ出してその男に捧げるのなら、自分の意に沿わない男とは結ばれたくない。だから、その男と勝負してみるね。勝負かけてみれば、男の技量、力、性格、皆わかる。その上でその男と結ぶかどうか決めるある。」
「ほっほっほ。おまえらしい決断だね。良かろう…。その男と勝負してみよ。そうさねえ、その男の命を狙えば良い。」
可崘の目が妖しく光った。
「命狙ってよいあるか?」
珊璞の顔が輝いた。
「ああ、おまえにやられるようならそれだけの男ということだ。結ばれる気がないのなら、ゆくゆく我が唐の国に仇名す男になるに違いない。殺してしまってもかまわぬ。」
「命狙って試す。…面白い。」
珊璞はふふんと鼻先で笑った。
「どうじゃ?受けるか?」
「良いね。受けるある。…で、その男の名前は?」
「響の里の乱馬だ。」
「乱馬…。」
「近いうちに奴は大和へ向かうじゃろう。そこで存分に狙えば良い。先に行って待っておれ。」
「分かった。大和へ先に向かうある。…オババ様はどうする?」
「わしか?わしはさっきの男の守備を確かめてから、大和に向かおう。」
「わかった…。」
「では、またな、珊璞。」
すうっと影が消えていく。霧が一段と濃くなったようだ。
「さてと…。あとは、あの男の行動を見張っておればよかろう。もし、薬を使うことを躊躇ったときは、私が代わりにやらねばならぬからのう…。ほほほほ。それにしても、珊璞め。あの男を試すとな…。あの子に狙われて、さて、あの男生き延びられるかのう。これから面白いことになりそうじゃわい。」
バサバサと鳥の羽ばたきと共に、可崘は空へと消えた。
四、
その日のうちに響の里元へ乱馬のことが報じられた。
早馬を飛ばせば、ほんの二時間もあれば着ける。天道氏の本拠からここは筑波嶺を囲んでそのくらいの距離であった。
「ほお…。乱馬め、やりよったか。」
知らせを受けて響雲斎はほっと溜息を吐いた。
「これであいつも、自分の血を増やすことができるというもの。天道氏と言えば都の豪族。相手に取って何ら不足もなかろう…。」
これでひと安泰だ。そう思った。
雲斎は幾人かの女性を妾として持ったが、終ぞ、男子には恵まれなかった。子種が全くなかったわけではあるまいが、生まれる端から流行り病や事故で男の子どもたちは死んでいった。また大きく成長できたのは女子ばかりという皮肉。
この時代の家長相続はやはり女子ではなく男子だったために随分妾たちにも無理を強いてしまった。そのため、殆どの妾は出産後のトラブルなどで早くに身罷ってしまっていた。現在は男やもめ。
乱馬と出合ったのは、丁度男子を亡くしたての頃だった。都から来たという武人が連れてきたのだ。この子をこの氏の子として養育してくれと。
阿倍比羅夫(あべのひらふ)という大和の将軍だった。彼は大和朝廷の命を受け、東国を平定するべく大軍を動かしてやって来たのだ。その折に、都から男子を連れて来ていた。まだ生まれたばかりと思われる赤子だった。彼の元に侍っていた女性が乳をやって育てていたようだった。さる高貴な人の血を受けているという赤子は訳あって母親と引き裂かれ、遠くこの東国へまで連れて来られたと彼は説明していた。途中死におけばそのままだということでここまで連れて来たとその男は笑った。
『そもそも、この子を棄ててこいと言い出した御方も、東国まで生きながらえればそのまま生かせととんでもないことを言われたくらいでございましてなあ。この赤子、なかなかの強運なようで、まだ生きておるのじゃ。だから、この子を育ててやろうと思いましてな…。里親を探しておりました。』
何もこんな辺境の地までと思ったが、確かに、ここまで生きてきたのは強運だと思った。俄かに興味が沸いた雲斎に比羅夫はその赤子を託したのだ。
理由は問わぬ約束で引き取った。
このような子は、普通「奴婢(ぬひ)」として低い身分で捨て置かれるが、たまたま赤子を亡くしたての妾が止らぬ乳の慰めに引き取って育てると言い張った。なさぬ仲の子を引き取って育てること事態は珍しくはなかったが、余所者。だが、彼の妾の銀英は気丈な女性で、彼を我が子として可愛がり育て上げた。
名前は乱馬と亡くした息子の名をそのまま妻が名付けた。
己の血を受けた男の子は育つことがなかったので、雲斎もだんだんと乱馬に情が移った。乱馬も己の生い立ちなど、耳に入れられることなく、すくすく成長した。
銀英は四年前、乱馬の成年式を見届けると、その年のうちに他界した。風邪をこじらせたことによる病死だった。気丈な乱馬もこの母親の死には打ちひしがれて、三日三晩泣き明かした。
彼の武人としての素質は驚くべきほどだった。物怖じせぬ言動。乗馬、剣、やり、弓矢。どれをとっても彼の右に出る者は居なかった。雲牙の自慢の息子、良牙ですら足元にも及ばない抜群のセンスを持っていた。それは誰しもが認めるところだった。
できることならば、この邑里の女と婚姻を結ばせたかった。
彼自身がこの邑里の者の血を受けていないなら、せめて、この邑里の女と契りを結ばせ、その縁を繋ぎたいと考えていたからだ。彼がこの邑里の者と結ばれれば、誰も血が繋がらなくても彼が長になることを拒みはしないだろう。
成年式の直後、養母の銀英が死んだので、喪が明けるまでは結婚話はできなかったが、喪が明けてのちは、縁談が殺到した。
邑の娘の誰しもが、彼の妻の座を射止めたがった。精悍な体、並々ならぬ力。そのどれを取っても彼は魅力溢れる青年だったからである。
だが、当人は親の気持ちなど露知らず、いくら縁談をすすめても、決して首を縦には振らなかった。
『俺は、自分の妻は自分で選びます。好きでもない女と沿うつもりはありません。』
妾をたくさん囲っていた父親への反発が芽生えたのかもしれない。
最初は邑里の者にこだわった養父の雲斎も、最近ではとにかく、誰でも良いから早く一人目の妻を向かえ、彼の血族が欲しいと思っていた。まず一人目は目をつぶって他の里の女でも迎え、その妻が子どもを身篭った頃を見計らって、今度はこの邑里の女を宛がおう。そう思いなおしたのである。
だからこそ、筑波嶺で開かれたかがひに出ることを強いた。「かがひ」はこの邑里以外の女と知り合うには、一番手っ取り早い集団見合い的なイベントだったからである。
良牙もかがひに参加すると知った時、是が非でも参加させると雲斎は強く思っていた。弟の嫡子、良牙にだけは嫁を貰うことに関して、遅れをとって欲しくなかった。
首尾よく、彼はそこで天道氏という、これまた名一族の娘を見初めた。正妻として扱っても、どこへも引けを取らない良縁だと思った。
良牙、もついこの前結婚した。相手はかがひで出会った雲竜の邑の長の娘だった。
そのうち子どもが生まれるだろう。噂では、彼の妻、明郎女(あかりのいらつめ)が身篭ったとも囁かれている。それならば尚更、婚儀を急ぎたかった。
そして、今日、正式に天道氏から夫となることを認められた。天道氏といえば、都の豪族。箔をつける意味でも、正妻をその氏族から娶ることは優位に働くことだけは間違いがなかった。
ほっと吐息が漏れた。
これで乱馬は新たな一歩を踏み出すことになる。
男は所帯を持ってこそ一人前だ。そんな認識は時代を遡った古代も現代も同じだろう。
都の天上人の落とし子を預かった銀英、そして彼女の死後、彼を一人面倒見てきた己。肩の荷が下りたような気がした。
「巣立ちの夜か…。」
雲斎は夕焼けを眺めながらかすかに微笑んだ。
「あやつが、まだ布ぐるみに包まれてここへ来たのが、つい昨日のことのように思えるのう…。銀英よ。」
暮れ行く秋の空のに、亡き妻へと語りかけた。
「兄者。」
「おお、雲牙か。」
振り返ると雲牙が杯を持って立っていた。
「兄者のところの乱馬もいよいよ婚儀が整ったそうではないか。」
そう言いながら横へ腰掛ける。
「ああ、やっとな…。やっと、あいつもその気になりよったわ。」
雲斎はふううっと深い溜息を吐き出した。
「思えばあの子がここへ預けられたのが昨日のことのようだね…。銀英が育てると聞いた時は随分驚いたものだが…。」
「そうだな。あれが生きていたら、きっと躍り上がるくらいに喜んだろうよ…。」
「姉さんは本当の息子のように可愛がっていたからなあ…。」
雲斎の嫁、銀英は雲牙の同母妹だった。雲斎から見れば異母妹になる。
この時代は異母兄妹なら結婚が認められていた。
「どうだい?兄者。今夜はしみじみと飲まないかい?たまには兄者と酒を酌み交わそうと思って、ほら、魚の塩付けなんかも持ち出してきた。」
「こらこら…。それはこの冬の食物用に、この里の前女たちが付けていたものではないのか?」
「細かいことは言いっこなしだよ。ほら、今夜は祝いの夜だろう?いずれ、乱馬は娶った妻を連れてここへ戻ってくる。その折には盛大に祝ってやるとして…今宵は兄者と俺、それから妹の銀英の霊の三人で静かに祝おうではないか。」
そう言ってドンと酒の入った入れ物を置いた。
「ふふふ。おまえにしてはなかなか、気が利いたことを言うな。」
「さあ、今宵は、昔に立ち戻って飲み明かそうよ。兄者。」
雲斎はまさか、雲牙に下心があって、このような誘いをしかけてきているとは思えなかった。
「ほら乾杯だ。」
雲牙は恐ろしい下心を隠して、巧みに雲斎に誘いかけた。
「そうだな…。この響の邑里の新しい息吹に乾杯だな。」
なみなみと注がれた杯。赤い夕焼けが酒に映えてゆらゆらと揺れていた。
二人は杯を高く上げると、くいっと一気に一杯目を飲み干した。
「おっと、いけない。兄者、ちょっと待っててくれよ。焦ってまだ良く漬かっていない塩付けを持ってきてしまったようだ…。ほらまだ魚のウロコが生っぽい。ちょっと行って変えてくるから。兄者は先にちびちびやっててくれ。直ぐ戻るから。」
そう言うと雲牙はさっと立ち上がった。
「そうか…。すまぬのう。ワシはここで待っておるから。」
走り去る雲牙を見送った。
(さらばだ…兄者。)
雲牙は心で念じながらその場をゆっくりと立ち去った。
そう、彼は肴を取りにいくふりをして、毒を盛った彼の傍から離れたのである。
「うっ!」
雲斎の手が突然止った。カランと持っていた杯が転がる。
そのまま苦しそうに喉をかきむしりながら、雲斎はドンっと傍らの木に身体を投げ出した。
その目の前には筑波嶺が夕陽に染め上げながらそびえ立っていた。
狩りを終えた良牙が傍を通りかかった。
夕暮れになって、獲物をぶら下げて邑里へと帰ってきたのだ。今日の獲物は鴨と野兎。それでも充分に腹はこなせる。
弓矢を背に負い、ウサギの耳と鳥の足を藁紐で結び、それをしっかりと手に持って勇み足で帰って来た。今日は珍しく隣邑の明郎女の元へは立ち寄らずに真っ直ぐこちらへ帰ってきたのだ。彼も今日、乱馬が適妻の試練に出かけたことをしっていて、気にかかっていたのだ。もし、彼が晴れてあかねを手に入れたのなら、真っ先に祝いに駆けつけてやろうと昼からずっと狩りをして、今戻ったのである。
邑外れの景色の良いところに腰掛けて佇む、雲斎の姿が見えた。酒でも飲んでいるのかと気にせず通り過ぎようとした。
「うう…。ううう…。」
「何だ?」
様子がおかしいことに気がついた。悶えるような声が聞こえてくる。
はっとして雲斎に駆け寄った。
「血…。」
そう、その場に点々と赤い血が吐き出された痕がある。
「雲斎様っ!もうし、雲斎様っ!」
思わず声を張り上げて彼に呼びかけた。
「ううう…。」
顔面は蒼白になり、口から血を吐き出した痕がある。
このままではやばいっ。
そう直感した彼は、遠くに見えた村の娘に大声で怒鳴った。
「誰かっ!雲斎様が大変じゃっ!術者を呼んでくれっ!早くっ!一刻を争うっ!!」
苦しげにのたうつ雲斎を抱きかかえると、良牙は脈を取った。脈は弱い。
「雲斎様っ!」
彼の腰元から持っていた杯がカランと音をたてて転げ落ちた。辺りにぶちまけられる酒。
「まさか…。毒か。」
はっとして良牙は雲斎を覗き込んだ。
「乱馬…。乱馬をここへ…。乱馬を…。」
苦しい息の下から息子を呼ぶ声。
「乱馬だなっ!わかった。」
良牙は駆けつけてきた邑里の人々に雲斎を任せると、厩舎へ走り、愛馬若影に飛び乗った。
「行けっ!若影っ!一刻を争うのだ。」
いななきがと共に若影が走り始めた。
夕陽が山端へと静かに残照を照りつける晩秋の夕暮れの出来事だった。
第六話 旅立ち へつづく
次回、第一部の最終話になります。
今、第四部を仕込み始めていますが、全然終わりが見えません・・・。大河ドラマのようにになってきています。どうしよう(汗
(C)2003 Ichinose Keiko