第五部 朝倉編

第二十六話 橘の木の下で


一、


 遷宮の儀は斉明女帝を囲んで、華々しく執り行われた。
 不便な筑紫国への行幸である。宮中の人々は遥かる大和の飛鳥宮を思い浮かべながら、暫し美酒に酔いしれたかったのだろう。
 儀式には皇祖母尊は勿論のこと、葛城皇子を始めとする皇族方が老いも若きもずらっと集り、新しい宮を祝った。
 まずは額田王が厳かに神へ捧げる舞いを踊る。巫女の姿になった彼女は、質素ではあるが美しい緋と純白の衣装をまとい、しなやかに踊る。手にした鈴が軽やかな音をたてながら、コロコロと鳴り響く。その後ろで笛が鳴り響く。
 巫女に神懸かるのは夜だと相場が決まっていた。今日は昼日中に儀式が行われた。だから、神懸りは無かった。
 こういった儀式を執り行うのは、往々にして夜が多かったのであるが、皇祖母尊の体調を考えて、遷宮の儀は昼間に持って来られた。闇の中では警護もしにくかろうという配慮もあったのかもしれない。儀式を慮(おもんばか)る宮中にあっては、異例といえば異例であった。
 これまで狼藉者は、夜の闇に紛れて近づいて来た。だから昼間に儀式を敢行すれば良い。そんなことを黒麻呂が言ったのだとか、こそこそと囁かれた。

「どこから奴らは襲ってきやがるんだろう。」
 千文が乱馬へ視線を流した。
「さあな…。どこからにしろ、油断は禁物だ。まあ、潜んでくるなら、屋根か床だろうけどな。」
 乱馬は宮中を遥か前方に眺めながら、裏山の脇へと陣取っていた。そこここに配備された舎人たちが、各々武器を片手に、宮中を中から、そして外から警護して固めていた。
「これだけ舎人や兵士たちが居たら、唐国の道士だって、そう易々とは入れないだろうけどな。」
 千文がそう嘯いたほど、多人数の武人たちが、見え隠れしていた。


 そんな彼らのすぐ近く。
 美しき巫女舞いを見ながら、沐絲がほくそえんだ。
「ふふふ…。今のうちに最後の宴を楽しんでおくが良いだ…。皇祖母尊よ。おまえの命は我が手の中に。天に代わってオラが始末してやるだ。」
 いつの間に潜入したのか、沐絲は宮中に入り込んでいた。それも、男の格好ではなく、女たちの間に紛れてという念の入れようだった。前に、乱馬が皇祖母尊を守るのに、東国の蝦夷の女と偽って傍に侍っていたが、それを真似たのだ。
 沐絲も男。上背もそれなりにあったが、できるだけ背を低く見せるため、目立たないようにじっと影にうずくまるように場の末に座っていた。彼の髪の毛は元々、黒く、長い。碧なす黒髪を美しく結い上げて、顔には化粧。かなり妖艶に見える。
 儀式は滞りなく終わり、やがて宴へと移り行く。
 ご馳走が並べられ、酒も並ぶ。


「ちぇっ!客人は良いよなあ…。俺たち下っ端にはご馳走も何もねえや。」
 千文が面白くないという表情を手向けた。
「文句を言うな!無事に守り通せば後で何某かワシらにもおこぼれはあろうで。」
 砺波の爺さんが笑っていた。
「黙って見張ってろ。気を抜くなよ。相手は妖術を使うんだからな。」
 乱馬は苦笑しながら配下へと声をかける。他の配下の家人たちも、気を緩めることなく、彼に従って、宮中を警護していた。

 と、急に乱馬の表情が険しくなった。
「兄貴?」
 その変化を千文は見逃さなかった。
 乱馬は黙って視線を宮中へと転じた。

「おかしい…。」
 その言葉に千文は言った。
「何がだよう…。別段変わったところはないぜ…。」
 乱馬はあご先でそれを指し示した。
「あの女…。」
 沐絲を暗に指したのである。
「まさかっ!」
 乱馬は瞬時に身構えていた。
 それから千文と砺波に言い放った。
「まずは俺が動く。いいか、てめえらは最後の砦だ。俺が言いと言うまで動くなっ!敵は頭が回る奴だ。それだけじゃねえ。どんな卑怯な手を使ってくるかわからねえ奴だ!勝つ事に集中すればどんな手を使ってもかまわないと思う非道な奴だ。てめえらはとにかく弓を構えていつでも射抜ける状態にしておけ。いいなっ!」
 そう命じた。

 と、その時だった。
 にわかに煙が方々から棚引きだした。
 桃色の妖しい煙だ。
「何だ?」
「何奴っ!」
 周りを囲っていた舎人たちが気付く頃には、辺り一面、薄っすらと煙が充満していた。

「ふふふ…。この香を嗅ぐと動けなくなるだ。」
 沐絲は香炉を操って、宮中に怪しい香をたき込めたのだ。
 その煙を嗅いで、人々はバタバタと倒れ始める。身体の自由が利かないままに、床に倒れこむ。
 「酒や食べ物にも、香の効力を上げるための毒薬をしこんでおいただ。」

 大海人皇子も葛城皇子も傍に居た重臣たちも、次々と煙を煽って床へと這いつくばった。人心地を失って深い眠りへと入ったように、ざわついていた宴会が急に静かになってしまった。

「これは一大事っ!!」
 外を警護していた舎人たちも弓や剣を携えて、わあっと集ってきたが、別の黄色い煙が流れてきて、それを嗅ぐや否や舎人たちはその場へと崩れるように倒れていく。

「他愛ねえだ。皆倒れただか。」
 沐絲は、つうっと立ち上がった。
「ふふふ…。まずは皇祖母尊を亡き者にしてやるだ…。」
 にっと笑みを浮かべて、人々が倒れこんだ朝殿の中央へと、ゆっくり歩み始める。
 手には短剣を持っていた。これで心の蔵を一気に突き殺すつもりなのだろう。

 その時だった。
 ヒュンッ!
 と、一本の矢が沐絲、目掛けて飛んで来た。
「何?」
 弓の気配を察した沐絲は、すんでで女物の着物を翻し、難を逃れた。弓矢は沐絲の来ていたきらびやかな女衣装を射抜くと、トンっと傍の柱に突き刺さる。

「誰じゃ?まだ動ける奴が居るだか?」
 沐絲はビシッと弓矢が飛んできた方を見た。
「おまえは…。乱馬!」

 精悍な瞳がはっしと沐絲を射抜いてきた。弓を放ったのは乱馬だったのだ。
「久しぶりだな。唐国の道士よ…。」
 乱馬は弓を番(つが)えながら、沐絲を睨み据えた。

「ふん…。そうか…。おまえも解毒薬を飲んでおるだか…。」
 沐絲は舐めるように乱馬を睨み返した。
「ああ、とある方が解毒薬を飲んでおくように、忠告してくれたからな。」
「ほお…。五行博士がおまえの後ろにも控えておるだか。」
「てめえの好きにはさせねえさ。俺が相手してやるぜ。」
 乱馬は間合いを取りながら沐絲へと剣を差し向けた。
「面白い。この沐絲様とさしで勝負するつもりだか。」
 沐絲も間合いを取りながら、乱馬と対峙した。

 相手は唐国の道士だ。どのような卑怯な手を使ってくるかはわからない。
 緊張感が否応なしに高まる。

 先に沐絲が動いた。
 煙玉を乱馬目掛けて解き放ったのだ。

 ボンッと音がして煙が黙々と吐けた。

「ちっ!」
 乱馬は舌を打つと、ざっと駆けた。
 彼の脇を鋭敏な短刀が何本もすり抜けた。カカカと音がして、後ろの壁に突き刺さる。乱馬にめくらましを放ち、怯んだところを狙い撃ちして来たのだ。
 だが、最初からその動きを見越していた乱馬は難なく避けた。

「まだまだいくだっ!」
 沐絲は動きを止めることなく、次の煙玉で動きを封じ込めようとした。シュンシュンっと今度は鎖鎌が乱馬の脇を襲う。

「たく、小賢しい手を使う奴だっ!」
 乱馬はその脇を器用に避けた。

「ただ、小賢しいだけではないだぞっ!乱馬っ!」
 にっと笑って沐絲は乱馬を蹂躙するように動き続ける。

 何かある。

 そう思いながらも乱馬は沐絲の攻撃を避けながら、動き回った。

「さて、そろそろ仕上げにかかるだか…。」
 動き続けていた沐絲がピタリと動きを止めた。


二、

「どうした?もう終わりか?沐絲!」
 乱馬は呼吸を整えながら沐絲を睨み付けた。
 荒々しい呼吸だったが、すぐに平常へと戻る。
 さすがに鍛え抜かれた肉体は違う。

「ふふふ…。オラが手中に落ちて貰うだ。」
 沐絲はにやっと笑った。

「な、何っ!」

 ツンとつんざくような音が、乱馬の耳を駆け抜けた。

「しまった、また傀儡の糸…。」

 ぐっと沐絲は手先で何かを握り締めていた。

「ただ単に動き回っていたように見えただか?愚かな奴だ。」
 そう言って笑った。
 彼は乱馬を惹きつけながら、動き回り、得意の糸を乱馬へと絡み付けていたのだ。それは蜘蛛の糸のように繊細な糸。乱馬の動きを封じるために巧みに絡み付けられていったのだ。

「どうじゃ?動けまいよ…。乱馬。」

「くっ!」
 乱馬の動きがすっと止った。

 確かに押せども引けども腕も足も動かない。

「前はその術、おまえに見破られた。だが、今度は破られぬ。ふふふ…。何故ならおまえの感覚を根こそぎ奪うだからだ。」

 そう言って沐絲は余裕を見せた。

「己の幻と戦うが良いだ。」

 ゆらりと沐絲は乱馬の前に立ちはだかると、香炉を前に置いた。

「ゆっくりとおまえの身体をこの煙が蝕み、幻影へとおまえを誘うだ。どら、もう立っているのがやっとだろう?」
 
 乱馬の体がにわかに震えだした。
 確かに彼の言うとおり、立っているのも辛い状態だった。迫り来る激しい痛みに耐える。

「少しでも力を抜くとこの刀がおまえを貫くだぞ…。くくく。」

 そう言って目の前に乱馬と糸で繋がった刀を見せた。刀は橘の木に結わえられて、乱馬を狙っている。彼の身体が力を失うと、容赦なく貫くように細工が施されている。

「力が尽きて倒れた時、おまえはこの刀に切り刻まれて果てるだ。」
 にっと笑った沐絲はくるりと後ろを向いた。
「さてと…。オラは皇祖母尊の命をいただくだ…。おまえはそれをここから悔しがって見ているが良いだ。そして、皇祖母尊を殺した後で、ゆっくりとおまえを切り刻んでやるだ。」
 沐絲は冷たく哂った。
 
「畜生!卑怯者めっ!!」

 乱馬は迫り来る激しい痛みと闘いながら沐絲を睨み上げた。

「戦いに卑怯も何もないだ。ただ、最後に立っていた者のみが勝利するだ。」
 沐絲は嘲笑うように乱馬を流し見た。

「だったら…。俺も、容赦はしねえ…。」
 乱馬は激しい形相で沐絲を見返した。

「ふん、動けぬおまえに何ができるだか?せいぜい主たる皇祖母尊が斬られるところをじっと眺め見るだけじゃねえだか?」

「千文っ!砺波っ!構わねえ、射掛けろっ!!」

 乱馬の声が宮中にこだました。

 その声を合図に、矢がそれぞれの方向から飛び込んできた。

 ビシュン、ビシュンと音がして、乱馬と剣を結ぶ傀儡の糸を引き千切り、そして、傍にあった香炉を射抜いた。
 
 カランと音がして香炉が倒れた。ぼわっと煙が一瞬に上がり燃え尽きる。

「しまった、他にも動ける奴がいただかっ!」
 沐絲が焦りの声を上げた。


「でやあああっ!!」
 乱馬は飛んできた弓を掴むと、己の左腕にそれを突き刺した。

「兄貴?」
 千文が目を丸くした。自分を傷つけた乱馬の行動に驚愕したからだ。
「あれで良いのだ。千文。」
 砺波の爺さんががっと彼を止めた。
「でも…。」
「己に降りかかってきた傀儡の術を打ち破るには手立ては二つしかない。一つは解毒薬を飲むこと。そしてもう一つは、己を傷つけ麻痺した感覚を痛みで元に戻すことだっ!」

 そうなのだ。乱馬は麻痺した己の感覚を、激痛を与えることで正常に戻したのだ。痛みを感じることで他の麻痺状態を回復させたのだ。

「大丈夫、乱馬殿は優れた武人。急所はあえてはずして、体勢に影響のないところを傷つけておられる。それより、援護射撃じゃ。手を緩めるなっ!」
 砺波の叱責に千文は再び矢を持つと、沐絲目掛けて射掛けた。

「ぐぬっ!卑怯なっ!」
 沐絲ははっしと乱馬を睨み付けた。

「てめえに卑怯呼ばわりされる云われなんかねえっ!ここからは一騎打ちだ。覚悟しなっ!沐絲っ!!」
 振りかぶると、乱馬は己の剣を構えた。そして、それをしっかりと掴むと、沐絲目掛けて突進して行った。

「畜生っ!何故だ?何故オラがこんな奴に…。」
 沐絲の身体から鮮血が飛び散った。乱馬の切っ先が沐絲の身体をかすめたのだ。
「ぐぬうううっ!こんなところで死ぬのは嫌じゃあっ!」
 最後の力で踏ん張ると、沐絲はめくらましの煙玉を地面へと打ちつけた。

 ボンッと音がして、玉が弾けた。
 もうもうと煙が上がる。

「覚えておくだーっ!」
 沐絲の雄たけびが響き渡り、彼の気配が消えた。

「けっ!逃げ足だけは早い奴だ…。」
 立ち込めた煙が晴れた時、沐絲の姿はなかった。ただ、血痕だけが点々と宮から麻底良布山へ向かって続いていた。

「兄貴っ!」

「いい、追うな。追うよりも、皇祖母尊様や葛城皇子様、大海人皇子様たちを介抱しろ。あいつの他にも敵が居るかもしれぬっ!」
 乱馬は自分で傷つけた左の上腕を庇いながら叫んだ。
 ぐっと己の着物の片腕を引き千切り、簡単に止血すると、すぐ近くに倒れていた皇祖母尊、斉明女帝をがっと抱き上げた。

「お気を確かに…。賊はもう片付けましたゆえにっ!」

 乱馬の声を聴くと、堅く閉ざされていた皇祖母尊の瞳にふうっと光が灯った。

「良かった、ご無事で…。」
 そう象った乱馬の口へと、老女帝の細い手がすいっと乱馬の頬へと伸びた。

「えっ…?」

「高向王様…。あなたが、守ってくださったのですね…。お会いしとうございました…。高向王様…。」

 乱馬は一瞬、我が耳を疑った。

 女帝はその後も高向王様と何度も乱馬を呼び、そしてぎゅっと手を握り締めて来た。

「高向王様…。そなたは変わらずに若いままに…。時じくの香の木の実の下で、逢瀬を重ねたあの頃のままにお変わりなく…。」
 そう言って乱馬の逞しい胸へと愛しそうにその老顔を手向け、微笑むように再び意識を失っていった。だが、その顔は苦痛ではなく、幸せそうに微笑んでいた。

 乱馬はただ、何が女帝に起きたのか、理解すらできず、じっと老女帝を抱きかかえてその場に立ち尽くしていた。
 その上では時じくの香の木の実の木が、ゆらゆらと葉を天へと伸ばして、風に揺られていた。



三、

「たく、兄貴は皇祖母尊様まで、その色香に迷わせちまうのかよう…。」
 くくくと千文が面白そうに笑った。
「何が色香だっ!何がっ!」
 乱馬はぶすっと千文を睨み返した。
「だってよう…。ずっとさあ、兄貴の方を熱っぽく見詰めてだぜ、じっと手を握ってその胸に顔を埋めて…。」

「こら、千文。いい加減にしないと!」
 乱馬が睨み付けた。

「えっへっへ…。」
 ぼりぼりっと千文は頭をかきむしった。

「でも、皇祖母尊様は、いったい誰と兄貴を見紛うたのだろう…。」
 千文が首をかしげた。
「さあな…。聞くところに寄ると、皇祖母尊様の目は殆ど駄目らしい…。大方、煙玉に懐かしい人の幻影でも見せられていたんだろうさ…。」
「案外、若い兄貴に気があったとか…。」
 乱馬は傷の手当てをしながら、素っ気無く答えた。
「ば、馬鹿っ!だから、あれは、何処かの誰かと俺を間違えて、皇祖母尊様が…。」
 にっと笑った千文に向かって、思わずムキになって言い返す乱馬。
「あはは、幾らなんでも孫と年がそんなに変わらないんだぜ、兄貴は。冗談だよ、冗談。」
「千文っ!」
「にしても、ほんとに、誰と間違えてたんだろう。皇祖母尊様は…。確か、高向王とか言う名前が聞き取れたけど…。誰だ?それは…。」

「皇祖母尊様の最初のお相手の名前じゃよ、千文。」
 砺波の爺さんが背後から声をかけてきた。
「誰だよ、それ。」
 千文は爺さんにきびすをかえした。
「皇祖母尊様の夫じゃった方の名前じゃ。」
「あん?皇祖母尊様の夫って先々代の大王になった田村皇子様じゃなかったっけ…。」
 千文はおやっという顔を砺波に向けた。
「確かに、皇祖母尊様は田村皇子様の正妃になられたが、その前に一度、高向王という御方と婚姻関係にあったのじゃよ。」

「爺さん、高向王を知ってるのか?」
 乱馬ははっとして砺波を振り返った。
「ほっほっほ、ワシらくらいの年齢の者なら、田村皇子の前に高向王と結ばれておられたことを知らぬ者はあるまいよ。口性(くちさが)な連中は、田村皇子が高向王を体よく退けて、宝皇女と呼ばれていた皇祖母尊様を手に入れたなどと噂しあったこともありましたからなあ…。真偽の程はともかく…。」

「やはり、そのような流言が出回っておったのかな…。」
 背後で大きな声がした。

「これは、大海人皇子様。」
 砺波は慌てて口をつぐんだ。滅多なことは言う物ではない。そんな弱りきった顔を、皇子に手向けた。

「いや、そんなに堅くならずとも良いぞ。爺や。何も咎めようと思って申したのではない。しかし、滅多なことを申すではないぞ。私なら平気だが、兄君だったらどう出るかはわからぬからな。はっはっは。」
 大海人皇子は高笑いしながら、乱馬の前にどっかと座った。

「今回はご苦労だったな。乱馬。」
 大海人皇子はそう言ってまず労った。
 どうやら、わざわざ御礼を言いに立ち寄ったらしい。大海人皇子らしい直情的な対応だった。

「あ、いえ…。たまたま東風殿に助言をいただいておりましたから…。何とか大事に至らずすみました。」
 乱馬は慌てて返答した。
「そうか、やはり、東風殿が後ろに控えておられたか。」
 大海人皇子はそう言うとにっと笑った。
「で?東風殿はどんな風におまえに今回の急難を告げたのだ?」
 興味があるようだった。
「東風殿はいろいろと占いをする中で、不吉な星の動きを読まれていたご様子でした。実は難波宮でも一度、東風様には助けていただいたことがありましたゆえ、今回ももしやと思い、彼の仰せに従って渡された薬をこの者たちと共に服用していたまでのことです。あの薬がなければ、私たちも妖の術にはまってしまい、あのような働きも出来たかどうかは…。それに、この者たちの助けもあったればこそ、事なきを得ましただけでございます。」

 乱馬の答えに大海人皇子はふっと頬を和ませた。
「たく…。乱馬よ。おまえは謙虚だなあ…。手柄を全て己がものにせず、配下の者へと気を配るし、東風への礼節も忘れない。…やはり東風殿が後ろで貴様を助けていたのか…。」
 とにっこりと笑った。
「しかし…。東風め。そんな卦が出ているのなら、何故ワシに先に言い置かなかったのだ。」
 大海人皇子は言葉を吐きつけた。

「それは、大海人皇子様に変な嫌疑がかけられぬように配慮したのでございましょう。」
 今度は、背後から女性の声がした。

 はっとしてその声の主を振り返る。
 と、美しい女がそこへ立っていた。玉のような肌は光り輝き、気品に溢れた顔つきをしていた。

「これは額田の…。」
 大海人皇子は驚きの声をあげる。

「額田のって…。額田王様?」
 千文が急に堅くなった。思わず背筋をピンと伸ばす。
 当然であろう。
 額田王と言えば、斉明女帝に一番近い巫女。その言葉も代弁するほどに位の高い女性だ。おそらく今の大和朝廷に於いては、斉明女帝の次に偉い女性だろう。

「ほほほ…。ぼうや、そんなに身体を堅くしなくてもよいですわ。」
 額田王は口元に袖を当てて、たおやかに笑った。

「額田王にかかったら、乱馬の配下でも童子扱いか…。」
 大海人皇子が思わず苦笑したくらいだ。
「で、わざわざ皇祖母尊様の代弁者のおまえが、何で一介の舎人のところへ御くだりで?」
 少し皮肉めいた口調で大海人皇子は額田王に対した。

「勿論、今回の一番の功労者である乱馬殿とその配下の者への礼節を尽くしに参ったのですわ。大海人皇子様。」
 額田王はそう言って艶やかに笑った。
 香を焚きこめた衣装を身にまとっているのか、彼女が足を踏み入れただけで、何とも言い難い良き匂いが部屋中に充満したような気がした。

「此度の働き、とても大儀であったと、皇祖母尊様から伝言を授かって参りました。」

「これはご丁寧に…。ありがとうございます。」

 宮中のしきたりは堅苦しくて苦手ではあったが、わざわざ渡って来た皇祖母尊の使いを無下にも扱えず、乱馬はとにかく頭を低くしてそれに対した。

「で、額田よ、さっきの続きだ。何故、東風は私に薬を服用させなかったのだ?」

「ほほほ…。考えてもみなされ。此度の遷宮の儀は元はと言えば、全て葛城皇子様が進められた慶事。予め、不吉の卦を予知していたにしろ、大海人皇子様にも薬を与えて、平然な働きをさせれば、あの疑り深い葛城皇子様がどのように思われましたことやら…。」

「あ…。」

 そうなのだった。
 今回の儀式の計画は全て葛城皇子がその五行博士の黒麻呂と共に立てたものだ。もし、予め、大海人皇子が東風に不穏の卦を告げられて、薬を飲んでいれば、当然、大海人皇子が今回の手柄を立てただろう。

「そうか…。もし、あの時私が兄上と共に倒れていなければ…。」
「余計な詮索を葛城皇子様が持たれることは必定でございますわ。」
「あの兄君なら、そこまで考えるだろうなあ…。大海人よ、おまえが唐国の道士を雇って糸を引っ張り、さも、手柄を立てたように見せ付けた…などと…。血を分けた同母弟でもあの兄上は容赦せぬだろうからなあ…。」
 大海人皇子の顔が固くなる。

「ふふふ…。だからこそ、東風殿はあなたさまには薬を与えなかったのでございましょう…。そして、一番信頼のおける舎人の乱馬殿に全てを託されたのでしょう。」
「なるほどな…。そこまで考えおったか。あの東風めは。」

「でも…。あの薬、飲まなくって正解だったぜ、皇子様。」
 千文がぽそっと言葉を吐き出した。
「こら、千文っ!」
 乱馬が咎めたが、大海人皇子が笑いながらそれを制した。

「良いぞ。構わぬ。申してみよ。何故、私が飲まなくて良かったのだ?」
「だって…。普段美味しいものしか食べつけていない皇子様があの薬を飲んだら、不味さで卒倒しておっ死んでいたかもしれねえぜ…。とにかく、あれは人が口にするもんじゃねえな。思い出しても胸がムカムカすらあ。」
「わっはっは…。そんなに不味かったか。その薬は。」
 大海人皇子が好奇の瞳で千文へ問い質した。
「不味かったなんてもんじゃねえっ!正直、俺だって、爺さんだって、多分乱馬の兄貴だって、根の国(黄泉の国の別名)の入り口が見えたんじゃねえか?なあ…。」
「そうなのか?乱馬よ。」
 くくくと笑いながら大海人皇子が問いかけた。
「あ、はい…。東風殿には悪いですが、あれは…。確かに…。不味うございました。」
 思い出しただけでも顔が歪む。

「そうか…。不味かったか…。不味い薬を私に飲ませるわけにはいかぬと思ったのかもしれぬのう…。まあ、良い。おかげで事なきに終わった。」

「あれから、皇祖母尊様はどうなされました?」
 乱馬は気になることを大海人皇子に尋ねた。

「ずっと、眠られっぱなしだ。よほど、おまえの胸の中が気持ち良かったと見える。我は誰に抱かれていたのだろうか…と折に触れて、尋ねられておられるそうじゃぞ。のう、額田。」
 そう言いながら大海人皇子は額田王を見返した。
「ええ、私にもお尋ねになられました。どこの武人の胸だったのかと。いたく、ご執心のご様子でしたわ。ほほほ。」
「額田王様まで…からかわないでくださいよっ!!たく!こっちは冷や汗ものだったのですから!」
 乱馬は思わず真っ赤になった。
「そなたも隅に置けぬのう…。ところで、乱馬よ。」
 真顔になって大海人皇子は乱馬を見据えた。
「…やはり、そなたの胸の中で、高向王の名を呼んでおられたのだな?皇祖母尊様は…。」
 黙ったままコクンと揺れる乱馬。一瞬どうしようかと惑ったが、その名を耳にしたことを、素直に大海人皇子には告げた。
「そうか…。まだ、皇祖母尊様は高向王を忘れておられぬか。」
 少し複雑な笑みを、大海人皇子は浮かべた。

「それはそうと、皇祖母尊様はそなたにお会いしたいと言っておられましたよ…。乱馬殿。」
 乱馬と大海人皇子のやりとりを聞いていた額田王が、言葉を切り出した。
「皇祖母尊様が、わ、私にですか?」
 乱馬は驚いて額田王を見やった。
「いずれ、ご沙汰があるかもしれませぬ…。心得ておいてくださいませ。」
 額田王はにっこりと微笑みながら乱馬に告げた。

 恐れ多い話であった。
 大王は神と同列。そのように見られていた時代だ。言葉を直接かけられることなど滅多にない。今回思わず、女帝を守ろうと近くへ駆け寄ったが、それも急場でのこと。通常なら、額田王のような位の高い女官以外は、皇祖母尊の傍へ侍ることも許されないだろう。息子の大海人皇子すら、容易に近くへは寄れぬのだ。

「兄貴…。皇祖母尊様に手を出すなよ…。幾らなんでも年が違いすぎるぜ…。」
 ぼそっと、傍らから千文が言った。面白半分な言い草だった。
「ば、馬鹿っ!んなことするわけねえだろうがっ!!」
 乱馬が思わず怒鳴っていた。
「わかんねーぞ!皇祖母尊様に求められたら、断りきれるのかねえ?」
「いい加減にしろっ!」

「はっはっは…。ここは賑やかでよいなあ…。」
 大海人皇子はふっと頬を緩めた。

 ◇

「今更ですが、大海人皇子様は乱馬殿のことを、大層、気に入っておいでなのですね。」
 彼らの住処を辞した後、額田王が大海人皇子へとそう話しかけた。
 以前は床を並べたこともある「夫婦」だったこともある二人だ。だが、今は皇太子弟と皇祖母尊直属の巫女姫。それぞれの公務で宮中を遁走している。毎日のように宮中で顔を合わせていても、言葉を交わすのは久しぶりだった。
「何故だろう。乱馬の元に居ると不思議と心が安らぐ。まだ臣下にして一年も満たないと言うのに、もっと以前から知っているような懐かしい感覚があるのだ…。今日も、久しぶりに楽しく笑ったような気がするよ。」
 大海人皇子は暮れ掛けた空を仰いで言った。
「ふふ…。確かに飛鳥を離れて久しく私も、心から笑うということをしていなかったような気がしますわ…。」
「私にはなあ、額田よ、乱馬と私の間には言葉に尽くせぬ不思議な縁(えにし)があるような気がするのだ…。」
「意味深なことをおっしゃいますのね…。皇子様は…。」
「私には、母君が高向王と乱馬を見紛うたのがわかるような気がするのだ。」
 大海人皇子は鋭い視線を額田王へと投げかけた。

「大海人皇子様…。」
 額田王が意味深に笑みを浮かべた。彼女には大海人皇子が何を言わんとしているのか、手に取るようにわかったらしい。
「額田よ…。おまえの卜占ではあの乱馬という青年、どのように出ている?」
 大海人皇子は、ここぞとばかりに、額田王に問いかけた。
「皇子様の五行博士、東風殿はどのようにおっしゃっておいででした?」
 逆に額田王に問い返された。
「結論を下すには時期尚早だそうだ…。自ずと現れてくると奴は申しておった…。裏を返せば、東風の奴には、乱馬の素性がはっきりと見えておるのだろうよ。」
「私は直接的には高向王を存じ上げませぬが…。年老いた近習の者に言わせると、乱馬殿には高向王の面影があると言う者もおりまする。皇祖母尊様も見間違われたように、似ているそうなのですよ…。」
「似ているのか…。高向王と乱馬は…。」
 それきり黙った大海人皇子に、額田王は言葉を投げかけた。
「それに、ほら、皇祖母尊様と高向王様の御子、漢皇子の男児が成長していれば、丁度乱馬殿ほどの年頃になるのではありませぬか?」

 その言葉に、大海人皇子は、はっと息を飲んだ。

「そなたの卜占にも、もしや…。」
 そう言いかけた大海人皇子の言葉を、額田王はぐいっと推し戻した。
「皇子様、一つだけ申しておきましょう。卜占は完全ではありませぬ…。卜占は一つの可能性を示唆しているに過ぎませぬ。
 抗えぬ運命にもてあそばれて、再びめぐり合うのが奇(く)しき縁。恐らく、皇子殿と乱馬殿の間には、切ろうとしても切れぬ、深い縁があることだけは確かのようでございまする。」
「やはり…。血が引き合っていると思うか…。そなたも…。」
 大海人皇子はゆっくりと額田王を見返した。額田はその問いかけには答えなかった。黙って、少しだけ微笑みかけた。
 その表情が、全てを物語っていると、大海人皇子は直感した。
「額田…。兄君は乱馬のことに気がついておられると思うか?」
「いいえ…。まだお気づきではないでしょう。しかし、時間の問題かもしれませぬ。」

 大海人皇子は黙り込んだ。

「一つだけ、教えてくださりませ。もし、大海人皇子様のお考えどおり、乱馬殿と血の繋がりがありましたら、どうなされるおつもりです?後の世のために、抹殺しようとなさるのか、それとも、ご加護なさろうとするのか…。」
「難しい質問だな…。兄君はどう出るかな…。いや、あの狡猾な兄君のことだ…いろいろと考え及んで、家臣の一人として利用できるところは利用して、さっさと切り捨ててしまうかもしれぬな…。後腐れがないように…。」
「いずれにしても、このままでは済まされますまい…。とお考えなのでございますね。」
 額田王は小さく吐き出した。
「ああ、…出来ることなれば…守ってやりたいものだがな…。乱馬は真っ直ぐな武人だ。要らぬ政争などの犠牲にはしたくはない。」
「うふふ…。大海人皇子様らしいお考えですこと。」
 額田王は笑った。
「あいつには大和朝廷の政の汚さや醜さからは無縁で居て欲しいものだ…。あのまま、そう、無垢なまま、我が大王家に繋がる一族が忘れてしまった勇猛さを備えた倭国一の武人になってもらいたい…そうは思わぬか額田よ…。」


 彼らの向かう朝倉宮の傍に立つ、橘の木がさわさわと風に揺られて、伸びやかに枝葉を広げている。
 その向こう側、東雲から迫ってくる夕闇に向かって、鷹が天高く舞い上がるのが見えた。
 空には星が美しく輝き始めていた。



第五部 完


第六部 漂泊編 へつづく



 次回からあかねセクションです。
 あかねちゃんファンに叩きのめされそうな展開に…先に謝っておこうっと。

(C)2007 Ichinose Keiko