第七部 追憶編

第三十三話 勅



一、

 季節は移ろい行く。
 梅雨の長雨もそろそろ終盤に差し掛かる筑紫の国。長雨が終われば、いよいよ孟夏がやってくる。訪れ来る夏、古代の人々にとって、梅雨明けの頃は疫病が流行る厄介な季節でもあった。
 大和飛鳥の地から西へ数百キロ離れた筑紫国。この慣れぬ土地で向かえる夏に、朝廷の人々は疲労困憊し始めていた。水が変わるということ、気候が変わるということは、想像以上に人間の身体を痛めつけるものである。ましてや、ご老体にとっては、言うに及ばず。
 宮廷の奥で、上げ膳据え膳、肉体労働を行ったこともなく、じっと世の中を見つめているだけの老女帝。彼女にとって、環境の大いなる変化は、同時に、身体の大いなる脅威となっていた。
 水疱瘡や痘瘡、麻疹といった死病こそ流行らなかったが、それでも、梅雨時の気候の変化についていけず、宮中では、そこここで咳や鼻をすする音が聞こえてくる。熱っぽい身体を持て余して、ふらふら行き来する役人や巷間の人々。
 冬場の風邪よりも、夏場の風邪の方が、或る意味、厄介かもしれない。夏風邪は容赦なく、体力のない者の身体を蝕んでゆく。
 じわじわと、宮廷内を夏風邪が支配し始めていた。
 そんな中、悲劇が起こった。
 体力が相当に弱っていたのだろうか。夏風邪をこじらせて、伊勢王が逝去したのだ。医療機関や栄養管理が発達していない古代社会。ただの風邪でも、命取りになることがあった。住み慣れぬ筑紫国の風土が合わなかったのか、伊勢王は回復することなく息を引き取ったのだという。
 恐らく風邪をこじらせて肺炎にでも罹(わずら)ったのだろう。
 
 伊勢王の死。
 その知らせは、宮中に戦慄を走らせた。
 
 朝倉宮に遷って以来、体調が思わしくない女帝に、夏風邪を近づけてはならない。
 宮中の女官が咳一つすると、その者は慌てて女帝の傍から遠ざけられる。
 食事の毒見役も、何人も据えられ厳重になった。食あたりも多くなる蒸し暑い季節。できるだけ火を通した物を食べていただくようにと、厨房も気を遣っていた。

 それでも、女帝の身体は、目に見えるように、日毎に痩せていった。それと同時に、床に臥せる時間も長くなる。

 女帝に近い従者たちの間では、そろそろ危ないのではないかという声すら上がり始めていた。

「皇祖母尊様のご容態はどうだ?」
 久しぶりに渡ってきた、額田王を前に、大海人皇子が問いかけた。
「芳(かんば)しい状態ではございませぬね。」
 額田王はため息交じりな低い声で言った。
 宮中奥深く、床に臥す皇祖母尊の傍に、つかず離れず常駐している額田王には、手に取るように、女帝が弱っていかれるのがわかっていた。が、そんなことを、おおっぴらにするわけにはいかない。どんな事態が、弱った女帝の周りで起こるか、わからないからだ。
 大王は神にも並ぶ偉大な存在だ。だから、御付の者もごく限られる。着替えを手伝う者、御櫛をすく者、食事を運ぶ者、涼を促すために団扇を仰ぐ者。様々な女官や采女が大王に仕えていたが、直接、御言葉を交わせるのはごく限られた近習の者しか居ない。しかも、大王の状態を、軽々しく公言することも、ご法度とされていた。
 噂の火種は消しきれないが、対外的には、女帝はつつがなく、普段どおりの生活をしていらっしゃると公表されていた。
 だからこそ、大海人皇子に問われて、額田王は声を落としたのである。
「そうか…。やはりな…。」
 大海人皇子は傍に置いてある、占い板を見ながら答えた。

 皇子が持っているのは、天文板のような式板であった。これを回して、いろいろと心に湧きしことを占ってみる。
 彼に五行を手ほどきしたのは、彼の傍に仕える五行博士の東風であった。
 子供が新しいおもちゃを手にして楽しむように、軽い気持ちで始めた「陰陽五行の占い」であったが、日を経るごとに、のめりこみ始めていた。
 ありとあらゆる気になる事どもを、占い板に問い質してみる。
 稚拙な占いではあったが、物事の本質が、占い板を通して見えるような、そんな感覚に襲われることもあった。

「皇子様の占いでは、どのような卦が出ておりますの?」
 額田王が問いかけてきた。
「大きな声では言えぬが…。もう、あまり長くはないと。」
 ぼそっと答えが返される。滅多なことを口に出来ぬが、元妻でもあった額田王には、全面的な信頼を寄せていた。
「そうでございますか…。して…。東風殿はどのようにおしゃっておられまする?」
 と、東風の占いへも、話題を振る。
「あやつははっきりとは申さなんだが、やはり、同じように良くない卦が出ておるのじゃろうな…。苦虫を潰した顔つきが何を言わずとも、全てを物語っておったわい。」
 大海人が言った。
「そうですか…。」
 額田王は再び、大きく吐息を吐き出した。
「そなたの卜占はどう出ておるのだ?額田王。」
 大海人皇子は、額田王に問いかけた。
 額田は問いかけに、力なく笑った。
「残念ながら、私の卜占にも、あまり良い言霊(ことだま)は現れませぬ。これ以上は申し上げられませぬが…。」
 と口ごもる。
「そうか…。どう占ってもあまり良い風は吹かぬか…。」
 大海人皇子もはああっと長い溜息を吐き出した。
「で?皇祖母尊様は最近どのように?」
「時折、熱を出されているご様子です。この蒸し暑さ。お体に障っておられるのでしょう。」
「兄君は?」
「葛城皇子様でしたら、対百済の政策を練るのに、頭をお抱えのご様子。皇祖母尊様のことを、お心がけてはおられるようですが、なかなか、お渡りにもなられませぬ。」
「母上のことよりも、政(まつりごと)か。兄上もお忙しいことよのう。」
 皮肉っぽく、大海人皇子が呟く。
「で?今日はどのような御用向きで、我が元へ来られた?額田王よ。」
「勅(ちょく・天子の命令のこと)を奉じに参りました。」
「勅とな?」
「はい。皇祖母尊様からのご要望です。」
「母上のご要望?はて…。」
 首を傾げる大海人皇子に、額田王は言った。
「大海人皇子殿の舎人、早乙女造を参内させ、目通りさせよと、皇祖母尊様より申し付かって参ったのです。」
 
 そら、来たか…と大海人皇子は思った。

 この前の朝倉宮遷宮の一件。乱馬の大いなる働きのおかげで、皇祖母尊は命の綱を繋いだようなものだった。沐絲の乱入で、命を狙われた皇祖母尊を寸でで救ったのは、乱馬だったからだ。最大の功労者である、乱馬の元に、礼を述べるため、皇祖母尊は声をかけてきたのに違いない。

「その件、兄上はどのように申されているのだ?皇祖母尊様のお命を救いあげたとはいえ、乱馬は一介の舎人。それも、ワシ付きの舎人だ。武官として警護するならともかく、本来なら、直接お目にかかれる身分や立場ではないぞ。」
 兄の葛城皇子は承知しているのかと、暗に、額田王に尋ねたのだ。

「それなら、心配せずとも大丈夫でございますぞ。」
 額田王の後ろ側で男の声がした。少ししわがれた老人の声。だが、芯が太く、しっかりした声だった。

「おお、これは、鎌足殿。」
 声の主に、大海人皇子は驚く。そこに立っていたのは、内臣(うちつおみ)の中臣鎌足だった。彼は、重臣として、顔が広い。何より、葛城皇子の信頼もあつき人物だった。
「いつお見えになられた?」
 さっきの式占の話を聞かれていないかと、ドキッとしたが、ぐっと心に飲み、衣服を正した。鎌足にとっては、大海人皇子が子供の頃から良く見知っていた相手。身分こそ、臣下と王族という違いはあったが、年長者として、大海人皇子も敬っていた。

「葛城皇子様も、臣下を皇祖母尊様に引き合わせるのは…とかなり躊躇っておいでじゃったが、私がお傍に控えるという形で、ご了承なさいましたよ。それに、乱馬殿には立身(りゅうしん)の位を与えるそうじゃ。」
 と滑らかな口調で答えた。

 立身とは六百六十一年当時使用されていた「冠位十九階」の最下位にあたる。大王を拝するのに無冠では不味いと思われたのだろう。

「鎌足殿が同席されるとは?」
 意外な答えに、大海人皇子は驚いた。

「鎌足殿が申し上げておられることは、戯言ではありませぬよ。皇子様。」
 傍らで額田王が笑っている。
「乱馬殿との御謁見の間では、我ら女官と共に、すぐ傍で鎌足殿が控えられることになっておりまする。乱馬殿とて、鎌足殿が居られた方が、いろいろ問題も生じないでしょうし…。」
「穿った連中が多くて困りますからな。宮中は。」
 額田王の言葉に鎌足も頷く。
「葛城皇子殿はどうなのだ?同席されぬのか?」
 大海人皇子の問いかけに、額田王が答える。
「いえ、葛城皇子様は、健康が芳しくない皇祖母尊様の分も、政務がお忙しいゆえ列席はされませぬ。だからこそ、鎌足殿がお傍に控えられるのでございまするよ。」

 なるほど…と大海人皇子は思った。
 中臣鎌足と葛城皇子は共に共謀して蘇我氏本宗家を滅ぼした政争「乙巳の変(いっしのへん)」以来、密接な関係があった。大和朝廷は、蘇我氏の後を受けて鎌足の一族が、重臣となって政務を動かしているといっても過言ではなかった。
 臣下の最有力者鎌足を、葛城皇子も絶対的に信用していたのである。

「内臣殿が同席される、そこまで言われるのなら、良いでしょう。皇祖母尊様のご意向に喜んで従いましょう。」
 乱馬に余計な政争に巻き込まれて欲しくない大海人皇子も、鎌足が同席するという言葉を受けて、渋々承知した。




二、

「たく、何だって俺が皇祖母尊様のところへ直々に出向かなきゃならねえんだ?いつから、直接目の前に座してお声を拝することができるほど、俺はそんなに偉くなったんだ?」

 困惑したのは、乱馬、当人であった。
 今日は、皇祖母尊から直接呼ばれて、参内するのだ。しかも、謁見するという。
 大王は神とも等しい。その御方が自ら、乱馬をお召しになった。
 臣下が大王の前に召しだされるなど、異例中の異例だったからだ。
 遠巻きに、大海人皇子の警護の傍ら、女帝を見かけることはあったが、それ以上の何物でもない。

「まあまあまあ…。朝倉宮の遷宮の儀の功績が認められたのでございましょうや。」
 砺波がなだめすかしながら言った。
「大海人皇子様が、お断りしてくださったらよかったのに…。」
 面倒くさそうに、身支度を始める。
 乱馬は髪の毛をいつのもようにおさげに編み込むと、伽和羅(かわら)と呼ばれた短甲を身にまとった。今や彼のおさげは、大海人皇子の舎人の間でもトレードマークになっている。普通、武官も文官も「みづら」と呼ばれる編み方をしていた。耳の両側で髪の毛を輪にして止めた髪型だ。だが、彼の髪型は違った。

「これこれ、乱馬殿。朝命を拝するのに、その格好では不味いのでは?」
 砺波の爺さんが乱馬をとがめに入った。

「何が不味いんだ?爺さん。」
 乱馬が振り返る。
「それは武人の格好。宮中へ上がる服装ではございませぬぞ。」
 と言った。
 乱馬は白い衣と褌(はかま)の上に短甲を着込んだ装束。それは当時の武人の装束だ。
「武人が武人の格好をして参内する、どこが不味いんだ?」
 と乱馬がぶすっと答えた。
 大海人皇子の舎人ということは、武人に連座している。皇族、貴族、それに多数仕えている文官たちとは、明らか一線を画している。それに、ここは戦場に近い。
 そんな彼にとっての正装は、武人の甲冑姿に他ならない。そう言いたげだった。

「時と場所を考えなされ。そんな格好では、宮中へ上げてもらえませぬぞ。」
 と砺波は年長者らしい意見を述べる。

「いや、俺はこの格好で行くぞ!」
 止められれば止められたで、意固地になる主君、乱馬。
「そうだよ、爺さん。兄貴は武人だぜ。武人が武人の正装で皇祖母尊様の前に出て何が不味いんだよ!」
 と、千文も乱馬に同調する。
「なりませぬ。ちゃんと朝服を着用しなされ。」
「そんなもの、第一、俺は持ってねえぞ!」
 老人と若者たちの間で、ちょっとした小競り合いになる。


「たく、ここは相変わらず騒々しいなあ…。」
 そこへ大海人皇子が現れた。乱馬が参内するというので、その主君として、様子を見に来たのだろう。

「これは、大海人皇子様。」
 三人はそのまま、頭を下げた。
「これこれ、大声が廊まで響いておったぞ。」
 大海人皇子は三人を見比べながら笑った。
「なるほど…。喧騒の原因はそれか。」
 乱馬の姿を見ながら笑い転げる。

「大海人皇子様もお止めくだされ。これでは戦に出かけるようなもの。」
 砺波の爺様が媚びるように懇願した。

「その格好では、爺様が心配するのもわかるぞ。たく、言い出したら聞かぬからなあ…乱馬は。」
 大海人皇子は笑いながら乱馬へ言った。
「これは勅じゃからな。おまえが文官ではなく武官であることは百も承知だが…。」
 そう言いながら、手に持っていた物を乱馬へと差し出した。
「ほっておけばそなたは、武人のままの装束で、参内するだろうと思ってなあ…。これを持って来てやったぞ。」
 と大海人皇子は笑った。

「これは…。」

 持参された物を見て、乱馬は嫌な顔を手向ける。
 そこに折りたたまれていたのは、文官の朝服一式であった。これを着ろという、大海人皇子の指図、いや命令になる。

「おまえは嫌かもしれぬがな…。一応、正式の場へ赴くのだ。武官服では不味いぞ。」
 と大海人皇子は楽しげに笑った。

「へへへ、こいつは良いや!兄貴の文官朝服、見応えあるぜ。早速、着て見せてくれよ。」
 さっきまで武人装束推奨派だった千文がはやし立てる。
「皇子様、どうしても、これを着用せねばなりませぬか?」
 乱馬は口を尖らせた。ここまでくると、駄々っ子のようだ。
「要らぬ、争いの元は作らぬ方が得策だぞ、乱馬よ。それに、ワシもおまえの正装姿を見てみたい。」
 ゲラゲラと大海人皇子も笑い始める。
「でも…。」

「ええいっ!四の五の言わず、諦めて着用なされっ!そら、千文っ!」
 砺波の爺さんの声を合図に、千文と爺さん双方が、わっと乱馬に襲い掛かった。

「こらっ!やめろっ!んなの、着たかねーっ!」
「いい加減、覚悟を決めなされっ!」
「往生際が悪いぜ!兄貴っ!」
「ワシも手伝ってやろうぞ!」
 暴れまわって抵抗する乱馬に、大海人皇子までもが手を出した。主君自ら手を出されると、さすがの乱馬も抵抗できない。
 物の数分の格闘で、乱馬は文官朝服を着用させられた。
「ほら、忘れずに、これも着けよ。」
 そう言って、大海人皇子は仕上げに、冠を頭に乗せる。
「冠にその頭は似合わないぜ。」
 と千文がおさげを解きに懸かる。
「いい加減にしろーっ!」
 乱馬が怒鳴った。最後の砦でもあるおさげだけは、触らせないぞと、後ずさる。
「まあ、良かろう。大目に見てやろう、髪の毛は…。」
 クククと笑いながら大海人皇子が制した。
 こうやって、おさげ髪の朝服男子が出来上がった。

「ほう…。思った以上に似合うではないか。」
 と、大海人皇子は笑いながら、乱馬を上から下まで流し見た。
「本当だ、似合ってるぜ。兄貴。」
「おおお。これは。」
 着せ替えに奮闘していた千文と砺波も、感嘆して見入る。

「だああっ!あんまりしげしげ眺めるなよっ!たく…。窮屈で!暑くてたまんねーんだぞっ!」
 乱馬はまだ、ぶうぶう、文句をたれている。
 黒に近い灰色の文官朝服。冠が黒っぽかったので、それにあわせてあるようだった。乱馬の寸法にぴったりだ。恐らく、大海人皇子が、今回の参内にあわせて、特別に作らせていたものなのだろう。

「冠は立身、つまり今度おまえに下された新しい冠位だ。尤も、最下位ではあるがな。」
 大海人皇子は乱馬を眺めながら、一人悦に入っていた。
 当時、身分の上下によって冠の色が決まっていた。紫を最上位に、十九階に分かれていた。乱馬が今回着用したのは、その最下位の立身の冠だった。造姓は貰っていたものの、このたび、やっと正式に冠位が下ったのだ。
 大海人皇子がその祝いにと、気遣って朝服を準備してくれたのだ。
 今までの、乱馬の身分は、大海人皇子の舎人。つまり大海人皇子の従者である。が、同時に、「立身」という大王の部下という公の冠位も与えられたのだ。

「時に、大海人皇子様、腰元の物はどうすべきなのですか?俺は武官です。帯刀は許されるのでしょうか?」
 乱馬が腰辺りを見回して尋ねた。一応、武官である。太刀を帯刀するのが常であろうが、女帝の前に出るのに、どうするべきか、迷ったのだ。

「刀は接見の前に預ければ良いが…。乱馬よ、おまえ、儀式用の太刀は持っておらぬのか?」
 大海人皇子が乱馬を見ながら問いかけた。
 刀には二種類ある。武器として実用的な太刀と、祭器として装飾的な意味合いが強い儀式用の太刀とだ。

「儀式用の太刀だったら、あれが良いんじゃないのか?兄貴っ。」
 千文が乱馬に問いかけた。そう、乱馬の義父、響雲斎がいまわの際に託した刀だ。乱馬を大和の武人から預かった時、一緒に預けられた一振りの太刀。
「これ、千文…。」
 爺さんが千文の袖を引っ張って、言を止めようとした。爺さんは、千文の指し示す「太刀」の出所を一番良く知った人物でもある。しかも、その太刀が明るみに出ては、乱馬が困った立場へと追い込まれるかもしれない。
 邇磨の玄馬、いや漢皇子の命令で、赤子の時から付かず離れず、ずっと乱馬を影から見守って来た爺さんからすると、当然の行動だったのだ。
 だが、如何せん、誰も爺さんの正体は知らない。
 あまり「強引」に引き止めると、かえって怪しまれることになる。
 千文が太刀のことを口にしてしまった以上、爺さんは、後に続けたかった言葉を、ぐっと飲み込んだ。

「あれというのはどんな太刀なのだ?」
 案の定、大海人皇子が興味を持って、食いついてきた。
「兄貴が時折、古い小箱から出してきて、眺めている大振りの太刀だよ。」

「こら、千文!いつの間にあの刀のことを知ったんだ?あの刀は人前に出したことはないぞ。ましてや、おまえに見せたこともない…と思うが。」
 乱馬が当惑しながら千文を振り返る。
「この俺を誰だと思ってるんでいっ!これでも、昔は、大和の海石榴市にその名ありと歌われた大悪党、鷹麻呂の手下だったんだぜ。おいら、刀には目が無いんだ、兄貴が時折、眺めているのは、とっくに承知でいっ!」
 と鼻をすすりながら、千文が答えた。
「そんなこと、威張れたものか!ったく。油断も隙もない奴だな…。盗人の手下だった頃の癖が出たな?」
 苦笑いしながら、乱馬は千文を見た。

「そんな太刀があるのか?乱馬よ。」
 大海人皇子が尋ねる。

「え、ええ、まあ…。」
 乱馬も口を濁した。今際に義父から「本当の父親は別に居る」と一緒に託された刀を、ここで取り出すことに、微かな躊躇いがあったのだ。もしかすると、己の本当の父親に繋がるかもしれない「太刀」。
「見せてみよ。」
 当然の如く、大海人は乱馬に促した。
「ほら、これだ。兄貴。」
 いつの間に、持って来たのか、千文は木箱を大海人皇子の前に置いた。

「ほう…。仰々しく、箱に収めてあるのか。」
 大海人皇子は、感嘆しつつ、木箱を持ち上げた。

 その様子を、じっと、砺波の爺様は、息を潜めて眺めていた。
 こうなっては、止められまい。ここで下手に口に出すと大海人皇子に変な詮索を与えかねない。。
(まあ良いか…。証となる「宝珠」は外してあるし銘も消した…。証が無ければ、ただの贋物と区別は付くまい。)
 と天に運命を任せるしかなかった。
 爺さんは赤子の乱馬が長閑郎女から取り上げられた折、滞在していた「中臣鎌足」の屋敷に忍び込んで、太刀を収めていた柄から宝珠を抜き去り、刀に刻み込まれていた銘を消しておいたことに思いを馳せる。
 当時、祭器に使われた刀やそれを収める鞘には、様々な装飾が凝らされていた。黄金を張ったり、宝石を埋め込んだり。また、刀身に刀の素性を示した銘を刻み入れることもあったようだ。

(念のために、証となる銘を消しておいて正解だったわい。)
 と心の中で呟いた。
(にしても…。見る者が見れば、漢皇子の形見の太刀だということがばれてしまうかもしれぬな…。)
 と危惧する。
 乱馬の正体を知るのは、大和朝廷広しといえども、砺波の爺様だけだった。まさか、己と血縁関係があろうとは、目の前の大海人皇子も思っては居まい。

 そんな爺様のハラハラを払拭するように、大海人皇子が言った。

「これを帯刀すればよいな。ほれ、刃もボロボロだ。とても人を切れる代物ではないな。」
 と太刀を評した。
「え、ええまあ。実際に使ったことはありませぬし、大きさ的にも実用性からはかけ離れておりまする。」
 乱馬が苦笑いした。
「にしても、立派な太刀だな。これをどうした?どこかの市で買ったのか?」
 大海人皇子は興味深げに乱馬を見やった。
「父親の形見として、譲り受けました。」
 義父、響雲斎から授かった太刀だと、乱馬は本当のことを言った。
『おまえには恐らく、大和朝廷の血が入っている。』
 そう言い遺した義父の、苦しみに喘ぐ顔が思い出された。が、目の前の主、大海人皇子には、勿論、義父の言は告げないで飲み込んだ。
 目の前に居る大海人皇子は、まさに、大和朝廷の直系の血筋。そんな主に、自分の中に大和朝廷の血が入っているなどとは笑止千万だろう。

「ふーん…。おまえの父はこの太刀をどこから手に入れたのだ?」
 すかさず、大海人皇子は尋ねて来た。明らかに、地方の田舎豪族の長が持つには上等すぎる太刀の出所に、興味を持ったようだった。
「父がどこから手に入れたのか…そこまでは私にもわかりませぬ。ただ、身罷る折に、私に形見として持たせてくれた一振りであることは確かです。」
 それ以外に答えようが無かった。
「ふむ、父親の形見とな…。確かおまえの父親は…。」
「常陸の国の響の邑の長(おさ)でした。」
 と乱馬は答えた。
 しげしげと大海人皇子は太刀を眺めた。ズンと手に圧し掛かる重さは、ただものではない。いや、地方の武官や文官、ましてや邑の長(おさ)程度の者が手にできるような代物ではないことは、大海人皇子の目にも明らかだった。
(案外、古墳などから略奪された宝剣を、地方の木っ端役人が持っていたものかもしれぬな。それを、何かの折に、乱馬の父親が手にした…そんなところか。)
 大海人皇子はそう自分を納得させた。
(まあ、いずれ、この太刀の本性がわかる時がくるやもしれぬが…。今は不問にしておくか。)
 そう思いながら、大海人皇子は太刀を乱馬の手へと戻した。

「これを帯刀して出廷すれば良いのではないか?おまえの親がどうやってこれを手にしたのかはわからぬが…。なかなかの代物ぞ!この形、滅んだ蘇我蝦夷の一族が好んで持ったと言われる太刀と似ておるわ。大方、大和あたりの没落豪族が何らかの理由で手放した宝剣だろうな…。」

「そ、蘇我氏の太刀だって?す、すげえ!」
 千文が喜んで声を張り上げた。
「馬鹿、そう断定された訳じゃなくって、だろうって予測だけだろうが。」
 乱馬は千文に苦言を呈した。
 だが、心中、穏やかではなかった。大海人皇子に義父が言った言葉を伏せているという苦悶と、蘇我蝦夷一族が好んだ太刀と似ているという情報の片鱗に、心が揺さぶられた。

(この父の形見は、蘇我蝦夷一族…。蘇我の本宗家に関係がある太刀なのか?)

 蘇我本宗家が廃された「乙巳の変」は、二十年ほど前の生々しい政変である。滅び去った一族とはいえ、未だ、蘇我本宗家、蝦夷や入鹿の記憶は、当代の人々の脳裏から消え去ってはいない。栄華をほしいままにしていた蘇我本宗家。かの一族への憧憬と、血にまみれて滅ぼされた蘇我氏の遺恨への恐怖心が、大和の人々の間に、魑魅魍魎のようにはびこっていたのである。
 乱馬は思った。
 案外、義父、雲斎が氏の間際に放った『おまえには恐らく、大和朝廷の血が入っている。』という言葉は、当たらずしも遠からじなのかもしれない。この太刀の出所が蘇我氏だとしても、蘇我氏の血が大王家には大量に入っている。
 己の身体の中に流れている血の正体が、化け物のように膨らんでくる戦慄を、乱馬は微かだが、感じ始めた。
(この太刀を宮中で、帯刀すれば、或いは…。俺の血統が明らかになるのかもしれねえ…。)
 本気でそう思い始めた瞬間でもあった。



 と、今度は 背後で女性の声がした。

「支度はできあがりましたか?」

「これは額田王様。」
 砺波の爺様がまず、頭を下げた。女帝の従者自らがお出迎えである。いつもに増して、艶やかな衣装が、目を引いた。
 さすがに、高級女官である。その美貌は、熟年にさしかかっているとはいえ、光り輝かんばかりであった。
「そろそろ、お時間でございますれば、お迎えに上がりました。」
 と額田王は言った。

「ほう…。奥殿から直々にお迎えが来ようとは…。乱馬よ、おまえ、相当、母君に期待されておるようじゃな。」
 カラカラと大海人皇子が笑った。

「まかり間違っても、惑わされるなよ…兄貴。相手は倍以上年上の女性だからな。」
 ぼそっと、千文が乱馬の耳元に吐き出した。

「おまえなあ…。いい加減にしねえと、怒るぞ!」
 乱馬が千文の頭をポカンと殴る真似をした。

「ほんに、ここは楽しいところじゃ。」
 額田王もつられて笑った。
 この乱馬の居住まいには「笑い」や「癒し」がある。
(ほんに、不思議な男(おのこ)じゃなあ…。乱馬殿は。)
 それだけに、大海人皇子が大事にしているのも、額田にはよく理解できた。
「さて、戯れあいはそこまでにして、参ろうかな。乱馬殿。」
 額田王の言葉を合図に、乱馬は彼女の後ろに控えて、神妙に歩き出す。

「頑張って来いよ!兄貴っ!」
 千文が手を振りながら、彼を見送る。さすがに、千文や砺波の爺様を随行させるわけにはいかない。
「乱馬よ、母君をよろしくな。」
 大海人皇子も笑いながら、見送った。


三、

「早乙女の造殿が、宮中へ渡られまする。」

 その知らせは、ここ、倭姫王の下へも届いていた。
 斉明帝の居室から、程遠くない場所に居住まいを構える、葛城皇子の居城の片隅だ。
 その一角に、倭姫王以下の妃や夫人たちが、集まって暮らしている。もちろん、部屋ごとに、妃、夫人、の区別はあった。
 倭姫王は、葛城皇子の適妻(むかひめ)。つまり、正妃だったから、嬪たちの中でも一番広い居城を与えられていた。周りに、お付の侍女を多数侍らせている。その中に、あかねに変身した珊璞の姿もあった。
 彼女は彼女で一室を与えられ、そこで新しい生活を始めたばかりだった。

「その後、茜郎女の様子はどうじゃ?」
 部屋へ入って来た倭姫王が、声をかけた。
「まあまあでございまするなあ…。そう、直ちに記憶が舞い戻るとはいきませぬ、心の病でございますれば。」
 五十代半ば頃の貴婦人風な女性が、その問いかけにきりっと答えた。鋭い瞳が妙に妖しい感じがする女性だった。
「そんなに、心に受けた傷は大きかったのかえ?」
 倭姫王は、貴婦人に問いかける。
「のようでございますなあ…。言葉が巧みに出てまいりませぬし、記憶もところどころが飛んでいる様子でございまする。」
 知った風に、貴婦人は答えた。
「そうか…。で?黒麻呂殿はどのようなことを?」
 葛城皇子側の五行博士は「黒麻呂」だ。当時の占い師の常であるように、黒麻呂は医療の知識も持ち合わせていた。医療そのものが「占」や「呪術」と深い関係があったので、占い板を扱う人間が、医療も担当するのは当然な成り行きであった。
「黒麻呂殿は、とにかく、焦らず、ゆっくり養生するように言っておられましたな…。そのうち、出なくなった言葉も思い出していかれるだろうと。」
 と貴婦人は言った。
「なるほど…。こうなってしまっては、時間が最大の妙薬とな…。黒麻呂殿が言うのなら、間違いはあるまい。」
 それから倭姫王は、じろりと女へ向き直る。
「そなた…。確か波豆(はづ)とか申したのう…。」
「はい、波豆にございます。」
 女は頭を垂れた。
「黒麻呂殿がわざわざ寄越した薬師とか。そなたも唐から来たのかえ?」
 と尋ねてきた。
「はい。もう、何年になりますか。黒麻呂様にお仕え申して幾年月。」
 そう、答えた女に、倭姫王はゆっくりと言った。
「その割には、わらわはそなたを最近、初めて見かけたぞよ。」
 ピクリと女の眉間に皺が寄る。
「今しばらく、遠国へ薬の元を採取などしに、黒麻呂様の傍を離れておりましたゆえ…。宮中へ侍るのはこの度が始めてにございます。」
 と波豆は深々と頭を下げて見せる。
「そうかや…。まあ、良いわ、この場は不問にしておいてやる。黒麻呂殿が寄越した腕の立つ薬師というのは、本当のことのようじゃしな。
 この前、怪我をしたわらわの侍女に薬を与えて、治してくれたのもそなたじゃったからな。」
 鋭い倭姫王の瞳が、波豆の言った言葉にキナ臭さが漂うのを、微かに嗅ぎ付けたようだ。
「き、恐縮にございまする。」
 恐れ入ったように、波豆は床に平伏す。
「これから先、茜郎女に付いて、まずは、心の病を治す手伝いをしてくだされ。」
「それはよろしいとして、この娘御、その後はどうなさるおつもりで?」
 波豆は倭姫王に尋ねる。

「さあな…。それは天のみぞ知ることじゃろうて。いくら謀をしても、天がそれを許さねば、別の方向へと流れてゆくものじゃ。」
 倭姫王は、ふうっと空を見上げた。開け広げられた御簾の向こう側に、真っ青な空が拓けている。

「天のみぞ知る…。でございまするか。」

「そうじゃ。この茜郎女という娘、間違いなく「美妃」じゃ。それゆえ、天に乞われるやもしれぬ。」
「天に乞われるとは…。巫女になられるということでございますか?」
「ああ。現在宮中で巫の権勢をほしいままにしておる、額田王を抜き去るような巫女になるやもしれぬ…。」
 にんまりと倭姫は微笑みかけた。少しばかり背筋が凍るような笑い方だった。
「それゆえに、我が元に置いておきたいのじゃ。」
 その言葉を返すことも出来ず、波豆は、ただじっと平伏したまま佇む。
「とにかく、この娘の記憶が蘇るか否か…。そなたの腕に任せようぞ。」
 そう言い置いて、倭姫王は部屋から出て行った。

 倭姫王が姿を消すと、彼女についていた侍女たちも、一斉に後を追って、部屋を辞した。まるで行列が去るかのように、人の気配が消え、あたりに静寂が訪れる。
 そろそろ太陽が真上に達する頃だ。
 正午。
 大和飛鳥から移行された「水時計」の鐘が、鳴るのも、もうすぐだろう。
 仮に設置した簡易なものだから、大和飛鳥にある漏刻に比べると、正確さに欠けるところがあったが、それでも、目安としては十分使用に耐える時計だった。
 大和朝廷の朝務は、正午をもって終わる事になっている。当時の官人は、日の出前に出廷し、朝日と共に就業し、正午を知らせる鐘と共に、解散する。そして、宮廷を辞した後は、私人としての生活が待っていた。
 もちろん、現在のサラリーマンたちのように、時間内に政務が終わりきらなければ「残業」もしたかもしれないし、「宿題」があったかもしれない。
 鐘の音と共に、人々は続々と朝倉宮から立ち去った後に、乱馬の参内が予定されていた。女帝の体調が思わしくなかったことも原因の一つだろうが、政務が執り行われている時間帯では、宮内に余計な負担がかかると思って、葛城皇子辺りが設定したのだと思われた。
 だが、彼の思惑は外れたのか、正午の鐘の音が鳴った後、役人たちは帰って行ったが、代わりに、好奇心いっぱいの采女や女官たちが、今、評判の「早乙女造」を一目見ようと、群がり始めていた。
 女が男を見定めようとする時は抜け目がない。話題の益荒男ならば、尚更のこと。一種、スターに群がるファンの群れのように、女官や侍女たちが、好奇の瞳を手向け始めていた。
 女たちがこんな様だったので、後宮近くに在する、文官や武官たちも、つられて群がり始めていた。
 後宮の人々の好奇心の目が、乱馬が参内する「内裏」の方向へと、自然、集まりだしていたのだ。
 それほどまでに、乱馬の功績は眩いものばかりだった。
 遠国、常陸国から庸として都へ召され、日を経ずして「大海人皇子」の舎人に抜擢された手腕。しかも、当時、都を荒らしまわっていた「鷹麻呂一味」を一蹴しての舎人デビュー。
 それだけでも、話題性が十分なのに、難波宮での活躍、それに、ついこの前の「麻底良布山」の件。と、大きな手柄の枚挙に遑(いとま)がない。
 早乙女造という名前だけが、大きく一人歩きしている状態だった。影像など持たぬ古代。後宮の奥に仕える女性たちには、乱馬の顔を見る機会に恵まれなかったのである。
 だからこそ、この機会に一目見ておこうと、女たちが特に騒がしかった。

 ゆえに、正午の鐘が鳴り始める頃には、葛城皇子の居住区にも、人は殆ど居なくなっていた。
 閑散としたたたずまいの中、あかねの姿を借りた珊璞と、薬師、波豆だけがポツンと残されたようになっていたのである。

「ふうう…。この状態が、ずっと続くね…。おばば様。」
 思わず溜息を吐きながら、珊璞が小声で波豆の耳元へと呟きかけた。
「ふふふ、もう、飽きてきたかよ、珊璞や。」
 波豆がそれに応じた。
「たく、おばば様が傍に居てくれなかったら、息もできないね。」
 珊璞が溜息と共に言葉を吐き出した。
「ワシは婿殿に顔を知られておるからのう…。潜り込むのに、苦労したぞよ。」
「そうあるね…。おばば様も呪泉の水、使ったあるからね。」
「ああ、黒麻呂のところにいた「波豆」という薬師の姿を借りて、ようやくここへ乗り込めたのじゃ。」
 と恩着せがましく孫娘に言った。
「本物の波豆はどうしたね?」
「くくく、今頃は土の下じゃ。」
 淡々と答える。

 どうやら、可崘は、珊璞があかねに使った「呪泉の水」で、別の人間に化けて、ここへ潜入を果たしたようだ。浸した者の姿を借りる折に使う、妖の水。姿形だけではなく、声色さえも変えてしまう、唐国の秘水。
 
 人気がなくなったのを確認すると、珊璞は素に戻って、可崘へと話しかけたのだった。

「にしても、あの倭姫王という御方、なかなか食えぬ女と見たわ。」
 と可崘は感じ入っている様子だ。
「どうしてね?おばば様の妖気、察したからか?」
「それもある…。が、一番気になったのは、そなたをすんなりと乱馬殿へ娶わせようと言わなんだわい。天のみぞ知る…などと、かわしよった。大方、様々な可能性を探ってから、そなたの処遇を決めようという腹づもりなのじゃろうよ。」
 可崘の目が鋭く光る。
「ちょっと、待つね。それは大いに困るね。何の為に、この娘の姿形を借りたと思うね。乱馬と契り、子種を貰うためね。
 それに、いつになったら、乱馬と引き合わせてもらえるね。」
 珊璞が不服そうに言った。
「まあ、そう焦るな。急いては事を仕損じてしまうぞ。ここは、ゆっくりと構え、乱馬殿から喰らい付いてくるのを待つのじゃ。」
「本当に、乱馬から喰らい付いてくるのか?」
 珊璞が怒ったように言った。
「喰らい付いてくるぞよ。それを、倭姫王も望んでおられる様子じゃ。おまえを餌に、乱馬殿を味方に引き入れようという魂胆は、変わっては居らぬ筈じゃ。でなければ、倭姫王が黒麻呂が流した「乱馬殿の適妻」の話を鵜呑みにして、おまえを己の傍へ置こうなどとは思わなかったじゃろうからな。」
「で?私はいつまで「心の病」を患っている素振りを装えば良いか?」
「その喋り方を治せといわれても治らぬじゃろうしな…。心労で言葉を失ったように装うのが一番なのじゃ。それはわかっておろう?」
「そうだったある…。倭国の言葉、私には難しい。」
「だから、あまり素のワシを呼び出すでないぞ。これも、乱馬殿と契るための布石なのじゃからな。」
 可崘がけん制の意味を込めて、孫娘を諭す。
「わかたある。乱馬に全身全霊で愛撫してもらえることを夢見て、我慢するある。」
「良い娘じゃ。褒美に、たっぷりと乱馬殿に愛してもらえ。身も心も溶かすような交わりをして、優れた子種を授かるが良い。」
「ちゃんと、上手く、事に及べるかね。私、男と女の交わりの仕方、良くわからないあるが…。」
「ほほほ、それこそ要らぬ心配じゃ。元々この世は男と女、その異なる二つの人間で成り立っておる。交接することを強く望めば、ちゃんと行為は成せるぞ。」
 目を細めて可崘が笑った。
「でも、最初は痛いと聞いたことがある。本当か?おばば様。」
「ああ、痛いぞよ。じゃが、強い結びつきは、痛みを快楽に確実に変化させてくれる、決して耐えられぬ痛みではないぞよ。」
「そうやって、痛みを堪えて、おばば様も、強き男から子種を貰ったのか?」
「ほーほっほっほ、当然じゃ。これでも若き頃は、一族内外から、求愛者が多かったのだぞよ。」
 可崘婆さんが、愉快げに笑った。
「へええ…。ばば様を射止めた男とはどのような人だったのかなあ…。興味があるね。」
「ふふふ、もう、かなりの昔の話になりよったからのう…。忘れたわ。」
 と、可崘は淡々と言ってはぐらかした。
「さて…。ワシはこれからひとっ走り、黒麻呂の元へ行ってくるわい。」
 可崘はひとしきり楽しげに笑った後、真顔に戻って珊璞に伝えた。
「黒麻呂のところへ?何しに行くか?」
 珊璞が問いかける。
「これじゃ。」
 そう言いながら、可崘は一本の矢を珊璞へ見せた。
「これは…。」
 そう言って珊璞はハッと可崘を見返した。
「沐絲の使い矢じゃ。連絡が欲しいときに使う合図の矢じゃよ。」
「沐絲…。生きていたあるか。神の山を巡って乱馬とやりあって深手を負ったと聞いたが…。」
 珊璞が複雑な表情を浮かべた。
「あやつも、簡単に死ぬような輩ではないわい。大方、傷が癒えて、再び行動を起そうと、連絡を寄越してきたのじゃろうよ。」
「黒麻呂のところで沐絲に会うか?おばば様。」
ああ、奴に会うてくるわ。」
「会ってどするね?私を諦めろと言うね?」
「諦めろと言っても、奴は納得するまいよ。したらば、最終手段に訴えるしかあるまい?」
「おばば様、沐絲を殺めるあるか?」
 珊璞が無表情を装って尋ねた。
「まさか!あんな男でも、沐絲は、まだまだ使える。だから、殺すのはおまえの方じゃ。珊璞。」
 婆さんはにっと笑った。
「私を殺す?どういうことあるか?」
「何、珊璞、おまえが死したということにすれば、自ずから沐絲はおまえのことを諦めるざるを得まい?」
 あっ、と珊璞が小さく頷いた。

「なるほど、私、死んだことにすれば、沐絲、諦めるある。これは妙案かもしれない、おばば様。」
 珊璞が頷きながら言った。

 幼馴染み以上の感情を持たなかった沐絲が、執拗に求愛してくることに、いい加減、珊璞も苛立ち始めていた。
 乱馬の強い魔羅を受け入れても、沐絲の魔羅を受け入れる気にはなれなかった。少しでも強い男の種を求める。それが、珊璞の属する一族の結婚条件の全てなのであった。恋愛は二の次。恋愛感情よりも、次世代へ繋ぐという実を取る。それが当たり前という一族の中で育ってきたのだ。
 強い男と交わって、子種を貰い強い子孫を残すこと。それが適齢期の一族の娘に与えられた最大の使命でもあった。
 沐絲も強い男だということは承知していたが、乱馬の比ではない。
 それに、沐絲は同族の男。同族ということは、血の繋がりが近いということだ。血の繋がりが近い者同士の結婚によって生まれる子孫は、強いか弱いか、白黒はっきりと出てしまうことが多い。血縁が近い男女の結婚は、諸刃の剣だった。彼女の一族は、それを経験上見知っていたようだ。
 大和政権が血の濃さを「大王」の必須条件にすえていたのと、まるで正反対な考え方である。血の濃さは近親婚を奨励する。実の親子は婚姻の対象にはならなかったが、異母兄妹は十分範疇に入る。ゆえに、大王一族は、生まれいずる子孫も、優秀な者と劣勢な者の差が激しかったとも言われている。近しい者同士の婚姻は、優秀な遺伝子を残す場合もあればその逆も多かったはずだ。
 同じ血を流すことに重きを置いた大和の大王一族とは違い、優秀な子を作るには、血はできるだけ遠い方が良い。たとえ、他民族でも他国の者でも厭わない。それが、珊璞の一族の考え方であった。
 そうやって、珊璞の一族は、力の強き人間の遺伝子を血へと注ぎ入れてきたのだ。

「沐絲には気の毒じゃが…。おまえが死んだとでも言わぬと、諦めまいよ。だから…。」
 そう言いながら、婆さんは、珊璞の懐に忍ばせてあった玉を抜き去った。
「おばば様、それは…。」
 珊璞は慌てて、おばばから抜き去られた玉を取り戻そうとしたが、おばばはそれを制した。
「これを形見として沐絲へ授けるぞ。」
 明らかに命令口調だ。
「でも、おばば様、それは…。代々、我が家の一番強い女性に伝わっていく琥珀玉の腕輪あるよ。そんな大切な物を沐絲へくれてやるあるか?」
「あやつは、それなりの証拠を見せねば、おまえが死んだことを納得しまい。ただの詭弁と取って、しつこくおまえの幻影を負い続けるだろうて。
 子種を貰わずとも、おまえに想いを注いでくれる相手でもある。そのくらい労をねぎらってやっても良かろう?」
「おばば様、本当に良いあるな?我らが一族の証である、宝の腕輪を沐絲へ渡してしまっても…。」
 珊璞は確認するように問い質した。
 一族の血を受けた女性の中で、珊璞はその頂点を担う「素質ある娘」でもあった。それゆえ、可崘、その娘、またその娘、そして珊璞へと四代飛び越えて、彼女の元にあった、由緒正しき琥珀の腕輪。それを、形見として沐絲へ差し出すことへの躊躇いが出るのも仕方あるまい。

「この腕輪一つで、沐絲がおまえを諦めてくれたら…。それに相応しい代物ぞ。事実、おまえはあかねの姿に身をやつしておる。この一族の証を所持しておると、それが、仇になるとも限らぬしな。
 それに、沐絲には、我らが企み、暴けぬじゃろうて。
 腕輪なら、また新たに作り直して、おまえを起点に、子孫へと伝えていくのが良かろうさ。」
 と可崘は諭した。

「わかったある。これも、乱馬と契るための布石。彼と臥所を同じうするまでは、何事にも耐えると決心した私ある。どんなこともすると、誓約したのだから、これは沐絲へ渡すあるぞ。」
 珊璞はそう言いながら、腕輪を可崘に託すことにしたのである。

「聞き分けの良い娘じゃ。おうさ、乱馬殿と結ばれし暁には、新しい玉の腕輪を、この婆が与えてやる。
 とにかく、おまえは乱馬殿と契り、子種を授かることだけを望んで、ここで罠を張って待っておるのじゃ。良いな。」
「はい、おばば様。」
 珊璞は了承した。 

 ただ、乱馬と身体を重ねるときは、できればあかねの姿から開放され、己の本来の姿でありたいと、密かに思い始めていたのも事実だ。
 茜郎女としてではなく、唐国道士の珊璞として交わりたい。そうでなければ、優秀な子は授からないのではないかとも思っていた。

「さて、ワシは沐絲と会ってくるぞよ。
 そして、できるだけ早く戻って来るぞ。乱馬殿が帰られるまでは、必ず戻って来る。できれば、今日中に最初の餌に喰らい付いていただきたいからな…。」
 婆さんは珊璞に念を押しながら言った。
「とにかく、おまえは心の病を患ったこの娘(あかね)の振りだけをして居ればよい。焦るな。そして、獲物が餌に喰らいつくのをじっと待つのじゃ。良いな?」

「わかった。おばば様を信じて、じっと待つね。」
 珊璞はコクンと頭を大きく前に倒した。



 つづく







冠位十九位
 この作品の当時の冠位制度です。で、実は冠位について、不勉強…というより詳細な資料が収集できず、いい加減です。
 とりあえず乱馬に与えるのは、「最下位」でええか…という短絡的な設定です。ごめんなさい。


乙巳の変
 俗に言う、「大化の改新」です。六四五年、蘇我入鹿を宮中にて謀り殺した政争が発端となった、改革です。この血塗られた殺人は、皇極女帝(斉明女帝)の目の前で起こされたと伝えられています。長年、大和朝廷に権力を誇示していた蘇我氏本宗家は、入鹿の暗殺と蝦夷の自害によって滅び、一つの時代が終結しました。



 天武帝(大海人皇子)は天文、遁甲をよくしたと「日本書紀」に記載があります。「遁甲」とはその詳細は謎です。或る本では「占いの一種」とも言い、またある本では「忍術のようなもの」とも。その実体は、まだ、よくわかっていません。
 壬申の乱の折にも、大海人皇子はすすんで式を取って占ったと記録されています。このことからも、天武は陰陽五行思想に通じていたのは確かだと思います。


 
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