第六部 漂泊編

第三十話 豊媛

一、

 長雨がようやく小康状態になり、梅雨の晴れ間が広がり始めた昼過ぎ頃、邇磨に停留していた日向国の猛者たちが、再び海路へ就こうと準備をしていた。

「日向の客人は、もう帰り支度を始めておるのか?」
 まだ夕べの酒が身体から抜けきらず、真っ赤に腫らした瞳で、玄馬が吉備津直人を見やりながら言った。
「もう…って、とっくに太陽は真上に来ていますよ、玄馬様。この喧騒の中、良く眠られますねえ…。」
 寝所から顔を出してきた、玄馬に、直人が声をかけた。あまりに遅い朝起きに、業を煮やした直人が起こしにやってきて、やっとのことで目覚めたのだ。
 直人はすっかり酒が抜けきったように、さわやかな顔をしている。同じくらいの酒量だった筈なのに、年の差が物を言うのだろうか。若輩な直人は、太陽の昇天と共に、酒が抜け切ってしまった様子だ。
 それに対して、玄馬は、したたか酔いしれて、そのまま昼近くまで眠っていたのである。それでも、酒がまだ、身体のどこかに残っている違和感がある。
 己も弱くなったものよ…と溜息を吐き出した。
 と、その長い吐息を聞きつけて、また、直人が笑った。
「しっかりなさいませ、玄馬様。もう、猛様の配下の者は、船に荷を詰め込んでいますよ。」
「若い者は元気よのう…。昔はこのくらいの酒、ちっとも酔いはしなかったものを…。」
「そんな気弱なことを言わないでくださいよ、玄馬様。」
 直人が手からすっと水が入った器を玄馬に差し出した。
 気を利かせて、井から水を汲み上げ、土器に入れて持ってきたのだ。 
「おお、これは気の利く。」
 玄馬はそう言いながら、器を片手に取り、ぐぐぐっと一気に飲み干す。
 喉元がゴクリゴクリと美味しそうに鳴った。
「酒の後は水が一番のご馳走じゃな…。」
 ぷはあっと息を思い切りよく吐き出しながら、玄馬が口を右手でぬぐった。
 猛の配下たちは物々交換した、塩やサヌカイトを船底へと運び込んでいる。手馴れたもので、きびきびと動き回る配下の者たちが三十名ほど。
 皆、統制が取れ、良く働く男たちばかりだった。
「それはそうと…狗留須猛の姿が見当たらんが…。」
 玄馬が辺りを見回しながら言った。こういう場では、頭目自らが、先頭に立って働いていても良さそうなものだが、その姿を見つけることができなかった。
「狗留須様なら、今しがた、近くの湊に用事があるとか言って、夜が明けると同時に、自ら小さいくり舟を繰り出して、出て行かれましたよ。」
 吉備津直人が答えた。
「出て行ったのか?朝っぱらから?」
「ええ…。何でも野暮用があるとか何とか。良くわかりませんでしたが、もうここへ戻っては来ないだろうから、玄馬様によろしくとおっしゃっていましたが。」
 伝言を言い付かっていたのだろう。直人が取り次いだ。
「もうここへは戻って来ぬとな?」
「何かこの近くの海部の民と秘密の交易でもあるんじゃないですかね。それとも女絡みの用かもしれませんが…。」
 直人が続けた。
「とにかく、先で本船と合流するから、後は配下に任せたと言い置いて、お供を一人だけ連れて出立されました。」
「この梅雨空に、くり舟でか?」
「雨は上がったし、風向きと雲の様子から、暫く雨がなく、曇天が持つだろうと言っておられましたが…。」
「ほう…。奴にしては熱心なことだな。なるほど…どこかの里で秘密の交易でもしておるのだろうか。妖しの薬の材料やキナ臭い武器でも調達しに行ったのか…それとも、懇意な女が近くの海端の里に居るのかもしれぬぞ。」
 玄馬が笑った。
「そう言えば、岩麻呂はどうした?奴とつるんでいる連中も、昨夜から姿を見ないが…。」
 玄馬が付け加えた。
「ああ、岩麻呂でしたら、今朝方見かけましたよ。どうも、夕べは島を抜け出して、どこかへ行っていたようでしたが…。」
「島を抜けただと?あの雨の中をか?」
 玄馬が直人へと訪ねた。
「ええ。まあ、そんなに激しい雨ではなかったですから、昨夜は。雨にしこたま打たれたのでしょうよ。疲れきった様子だったので、今頃は蔀屋で泥のように眠っているんでしょうねえ…。たく、近くの島か陸(おか)に女でも作りに行ったんでしょうよ。あの一件以来、邇磨の女人は、岩麻呂なぞ、相手にせぬようになりましたから。」
 直人が侮蔑を含んだ言い方で、報告をする。あの一件とは、乱馬との相撲合戦でズルをした事を言っているのだろう。それまで近くに侍っていた女すら、呆れた男だと見限ったようで、岩麻呂にとっては、女日照りが続いているようだった。
「まったく、しょうがない奴だなあ…。日向の方から客人が見えているというのに…。勝手な行動を…。」
 頭目としては捨て置けない、配下の迷走だ。
「まあまあまあ、玄馬様、下手にここに居られて、日向の国の荒ぶった猛者たちと、喧嘩になることを思えば、居なくて丁度良かったのではございませぬか?」
 直人がとりなすように言った。
「まあ、それも否定はせぬが…。」
「そうですよ。ほら、日向の船には、名を確か…穂照とか言う、見るからに腕っ節の立つ荒くれた奴が居たじゃないですか。岩麻呂(が居たら、絶対、喧嘩になっていましたよ。互いに似たような奴らですから、喧嘩なんかおっ始まったら、絶対、怪我人が出たでしょうし…下手すれば、日向の国との関係に暗雲が立ち込めたかもしれませんよ。」
「確かに…そうじゃな。岩麻呂が居なくて良かったのやもしれぬな…。」
「まあ、此度は不問にしておいてやりましょう。玄馬様。」
「良かろう…。変に真面目になられても、迷惑なだけかもしれぬしなあ…。」
 玄馬は呟いた。
「で?猛が先に発った後、荒くれ者たちの船団は、誰が取りまとめておるのじゃ?」
 玄馬が直人に尋ねた。酒に飲まれて寝ていた玄馬には、彼らの動向など知る由もなかったのだ。
「穂織とかいう青年ですよ。」
「穂織…といえば、双子の…。」
「弟の方です。兄の穂照は口より先に手が出るような奴ですが、対して穂織は思慮深いようで、先頭に立って船出の準備に取り掛かっていましたよ。」
 直人が感心したように言った。
「ほう…。弟の方か。うむ、酒の席でも、痒い所に手が届くような配慮をする奴だったのう。」
 玄馬は夕べの宴席を思い浮かべながら言った。
「ええ…。同じような顔をしていても、性格は違って育つものなのですねえ…。双子と言えば、顔だけではなく、性質も似るものだと言われておりますが…。」
「それは、一概にも言えぬじゃろう。育った境遇にもよるのじゃろうて。同じ腹の兄弟とて育つ環境によって、変わるものじゃ。たとえば、葛城皇子と大海人皇子のように…。
 兄皇子育ての葛城氏の狡猾さをそのまま体内に取り込みよった。葛城氏と言えば、古より魑魅魍魎のように大王家に根を張った一族だからな…。蘇我氏、平群(へぐり)氏、臣勢(こせ)氏…いずれの葛城出自の一族ははびこっておるわ。葛城皇子め、頭だけでかくなりよって。
 対して、大海連に育てられた大海人は母なる海の恵みを受けて大らかに育ちよったわい…。同じ父の血を受け、母君から生まれても、ああも違って育つものかよのう…。
 いや、大海人とて何を考えておるかはわからぬか…。あの頃は少年だったから無垢だっただけで…。皇祖母尊から注がれた血は、姿形が違えども、魍魎のようにその児へと受け継がれていくのかよのう…。このワシのように…。」

 ぼそっと玄馬の言葉が漏れた。心の枷が外れたのか、普段は決して口にしない想いが、そのまま言の葉に乗って出てしまったようだ。
 脳裏に、稚き頃の異母弟たちの顔が浮かんで消えた。
 いきなりの玄馬の独り言。そこに大王家の皇子の名前が出てきたのに、直人は少し不思議に思った。玄馬の謎多き過去の一端に触れたような気がした。

「玄馬様?」
 思わず、直人は困惑げに玄馬を見つめ返していた。
「あ…いや、何でもない。気にするな。」
 玄馬は慌てて言葉を切った。
「つい、雄弁になったかのう…。ワシらしくも無い。昨夜の猛の雄弁に、ほだされてしまったかのう。」
 玄馬は笑いながらそう誤魔化した。
 まだ酒がどこかに残っているのだろうか。思わず、漢皇子として飛鳥に暮らしていた頃の記憶が蘇り、そんな言葉を口走らせたようだ。酔っても、決して人に語らなかった昔の記憶だ。もうとっくに捨て去った、漢皇子としての己の過去。
 勿論、この邇磨郷にあって、玄馬の過去を知る者は居ない。都を捨て、皇子という身分も捨て、一介の放浪者として一人飛び込んだ海賊の世界。強い者が生き延び、上にのし上がる弱肉強食の海の男たちの世界。そこで一から築いた今の頭目の地位。
 玄馬殿は大和朝廷の近くに居た人間だと、老齢な連中が噂していたのを耳にしたことがある。中には、大王家の血が流れている堕ちた皇子様だと言っていた奴も居た。
 一瞬、その噂が真実なのかもしれぬ…と直人は思ったが、それ以上、深く尋ねなかった。知ったところで、邇磨の頭目としての玄馬の地位が変わる訳ではない。口さがない連中が揚げ足を取らぬとも限らない。玄馬がこの邇磨の頭目でなくなることの方が困るだろう。
 それなら、何も知らぬ方が良いのだと、さっきの玄馬の言は忘れてしまおうと思った。

「時に、直人よ。」
 玄馬は、改まって、直人を見返した。ここは話題を変えるのが一番だと、無意識に防御本能が働いたのだろう。
「そなた、もう準備は整っているのか?」
 と問いかけた。
「別に、準備などありませぬよ。身一つで参れば良いのですから。」
 直人は、軽く言い放った。

 実は、夕べ、酒盛りの最中に、瀬戸内を抜けるまでの道案内を一人、付けて欲しいと、玄馬は狗留須猛に依頼されていたのである。
 塩飽諸島のみならず、松山沖から別府辺りまでに至る海路には、そこここに「海賊」が出没していた。そいつらの狙いは船に積まれた荷だ。
 日向国まで帰還するのに、できれば無駄な戦いなどしたくはない。そのためには、邇磨の玄馬の威厳がたいそう、役に立つのは自明の理。
 玄馬を頭目に持つ、邇磨の海賊がこの辺りでは一番、名を輝かせていたし、組織も大きかった。他の海賊は、せいぜい部族単位の小さな蛮人ばかりだったし、邇磨の玄馬に逆らうだけの甲斐性もなかった。
 玄馬の威厳を借りれば、容易に、彼らの跋扈する瀬戸内を渡っていける。
 海賊たちの他にも筑紫に停留している大和朝廷関係の船の往来も多い。
 邇磨は乱馬の活躍のおかげで、一応、現時点では、大和朝廷側と「協定」のようなものを結べ比較的自由に航海できるようになっていた。玄馬が大和の船に手を出さぬと誓約した以上、他の海賊たちも、渋々従ったのだ。邇磨の玄馬が通行を容認したゆえに大和の船の航海は保障された。が、他の遠国の交易船はそうもいかなかった。かえって、大和国に関係しない船が狙い撃ちされる事態が相次いでいたのだ。
 海賊や朝廷の船の攻撃から身を守るには、邇磨の玄馬の手のものが、印籠のような通行証を持って乗船していれば、事足りる、そう、狗留須は判断し、玄馬に要請したのだ。
 誰でも良いから、配下の者を、道先案内人として、日向国まで同乗させて欲しいと、宴席の際に言ってきた。
 どうやら、狗留須たち、日向国の船団は、往路、そこここの海で遭遇した諍(いさか)いごとに懲りていた様子だった。

「急な事になってすまぬのう、直人。ここは、おまえに頼むのが一番だと思ったからのう…。」
 玄馬が言った。
「いえ、私を選んでいただいてありがとうございます。玄馬様。
 これは経験を重ねる良い機会。日向国の海男がどんな風なのか、見知っておいても損にはなりますまい。それに、筑紫国がどうなっているか、この眼でしかと視てきます。」
 直人の瞳が輝いた。
「そうじゃな。ここらで筑紫国の様子もちゃんと知っておかねばならぬし…。」
「何より、乱馬殿の動向も気になられるのでしょう?」
 直人は笑いながら言った。いつも玄馬の傍に仕えていた彼には、何となくわかるのだ。他の誰よりも、乱馬殿のことをこの海賊の長は気にかけているということが。無論、直人には、それが、血の成せる技とは思いもよらぬことだったが。
「ああ、そうだな。乱馬殿の要請に応じて、いつでも邇磨から兵士として男たちを繰り出せる状況にもしておかねばならぬし…。筑紫国の様子を知ることは、今後の邇磨にっとっても、重要な事柄に違いないからな。」
「ですから、お受けいたしたのです。日向国から筑紫国へ出向き、かの地の様子を見てまいります。」
 直人が言った。
「本来なら、邇磨の頭目である、ワシ自らが赴くのが一番良いのだが…。」
「それはさすがに無理です。玄馬様が邇磨から出てしまわれたら、我らはその日から路頭に迷いましょう。玄馬様の代わりに私が行って、お役目を果たして来ますから、ご安心なさいませ。」
 勢い良く答えた。若者らしい奢らぬ気概に溢れている。
「おうさ、しっかりと役目を果たして来い。直人よ。」
「お任せください。」
 頼もしき、邇磨の青年の向こう側に、梅雨の晴れ間から青空が覗いた。



二、

 梅雨の湿気を含んだ空に浮かぶ太陽が、西に傾き始めた頃、あかねは正気を取り戻した。

「おや、目覚めたかね?」
 傍で見知らぬ婆さんが笑っていた。

 岩麻呂たちに襲われそうになった折、すんでで助けてくれた婆さんは、実は食わせ物だった。内海の孤島に、巫女となる娘を求めて入り込んで来た婆さん。求める巫女が身罷ってしまい、代わりに、助けたあかねを巫女に据えようと腹に一物を持っていたのだ。
 まんまと、その姦計にはまり、あかねは婆さんの手に堕ちた。
 腹ごなしと偽って、怪しげな薬入りの海鮮汁を飲まされたのだ。あかねの記憶を消し去るための薬。

「ここは…。」
 ゆっくりと起き上がって、手を見つめた。
 頭の中に薄い靄がかかっているように、何事も思い出せない。いや自分が何処の誰であるか、何故ここに居るのか。何一つ、脳裏に浮かんでこなかった。
「どうじゃ?気分は?まっさらで爽快であろう?」
 婆さんはにっと笑って見せた。
「私は…一体…。」
 あかねの言葉を推し戻しながら、嫗は言った。
「何の心配も無い。そなたは、ワシの施した儀式によって、巫(かむなぎ)に生まれ変わったのじゃ。」
「巫…。」
 小さな火明りがあかねの虚ろな目の、すぐ前で揺らめいていた。その火元から、芳しき甘い香りが漂ってくる。
 婆さんは火をくすぶらせた香木を手にしていたのだ。その火明りを、あかねの瞳のすぐ前に照らしながら、呟くように言った。

「そうじゃ。そなたは、これから汝は常にワシと共に在り、真の巫となるために修練を積むのじゃ。」

 その言葉が、ズンと胸に大きく響き渡った。
 あかねは、暫し、火を見ながら恍惚の表情を手向け始める。

(素直な良き娘じゃ。早速、我が術にかかり始めたわ。ふふふ、これは御し易い。)
 婆さんは目の前のあかねの変化に、満足げに微笑んだ。
 そう、彼女は一種の催眠術を使ったのだ。香木の甘い匂いであかねの心を誘導し、意志を思いのままにマインドコントロールをする術を知っていたのだ。
 婆さんが使用したお香は催眠術を速やかにかけるための呪薬でもあったのだろう。人の心を縛り、傀儡にする、危ない呪術をかけるのに有効な薬を含んでいる。

 浅い催眠状態に入ったあかねを、婆さんは良いように誘導し始めた。

「そなたは、ワシの命令には背けぬ…。今後はこの日留女の命ずるままに、そなたの心を預けよ。」
 その言葉に、あかねはコクンと頷いた。瞳は半分閉じられたように虚ろで、香木の煙をじっと見据えていた。

「そなたは、火の山を統べる優秀な巫女となれ。これはワシの、日留女(ひるめ)の命令じゃ。わかるか?」
「はい。」
 あかねは透き通った声で、婆さんに答える。
 そこに、最早、己の意思は介在していなかった。
 甘い芳しき匂いと、婆さんのゆったりした言葉が、あかねを束縛していく。
「さて…。まずはそなたに名をつけてやろう。そなた、これからは豊(とよ)と名乗るが良い。」
 婆さんはあかねに命じた。
「吾が名は、豊…。」
「そうじゃ。そなたは今から「豊媛(とよひめ)」じゃ。良き名じゃろう?」
「豊媛…。良き名…。」
 ゆらゆらと、あかねの瞳の前で煙が立ち昇る。
「これからは神を斎くためだけに、そなたは存在するのじゃ。余計なことは全て忘れよ。思い出すな…。そなたの故郷も、本当の名も、今までの記憶全てじゃ…。本当の名を忘れ、記憶を捨ててしまえば、他の術者に呪詛されることもないしのう。」
 呪詛や祭祀が平素から行われてきた呪術的な古代社会にあって、巫女たちにとって「己の名前」は最後の砦でもあった。本名を他の者に知られることは、それだけ危険を孕むことを意味したからだ。それゆえ、宮中の巫女ですら、本名ではなく、通称で呼ばれることが多かったかもしれない。

「この香木の煙が消えゆくごとく、全ての記憶を心の奥底に沈めて、封印するのだ。…そして、豊媛。それがそなたのこれからの名前。」
 婆さんは思わせぶりに、あかねの目の前で香木を煙らせた。白い煙がもうもうと立ち上がり、空気と交じり合って消えて行く。
 あかねの脳内が煙で満たされ、香木のかぐわしき香りで胸がいっぱいになった。そして、煙は己の脳裏にまとわり就いて、全てを真っ白に変えていく。そんな感覚にとりつかれた。
 その合間から聞こえてくる、老婆の声は柔らかで優しい。

「忘れよ…。そして、これから、新たに始めるのじゃ…。豊媛。」

「はい…。仰せのままに…。」

「それでは、これをそなたに与えておく。」
 そう言いながら嫗は懐から布袋を差し出した。黄色がかった荒い麻布だ。その中央辺りに、小さな穴が二つ開いている。
「これは…。」
「これは、顔を隠す布きれじゃ。」
「顔を隠す布?」
「いかにも。これからはこれを用いよ。」
「これで、顔を隠すのでございますか?」
 あかねは不思議そうに日留女を見返した。
「ああ、巫たるもの、その素顔は容易に他人にさらしてはならぬ。まだ、そなたは正式な巫ではないが、それを約束された媛。従って、不用意に顔をさらしてはならぬのじゃ。」
 あかねはその覆面用に差し出された布切れを、困惑げに手に取った。見るからに粗末で貧相だったからだ。
「今は急場ゆえに、それしか持ち合わせぬが、そのうち、そなたに具わった面を作ってやる。それまでの仮の面じゃ。ずっとそれで通せという物ではない。」
 嫗は笑った。明らか、あかねが戸惑っていたからだ。
「さあ、豊媛その布を頭からすっぽりとかぶれ。そなた、我が命には絶対服従…ちごうたかな?」
「は、はい…。」
 あかねは躊躇いつつも、布を頭にあてがった。日留女の命令は絶対だったからだ。嫗は命じられるままに、仕方なく、布きれを頭からすっぽりとかぶった。

「そうじゃ。人に不用意に素顔をさらすでないぞ。食事の時と禊の時以外はそのままで居よ。それと、声も人には易々と聞かすな。」
「声もでございますか?」
「ああ、声もじゃ。神秘なる巫女は、やたらと物を言わぬものじゃ。でなければ、御神託のありがたみも失せるというもの…。」
「御神託?」
「ああ、おまえは巫になるのじゃ。神との仲立ちをする…だから、これからは人と言葉を交わすのもままならぬ!良いな?」
 と念を押された。
「はい…仰せのままに。」
 あかねの声が覆面越しに流れる。
「では、もう暫し、眠るが良い。この香木を嗅げば、穏やかな眠りの淵に落ちて行くぞ。そして、香木の香りが尽きると同時に、全ての記憶を封印せよ…豊媛。」
 婆さんが話し終わると、すううっとあかねの意識が再び、混濁し始めた。香木の甘い匂いに、魅了されるように、淡い眠りに落ちていく。
 うつらうつら…。身体もゆらゆらと揺れ始め、座しているのも夢心地の様子だった。
 やがて、彼女の身体は均衡を失い、崩れるように前に倒れ掛かった。
 その身体が傷つかぬように、婆さんは全身で彼女を受け止めた。老婆とて修練を積んだ肉体は脆くはない。あかねを受け止めると、ゆっくりと背中をさすってやった。あかねの長い髪が、婆さんの頬にかかる。

「まこと、良き娘じゃ…。豊媛。…眠ったか。再び。」
 ふううっと日留女婆さんが溜息を吐き出した。
「どうやら、上手くいったようじゃな。我が傀儡の呪術も、好調に働き始めたわい。」
 あかねの身体を抱きかかえながら言った。
「これで、あとは、この娘を巫に仕立て上げるだけよ…。それにても…美しき媛よのう…。これは楽しみじゃわい。育て甲斐があるぞ。
 どの国許へ連れて行っても、重宝がられる美しき巫よ。
 大王一族の巫女など、足元にも及ばぬほどの斎媛として育ててやるわい。のう…。豊媛。」

 そう言いながら、嫗はあかねに嗅がせた香木の火をふっと吹き消した。

「さてと…。迎えの舟が来たようじゃ。」
 そう言いながら、立ち上がり、裾や尻についた砂を、手でぱっぱと払った。

 日留女の視線の先に、真っ直ぐとこの島に向けて漕ぎ寄せてくる舟を見つけていた。波間に揺られながらも、まっすぐとこちらへ向けて近づいてくる。
 見慣れた「日向国」の海部のくり舟だ。
 目を凝らすと、人影が二つ見えた。


三、

「久しぶりじゃのう…。日留女ババア。」
 漕ぎ寄せる舟の中から、男が声をかけた。
「何、ばばあ呼ばわりしておるかよ。狗留須の小僧が。」
 婆さんはにっと笑った。
 なだらかに入り込んだ島の入江浜に、舟でそのまま進入した。ゆらゆらと波間が揺れて、男たちが降りて来る。


 
 乗ってきた男は、玄馬のところに滞在していた狗留須猛と穂照だった。穂照を漕ぎ手としてやってきた様子だった。彼らが一足早く、玄馬の元を発ったのは、この斎島へ立ち寄る目的があったようだ。
 斎島はこの塩飽辺りの漁村や海賊たちが崇める神の島。さすがに、そこから巫女さらいをするとは、邇磨の玄馬に言える筈も無い。だから、彼が酒に酔いつぶれて寝ている間に、出てきたのだ。

「どうじゃ?今度こそ、良き巫女を確保できたかのう?」
 男は降り際に、声をかけてきた。
「おうよ!極上の娘が手に入ったわ。それ、そこに。」
 砂浜の上に寝かせてあるあかねを、指差しながら、日留女は笑った。
「ほう…。今回は上手く巫の種が手に入ったのか。それは目出度い。どら…。」
 そう言いながら、あかねがかぶった布切れを、そっと右手で持ち上げようとする。
「これ!この娘は巫ぞ!気安く穢れた手で触るでないわい!」
 日留女が吐き付けた。強く言われて、猛は布にかけていた手を離した。
 それから、カカカと高笑いしながら日留女に言った。
「何が穢れた手で触るでないだ!ワシが触らないで誰がこの娘を舟まで背負って行くんじゃ?日留女ばばあ、そなたが背負って行くのかよ?娘御とはいえ、重いぞ!」
 と、意地悪く、言い放つ。
「たく、相変わらず、口の減らぬ奴じゃ。この小僧は。」
「小僧、小僧言うな!ワシはとっくに成人しておるぞ。ばばあよ。」
「何、おまえさんなぞ、このばばあから、見ればひよっ子じゃあ。わっはっは。」

「あのう…猛様…。特別な御用というのは、もしかして、この娘っ子を迎えに来たのかよう?」
 傍で、目をくりくりさせながら、穂照が問い質した。

「おまえさんとこの若い衆かい?」
 日留女はじろりと、瞳をめぐらせて、穂照を見た。

「おうさ、こいつは阿多氏(あたうじ)の小僧よ。」
 猛は先に、日留女の問いかけに答えた。
「ほう…確かに、阿多氏の好きそうな刺青が腕に入れてあるよのう、この小僧っ子には。」
 婆さんが不思議そうに穂照を見返した。
「ちぇっ!ワシが小僧ならこいつは小僧っ子かよ。まあ、良いわ。」
「では、この小僧っ子が彦穂の跡目の…。」
「あ、いや、まだそうと決まった訳ではない。婆さんも聞いたことがあろう?阿多の彦穂には双子の男児が居ると。」
「ああ、そうじゃったな。阿多の彦穂の適妻には双子が居ると。いずれ劣らぬ、肝の据わった男児だとも。
 でも、阿多の彦穂と言えば、南の火の山一帯を支配する一族だよな、猛。」
「おっと、初めてワシの名を呼んだな。ふふふ、まあいろいろとあってなあ…。
 おうさ、前にも言ったと思うが、阿多の彦穂から二人の息子を、託された。ワシのところで預かってやっておるのよ。その一人がこいつ、穂照じゃ。」
 がっと頭を掴んで、穂照を前に押しやった。
「他にも、もう一人、こやつと同じ顔をした穂織という青年も一緒に預かっておる。」
「もう一人も、やはり、この小僧っ子と同じ顔をしてるのかよ?」
 じろりと婆さんは穂照を見た。
「ああ、同じ顔だな。鏡を見たように似ておるわ。じゃがよう、姿形は瓜二つでも、気性はかなり違うがな。」
 猛が笑いながら言った。
「ふーん、同じ顔でも気性は違いなさるか。」
「まあ、そいつは、本隊と合流すれば、わかるというもの。」
「で?こやつの片割れ(穂織)には、今回の仔細は話しておらぬのじゃな?」
「ああ。別に必要なかったからな。それに、邇磨の玄馬のところで世話になったから、下手に話して、「巫女さらい」の事を邇磨の奴らに知られるのも不味いと思ってな。」
「そりゃ、そうだろうよ。巫女をさらいに行くなどとは、口が裂けても言えぬじゃろうよ。この斎島は邇磨郷の連中が主となって、祭祀しておるからのう…。」

「巫女さらい?……。お、おい、まさかと思うが、頭目。この娘…。そして、この島は…。」
 日留女と頭目、猛の会話に、だんだんと疑問が解けてくる。そこへ、猛は容赦なく突っ込んだ。
「おまえが思っているとおり、ここは斎島だよ、穂照。おまえの故郷にも同じような場所はあるんじゃないのかえ?海の安泰を守るために設けられた「巫(かむなぎ)」の聖域。巫女の島が。」

 その言葉に、穂照の顔色が、おもむろに変わった。蒼ざめたのだ。
 聖域へ足を踏み入れることの如何(いかん)を、瞬時に悟ったのだ。
 穂照の属する「阿多氏」も海の民だ。猛が指摘したとおり、彼の故郷にも神と人とを介(かい)する「巫(かむなぎ)」は存在した。火の山に近いため、少し様子は違うが、やはり、海の航海や漁場を安泰にする「巫の居ます場所」は冒すことが出来ぬ聖域であった。
 ガクガクと足が震え始める。
 
 その有様を見て、日留女が笑った。
「ほう、思ったより純粋なのだな。阿多の民は。ここが斎島だと聞いただけで、震えておるわ。」
 そして、穂照を見て言った。
「何、小僧っ子、心配は要らぬ。確かにここは聖域。じゃが、この娘はここへ送り込まれた、この近辺の邑娘とは違う。この娘、厳密に言えば「巫女」ではないからな。」
 日留女の皺枯れた声が砂浜に響く。
「ほう…、それは面妖な。この娘、日留女婆さんが前から目にかけていた、巫女ではないのか?それ、まだ白い物がチラチラ舞う頃に、ここへ来て良い娘を見つけたと、楽しげにワシに言うていたではないか。」
 猛が問い質した。
「ふん、期待通りに物事は運ばぬから、世は面白いのじゃ。」
「では、その娘とは違うのか?」
「まあな。あの時目にかけてやっていた巫女は、とうに死んだ。ここへ迎えに来てやった頃には骨になっておったわ。」
「では訊くが、この娘は何なのだ?巫女を二人立てるなどとは、聞いた事が無いぞ。」
 猛の問いに、日留女は淡々と答えた。
「どうやら、朝廷の采女(うねめ)になるために、東(ひむかし)から海を渡って来た娘のようじゃ。」
「朝廷の采女だと?どういうことだ?そいつは!」
 猛が勢い込んで、日留女に尋ねた。
「何、目にかけておった巫女が死んで途方に暮れておったら、どういう了見か、海賊どもが、大和船団を襲ってさらってきたこの娘をこの島に渡って来おったのよ。この娘の美しきに傾いた痴れ者たちだったんじゃろうな。」
「海賊がだと?この辺りの海は邇磨の玄馬が目を光らせているから、朝廷の船を襲うなどというそんな馬鹿な海賊が、はて、居るのかのう?」
「ほっほっほ。現に居たからこそ、この娘が手に入ったのじゃよ。仔細はわからぬが、大勢の男たちが寄って集って、この娘を憂き目に合わせようとしておったところを、ワシが助けてやったのじゃ。」
「ほう…ますます、嘘臭いのう。娘を手篭めにしようとしていた奴らの素性はともかく、か弱いばばあの手で、海賊どもから娘を助けられるものなのか?日留女婆さん。」
 疑わしい瞳で猛は日留女を見た。その目つきに、気分を害したのか、日留女が吐き出した。
「ふん!ワシを誰じゃと思うておる。海賊など、所詮は思慮に欠ける痴れ者たちよ。ちょっと屍を使って脅かしてやったら、這う這うの体で逃げていきよったわ!あっはっはー。」
 日留女婆さんは、口を大きく開けて笑った。
「まあ、良いわ。いずれにしても、その娘が此度の…。」
 顎にはやした無精ひげを手で擦りながら、猛があかねを見下ろした。
 これから何処へ連れ去られるのか、気にかけることなく、眠りに落ちている。
「これからワシが自ら手塩にかけて、一流の巫に育ててやるぞよ。それ、そこの小僧っ子!」
 婆さんは、蒼ざめていた穂照に向かって命令した。
「いつまで呆けておる!さっさとワシらを舟に連れて行け!うかうかしておると、夕闇が降りてくるぞ!」
「穂照。ほら、行くぞ。あまりのんびりしていると、本船が先に日向へ行ってしまうぞ!」
 日留女ばかりではなく、猛も穂照に発破をかける。

「たく…。お頭は人使いが荒い…。罰が当たっても知らねえぞ。俺は…。海の神様よう、巫女さらいの罰を当てるなら、お頭と婆さんにしてくれよ…おい。」
 ぶつぶつと文句を言いながら、仕方なく、あかねの身体を持ち上げた。
 あかねの長い髪の毛が、穂照の鼻先に軽くかかった。ふんわりふわふわ。妙な感覚が穂照の心を突き抜けて行く。
「うへ…。女を持ち上げるのは初めてだが…。柔らかけえ…それに、良い匂いがする。」
 罰当たりなことをしていると焦っていたくせに、娘の柔肌に触れると、ドキッと心音が唸った。
 と、艶かしい磯風が穂照の脇を吹き抜ける。その風に揺られて、ふわっとあかねの顔を覆っていた布が、はためいた。
 ちらっと穂照の視界に入って来たのは、見たこともないほど美しい姫だった。
「わわ…。こいつ…。何て綺麗な顔してるんだ…。阿多の女にゃ、こんなに良い女は、どこ捜してもいねーぞ。」
 思わず、大きな声で叫んでいた。

「こらっ!勝手に巫女の顔を覗いてはならぬ!」
 日留女が怒鳴った。

「まあまあまあ…。このような覆面をしておれば、誰だって覗きたくなるのが心情だろうが。どら、やっぱり、ワシも拝ませて貰うかな…。」
 猛までもが、あかねの顔を真顔で覗き込んだ。
 さっきは日留女に止められたので、無下に覗こうとはしなかったが、穂照が覗き見たので言い訳も立つ。と、そそくさとあかねの顔の布をめくりあげた。

「おお…。これは…。」
 と言ったきり、息を呑む。
「確かに美しい娘じゃ。婆さんが上玉だと言うのもわかるぜ。それに、確かにこいつは、この辺りの里の娘じゃないな。」
「そんなことがわかるのか?お頭!」
 穂照も興奮気味に尋ねた。
「おうさ…。この辺りの里の娘なら、もっと日に焼けて肌も黒いが…。見てみろ、この娘の肌は玉のように白い。こいつは、深窓に育ったことを如実に物語る白さだぞ。」
 着物の裾から覗く、あかねの白い柔肌。外での農作業や漁場で働く娘なら、ここまで白くはないだろう。
「指だって、綺麗だ。ごつごつしてない。朝廷の采女となる娘だろうというのも、あながち嘘とは思えぬな…。」

「はなから嘘偽りを申したつもりはないぞ。ワシは。」
 日留女婆さんが笑った。
 だが、唐国の導師が呪術を持って、あかねに変化して立ち去ったことは、喋らなかった。話したところで、真実味が欠けると、一笑に付されるだろう。それに、唐の導師が絡んでいるところを見ると、危険な香りがしたからだ。
 さわらぬ神に祟りなし。
(まあ、あの事はこのワシの胸のうちに秘めておくべきじゃな…。)

「いずれにしても、優れた巫に育て上げてやるわい。さあ、さっさと舟へ運べ。」
「お、おう…。」

 現金な者で、目の前の美女を見て、穂照の態度が一転した。さっきまではあれほどに、斎島を荒らすことを躊躇ったのに、すすんであかねを負ぶり、舟へと水際を歩き出した。




第三十一話 穂織と直人 へ続く






豊媛(とよひめ)
 穂照、穂織が絡むと言うことで、記紀神話から引っ張ってきました。
 記紀神話では火遠理(山幸彦)と結婚し、その子孫が皇族になったと伝えられる「豊玉媛」から引っ張ってきた名前です。
 え?じゃあ、この物語の展開は?…それはお楽しみに。

阿多氏(あたし)
 九州南部、開門岳一帯を治めていたという豪族です。記紀神話から天皇家と古くから関わりがあったようです。
 海幸彦、山幸彦の神話は阿多氏に伝わる伝説を元にしているとも言われています。
 
 
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