第六部 漂泊編

第二十九話 急転




一、


 あかねが危機に陥ったとき、 近くで嫗(おうな)の声がした。

『ならば、神罰当ててやろうか?』
 
 あかねを襲おうとしていた岩麻呂たちは、その不気味な響きに、ハッと驚きの手向けた。

「誰だ?」
 刀や槍を手に、ぐっと身構える。いつでも攻撃態勢を取れるように、一同は、周りに気を配った。

 と、その時だ。

 バキバキっと、乾いた音を立てて、上から蔀屋を覆っていた藁屋根が一気に下へ向かって落ちてきた。いや、崩れ落ちたと言った方が良いだろう。
 朽ちかけていた屋根が腐ってそのままどさっと落ちてきたような落ち方だった。

「ひっ!!」
 あかねのすぐ傍に居た岩麻呂の背中に、藁や木片が容赦なく落下してきて打ち付ける。もうもうと砂埃も湧き立った。

「誰だ?畜生!こんな悪戯をする奴は!!」
 岩麻呂はぺっぺと唾でざらついた口を拭いながら、怒りの目を向けた。

「岩麻呂の兄貴…。あれ…。」
 傍で子飼いの手下が、震えながら手を指差していた。
「あん?」
 その声に促されて向こうを見て驚いた。

「あ、あれは…。」

 ゆらゆらと先に鬼火のように、焔が空を揺らめくのが見えた。
 まるで、空を彷徨うように青い焔が立ち上がって揺らめいているではないか。
 ゆうらりゆらり。焔は今にも消え入りそうなか細い光で燃え上がる。かえって、それが不気味に見えた。

「ば、馬鹿…。み、見間違いだ!!し、神罰だなんて…そ、そんなことがあって、た、たまるかっ!お、俺は怖くないぞ!!」
 虚勢を張って己に言い聞かせるように、岩麻呂は言葉を吐きつけた。だが、語尾がところどころ震えている。明らか動揺している。。

『その者たち!この島を綿津見の神を斎(いつ)く島と知っての狼藉か?』
 また、何処からともなく、嫗の声が轟き渡った。

「くっ!こっちかっ!!」
 腐っても海の男だ。
 岩麻呂は、果敢にも、声のする方へと、持っていた刀剣を振りかざして、斬りつけた。

 ザンっと音がして、何かを切った感触が、手に残った。

「今、何かを切ったぜ。手ごたえが合った!!」
 岩麻呂が叫んだと同時だ。
 どさっ!と音がして、何かが岩麻呂の方へと、覆い被さるように、倒れ落ちてきた。
「うわっ!な、何だ?」
 慌てて、落ちてきた物を凝視する。
 ぎょっとした。
 落ちてきたのは、巫女の着物をまとった骸骨だったのだ。生々しい髪の毛が頭蓋骨から生えている。そいつが、くわっと岩麻呂たちに襲い掛かるように口を開いた。瞳も赤く光っている。

「ひいーっ!!」
「ば、化物ーっ!!」
「た、祟りだあっ!」
「綿津見の神様の祟りだあっ!!」

 その場一体に、海の男たちの怒号が轟き渡った。

「に、逃げるなっ!!に、邇磨の海賊の名折れだぞーっ!!」
 岩麻呂だけが一人、虚勢を吐いたが、その彼も及び腰は否めない。
 しかもだ。その時を待ちかねていたかのように、稲光が走り、雷鳴までもが轟いた。
 バキバキバキ、ドオオン。
 近くへ落ちたのだろう。地響きが唸る。
 
 と、どさっと崩れるように覆い被さった、人骨が、青白い焔を立ち上げて、ボウッと燃え出したように見えた。

「に、逃げろっ!!」
「綿津見の神に、たっ、祟り殺されたくはねえっ!!」
「ひいいっ!お許しを!」

 我先にと、慌てた男たちが、あかねを置いて、船を逗留させてある浜へ向かって走り出した。
 こうなると、ただの烏合の衆だ。最早、誰一人、冷静さを保ってはいなかった。
 雨上がりの泥道に足を取られて、倒れそうになりながら、我先にで逃げ惑う。やがて彼らは、乗ってきた船に這い上がると、そのまま後ろも振り返らずに、船を沖へと漕ぎ出していった。蜘蛛の子を散らすように、辺りはひっそりと静まり返る。

 あかねは呆気にとられながら、岩麻呂たちが逃げていく後姿を見送った。
 彼らには、あかねにかまう余裕もなかったのだ。いや、存在そのものを放り投げて逃げ出してしまった。
 おかげで、貞操の危機は去った。それだけは理解できた。


「たく、大の男たちが…。みっともないことぞ…。本当に祟りだと思いよったわ!はっはっは。」
 背後で男たちを翻弄していたのと同じ、声がした。 
 張りのある嫗(おうな・翁に対する老婆のこと)の声だった。

「誰です?そこに居らっしゃるのは。」
 あかねは声のした方に問いかけた。己の窮地を救ってくれた恩人でもある。

 ぬっとその嫗はあかねの前に現われた。
 ちゃんと二の足で立つ、どこから見ても普通の人間だった。特徴としては、巫女姿であり、白髪の長い髪を後ろにだらりと垂らしていた。

「一人の女を寄って集って、襲うとは。それもここは綿津見の神を祭る、聖なる島だというのに。あの不届き者たちめ。」
 そう言いながら老婆はあかねを縛っていた縄を切ってくれた。凡そ、老婆には似合わない鋭敏な刃物を手に持っている。そこら辺に居る老婆が持つような代物ではない。第一、この斎島に何の用があって、やって来たのかも定かではない。
 が、助けてもらった事実には変わりが無いので、あかねはホッと胸を撫で下ろし、一息吐いた。

「さてと…。さっきの男たちや唐国の女人がおまえさんに話していたのを、耳にしていたから、事の大筋は理解しておる。……おまえさん、大和朝廷の巫女なのだな?」
 そう言って嫗はにっと笑った。
「ええ…。まあ、そんなところです。正確には、朝廷に巫女又は采女として出仕するために、往来していたところを、あの者たちにここまで連れて来られたんです。」
 あかねは説明した。
「ほおう、地方から軍勢と共に、巫女や采女まで駆り立てておるのか。大和朝廷は。なるほど、それでおまえさん、どことなく、この辺りの娘とは雰囲気が違うのよなあ…。生国はどこじゃ?」
「大和国です。でも、現在は、常陸国の役人として赴任した父と共にかの国に住まわっております。」
「大和朝廷の意向を受けて、筑紫の国へ下る途中、いきなり、荒くれ男たちが、停留していた船に乗り込んできて、訳がわからぬうちにここまで連れて来られなすったか。何やらあの唐人には事情がありそうじゃったが…。」
「ええ…。でも、私には解せぬ事ばかりで…。」
 あかねは手に残った縄のあとをさすりながら嫗へと答えた。正直のところ困惑しきっていた。彼らが何故乱馬の名前を口にしたのかすらわからなかった。己の知らないところで、乱馬と唐人の間に何があったのかも、知っていることは一つも無い。それだけに、不安だった。
「おまえさんを襲った奴ら、見たところ、この辺りの海賊たちじゃな…。邇磨の玄馬はこういうふざけた真似は好まぬ性質(たち)だと聞いておったに…。大和側について、奴の眼力も地に落ち始めたかのう…。」
 婆さんが首をひねった。
「邇磨の玄馬?」
「ああ、吉備の国の近海を跋扈(ばっこ)している海賊の頭目の名前さな。勇猛果敢な海の男として、南の海の果てにも、名前は聞こえてきているわい。わっはっは。」
 嫗はからからと笑った。きっぷしの良い婆さんだった。やはり、只者ではない気配を感じた。
「とにかく、あやつらの魔の手からは逃れたようだ。あれだけ驚かしておけば、暫くはこの島に近寄ることはしないじゃろうて。」
と嫗は笑った。
「まあ、腹が減っては何も始まらぬからな…。まずは腹ごなしと行かねばなるまいに。」
 そう言うと、婆さんはあかねを手招いた。
「こっちへ来い。おまえも腹が減っておろう?」
 そう言いながらにっと笑った。


二、

 浜辺へ来ると、嫗は熱心にそこいらじゅうをほじくり返しはじめた。何をしているのかと見ていれば、砂の中から貝を獲っている。
 いつの間にか夜は明け初めていた。まだ雲が分厚く重く垂れ込めていて、太陽の光は差し込めてこない。が、雨は既にあがっていた。

「海には食材が豊富だ。ほれ、ここいらも、潮が引けばこうやって食べられる貝が獲れる。これを見逃す手はあるまい?」
 人懐っこい顔を手向けながら笑う。その笑顔に、あかねの警戒心はすっかり解かれてしまっていた。
「ほれ、おまえも、じっと見ていないで手伝え。己の食材は己で探す。それが、生きるということであろうが。」
 嫗はあかねに木棒を渡した。
「あ、は、はい…。」
 気圧されるようにあかねは嫗の真似をしながら、砂浜をほじくり始めた。
 潮干狩りのようなものだ。
 この季節にはあさりがたくさん獲れる。あさりだけではなく、いろいろな貝が砂浜に生息していた。白んだ空がすっかり明るくなる頃には、抱えきれないほどの貝が取れた。
 それを海水でざざっと洗うと、婆さんはさっきの祭祀場付近へと持ってきた。それから、転がっている壷のような土器へとそれと水を入れて、火を点けた。

「こうやって暫く煮え立たせれば、貝の汁ができる。まあ、腹が減っていれば何でも美味しかろう。これでも腹の足しにはなるぞ。塩もあるからな。塩は祭祀場から失敬してきたものじゃがな。」
 そう言って笑った。
 塩は高級品だった時代だ。税として納められたし、料理の味付けにはなくてはならない調味料の一つだったことは言うまでもない。米や水、酒同様に、祭祀には欠かせない供え物でもある。現在でも、神棚には、榊の他に酒、洗米、盛塩を捧げるのが常だ。だから、祭祀場にあっても、不思議ではない。
 また、塩飽あたりも対岸の多度津あたりも古代から塩の産地として有名であったので、供え物として斎島の神にも振舞われたのだろう。

「さてと…。あとは煮えるのを待つだけじゃ。」
 嫗は火をくべながらあかねを見やった。
「おばば様はこの島の近くの御方ですか?」
 あかねは己の疑問を切り出した。体よくあかねの前に現われて、そして、海賊たちを蹴散らせてくれた。言わば命の恩人だった。見れば、この島のことにも精通しているようで、手際よく何でもこなしている様子が見受けられたからだ。
「ほっほっほ…。そう見えるかえ?」
 嫗は皺くちゃの顔を手向けて笑った。
「この島は一体何なんです?見れば高坏や祭祀道具も散乱してますし、建物もあります。さっきの男たちの話だと「斎島」とか呼んでいたようですが…。」
「ああ、その名のとおり「神の島」だよ、ここは。この辺りの海の邑(むら)から毎年一人、ここへ巫女として未婚の女が捧げられる。そら、おまえさんも見たろう?あのおびただしい頭蓋骨の群れ。」
「ええ…。」
 あまり気持ちの良い話ではなかったが、確かに、躯が並べられた墓所のような場所があった。
「あれはこの島で死んだ巫女たちの亡骸だよ。」
 嫗はさらりと言った。
「この島で死んだ…。」
 あかねは小さく反芻した。
「殆どがおまえさんのような年頃の若い巫女じゃ。神に仕えるためにここへ来て、そして神と共に生活し、全うできねばここで土に返る。それが綿津見(わたつみ)の巫女の役目なんじゃ。」
「綿津見の巫女…。」
「ああ、ここいらは漁師や海賊を生業としておる者たちが多いでな。彼らが崇める海の神、綿津見神に仕える巫女の島なんじゃ、ここはな…。」
 そう言いながら嫗は笑った。
「綿津見の神ですか。」
「この瀬戸内にはそういった神の島がいくつか存在するんじゃ。巫女を送り込んで祭祀する島や巫女は居らずとも、毎年決まって神に祈るために使われる島などがな。この内海は小さな島が点々と続いておるでな。」
「そうなのですか…。」
「海に生きる人々にとって、海の嵐は畏敬の対象になるからな。一年の豊漁や海の神のご加護を願って、海の神に捧げる。そうして、捧げられた巫女の多くは、帰ることなく、この地で土に返る。仕方があるまいな。ろくに煮炊きすらできない不自由な暮らしを強いられる。一年も生きながらえるのが難しいのじゃよ。」
「そういうものですか?」
 あかねが火を虚ろげに見ながら相槌を打つ。
「考えてもみなされ。ここへ一人きりで放り出されるのじゃ。お供の者など居ない。一人の世界は寂しく厳しいものじゃぞ。」
 婆さんは火をくべながら、言った。
「食べることのみならば、何とかなるのじゃろうが、海の孤島に一人、放り出される若き娘が、一年も平気で暮らせると思うかえ?いや、娘に限らず、大の武人でも一人放り出されて生き抜くのは、並大抵ではないぞよ。人は話し相手が居なければ、心が壊れてしまうからのう…。」
 あかねは黙り込んだ。途中見た、躯たちは、一人ここへ放り出された末に行き着いた結末を物語っている。それを彼女なりに理解したのだ。

「一人は辛い。じゃが周りは海の水で囲まれた孤島。中には海原を泳いで越えようとした娘もおったろうが、どんなに泳ぎが上手くても、人が居る岸まで辿りつけはしまい。
 渋々、居残った巫女の多くは次の巫女が来るまでには果ててしまう。それもまた運命。」
 嫗はとうとうと話を続ける。
「おばば様も巫女としてここへ来られたのですか?」
 あかねが問いかけたその問いに、嫗は笑い出した。

「ハハハハ、違う。わしはここの巫女ではない。まあ、神に仕える身の上であるには違いはないがな。」
 そう言いながら見つけてきた丁度良いお腕を持って、煮立った汁をすくい上げた。ここの祭祀用に使われた素朴な土器だろう。
 湯気がほかほかと立ちあがる。それをあかねにすすめながら嫗は言った。
「ワシの名は日留女(ひるめ)じゃ。」
 初めて名前を明かした。この時代、なかなか他の者には己の名前を明かさないものだが、この嫗はお構い無しに自分から名乗った。
「日留女様…。」
 あかねは噛みしめるように、恩人の名前を象った。
「まあ、まずはこの汁を飲んで、一息入れなされ。」
 そう言うと、日留女婆さんは自分にも注いだ汁を美味しそうにすすり始めた。
 あかねも日留女に煽動されるように、器を受け取ると、そのまま口を付けて、飲んでみた。
「美味しい…。」
「じゃろう?…真に海の恵みはありがたいものじゃ。」
 そう言って日留女は笑った。
 昨夜から口に何も入れていなかったあかねは、その汁をずずっと飲み干した。
「どうじゃ?人心地がついたろう?」
 日留女は笑った。
「ほんに、おまえ様は運が良い。」
 そう言って笑った。
 確かにそうかもしれなかった。何でこの婆様がここでこうしているのかは分からなかったが、彼女がいなければ今頃、あの海賊たちの慰みになっているか、それとも、舌を噛み切って死んでいたかもしれないからだ。
「本当にありがとうございました…。これで、私が大和の船に帰れば、あの唐人の企みも暴けましょう。」
 あかねはそう言って日留女に礼を言おうとした。だが、日留女はそれには答えなかった。それどころか一人でべらべらと話し始めた。
「いや、運が良いのはワシのほうじゃなあ…。何しろ、おまえ様のような高貴な娘に行き会えたのじゃから。ほんに、この地へわざわざ出向いたのに、当てにしていた若き巫女媛が最早、朽ち果てていたときはどうしようかと思案に暮れたぞよ。これでは、ワシの思惑が丸つぶれじゃ。」

「え?」
 あかねは日留女が何を言い出そうとしているのか、理解できなかったのだ。口走った言葉の意味がつかめない。

「ワシが目にかけた巫女めは、まだ、ここへ連れて来られた年始から、数えて半年にもならぬのに、変わり果てた姿になりよって。…ほら、おまえさまも見たろう?さっき、海賊たちに投げつけたあの遺体が彼女のものじゃったのだ。衣服もまだ生々しく美しかったろう?遺体に残る頭髪もふさふさとして…。何より、崩れ際に青い焔があがったのが新しい死体の何よりの証拠。病を得たのか、一人きりというのが耐えられなくなり己で命を絶ったのだろうよ…。」

 確かにさっき、岩麻呂が驚いて薙ぎ払った遺体があった。彼女が言うように青い焔が燃え上がった。大方、骨に残っているリンが空気に触れて燃えたのだろう。
 ぶつぶつと日留女は止(とど)まることなくあかねに話しかける。

「夕べこの島に来て、巫女が死んだのを知ったときは、どうしようかと途方にくれておったのじゃよ…。連れ帰る巫女が死んで駄目になったのだからな。」

「連れ帰る?」

「ああ、ワシの生業(なりわい)も巫女。もっとも、巫女を育てるのが本業じゃがな。」
 そう言ってふっと微笑んだ。

「巫女を育てる?」
 思わず、問い返していた。

「内海の孤島に捧げられる巫女は、結構良き娘御が多くてのう…。それに巫女修行も自然身についているというもの。どこへ連れて行っても、良い巫女になるのは必定。そういう巫女を必要としている土地は、倭国中にたくさんあるからのう…。」

 だんだんと日留女の穏やかな顔つきが変化し始める。柔らかな笑顔から、きつい本性が垣間見えて来る。

「今回ワシに、巫女育てを依頼した国はなあ、これから争乱を起すかもしれぬという。だから、神懸かる美しい巫女が必要だということじゃった。」

 その声を聴いているうちに、ドクン、ドクンとあかねの心音が唸り始める。
(何…。急に体が…。)
 明らかに体の中で何かがざわつき始めていた。
(もしかして、さっきの汁に何か入れられていたのから…。)
 激しい動悸に脂汗が浮かび出す。

「この年の初めに、この斎島へ連れて来られた巫女は、この内海でも評判の美姫でなあ…。昨秋に、ワシが目を付けて、わざわざ巫女選びの卜占に当ててやってのじゃ。そして、準備万端、食料もこっそりと与えて、この島に流したのに、半年も満たぬうちにおっ死んでしまいよった。」

 婆さんは己の懐から何かを取り出しながら続ける。

「付け加えておくが、巫女の条件としては強靭な運も不可欠なのじゃよ。その運気を見定めるのも、ワシの仕事じゃ。
 この島に送り込んですぐに巫女を引き取らなかったのは、運を見定めるため。
 半年ほど一人この島の中で生活させて、死ななければ強運の持ち主。
 そして、ワシはここへ巫女を送り込むと言ってやったんじゃ。半年後に迎えに来てやるとな…。」

 ゆらゆらと目の前の嫗の姿が揺れ始めた。最早、言葉を返す余裕もなく、あかねは朦朧としながら、嫗の話を聞いていた。

「あの娘…体力も気力も充分と巫女にするまえから目を付けていたのじゃが、やはりそこは若い娘。肉体も精神も、半年の巫女生活すら耐え切れなかったものと見える。ちゃんと、貝の掘り方や煮炊きの仕方、魚の獲り方も教えてやっておったのにな。約言どおり迎えに来てやったのに、斃れてしまっていては、元も子もあるまい?それはそれは、がっかりしたぞよ。」

 あかねの表情はだんだんに険しくなる。
 もう、座っていることすら辛くなり始めていた。目も霞みはじめる。

「今年は他の斎島には、回っておらなんだからな。それほど、ここの巫女に肩入れしておったのにな…。この娘なら大丈夫という長年の感も鈍ったものよ。必ず育て上げると思って、ここへ連れる前から目をかけていたのに…。
 迎えに来てやって、この有様じゃ。途方に暮れて、どうしようかと思案しておったところに、海賊の船がここへと着きよった。…そして、おまえさんが唐国人や海賊たちと共に下ろされたのじゃ。
 ワシは息を潜めて、おまえ様方のことを見ていたのじゃよ。あの唐国の娘がおまえさまに変身してしまうのも、この目でな。どんな術を使ったかは知らぬが、あれは、見物じゃったな。」

 息が荒いあかねを見ながら、日留女は目を細めた。
 だんだん意識は混濁していく。

「本当にワシは運が良かったよ。本命の巫女を失うても、おまえさんのような娘と行き会えた。これも綿津見神の導きじゃ。おぬしは綿津見神に選ばれたのじゃ。
 これからここへワシらを迎えに来る御方が居る。ワシと共にその御方の船に乗って、西南へ行くのじゃ…。」

 「嫌だ!」そう口が象ろうとしたが、力が抜け落ち、意識も朦朧として、叶わなかった。

「嫌とは言わせぬぞよ。そのために、薬を入れた特性の貝汁をおまえ様に飲ませたのじゃから。もう、自分の意思ではどうにもならぬだろう?」

 日留女はあかねを抱きかかえると、懐から別の薬袋を取り出した。
 怪しげな赤い色の粉薬。それを、腕へと入れ、上から貝汁を注ぎ入れた。

「ほら…。これを飲むのじゃ。巫女姫よ。」
 そう言いながら薬を入れた汁を箸にしていた木の細棒で掻き回す。
「これはワシが調合した薬でな…。これを飲めば、今までの記憶全てが封印されてしまうのじゃ。おまえの名前も生国も生い立ちも、愛した男のことも、全て、虚空へと消え果る。巫女姫として新しく生まれ変わる。今までの事は全て、おまえには必要ない。これからは神と共に有れば良いのじゃ…。」
 そう言いながらあかねをがっと抱きかかえた。年老いた割には力が強い。
 あかねは必死で嫌々をしながら、逃れようとしたが、如何せん、体に力が入らなかった。

「さあ、飲め…。」
 無理矢理口を開かされて、汁を喉へと流し込まれた。

「う…。」
 慌てて、吐き出そうとしたが、口と鼻を老婆に押さえ込まれていた。ゴクンと喉がなって、どろっとした液体が喉を通って行った。

『いやあああああああっ!』
 声にならない悲鳴が喉元を通り過ぎた。
 途端身体が、燃え盛るように熱くなっていくのを感じる。物凄い轟音が突き抜けていくような耳鳴りがした。
 飲んだ途端に、頭が割れんばかりに揺れ始めた。
 体中の血が逆流していく。
 いや、頭にある記憶が一気に真っ逆さまに抜け落ちていく。
 まさにそんな感じだった。

「嫌…。私は忘れたくはないの!育った国も、優しい父上や姉君たちのことも、そして、乱馬のことも!自分の名前も…。」
 必死に抵抗した。抗って抗って、己の意識を侵す闇と闘った。
「乱馬ぁーっ!!」

 老婆に寄りかかる手に力が一瞬グインっと入った。そして、次の瞬間、体中の超力が全て抜け落ちた。ガクリと頭を垂れて、老婆へと身を預ける。
 全ての記憶が深淵の闇に飲み込まれた瞬間であった。

『さあ、全て忘れろ…。巫女として新たな人生を生きるために…。おまえに関わった全ての人々の記憶、そして己の素性も忘れ去れ!次に目覚めたら、おまえはワシの従順な下僕。ワシの言葉には逆らえぬ、傀儡となれ。』
 虚ろげに、脳裏に響く言の葉。その言の葉から伸びる棘に、心ごと呪縛されてゆく感覚に囚われながら、あかねは、意識を混濁させていった。



三、

「乱馬ぁーっ!!」

 耳元でつんざくようなあかねの悲鳴が聞こえたような気がした。

 乱馬は寝屋の中からがばっと飛び起きた。

「あかねっ、あかね?」

 思わずその名前を口に出して呼んでいた。

「どうしたんだ?兄貴…。急に起き出してよう…。」
 眠気眼で隣りに臥していた千文がむっくりと起き上がった。
 その声に現実に引き戻される。
 ここは筑紫国の朝倉宮の建物の中。己に宛がわれた住処の中であった。板張りの床に藁布団を敷き詰め、泡沫の惰眠を貪っていたのだ。

「あ、いや…。夢か。」

「夢?」
 千文が怪訝な顔を手向けた。
「悪い夢でも見たのか?兄貴。」

「いや…。どんな夢かは忘れた。」
 乱馬はほおっと溜息を吐きながら答えた。
「何なんだよ…それ。」
 迷惑そうな顔を千文は差し向けた。
「ちぇっ!そろそろ空が白んできやがった…。あーあ。朝の惰眠は一刻でも無駄にはしたかねえのに…。」
 ふわああっと欠伸をひとつ。

 太陽と共に生活していた古代の人々の朝は早い。夜が明きる少し前には起き出して参内するのが、役人としての勤めでもあったからだ。
 この時代から少し先、平城京の時代には、夜明けと共に朱雀門の扉が開き、役人たちの執事が始まった。そのため、朱雀門に近いところから順に位の高い貴族が住まい、下級貴族ほど離れた場所に住んで朝の参内が大変だったとも言われている。

「たく…。あかね、あかねって…。寝言で呼ぶほどに恋しいんなら、ここまで呼び寄せたってかまわねえのに。」

「うるせーっ!!」

 だが、一抹の不安が乱馬の胸に差し迫っていた。
 何故だか、あかねのことが急に気になったのだ。
 こんなことは離れて以来、初めてのことだった。

(あかね…。何かあったのか?)

 己に羽が生えているのなら、飛んで行きたい。柵となっている事柄がないのなら、あかねを自分の元へと呼びたい。だが、舎人として、皇祖母尊や大海人皇子の元に仕えている身分では自由もままならない。
 せめては、無事、平穏を願うだけであった。
 胸に輝く青い勾玉。その輝きが曇っているように見える。
「兄貴、そろそろ出仕の時間だぜ。刻限に遅れると、大海人皇子様はともかく、葛城皇子様はうるさいぜ。」
 千文が床をたたみにかかる。
「わかったよ、すぐ支度する。」
 乱馬は脂汗をふき取りながら、ゆっくりと立ち上がった。
「今日は暑くなりそうですじゃ。」
 砺波の爺さんも、汗をぬぐった。


 その、すっきりしない一日の始まりを、やはり、すっきりしない顔で迎えた男がもう一人ここに居た。
 多度津に停留している良牙である。
 彼の船にはあかねが横たわっている。
 勿論、本物のあかねではなく、珊璞が呪泉の水で化けた偽あかねであった。

 夕べ、あかねがさらわれて、数時間も立たないうちに一艘の小舟が多度津へと渡りついた。そこには、婆さんと男が一人乗船していた。男はこの辺りの漁師の頭だと言った。婆さんはその祖母だと言う。
「ワシが夜の海辺を歩いていたら、この娘御が流されて来たんじゃ。」
 男はそう言って、役人に上奏した。
 婆さんもこくんと頷く。
「嵐が来ると思ってな、船をきちんと結わえようと浜へ出たら、この娘が流されてきた。見れば、大きな海賊の船が目の前の暗い海に浮かんでおったのよ。その船から飛び降りなさったのだろう。」
 婆さんは役人に向かって説明を続けた。
「これは大変と無我夢中で荒れる海へと小舟を出して、この娘を引き上げてみると、まだ息が有るではないか。占いをするワシが一緒に念じれば、か細い息がだんだんに落ち着いてきて、目をぱっちりと開いたのよ。」
 得意げに婆さんは己の手柄を話し、あかねを置いて、何某の金品をせしめて帰って行った。
 残されたのはあかね。
 どうやら、恐怖で動転しているのか、声が良く出ないらしい。しかも、記憶に弊害が出ているようで、良牙が見舞って顔を出しても、反応が鈍かった。見知らぬ相手を見ているような瞳を手向けられたのだ。
 もっとも、珊璞があかねに化けているので、良牙のことなど知る由もなかった。下手に喋ってボロを出すわけにも行かず、海賊に襲われた恐怖で、記憶と言葉を失った娘を演じろと、可崘婆さんに言い含められていたのだった。
「海に落ちた衝撃で、記憶と言葉に差し障りが出ているようですな。」
 薬師(くすし)が診立てた。
「治るのか?」
 良牙が問い質すと、
「それは何とも…。突然に思い出すこともあれば、そのまま、記憶を埋没させたまま過ごしていくことも…。
 ここは、命があっただけでも良しとしなされ。それに、身体も乙女のままじゃ。あの状況下で海の男たちに慰み者にされなかったのも、幸運じゃったろうて。」
 老齢の薬師はそう言って、良牙を納得させた。
「では、出仕させるのにも、支障は無いわけですね?」
 あかねの横たわる船倉に来た、女官係の嫗が薬師に訪ねてきた。老齢の一歩手前、中年の婦人である。凛とした気品が、そこら辺の下級女官とは違うことを伺わせる。難波津を出航してこの方、見たことがない顔だったから、多度津にて乗り込んできたのだろうか。
「ああ、問題はなかろう。後はこの身体が回復して言葉が流れ始めれば、采女になることも叶おう。」
 女官の問いかけに、薬師は返答した。
「それは良かった。今は、一人でも人員は無駄にできませぬ。」
 女官はホッとした表情を手向けた。
「ちぇっ!人間一人が、大変な思いをしたというのに、そういう言い方しかできねーか…。」
 良牙は、ぼそっと囁いた。
「そう言いなさるな。一人でも人材を失うと、いろいろ木っ端役人がうるさいのですよ。…それに、この茜郎女とやら、出仕してきた地方役人の娘たちの中でも、群を抜いた美姫。
 倭姫王(やまとひめのおおきみ)様のお望みにも適う働きをされるでしょう。」

「倭姫王?」
 良牙がきびすを返した。

「これ、下の者が滅多な口をききなさいますな!呼び捨てなどされますと、首が飛びますぞ!」
 薬師が慌てて、良牙の袖を引っ張った。一瞬、凍りついたような瞳を女官は良牙に手向けたが、咎めはしなかった。
「まあ良い。そなた、この姫の知り合いかえ?どのような関係じゃ?」
「この姫の親父様に懇意にしていただいている者です。姫の道中を守ってやって欲しいと、父親から託されました。」
 良牙はそう言った。出仕に際して、乱馬という妹背が居ることは、内々の話だったので、そこまで突っ込まなかったのである。
「そなた、何処の郡の者かえ?名はなんと言う?」
「常陸の国、響の邑の村長の息子、良牙だ。」
 憤然と答えた。
「そう…響の邑。」
 このような女人に東国のことなどわかるまい。良牙はそう判断して、多くは語らなかった。
「この者をおまえに託した父の名は?」
「たく…根掘り葉掘り、訊く奴だなあ…。常陸国国司、天道早雲殿ですよ。国司殿の姫です。」
 良牙が面倒くさそうに答えた。その答えに、女官の顔がぱっと明るくなったのを、見逃していた。
「そうか…やはり、天道早雲の姫君というのは、この娘かえ。」
 女官は背後に控えさせていた御付の者に軽く目配せした。
 すると、後ろで控えていた女官たちがぞろぞろとあかねを抱え始める。
「お、おい!こらっ!何の真似だ?」
 良牙が大慌てで女官たちを制した。
「国司殿の姫君をこのようなむさくるしい所へ置くわけにはいかぬ。ましてや昨夜の様な事があっては一大事。
 これからは、この姫は我らが筑紫国まで随行しまする。」
「待てよっ!」
 唐突の事態に、良牙が思わず声を荒げた。
 途端、ドヤドヤと女官の背後から武人が四、五人、槍や剣を持って押し寄せる。そして、良牙へと切っ先を向け、両側から身体を押さえつけにかかる。
 一体、目の前で何が起こっているかわからず、反撃する暇もなかった。
「これこれ、かりにしも、早雲殿からこの姫君をここまで警護してきた者ゆえ、そう、手荒には扱いなさるな。」
 女官は武人たちを諌めた。武人たちが良牙の束縛を解いたところで、女官は言い放った。
「これまでの勤めご苦労であった。響の良牙とやら、これからはこの姫君は我らが預かる。心配は要らぬ。我らは倭姫王様の配下。この茜郎女とか申す娘、倭姫王様が預かられる。」
「倭姫王様とは一体どのような方なのだ?」
 良牙は合点がいかぬという顔つきで女官に問うた。
「そなた、倭姫王を知らぬのか?」
「え、ええ。大和の事情にはあまり詳しいとは言えぬ東国の武士ですから…。」
「倭姫王様は皇祖母尊様の皇子、葛城皇子様の正妃で在らせられる方じゃ。」
「か、葛城皇子様といえば…。」
「そうじゃ。儲君(もうけのきみ・皇太子のこと)の正妃じゃ。天道早雲殿にはこちらから、申し送っておきまする。また、そなたの配属も、ちゃんと考えておきますゆえ、安心せよ。」
 そう言い置くと、女官は目配せして、眠ったままのあかねを板の寝台に乗せて、そそくさと船倉を引き払って行った。

「一体、どうなっちまったって言うんだ?」
 良牙は困惑してしまった。
 難波津を出航以来、国司の娘だからと、特別な計らいなど、一切無かった。ただ、常陸国方面からの召し上げというだけで、適当に船を選ばれて、この船に乗せられたのだ。
 それを掌を返したような、扱い。しかも、迎えに来たのは「倭姫王の配下」だと名乗った。
 倭国の東の果てとも等しい常陸の国に居た良牙は、さほど、中央政府大和朝廷の政治や情勢に詳しい訳ではなかった。だが、勿論、儲君である「葛城皇子」の名は聞き及んでいる。幾度と無く政争の修羅場を切り抜けて、現在の地位を切り開いた大王家のプリンス、葛城皇子。その名は倭国中に知れ渡っている。
 皇祖母尊を補佐し、事実上、倭国を動かしているのは彼だということも、百も承知だ。
 しかし、彼の正妃の名前は初めて耳にした。無論、正妃が居ても何もおかしくはないのだが、大和朝廷の奥深い宮廷の女人のことまでさすがに、東国までは聞こえてこなかったのだ。


四、

 放心していた良牙の元に、再び来訪者があった。
 倭姫王の女官があかねを連れて立ち去って、まだ、それほど刻限が過ぎていない頃合いだった。
 しかも、やって来たのは、また、女人だった。

「常陸の国の国司、天道早雲殿の姫君が休まれている臥所はここですか?」
 さっき、やって来た女官と、同じ年頃の女官だった。きらびやかな衣装が、むさくるしい船倉には似合わない輝きを解き放っているところまで同じだ。だが、さっききた女官よりは、物腰やものの言い方が柔らかかった。その者の性格がさっきの女官よりは、おっとりとしているのだろうか。
 良牙はゆっくりとその女官に対した。
 彼女の後ろ側には、さっきと同じくらいの付き人が控えて、中の様子をじっと伺っている。
「ああ、そうだ。…いや、さっきまではそうだった…。と言うべきかな。」
 良牙は抑揚の無い声で答えた。
「さっきまで…さはいかに?こちらに、おいでではないのですか?」
 辺りを見回して、あかねの姿を見つけられず、女官が焦り気味で問い質してきた。
「さっきまで、そこの臥所に休まれていたんだが…。つい今しがた、倭姫王様の配下と申す者たちが押し寄せて着て、あっという間に、連れて行ってしまわれたよ。」
 力なく、良牙は答えた。
「なっ、倭姫王様の配下でござりますると?」
 少し語気を強く、前に立っていた女官が吐き出した。
「ああ、そう名乗っていた。筑紫の国までは我々がお連れする…とか何とか半ば強引に連れて行っちまったよ。」
 良牙ははああっと、思わせぶりな溜息を吐き出した。
「で…?そなたたちは?」
 良牙はじっと、女官を見据え返した。
「我らは、額田王様の配下の者でございまする。」
「額田王様?」
 これもまた、知らない名前だった。
「地方のお方にはわからぬかもしれませぬが、皇祖母尊様の祭祀を司る巫(かんなぎ)でございます。」
 それを訊いて、良牙は絶句した。皇祖母尊の祭祀を司る巫といえば、言わば、この倭国の最高神官のようなものだ。その配下が、あかねを訪ねてきたのだ。驚かない訳がない。
 呆気にとられている良牙の横で、女官はふううっと溜息を吐き出した。
「そうですか。倭姫王様に、先を越されてしまいましたか…。」
 ふううっとやるせない息が女官から漏れる。
「先を越される?」
 良牙にとっては、わからないことだらけだった。
「ええ。額田王様、直々に早雲殿の姫君を召し上げようと、我らを寄越されたのでございますが…。先を越されたなら、仕方ありませぬ。長居は無用。これにて失礼いたしまする。」
 女官はぺこんと頭を下げると、お供の物どもを付き従えて、あっさりと帰って行った。

「いった、何だってんだ?葛城皇子様の正妃の配下に、皇祖母尊様の巫の配下が、あかね姫をじかに訪ねてこられるなんて…。」
 首をかしげて考え込んだ良牙の脇で、男の声がした。

「こいつは、面白いわいっ。」

「だ、誰だ?」
 いきなり声がしたので、飛び上がって、良牙が振り返った。

 そこには、がっしりした大男が突っ立っていた。どうやら武人のようで、短甲(たんこう)を着込んでいる。毛深いのか、もじゃもじゃの毛が袖から見え隠れしている。筋肉隆々、強面(こわもて)な顔つきをしていた。
 年の頃は三十前後といったところか。

「おう、すまぬ、つい、立ち聞きをしてしまったわ。」
 男は言葉をかけてきた。
「儂(わし)は大伴馬来田(おおとものまぐた)と申す大和の武人よ。命を受けて、この多度津辺りの郡から、兵卒を集めておったのだが。今朝方、筑紫国の方から船が数隻ついて、何事かと思いきや…。
 さっきの姫君がお目当てであったか。一体、何故にあの姫君を、倭姫王様、額田王様が所望なさったのであろうや?」
「さあな…。こっちが訊きたいくらいだ。」
 良牙がぶすっと答えた。
「おまえ、ずっと常陸の国からあの姫君を守って来たのか?」
「あ、ああ。まあな。」
「ということは、あの姫君の妹背か?」
「なっ!ち、違うっ!俺は妹背なんかじゃねえ!」
 ぶんぶんと良牙が首を横に振った。
「ほう…。違うのか。」
「ああ、違う!天神地祇に誓って、違うっ!」
 良牙は顔を真っ赤にして否定した。彼には明郎女という妹背が里に居る。ここ数週間に及ぶ航海で、あかねの気質を知り、惹かれていたとはいうものの、手を出そうとか思ったことは無かった。だが、ちらりと芽生えた恋情を、この馬来田という男にほじくりだされたような、変な違和感を覚えていた。
「まあ、良いわ。しかし…。倭姫王様と額田王様、双方が関心を示されたということは…。何かあるな。」
「倭姫王様と額田王様っていうのは、仲が悪いとか、対立してるとか…そんな風なのか?」
 良牙は興味深げに尋ねた。
「うーむ…。どうだろう…。」
 暫くじっと考えた末、
「表面上、大きな対立は無いようだが…。仲が良いということは無いな。」
 と言った。
「仲良しではないのか…。」
「ああ、倭姫王様は葛城皇子様の正妃、一方の額田王様と言えば、大海人皇子様のご寵愛を受けたことがある方だからなあ。あの皇子様方兄弟は、あまり互いを快く思っていないと噂されておるからなあ…。それに、女には女にしかわからぬ、駆け引きがあるだろうしよ…。」
「なあ、額田王様ってのは、巫(かむなぎ)じゃねえのか?それが婚姻しているのか?」
 良牙は思わず聞き返していた。
 巫とは未婚の女性がなるものと、彼は思っていたからだ。彼の邑里の巫は、その地位を得たら生涯独身を貫かねばならなかったからだ。男と密通すれば、共同体から追放される。いや、下手をすると私刑にあわされ命を奪われた。

「そりゃあ、場合によりけりじゃないのかね?神祀り事の詳しくは俺にはわからんが、額田王様は大海人皇子様の嬪として傍にいらしたことがあったことだけは確かだ。皇女(ひめみこ)を一人儲けておられるぞ。確か…名は「十市皇女様」と言ったかな。」
「へええ…。大王家じゃあ巫は別に、子を儲けた女でも務まるのか…。」
 良牙は心底、感心してみせる。
「額田王様は元々、神を斎くことに長けた御方だったからねえ。何でも、その能力を知っていた皇祖母尊様が、大王として望んで巫に据えられたそうだ。詳しいことはわしも知らぬが…。」

 巫女は男を知らぬ処女がなるものと思われがちだが、それ自体、道教が大陸から伝来して以降に固まった、一種の固定観念であるという説もある。
 実際、既婚者や出産経験者がどのくらい巫という地位に居たかは、定かではない。が、シャーマン能力が高い女性はたとえ処女でなくても、巫女に据えられた可能性は高い。
 それはさておき、この、馬来田という男、随分、人懐っこい奴だと良牙は思った。いた、単に話好きなだけかもしれない。こういう輩は酒が好きに違いない。

「筑紫行きなど、面白くないと思っていたが…。そうでもなさそうだな。」
 馬来田が呟いた。
「ふふふ、また激しく、時代が転がっていくかもしれぬよのう…。」
 馬来田はにっと笑いながら、良牙へと向き直った。
「ところでおぬし…。東国、常陸の国の人間だと言ったよな?筑紫国には、此度の徴兵に応じて行かれるのだな?」
 良牙を一瞥しながら、馬来田が問いかけた。
「ああ、いかにも。郡の代表としてやって来た。」
「なら、どうだ?儂の配下にならぬか?」
 と誘いかけてくる。
「見たところ、鍛えぬいた良い身体をしておる。このまま筑紫国へ入っても、下々へと配置されるだけじゃ。」
「倭姫王様はそれなりの待遇に召抱えてくれると、言っていたが?」
 良牙の言葉に、馬来田は笑い出した。
「はっはっは。あんなもの、あてになるかよ!あれは単なる言葉のあやだ。筑紫国へ着いたところで、おまえさんのことなど、頭から消え去っておるわ!第一、倭姫王様の女官に兵卒を配置する権限など無いわ。」
 冷静に考えても、馬来田の言うとおりだろう。
「俺はかつがれたのか?」
 良牙がムスッとした。
「まあ、かつぐつもりではなかったろうがなあ…。おまえ、真正直だな。ますます気に入ったわ!我は大伴馬来田(おおとものまぐた)。朝廷の中では中堅どころの武人集団を束ねておる。勇猛な武人は一人でも己の配下に置きたいのが、大将の本音。
 どうだ?悪いようにはしない。儂と共に来い。このまま筑紫へ入っても、どこに配置されるやわからぬ。その点、儂と共に来れば、少なくとも食いっぱぐれることはないぞ。」
 暫く思案して、良牙は答えた。
「ここで出会ったのも何かの縁だな。よし、わかった、一緒に行こう。」
「ようし、決まった。ならば、ワシの船に来い!」
 あかねが居なくなった以上、この船に残る義理もない。それに、この馬来田という男、己を見込んでくれたようだ。悪い気はしない。烏合の衆として埋もれてしまうより、名のある大将の近くに就いた方が身の得だ。そう判断したのだ。

 梅雨の湿気た太陽が、真上から傾き始める頃には、良牙は別の船に移って行った。
 それは、大和の武人としての、新たな良牙の出発だった。






 第三十話「豊媛」へつづく





大伴馬来田(おおとものまぐた)
生年不詳・没年683年、父は大伴咋子(おおとものくいこ)。
大海人皇子側の武将として壬申の乱で活躍したことが「日本書紀」に見えますが、それ以外の記載はなく、伝記は不明。同じく壬申の乱の功労者、大伴吹負(ふけい)の兄。
一応、実在の人物ですが、作品内の設定は創作です。
大伴旅人、家持の家系とは直系ではないが同じ氏になります。

 
(C)2008 Ichinose Keiko