第三話 妻問い




一、




 初秋の気まぐれな空から通り雨が降り注ぐ。


 昨日、あかねからあの赤い勾玉を見せられた時から、何かしら己の血が騒ぐのが面白いほどにわかった。


(いずれ、あの子がここへ現われるかもしれない…。)
 斎媛はそう思うと、ふうっと溜息を吐き出した。
 嬉しい反面、その心情は複雑でならなかった。


 呪術に長け、八百万の神々を憑依させることもできる、この女性は、己の血の騒ぐのは、運命の帰路に立たされていることを如実に物語っていることに気がついていた。
 再びあの赤い勾玉と出会えるとは思ってもいなかった。ましてや、その玉を持っていた青年とは…。


(あの子は、茜郎女に求愛できる年頃までに、成長したのだわ…。)


 二十年間、置き去りにされた「母」としての想い。
 それが一気に逆流するかのように蘇る。


 確かに己にはこの腹を痛めて産み落とした息子が居た。生まれて直ぐに、乳房も萎えぬままに引き離された我が子。名前も知らぬ我が子。ただ、飛鳥の都から遠く離れたどこかの国の地の一豪族に預けられたとだけしか詳(つまび)らかでない消息。
 勿論、息子のことを思わない日々は無かったが、かといって己の力ではどうすることも出来ない境遇に、この胸を焦がし続けてきた。








 斎媛は自分自身を思い返すように、そぼ降る細雨を眺めていた。




 あれは今から二十年近く前のこと。
 まだ「長閑郎女(のどかのいらつめ)」と自分が呼ばれていた頃のこと。


 当時政界の中央に君臨していた蘇我氏一族。その族長、蘇我蝦夷を父に生まれ育った名家の娘。それが彼女、長閑郎女だった。
 蘇我氏は蝦夷の父、馬子の時代より、進んで天皇家へ娘を輿入れさせ、嫡子たる男子を産ませ、それを天皇へと仕立て上げる、いわゆる「外戚政策」で実権を握っていた。
 大陸文化をいち早く取り入れ、この大和に仏教を広めたのも、蘇我氏と言われている。崇仏、廃仏を巡って事あるごとに対立していた物部氏を馬子が五八七年に滅ぼして以来、その権力は蘇我一族に集中していた。
 その勢力の拡大の牽制へと回っていた聖徳太子の死後、蘇我一族は、我が者顔で、ますますこの世の春を謳歌していた。
 その当時の蘇我蝦夷、入鹿親子を中心とした蘇我氏の権力は、天皇家をも凌ぐほどだったと言われている。


 蘇我本宗家(そがほんそうけ)の勢力が絶頂期にこの世に生を受け、穏やかに育った、それが長閑郎女であったのだ。


 だが、幸せだった少女時代は、突然暗転した。


 父親の蝦夷が彼女に入内を強要したからである。
 蝦夷が彼女に選んだのは、時の大王、舒明帝であった。
 

 舒明帝は敏達帝の孫にあたる。
 舒明帝は推古女帝が亡くなった後、聖徳太子の子、山背大兄皇子と皇位を争い、蘇我一族の後押しを得て、皇位をもぎ取った実年の天皇だった。
 蘇我氏と強く結ばれながらも、離れていった聖徳太子一門を遠ざけて、蘇我蝦夷は当時、田村皇子と呼ばれていた舒明帝を即位へと導いたのだ。
 即位した時、既に四十前であった実年の大王。
 長閑郎女から見れば父とも見紛う世代の夫。彼への輿入れはどうしても相容れられなかった。長閑郎女は一緒に入内した異母姉の手杯郎女とは違って、おっとりとした外見からは考えられぬくらいの激情を内に秘めた女性であったのだ。
 美しい媛と呼び声も高かったため、舒明帝もたいそう喜んだらしいが、長閑は入内直後、一人の青年と通じた。
 それは一人の少女の運命を変えてしまうくらいの激しい恋情であった。
 ただ一度きり、深く交わった事で妊娠してしまったのである。
 当然、父の蝦夷の怒りを買った。
 もとより覚悟の上での恋愛だった。だから決して後悔はなかった。
 やがて妊娠が知れると、彼女は母方の実家で一人の男児を産み落とすことになった。妊娠していることを知ると、舒明帝の怒りを先に鎮める形で、蘇我の一族から引き剥がしにかかったのだ。
 そして、彼女は生まれて直ぐに子供とは引き離されたのである。父の蝦夷の手によって。
 本来ならば、不義を及ぼした妃は斬首されてもしかるべきであったが、舒明帝は年端のいかぬ彼女の命までは取ろうとはしなかった。慈悲を持って斬首は許された。
 舒明帝は彼女の父、蝦夷と、密通相手にそれなりに気を利かせたらしかった。生まれてくる子が男ならば捨て、女ならば蘇我氏の娘として育てる。そういうことになったのである。
 やがて、彼女は男子を産んだ。そして、引き裂かれたのだ。約定どおり。


 時代が作り上げた悲劇であった。


 赤子を産み落とした後、彼女は蘇我氏から駆逐された。そう、母方の伝を使って他の氏族へと追放されたのだ。
 彼女の落ち着き先は当時武人の連として頭角を現し始めていた天道氏だった。




 天道氏にその身を寄せていた彼女に、やがて巫女的(ふじょてき)な超力が開眼した。
 元々素質があったのだろう。


 長閑の今の身分はは天道氏の一族の信仰する神の斎媛だ。今では天道早雲やその一族から敬意を持って「斎媛(いつきひめ)」と呼ばれて居たのだ。
 斎媛とは本来、格高い神へ仕える巫女であった。皇祖神を斎(いつ)く巫女(ふじょ)は「斎宮(いつきのみや)」と呼ばれていたが、それと同じような立場の斎媛が、当時の世には各氏族に居たと言われている。一族の若い姫御子から卜占などで選ばれて、それぞれの氏神に仕える。時にはシャーマン的な役割も担っていたとしても不思議ではあるまい。
 その代表的なのが「石上神宮(いそのかみ)」の斎宮だろう。石上神宮は神の祭祀(さいし)を司った豪族、物部氏の氏神でもあった。もっとも、石上神宮のみが、「神宮」の名称を与えられているので、当時から別格だったのかもしれないが。
 本来、斎媛は男性と通じたことのない未婚の女性がそれを勤めた。普通、女性は男と通じだ段階で、巫女的力を失うと言う。だが、彼女の場合はその逆を行った。
 そう、男と交わりを持ち、子供を儲けている。
 斎媛が男と交わることは、禁忌とされてきた。男を断つことで、シャーマン的霊力が得られ、仕えると頑なに信じられてきたからだ。斎媛は神の嫁であり、一族皆の運命をも左右する大切な役目だと信じられていたからである。
 だから既婚女性は本来は斎媛という身分にはなれない。
 だが、彼女のシャーマンとしての資質は素晴らしく、男児を産み落とした後、その超力が見事に花開いた。本来、立てない斎媛という役割を、長閑は見事にやってのけた。
 彼女の卜占は正確かつ、論理的だったのだ。しかも物事を良く見抜き、当てた。
 青雲、早雲と二代に渡って、この氏族の政を占い、助けてきたのである。本来ならば打ち棄てられて果てるだけの身の上。だが、彼女はたまたま持ち合わせた霊力で斎媛としてこの天道氏という一族に重宝がられた。
 そんな素質を持つ彼女を、早雲の父、青雲は保護し守ったのだった。
 天道氏が国司として常陸の国へ下向すると聞き及んだ時、すすんで同行を求めたのも、世話になっている早雲の政を助けるために霊力を使うということ以外に、大和を離れた息子や夫の消息を聞けるかもしれないという淡い期待があったからだ。
 現に消息に繋がる情報を得ることが出来た。
 ずっと心の中だけで追い続けてきた夫と息子の所在。十数年ぶりに浮き上がってきた息子らしき消息。
 己が赤子に託した赤い瑪瑙の勾玉が茜郎女の胸に光り輝いている、その事実。


 茜郎女に求愛したのがその息子かもしれない。


 そう思うと、居ても立ってもいられぬ気分であったが、「斎媛」と呼ばれて、天道氏の族長、早雲にも慕われる御身では、無下に会いに出向くことも敵わず、ただ、黙して流れていく運命に身を託すしかなかった。
 もどかしいと思いながらも、茜郎女とその青年が結ばれることを切に祈っていた。












「どうされたかな?斎媛。」
 早雲が不思議そうな視線を差し向けた。
「いえ、何でもありませぬ。ただ、今宵は月が美しい夜でございますれば。」
 斎媛はそう言うと作り笑いを浮かべた。
 息子のことを思い描いていたなどとは、まだ早雲にすら打ち明けられずに居た。茜郎女が妻問いされたことはまだ、早雲のあずかり知らぬところだったからである。


「それより、早雲殿、何か。ここへ参られたのは、何か託宣でも訊きたかったのではありませぬか?」
 逆に斎媛は己の感情を押し込めて、そう問い質した。
「ああ、茜郎女のことだ。あの子の結婚相手について少し占ってもらおうかと思いましてな。」
 早雲は神妙な顔をして言った。
「承知いたしました。」
 斎媛は宣託を受けるべく、祭壇へと進み出でた。
 これが己の本来の姿だった。請われるままに族長のことを卜占し、それを元に族長は一族のために重大な選択を行う。神々と共に暮らす民にとって、欠かせない重要な政(まつりごと)であった。


 斎媛はたおやかに玉串を手に取ると、何やら口で呪文めいた言の葉を唱え始めた。こうやって、一種のトランス状態へと入っていく。
 いつもならばここで、神が憑依し、思うが侭に託宣を告げられるのであるが、この日はどうも不調で、何も託宣が下りてこなかった。
 時たまそのようなことがある。大概、月の障(さわ)り、つまり血の障りが体内を駆け巡っているときにそれは起こるのである。勿論、月の障りがあっても、託宣が全く浮かんでこないということは珍しい。 
 だが、今は月の障りの時ではない。忌み日でないのに、託宣が浮かばないなどとは、斎媛にとっては今までに経験がなかった。


「すみませぬ。本日は何も浮かび上がっては来ませぬ。」
 息を切らして、斎媛が早雲を見返した。


「斎媛さまは月の障りに入られておられましたか。それとも八十神(やそがみ)は、託宣などに頼らず、自分で決めなさいとおっしゃりたいのかもしれませぬな…。」
 早雲は丁寧に頭を下げると斎媛のところを辞した。
 月の障りの期間中は、血の穢れで、一時的に巫女的力が落ちる。早雲はそう思ったのだ。


(本当に、私の方がどうにかなってしまったようですわ。)


 茜郎女から赤い勾玉を見せられてから、おかしい。斎媛にはそれがわかっていた。月の障りにはまだ程遠い。なのに、霊力は落ちた。
 心に生まれた動揺。それが卜占に集中できない原因なのだとおぼろげに思った。


(まだまだ私も修行が足りないということなのですわ。)


 そう思って再び溜息を吐いた。




 一方、早雲は茜郎女の将来の相手を決めあぐねていた。
 実は、今朝方早く、九能氏から茜郎女を嫁として貰いたいと申し入れがあったのだ。
 九能氏と言えば、この辺りで一番と歌われた大豪族。大和朝廷とも昔から縁が深く、茜郎女を是非にと申し出てきた正妻の嫡男は、大和育ちだというのだ。当然、母は大和の豪族の娘だと聴く。藤原氏。大化の改新を成し遂げた、当代きっての天皇家の臣下。それに連なる血族の娘を母に持つというのだ。血筋は確かである。
 ただ、男に対して、何かにつけ厳しい物の見方をする末の弟媛が、素直にはいと言ってそれに従うかどうか。
 激しい娘の気性を知り尽くしているだけに、早雲はこの縁談を円滑に進めるにはどうしたら良いのか、迷いを持ったのである。
 決断に迷った時は卜占に頼る。斎媛のだ。
 今までずっとそうしてきた。
 それで、わざわざ占いを請いに行ったのだが、珍しいことに斎媛は託宣が下りて来ないと言う。信頼に厚い斎媛がそう言うのだから、本当に託宣は下りないのだろう。


(自分で良しなに決めよと八十神の御心なのかもしれぬな…。)


 早雲は難しい顔をしながら部屋を辞した。
 十五夜の望月が深々とこちらを照らしつけてくる。


 と、表が突然賑やかになった。


 家中の者たちの怒声が聞こえてくる。
 何事かと早雲が立ち上がると、雑仕女(ぞうしめ)が慌てて駆け込んできた。


「どうした?何事だ?」
 問い質す早雲に 息せき切って、雑仕女は言った。
「響の里の者と公言する男が媛様を尋ねて参られました。」
「男がどの媛の元へ参ったというのだ?靡郎女か茜郎女か?」
「茜郎女様でございます。何でも、先頃のかがひで茜郎女様と妻問いの約を交わしたとその者は申しておりますが。」
 その言葉に、早雲の顔つきが見る見る変わった。当然である。かがひで逢引をしていたことなど、在り得ぬと思っていたからだ。それに、あかねはその件に関して、何も報告を受けてはいない。
 年頃の娘、それも愛した妹背から生まれた娘は、父親にとって格別の存在であることは、いつの世も同じこと。あかねは早雲が正妻との間にもうけた三人の姉妹(いろせ)の中でも、一番、彼女に似ていたのだ。見目形だけではなく仕草、気性など全てだ。
 それだけに、父親自ら、結婚相手は厳選したいと思っていた。


 裏切られた父親の心情。




「その男、茜郎女の部屋には通すな。わしが直接会おう。そのように取り計らえっ!」


 そう言うと早雲は雑仕女を下がらせた。




二、




 月明かりが差し込む板張りの部屋へ、乱馬は通された。
 静かに座して家主が現われるのを待っていた。


 早雲は向かい側の屋敷の部屋から、そっと彼を遠目で見た。
 きょろきょろと辺りを見回すでもなく、じっと正面を睨みすえて静かに座している。上背のあるごつい感じの青年だった。


(なかなかの男ぶりだな…。物怖じもせず。)


 内心舌を巻いた。
 雑仕女の話では若いということだったが、胴に入っている。満ち溢れんばかりの気迫と生気が、離れたここまで伝わってくるのだ。


(あの男…。相当な器を持っている…。)


 だが、彼がどこの馬の骨ともわからぬことは変わりが無かった。増してやあかねには九能氏の嫡男が是非にと申し込んできている。
 九能氏といえば地方豪族とは言え、大和政権とも連なる大きな氏族だ。これから常陸の国で国司の政を司って行く上でも、血縁を結ぶことに何ら不都合はない。いや、むしろ、好都合な良縁だった。
 どこの誰かわからない馬の骨と名家の子息と、天秤にかけた場合、後者を取るのは自然の流れだろう。
 早雲は意を決すると、その青年と静かに対峙した。


「これは、何の用向きが合ってここへ参られた?」
 早雲はいきなり高飛車に切り出した。
「先ほどここの使い女に知らせ及びましたが、お聞き下されませんでしたか…。私は響の里の首長、響雲斎の嫡男にて、響乱馬と申す者。先頃のかがひでこちらの弟媛様を見初め、妻問いをしに参りました。」
 青年は凛と早雲を見返した。ぎらぎらした瞳は真っ直ぐで曇りがない。
 その気に圧倒されそうになりながら、早雲は言った。
「我が手塩にかけし弟媛と娶わせしたいとな…。」
「はい。妻問いの宝を与えて名も聞き及んでおりますれば。茜郎女様をこの私に降嫁させてください。」
 はっきりと茜郎女の名前を口にした。乙女の名前は外へは漏らさない。それを彼が知りえているということは、おそらく、口から出任せを言っているわけではないのだろう。


「あいわかった。だが、残念ながら、茜郎女はとある殿方へ降嫁させることが決まっておるのだ。二人の情夫は持てぬ。すまぬが諦めてはいただけまいか。」
 早雲は乱馬を見据えて言った。
「諦めろとは、これいかに?私は確かに茜郎女様直々に妻問いの約を交わしてある。納得がいきませぬ。」
 穏やかだが語気は荒かった。漆黒の瞳が早雲をじっと睨み据える。強い意志の目だった。
「かがひに参じたのは、媛の一時の気の迷いであろう…。」
「では、改めて問いまするが、茜郎女様が私より先に見初めた殿方は如何に?どこのどなたであられまする。」
「それは、おまえ様には関係のないところ。」
 早雲はむっとした表情を差し向けた。これはこちらの家の問題で、赤の他人である貴様などに説明する道理はないとでも言いたげだった。
「私には訊かせていただく道理があろうというもの。」


 暫く押し問答が続いた末に、早雲は言った。


「九能氏の若君が直々に降嫁の申し込みに参られた。」


 押し切られる形で返事してしまったのだ。


「九能の若君ですと?」
 乱馬の目が一層輝きを増した。
「もしかして、かがひの折に、媛に無礼を働いたあの若者ですかな…。」
「媛に無礼だと?」
 早雲は驚いたように瞳を返した。
「ああ、あの日、茜郎女様はその口ではっきりと意思表示なさいましたぞ。若君には靡かぬと。」


 早雲の顔はみるみる怒りに紅潮しはじめた。


「何を根拠にそのような戯言を!」
 激しく乱馬を攻め立てようとしたその時だった。


「父上様。」
 戸が開いて、茜郎女が現われた。
 美しい赤色の着物が、月明かりに照らし出されて、鮮やかに輝いて見える。色も白い彼女の肌は、月に洗われて美しく光輝いていた。


「茜郎女っ!そなた、何しにこの場へ来たっ!ここはおまえの出る幕ではなかろうっ!」
 父の叱責なと諸共せずに、あかねはその場へと座した。


「この私の婚儀の取り決めに、当事者の私が席を外してもよろしいとでも父上様はお申しですか。」
 きっとした勝気な瞳が父親を捉えた。
「う…。」
 そうはっきりと物を言われると、早雲の立つ瀬がない。
 乱馬はそんな彼女を見据えて、思わずにやっと笑みがこぼれた。
 どこまで勝気な娘なのだろう。父親相手にはっきりと物を言う。その媛が愛しく感じられた。こんな意志の強い女性には出逢ったことはない。是が非でもこの手中に欲しい、そう希(こいねが)ったのだ。


 彼女の後ろ側では、取り次いだ雑仕女だろうか。おろおろと成り行きを見詰めていた。


「これが私の人生を左右することでありましたれば、私の意見も言わせてくださいませ。」
 きっぱりとあかねは言った。
「婚儀は家と家の執り行い。おまえが口出しすることは…。」
 それでも娘に抵抗を試みる早雲であったが、あかねの理攻めには下が滑らかに動かなかった。


「私は九能様の若は婿として迎えませぬっ!」


 それははっきりとした物言いだった。吐き棄てるように言葉を叩きつけたのだ。


「九能様の若君との婚儀は受けぬと言うのか?」
 すっかりあかねに気圧された早雲は、娘をまざまざと見返した。


「受けませぬ!」


 すきっとするくらいはっきりと物を言うあかねに、早雲は懐疑の目を向けた。


「ならば、そなたは、この響氏の若と…。」


「いいえ、それも受けかねます。」
 あかねはきっぱりと言った。
 乱馬は眉一つ動かさず、父と娘のやりとりを聴いていた。あかねがこのまま引き下がるとは思えなかったからだ。
 普通の男なら、はっきりと妻問いは受けぬと言われて、尻尾を巻くのだろうが、乱馬はそんな言葉尻には動揺すら表さなかった。


「茜郎女っ!」


 早雲はすっかり娘のペースにはまり込んでいた。
 ただのわがままな物言いだと思ったのだろう。


「最後までお聞きなさいませ、父上様。」
 あかねの方が父親を牽制した。


「わかった、申してみよっ。」
 父は諦めたように言葉を言い放った。一度口に出したら、わが意を押し通そうとする気の強さ。それに気圧されてしまったのだ。


「我が家には古くから「適妻(むかひめ)の試練」というしきたりがございましたでしょう。ここ最近はすっかり廃れてしまいましたが…。」


「適妻の試練とな?」
 何を言い出すと言わんばかりに、早雲は娘を見詰め返した。


「そうです。古くに我が家から妻問いをする若者は、適妻(むかひめ)の試練を受け、夫たる資格があるか否か、見定めたと訊きまする。」
 あかねはそう言いながら乱馬へと目を転じた。
「父君がこの青年と私の婚儀を望まぬなら、適妻の試練を与えて、彼を試されれば宜しいこと。」
 じっと見据えてくる目は真っ直ぐに乱馬を射た。そのくらいの試練は受けて立つ覚悟はあるでしょうと言わんばかりに。挑発してくる目だった。


「面白いっ!その話に乗ろうっ!」


 乱馬はあかねの挑発に乗るように言葉を手向けた。


「な…。」
 早雲は二人の激しい気のぶつけ合いに、言葉を暫し失った。


「乱馬様もああ申されております。この試練に耐えられれば、私は喜んでこの方に降嫁いたしましょう。もし、彼が耐えられぬ時は、九能氏の嫡男の下へでも、父上の好きな男君のところへ降嫁いたしましょう。そなたも異議はありますまい。」
 あかねは乱馬に念を押した。
「ああ、ない。試練に耐え抜いて、おまえを嫁として貰い受けよう。」


「適妻の試練を求めてまで、おまえたちは…。」


 その時だった。外からもう一つ、男の声が響いてきた。
「ふふふ…。茜郎女殿も面白い趣向を考えられられまする。」
 訊き覚えのあるこの声色。あかねはきっと声の方を見据えた。
「九能の若君。」
 早雲もはっとして後ろを振り返った。
 月明かりを背に、一人の青年がそこへ佇んでいた。


「月明かりに誘われて、つい、ここまで参りましたところ、面白い話をしておられる…。」


 九能は立ったまま一同を見下ろした。


 乱馬は顔色一つ変えず、視線すら逸らさず、九能を睨み上げていた。
 あかねの顔は強張る。何しにここへ来たと言わんばかりに見上げたのだ。大方、夜這いをかけにでも現われたのだろうと、身の毛が弥立つのを感じた。九能の若は乱馬がこの場に居なければ、父へ取り入って、直ぐにでも交わりを持とうという魂胆があったのだろう。そのような下衆な考えをこの男なら持ちかねないと嫌悪を感じたのだ。


「早雲殿。何も迷うことはありますまい。その試練、この男に与えて見ればよろしいのだ。そうすれば、己がどんな高望みをしているかわかろうと言うもの。くくく…。私も是非、試練を与える側にて参加いたしたく思いまする…。如何に?」

「な、何ですって?」
 今度はあかねが叫んだ。

「言ってみればこれは、この乱馬とかいう男と私の婚儀争い。この男が試練を受けるのであれば、私は試練を与える側。はっきりしていて良いではありませぬか。媛。それとも、媛はご自分で言い出した試練を引っ込めるとでも言われるか?」

 あかねの性格を逆手にとって、九能はたきつけて来た。何か裏があるに違いない。あかねは隠微なものを彼の言動から嗅ぎ取っていた。
 だが、当の乱馬は静かに言った。
「そのくらいの試練がないと茜郎女と婚儀できぬのも、重々承知の上だ。私には依存はない。…試練を見事乗り切って、絶対に茜郎女をこの手に貰い受ける。」
 そう言い切った。


 早雲は静かに言った。
「わかった。望みどおり、適妻の試練を与えてやろう。見事それに耐え抜けば、茜郎女を乱馬殿に降嫁させよう。また、乱馬殿が試練に敵わなかった時は、九能殿、あなたさまに茜郎女を与えよう。両者、それで依存はあるまい?」


「勿論、依存はありませぬ、なあ、乱馬殿。」
「ああ、それでいい。」


「ならば、次の新月の夜、我が家の作法にのっとって、適妻の試練を執り行う。」
 朗々と早雲は宣言した。


 あかねは自分で言い出したこととは言え、まさか九能が横槍を差し込んでくるとは思わなかったので、言葉を失いかけていた。


(これは…血が流れるかもしれない…。)


 浅知恵だったことに恐れを抱き始めていたのだ。


「新月の夜が待ち遠しいでございますな。」
 九能は不気味な笑みを浮かべた。その時、月が雲間へと隠れ、光が無くなった。まるで波乱を暗示しているようにだ。


「俺が試練を乗り切った暁には、そなたを晴れて迎えることが出来る。その日を楽しみに…。」


 乱馬は辞し際に強くあかねに言った。その不安を払拭するかのように。
「俺が試練を乗り切った暁には、茜郎女、おまえを晴れて迎えることが出来る。案ずることは無い。」


「適妻の試練については、また後日、詳しく知らせよう…。」
 早雲はすっくと立ち上がった。
 鳴き始めた秋の虫たちが、恋歌を草むらで精一杯鳴き栄えていた。








三、




 しんしんと冷えわたる秋の夜。
 九能氏の館の奥で対峙する妖しの影。闇に紛れるように、さっと駆け出して行く。


「帯刀様。そんなので勝ち目はござるのであろうか?」
 去っていく影を見送りながら、若に仕えるお付の舎人が不安げに主人を見上げた。


「ふふふ…。万事ぬかりはないぞ。佐助。」
 若はそう言って舎人頭をなだめた。ほぼ影のように寄り従いながら仕える舎人頭の佐助は、それでも不安を隠しきれない目で主人を見た。
「あの者は、唐国人(からくにびと)でござりましょう?…信用がおけるのでござろうか?」
「佐助は心配性だのう…。」
 酒を酌みながら若はにっと笑って見せた。
「唐国人だからこそ、良いのだよ。後腐れがなくて。」
「唐国の間者…。ますますもって怪しげな…。」
 佐助は唐国人が去った闇をじっと眺めながらそう呟く。
「間者であると同時に、道士でもあるそうじゃ。」
「道士でござるか?」
 道士とは仙術を行える者の総称であった。倭国にシャーマンが居るのと同じように、中国大陸でも、摩訶不思議な超力を持った人間が居た。若は暗にそれを言ったのだろう。
「妖(あやかし)の術を巧みに使い、相手を呪殺することもできるそうだぞ。くくく…。」
 酒を高杯になみなみと注ぎながら、若は笑った。
「呪殺…でござるか。何だか恐ろしげな話でございますなあ…。たかだか妻問いのために、また。」
「そうだ…。これは妻問いの勝負だ。だが、あの響氏の長の息子め。あやつを生かしておけば、ゆくゆく、我が一族の足枷になりそうなのでな…。妻問いにかこつけて、ここら辺りで亡き者にした方が後々安泰であろう?それに…。」
 若はにやっと笑った。
「あいつを殺してしまえば、茜郎女とて、私には逆らわなくなるだろうよ…。下手な未練も残すまい。……愉快ではないか。」


 佐助は主の言葉にゴクンと生唾を飲み込んだ。
 弱き人をいたぶるような冷たい目が九能の若を包んでいる。


「でも…。そう簡単に謀が弾みまするかのう…。」


 唐国人の道士というだけでも眉唾物だ。そんな得体の知れぬ者に大事ごとを任せてよいのやら。佐助が心配するのも尤もな話であった。


「その辺は抜かりない。他にも姦計は張り巡らせてある…。」
 そう言ってにやりと笑った。


「姦計でござるか?」
 佐助の問いに若は言った。


「さっきの道士、面白いことを言っておったわ。何でも大和朝廷は近く、戦の準備に入るというな。」
「い、戦でござるか?」
 佐助は突拍子も無い声を張り上げた。
「戦と言うと、東国へもっと深く攻め入られるのでござろうか、大王(おおきみ)様は。」
「まさか…。この東にどれだけ肥えた土地があろうというのだ?逆だ、逆。」
「逆と申しますと?」
「先ほどの唐国人が言うには、何でも、百済が滅亡の危機に瀕しているというのだ。」
「百済と言いますと、あの朝鮮半島のでござりまするか?」
「そうだ。百済の王家は現在滅亡の危機に喘いでおる。唐と新羅が手を結んでこの七月に、百済の義慈王をねじ伏せたというのだ。それに絡んで、先頃、鬼室福信が大和朝廷に使いを寄越したとな。」
「どのようなお使いでござるか?」
「百済王家の王子、余豊璋を返還せよとな…。」


 朝鮮半島は激動の時代を迎えていた。新羅が唐と連合を結び、半島の勢力を一挙に握ろうと勝負に出たのである。
 当時、大和朝廷と百済は同盟国であった。それぞれに関係も深く、人や物の交流もさかんであった。親交の証に、百済からは王子の余豊璋が大和へと送られて来ていたのだ。いわゆる「人質」と解されている。大和朝廷と百済に支配関係が二者にあったかどうかは、まだ研究機関に史実は委ねられているが、とにかく、当時、余豊璋が大和に居たのは確かであった。
 また、実際に、鬼室福信が大和朝廷に、援軍の申し入れと、余豊璋の帰国を要請したことは、「日本書紀」に明記されている。
 大和朝廷は揺れていた。
 同盟国を下手に助けると、大国「唐」を相手にしなければならなくなる。唐と言えば、当時の最大的国家勢力であった。それを相手に戦うとなると、相当の覚悟が必要だと言うことは、あえて論じるまでもなかろう。


 百済の要請に応じるのか。それとも百済を見殺しにするのか。


「その、余豊璋の帰国と、妻問いとどんな関係があるのでござる?」
 ますますわからないという顔を佐助が差し向けた。
「まあ、見ておれ…。万が一、唐国の道士が妻問いの勝負に負けようと、奴は茜郎女を得ることはできぬ。時代の激流に飲まれるのだ。ふふふふふ…。」
 九能の若は嬉しそうに笑った。その笑いの冷たさに、佐助は思わずぞっとしたほどだ。


 時代の荒波が容赦なく、乱馬の上に押し寄せてくる。
 激流へと飲み込まれる前の、清廉たる月夜は更けて行く。


 西暦六六〇年、十月。時代の荒波がそれぞれの運命を変えようとうごめき始めた。だが、まだ静かな秋だった。







第四話 適妻(むかひめ)へつづく






「斎媛」(いつきひめ)
 この場合の乱馬の生母の設定は一之瀬の創作です。男と通じた女性が斎媛として神を斎くことは不可能だったかもしれませんが、いろいろな資料を見渡していくと、皆無ではないような気もします。独自解釈で採用しましたのであしからず。
 まだ父親、玄馬の役どころについては、まだ秘密です。
 なお、のどかを蘇我蝦夷の娘の一人として登場させたのは、全くの創作です。蘇我蝦夷の娘、手杯郎女は記紀に明記されています。が、その後の消息は子息共々闇に消えてしまいました。程なくして起こった「大化の改新」で蘇我氏本宗家が滅んだときに払拭されてしまったのかもしれません。



「適妻の試練」
 ここから「古事記」を連想した方はどのくらいいらっしゃるでしょうか?出雲神話、大穴牟遅(オオアナムジ)命の妻問いにきっちりと記載があります。大穴牟遅命(大国主命)が須勢理媛(スセリビメ)を求愛したとき、その父である須佐之男(スサノオ)命が様々な試練を与えました。これが「適妻(むかひめ)の試練」と呼ばれています。
 結婚(妻問い)をするにあたって、今でも婿いじめをする風習が残るところがあるそうです。(民俗学の研究分野でそんな本を読んだことがあります。記憶は散漫していて誰の論文に記載してあったかは記憶の彼方)
 昔から婚礼には様々な儀礼がつきものです。おそらく、適妻の試練も婚姻の通過儀礼の一つが記録されたものなのかもしれません。また、結ばれるべき男神と女神に試練が与えられるのは「聖婚」の一形態でもあります。いわゆる「昔話」に出てくる、本地垂迹譚に代表される太郎(嫡男)と乙姫(弟媛)の流浪も聖婚の通過儀礼であると研究者によって良く言われるところなのです。
 なお、この辺りの話は「古事記」の「大穴牟遅の放浪」を妄想源にして勝手に創作したものです。




「余豊璋」
 作中にあるとおり、百済国王子です。作中の記述は「日本書紀」によるものです。多分、そのうち作品に出てくるのではないでしょうか…。出さないかもしれませんが(汗





 以後、この作品には歴史上の実在人物がオンパレードで出てきます。
 何せ、壬申の乱前…。どういう風に書き込んでいくかは第二部以降にて。
 (やっぱり、ちゃんと系図作った方が親切だろうなあ・・・。)





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