第六部 漂泊編

第三十一話 直人と穂織



一、


 梅雨の湿気た風が、瀬戸内の海をゆっくりと西へ進んで行く。
 二、三隻の船団を組み、悠々と島と島の間を渡って進む。
 邇磨の湊を出てから、数日。そろそろ、目的地だ。

「直人様が同行してくれているおかげで、今回はすんなりと船が進みましたよ。」
 先頭の次を行く船に乗って、行く手を指示している青年が、白い歯を見せた。日向の国の船乗り、穂織だ。船の先頭で、進路方向を見張りながら、隣に座っている若者と会話を楽しんでいた。

「そう言ってもらえると、わざわざ同行した甲斐もあるというものですよ。」
 直人が言った。
 吉備津直人は、玄馬の言いつけで、この航海に邇磨の男たち数名と参加したのだ。
 吉備津の姓を名乗っているとおり、直人は中国地方の大豪族、吉備氏の末端に属する一族の男子だった。それゆえ、子供の頃からこの辺りの海は庭のようなもの。潮の流れを読むことは勿論、辺り一帯の部族にも精通していたし、玄馬の配下ということで顔も利いた。
 何某かの駄賃を寄越せと、小さな舟を寄せて、武器を持って寄ってくるこの辺りの海部の漁師たちに、玄馬のしたためた通行証代わりの木簡を見せれば、渋々、後ずさって行く。中には、直人の顔を見ただけで、何も言わずに去って行く海賊も居たくらいだ。
 まだ、邇磨郷を出て、三日しか経っていないが、穂織と直人。元々似たような性質をしているのか、すっかり打ち解けて、仲良くなっていた。二人とも、くそがつくほどに真面目なのである。しかも、腕っ節も強い。
 歳も近いとあって、いろいろと話し込むようになっていたのだ。
 ただ、まだ、出会ったばかりなので、「タメ口」ではない。生まれた里が違うから、言葉を交わすにしても、互いに、放言丸出しになるので、遠慮がちに堅苦しい丁寧な言葉で話した。

「行きは苦労したんですよ。さっきみたいな物騒な連中がわんさかと寄って集って来て…。しかも、この船の上には血気盛んな日向の猛者ばかりが乗っているでしょう?猛様が上手くとりなしてくれましたから、事なきを得て、邇磨に辿りつきましたが…。」
「この辺りの海部にとって、交易船は格好の獲物なんですよ。何某かの通行料をせしめるのが楽しみなような連中ばかりですからねえ。」
 直人が笑った。
「大和の朝廷が、邇磨の玄馬殿を囲い込みたかった気持ちがよくわかります。」
 ついさっき、一集団、玄馬の木簡で退却させたところだったから、余計にそう思う穂織である。
「猛様も言ってましたよ。以前に比べると、海賊の動きが活発になったって。前は瀬戸内を渡って行くのに、ここまで物品を要求してくる海部は居なかったと。」
 困惑げに穂織が言った。
「でしょうね…。朝廷の動きが不穏になって以来、この辺りの里にもしわ寄せが来ていると聞いています。それに、玄馬様が朝廷と手を組む方へ転換されましたから、今まで朝廷の船に要求していた通行料を取る手だてが無くなって、他の遠国から来る交易船だけに絞って、奴らが殺到するようになりましたしねえ…。日向辺りから来る船なぞは、格好な獲物なんですよ、あいつらにとっては。」
「たく、足元を見られている訳ですか。」
 穂織が溜息を吐き出した。

 日向を代表とする南九州の国々は、大和とは一線を画した文化を持っている。
 唐風を真似て取り込んだ宮中の服や行事。きらびやかな衣装で洗練された女たちに、いかにも強そうな武器をたくさん抱えた武人。大陸に見習った文化を追いかける、それが大和政権だとすると一方の日向の国は、まだまだ未開の田舎の国だった。
 武器一つとっても、大和の武器には細工が隅々にまで施された「美術的価値」がある。他方の日向国は、技術的にも装飾的にも、かなり遅れていたのだ。
 その溝を埋めるためにも、狗留須猛は古今東西を駆け回っていると言っても良かった。

「大和に追いつき、追い越す!」
 それが、日向国の者たちの悲願だったのかもしれない。

「ところで、狗留須猛殿が昨夜、この船と合流されたと聞き及びましたが。」
 直人は穂織に問いかけた。
「ええ、帰還しました。遅い時間だったので、お気づきになられませんでしたか?」
「ええ、生憎、昨晩は熟睡しておりましたゆえ。」
 ぼりぼりと直人は頭を掻いた。異国の船にようやく慣れて来たところで、眠り込んでしまっていたのだ。
「で?狗留須殿は?」
「まだお休みになっておられます。小さき舟で、兄者と漕ぎ詰めで辿ってきたようですから。」
「兄者…。ああ、あなたの双子の兄の…。」
「穂照です。」
「で?狗留須殿は何処へ行っておられたのです?」
「さあ、俺には何もおっしゃられなかったので…。詳しくはわかりません。でも、この付近の島里であることは違いないと思いますよ。」
 穂織が何も知らされていないのは本当のことだった。
 まさか、斎島に巫女を連れに行く、などと、公言できぬから、狗留須はただ、用事があるとのみ、邇磨郷を出て行くときに、告げただけであった。
「で、客人を連れて来られたと聞き及びましたが。」
 直人は単刀直入に尋ねた。
「さすがに、直人殿。耳が早いですね。確かに、お頭は、おなごを二人乗せて帰還されましたよ。」
「おなごですか。その方々を出迎えにでも、行っておられたのでしょうか?」
「かもしれませぬし、そうでないかもしれませぬ。」
「曖昧な話ですね。」
「ええ。この船には、良く、ああいった客人が途中から乗って来るんですよ。お頭は顔が広いですからねえ…。
 今度も、湊で頼まれて小船に乗せてきたのかもしれませんし、前々からの約束で乗せてきたのかもしれませんし…。正直、俺には、わかりません。」
「なるほど…。」
「そうそう、頼まれて乗せたと言えば、この船が邇磨に着く前にも乗せましたよ。」
「ほう…。」
「何でも筑紫国から吉備へ帰還するという女人二人組でしてね、これは駄賃を弾むからと言われて、尾道辺りから乗せたんですよ。」
「駄賃を弾むと言われて、客人を乗せることがあるんですか。」
 直人が感心してみせる。それが、昨夜この船に客人として乗ってきたあかねと関係があった唐国の導師とは、勿論、思いも寄らない。
「ええ。今回はあちらこちらで海賊に物品をせびられて、困り抜いておりましたから…。羽振りが良い、婆さんと娘でしたから、お頭も二つ返事で快諾したんです。」
「へええ…。なるほどねえ…。で?邇磨を出てすぐに乗り込んできた客人とはとは、どんな方々で?」
「それが…ちょっと変わった、方々らしくて…。」
「変わっている?どんな風に?」
「若い娘と婆さんの二人連れだそうですが…あまり私たちと顔を合わそうとはしないそうなんですよ。世話方の者に訊いても、特に若い娘の方は、どんなに話しかけても、口を開かないそうです。頭に布切れをすっぽりとかぶって船倉から出て来ようともしないそうで…。」
「布切れ…をですか?」
 直人が不思議そうに問い返した。ちょっと、想像が出来ない格好だからだ。
「ええ。とにかく、その女はずっと顔を隠していて、小気味が悪いんだそうです。俺はまだ見ていませんから、これ以上は語れないんですけどねえ…。」
「顔を隠した女か…。何か、曰くありげな…。」
 直人も関心を持った。
「それに、お頭は誰も娘の部屋へは入るなと固く命令されていて。」
「誰も入れないんですか?」
「ええ。食事も全て、婆さんが世話しているそうです。婆さんは布切れなどかぶっておらず、ごく何処にでも居そうな婆さんなんですけどねえ。」
「へええ…。若い方は覆面で、婆さんはそのまま…。ますます面妖な…。」
「婆さんは、お頭の古い馴染みだと、古顔の手下たちは言っていました。時々、船に乗って、海原を行きかうそうで…。」
「客人は猛殿の馴染みですか…。なるほど、それなら、この船に乗って来ても不思議ではないですね。」
「まあねえ…。お頭はあれでいて、いろいろ謎めいたところがありますからねえ…。この前は麻底良布山へ行って来たとか。」
「麻底良布山?」
「ええ。筑紫の国にある神の山です。ところが大和朝廷が宮地に選んで、そこへ「朝倉橘廣庭宮」を作ろうと神の山から木を切り倒し始めたから、さあ、大変。」
「そりゃあ、そうだろうなあ…。いくら、大和朝廷でも、それはちょっと、やりすぎだ。」
 腕を組みながら、直人は頷く。
「でしょう?神々の怒りに触れると、土地の連中は猛反対。その騒乱の中に、たまたま、お頭も居たらしくって…。」
「へええ…。筑紫の国まで、足を伸ばされていたのか。狗留須殿は。」
「恐らく、大和朝廷の様子を偵察に行っていたんでしょうねえ…。お頭は陸にたまに、ぽっと居なくなってしまわれることがあって…。その時も、ふっと我らから離れて一人でお出かけになっていたのですよ。」
「一人で…ですか。」
「ええ、お供を一人もつけずに…。日向、筑紫、曽於、球磨…火の山々の国は、狗留須様にとっては、馬で気楽に一跨ぎみたいなものですよ。」
「馬?」
「ええ。狗留須様は騎乗も得意なんです。手綱さばきも見事なものですよ。日向国辺りで、彼の右に出るものは居ないというほどの腕前です。
 直人殿はどうです?馬に乗られたことは?」
「俺は、馬など、乗ったことはないですよ。もっぱら、舟専門です。陸(おか)の民ではなく、海の民ですからね。穂織殿は?」
 当然、古代社会にあって馬は重要な交通手段の一つであったが、誰でも扱えて乗れる物ではない。それなり高い技術を要した。
「ははは、私も馬はからっきし駄目です。理由は、直人殿と同じく、海の民ですからねえ。でも、お頭は、舟だけではなく、馬も巧みに扱われるんです。それはそれは見事に…。」
「なるほど、確かに海の民にしては珍しきお方ですね、狗留須殿は。」
「お頭は海の民と言うよりは、陸の武人と言った方が適切かもしれませんね。高千穂の生まれだと聞いていますし。」
「高千穂?」
 吉備生まれの直人にとって、初めて耳にする地名だった。
「日向と球磨の間にある、山々のことです。私も行ったことは無いので、詳細はわかりませぬが、火を吹く山など、神々しき山々が峰の如く連なる聖なる国だそうですよ。もしかすると、あの婆さんは、お頭の高千穂時代の知り合いかもしれません。」
「ほう…どうしてそう言い切れます?」
「お頭と婆さんが、高千穂の言葉で馴れ馴れしく話しているのを聞いた者が居るそうです。それに、婆さんはお頭のことを「小僧呼ばわり」していたそうですから。」

 直人は自分の頭の玄馬も器用に馬を操ることが出来ると、誰かから聞かされたことがあったことを思い出した。ここのお頭の狗留須猛も、馬を操るという。共に、陸、海、どちらでもいける武人ということだ。
 共に、得体が知れぬところがあるお頭たちだと、直人は思った。それゆえ、仲が良いのかもしれない。

(にしても、覆面をかぶった女か…。確かに面妖だな。)

 近寄るなと言われると、かえって興味が湧く。
 それに、ここは退屈な他部族の舟の上。

(ちょっと、忍び込んで、その娘とやらを拝見してみようかな…。)
 などと、不埒な考えが浮かぶんでくるのを、止めることができなかった。



二、

 人の活動が鈍くなり見張り番が少なくなる、深夜、夜更け。
 直人はその計画を実行に移そうとしていた。
 
 己は日向の国の者ではない。邇磨の民だ。しかも、この船の上では「客人」の扱い。たとえ潜入が失敗しても、玄馬の手の者。注意をされても、厳罰を受けることはあるまい。そう確信して、ことに及んだのである。
 昼間のうちに、情報を予め入手しておいた。
 誰彼に聞き回らずとも、船内を歩き回って、そこここで噂しあっているのを聞けば、だいたいのことは見通せる。暇を持て余している風を装って、直人は船員たちの噂話に、必要な情報を探り出していた。
 客人たちは直人とは別の船に乗せられている。この船団は三隻に分かれて航海を続けていた。
 最初は直人が乗っていた船が指揮船で、その先頭は穂織が勤めていた。が、お頭の狗留須猛が戻ると、別の船が先頭へと立った。お頭の猛は、直人とは別の船に乗船したからだ。当然、猛が全指揮権を握っているのだから、彼が乗る船が先頭になる。そして、客人は猛が乗船した船に乗せられていることが、わかったのだ。
 航海の途中は、船と船の間を移動することは不可能なので、陸(おか)に停泊した時を狙うしかない。
 好都合なことに、昨日からこの船は瀬戸内の小さき島に停泊していた。
 梅雨末期の豪雨、つまり、嵐が来ると、日和見の船人が言ったので、大事を取って、今日の航行は断念して停泊したのだ。
 船人の中にはその経験から、嵐を予見できる者が少なからず居た。潮の流れや雲の動き、全てから判断して、運行の是非を決める。梅雨末期の雨と言えば、雲行きから豪雨になることも少なくない
 まだ、未発達な技術力の古代船。数十メートルそこそこの大きさだったが、人が横になれるスペースは確保してあった。船底は平らに近かったので、横波に対する耐久力も強いとは言えなかった。
 そんな船で荒れた海に出て行くのは危険過ぎる。船人たちは、風雨や波が凌げる場所へ停泊して、じっと、嵐が通り過ぎるのを待った。
 雷を伴った雨が、ひとしきり降り続き、ようやく過ぎ去った頃には、すっかり日も暮れていた。まだ、時化が残っていて、波が荒い。
 今夜はゆっくり停泊地で宿泊してから、朝日と共に出航することになり、辺りは静まり返っていた。
 各船、見張り番も、いつもより少なめだ。船旅も中盤に差し掛かり、そろそろ漕ぎ手でもある船員たちに、疲労が見え隠れしていた。
 嵐が通り過ぎた後とはいえ、まだ海の波は荒い。この荒海を渡って襲ってくる「敵」も居ないと思われる。それでも、何事があるかわからぬ、暗い海の島。必要最低限の見張りは居たが、他の船人たちは寝静まっていた。
 灯火は欠かせないので、ところどころ見張り番が立つ場所に、松明が赤々と燃えていた。
 厠に立つふりをして、深夜、直人は、布団の代わりにぼろ布や獣の皮をなめした物、藁などが敷かれた寝床から這い上がった。辺りの気配をうかがいながら、息を殺してゆっくりと己の船を降りた。
 船底は平らな船だから、浅瀬に乗り上げて、砂浜近くに停泊している。直人も船人。船の構造には詳しい。ゆえに、船と船の移動は、易々とできた。
 船影が三つ。波間に揺れて停泊していた。
 目指すは頭の船。
 そう思って、水際を歩き始めた時、ポンと肩を叩かれた。

 ぎょっとして、振り返ると、口元に手を当てた青年が、人懐っこく笑っている。
 そこに居たのは、穂織だった。

「穂織殿…。」
 焦りながら、小声で話しかけると、穂織も小声で応対した。
「抜け駆けはずるいですよ、直人殿。」
 と笑った。
「穂織殿ももしかして…。」
「ええ、俺も客人には興味がありますからね…。ちょっと、娘の顔を拝見に。直人殿と同じです。」
 そう言いながらニッと笑った。
「でも、そんな事をしたら、穂織殿は厳罰を受けるのではないですか?」
「まあ、任せてくださいよ。そんなヘマはやりませんから。」
 そう言うと、穂織は綺麗に整えていた髪の毛へ手を当てて、掻き乱し始めた。
「穂織殿?」
 何をし出すのかと、不思議な瞳で、直人は穂織を見た。
「これくらいかな…。さて、今度は直人殿だ。」
 そう言うと、今度は直人に何かを差し出した。
「これは?」
「日向の男の衣ですよ。その格好では、直人殿だと丸判りだ。」
 邇磨の直人と日向の穂織では、明らかに着ている物が違った。同じように荒い麻布で織られた衣服であるが、布の文様と首周りの形が違う。黄ばんだ白のつなぎのような衣服の直人とは違い、穂織たち日向国の民の服には、赤や黒の三角や四角の幾何学的模様が克明な文様が描かれている。
「これを俺に?」
「ええ。着込んでください。幸いあたりは暗いから、顔までは判別できないでしょうから。ああ、着ている今の装束はそうですねえ…裏返しにでもして、腰辺りに結わえておかれると良いですよ。」
 直人は示唆されるままに、その場で日向の装束へと着替えた。そして、己の衣は、裏返して折りたたんも、腰辺りに腰紐で結わえ付けた。暗がりで見れば、日向の船人と違わない。
 着替えたところで、穂織が言った。
「じゃあ、行きますか。」
 そう言いながら、隠れるでもなく、ずんずんと前に進み始める。

「ちょっと、穂織殿?」
 慌てたのは直人だ。
 禁忌を犯しに行くというのに、一向に忍ぶ様子もなく、堂々と歩き出したからだ。
「いいから、いいから。直人殿は顔を隠して、おとなしく俺について来れば良いんですよ。」
 と屈託無い。直人の危惧などお構いなしに、堂々としたものだ。
 そして、頭の船の前に立つと、見張りに手を上げた。
「これはこれは、穂照様。見回りですかな?」
 と見張り番の方から声をかけてきた。
「うむ…。」
 穂織は手を上げてそれに答えた。声も心なしか、いつもより落としめで返答する。

(なるほど…。穂織殿は穂照殿に化けたのか。)
 直人は内心、舌を巻いた。
 穂織がどうしようとしたのか、瞬時に理解したのだ。
 どうやら穂織はお頭と行動を共にし、恐らくこの女人を預かっている船で寝泊りしている兄の「穂照」のふりをしたようだった。だから、己の髪の毛をちょっと乱し気味にして見せたのだ。穂照ならば、この船上をうろうろしていても怪しまれない。
 それを見越して、穂織は穂照のふりをし、直人にも日向の着物を着せたに違いない。
 穂照と穂織。この双子の兄弟は、そっくりそのままだたが、性格はかなり違っていた。身なりも、いつも髪を整えていた穂織と違い、穂照は櫛も通さず乱れていたし、どことなくしだらなかった。それを穂織は逆手に利用したのだ。
 なかなか機知に富むと、率直に感心した。

 こうして、二人はまんまと、客人の船に潜り込んだ。

「どうです?見事な化けっぷりでしょう?見張り番は兄者と見間違えてくれましたよ。」
 くすっと穂織が笑った。
「でも、肝心な穂照殿はどうしています?鉢合わせたら不味いのでは…。」
「それも大丈夫ですよ。日暮れ前に、こっちの船の様子を伺いに出た時、兄者には好物の「酒」を渡しておきましたから。今頃は酔いつぶれてぐっすりと眠っているでしょうね。」
「なるほど…。それなら、鉢合わせる心配も少ない訳ですか…。」
 なんと用意周到な。直人は感嘆した。
「ええ、それだけじゃなく、兄者から、客人の事も聞きだしておきました。船団の中でお頭にずっとくっついていったのは兄者だけですからね…。娘たちを迎えに行くときも、お頭が兄を連れて行きましたし…。だから、兄者の自尊心を横からくすぐってみたら、機嫌よく、色んな事を話してくれましたよ。」
「色んな事ですか?」
「ええ…。まあ、詳細は後でお話します。この先は慎重に行きましょう。」
 そう言って、置かれた櫂を伝って、器用に穂織は船へと登った。それに続いて、直人も櫂をよじ登る。
 こうやって、穂織のおかげで、直人も易々と目的の船に忍び込むことができた。


三、

 船の中は人の気配はするものの、皆、ぐったりと眠り呆けている。そこここから、寝息やイビキが漏れ聞こえて来る。
 一番気を遣ったのは、お頭が眠っている部屋の近くを通り過ぎる時だ。
 中からは灯りが漏れていた。耳を澄ますと、婆さんとお頭の話し声が聞こえた。何を話しているかまでは聞き取れなかったが、宵に任せて、いろいろなことを語り合っているように思えた。

 腰を下げ、ゆっくり、ゆっくり。一歩一歩。慎重に足を運んで、お頭の部屋を通り過ぎる。
 直人は腕も立つので、気配を絶つのも得意な方だった。一方の穂織も気配を絶つ達人だった。
(穂織という男…こいつもかなりの腕だぞ。侮れぬ。さっき、俺の背後から声をかけてきたときも、完全に気配を消していたしな…。)
 足を運びながら、直人はそんなことを考えた。
(この男も敵にはまわしたくないな…。)
 強き者は強き者を良く知るものだ。できれば、敵として戦いたくない。穂織に対して、直人はそんな風に思い始めていた。

 お頭の部屋を離れた後は、できるだけ急いだ。
 いつ、婆さんが戻って来るとも限らないからだ。
 辺りをきょろきょろと見渡すと、御簾で区切られた奥まった部屋へと入った。
 その部屋には、一つだけ蝋燭が灯されていた。ぼんやりと部屋を映し出す光。その奥に、娘は横たわっていた。
 仰向けに寝転がる顔の上には、布きれはかぶさっていなかった。眠っている間は覆面を取っているのか、それとも、無意識に手が布きれをなぎ払ってしまうのか。仔細はわからなかったが、覆面がないということは、二人の侵入者にとっては、この上と無く好都合だった。
 互いに顔を見合わせて、無言で頷くと、すっと近寄って、女人の顔を拝もうと覗き込んだ。

「美しい…。」

 好奇に満ちた四つの瞳は、その女人の顔に釘付けられた。
 眠った顔が、面のように白い。また、結ばれた口もきりっと可憐な中に凛々しさがあった。閉じられた瞳の瞼をなぞるまつ毛も、長い。
 天女がそこに眠っているような、そんな神々しさを感じた。

 そんな、好奇心に満ちた四つの瞳に気付いたのか、ふっと、娘が目を開いた。

「誰?」
 そう言いながら、二人を見やる。

「あ…。いや…その…。」
 もごもごっと穂織が口ごもった。

「何だ、そなたか。穂照。こんな夜更けに何ぞ御用でも?」
 暗がりが幸いして、女人は穂織を穂照と見紛うたようだ。
「あ、いや、俺の配下がどうしても姫様を拝みたいとせがんだもので…。し、失礼しました。」
 そう言うと、直人の袖を引っ張り、そそくさとその場を退散した。
 直人も、人心地を失って、引っ張られるままに、御簾の外へと連れ出される。二人とも、心臓のドキドキが止まらない。いや、止まるどころか、高鳴り始めていた。
 そして、お頭の部屋の前だけは、そっと足を運び、後は一目散に、駆けて船から飛び降りた。

 バシャバシャと水際を、己たちの船の方へと駆け出しながら、二人は興奮気味に語り出す。

「見たかよ?直人殿。」
「ああ…見た。」
「美しい媛じゃ。」
「今まであのような女人、お目にかかったこともないぞ!」
「天女というのはあのような娘を言うのだろうか?」
「いや、天女の中にもあそこまで美しい娘は、そうそう居らぬのではないか?」
 二人とも賛辞の言葉を並べ立てる。
 そして、一気に元居た船へと取って返した。
 己の船へ戻った時は、足音を忍ばせるのも忘れた。
「こらうるさいぞ!」
「静かにしやがれっ!」
 と寝ぼけた怒鳴り声が、方々から浴びせかけられる。それも、気にならないほど、二人は興奮していた。

 互いに、誰の耳もない、船の舳先(へさき)へと倒れるように座り込む。
 ハアハアと息が上がっていた。
 その息を静めながら、二人、暗い天を仰いだ。

「あの覆面の下に、あのような美しき顔が隠れていようとは…。」
「思いもよらなかったぞ、なあ…。」
 甲板の柱を背もたれに寄りかかり、今度は、ふううっと同時に思い溜息を吐き出した。
「何故にあのような娘御が、この船に?猛殿とはどのような間柄なのであろうか。」
 先に直人が言を発した。

「そうそう、それなんだが…。」
 穂織が直人に向かって話し出す。
「兄者に問い質してみたところ、あの客人の娘は、婆様と巫となるための修練に赴かれるのだそうな。」
 と、これまた、気になる言を発した。
「巫になるための修練…?」
 きょとんと、穂織を振り返る。
「てっきり、猛様が妹背にしようとお連れしたのかと思うたが…。」
「まさか。いくらなんでも、猛様が他所の国の娘を娶られることはされぬ。第一、そんなこと、猛様の適妻様が許されぬ。」
 と、穂織が言い切った。
「猛様には既に適妻(むかひめ)がおありか。」
「あの年で独り身な訳、ないでしょう?」
 くすっと穂織が笑った。
「確かに…。普通は女の一人や二人居ても不思議ではない…か。でも、玄馬様には居ないんだよ…これが。」
 ポツンと口にした直人の言葉に、穂織が不思議そうに訊き返す。
「玄馬様には女がいらっしゃらないと?」
「ああ、居ないんだ。女どころか適妻もいらっしゃらない。他所の土地に囲っているという話すら聞いたことがない。」
「それは不思議な…。」
「誰がすすめても、妻を迎えようとはなさらないんだ。」
「跡目は?」
「勿論、居ない。」
「じゃあ、邇磨は誰が継ぐのです?」
「玄馬様が言うには、血を持って跡取りを決めれば、血生臭い争いごとは避けられない。だから、邇磨の海賊は「力」を持って、次の跡目を決めればよい…そんなことを常々口にされるんだ。現に、玄馬様も先代から、力を認められて、頭目を任せられたようなものらしいですから…。」
「女をお囲いにならないということは、玄馬様にも、何か、辛辣な経験が過去にあったのでしょうよ。うちのお頭の猛様とて、結構、なぞめいたことがいっぱいありますからね…。」
「猛殿の跡目は?」
「さあ…。幾人か息子もいますが、まだ幼きにより、これまた決まった跡目は、今のところ居ないですよ。」
「お子様方は、まだ、幼いんですか?」
「え、ええ…。お頭も高千穂出自の適妻を迎えられたのは、結構最近だと聞きましたし…。外の部族にも妹背は居られる、という噂もありますけど…。嫡子はまだ、一番大きい子で七歳にも満たないですよ。」
「互いに、謎多きお頭に仕えている者の苦労は尽きないよなあ…。」
「然り。」
 ふっと声を出して笑った。
 互いに発する言葉も、だんだんに丁寧さが抜けて行く。表面上の仲だけではなく、打ち解けてきているのがわかる。

「で、話を元に戻すが…。あの娘、巫の修行をされると?」
「確かに、穂照はそう言っていましたよ…。」
「巫の卵が何故、日向の船に?」
「恐らく、お頭は火の山周辺のどこかの国や郡の首領の巫となさるつもりなのでしょう。」
「首領の巫?」
「ええ。直人殿はご存知かどうかわからりませぬが、日向や球磨、曽於などの火の山を崇める国々では、首領のそばには、国事を助け、神の言葉を口寄せする「巫」が必ず居るんですよ。
 優れた首領となるためには、良き巫の存在は外せないのですよ。恐らくどこかの長に頼まれて、優秀な巫女を育てるつもりなのでしょうよ。ちょっと前にも似たようなことがありましらから。」
「へええ…前にも似たようなことが?」
「ええ、火の山のふもと、球磨国のどこかの長のために、火の巫女を育てたとか…。」
「あの婆さんが育てたと?」
「いえ、別の婆様でしたね。年恰好は同じような感じでしたが、あのときの婆さんとは違います。」
「ふーん…。その国々に、いろいろな事情があるんだなあ…。」
「邇磨はいかがです?巫は居るんですか?」
「邇磨には巫は居ない。居ないが近くの郡から順繰りに、娘を毎年一人出して、斎島という祭祀の島へ連れ出し、そこで綿津見神を祀っておるなあ。」
「へええ…。所変われば、神祀りの法も違うものなのですねえ…。」
「……にしても美しき人だった。」
 直人がほおおっと深い溜息を吐き出した。
「いずれ、神々しき神を口寄せる、素晴らしき巫となられましょうや…。」
 これまたほおおっと穂織も長い溜息を吐いた。
 二人の上には、途切れた雲の合間から、月が静かに覗いていた。



三、

 船はその後幾許も経ず、目的地の美々津に到着した。
 直人は邇磨の仲間と共に降りたった。初めて訪れる日向の国。
 美々津は現在の日向市の南端を東に流れる耳川の河口に位置し、日向灘に面していた。神武天皇東征の出立点の伝承もある、古代からの湊だ。難波津や娜の大津ほどの賑わいはないが、それでも、そこここに船が停泊して、一定の賑わいを見せていた。

 故郷の湊に、日向の船団が降り立つと、迎えや商いの人々が、沸き立った。
 邇磨郷の人々とは、着ている衣服も髪型も少し様子が違っている。そこここで、幾何学模様の鮮やかな赤や黒が目を引いた。また、忙しなく動く人々の腕や足、そして顔にも幾何学文様は刻まれている。ある者は刺青をある者は化粧(けわい)を。老若男女の区別無く、人々は幾何学文様を好んでいたようだ。

「さて、この船旅もここで一区切りを迎える。」
 そう言って、湊に上がった穂照、穂織兄弟と、吉備直人、そして日留女婆さんとあかねを前に切り出す。
「でも、肝心なのはこれからだ。」
 猛は鋭い瞳で、穂照、穂織兄弟を見比べた。
 何事が始まるのかと、他の船人たちも、興味深そうに荷おろしの手を休めて、聞き耳を立てる。
「穂照、穂織。おまえたちは阿多から出てきて、如何ほどになった?」
「そろそろ三年が来まする。」
 穂照が答えた。
「三年か。長いようで短きじゃ。故郷の阿多で成年式を終えたばかりでこのワシのところへ来たのよのう?」
 穂照と穂織はコクンと頷いた。
「ワシと共に海を駆け巡り、海部としての一通りの知恵と経験は積めたよのう。」
 猛は何を言い出そうとしているのか、穂照も穂織もつかみかねた顔をしていた。
「おまえたちのうち、いずれかの一人が阿多氏の跡目を継ぐ。そして、もう一人は跡目を盛りたて補佐するという役目に分かれる。違うか?」
 二つの頭が同時に揺れる。
「どちらが跡目を継ぐか、決さねばならぬ時期に差し掛かっている。」
 その言葉に、二人の瞳がギラギラと輝き始めた。
 一人は跡目、もう一人はそれを補佐する参謀。と言えば聞こえが良いが、実質、一族の実権を掌握できるのは、跡目になる方だけだ。跡目になれなければ、結局は実権は掌握できない。
 年令が離れていれば、跡目を継げなくとも諦めがつこうが、二人は双子。生れ落ちてから今日まで、ずっと一緒に育ってきた。
 となれば、問題は複雑だった。下手をすれば共倒れになる。危惧した阿多の長、彦穂は、猛に我が子を預けたのだった。
「さて、そこでおまえたちの親父殿と一緒に考えたのだが…。」
 そう言いながら、思わせぶりに猛は二人を見比べた。
「今日を持って、二人にそれぞれ船と配下を与えようと思う。」
 唐突な猛の宣言だった。

「船と軍勢?」
「どういうことだ?お頭っ!」
 二人、顔を見合わせた。

「いずれ、阿多の海部をまとめていかねばならぬのだ。船一艘扱えぬでどうする。おまえたちそれぞれが、それぞれの船の長となって、これからは動け。」

(なるほど、そういうことか。)
 傍らで黙って聞いていた直人が頷いた。
 猛は二人に同じ獲物を与えて、競い合わせ、それぞれの御し方を見た上で跡目を決めるつもりなのだろう。
 だが、若い二人には、猛の意図が酌みかねたようだ。
「お頭、その船で俺たちに何をしろと言うんだ?」
「まさか、戦だなんてこと…。」

「まあ、聞け。これから詳細を話してやる。」
 そういうと、今度は日留女婆さんに目配せした。
「共にこちらへ来や。そして、刮目(かつもく)せよ。」
 日留女婆さんは人型に切った紙を二枚、持っていた。 
 紙は、七世紀初頭、中国から仏教と共に伝来したと言われている。が、まだ、紙を作る技術は未発達だった。それゆえ、気軽に手に入るものではない。だが、婆さんは何故かそれを持っていたのだ。
「さあ、おまえたち、それぞれ、好きなほうを取れ。」
 日留女婆さんは、目の前に人型を出して見せた。
「このヒラヒラは何だ?」
「布のようで、布じゃねえなあ。」
 初めて目にする紙に、阿多の兄弟は興味津々だ。そして、恐る恐る手に取る。
「それは紙じゃ。」
「紙?」
 穂照がきびすを返した。
「へええ…これが噂に聞きし、紙か…。薄いんだな。」
 穂織は何かわかったようで、しきりに感心して見入っている。
「穂織、それを知っているのか?」
 穂照が訪ねる。
「ああ、海の向こうの大国では、仏教の経典や国の正史をこれに書いていると聞いたことがある。」
「こんな、平べったい物に書いて、どうするのだ?」
「束ね連ねて保管するのだそうだよ、兄者。」
「そんなもの、保管してどうするのだ?」
「後の世に伝えるんじゃないのかな。」
「こんな平べったい物、すぐに破れるんじゃないのか?」

「こらこら、話を逸らすな。それから、破ってはならぬぞ。」
 と婆さんは穂照に水を差した。
「今度は、それに強く、己の息を吹きかけよ。」
 言われたとおり、二人は紙に息を吹きつける。何のために婆さんが紙を出し、息など吹き付けさせるのか。穂織も見当がつかなかった。
 と、婆さんは、手をポンと叩いた。と、それを合図に、あかねが蝋燭を二つ、両手に持って来た。それをそっと並べて砂浜に埋めて立たせた。
 そして、日留女婆さんは自ら、火起こしの道具を使って、蝋燭へ火を灯した。

「息を吹きかけた紙を、今度はそれぞれ手に持って、このくらい離して火に近づけてみよ。」
 婆さんは手で、寸法を示しながら、彼ら二人に、手にしている紙を蝋燭の火の上に当てるように言った。

「おいおい、火になんかくべたら焼けちまうぞ?」
「燃やしちまっても良いのか?」
 口々にブツブツと言った。

「つべこべ言わずに、さっさとやれ。焼いてはならぬぞ、あぶるのだ。」
 日留女婆さんに促され、二人は腰をかがめ、燃やさないように注意しながら、紙を火の上に晒した。
 と、みるみる、紙の表面に何か、文字らしきものが浮かび上がってくるではないか。
 今で言うところの「あぶり出し」だ。果物や野菜の汁を筆に取り、紙に書いて消えたところで、火に炙って文字や絵を浮かび上がらせる、アレだ。
 予め、日留女は紙に細工して、文字を描いていたのだ。

「何か浮かび上がってきたぞ。」
「本当だ。何だ?あれは。」

 あぶり出しの原理など知らぬ二人は、尻餅をつかんばかりに驚いた。
 神様か何かが御神託を告げるために文字を浮かび上がらせたように思い込んだのだ。

「どらどら…。穂照の小僧っ子は「南」、穂織の小僧っ子は「北」と書いてあるか。」
 背後からお頭が覗き込んで言った。
「お頭は字が読めるのか?」
 穂織が驚いて彼を見上げる。
「まあな…。」
 識字率が低い当時において、字が読めるのはかなりのインテリである。
「直人は読めるか?」
 穂織が問い質した。
「ちょっとしか読めない。それも簡単な字しか。」
「へええ…。すげえなあ。ちょっとでも読めたらすげえや。」
「玄馬様に少しだけ習ったんだ。」
「邇磨のお頭も字が読めるのか。」
 感心する穂織を横目に、
「字なんか別に読めたって、どうってことないぜ。」
 ぼそっと吐き出した穂照。
「そうかなあ…。字が読めれば、世界が広がると思うぜ。俺は。で?直人はこれがちゃんと読めたか?」
「いや…。生憎、達筆過ぎて読めない。」
「何だ…。字が読めるったって、たいしたことねえじゃねえか。」
 穂照が嘲るように言った。
「何をっ?字ったって、何百、何千とあるんだぞ。その全部を読めるようになるのは大変な時間と努力が必要なのだからな。全く読めぬ奴に、とやかく言われたくはないわ!」
 馬鹿にされて頭にきたのだろう。直人が喧嘩腰に吐き出した。
 雲行きが怪しくなってきたのを、制するように、婆さんが二人の間に割って入った。

「これこれ、話がすぐにそれるよなあ…。黙って、我が話を聞け、小僧っ子たちよ。」
 ウウンと一度、大きく咳払いして、婆さんは話を進めだす。
「これは、これからおまえさんたちが行く方向を示しておる。兄の穂照は南へ、そして、弟の穂織は北へ行くのだよ。」
「何だそれは?」
「何のためにそんなことを?」
 兄弟はきょとんと婆さんを見た。
「それはワシから説明してやろう。」
 お頭が間に入って話し出す。
「さっきも言ったとおり、おまえたちに、我が手勢の船と軍勢、それから何某かの品物をそれぞれ分け与えてやる。そして、穂照は南へ、穂織は北へ向かうのだ。そして、交易して来い。」
「交易ですか?」
 穂織が尋ねた。
「ああ、交易だ。こちらから持っていった品物を他の物に換えるもよし、人を買うも良し、武器を買うも良し。それぞれ自由に交易して、ここへ帰ってまいれ。
 刻限は、そうだな…。今から半年後、霜月二十日だ。」
「霜月二十日。」
「再び戻って来いと。」
 兄弟は互いに顔を見合わせた。
「そうだ。そして、互いの交易の結果をここへ持ち帰れ。それから、その交易の品と軍勢を持って、おまえたちの力量比べをさせてもらう。言わば、二段構えの競い合いだな。」
 にやりと猛が笑った。
「二段構えの競い合い…。」
 穂織が反芻した。
「ああそうだ。海部は交易する力と人を使う力、双方を持ち合わせて居なければなるまいよ。そうでなければ、国をまとめるなどとは夢のまた夢。違うか?」
 穂照も穂織も黙った。
「いずれ近いうちに、この筑紫島も、大和が仕掛ける大陸との騒乱に巻き込まれよう。その時、どうするか。それはおまえたち一族や火の山を崇めるこの島全体の、大きな命題となる。
 それを乗り切る力が必要となるのだ。力無き者はいずれは滅び去る。又は、大国へと併合されていく。
 この船旅の目的は、筑紫島の現状をつぶさに見ること、そして、時代を知ることだ。それぞれ考えて、漕ぎ出せ。そして、今より一回り器を広げて戻って来るのだ。良いか?」
 
「はい。」
「わかりました。」
 二人は神妙に、返答する。

「では、出立するに当たって、もう一つ、それぞれ、大切な命を下す。」
 猛は二人それぞれに命じた。
「南へ行く穂照は、日留女婆さんと豊媛殿を南の火の山、枚聞山の麓へと送って参れ。それから、北へ行く穂織は、直人殿を筑紫国へと送って参れ。」
 それぞれ、別方向へ赴く客人の見送りを命令した。
 どうやら、くじの目的はこの辺りにもありそうだった。
「特に、穂照よ。日留女様はこれから先、阿多氏にとっても重要な方になられるから、間違いなど起こしてはならぬぞ。特に、豊媛様は丁重に扱え。無事に送り届けねば、おまえの頭拝命はないと思え。」
 と命令した。獰猛な性格の彼が、豊媛を強奪することが無いように、釘を刺したのだ。
「勿論です。お頭。お任せください。」
 お頭の言葉の真意が汲み取れたどうか疑わしいが、穂照がバンと胸を叩いた。

  
 そして、猛が二人に命じた次の日から、穂照、穂織兄弟は、それぞれ与えられた船と軍勢にわかれ、別の道を歩き出したのである。


「ふふふ、いろいろと猛殿のお手並みを拝見できて、面白かったわい。」
 穂照の船で、開聞山のある南の海への出立前、こそっと猛に耳打ちした。
「ほんに、上手く我ら客人を振り分けたのう…。最初から、ワシらを穂照に、吉備殿(直人)を穂織にと仕組んでおったのだろう?」
 その言葉を耳に、猛がふっと頬を緩めた。
「ふっ、日留女婆さんにはわかっておったか。そうだ。最初からそのように分かつつもりだったわい。」
「じゃろうなあ…。でなければ、いけしゃあしゃあと、北と南を取り違えて、反対には言わぬじゃろう。おまえさん、この「北の字」を「南」、「南の字」を「北」と言っておったろう?」
「ぶわっはっはっは!ばれておったか。奴らの様子から、穂照は直人殿とそりが合わぬし、対する穂織は、直人殿とうまくやっておったようじゃしのう。どっちを引き当てようが、穂照が引き当てた方が南、穂織が引き当てた方が北。そう最初から決めておったわ。」
 猛が笑った。
「フン。いかにもおまえさんらしいわい。それに、豊媛に興味を持った穂照が、過ちを犯させぬように、釘を刺す辺り、なかなか…。」
「おうさ…。巫女になる前に、適妻にされてしまってはかなわぬでな。」
「そんなこと、するかのう?」
「穂照、あいつならわからぬよ。阿多氏の権力を天秤にかけることによって、抑止力が出るというもの。豊媛を強引に襲えば、権力を諦めることを意味する。あの顕示欲の強い穂照に、権力を諦めることは、回避するだろうさ。」
「なるほどのう…。権力を盾に、抑止はしておるか。では、穂織は豊媛の素顔を見てはおらぬが、そっちは如何いたす?真面目な穂織を、次の闘いの場へ引き出すのに、豊媛という餌は使えぬかもしれぬぞ。」
「その点も大丈夫だよ。穂織は直人殿と、とっくに豊媛様のお顔を既に拝見しているだろうさ。」
「何?それは本当かえ?」
「ああ、十中八九。」
「いつの間に、そのような事を。」
 驚いた婆さんに猛は言い切った。
「嵐の時化で一晩、停泊していたあの時だよ。彼らは停泊していた我らの船に忍び込んで来たのだよ…。」
 猛の言葉に、婆さんが目を細めた。にんまりと笑ったようだ。
「ほう…。そうじゃったのか。そう差し向けるために、わざわざ、あの夜だけ、ワシを豊媛から遠ざけた…とな。ったく、食えぬ奴じゃ。」
 婆さんは、猛の用意周到さに、舌を巻いた。
「が、既に見ていたとして、穂織は豊媛を気に入ったかのう?」
「何、穂照が気に入ったのなら、穂織も気に入った筈だ。
 双子は、嗜好が似ると言うからのう。でなければ、この先が面白くならぬわい。男は惚れた女のためには、命も惜しまぬからのう…。はっはっは。」

「猛よ、貴様、やっぱり、食えぬ奴じゃわい。」
 婆さんは、歯を見せてにっと笑った。
「いや、ワシは阿多の跡目に、素晴らしき巫女を与えようと思っておるだけじゃわい。それ、日留女婆さんよ。おぬしこそ、豊媛を一端の巫女に育てあげて戻って参れよ。」
 その言葉に婆さんは、答えた。

「ああ、筑紫島一の巫女として育てて来てやるわ!日留子が育てておる火の国の巫女以上のな。」
 そう言って、婆さんは天を仰いだ。
 幾重にも重なる雲間から、眩(まばゆ)いまでの太陽の光が、豊媛(あかね)の上に降り注いでいた。
 

 第六部 完


 第七部 追憶編 へ続く



 


 当時の船の構造は、未だ完全に解明された訳ではありません。古墳に埋葬された「船型埴輪」から想像するしか手だてがなく、したがって、この作品で出てくる船も、根拠が無い想像の産物となっておりますのでご了承ください。
 「なにわの海の時空館」(大阪市)の「なみはや号」や、志賀島で再現された「海王号」などの復元事例もありますが、いずれも、この作品で書いているような大型の船ではなく、小型の船です。
 船底もU字型、V字型、平型と説はまばらで、確定的な定説はありません。
 が、この時代、既に遣唐使船が運用されており、そこそこの造船技術があったのではないかと思います。安芸国(広島県)、駿河国(静岡県)辺りの造船技術が高かったと言われています。
 また、火の山を巡る男王と巫女の組み合わせも、創作ですのでご了承ください。つまり、日向編は全般に渡って、想像の産物です。が、記紀神話においても「須佐之男と櫛稲田媛」「山幸彦と豊玉媛」など、王と巫女という組み合わせがたくさん目を引きます。「魏志倭人伝」の「邪馬台国」も「男王と巫女(卑弥呼)」の組み合わせの記述があります。
 この先の話は、記紀神話と記紀記載の史実を組み合わせて創作していく手法をとりますが、多くは私の妄想の産物と思って、読み流してくださいませ。

枚聞山
 開聞岳の旧名として使っています。開聞は「カイモン」と現在では読み慣わしますが、その山の麓に「枚聞(ヒラキキ)神社」という神社が存在します。カイモンはヒラキキを訓読みしたものだという説を取りました。
 この他に、開聞は古くは南から渡ってくる船の目印になった火山でもあるので「海の門」という意味合いで、海門が開聞へと転じたという説もあります。

 

 物語が動いている割には、展開が鈍い!書き手もかなりまどろっこしいと思った第六章。試行錯誤の末、あかねちゃんを日向へ導いてしまった私をお許しくださいませ。最初は筑紫止まりだったのに…。
 次章「追憶編」は娜の大津へと舞台が戻ります。再び、乱馬の章となります…かな?多分。(違っていたりして…)
 
 
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