第四話  適妻(むかひめ)





「そは誠でございますか、早雲殿。」


 斎媛は思わず声を荒げた。


「何故に九能氏の若と、響の里の者が互いに茜郎女を賭けて争われまする?何故、そのような無謀なことを!」


 だんだんと語気が荒くなるのがわかる。


「いや、成り行きじゃったのだよ。茜郎女が言い出したことなのでな。それに後から来た九能の若が間に挟まりこんだのじゃ。これまた己の意思でな。」


 斎媛は絶句した。


 「適妻の試練」。当に萎えた天道氏の嫁取りの慣習であった。廃れてかなりの年数になろう。


「このまま、無事に済むとは到底思えませぬ。」
 斎媛はいつもになく激しい口調で早雲を攻め立てた。
「茜郎女が自ら選んだ、妻問いの儀じゃ。仕方があるまい。どんなに危険が待ちうけようとも、媛へ求愛した男は拒むことは出来ぬだろう。」
 早雲も困惑しきっているようだった。
「あの子は強い娘。…さすがに武人の家に生まれついた者。その辺の男など、細腕一本で倒してしまいかねないほどに強い…。その娘が言い出したこと。見守る他に術などあろうはずがないではありませぬか。斎媛様…。」


「それに…。響の若者とて、九能氏の若の策略に乗って、身を滅ぼすようならば、これからの世の中を渡ってはいけぬだろうて…。」


 付け加えるように小さく呟いた。


 確かに早雲の言っているとおりだ。
 どんない汚い手を使って、妨害を仕掛けてくるかわからないが、ここであっさりと負けてしまうくらいなら、茜郎女を手中に収めるどころか、この激動の時代を生き抜けはしないだろう。
 早雲は一目見たときに、乱馬のある程度の器は見抜いていた。それくらいの目は持ち合わせているつもりだ。彼は強い。強敵を呼び寄せる強さがある。
 その青年の澄んだ瞳に、弟娘を託せるかどうか、早雲なりに興味を引き始めていた。








 早雲が去った後、斎媛は一人占いを始めた。
 澄み渡る秋の空。雲ひとつ無い高さ。
 

 だが、何度卦を占っても、結果は出ない。いや、見えないのだ。
 我が子かもしれないと思うだけで千路に心が乱れるからだろうか。集中できないのだ。
 どんな方法の占いを持ってしても、結果は同じだった。
 不吉な卦が出るところまでは占えるが、その先がどうなるのか。


「やっぱり八十神は何も指し示してはくれない。何故…。あの響の里の青年は、本当に私の息子なのかしら。」


 斎媛とて占えないことがある。
 どんなに長けた霊力の持ち主でも、自分の卦を占うのは不可能に近い。己の運命だけはモヤがかかったように見えないのだ。
 あの青年が自分の血を分けた息子だとすると、占いがはっきり見えないのもわかるような気がした。子供ということは己が分身と同じようなもの。血が繋がっている限り、やはり、卜占はできないのかもしれない。
 ただ、どんな占いにも出てくる、黒い影。不吉な卦。それが何かはっきりはしないのだが、九能の若は何かを企んでいる。そして、それによって、息子や茜郎女の運命は弄ばれる。そんな気がしてならないのだった。
 はっきりと占えれば、対処の仕方はあるのかもしれないが、それ以上知ることが出来ない以上、対策の練りようが無かった。
 己の無力さを、斎媛は思い知らされつつあった。


 試行錯誤の末、彼女はとある行動に出たのだった。


 それは適妻の試練を数日後に控えたある日のことだった。


 その日は朝から冷たい雨が降りしきっていた。
 野山はすっかり色付き、紅葉が雨に濡れそぼちながら、揺れている。銀杏は葉を天にいっぱい広げ、風が舞い上がるたびに一つ、また一つ、地面を黄色に染めながら落ちていく。
 天道氏の御使いが響の里を尋ねた。
 適妻の試練の詳細を告げるという名目でだ。
 一行は数名の使用人と靡郎女。そう、あかねの同母姉のなびきであった。
 美しき紅色の鮮やかな衣を身にまとったなびきは、それはそれで美しく見えた。
 響の邑の者たちが一斉にざわめく。女たちは都仕込みの軽やかな立ち居振る舞いと、どこと無く漂う洗練された気品に気圧されてしまっている。


「なあ、もしかして、あの女がおまえの見初めた女なのか?」
 良牙がまざまざと乱馬を見返したほどだ。
「いや、違う…。あれはその娘の姉だ。俺の見初めた女はもっと美しい。」 
 乱馬は素っ気無く答えた。
 靡郎女とて、美姫であったが、乱馬には茜郎女の方が数倍も美しく思えた。
 大広間に通されたなびきは、しずしずと挨拶をし、早雲から預かってきた書状をこの邑の長、乱馬の養父、響雲斎に差し出した。
 それを黙って読みながら、雲斎は言った。
「あい分かった。この書状の儀、息子乱馬に伝えおこう。息子が見事、適妻の試練に耐え抜いた暁には、この里へ天道殿の娘御を嫁として丁重に迎えよう。」


「これで用の一つは終わりましたわ。もう一つ、お願いがあります。」
 なびきは静かに雲斎に語りかけた。
「お願いとな?それは何事じゃ?」
 雲斎は怪訝な顔をしてなびきを見返した。
「人払いをして、乱馬様と話をさせてくださいませ。」
「人払いとな?」
 ますますもって怪訝な顔になる。
「勿論、雲斎さまもご同席でよろしいです。ただ、彼にことずかってきたものがあるだけでございますれば。」


 なびきの申し出により、乱馬は父の袂へ呼ばれた。他の氏族の者たちは遠くへと遠ざけられ、部屋にはなびきと雲斎、そして乱馬の三人だけである。


「これを乱馬様に。」
 すっと差し出されたのはきらきらと光る古びた鏡であった。
「これは?」
 乱馬は何事かとなびきを見返した。
「今回の試練は恐らく、生死を賭した戦いになるやもしれませぬ。」
「当に覚悟は決めている。それと、この宝物とどういう関係があるのだ?」
「はい、これを我が天道氏の斎媛さまより預かってまいりました。」
 なびきはそう言って静かに乱馬を見据えた。妹を見初めた青年に興味が惹かれて、ここまでの使いを二つ返事で引き受けた。かがひの折は遠目でしか眺めていない彼と対峙し、妹が心を惹かれ始めたのがわかるような気がした。それと同時に、何故斎媛が彼に心を砕いたのか。勘の良いこの姉媛は、斎媛の心の下にある澱(よど)みを感じ取っていたのである。


(似ている…。目元や口元、身体全体から発せられる気も…。斎媛様と…。)


 なびきも斎媛に子息が居たことを何かの折に耳に挟んだことがあった。成長していれば自分たちと同じ世代になるということも、耳聡いこの娘はこそっと古い雑仕女たちの言葉として耳にしたことがあるのだ。勿論、斎媛や父君の口からは一度も聞かされたことはない。
 真っ直ぐに伸びてくる、深い灰色の瞳はなびきをじっと捕らえていた。


「この鏡は魔除けとしてお納めください。きっと、何かの役に立つでしょう。」
 なびきは物怖じすることなく、斎媛からの伝言をそのまま言い放った。
「何故、一介の妻問いの男に、このように親切にしてくださるのだ?斎媛様と言われたその方は…。」
 当然の疑問を乱馬はなびきに返した。
「斎媛様は、おそらく卜占で何かを読み解かれたのでございましょう。それ以上のことは何も私には申されませんでしたが…。斎媛さま直々一族の明日を担う御方と、あなた様を認められたのやもしれませぬ。その儀に関しては何も伝えてはくださいませんでしたので、あくまで憶測ではありますが。」


「ほお…天道氏の斎媛は、この乱馬を婿として迎えても良いという卜占を紐解かれましたのか。」
 響の長、雲斎が目をぎょろつかせてなびきを見返した。
「そこまでは何とも申せませんが…。あなた様に興味を抱かれたことだけは確かでございましょう。斎媛様のお心尽くしの品、どうかお受け取りくださいませ。」
 そう言ってなびきは頭を下げた。


「しかし…これは、どう見ても、天道氏の宝ではないのか?鏡は古来、重宝にされてきた呪具。それに、この輝き。私が持つには高価過ぎぬだろうか。」
 乱馬は明らかに困惑していた。どうしたものかわからなかったのだ。


「斎媛様は申されました。このような宝は本当に必要な人が持ってこそ光り輝けるのだと。その必要な御方は、若君以外には考えられぬと…。そして、この鏡で、茜郎女を嫁となしてくださいませ。我が一族のために。」
「しかし…。」


 躊躇し煮えきらぬ息子に雲斎は言った。


「何迷うことがあろうか。天道氏の斎媛様がわざわざおまえにお授けになろうというのだ。ありがたく頂戴したらどうなのだ?」


 結局乱馬はその宝を受け取った。
 何故、天道氏の斎媛が自分にこれを託したのか。その真意は勿論汲み取れぬままにだ。
 御鏡。
 鏡面も錆びかけていたが、絢爛豪華な模様が鮮やかに施されていた。由緒がありそうな荘厳な雰囲気を持つ高貴な鏡だった。呪器としての役割がありそうだった。斎媛が与えるに相応しい品物だった。


 乱馬に斎媛からの贈答品を渡したことで、靡郎女の用は終わったようだった。
「では、約束どおり、明晩、約束の地にてお待ちいたしております。」
 そう言葉を残して。






二、




 適妻の試練は天道氏の邸宅にほど近い小高い山にて行われることになった。
 湿地帯を縫うように広がる平らな土地。ポツンと土盛りされ、目立つ場所。
 あたり一面に草木が覆っていたが、良く見ると所々、人の手で造営された石積みが見える。
 そう、ここは人工の築山。墳丘だった。
 長く据え置かれたまま手入れすら忘れ去られた一時代前のこの辺りの豪族の御陵らしい。ある程度力を持っていた豪族の長が眠っているのだろうか。長い年月の間に、手入れする人も居なくなったのだろう。今は荒れ果てて荒涼としていた。それがかえって、何とも表現しがたい凄みのある雰囲気を漂わせていた。


「ここは…。」


 じめっとした空気が鼻をつく。一年で一番湿度も低い季節なのに、この不快感は何だろう。目の前に不気味に広がる前方後円墳。巨大な墳墓。
 夕闇迫る中、小舟に乗せられて、ひたすらにその後円部を目指す。


「ここは、我が九能氏の祖の墳墓です。もう増築されて二百年近く経っているはずですがのう…。」
 九能の若が傍らでにっと笑った。
 どうです、私の一族の立派さは、と暗に言いたげだった。


 この時代に至る二百年ほど前、日本列島の至るところに巨大な墳墓が造営された。大和政権の祖だけではなく、地方の豪族に至るまで、己の力を誇示しようと、競い合うように小高く作り上げられた墳墓。
 六四六年、大化二年。孝徳帝と葛城皇子を中心とした政権が、大化の改新後に出した「改新の詔」の中に「薄葬令」が発動されて以後、大掛かりな墳丘、墳墓の造営は禁止された。墳墓の造営を身分によって規定し、無駄な労力が墳墓造営に流出するのを規制したのである。それまで、様々に行われてきた「殉死」などの風習も禁じられたのである。
 死者の遺体を埋葬前に一定期間、柩(ひつぎ)に納めて喪屋(もや)へ安置し儀礼を行った「殯(もがり)」は、天皇(すめらみこと)と皇太子(ひつぎのみこ)だけは規制の対象から外されてはいたが、一般の豪族たちにはこのときに禁止されたのである。
 いずれにせよ、七世紀中頃には大掛かりな墳墓を造営しなくなっていた。それだけの労力を墓造りだけに使うのは勿体無いと権力者たちも気がつき始めたのであろう。


「最高の場所でしょう?適妻を行うには。」
 九能の若は目の前に広がる大きな墳墓を指差して言った。
 そのふてぶてしさがかえって不気味だった。
 あかねの傍らには姉の靡郎女が侍していた。一人であかねをこの寂れた墳墓へ立たせるのはきついと思った父の早雲が同席させたのだ。一緒に揺られながら水上の人となっていた。


 舟は前方部へ横付けされた。予め九能が草などを刈って手入れしなおした側道から小高い墳丘へと上がる。周りはすっかりと木に多い尽くされ、かえって不気味さが漂っていた。
 墳丘部に設置された仮宮に導かれた。松明が煌々と焚かれ、ここに茜郎女が在所していることを知らしめる道しるべとされた。


「茜郎女様はここにて、奴が来るか来ないかを見極められると良い。明日の太陽を、乱馬様と眺めるか、それとも私と眺めるか…。是非とも私と共にであって欲しいものですがな。」
 きらりと九能の目が光る。
 あかねは押し黙って、案内された仮宮へと身を置いた。
 中央には、そこでじっと乱馬の到達を待てと言わんばかりに玉座が置かれている。部屋には絨毯のように布が敷かれ、中にも燭が灯された。仮に設置されたとはいえ、九能氏の財源の豊かさを物語る内部だ。
 床下にはきっとこの陵墓の主の石棺が納められた石室があるのだろう。小高くなった後円部の一番高くなったところに仮宮は建てられているようだった。
 あかねは玉座に姉と共に座し、乱馬の到来を待つ。夕陽が遥か西の方角へとゆっくりと沈んで行くのが見える。その残照が仮宮の入り口から見える。
 それはいかんとも言いがたい、重苦しい夜の到来でもあった。石室ではないのに、そこは息苦しくなるような狭い空間だった。
 あかねの胸元には、乱馬から手渡された妻問いの宝の赤い勾玉が美しく光っていた。




 あかねの対する西側の方墳の袂に乱馬が立っていた。
 ここから東側にある後円部へと目指すのだ。
 彼のために一艘の舟が用意された。ここから周濠(しゅうごう)を漕ぎ抜いて、方墳の端から目的地を目指す。大きな周濠が遮るように、水をなみなみと湛え、彼の行く手を阻んでいるように見えた。
 古墳の周りを取り囲むように存在する周濠は、盛り土を造営する折に、彫り抜いた後だとも、灌漑用水のために掘り抜かれたとも、いろいろに言われている。まだ定説はない。ただ、水を湛え、古代の王の偉業を示さんばかりの雄大さに、暫し目を奪われるのも事実だった。
 暮れなずんだ夕陽の残照を受け、乱馬は静かに今か今かとその時を待つ。
 恐らく一筋縄ではいくまい。離れ小島のように盛り上がる墳丘には、どんな罠が仕掛けられているのか。闇の広がりと共に不気味さを増す辺りが、霊気を孕んでいる。
 日没と同時に始まる試練。
 やがて彼は太陽が西の端に沈んで行くのを確認すると、舟の櫓に手をかけた。ゆっくりと滑り出すように舟は漕ぎ出だされていく。




 その影を静かに見送る瞳がそこにはあった。
 複雑な面持ちで、乱馬を見送る女性。その傍らには甲冑を着けた早雲が佇んでいた。


「いよいよ始まったか…。」
「ええ、そうですわね…。」


 水面に漕ぎ出だされた小さな舟を見送りながら静かに二人は言葉を継いだ。


「斎媛様。」
 早雲は顔を水面に背けたまま語りかけた。
「あの青年に媛様の御鏡を授けられたそうですね。」
「ええ。彼に託しました。」
「何故、そこまであの青年に入れ込まれました。差し支えが無ければ私に話してはいただけぬか。」
 早雲は抑えた声で問いかけた。
 静かに下りてくる夜の帳。闇に吸い込まれるように見えなくなる小舟を見送りながら、斎媛は静かに口を開いた。
「あの青年は、おそらく、私の息子です。」
 それは唐突な宣言だった。さすがの早雲も、はっとして斎媛を覗き返したくらいであった。
「何も驚かれることではございますまい。…早雲殿。あなたも知っての通り、私は舒明帝の妃でした。父、蘇我蝦夷のはからいで、妃の一人として入内しました。もう、あれから二十年あまりの年月が過ぎ去ってしまいましたが…。」
 斎媛は一言一言噛みしめるように語り始めた。
「舒明帝へ入内して程なく、私は禁断の恋に落ちました。そのことは早雲殿もご承知でしょう。」
「ああ、聞き及んだ。確か不義の子を孕んだと…。」
「そう、私と一夜限り契ったのは漢皇子(あやのみこ)。舒明帝の目をかいくぐり、一夜だけ契りを交わした。今でも鮮明に覚えておりますわ。」
「漢皇子…。どこでどうしておられるのか。生きておられるのか、もう身罷られたのかもわからぬ悲運の御方…。」
「私がまだ長閑郎女(のどかのいらつめ)と呼ばれていた、昔のことでございますわ。」






 今から二十年ほど前のこと。
 飛鳥宮廷の奥深く、妃として入内した娘。勿論、夫となる大王(おおきみ)以外の男性と交わりと持つことなど、大罪であったことはいうまでもない。
 ただの恋慕だけならまだ良かった。
 若い想いは時に暴走をしてしまう。長閑郎女を見初めた漢皇子は、一夜だけの契りを彼女と結んでしまった。大王が長閑と交わらない限り、その密通はばれることはない。当時、舒明には他にお気に入りの妃が数多居たので、長閑の元へ通ってくることは無かった。まだ、年端もいかぬ生娘であった長閑は熟年の舒明帝には眩しすぎたのかもしれない。
 だが…。その一度きりの契りは思わぬ産物を遺してしまい、密通が明るみに晒されたのだ。長閑郎女が妊娠してしまったからである。
 相手が漢皇子とわかるまで時間もかからなかった。
 漢皇子。彼は舒明の正后であった現帝の「斉明女帝」の息子であった。実は斉明は舒明に降嫁する前、前夫が居た。まだ結婚に対しても自由な時代、用明天皇の孫にあたる高向王(たかむくのおおきみ)と結んで生んだ男児が居た。それが漢皇子であった。記紀の記録には、斉明女帝の即位の件(くだり)に名前だけが出ている皇子だ。舒明帝の息子ではないのに「皇子」を賜ったのには訳がある。父は天皇位ではないのに「皇子姓」で記録されたのは、斉明女帝が天皇として立ったからだろう。いや、それより、彼の祖父が聖徳太子の父でもあった用明帝ということにも気が回されたのかもしれない。
 高向王は天皇家の末端に名前が連なっている。彼の血も、用命帝から受け継がれた大王のものが混ざっている。それは事実だったからだ。
 皇子の称号を賜っていたとしても、舒明帝とは繋がりは無い。だが、母親は大王の正后。
 漢皇子宮廷の中でも何事にも縛られない奔放な生き方をしていたのも想像に難くないだろう。
 だからこそ、本来は斬首も在り得た不義密通が許されたようだ。舒明帝が正妻、宝皇女(斉明女帝)に気を遣ったのだとも言われている。


「私はまだ天道家の家督を継いではおらぬ折のことだったから、詳しい事情は知らぬにいたが…。斎媛様が我が父、青雲に伴われて来たことは今でも良く覚えております。」
 早雲は瞬き始めた星を仰ぎ、言葉をかけた。
 まだ長閑郎女も十代と若く、瑞々しい姿だった。だが、どことなく侘しげに見えたのは、生まれたばかりの我が子と引き裂かれた後だったからだ。家中の者たちは口さがなく、彼女について噂として話していたが、早雲は無関心を装った。
 早雲は漢皇子と少年時代を共に過ごしたことがある。いわゆる幼馴染みであったが、まさか漢皇子が大王の妃を孕ませたことなど、彼女が来るまでは知る由もなかったのだ。ただ、漢皇子が長閑が天道氏へ来る数ヶ月前、蟄居すると言って、どこかへ行ってしまったまでは知っている。どこへ何しに行くのか、友人として聞き及んだが、彼は何も答えなかった。
 以来消息は途絶えた。
 ただ、漢皇子が姿をくらませる少し前、早雲を相手に、しみじみと言ったことがある。
『何故人間には男と女の二種類が居るのだろうか。』と。
 また彼はこうも言っていた。
『生涯に交わる女は一人で良い。己の子供を身篭ってくれるのはその女ただ一人で良い。』
 と。
 普段は軽口ばかり叩いていた漢皇子がその時ばかりは真剣な目を差し向けたのを、今でも鮮やかに覚えている。瞳は遠くを見ていた。きっと、愛した女性を想いながら耐えていたのだろう。
 早雲は既に結婚し一女を儲けていた。茜郎女の一番上の姉、霞郎女(かすみのいらつめ)だ。
 何かにつけ、漢皇子のその時の真摯な言葉を思い起こし、彼もまた、生涯を共にする女は一人と決めてしまった節もある。
 当時は身分が高い男性は、当然のように女性を何人も妻に迎えていた。また、女性も、複数の男と交わりを持つことが珍しいわけではなかった。
 その中で「生涯一人の妻」を貫くことは容易いようで実際は難しかった。
 早雲の父、青雲ですら、早世した茜郎女たちの母以外に、彼が妻を娶ろうとしなかったのを不服に思っていたらしい。
 一族の顔に泥を塗った娘など、奴婢に落とされても仕方がない。そのくらい怒りを顕にした時の権門、蘇我蝦夷から、長閑郎女を預かったのだ。
 あえて引き取ったのは、長閑郎女の容姿形、器量の良さにあったからだという。青雲がもう少し若ければ、或いは、自分の妾の一人として迎えていたのかもしれない。 
 これは随分後になって聞いたことだが、最初、青雲は、長閑郎女を早雲の妾として与えるために引き取ったのだという。何故そんなことをしたのか。早雲に男児が生まれなかったからである。引き取った女は一度の交わりで男児を身篭ったと言う。医学などない世においては、お産は全て時の運であった。青雲から見れば長閑郎女は眩いほどの男腹に見えたのだろう。
 幸か不幸か、早雲はそんな父の思惑などには乗らなかった。妾妻として長閑郎女をすすめられても「生涯一人の妻」を貫いたのだ。長閑が来ても、まだ存命だった茜たちの母でもある正妻以外に交わろうともしなかった。いや、長閑が妾となるべく迎え入れられたことすら、彼にはわかっていなかったのかもしれない。
 姫しか持たぬ早雲は、天道氏の家督は、自分の死後は異母弟の一族に引き渡しても良いとさえ、父に言い切った。青雲は頑なな早雲を説得すること敵わずに、長閑を一族に迎え入れたすぐ、世を去ってしまった。
 その後、長閑郎女はその霊力を発揮するにより、天道氏の斎媛として、一族の占いごとに深く関わってくれていたのだ。
 早雲が東国の国司へと任命された時も、占い、自ら一緒にここまでやって来たというわけだ。






「あの青年が斎媛様と漢皇子様の嫡男とは…。まさか。そのようなこと。」
 早雲は絶句してしまった。
「はっきりと確かめた訳ではありませぬが、おそらくほぼ間違いがないかと…。」
「それは母親の感といものでござりましょうや?それとも確たる証がおありとでも?」
 当然に聞き及んだ。
「勿論、母親の感、それもあります。でも、確信を持ったのは、茜郎女の持っていた紅色の勾玉です。」
「紅色の勾玉ですと?」
 とうに火は落ちて、闇が恐々と迫る中、かがり火の松明を背に受けながら、早雲は斎媛を見返した。
「ええ。私があの子を産み落とし、引き裂かれた時、形見分けに持たせた赤瑪瑙の勾玉です。あの子は茜郎女に妻問いの宝として与えたそうです…。」
「勾玉などどこにでもあるようなものではないのですか?」
「いいえ、あの勾玉は特殊なのです。我が一族に古来より伝わりし由緒ある勾玉。磨かれた玉の中に火の玉のような模様が浮かび上がるのです。それも確認できましたわ。」
「な、何と…。」
「赤瑪瑙の勾玉、それを持っていた青年…。それが何を意味するか…。運命とは時に面白い悪戯をしてくれるものですわ。まさかあの子と今生で会えるとは思っていませんでしたから…。だから、私はあの青年に漢皇子様が私にかがひで与えてくださった「妻問いの宝」を託しましたの。」
 斎媛は寂しげに答えた。
「妻問いの宝ですと?」
 早雲は驚いた目を手向けた。
 斎媛はこくんと一つ頷いた。
「あれはまだ、私が父の命を受けて舒明帝へ降嫁する前のことでした。一度だけ海石榴市(つばいち)の歌垣へ一目を忍んで出ていったことがありましたの。まだ、怖いもの知らずの年頃のことですわ。」
 遠い目を手向ける。
「そうか…。漢皇子が海石榴市の歌垣で見初めた媛とは斎媛様のことだったのですか。それは初耳でございます。」
 海石榴市とは桜井市金屋にあったと言われている日本最古の市のことだ。三輪山の南の初瀬川を中心に広がっていた土地に古来から歌垣が催されていた。
「その折に、あのお方にお逢いして、いつか私をと遣わせてくださったのがその鏡ですの。…だから、かがひで勾玉を受けた茜郎女の心が、私には手に取るようにわかりますわ。」
「かようなことがありましたのか…。」
「もう二十年以上前の話です。」


 あの鏡がなければ、不義を結ぶこともなかっただろう。漢皇子と出会わなければ、或いは何も起こり得はしなかったはずだ。


 運命にもてあそばれた孤高の母は我が息子が消えた墳丘をじっと見上げた。


「勿論、彼と向き合っても母と名乗りを上げるつもりはありませぬ。彼と私は繋がりなどない他人。…早雲様、このことは胸のうちにお納めくださいませ。何事も聞かなかったことに…。」
「わかりました。それが斎媛様のご希望であれば。…斎媛様と漢皇子の御子ならば、茜郎女の相手としても不服はございませぬ。この勝負に勝てば、きっと茜郎女と婚儀を結ばせましょう。」
「ありがとうございます。」
 斎媛は軽く頭を下げた。








三、




 ゆっくりと舟は前方部へと横付けされた。
 舵を置いて、約定どおり、前方の最前部へと降り立つ。
 ざざざと風が音をたてて吹き抜けていく。辺りは闇に包まれ、不気味なほど静まり返っていた。


「感じるぜ…。誰も居ないようで、その実、無数の殺気を…。奴ら、俺を倒したくてうずうずしているみてえだな…。」
 乱馬は誰に語るでもなく、ふっと言葉を漏らし、笑みを浮かべた。
 草や木に覆われ、道すら分からなくなっている墳丘部へ続く参道。その至る所に、ビンビンと感じる気配。息を潜めてたくさんの九能氏の手のものが、己の到来を待ち受けている。恐らく、武器を構えて、彼を一斉に襲う気だろう。


「そっちがその気なら…。存分に行くぜっ!」


 乱馬はそう叫ぶと、ざっと動いた。目指すは唯一つ、あかねが待つ後円部。


 乱馬の動きにあわせるように、草むらがザザザと音をたてて動き始めた。


「来るっ!」


 乱馬はざっと横に飛び退いた。
 バラバラと弓矢がそこここから打ち込まれる。その中をかいくぐるように乱馬は走った。


「そこだっ!」
 彼は飛んできた弓をはっしと掴むと、ビュンと投げつける。


「わああっ!」
 彼が手で投げた弓に男が射抜かれて倒れた。


「それからこっちっ!」
 乱馬は止ることなく、拾った弓矢をまた別の方向へと投げつけた。


「ぎゃあああっ!」
 こちらもまた、ザンッと音をたてて転がり倒れた。


 だが、安心する間もなく、再び飛んでくる矢じり。


「きりがねえっ!」


 飛んでくる矢を避けながら乱馬は脇に持っていた太刀を引き抜いた。
 それを持って草むらへと果敢に飛び込んでいく。振り向きざまに太刀を振り上げて、そこここへと斬りかかる。
 乱馬は襲い来る敵の大抵を切り捨てて倒しながら、前へと進む。草むらと木が行く手を遮るように邪魔をする。彼はその中を縫うように突き進んだ。
 一人、また一人と武人が倒れこんだ。血飛沫が飛び散る。
 返り血を浴びながら、乱馬はひたすら先を進む。


「この俺の刀のサビになりたかったら、いつでも掛かって来いっ!相手してやらあっ!!」


 乱馬は威勢良く啖呵を叩きつける。闇の中で見る彼は、普段の数倍強く感じられた。
 一度怖気づいてしまえば、烏合の衆はそれ以上にはなり得ない。
 雑魚が幾人集って襲い掛かっても、彼の獰猛果敢さには足元にも及ばない。乱馬の強靭な戦いぶりを見せ付けられて、九能の子飼いの使用人たちの方から雪崩ていった。敗走を始めた奴らに目もくれず、乱馬は再び、あかねの待つ後円部の方へと歩み始めた。




「あやつ、なかなか腕が立つようだね…。」
 少し小高いところから余裕で彼を眺める冷たい二つの目。
 背の低い白い長髪の老婆だった。年の頃はとっくに還暦など過ぎているだろう長老。頭には唐風の鉢巻をし、着ている物も倭人のそれとは違い、鮮やかな光沢があった。
「並みの武人の奇襲だけでは倒せる相手ではない、か。ふふふ面白いっ!相手にとって不足はないわっ!」
 皺だらけの顔をますますくちゃくちゃにして老婆は笑った。
 彼女こそ、九能の若が利用しようとした唐国人の道士、可崘(コロン)だった。
 妖しい仙術を使う。
「九能氏の舎人如きのかなう相手ではないか…。存分に楽しませて貰うかねえ…。倭国に来て、久しぶりの楽しい戦いになりそうじゃわ…。次からはこの婆が相手ぞ。小僧っ!」
 老婆はにやりと笑うと、なにやら術めいたものを唱え始める。
 妖しげな術を使う彼女は、意識を集中させ始めた。
「唐国の妖術、見せてやろうかのう…。行け、可愛い奴らよ。奴を屍にして、骨までしゃぶりつくせ。ほっほっほ。」






 辺りの闇が一瞬戦慄いたように思えた。


「何だ?この匂い…。」
 乱馬は太刀を構えながら、辺りを伺った。
 もう秋も深まり、そろそろ霜も降りようという季節。にも拘らず流れてくる湿気を含んだ生ぬるい風。そこに含まれる甘ったるい匂い。鼻にかすかに香ってくる。
 お香のような匂い。


 と、その時だった。


 ザッザッザッ…。

 草むらの向こう側から不気味な音が聞こえてくる。


 ザックザックザック…。

 次第に近づくその音。単体ではない。幾つも同じような蠢きを出して確実に近づいてくる。
 ザワザワと木陰が音をたてて揺らした。


 じっと音のする暗闇を見据えて、彼は剣を構えた。


「なっ…。」


 地面が動くように波打ちながら己のほうに近づいてくるではないか。
 いや、目を凝らしてよく見ると、土塊ではない。それは生き物だ。
 百足、ヤスデ、蛇、芋虫…。見るもおぞましい地を這う無数の蟲たちが、びっしりと地面に張り付きながらこちらへと向かってくるのが見える。それも半端な数ではない。何百、いや何千、何万もの蟲の群れが押し寄せてくる。その音だったのだ。
 まともに相手にしていては、奴らの毒にやられてしまうだろう。


「どうする…。」
 乱馬はじりじりと後ずさりしながら、剣を身構えていた。


 ざっと先頭の一匹が飛び出してきた。とそれを合図に一斉に飛び掛ってくる蟲の群れ。
 乱馬は剣を薙ぎ払った。
 ピシュッ、ピシュッと音がして、蟲たちが地面に果てる。嫌な匂いが当たり一面に漂ってくる。蟲たちが断末魔の折に出した臭気だ。
 また一群、また一群。
 蟲たちが群をなして襲い来る。


「キリがねえっ!」
 乱馬は剣を薙ぎ払い続けながら吐き出した。


 一匹の蟲が乱馬の左腕に張り付いた。
「うっ!」
 ビリビリと神経を揺さぶる痛みが走る。それを掴み落とすと、乱馬は無我夢中で剣を払い続けた。蟲たちの死体が次々に目の前に積みあがっていく。尋常な光景ではなかった。


「畜生っ!このままじゃ身が持たねえ。」
 息を切らしながら乱馬は剣を振り続ける。
 と、蟲たちの気配がない方向をただ、一箇所だけ見つけた。
 己の左前方。そちらだけ、陰湿な気配がない。
 何か蟲たちにとって嫌な気でもあるのだろうか。そう思った。
「迷ってる暇はねえかっ!」
 乱馬は駆け出した。その虚の空間へと。
 乱馬と取り巻くように近づく蟲たちの気配は、乱馬が逃げた方に向かって歩みを変える。


「ちっ!俺の気配を感じながら奴等も追ってきやがるか。」
 ザザザザと不気味な音をたてながら、逃すまじという如く、蟲たちは方向を変えた。
 乱馬は懸命に木や草を薙ぎ払いながら駆け出した。いつの間にか、草や枝で痛めたのだろう。血が滲み出て来る。その血の匂いを追ってくるかのように、蟲たちは迫り来る。
 まるでその虚の空間に追い込まれるように、乱馬は駆けた。
「気に食わねえ…。まるで俺をこっちへ追い込んでやがるような蟲たちの動き…。まさかっ!」


 そう思った時だ。
 空間がいきなりざざっと開けた。




『待っておったぞっ!乱馬っ!!』

 くぐもった老婆の声が乱馬を呼びとめた。








第五話 誓約(うけい) へつづく






<用語解説>
乱馬とあかねの年齢
 原作を無視しています。
 乱馬は二十歳前後、あかねは十五歳前後を比定して書き出しています。つまり、同じ年ではないわけで…。
 同じ年設定にすると、問題が噴出するからです。年齢を引き上げるとあかねは「オバン」になるし、かといって原作と同じ年齢にすると今度は軽い乱馬になりそうで…。となると無視しちゃえ。ということです。はい。
 はっきりと言明はしていません。昔だから一年二年のずれはあるでしょう。乱馬は二十歳、あかねは十六歳。そんな感じで読み出していただければよろしいかと思います。




漢皇子(あやのおうじ)
 宝皇女(皇極(斉明)女帝)と用明帝(聖徳太子の父)の孫(一説には用明帝の子とも)の高向王(たかむくのおおきみ)の間に生まれた男子。
 宝皇女はその後、舒明帝の正后となり、高向王とは添い遂げませんでした。その後、高向王はどうなったかは伝えられていません。
 本来、父親が天皇でなければ「皇子」の称号は与えられませんが、夫の舒明の死後、宝皇女は皇極女帝として即位したので「日本書紀」には「漢皇子」として明記されています。
 なお、「日本書紀」には名前の羅列以外の記載はなし。夭逝したとも言われていますが、詳らかではありません。
 作中での扱いは私のオリジナルな創作です。彼の顔は玄馬さんで存分にどうぞ(笑・・・その辺りは読んでいくうちにわかってくるかと思います。







★古代史関係の系図などを見ていると、ふつっと妄想が湧くことがあります。
 今回、乱馬の父、玄馬を「漢皇子」にあてはめたのも、系図から見た妄想の一つです。
 さほど重要視された人物でなかったのか、それとも、歴史書から抹殺された人物だったのか。「日本書紀」の行間や空白を妄想で読むのも楽しいです。歴史書は勝者から見た資料であることを忘れてはいけませんので(笑
 以後、玄馬さんも斉明女帝もその他の歴史的人物も作品に深くかかわっていきます。勿論、一之瀬フィルターの妄想を通じてですが。



(C)2003 Ichinose Keiko