第五部 朝倉編

第二十五話 朝倉橘廣庭宮


一、



 鎮火後、宮の造営は途絶えることなく続けられた。
 さすがに木の確保は麻底良布山からではなく、別の所でなされたが、予定通りに五月には、娜の大津からこの朝倉の地へと遷宮できるように進められたのだ。
 病床に付す乱馬を預かっている朝倉の里の邑長から申し出があり、筑後川沿いの別の山地から木を切り出してきて、それを使うことになったのだ。少し切り出して運び入れるには日数がかかったが、これ以上無理をしてまでも麻底良布山から切り出すのは、さすがの葛城皇子も躊躇われたのだろう。 もし麻底良布山にこだわり続けて、今度、何か起きると、宮の造営すら危うくなりかねない。すれすれの選択を迫られたのだ。
 麻底良布山の木に手出ししないと約束できるならという条件で、別の山からの伐採を許可してもらった。これ以上の軋轢と造営の遅れを出さないためにも、葛城皇子側は譲歩せざるを得なかったのだ。
 堅物で通っていた葛城皇子も、渋々、地元の民の申し入れに従った。面白くないという顔を手向けたが、ぐっと堪えたのだ。五行博士の黒麻呂も、そうした方が良いと、今更ながらに卜占の修正を行ったのである。
 面白くはなかったが、突きつけられた「現実」に計画は変更をせざるを得ない。
 やけ焦がれた木を使うわけにも行かず、渋々、葛城皇子は、別の山から伐採してきて、宮の造営に使うことを承知したのである。
 勿論、朝倉の民にもお咎めはなかった。というより、この場合は出来なかったというべきだろう。
 麻底良布以外の山から木を切り出して献上しようと言って来たのは、朝倉の民であったし、何よりこれ以上の小競り合いを続ければ、工期はますます遅れてしまうからだった。

「早乙女乱馬…あいつは一体、何者なのだ?」
 葛城皇子は黒麻呂相手に、唸りながら問い質す。
「さあ…。よくは見えませぬが、大きな新星であることは確かですな。」
 黒麻呂は卜占を施しながら、その問いかけに答える。
「大きな新星か…。それは、この私を脅かすような存在に成り得るのか?」
 一番気にしていることは、その辺りだろう。早乙女乱馬は大海人皇子の舎人(とねり)だ。大海人皇子は葛城皇子の同母弟。つまり、己と同じく、皇祖母尊腹の皇子である。
 次の大王は、血の正当性と年令から考慮して、己が推挙されることはほぼ間違いないだろう。だが、それは「何事もなければ」という命題が重く圧し掛かる。
 地で血を争う政争を裏側で駆使してきた葛城皇子にとって、確約ではないということは、百も承知だった。
 もし、己の頭を乗り越えていこうとする、シンパサイザーがあるとすれば、「大海人皇子」の存在を取り込もうとするに違いない。大海人皇子は同じ血を分けたとはいえ、己とは随分、性質が違った。策謀に富む己と違い、大海人皇子は武に長けている。いや、武だけではなく、思慮に秀でていた。その上、とかく、人気があるのだ。
 彼の周りには、自然に人が集まる。老若男女、年令、身分、職を問わずにだ。
 この前までは無邪気な少年で気にも留めなかった。だが、成人し、年を重ねるにつれ、大海人皇子の存在が大きくなっていく。
 猜疑心の強い葛城皇子は、不安は、少しずつ助長されつつあった。

「何をそんなに気をおもみですの?」
 女の声が傍でした。
「これは倭姫王(やまとひめのおおきみ)様。」
 黒麻呂が頭を低く拝した。

 倭姫王。後に天智天皇の皇后になった媛君だ。父親は「古人大兄皇子」。母は未詳だ。父の古人大兄皇子は舒明天皇と蘇我法提郎女(そがのほほてのいらつめ)の間に生まれた皇子で「大兄」称号が現すように、大王位に就く可能性が高い血筋の皇子だった。
 古人大兄皇子の母、法提郎女は蘇我蝦夷の妹でもあったので、蘇我蝦夷、入鹿親子に担ぎ出されて、大王の位に就く筈だったのだが、葛城皇子と中臣鎌足が仕掛けた「乙巳の変」で彼の地位は急転落した。その後、粛清を恐れて、古人大兄皇子は吉野へと隠遁したが、国家転覆の詮議をかけられ、誅殺された。
 そう、葛城皇子自らが、古人大兄皇子の排斥に関わっていたのである。
 曰くつきの関係があった、古人大兄皇子の媛、倭姫王を葛城皇子は正妃(むかひめ)として娶っていたのだ。
 ただ、残念ながら、この正妃とは子を成すことができなかった。つまり、倭姫王は石女(うまずめ)だったのだ。それを承知で正妃に据えたのか、それとも、古人大兄皇子への後ろめたさがあったのか、詳細はわからなかったが、倭姫王は葛城皇子の正妃として、確たる地位を既に持っていた。

「何だ、倭姫か。何用があって赴いてきた?」
 葛城皇子は不機嫌な顔を手向けた。正妃とはいえ、とうに、お互い恋情は尽き果てていた。葛城皇子は他にもたくさん妾妃が居たし、寝屋も他の妃の元を渡り歩く有様だったからだ。もう、何年、倭姫王の肌に触れていなかったろうか。
「そう邪険に扱われなさるな。」
 倭姫王は柔らかく笑った。
「その、早乙女乱馬という健児とやら…、気になるのであれば、こちらへ靡かせてみたはいかがと進言に参りましただけですわ。」
 思ってもみない言葉だった。
「あやつは大海人皇子の舎人ぞ?それに、そなた、何故、早乙女造を知っておる?」
 葛城皇子は何を言い出すのだといわんばかりに、倭姫王を見やった。それだけではない。何故、一介の女人が「早乙女乱馬」という健児の名を口にしたのか、不思議に思ったのだ。
「まあ、これは面妖な。早乙女造様と言えば、宮廷で知らぬ女はおりませぬよ。
 難波宮での大手柄以来、我が下々の女たちの間でもたいそうな益荒男だと評判になっておりまする。」
「そ、そうなのか?」
 改めて葛城皇子は驚いた。
「ほほほ…女子(おなご)の目を侮ってはいけませぬ。麻底良布山の件も、その評判に輪をかけさせる勢いでございまする。
 益荒男に抱かれたいと思う女は数多知れず。」
「……そうか…。女か。」
 葛城皇子は何かを閃いた様子だった。
「奴はまだ、正妃を迎えてはおらぬな?」
 黒麻呂に確認するように言った。
「確かに…まだ、独身でございますれば。」
「年は?」
「確か二十歳ほどかと…。」
「ならば、正妃を迎えても良い年頃。」
「でも、ご自分の皇女様をお与えになるほど、地位が高いとは言えませぬが…。」
「フン!誰が皇女を与えると言うた?我が子飼いの重臣たちの媛から適当なのを探し出して、与えてやれば良いのではないか?」

「ほほほほほ。ほんに皇子様は事をお急ぎ過ぎなさいます。そんな、押し付けでは早乙女造が靡くとお思いか?ましてや、望まぬ媛を押し付けられれても、早乙女殿も迷惑するだけでございましょうや。」
 倭姫王が傍で笑った。
「何だと?倭姫は我が策に、落ち度があるとでも?」
「次の大王と目される皇子様からの賜り娘など、煙たいだけではありませぬか。」
「う…。」
 倭姫王の言っていることはもっともだ。
「でも、ご安心なさいませ。私に、良い思案がございます。」
 倭姫王はゆったりとした含み笑いを葛城皇子に手向けた。
「良い思案だと?」
「ええ。早乙女の造はまだ、独り身を通している理由を皇子様は深くお考えになったことはありますまい?」
「ああ、当たり前だ。」
「ふふふ、彼は故郷に妹背が居るという噂を小耳に挟みましたの。」
「故郷に妹背だと?」
「ええ、「妻問いの宝」「百取の机代物」とを交わした適妻となる娘がね…。」
「それは初耳だぞ。」
「そうでしょうね。私も驚きました。」
「確かなのか?それは…。」
「ええ。とある信頼できる方から寄越していただいた話ですわ。」
 誰からその話を聞いたのかは、倭姫王は伏せた。
「もうおわかりでございましょう?その娘を利用して、葛城皇子様に靡かせればよろしいのですわ。」
「なるほど…。押し付ける娘よりも、本当に愛する娘を利用する方が、手勢に加え易いか…。」
 葛城皇子も深く頷いた。
「ええ。私にお任せくださいませ。このような繊細な謀は、皇子様の手を煩わせることもなく…。皇祖母尊様のことと政にお励みくださいませ。」
「そなたがそういうのなら…。その娘のことはおまえに任せよう。早乙女の造が我が門へ下るのなら、儲けもの。それでも従わずば、いずれ切り落とせば良い。」
「おほほ、まあ、物騒な…。」
 口元に襟を当てて、倭姫王が笑った。
「では、この件、私の思い通りにさせてくださいませ。」
「よかろう…。そなたに任せよう。」
 
 倭姫王は一礼すると、その場を立ち去って行った。

「早乙女造に適妻か…。それごと囲い込めば、面白きことになるかよのう…黒麻呂。」
「そうでございますな…。それもまた、一興かと。」
 黒麻呂と葛城皇子は笑いあった。
 


 こうして、再び、朝倉宮の突貫造営は始まった。
 木を切り倒す音や杭を打つ音など、そこらじゅうで労役者たちの声や音が響き渡っていた。



 鬼火事件は、勿論、娜の大津の大海人皇子のところへも報告された。
 もたらしたのは、乱馬と共に行動をともにしていた大海人皇子の子飼いの大舎人だった。
 大舎人は、乱馬が鬼火の正体を矢を射抜いて見破ったこと、そして、その後起こった付け火による山火事を鎮火させるのに走り回ったこと、そして大雨が降り注ぎ、夜明けを迎える前に何とか業火にならずに鎮火したこと、鎮火を確認すると乱馬はそのまま病床に臥してしまったことなどを、客観的かつ淡々と告げたのである。
「乱馬はその後どうしておる?」
 報告を聞き終わって、大海人皇子は一言、大舎人に尋ねた。
「何とか一命取り留めて、今は朝倉の邑長のところにて、回復を待っておられるご様子でございます。」
 大舎人は問い掛けに答えた。
「そうか…。命に別状はなかったか。」
 大海人皇子はふううっと溜息を吐き出した。
「もう良い、ご苦労であった。おまえも疲れを出さぬように暫く休んでおれ。最近、そこここで病に倒れるものが増えておるようなのでな。」
 大海人皇子はそうねぎらうと、自室へと引っ込んだ。

 大海人皇子の部屋には、たくさんの五行書が置かれ、床には五行の卜占を行う占い板などもあった。手慰みに始めた五行の卜占も、最近ではすっかり堂に入るようになってきていたのだ。東風や黒麻呂ほどの才覚はないにしろ、己自身で少しはいろいろな卦を占えるようにはなっていた。
 余善光に気になることを言われてから、ごそごそと占いをやってみた。「強い宿星」と「それを持つ者」についてをだ。まだおぼろげながらも、確かに己の身の回りに、強い星の光が宿り始めている気配があった。それが禍になるのか、それとも幸となるのか。そこまでは見当もつかなかったのだが。
 それとなく、自分の頼りにしている東風へと、宿星について訊いてみたが、
「確かにそのような卦は出ております。でも、禍となるのか幸となるかは、これからはっきりしてくるでしょう。その前に大いなる禍が皇祖母尊様に…そう出ている卜占の方が気になりまする…。」
 という答えしか返ってこなかった。
「兄上がこの宿星を知れば、どういう風に動かれるのか…。」
 黒麻呂が同じ宿星を見抜くか否かはわからなかったが、黒麻呂とて無能ではない。もしかするとその気配を読み取っているかもしれなかった。
「ふん。だが、此度の鬼火事件は黒麻呂の大きな読み違えだったな。」
 大海人皇子はそう分析していた。黒麻呂が皇祖母尊、天つ神の威信を大きく読みすぎたおかげで、国つ神、朝倉の麻底良布山の神の禍が見抜けなかったのだと思っていたのだ。無論、影で唐の導師たちが絡んでいようとは、夢にも思わなかった。

 大海人皇子は部屋の隅に置かれた卜占の板を持ち上げてじっと眺める。
 幾何学模様が描かれた板を見て、ふっと言葉を吐きだした。

「やはり、強き宿星の者とは、乱馬のことを指してるのかもしれぬな…。」

 今回の事件の第一の功労者は、乱馬であることは否めない。
 客観的に報告した大舎人の言を聞いても、鬼火の正体を見破り、付け火から宮を、いや、麻底良布の山を身を挺して守り抜いたのだ。その上、倒れてもなお、再び息を吹き返せる強靭な体力。
 下手な者であれば、鎮火の最中にでも命は落としたかもしれないし、にわか病(やまい)から生還するのも奇跡に近いような気がしたのである。
 
「乱馬よ…。おまえは一体、何者なのだ?」

 大海人皇子は無造作に部屋の隅に祭られた、銅鏡に向かって問いかけた。己の小難しい顔が、その鏡面へと浮かび上がる。




 心を焦がしていたのは、何も大海人皇子や葛城皇子だけではなかった。

「またしても、やりそこねたのか?沐絲よ。」
 可崘が目の前に現われた沐絲に言葉を投げかけた。
 彼女の子飼いの間者が、麻底良布山での行状をつぶさに報告していたのだ。
「ふふふ、何も負けたわけではないだ。」
 沐絲は言い訳する風でもなく、にっと笑いながら可崘に対して言葉を吐きつけた。
「何故だ?乱馬はおまえの火術を見破ったのであろう?その上、麻底良布山へ火を放っても、難なく乱馬はそれを鎮火してしまったというではないか。これを負けと認めず何と言い訳をする気じゃ?」
 鋭い視線が沐絲を射てゆく。
「ふん、元々、本気で乱馬の命を狙ったわけではないだでな。オラが本気でやっていたら、今頃奴は墓下よ。」
 沐絲はそう言いながら可崘を睨み返した。
「あながち、そうとも思えぬがな…。まあ、良い。百歩譲って、おぬしが乱馬をわざと見逃したとしよう…。で、今度はいつ、どうやって勝負を挑むつもりじゃ?」
 おばばは沐絲をじろりと見返した。
「なあに、今回の件で、大和側は神罰を少しでも身にしみただろう。麻底良布の山から木を切ることはやめたようじゃしな…。宮は予定通り、来月始めには出来上がるだ。」
「ほお…。もしかして、遷宮した先で仕掛けるつもりかえ?」
 沐絲はそれを聞いて、にんまりと笑いつけた。
「さすが、おばば様じゃ。良くわかっておられるだ。…くくく、そうじゃ。遷宮が行われる、その日、皇祖母尊と共に葬り去ってくれるだ。オラのこの手でな…。」
「遷宮の日にか…。なかなか手の込んだ事考えるのう。」
「ふふふ、当たり前じゃ。大和朝廷にこれ以上、我が唐の国に立て付く気力を根こそぎ取ってやらねばならぬだ。そのためにはそろそろ老女帝には沈んでいただければなるまいし、後々我々の行く手を邪魔立てしそうな奴めらの首を折ってしまわねばならぬじゃろう?その血祭りに、乱馬や大和の皇子たちを上げてやるだ。葛城皇子も大海人皇子も亡き者にしてやるだ。その日にまとめてな。」
 沐絲の不敵な笑いが可崘の前に広がる。
「そう上手くいくかのう…。」
 何を言うかと鋭い視線を沐絲は投げつけた。
「オラはやると言ったことは必ずやりぬくだ。珊璞を手に入れるためにはな。」
「良かろう、おまえの謀と心意気、最後まで見極めてやろう。おまえが大和朝廷の要人を滅ぼし、乱馬を討ち取れば、喜んで珊璞はくれてやろう…。おまえの子種を珊璞に与えれば良い。」
「当然じゃ。最強の男が最強の我が一族の女を手に入れる。…おばば様とはこれで縁者になれるというもの。」
 沐絲は満面に笑いを浮かべた。
「そうなれば良いのう…。」
「オラは負けないだ。まあ、黙って見ているだ。」

 そう強く吐き出すと、沐絲はすうっと暗黒の闇へと消えて行った。




二、


 斉明女帝治世七年、西暦六百六十一年、五月九日。
 娜の大津の磐瀬行宮から朝倉の地へと遷宮がなされた。

 突貫工事の末、何とか、梅雨に入る前に、遷宮という暴挙を実行に移せたのである。勿論、急場で作られた新しい宮。まだまだ、完全に出来上がったという訳ではなかったが、何とかそれでも、磐瀬行宮よりは広い宮地とそれなりの建物を確保できたのである。
 残りの工事は遷宮がなされた後でも大丈夫と葛城皇子も腹を括っていた。多少の不便は仕方がないと割り切ったのであろう。それでも、磐瀬行宮よりましであれば、良かろうと、人々もまた、渋々納得していた。
 娜の大津から水路と陸路でゆっくりと南下し、朝倉の地へと行幸(みゆき)した。

 新しい宮は「朝倉橘廣庭宮(あさくらのたちばなのひろにわのみや)」と名付けられた。
 宮からは大きな橘の木が枝葉を広げているのが見えたからだ。
 造営の前から立つ、成木で、たわわに白い可憐な花を付けた枝葉が吹き抜ける風に揺れているのが見えた。
 斉明女帝は宮へ到着した時、手を差し伸べて、橘の木を仰ぎ見た。目を細め、じっと木を見上げている。

 橘は蜜柑の木の総称である。時じくの香の木(ときじくのかくのこのみ)という別名があるが如く、橙色の美しい実には常に芳しい香が漂っていた。芳しいのは実だけではない。瑞々しい緑葉も、摘み取ると、ふんと芳しい香がたつ。


 遷宮の儀は皇祖母尊の健康状態を考えて、翌日へと持ち越されることになっていた。これも予定のうちだ。
 老齢のこの女帝は、ここへ来てその衰え方が如実になってきていたのだ。足や腰が弱ってきたばかりか、目も殆ど見えていないのだという。遠く大和を離れて筑紫の国などという辺境への行幸が、女帝の身体に思った以上に負担をかけているのであろう。
 だが、どうしても老女帝を伴ってでも、筑紫まで兵を共に動かして行幸する必要が大和朝廷にはあるようだった。

 表向きには明日が遷宮の祝賀となるので、大っぴらな宴は、この初日の夜は慎まれていた。だが、大海人皇子は、乱馬たち子飼いの舎人たちを呼び寄せて、小さな宴を開いた。表向きの口実としては「明日のためのレクチャー、ミーティング」。現代風に言えばそんなところになるだろうか。

 酒を傾けながら、この夜の大海人皇子は饒舌だった。
 本当は明日に備えて、早くに就寝してしまいたかった乱馬だったが、大海人皇子の四方山話に付き合って、苦手な杯を重ねていた。相変わらず乱馬はこのほろ苦い酒が苦手であった。
 風がざわざわと宮の傍の木立を揺すぶった。橘の木も花枝をわさわさと揺らしつけているのが、宮の簾越しに見えた。窓ガラスなどないこの時代。表と部屋を隔てる物は殆ど無い。
 酒を手向けながら、ふっと大海人皇子が言葉をついだ。
「橘の木をそのまま中庭に据え置くか…。ふん。兄上め、皇祖母尊へのご機嫌伺いのつもりなのだろうが…。」
 どうやら、大海人皇子はこの橘廣庭宮そのものの造営には、あまり快い感情を抱いていないようだった。刺々しい口性からそれは伺えた。
 だが、乱馬たちにしては、何故、橘の木が皇祖母尊のご機嫌伺いと結びつくのかピンとは来なかった。不思議そうにその場の者が大海人皇子のほうへ視線を流すと、彼はぽつんと言葉を吐いた。
 
「皇祖母尊は橘の木を愛しておられるのだよ。」と。

「何故でございます?」
 若い舎人が問いかけた言葉に、大海人皇子がしずしずと話し始める。

「昔から母君は橘の木を愛でられていた。大王になられるずっと前、まだ私も葛城皇子も生まれる以前からな…。」
 大海人皇子は不機嫌そうに話した。
「その実が芳しいこともそうであったが、何より、母上にとっては、初恋の君との思い出がいっぱい詰まった木なのだ。それが一番の理由なのだよ。」

「初恋…。」

 大海人皇子の言葉をふつっと飲み込むように口に含んだ舎人の方を、ちらりと一目流すと、また皇子は話を続けた。

「誰にでも初恋の思い出はあるだろう…。だが、皇祖母尊にとって、初恋は忘れえぬ過去の輝きなのだ。…勿論、母上からじきじき伝え聞いたことなどはないがな…。」
 
 前に伝え聞いた「高向王」のことを言っているのだろうと乱馬は思った。皇祖母尊が大海人皇子や葛城皇子の父、舒明天皇の正妃になる前に、嫁していたという「高向王」だ。
 事情を知らない舎人たちに混じって乱馬は黙って耳を傾けていた。

「古くから皇祖母尊様に仕えてきた采女が昔教えてくれたのだ。を聞いたことがあるのだ。母上の初恋の君もも橘の木を愛してやまなかったらしい。橘の枝を手折っては、母上に手渡し微笑みかけていたそうだよ。」
 そう言いながら忌々しげに暗がりの中風に枝葉を揺られる橘の木を見上げた。
「母上は橘の木に、初恋の男の影を見ておられるのだよ。父上に望まれて妃となるずっと以前に、睦みあっていた男の上から、母上の想いは一度だって遠のいたことなどないのだよ。たとえ、父帝が母上をどのように愛そうとも、私や兄上、姉上が生まれようともな…。」
 そう吐き出すと、皇子は一気に杯を飲み干した。
「それを知った上で、宮を造るとき、橘の木をそのまま切らずにおいた兄上も兄上だよ。そんなに皇祖母尊に媚を売りたかったのかとな…。母上の前夫への未練を断ち切るためにも、橘の木など切り倒してしまえば良かったのにな…。」
 誰もそれに関しては答えなかった。
 橘の木は常緑樹であると共に、実には薬効があると思われていたので、めでたい木と思われていたろう。案外、葛城皇子は、そっちの瑞祥を考えて、あえて切らなかったのかもしれなかった。

(大海人皇子も本当は母としての皇祖母尊様を強く慕っているのかもしれねえな…。)

 乱馬は黙って皇子の話を聴きながらそう思ったのである。
 以前に葛城皇子も酒に酔った勢いで、乱馬に同じような皇祖母尊批判の言葉を吐きつけている。
 母を恋しがれども、その母の思いは子の上にはない。一人だけではなく、他の兄弟たちの元にもない。
 皇祖母尊の母親としての思いは決して子へと向けられたことがないのかもしれなかった。

(血の繋がりがなくても、俺を愛してくれた義母…。その愛に包まれて育まれた俺の方が、ずっと恵まれていたのかもしれねえな…。)
 苦い酒水を飲みながら、乱馬はぐっと思いを巡らせた。
 たとえ、皇族として生まれてきて、贅を尽くせても、得られない物はあるのだ。痛いほど身にしみた。

 大海人皇子はそのまま、壁にもたれて寝入ってしまった。


 皇子を抱えて床へと寝かしつけると、乱馬はふうっと溜息を吐きながら外へと出た。
 橘の木がゆさゆさと葉を揺らしながら風に打たれている。さっきから湿っぽい谷間風が吹きつけているようだ。



三、

「明日は天気が荒れるかもしれませんねえ…。」

 不意に声がした。
 蜀台の火が揺れながらこちらへと近づいてきた。
「東風殿。」
 乱馬はほおっと言葉を吐きつけた。そして、握りかけた刀の柄から手を放した。
「この湿っぽさは雨の匂いを含んでいる。明日は雨になるでしょう…。そろそろ、長雨の季節でもありますから。」
 そう言って東風は空を見上げた。月が輪を伴って、ぼんやりと照らしつけている。
「長雨?…この筑紫にも長雨の季節はあるのですか?」
 乱馬は目を丸くして言葉を手向けた。
 筑紫といえば、東国、常陸の育ちの乱馬には外国とも同じだった。陸路水路、かなりの日数をかけなければ着くことも敵わない。遥か夷狄の地である。だから、日本列島の他の地域がどのような風土で気候を持つかなどは、予想だにできない。梅雨と呼ばれる五月の長雨がこの筑紫国でもあるのかと問いたかったのである。
「勿論、ありますよ。多少は雨の降り方も変わるのかもしれませぬが…。大和にも筑紫にも、あなたの生国、常陸国と同じように長雨は降ります。」
 東風は橘を見上げながら言った。
「ほら…。月に輪がかかっている。このような現象は雨の前に多いですから。」
 五行は今で言うと、天候を読んだり、占星術をしたり、果ては土木測量の技術も含まれた、学問的色合いの強い呪術技術であった。だから、東風も天候を見る力はあったのだ。

「それに、妖しいのは何も天候だけではありませぬ。」

 東風はこそっと耳打ちするように乱馬に告げる。

「天候だけではない…。」
 乱馬は大きな瞳を巡らせて東風を見返した。
 東風は目元を細めながら静かに言葉を継いだ。
「唐国の道士が、このまま何もせずに置くとはどうしても私には思えませぬので。」
「唐国の道士…。」
「難波宮で狼藉を働いた連中ですよ…。この前の麻底良布山の件も恐らく奴等が絡んでいたでしょう?」

 乱馬ははっと東風を見返した。

 可崘と珊璞、二人の唐国の女道士の顔が浮かんだのだ。
 また、この前の麻底良布山の一件もあって、無事に明日という日が過ごせるかどうか、急に不安が大きくなった。
 万全を期して、大事には備える。それは舎人としての役目でもある。
 乱馬は不安げに東風を見た。
「もしかして奴らは、何か良からぬことでも企んでいるのでしょうか。」
「さあ…。わかりませぬ。しかし、私の卜占では、あまり良い卦が出ませんでした。…黒麻呂殿とは違って。」
 東風はわざと「黒麻呂」という言葉を強調した。それが何を意図とした事なのかは、乱馬にはピンと来なかった。
「黒麻呂殿の家、東漢(あやのあたい)氏は唐の五行博士の家柄と大変親しかったと聞き及んでおります。」
 東風は声を落として乱馬へと告げた。
「唐の五行博士…。」
「我が倭国には大陸から「仏教」が入ってきております。それに付随して、五行などの学問も大陸から入って来ました。聖徳太子様が世を広く治めていた頃から、倭国へとやってきた「渡来人」たちが広く倭国へと仏教や様々な技術や学問を伝えたのです。」
 東風は説明するようにゆっくりと言った。
「私の家も勿論ですが、黒麻呂の家も元は渡来人。黒麻呂の家は、唐と繋がりが深い家「東漢(あやのあたい)」一族だと聞き及んでおります。それが何を意味するか、乱馬殿ならばおわかりになると思いますが…。」
 乱馬は大きく目を見開いた。
「まさか…。黒麻呂殿が唐の道士たちと後ろ側で繋がっているなど…。」
「しっ!そう詳らかにはっきりと口にしてはなりませぬ。ここは宮中。どのような間者が忍んでいるとも限りませぬ。」
 東風に諌められて乱馬は声を落とした。
「東風殿、今の話…。」
 東風はにっと澱んだ微笑を乱馬へ手向けた。
「どこまで奴らと交流があるかまではわかりませぬが、そう考えると様々なことに辻褄が合いましょう。」
「でも、それならば何故に葛城皇子様はそのような者を重用されているのです?」
「さあ…。それはわかりませぬ。孝徳帝から帝位を引き剥がしたこと、それに、有間皇子の謀反心。全ての影に五行博士の黒麻呂が潜むというのは、宮中では定説になっております。彼の易はやはり並々ならぬ力を発揮し、皇子様を助け導いていることも、明らかですから…。」
 孝徳帝や有間皇子を滅するのに、葛城皇子が影で手を引いていたことなど、さすがに東国育ちの乱馬は詳しくは知らなかった。が、凄惨なまでの政略的駆け引きが、皇室の後ろ側であったことは何となく理解できた。
 孝徳帝の皇位を引き剥がし、形骸化させ、尚且つ有間皇子を葬ること。これは舒明帝と斉明女帝の嫡子、葛城皇子には、己が全倭の権力を握る上では必要不可欠だ。その、政変に黒麻呂が五行の易で助けたことも充分に考え得る。それであれば、葛城皇子の寵愛も深い臣下の一人だということも、充分に予測ができた。
 
「葛城皇子の寵愛がめでたい五行博士だからこそ、唐は後ろで彼を操り動かしながら、倭国の動向を見ているのかもしれませぬ…。」
 東風の目は真摯になった。
「唐は何をしようとしているのでしょうか…。」
 乱馬は東風を見上げた。
「唐は新羅と手を組み百済を滅ぼしました。やがて、半島は唐一色に塗り替えられるでしょう。そして…。倭国も手に入れようと企んでおるのやもしれませぬ。ただ唐が東方の蛮国である、倭国を本気で欲しがるか否かは疑問が残るでしょうが。まあ、今の大陸の情勢から、唐は朝鮮半島を一手に握るため、倭国の百済干渉を辞めさせたいことだけは確かでしょうけれどね…。」
 東風の言葉に乱馬はまたしても疑問を投げかけた。
「百済を助けて派兵することを辞めさせるために、道士は倭国で動いていると…。」
「恐らく…。」
「そんな危険を冒してまでも、何故に葛城皇子様は百済へと派兵したがっておいでなのでしょう。」
 素朴な、しかし、重大な疑問であった。葛城皇子は唐を敵に回してまで百済を助けるために何故無理をしなければならないのか。乱馬にはどうしても解せぬことだったのである。
「この国にはたくさんの百済からの渡来人が居ます。彼らがこの国の歴史を象ってきた。仏教の伝来も、優れた文化も、倭国の発展も、百済系の渡来人が担ってきた。大王家も百済との交流が深い。彼らを祖とする血も古来からたくさん、大王家に流れているかもしれない。おっと、これはあくまでも予想でありますけれどね。
 百済国が危急にさらされ、葛城皇子様の進むべき道は百済派兵しかなかったのかもしれませぬ。唐へはむかうこと。たとえ多くの犠牲を伴っても、百済へ一度は足を踏み入れなければ、この事態は収まりますまい。もう、歯車は動き出してしまったのですよ。乱馬殿。葛城皇子様が皇祖母尊を伴って、大和を離れた日からね…。」

 二十一世紀になった現在でも、葛城皇子の百済援軍は大きな謎を孕んでいて、全容が明らかとは言えない。彼が何故そんなに百済への派兵を強く推したのか、また、危険をおかしてまで派兵しなければならなかった動機とは何なのか。
 まさか、唐と一戦を交えて大陸侵攻を夢見たわけではあるまい。
 大和王権そのものが大陸から渡来したという説もある。例えば、江上波夫氏が提言した歴史学界を騒がせた壮大な騎馬民族征服説だ。もちろん、それも一つの説の域を出ない。
 ただ、わかっているのは、危険をおかしてまでも、百済の要請に応じて、成さなければならない重要な事態が七世紀に倭国で起こったという歴史的事実だけだ。

「とにかく…。黒麻呂が影で何らかの糸を引いていることだけは確かです。」
 東風は声をさらに落として乱馬へと言った。
「彼に気を許してはなりませぬ。」
 と付け加えることも忘れずに。
「だったら…。尻尾を捕まえればすむことではありますまいか?」
 乱馬は東風を厳しい視線で見つめ返した。
「全く、乱馬殿は真正直な方だ。だからこそ、大海人皇子様があなたを重用なさっておいでなのでしょうが…。」
 東風はにっと笑った。
「事はそう簡単にもいきませぬ。黒麻呂と私の駆け引きだけならまだしも、裏に葛城皇子様と大海人皇子様の確執もありますからね…。」
「え?」
 乱馬ははっとして東風を見返した。
「今はまだ、表面化はしておりませぬが…。次の世を巡って、水面下ではそろそろ、お二人の駆け引きが始まっております。」
「次の世は、葛城皇子様が日嗣(ひつぎ)をなさるのでは?」
「はっはっは…。私が言っているのは葛城皇子様以後の話ですよ。…葛城皇子様の御子様に彼ほど血筋が豊かで才に溢れた方がいらっしゃれば問題はないかもしれませぬが…。」
「優秀な血筋はいらっしゃらないのですか?」
 乱馬は怪訝に東風を見上げた。
「まだ、わかりませぬ…。まだ葛城皇子様も大海人皇子様も幼き御子様しかおられませぬから…。ただ、言えることは、葛城皇子様も大海人皇子様もいずれ劣らぬ優秀な皇子様であるということです。優秀な王は二人も要りませぬ。太陽は一つしか天に存在しないように…。」
 東風は更に声を落として言った。
「今はまだ形にはなってはおりませぬが、いずれ、この国は二人の皇子を拝して二分するかもしれませぬ。…あ、勿論、私の卜占から読んだ可能性のあることだけで、何も争乱が必ず起こると決まったわけではありませぬ。…その前に百済との事にどう決着をつけるか。ここ数年、いえ、数ヶ月はその事がこの国の大事になることだけは確かでございますから。」
 乱馬には返す言葉もなかった。東風が何のために、自分にそのようなことを打ち明けたのか。正直困惑してしまった。
「いずれにしても、明日、何かが起こります。私の卜占はどう読み解いても、その卦を告げているのです…。乱馬殿。」
 東風はぐいっと彼を見た。
「これをあなたに預けておきます。」
 そう言いながらごそごそと懐をまさぐった。得意の薬餌だろうか。
「これは?」
「気付け薬の一種です。どんな幻覚にも惑わされない強い心を持てる薬です。御存知のように道士は妖の術や薬をふんだんに使う連中。まともに対して居るだけでは思わぬ姦計にはまり込んでしまうかもしれませぬ…。せめて、薬や幻覚を利用した幻影に惑わされないようにと、これを用意いたしました…。これをそなたに預けておきます。遷宮の儀が始まる前に水でお飲みください。儀式の間中くらいは効き目があるでしょう。」
「また、薬ですか。」
 乱馬はそう吐き出した。
「はっはっは、そうあからさまに嫌な顔をなされますな。」
「この前は東風殿の薬に確かにこの命を救われました。でも…。薬は苦い!」
「苦いからこそ薬効があるのですよ。」
 東風は笑った。
「何が一番大事な事か。それを良く考えて薬をお使いくださいませ。乱馬殿。」
 穏やかではあるが、凛とした瞳が乱馬を見返してくる。
 難波宮でも彼のくれた薬で皇祖母尊を助けることができた。それを思うと、無下に扱うことはできまい。
「わかりました…。お預かりします。」
 乱馬は小さく頷いた。
「良かった…。」
 東風はにっこりと笑った。
「とにかく、あなたにはまだやり遂せなければならない事があります。…。私は、あなたを死なせるわけにいかないのです…。茜郎女のためにも…。」
 
「!」

 その名を聞いて乱馬の顔つきが変わった。

「何故その名を知っているのですと問いかけたいのでしょう?いずれ、わかります…。」
 東風は謎の微笑みを残したまま、一礼すると、その場を立ち去っっていった。



四、

 翌日は曇天であった。
 晴天でもない、雨天でもない、中途半端な天気である。
 雲が分厚く空から垂れている。夕刻までには泣き出すかもしれない。そんな嫌な湿気を含んだ天気で夜が明けた。
 遷宮の儀は太陽が真上に昇る刻に行われる手筈になっていた。
 この国の儀式は常に太陽と直結している。大王は太陽と同列の者して考えられていたからだ。
 乱馬は殆ど一睡も出来ずに夜を過ごした。
 東風に言われた事どもが脳裏を離れなかったからだ。どの事柄も含みがあり、じっと考えさせられる事だったからだ。

「兄貴…。夕べは休めなかったのか?」
 千文が心配してやって来た。
「ああ…。ちょっと考え事が頭にあって、神経が高ぶってしまってな。」
 乱馬は床を離れるとそう言葉を吐いた。
「ほーっほっほ。乱馬殿でも眠れぬほどの考え事をなさるとは、意外ですなあ。」
 千文の後ろからひょっこちろ砺波の爺さんが覗いた。
「爺!そういう言い方はないだろう?まるで俺が日ごろ何も考えていねえようじゃねえかっ!」
 乱馬はムッとして言葉を返した。
「それだけ難しい場へ遭遇することが多くなったということでございましょう。ゆっくりと眠ることは武人には必要なことではございますが、考えることもまた、同じくらいに必要なことにでございますからのう…。っほっほっほ。」
「爺さんよう…。そういう言い方だと、今まで兄貴が何も考えずに生きてたみてえじゃねえか。」
 くすくすと千文が笑い出した。
 乱馬はじろりと目を千文の方へと手向け返した。
 
「っと、そうだ…。」
 乱馬はがさがさと懐を漁り、東風から貰い受けた薬袋を取り出した。
「昨夜、東風殿に貰ったんだ…。」
「東風って、あの、麻底良布山で兄貴がぶっ倒れたときに、薬を処方してくれたっていう、あの偉い五行博士のか?」
 千文が乱馬へ問いかけた。
「ああ、そうだ。あの東風殿さ。」
「で、これは?」
「気付け薬だそうだ。唐国の道士がまたどんな企みをぶつけてくるかわからねえから、こいつを飲んで、然るべき事態に対処しろってな。ほら、ここにおめえたちの分もある。ほら。」
 乱馬は二人分のそれを彼らの鼻先に出してにっと笑った。
 薬は白い紙に包まれていた。
「ああ…。これを飲めば幻術に惑わされずにすむらしい。」
 乱馬がしたり顔で言い含める。
「でも…。何だか嫌な匂いがするぜ。」
 千文は鼻先でクンクンと薬袋のままそれを嗅いだ。人間の野性的本能の一つとして、食する得体の知れない物体は、まず鼻で匂いを嗅ぐのが常らしい。千文はそれを実行して見せたのだ。
「ぐ…。何だ?このにおい。臭い…。」
 千文はあからさまに嫌な顔をした。
「これを?俺たちが…飲むのかよう…。」
 続けざまにブツブツと言う。
「おい、こら…。爺さん。どこへ行く?」
 乱馬はその場をすっと抜けようとした老齢の砺波の襟ぐりをぐっと掴んで引き戻した。
「あ、その…。この老いぼれはですなあ…。そんな薬など…。」
 シドロモドロ口を継ぐ。
「おい、逃げられると思うなよ。てめえら二人とも俺の腹心だからな…。嫌でもこの薬、服用してもらう。」
 そう言って悪戯な瞳がにんまりと笑った。
「やっぱり、飲まなければなりますまいか…。」
 ぼそぼそと砺波が言葉を吐いた。
「ああ…。俺の配下だったらな。そら…。水も用意してある。」
 乱馬は用意周到に水の入った高杯を持って来ていた。
「仕方ねえよ…。爺さん。これも運命だと思って諦めようぜ。」
 千文がやれやれと言わんばかりに砺波に目を差し向けた。
「一気に行けっ!」

 二人はじっと薬を見詰めていたが、はああっと溜息を吐くと、一気にぐぐっと飲みつけた。
 その様子をじっと乱馬は見比べる。
 二人の顔は一瞬、彼岸へ行きかけたような表情を見せた。白目をむいたような感じだ。
 それから、二人とも大慌てで、置かれていた高杯を持って、水を口の中へと流し込む。無我夢中で水をあおった。
 みるみるうちに高杯を満たしていた水は二人の胃袋へと吸い込まれていく。

 ぶはあっ!!

 二人同時に溜息を吐き出した。

「ま、不味いっ!!畜生。今までこんなに不味い物口に含んだことなんかねえぞっ!!」
 まずは千文が感想らしきを吐き出した。
「うっげええ…。まだ胃袋の中で暴れてるようだ。後味悪ぃ…。」
 喉をかきむしる動作を伴った。
「ううむ…。確かにこれは凄い…。としか言いようがありませぬ…。」
 砺波は今にも吐き出しそうな口元を押さえて、うっぷっぷっとやっていた。

「やっぱり、不味いか…。」
 乱馬は溜息を大きく吐き出した。

「やっぱりって…。兄貴まだ飲んでねえのか?」
 千文が乱馬を省みた。コクンと揺れる頭。手には薬袋がもう一つ握られていた。
「もしかして、先に俺たちに毒味させたなんてことはねえだろうなあ?兄貴…。」
 ずいっと千文が乗り出してきた。
「い、いや…。別にそんな訳ではないのだが…。そうか…。不味いか…。やっぱり飲みたくないなあ。」
 たははと乱馬が失笑を始めた。
「乱馬殿…。妖術に惑わされないための気付け薬と東風殿は申されたのでしたな?」
 砺波もずいいっと身を迫り出してきた。
「ああ…。そう言われた。」
「と言うことは、きちんと飲まねばなりますまいよ。」
 砺波はアゴで千文を煽動した。

「わたっ!千文っ!な、何をするっ!」
「兄貴、逃がさねえぜっ!俺たちが飲ましてやらあっ!」
「や、やめろっ!心の準備がだなあっ!!」
「つべこべ言うなっ!!」
「うわあああっ!!」

 大の男二人にのしかかられて、ジタバタと足掻いたが、無駄な抵抗だった。あっという間に砺波が開いた薬袋はそのまま口へと押し付けられる。

「に、苦いっ!!水っ!!水だあっ!!」
 思わず吐きそうになりながら、乱馬は苦しがっている。その様子を砺波も千文も面白がって見ていた。
「こらっ、早く寄越せっ!!み、水だーっ!!」
 ドタバタと大騒ぎであった。

「けっ!ざまあねえやっ!」
 千文がのた打ち回る乱馬を見て、腹から笑い転げていた。
「もう良かろう…。意地悪はそのくらいにして、そら、水じゃ。乱馬殿。」
 爺さんも満面に笑みを浮かべて、してやったりという顔をして笑い転げている。


「愉快そうだな…。」
 傍らを通った大海人皇子が、乱馬たちの騒ぎを聞きつけて、不意に中を覗いて来た。

「あ、大海人皇子様…。」
 乱馬はまだ口中に残る嫌な薬味を振り絞って返答をし、平伏した。
「そろそろ支度して参れ…。そなたたちは、宮の中へは入らずに、中庭から伺っておれ。異変があればすぐに中へ入るように控えておれっ!」
 大海人皇子は真っ直ぐに乱馬を見据えた。
「は、はい…。中庭から辺りを警護すれば宜しいのですね。」
 乱馬はきびすを返した。
「ふむ…。何を騒いでおったかは知らぬが、変な緊張感は拭えたようだな。東風が気になることを申しておったので、ワシも占ってみたが…。やはり何か起こりそうな気を孕んでおる。そなたたちは守りの要になるやもしれぬ。しっかりと警護を頼んだぞ!」
 大海人皇子はそれだけを言いおくと、そそくさとその場を立ち去った。まだ、いろいろ準備があるのだろう。

「大海人皇子、直々に勅をされに乱馬殿のところへ…。かなりご信頼の様子でございますなあ…。ほっほっほ。」
 砺波の爺さんは目を細めて笑った。

「おかげで苦さは消し飛んだけどな…。さて…。そろそろ配備に就くか。二人とも。」
 乱馬は傍にあった太刀を腰へ、弓を背へ負うと、先に立って歩き始めた。
 
 遷宮の儀が始まろうとしていた。
 



第二十六話 「橘の木の下へ」 へ つづく





黒麻呂
 実は高向玄理(たかむこのげんり)をモデルに作ったオリジナル人物です。玄理は漢(あやの)一族で、おそらく帰化人。聖徳太子の時代、608年、小野妹子や南淵請安と共に遣隋使として隋へ行っています。その後、新羅へも足を運び、大化の改新時に七色十三位階を作るのに功労しています。654年、唐の長安にて客死。
 最初は姓を考えずに作ったキャラだったのですが、「東漢」ということで大陸と繋がりを持っているという設定にさせていただくことにしました。

倭姫王
 天智天皇の皇后。つまり、正妃。
 古人大兄皇子と蘇我法提郎女の間に生まれました。父、古人大兄皇子は謀反を企てた罪で吉野へ隠棲させられ斬首されました。その謀議の中心に葛城皇子が居たと言われています。どのような経緯で葛城皇子へ嫁いだかはわかりません。また、天智帝との間には御子はできませんでした。この媛に和子が居れば、壬申の乱の図絵もかなり変わっていたかもしれません。

東漢氏
 蘇我氏に武人として仕えていたことで知られる一族。「あやのあたい」と読みます。
 推古女帝の前の崇峻天皇を暗殺した東漢駒(あやのあたいこま)もこの一族と言われています。
 その後も部門の氏として続き、この一族の末裔、坂上氏からは平安期の制夷大将軍、坂上田村麻呂を輩出しています。
 またやはり同族の高向氏からは高向玄理など、易の博士も輩出しています。
 この創作においての扱いは一之瀬の妄想の域を出ませんので、あしからずご了承くださいませ。

 


(C)2007 Ichinose Keiko