第七部 追憶編

第三十二話 蟲神


一、

 昼なお暗い山の奥。
 辺りは緑の木々に覆われ、一分のすきもない。天から降り注ぐ太陽光も、梢の葉に遮られ、地面に届く頃には薄暗くなっている。
 そんなあんばいだから、辺り一面に湿気た空気が漂っている。
 いや、湿気た空気は森のせいだけではないようだった。
 木々の中には似つかわしくない「白い煙」が時々辺りから漂ってくる。硫黄の香りがプンと鼻につく森の中。近くに火山でもあるというのだろうか。
 男はぼんやりと、木の根っこに身体をつけて、横たわっていた。最早、立ち上がる気力も残されていないようで、仰向けに空を見上げていた。
 傍には、夜の暖を取るための焚き火の残り火がくすぶっている。
 このまま己の命、尽き果てるのを待っているのか、野犬か狼といった肉食系の獣の気配も感じる。が、火を恐れてか、獣は、襲うのを躊躇っているようだった。が、焚き火が消えると、襲ってくるのは目に見えていた。
「ちっ!オラも焼きが回っただか。」
 男は、そう、吐き捨てた。
 総身傷だらけになっている。中でも、右脇腹辺りにある長い刀傷は、生々しく血が滲み出している。
 そう、倒れている男は、沐絲であった。
 朝倉橘廣庭宮の遷宮式典の折、乱馬と遣り合って負けた「あの闘い」で、傷ついた。倒れる寸前、持っていた煙玉を投げつけて、辛くも逃げることができた。予め逃走用に準備していた馬にまたがると、それを駆って西へ逃げた。が、傷ついた身体では幾許も馬で逃げること適わず、この地で力尽きたのだ。
 一緒に乗ってきた馬が傍に繋いである。馬も散々険しい、道なき道を駆けてきたので、疲れ切っているのか、その場へうずくまったまま、微塵だにしない。いや、森の奥の方から漂ってくる、肉食獣の気配に驚いて、沐絲の傍から離れようとしないだけだったかもしれない。

 力尽きた沐絲には、最早、立ち上がる気力すらなかった。
 誰も通ることない、深遠なる筑紫島の森の中。
 雨の季節だ。ここで雨が降り出せば、焚き火が消える。そうすれば、獣が喜んで襲い掛かってくるだろう。

「畜生!こんなはずではなかっただに!」
 悔し涙がこぼれ落ちそうになった。
「男の夢が果てる時というのは、こんなものだか…?」
 仰いだ天から、ヒラヒラと何匹かの胡蝶が、群を成して舞いあがっているのが見えた。
 蝶は雌の尻が出す、蝶にしか見えぬ特殊な光体を追って、雄が群がってくるという。一匹の雌を複数の雄が追う姿は、どこか、物の憐れを感じさせる。

「黒い蝶だか…。そう言えば、あの爺さん、あの後、どうなっただか…。蝶を育てるのに躍起になっておったよなあ…。」
 途切れそうになる意識の中で、ぼんやりと沐絲はある光景を思い出していた。
「確か、このあたりの森で爺様と行きあっただなあ…。」
 あれは、去年の夏の終わりか、秋口だったか。
 唐国から倭国へと「隠密」として渡ってきた頃のこと。
 先に勅を受けて倭国へ渡った、愛しき幼馴染の珊璞の後を追って、海を渡った。筑紫島へ降り立って程なくのこと。沐絲は一人の老人に出会った。
 老人は死んでしまった黒い胡蝶を眺めながら、ぼんやりとうなだれていたのだ。その様子が、気になって、つい、声をかけたのだった。

『爺様、何をしているだ?』
 その言葉に老人は、力なく呟いた。
『愛しき胡蝶が死んでしまった…。』
 と。
『愛しき胡蝶?爺様は蟲使いだか?』
 興味を持った沐絲が、更にたたみかける。蟲使いとは虫を使役して占いや祈祷、または妖しげな呪術を行う、シャーマンのような者だ。この時代、様々な能力を駆使するシャーマンが居た。その中の一人である。
『蟲使いか…。ああ、そんな風に呼ばれていた事もあったやもしれぬ。いや、蟲使いと言うより、蟲神様に仕えし巫(かむなぎ)じゃった。』
 と、言葉が返って来た。
『蟲神様に仕えていた巫だって?同じような物じゃないだか。』
 沐絲は笑った。巫とは神に仕える高級神官ばかりではない。巷には、怪しげな神様や信仰心を吹聴して回る民も「巫」と呼んでいた。
『もう、かれこれ二十年も前のことじゃろうかのう…。ワシは常世虫様に仕える巫(かむなぎ)だったのじゃ。』

 爺様は奇特な己のここまでの人生を語り始めた。

 今より二十数年前、ここより遥かに東の火を噴く不死の山と呼ばれた山の袂の駿河(するが)の国で、爺さん蟲使いの巫をしていたという。不死の山、即ち、当時噴火活動をしていた火山、富士山だ。
 大和のような中央はいざ知らず、地方の辺境の民は、まだ貧しく、その日の食うものにも事欠く事がままあった。大地に根おろす民は、春先から田畑を耕し、そして種をまき、秋に収穫するが、穀物の蓄えが翌年の実りの頃まで残っていることは、当時の技術ではまず在り得なかった。いや、下手をすると、自然の恵みが自生する春を迎える前、冬の最中に、備蓄が底をつくことすらある。
 春になれば、それでも、木の実や生えてくる草木で飢えを凌げたが、雪が舞う寒い季節は、食料を探すのにも苦労が耐えなかった。農民も猟師も、冬を円滑に越えられるか否かは、命に関わる、重大な問題であったのだった。
『ワシはただの蟲使いだったのよ。蟲を幾許か使役し、天候や様々な占いをやっておった、ちっぽけな巫じゃった。』
 爺さんは遠い目をしながら、沐絲に語って聞かせる。
 そんな、ある日のこと。いつもの如く、蟲を使役して占いをしていたところに、ある女と行き会ったのだという。
 それは、大陸から来た女で、蟲使いをしていた爺さんの様子を影から見ていたようだった。そして、占い後、皆が立ち去って爺さんが一人残されると、幾許かの「胡蝶(カワビラコ)」の幼虫とその幼虫が食べる渡来の植物を与えてくれたのだという。
『蟲使い殿よ、おまえのような者なら、これを使えようぞ。』
 そう言って、女は爺様に大陸伝来の胡蝶を与えたというのだ
『この胡蝶には苦しみを和らげて、幸せになる力があるぞ。この植物を食わせ、ゆめゆめ乱雑に扱うことなかれ…。』
 と。女は爺さんに幼虫つきの植物とその種を少し持たせたのだった。

『最初はワシも半信半疑じゃった。じゃが、もろうた植物の種を植え、虫を飼いだしてからというもの、あな不思議。飢えや寒さに疲れ果てていたわが身に、再び力が戻り、疲れや病を知らぬ体となり遂せた。そればかりか、胡蝶が乱舞する様をじっと眺めているだけで、幸せな気持ちになれたのじゃ。』
 いかにも、眉唾物の怪しげな話であった。
『やがて、ワシは、邑の里人どもに、胡蝶の飼育と祀りを薦め、広めたのじゃ。幸せは共に暮らす人々と分け合ってこそ意味がある。そう思うてな。
 不気味がっていた邑の者たちも、胡蝶の素晴らしさを体感し、ワシについてくるようになったのじゃ。ワシらはそのカワラビコに「常世虫様」という名前を付けた。』
 爺さんが言うには、個人的な虫祀りから、だんだんに共同体全体の虫祀りへと変遷するのに、そう、時がかからなかったという。
『常世虫様を飼って崇めれば、ほんに、幸せな気持ちになり、憂いも悩みも吹き飛ぶ。人々は競い合って「常世虫様」を祀るようになっておった。
 鼓舞しているとはお思いになさるな。本当に、駿河国中、いや、隣国からも、財を投げ打って蝶を求めて人が集まってきたのじゃ。「常世虫様」は幸せをくださる尊い虫。人々は常世虫様の下へ集い、幸せに酔ったのじゃ。
 じゃが、今思うと、それがいけなかった。』
 爺様は悲観的な顔つきになって言った。
『産土神を祀る事に対して寛容だった、大和朝廷が「常世虫神」を祀ることを断罪し始めたのじゃよ。その勢いの凄さに恐れをなしたのであろうて。
 「常世虫神」は人を惑わす悪しき蟲神。
 そう言って、大和の武人が多数、我らの里へとなだれ込んできよった…。
 結果、常世虫様を拝していた神殿は焼き払われ、飛び交う虫たちも殺された。また、常世虫様を信仰した者たちは、信仰を捨てなければ、鞭打たれ、奴隷となって繋がれようぞと、脅された。
 結局、人々は朝廷の武人たちに従い、常世虫様を見捨て、事は収束へと向かった。
 その一方で、ワシは当然、常世虫様を広めた罰を受け、槍玉に挙げられた。ひっ捕らえられ、大和の役人どもに頚城を落とされる寸前に、蟲神様たちが我が元に舞い降りてきて、我を救ってくださったのじゃ。
 憎き大和の武人どもは、蟲神様に祟られて、目がかすんだその一瞬の隙を突いて、ワシは刑場から脱出した。蟲神信仰を辞めた中にも、まだ、ワシへの信奉者は何人か残っておってな、ワシを里から外へと逃がしてくれたのじゃよ。 追われる身の上になりつつも、ワシは再び常世虫様が天高く群れを成して舞い上がる日を夢みておった。群れるほど居た、常世虫様は、だんだんに減り…。当然じゃ。女に貰った植物を持ち出せなんだからな。
 それでも、ワシは諦めなんだ。唐国や百済に近い筑紫国へ足を伸ばし、この地で何としても常世虫様を復活させようと頑張ってきたのじゃが…。
  何度も同じ胡蝶を育てようとしたが、…あれ以来。ワシには、だたの胡蝶しか育てられなかった。恐らく、女が与えた植物に何か秘密があったのじゃろうて。
 何年も、何十年も、ワシはただひたすらに、胡蝶を育てたが、終ぞ、神にも見放されたのじゃ。ああ、もうおしまいじゃ!』
 そう言いながら肩を落として泣き出した老人。
 沐絲はただ、黙って、老人の話に耳を傾ける中、呆けた老人の戯れ話にしては、色があると思った。いや、それだけではない。似たような話を珊璞のおばば(可崘)から聞いたことがあるぞと、記憶に浮かんだのだ。
『その昔、ワシが若き頃、一度倭国へ来たことがあってな。その折、倭人に毒蝶を餌ごと分けてやったことがあるのじゃよ。』
 そんなことを得意げに言っていた可崘(おばば)の顔が思い浮かんだ。
『我ら道士たるもの、後の禍根に繋がる種を、敵地へまくのも重要な仕事じゃ。そうやって、まいた種は、なかなか面白き展開を見せてくれたがのう…。
 毒蝶は神様の使いとして崇められ、にわかに信仰が起こったのよ。人々は狂ったように毒蝶を神様として祀り、狂信する者が多く現れよった。
 慌てたのは大和朝廷よ。支配を広げていく中で、寛大だった在来神への信仰も、さすがに、この毒蝶の信心だけはそうもいかなかったのじゃろうて。毒蝶のせいで、人々は痴れ者と化し、耕地を耕すことも忘れ、歌い興じた。
 ふふふ、傍観しておったが、朝廷の慌てぶりは、なかなか面白かったぞよ。』
 そんな風に語られた可崘の自慢話の記憶が、沐絲の心を動かした。

 沐絲は、可崘が何をしたのか、うっすらとだが、見当がついたのだ。

(可崘(おばば)は、一種の興奮剤を鱗粉に含む蝶を使っただ。それも、特殊な植物を幼虫に与えて人為的に操作する…毒蝶。)
 道士の中には「虫使い」も存在していた。虫を使って人を惑わすのを得意としている連中だ。その虫使いが作り出す「魔蝶」。おそらく、最初に爺さんに胡蝶と植物を与えたおばばも、虫使いから貰った幼虫と植物を利用したに過ぎないのだろう。
 特殊な水、又は肥料をやって育てた植物。何度も交配を重ねるうちに、単体で毒物を含む種へと変遷させた特殊な植物。それを餌に漁り、肥太った幼虫は、成虫になって広げた翅(はね)。そこにべっとりと付着する「鱗粉」が、人を惑わす成分となる。
 可崘(おばば)に何の意図があって、爺様に妖しの蝶を分け与えたかはわからない。だが、そこに「悪意」に満ちたものを沐絲は感じ取っていた。

 爺様の話を聞き終えると、沐絲が言った。
『爺様、肩を落とすな。そら、ワシがその虫神様とやらを、再現させてやるだ。』
 肩を落として、黙り込んだ爺様に、そう言った。
『お言葉はありがたいが…。どうやっても駄目じゃったんじゃ。』
 爺様は悲観的だった。
『オラに任せておけばよいだ。ほら。』
 そう言いながら、懐から、ある妙薬が入った土器を差し出した。
『これを橘か山椒の根元に埋めてやるだ。そして、たっぷりと水をやり、植物を世話するだ。
 春先になって暖かくなる頃まで入念に世話をすれば、半年先、胡蝶が卵を産みにやってくる。その卵を、根元にこの妙薬を埋めた木の葉を幼虫に食らわせ育てるだ。
 すると、爺様が前に貰ったのと同じ効果を得られる胡蝶が手に入るだ。そうだな…。春が終わる頃には、人々を幸せに導く蝶神様がたくさん飛び交うようになるだ。』
『そんな夢のような話…。』
『できなければ、諦めるこったな。おまえさまの技術では、一生かかっても、その胡蝶は作れないじゃろうよ。オラたち唐国の道士は違うだ。』
 と沐絲は吐き出した。
『唐国の道士様ですと?』
 爺様の顔が少しばかり明るくなった。
『ああ、そうじゃ。これは唐国の粋を集めて作った妙薬じゃ。これを肥やしにすれば、必ず、よい結果を生む植物、爺様が前に貰ったのと同じ効果を得る植物を栽培することができるだ。
 そして、その植物の種も取る事を忘れずにするだ。その種を大地にまき、肥やしの代わりに、虫が食い荒らした植物の葉の残骸や枝を一度灰にして、再びそれを根元にまけば良いだ。』
 暫く考え込んでいた爺様だが、
『駄目で元々じゃ。試してみようかのう…。もう一花、いや、もう一蝶、この空に舞わせてみるのも…。』
『それから、これも渡しておくだ。』
『これは?』
 別の薬器を渡されて、爺様が問い返してきた。
『これは、おまえさまが蝶の毒に惑わされぬための薬物じゃ。前の時にも貰ったのじゃろう?使い手が毒にやられてしまっては、馬鹿らしいでな。これを時々、そうさなあ…この土器一杯に入る水に、この妙薬をほんの一つまみほどたらしてよく溶かして混ぜ、十日に一度飲んでおけばいいだ。』
 沐絲はそう教唆してやった。
『重ね重ね、ご丁寧に…。ありがとうございまする。』
 爺様は感激したのか、感涙していた。
『再び、虫神様が息を吹き返せば、オラも見物に来るだかなあ…。』
『その時は、是非。私は夜見と申す者。是非に、訪ねていらっしゃいませ。歓迎いたします。』
『そうあって欲しいだ。』

 爺様は頭を下げて、沐絲から「薬物」を受け取って、深く礼を言いながら、再起を誓って別れて行ったのだ。


(いまわの際とは、このような変な事を思い出すものなのだか…。)
 空を飛ぶ胡蝶を眺めながら、ぼんやりと考え込む。
(あの爺様はどうしているだか…。)
 何故、今頃になって、あの時の記憶が蘇るのか。不思議に思いながら、ぼんやりと空を見上げる。痛みすら麻痺してわからなくなり始めている。

 ふうっと意識が途切れる手前、誰かが己に近づいて来るのがわかった。

「これは、唐国の道士、沐絲殿ではありませぬか。どうされた?」
 目の前の老人の姿。記憶の老人の姿と重なる。

「いよいよ危ないだかな…。夜見の爺様の幻影が見えるだ。」
 呟く沐絲に、老人が驚いて言った。

「やはり、沐絲殿じゃ!沐絲殿!これっ!しっかりなさいませ!」
 そう言いながら、爺様は背後に声をかけて指示した。
「何をぼんやりしておる!沐絲殿を介抱しながら、湯の里へお連れいたせ!」

 その声を沐絲は遠くで聞いたような気がした。



二、

 フンと鼻を突く、硫黄の匂い。湯煙がもうもうと立ち上がる。

 あれから二十日あまりの時が過ぎ去ろうとしていた。
 季節はいつしか移ろいで、長雨の季節の末期に入り、雨と共に湿気がまとわりつく気候となっていた。
 皐月下旬。皐月といえど、古代の暦は旧暦に近い。今の気候に治せば、一つ気後れの六月下旬頃である。蒸し暑さがピークに達するような不快感が溢れるのは、古代も現代も同じであった。
 さっきまで降っていた雨は上がっていた。晴れ間とまではいかないにしろ、冷たい水は落ちてこなくなった。
 暗き森の中の岩間に、沸々と温泉が湧き出ている。
 筑紫島には火山が林立しているだけあって、そこここに効用の素晴らしい温泉が多く湧き出している。たとえ、火の山が見えなくても、地下で源泉が火山と繋がっているのだろう。
 その湯煙の中に、一人の男の姿があった。
 髪の毛は長く、そのまま、湯の中へとどっぷり浸っている。髪を上げるなど、無粋だと言わんばかりだ。高すぎず、低すぎず、長く浸るのに丁度良い湯加減なのだろう。
 長い間浸っていたのか、男はおもむろに湯から上半身を起こした。
 ジャブッと水を破る音がして、露になった上半身。右脇腹から背中にかけて、真っ直ぐに引かれた傷があった。ごく最近つけられたものなのか、生々しい傷跡として、皮膚が痛々しげに盛り上がっている。
 湯から上がったときに、瞬間、痛んだのか、男の顔が少し歪んだ。

「傷口の具合はいかがですかな?」
 湯煙の向こう側から、老人の声がした。

「おお、これは夜見(よみ)の爺様。まだ、少し沁(し)みるだ。」
 クセのある言葉使いで男が返事をした。
 そう。沐絲であった。
 胡蝶をぼんやりと眺めながら道端に倒れこんでいたところを、偶然にも通りかかった、夜見の爺様に助けられたのだった。
 本当に、偶然としか言いようが無かった。運が良かったのだ。
(天はまだ、オラを見捨てていないだ。もう一度、あの男(乱馬)と遣り合う機会を与えてくれただ。)
 その偶然に感謝しないでいられなかった。
 深手を負った沐絲を、夜見の爺様とおつきの者たちが、よって集って介抱してくれたのである。しかも、温泉地でだ。

「まあ、急激に良くはなりますまいが、幾分か持ち直されましたでしょう?」
 夜見と呼ばれた老人が答えた。
 老人は皺が刻まれた顔を更にしわくちゃにして、頭を掻きむしった。頭髪は全て白髪で、いかにも威厳がありげな長い白髭を胸辺りまで、だらりと垂らしている。人のよさげな笑みを浮かべる割には、見据える瞳は鋭い。
 衣服は古代倭人の好んだ白い生成りの筒型衣。その衣のあちこちに黒い蝶の文様が華々しい。
 いや、良く目を凝らすと、羽が微かに上下している。また、触角も動いている。そう、翁の服の表面には、黒いアゲハ蝶が何頭もまとまって、止まって羽を休めているではないか。不気味な風景だった。

「かなりの深手を負っておられましたからなあ…。沐絲殿は。あのままだと、お命、あぶのうございました。」
 そう問いかけた。
「ああ、助かっただ。爺様に助けてもらわねば、オラはどうなっていたことか。考えるとゾッとするだ。」
 
 爺様が後に語ったところによると、沐絲が倒れていた日、里の蝶どもが朝から騒がしかったという。
 爺様の孫娘が、その様子を見て、神懸り、かの山ふもとへと指差した。
 「神懸り」。シャーマニズムが生活の中に取り込まれていた古代社会において、神懸りをする人間は特に珍しいものではなかった。各村里に、一人や二人、神懸るほど感受性の強い人間は居たものだ。それが、巫や巫女として特別な任務を与えられることもある。
 爺様の孫娘とやらも、感受性の強い娘として生まれ持った素質があったのだろう。
 孫娘の指図どおり、馬で駆け抜ければ、そこに沐絲が倒れていた。
 そんな事があったらしい。

「その孫娘とやらに、オラは感謝しねーといけねーだな。」
 沐絲はぽそりと言った。

 そして、連れて来られたのが、この温泉地であったのだ。
 爺様が居城としている山郷の邑から、程遠くないが、少しばかり離れていた。いわば隠れ里。
 胡蝶が乱舞している村里へ送るには、何某かの支障を、爺様と孫娘が感じ取ったようで、ここへ連れて来られたのだ。
 村里からは数名の従者と女が赴いてきて、爺様の恩人でもある沐絲の看病をしてくれたようだ。

「ここは鹿の傷湯と呼ばれる秘湯でなあ…。獣は傷を負うと、ここへ癒しにくるのじゃよ。」
 山奥の果ての果て。人目にもつかぬこの温泉地で、ずっと傷を癒していたのである。


 あれから、約一ヶ月。
 ざっくりと開いていた傷口も繋がり、薬で誤魔化していた痛みも、本当に和らいできた。
 幸い、傷口は膿まず、破傷風にもかからなかった。何とか命の危機を脱し、損なわれかけた体力も順調に回復してきていた。

「若いというのは、良き物じゃのう…。」
 沐絲の回復の様子を見ながら、爺さんが言った。
「ほんに、沐絲殿とお会いした時は、虫の息。それが、このように回復なされるとは…。いや、羨ましきこと限りなく。」
 と羨望の瞳を手向けた。
「何を言っておるだか。これから民を扇動しようと思っておる巫(かむなぎ)が、そんな弱気を吐いてどうするだ?」
 沐絲が笑った。
「民を扇動などと、人聞きの悪いことを言われますな。」
 老人が苦笑いしながら、頭を掻いた。
「何、本当のことでねーだか!「蝶神様」で、倭国の支配を企む男が、何を言うだか!
 にしても、蝶神様の数も、急にここ数日で、増えたような気がするが…気のせいだべか?」
 沐絲が湯煙の向こう側を仰ぎながら言った。この辺りの森の中、黒蝶が群れを成して飛んでいる姿が目に入ったのだ。
「そりゃあ、そうじゃ。カワヒラコ(胡蝶の古名)は温暖を好む。だから、暑くなる季節に向けて、たんと増えるのが道理というもの。我ら邑では、毎日、何十頭もの蝶が、蛹から羽を広げて、大空へと舞い上がっておりますぞ。」
「それは本当だか?一年でそんなに増えただか?」
 沐絲は驚いた。
「この爺を何かと思うておられる?何十年来、胡蝶を飼育し続けている、古老にてございまするぞ。胡蝶は一年の間に、何世代も交代しまする。湯煙の立つ温暖な土地。胡蝶を育てる植物も、胡蝶も幼虫も、ひっきりなしに育ちまするぞよ。」
 爺様が笑いながら身体を揺らすと、身体に止まっていた黒いアゲハチョウたちが、ヒラヒラと木立へと一斉に舞い上がる。
 その様子は、綺麗と言うより、不気味だった。一頭、二頭ならのどかな風景でも、何十もの漆黒のアゲハが暗き森の空を舞う様は、「異様」の一言に尽きる。
 沐絲は空行く、クロアゲハたちを見送りながら、問いかけた。
「そうじゃったな。で?その胡蝶たちを使って、里の者たちを手懐けただか?」
 沐絲が訪ねた。
「はい。胡蝶たちさえたくさん育てられれば、後は、以前と同じことをすればよいだけですからのう…。」
 にんまりと爺さんが笑った。
「以前と同じことだか。」
 沐絲も含み笑いをした。

 単なる信仰心を利用しただけなら、爆発的に宗教が盛り上がっていくには時間がかかる。その地域で爆発的に誘導するには、数奇なほど崇高なカリスマ性が指導者には必要だ。それを演出する方法の中で、一番、安易で確実な方法を選んだのだろう。

(やはりな…。可崘(おばば)は胡蝶を育てる手段以外にも、夜見の爺様に与えておったかよ。)
 と心に吐き出した。

「そのご様子では、沐絲殿も心辺りがおありのご様子じゃ。ふふふ。」
 爺様の瞳が怪しく光った。一年前、ここで出会うた折には憔悴しきったただの老人だった爺様が、ここまで妖しくなれるのかよ、と疑いたくなるほどに、狡猾な顔つきにかわっていたのだ。怪僧、いや、怪巫(かいふ)だった。
「ああ、オラも道士の端くれだ。飲み水か食べ物に混ぜて使う「妖薬」だべ。違うか?」
 沐絲は問いかけた。
「ええ…。まあ。」
 どうやら図星だったようだ。
「ほう…。邑里が丸ごと、蝶神様に帰属しただか。それは凄いだ。物凄い効き目だっただか。」
 沐絲も目を細め、ほくそ笑んだ。何も言わずとも、オラには見通せるだと、言わんばかりの態度だった。
 その言葉に、爺様の眉間が、ぴくぴくと動いた。
「おまえたち、ちょっと下がっておれ。」
 爺様は沐絲を介抱していた女や従者を、自分の傍から遠ざける。一礼して女と男は沐絲から離れて行った。
 それを確認してから、爺様の口がゆっくりと開いた。
「沐絲殿には隠していても、事情がおわかりのようですから、お話いたしまするが…。」
 と声を落として話し始める。人払いしたので、あたりに居るのは、爺様の周りを乱舞している黒い胡蝶たちだけだ。
「実は、唐国の女はこれをワシに託しよりました。」
 そう言いながら、小さな陶器を見せた。高温で焼かれた陶器は土師器よりも強い耐性があった。掌にすっぽりと入るくらいの大きさの陶器に、妖しげな粘りのある物体が少しだけこびりついていた。
「これを蝶神様の舞い飛ぶ土地の水に混ぜて人に飲ませれば、たちどころに、人々は高揚し、我を忘れ、指導者の虜となり良き傀儡となせる妙薬だそうで…。」
「妙薬ねえ…。」
 沐絲の瞳が冷たく光った。
「ええ、ええ。飲料水の井戸に妙薬を混ぜて、数日間、村人たちにその井戸の水を飲ませただけで、殆どの者が蝶神様の虜になりよりましたわ。」

(じゃろうな…。可崘(おばば)が用いるあの妙薬は、仲間内の道士の中でも僅かの者しか配合できぬ特殊な薬物じゃからな。人によって効果は多少ずれるだが、幻覚、幻影、幻聴が起こり、精神が高揚して幸せな快楽に浸れるだ。そして、一度その快楽に浸れば、再び求めて止まぬ精神状態へと追い込まれていく魔の薬じゃからな。)
 沐絲には、爺様が話していることの大筋が瞬時に理解できた。
 大国が壮大な軍事力を持って周辺国を支配下に置いた時、こういった妙薬を使うことがあった。繋いだ奴隷を築城や築墓などの使役にする折に、疲れを知らぬ妙薬として与え、工期を短縮させるためなどに用いたのだ。
 使い方は用いる者の裁量次第だ。

「一年かけて、やっと、一村だけ丸ごと、虫神様を信仰する我が支配する邑へと変えられただけでございますがな。」
 どうやら、かつて、可崘(おばば)はこの老人に「麻薬」のような危ない薬も与えていたようだ。「危険薬物」の濫用がもたらすものは、薬物の常習性。そして、それからくる人格の破壊、崩壊。
 恐ろしいことに、「麻薬」を、老人は飲み水に混ぜて、大勢の人々に与えたというのだ。
「なるほどのう…。唐国の女は、そんなものまで爺様に与えておっただか。」
「ということは、やはり、沐絲殿にも、その妙薬の知識がおありで?」
 爺様の瞳が媚びるように輝いた。
「まあな…。」
 と沐絲は爺様の心をひきつけるように言った。

「おお、これぞまさに、蝶神様のお導きじゃ。」
 天を仰ぎながら、爺様は言った。
「実は、かつて唐国の女に貰った「妖薬」は残りが少のうございましてな。ほれ、そこにこびりついているだけしかありもうさん。」
 暗に、沐絲に都合してもらえぬかと言わんばかりにたたみかけてきた。
 そらきただ、と沐絲は身構えながら答える。

「ふん、なるほどな。もっと薬が手に入れば、もっとたくさんの邑々を惑わせることができるだか…。昔おぬしがしたように…。」
 爺様はにやりと笑った。
「さすが、沐絲殿じゃ。我が心、隅々までお見通しじゃ。どうです?もし、薬が無くとも、この先の企み、沐絲殿もお力添えしていただけますまいか?
 こうやって、袖触れ合うも蝶神様のお導きだと思いませぬかのう?」
 ゆらゆらと胡蝶が爺様の下へと降りてきた。そして、肩に止まる。
「良かろう…。命を助けてもらったお礼じゃ。援助してやるだ。」
 と、沐絲は言った。
「ほ、本当でございまするか?」
 爺様の顔が、ぱああっと明るく輝き始めた。
「ああ。爺様は大和朝廷への怨嗟があるじゃろう?元はといえば、オラの此の傷も朝廷の奴につけられたと言っても良いからな…。
 蝶神様を使い、国中の民を惑わし、朝廷への禍の布石を敷くのも面白いだ。ふふふ。」
 沐絲は快諾したのだ。
 この命が今、ここにあるのは、爺様の介抱のなす業でもある。また、正攻法では乱馬には対決できない。ならば、どこまでも邪道で進もうと、決意した瞬間でもある。

「さて、本題じゃが…。オラは爺様の薬と同じような妙薬を持っているだ。」
 
 そう言いながら、沐絲は黒い軟膏が入った陶器の壷を、開いて見せた。カッパと音がして、それが開く。
「ふふふ。こいつは、前に爺様が持っていた薬と同じく、人間を麻痺させることができる。しかも、改良を加えた特効薬。」
 沐絲はにやりと笑った。
「つまり、もっと効き目があると?」
 爺様に瞳も妖しく輝く。
「ああ。もっと短時間で効果が出るだ。たくさんの胡蝶が舞っておれば、爺様の傀儡となる狂信者になるのに、十日もあれば十分じゃろうなあ…。」
「と、十日ですかな?」
 爺様が大声をあげた。己がかつて使った薬は、効力が出るのに早くても半年はかかった。実際、今の村を一村丸ごと帰属させるのに、一年近くかかっているではないか。

「これを用いて、今の爺様の邑を中心に、この辺りの邑々を次々に、我らが、蝶神様を崇める邑に変えていくだ。」
 と、沐絲が言った。
「それから、爺様よ。」
 そう言いながら、沐絲は別の陶器を取り出した。
「これも与えておくだ。今まで、爺様は胡蝶と水の毒に当てられぬように、わざわざここまで己の飲み水を汲みに来ておったのじゃろう?」
 その言葉に、爺様は目を丸くした。
「そこまでお見通しでございましたか。」
「当たり前じゃ。指導者でもある己が薬にやられては元も子もねえだ。だったら、どうするか。毒水を飲まないように注意せねばならない。そのための湯郷だったのじゃねえだか?ここの湯で毒を洗い流し、禊をする。」
 にやりと沐絲が笑った。
「オラも毒水に当てられるわけにはいかねーだ。だから、この薬を常飲するだ。そうさな、三日おきに小指の先につけて、こうやって唇に塗って舐めるとよいだ。」
 そう言いながら、取り出した赤い膏薬を紅のように、口へと塗りつけた。
「この中和剤で、妖薬の効き目が己に及ぶこともないわい。爺様と巫女となる孫娘にだけ使ってやればよいだ。」

「巫女となる孫娘…ですかな。」
 爺様が笑った。

「おうよ。聞けば、その娘にワシは命を助けてもらったようなもの。その孫娘も一応、正気は保ち続けておるじゃろう?」
「え、ええ…まあ。」
 そう言いながら、爺様は口ごもった。
「宜しければ、その孫娘、沐絲殿の妻として差し上げようかと思っておりましたが…。」
 その言葉に、沐絲は手を振って辞退した。
「いや。オラは女は要らねえだ。」
「ならば、美しき童子がよろしいか?」
「いや、そっちの気もねえだ。」
「ならば、何故?」
「オラの種は、倭国の娘にやるのはもったいないだ。それに…。オラには適妻と決めた同族の女が居るだ。」
「ほう…。既に妻に決めた御方がおられますると?」
「まあな…。いずれにしても、その女と迎合せぬ限りは、前に進めぬのじゃ。…っと、これ以上は言うに及ばぬな。」
 沐絲は口ごもった。心に決めた女とは、勿論、珊璞のことだ。
「それより、巫女はできるだけ清純な若い生娘の方が良いだが…。その孫娘とやらは、どうなのじゃ?」
「器量はともかく、顔形は整っておりますじゃ。」
「顔かたちは整っておるだか。それなら良いだ。あまり目に余るようなら、仮面をつけるという手もあるだが…。」
「それには及びますまい。」
 爺様が笑った。
「性格はどうだ?」
「性格ですかな?」
「ああ。巫女にするなら、意志薄弱なら困るだ。神のお告げをするにしても、弱々しければ問題にならぬだ。」
「それなら、問題はありませぬ。むしろ、意志は強い方でございますじゃ。」
「ならば良かろう。オラがお膳立てして、新しく立てるまでもないだか。」
「なかなか賢しき娘なれば、巫女にできると思いますじゃ。」
「ふむ…。爺様の血族の方が、いろいろ都合も良いだな。巫と巫女は爺様に任せるだ。思う存分、やるが良いだ。」
「もとい、そのつもりでございまする。まずは、理想の桃幻郷、蟲神邑を造る事が先決ですじゃ。そして、そこに暮らす里人たちを、傀儡と成し、死をも恐れぬ狂信者へ変えまする。
 さすれば、、靡かぬ反対者は己が手を汚さずとも、素直な邑人たちが、ざっくりとやってくれましょうぞ…。」
 老人の瞳が怪しく光った。
「そして、いずれは、憎き大和朝廷の官人や武士たちに、復讐を!」
「ああ、爺様は大和朝廷に恨みがあるんじゃったな。」
 沐絲が声を潜めた。
「今、思い出しても、身体が震うてきますじゃ。不死の山麓の川原が虫神様の死骸で溢れたあの光景。ゆめゆめ忘れられましょうや。我から虫神様をとりあげ異端と叫んだ大和の腐った武将たち。あの時大王の位についていた皇祖母尊が、また、重祚して位にしがみついているのも何かの縁。」
 爺様の顔が苦痛で歪んだ。そして、人相まで変わってしまった。極悪非道人とまではいかないにしろ、鋭き瞳は恨みに溢れていく。
「決して前と同じ鉄は踏みませぬぞ。此度は、大和の民、全てを我が蟲神様の前に屈服させてみせますじゃ。そして、いずれは大王も我が手で…。」
 爺様は、にんまりと笑った。本当に、大王を斃せると信じている様子だ。

(まあ、この爺様にどこまでできるかはわからんだが…。オラは乱馬を引っ張り出し、斃せればそれで良いだ…。ふふふ、今度こそ、首を洗って待っておれよ。
 珊璞は必ず、オラがこの手で…。)
 ぎゅっと沐絲は手を握り締めた。

「では、オラもそろそろ動き出すだ。」
 そう言って沐絲は用意された衣服を身につけた。
「行かれますかな?」
「ああ。一度、朝倉宮の様子を見てくるだ。爺様は存分に、薬を使って、信者を増やすなり、傀儡の邑里を増やすなり、好きなようにやればよいだ。
 オラは指図はしないだ。」
 そういい遺すと、沐絲はその場を風のように去った。

(ふふふ、夜見の爺様と蟲神様か。どのくらい、乱馬の奴に報いてやれるだか…。ますます、面白くなってきただ。)

 沐絲は森を駆けながら、笑い飛ばした。



つづく



 

常世の神の蟲
 斉明が皇極として在位していたとき、駿河国の富士川のほとりにて「常世虫」という蟲祭が起こります。その中心に居たのが、大生部多(おおふべのおお)という人物でした。多は秦造河勝(はたのみやつこかわかつ)に討たれ、常世虫宗教も闇に葬られました。
 この常世虫がいかなる虫だったのかは定かではありません。書紀には「此の蟲は常に橘や曼椒(ほそき・山椒の古名)に発生し、大きさ頭指(親指)くらいで色は緑で黒いまだらがあり、蚕に似ている。」と記載されています。蚕説、アゲハ説、シンジュサン説(蛾)など言われています。本作品では「ジャコウアゲハ」をイメージして書いています。ジャコウアゲハは食物から毒を持つことがある蝶で鳥も食べないと言われております。アゲハチョウ類の多くはジャコウアゲハを擬態しているという説もあります。


 この章は話の内容が重いです。一度、時代観を書いておかないと、後半部へと持ち込めませんので…。
 沐絲の描写から始まりましたが…。常世虫の蕃神は後半もちろん、物語に絡んできます。


 
 
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