第五部 朝倉編

第二十四話 鬼火


一、


「鬼火?」

 ダンっと座っていた玉座を蹴って、葛城皇子が立ち上がった。

「お、鬼火が山から降りてきて…。麻底良布山の神の怒りに触れたと、大騒動になっております!」
 舎人は震えながら報告した。

 乱馬はその言葉を聞くや、だっと小屋を出た。
 そして、山を仰ぐ。
 確かにそちらの方向では人々の怒号や悲鳴が響いてくる。

「兄貴っ!!」
 脇から千文が飛び出してきた。
「俺に続けっ!千文っ!!」
 乱馬はそのまま夕闇迫る、暗がりへと飛び出していた。




「ふふふ…。もっと騒ぎ立てるだ。これは麻底良布山の神の怒りじゃぞ。ほうれ。」

 人々が逃げ惑う山の上方で、一人の男が愉快そうにほくそえんでいた。脇に置いていた麻袋から、次々と火達磨を取り出しては上空へと投げつける。
 沐絲であった。そう、彼こそがこの騒ぎの元凶であった。
 バサバサと音がして、彼の上空を次々と火達磨が飛び出していく。
 切立った斜面の上には大きな磐があり、その上から彼は下方目掛けて火達磨を解き放っていた。

「騒げ、騒げっ!麻底良布山の神の怒りにふれるだ。ほうら、これは祟りじゃ。」






 その斜面の下ににらみ合っていた男たちは、突然の火玉の出現に騒然となっていた。
 上から降りてくる火玉は、バチバチと音をたてながら上空を飛び惑っている。バラバラの方向に飛び、すうっと空気に飲まれるように消えているではないか。

 ある者は悲鳴を上げ、ある者は地に付して拝み、ある者は天を仰ぎ恐れた。

 大和側の人足たちの多くは、悲鳴を上げながら、我先にとその場を離れようとする。それを制して舎人や兵士たちが剣や槍をたずさえてわめきちらす。
「下がるなっ!!」
「持ち場を離れるなっ!!」

 だが、恐怖に支配された人間は、そんな言葉など耳には入らぬ様子であった。


「そうら、見ろっ!大和の者たちよ!貴様らの無謀に我らが麻底良布の神の怒りに触れたのだっ!!」
 一際背の高い男が、勢い良くまくしたてるのが見えた。男は麻布の服の上に、動物の毛皮でできた衣を着こんでいる。髭をたくわえ、顔には幾何学模様の刺青があった。


 乱馬は騒然となっている現場へと足を踏み入れた。彼の脇を我先に逃げ惑う人足や武人たち。その流れを掻き分けながら、乱馬は上方へと歩み出す。

「帰れっ!余所者たちよっ!!」
「我らが聖なる山を荒らすなっ!!」
「このザマを見よっ!!」

 勢いに乗った地元の男たちが暴言を浴びせかけてくる。

「不味いぜ、兄貴。このままだと、奴ら、宮の造営地に火を放つかもしれねえっ!」
 千文が傍で言った。

「千文っ!矢を俺に貸せっ!」
 乱馬は叫んだ。
「矢?」
「ああ、何でもいい。そこら辺にあるもので構わねえっ!早く貸せっ!!」

 乱馬は火の玉をはっしと睨みつけながら言った。

 言いつけられた千文は辺りをきょろきょろと探し回る。
 と、前から大きな図体の武人が上から逃げ惑ってくるのと遭遇した。
「退けっ!小僧っ!!邪魔だっ!!」
 武人は千文に叫びつける。
「丁度いいやっ!」
 千文はわめきちらしながら武人の脇に身を翻した。
「おっさん!その矢、俺が貰うぜっ!!」
 千文は自分の刀を抜くと、すばやく武人の衣服を掴み、そのまま箙(えびら・矢を入れて背に負う器)の紐をかき切った。昔、かっぱらいでならした腕で、武人から見事に矢をかすめとったのである。
「貴様っ!!」
 矢を取られた武人が怒って千文へ斬りつけようとした時、すばやく千文は脇に飛んだ。今でも身体の動きは俊敏だ。
 武人の反対側へと矢を持って降り立つとにっと笑った。
「き、貴様っ!弓までもっ!!」
 するりと彼は武人から弓ももぎ取っていた。

「逃げるだけのおっさんにはこんな物必要ねえだろう?俺のご主人様はこいつが入用なんでいっ!おっさんはとっとと逃げなっ!」
 そう言うと、思いっきり武人の背を蹴った。

「わああああ…。」
 身体のバランスが崩れたところを蹴り込まれたのだからたまらない。斜面という足場の悪さも手伝って、武人は岩のように、下方へと転がり滑り落ちていった。

「けっ!ざまあみろっ!弱虫めっ!」
 千文はもぎ取った戦利品を持って乱馬の元へと駆け戻る。
「兄貴っ!」
 千文の矢をもぎ取るように受け取ると、乱馬はきりりと弓をしならせて構えた。
 
「さすがに堂に入ってらあ!」
 千文は感心しながら乱馬を見上げた。
 常陸の生国の野や山を、狩人として駆け回った乱馬。弓を構えた姿に思わず惹きつけられた。

 ビュンッ!

 乱馬は空を舞う鬼火目掛けて、矢を解き放った。

 バシュッ!!

 音がして火玉が射抜かれる。

「罰当りめっ!貴様、さらに麻底良布山の神の怒りを買うつもりかっ!!」

 その様子を脇から見ていた、大男が罵声を浴びせかけた。
 その声に反応して地元の民たちが現われ出てくる。
 だが、乱馬は弓を打つ手を緩めなかった。

「聞いているのかっ!!」
 さらに大男が詰め寄ろうとしたとき、乱馬の射た矢に貫かれた火の玉が目の前に落ちてきた。

「見ろっ!こいつを。」

 乱馬は男に落ちた物体を視線で示した。

「こ、これは…。」

 そこに転がっていたのは、焼けただれた鳥の死体だった。ぶすぶすと不気味な音を上げながら、鳥は焼け落ちている。

「他にも、俺が打ち落としたものを見てみろっ!!」
 乱馬は冷静な声で男たちを一喝した。

「猛(たける)様、こちらにも同じ物があるぞっ!」
「こっちもっ!!」

「誰かがあの山の上で生きた鳥を使って鬼火を飛ばしてやがるんだ。」
 乱馬はじっと山を仰いだ。
「おまえたちの仲間が、この騒動を扇動してやがるんじゃないのか?」
 乱馬は大男を流し見た。

「馬鹿にするなっ!そんな卑怯なこと、俺たちがするわけないだろうっ!!」
 大男は怒ったように乱馬に投げ返す。

「ということは、この騒ぎに乗じて面白がっている不逞の輩の仕業が居るとでも言うのか?…。」
「ああ。」
 乱馬は大男の問いかけに、鋭い視線で答えながら、ぎりりっと矢を岩場の方へ構えた。そして、矢を射抜いた。
 ひゅんっと音を上げてそちらの方向へと飛び出す矢。

 矢は沐絲の傍を掠めて闇に消えた。

「ちっ!感づきやがったか…。」
 舌打ちした沐絲が呟く。
「まあ、良いだ。ここら辺りが潮時だな。ふふふ。」
 最後に一羽、闇に向かって火達磨鳥を投げつけると、沐絲はその場から姿を消した。


「逃げ足の速い奴め。」
 乱馬は忌々しげに言葉を投げた。沐絲の気配が去ったのを察知したのだ。
「おまえ…。」
 大男が乱馬に近づいて来たときだった。
 突然、上方で突然火柱が上がった。
「何っ…。」
 はっとして見上げると、勢い良く一本の木を激しく燃え上がるのが見えた。

「不味いっ!このままだと山全体に火が付くぞっ!」
 乱馬は、大男に向かって言い放つ。

「この辺りに水場はないか?」
「水場?」
「ああ…。ああやって、急激に燃え上がった火は、下手すると山を焦がす勢いの猛火になる。」
「山全体へ燃え広がるとでも言うのか?この神の山に。」
 大男はぎょろりと乱馬を見詰めた。
「神の山だろうと、普通の山だろうと、一度激しく燃え出しちまえば消すのは大変だっ!そうなる前に手を打たないと。ほら見ろっ!木の枝が擦れ合うところから他の木に引火してやがるだろう?」

 乱馬はちろちろ燃え始めた火を指差して言った。
 バチバチと不気味な音をたてながら、木が勢い良く燃え盛っている。

「この辺りに水場はない。」
 大男は断言した。

「じゃあ、仕方がねえ。千文っ!人を集めろっ!そして、ここらの地面を掘るんだっ!」
「何を馬鹿なことをっ!ここは神の山だぞっ!その土を掘り返すなどということはっ!」
 真っ赤に顔をしかめた大男に乱馬は言い放った。
「ぐずぐずしてる暇はねえっ!今のうちに火が麓へ回るのを食い止めねえと…手が付けられなくなるっ!」
「しかし…。」
「躊躇してる暇はねえっ!麓には田や畑があったろう?この辺りの民の屋敷にも燃え広がるかもしれねえんだぞっ!神の山だからだなんて、そんな、悠長なこと言ってられっかっ!!」
 物凄い勢いで叱責した。言動も荒くなっている。
「千文、できるだけ迅速に行動しろっ!木が密集しているところから火は回っていく。幸い昨日までに木を切り倒した辺りは何もない。そこを掘るんだっ!溝を掘ってそこで火の勢いを食い止めるんだっ!」
「わかった、兄貴っ!」
 乱馬の言に千文はだっと駆け下りて行き、とりあえず、乱馬の配下の武人だけでも掘り返すことを命じた。

「そらっ、ぼさっとしてねえで、てめえらも動けっ!一刻を争うっ!」

 乱馬の剣幕に気圧されて、大男は、こくんと頷いた。

「わかった…。ここは貴様の言うとおりに動こう。おーいっ!そういうわけだ。昨日までに切り出された辺りを掘るんだっ!そして延焼を食い止めるんだ。何としても!」

「でも猛さまあっ。ここは禁断の山だぜ。」
「オラたちが掘ってしまってまっていいのかようっ。産土神(うぶすなのかみ)や麻底良布の神の祟りに合わないか?」

 彼の仲間たちは、心配顔で言った。

「仲間の家や田畑が燃えてなくなっちまってもいいのか?そんなこと、麻底良布の神が望まれることではあるまいっ!この火は麻底良布の神に背く奴が放ったものだ。消さねばならぬ。たとえ聖なる土を掘り返しても!」

 大男の言葉に、彼の仲間たちも重い腰を上げた。だが、上げた以上は迅速に動いた。
 この辺りの地形にも詳しい上、道具の扱いにも慣れているようだ。大和から来た役人たちが、おろおろする周りを、石斧や鍬などの道具を片っ端から持って掘り始めた。
 乱馬も彼らに混じって、必死で土を掘った。
 何としても火がこちらに迫るまでに食い止めなければならない。その一念で動いた。


 大の男たちが群れるように、大和の者たちが木を薙ぎ倒した斜面を掘った。
 そうこうしているうちに火はますます強く燃え盛って来る。いつの間にか闇を真っ赤に染めて火が回り始める。

「畜生っ!火の回りが速えっ!」
 
 汗を滴らせながら無我夢中で掘った。手から血が出ようとそんなことは気にならない。

 バチバチと木立を焦がしながら、黒い煙も流れ込んでくる。

「駄目だ。これ以上ここに居るのは危険だっ!くそっ!このまま、山も野も宮の造営地も焼けてしまうのかようっ!!」

 そう観念した時だった。

 ポツン、ポツン。
 水が上から滴り落ちてきた。

「雨?」

 ポツポツと落ちてきた水滴。はじめは躊躇うように落ちていた水滴は、やがて激しく地面を打ちつけはじめた。

「しめたっ!雨だ。降れっ!降ってくれっ!山の火を消すくらいに降ってくれっ!!この山をこの山を崇める里を、宮を守ってくれっ!!」
 空を仰ぎながら、乱馬は祈った。
 神の存在など、ともすれば否定に走る、無神論に近い彼であったが、雨が鎮火してくれることを切に願った。
 いや、天を眺めて、願ったのは乱馬だけではなかった。
 そこに居た全員が、天を仰ぎ、必死で火の勢いが衰えることを祈った。この雨が火を消してくれることを。
 その願いが天に通じたのだろうか。雨は予想以上に強く降った。
 それまで勢い良く木々を焼いていた火は、思わぬ雨を受け、だんだんに勢いを狭めていく。さらに、乱馬たちが掘った急場の穴も鎮火に一役買ったようだ。
ザアザアと音を立てて滝のように空から流れ落ちてくる雨の雫。やがてそれらは一筋の水になって流れ落ち始めた。
 乱馬たちが掘った穴へも溜まり始める。それをたるですくい上げ、とにかく火が燃え広がるのを必死で抑えようと、乱馬たちは動き回った。泥に身体が汚れることも、雨が身体に激しく打ち付けてくることも忘れて、必死で火を消し続けた。
 誰もが無言で、働き続けた。火を消すという願い一心で。

 その甲斐あってか、夜が白み、すっかりと明ける頃には、ブスブスと焼けた木を燻らせた煙を上げるだけで、すっかり辺りの火は消えていた。
 鬼火は被害を広げることなく、鎮火されたのだった。
 雨が収まり、東雲が朝焼けで彩られる頃には、力を出し尽くして、焼け爛れた斜面を眺める男たちの姿がそこここにあった。太陽の光に、やっと人心地が戻ったのだ。

「消えたっ!俺たちは火に打ち勝ったんだっ!!」
 誰かが叫んだ。
 うおおおっとそこここで雄叫びが上がる。

 乱馬もその叫びを聴きながら、焼け焦げた斜面を眺めて居た。

「そこの…大和の武人よ。消えたな…。」
 大男が憮然とした表情を緩めた。そして人懐っこい顔を差し向けながら乱馬に近寄ってきた。
 乱馬もその気配を察知すると、男に向かってにっと白い歯を真っ黒になった顔に浮かべる。
「誇り高き大和の武人よ。おまえの働きを麻底良布の神が認めたのだ。」
 そう言って大男は乱馬へと歩み寄り、手をぐっと差し伸べた。それに受け答えるように、乱馬も手を伸ばそうとした。

 だが、乱馬の足元はそのままぐらついた。

「おいっ!」

 大男の声が遠くで聞こえたような気がした。そのまま、ふうっと意識が遠のいて行く。そんな気を必死で奮い立たせようとした。だが、足は踏ん張れなかった。
 大男は慌てて乱馬の身体をがしっと、その太い腕で支えた。

「身体が熱いっ!火が出るみたいに熱いっ!!」

 乱馬を抱え込んだ大男が叫んだ。

「兄貴っ!!」
 傍に佇んでいた千文が、その声を聴きつけると、ばっと駆け込んで来た。
「兄貴っ!しっかりしろっ!!」
 思わず声を荒げる。
「千文…。良かった…。火が消えて本当に良かった。」
 乱馬はそれだけを言葉にすると、そのまま崩れ落ちるように、大男の胸に倒れこんでしまった。

「乱馬っ!兄貴っ!!」
 千文の悲鳴が山間を響き渡った。



二、

「やっぱり無茶が祟ったんだ!」
 千文が震える声を乱馬に吐きつけた。
 乱馬は死んだように眠っている。身体から発せられる熱で、額には汗の玉が浮き上がっている。
 そのまま大男に背負われて、乱馬は里の方へと下ろされ、その邑長の家に寝かされていた。
 麻底良布山の麓に広がる、朝倉の里だ。

「小僧、この男、何と言う?」
 乱馬を背負ったまま降りてきた大男が千文を見ながら問い質した。
「早乙女造乱馬様だよ。」
「大和の武人か?」
「ああ…。生国は東国、常陸(ひたち)の国らしいけどよ…。今は大海人皇子様の舎人(とねり)をしている。」
「大和の皇子の舎人か。」
 そう言って乱馬の顔を覗き込んだ。
「大海人皇子様の命で朝倉の里の者とのいざこざを解決しにここまで馬を飛ばして来たんだ。無茶だよ、乱馬様は。ご自分の体調のことなど、お構い無しでぶっ通しで早馬で駆け抜けて、それで一晩中雨の中…。」
「身体を病が巣食っていたのか?」
「ああ…。昨日からずっと熱っぽかったんだ。それなのに、そんな素振り全然見せないで、倒れてしまうまで頑張るなんて…。」
 千文はじっと乱馬を心配そうな瞳で見守る。
「そうか…。大和の男など、骨抜きばかりだと思っていたが、こんな、芯のある奴が居たとはな。朝倉の爺様よ。」
 大男は後ろを振り返った。
「この男の様子をしっかり見てやってくれよ。」
 言いつけられた爺さんはじっと大男を見返って言った。
「猛よ。おまえさんはどうする?」
「一度、日向(ひむか)へ帰ろうと思ってる。いろいろと胡散臭い話が持ち上がってるらしいんでな。」
「日向…。あんたは日向の人なのかい?」
 千文は大男に言葉を投げた。
「ああ、ここから陸伝いに南にある火の山に囲まれた日向国の者さ。俺の名は狗留須猛(くるすたける)だ。」
「狗留須猛。」
「大和の小僧ならワシのことを知らぬでも当然か…。狗留須猛と言えば、日向の国(ひむか)や火の国辺りでは鬼も恐れると言われておるのじゃがな。小僧よ。」
 からからと大男は笑った。
 確かに、その風体は大和人とは何処か違う逞しさが溢れていた。第一、顔に見慣れぬ刺青がある。
「この乱馬とかいう男、こやつも面白そうな武人だな。また縁があったらあい見えることがことがあるやもしれぬ。出来るなら敵として出くわしたくはないがな。わっはっは。」
 猛は笑いながら千文を見上げた。ずんと迫り来る精鋭な瞳。千文は思わずゴクンと唾を飲み込んだ。確かにこの男と敵になって戦いたくは無いと思った。

「大事にしてやれよ…。おまえの主(ぬし)様をな。よもやこのまま死ぬることはあるまい。麻底良布山の朝倉神の怒りを鎮めた男だ。麻底良布神の加護はある。」
「ええ、そうあって欲しいものです。」
「今夜辺りが山となるだろう…。」
 猛は乱馬を見返した。
「早乙女乱馬か…。この麻底良布の山神をも黙らせた男…。しかと、この胸に覚えておこう。」
 そう言うと狗留須猛はそこを辞して行った。

 猛が立ち去った後、入れ違うように、爺さんが館に現われた。

「砺波の爺さん…。」
 千船はそう声をかけると、だっと走りよった。
「わざわざ駆けつけてきたのか?」
 こくんと揺れる老齢の頭。
「乱馬殿には来るなと言われておったがな…。何、じっとはしておられなかったのよ。貴様らが発った後、ゆっくりと馬を駆けて来た。年寄りだでな。かなりの時間を食ってしまったが…。」
「爺さん、馬を扱えたのか?」
「馬鹿にするではない。年は取ったが、馬術の心得はある。若い頃は野山を駆けたものじゃからのう…。っほっほ。」
 爺さんは抜け落ちた歯をにっと巡らせて笑った。ほとほと、得体に知れぬ老人だと、千文は舌を巻いた。
「でも、良くここがわかったな、爺さん…。」
「わからいでか。麻底良布の山の神を沈めた武人と、地元のそこここで乱馬殿の武勇伝は持ちきりじゃ。快く、ここを教えてくれたわいっ!」
「そうか…。有名になってるのか…。」
「おうさ。この里も乱馬殿に救われたと、女どもも口うるさく噂しておったぞ。にしても…やはり…。東風殿の卜占は良く当たる…。」
 そう言って砺波はごそごそと懐をまさぐった。
「これだこれ。東風殿が私に手向けてくださった薬じゃ。」
 呟くように言いながら、懐から巾着袋を取り出した。
「薬?」
 千文の言葉に、爺さんは言った。
「これを乱馬殿に…。熱を下げる効果があるそうだ。」
「乱馬様にって…。眠ってしまっているお方にどうやって…。」
「おまえが口移しで飲ませればよかろう。」
「えええっ?」
 千文は後ずさった。
「ふふふ、冗談じゃ。」
 爺さんはからからと笑い転げる。
「これは丸薬でな…。口に含ませるだけでよいそうじゃ。唾液で溶かして胃へ入れば、たちどころに効く。東風殿はそのようにおっしゃった。」
 そう言うと、砺波の爺さんは、黒い飴玉のような丸薬を、眠り続けている乱馬の口へと含ませて服用させた。

「多分…。これで、大丈夫じゃとは思うがのう…。」
「だといいけどな…。」
 乱馬の二人の重臣はそれ以上、言葉を継ぐことなく、黙って乱馬の傍に座っていた。



三、


『今夜が山となる。』

 狗留須猛の言葉が、千文の耳にこだましていた。
 確かにそうだろう。この夜を乗り切れば、きっと乱馬は回復できる。
 明らかに無理しすぎた彼は、体力も抵抗力も落ちている。意識が朦朧としているのが、如実に危機を物語っているのだ。

「後は天に運命を任せるしかあるまいて…。」
「わかりきった言葉を言うんだな、砺波の爺さんは。」
「星は堕つのか、それとも再び輝き始めるのか。…命運は乱馬殿の宿星の強さにある。天がまだ彼を必要と判断すれば…。」
「天…か。」
 ぼんやりと外を眺める。
 美しき青い空がどこまでも澄み渡る空。昨夜の嵐が嘘のように晴れ上がっている。


 その澄み渡る空の下、乱馬の意識は常陸の国に飛んでいた。

 どこまでも渡る青垣。見慣れた青垣の中に、毎日飽かずに見ていた「筑波嶺」が聳え立つ。
 神の山と畏敬を持って崇められた筑波の山並みが広がる。
 野原の只中にあって、己は弓を携えていた。
 狙うは一頭の大きな鹿。頭には立派な角を持つ。美しきその姿に魅せられるように、追いながら荒野を駆けている。
 隣りには良牙。それからいつも共に駆けた響の仲間の若人たち。
 どこまでも果てない野を駆け巡りながら、鹿を追う。
 子供の頃から駆け抜けた青い草原。弓を構え、前を行く鹿へと射掛ける。確かに矢は鹿に当たった。
 前足を突き立てるように鹿は戦慄く。
「当たったっ!」
 無我夢中で射抜いた鹿へと駆け寄っていく。

 と、辺りは急に霧に包まれる。

 いつの間にか鹿の姿も仲間の姿もない。
 静寂が辺りから降りてくる。

 馬から降り立ち、手綱を引きながら、霧の中を歩いた。霧の中は我武者羅に走ると何が飛び出してくるかわからないからだ。霧が濃いときは馬から降りて歩く。誰に教わるでもなく、本能的に学んだ。
 
「あれは…。」

 霧の先に見慣れた集落が見えてくる。
 竪穴式住居の草屋根が並び、そこここのカマドから煙が棚引く。どこにでもあるような東国の邑だ。住居の向こう側には高床式の建物が並ぶ。子供たちがその中を駆け抜けて行く。その一人を見て驚く。
 後ろに長い髪を束ね、駆け抜けていくのは、遠い日の自分の姿だった。泥だらけになって跳ね上がっている。一緒に居るのは良牙や他の家の子供たち。一所に集って狩場遊びをしているようだ。
 その先に笑いながら野良作業をする大人の女たちが見える。

「母上…。」

 懐かしい顔がそこにあった。穏やかな微笑みを浮かべながら、子供たちを見守る柔らかな微笑み。

「母上。」
 懐かしさのあまり、彼はそちらへ向かって歩み寄ろうとした。顔を見上げると、母、銀英が手をこまねいているのが見えたのだ。その傍には父、雲斎の姿もあった。
「父上っ!」
 二人は穏やかな笑みを浮かべて乱馬を招いている。だが、二人の口に声はない。
 乱馬は彼らに吸い寄せられるように歩き始める。霧がふわっと浮き上がってくるように思えた。


「駄目っ!そちらへ行ってはっ!」
 己の歩みを引き戻すように響いてくる一つの声があった。
 鋭く響き渡る、澄んだ声。
 思わず歩みかけていた足が止った。

「誰だ?俺を止めるのは…。」
 そう言いながら彼は辺りを見回した。
 だが、誰の影も無い。
 再び会を上げると、懐かしき育ての父と母が乱馬を呼ぶようにこまねいているのが見えた。
 彼の足はまた動き始める。

「駄目っ!!そっちへ行けば、帰れなくなるわっ!」

「帰れなく?何故だ?俺の帰るべき場所は響の里だ。」
 心ではね退けながらも、再び歩き出す。

「乱馬っ!!」
 確かに耳に覚えのある声だった。甲高く、それでいてどこか凛々しい声。他の誰よりも懐かしい声。
 胸の辺りが熱くなるのを感じた。
 手で探ってみると、そこにそれがあった。赤い勾玉。いや、違う、深い碧の美しき勾玉だ。声はそこから聞こえてくるような気がした。

「茜郎女…。」

 勾玉を握り締めながら乱馬は呟く。

 その名を口にした途端、周りは再び霧に包まれた。

「あ、母上っ!父上っ!!」
 そう叫んだが、彼らが待つ響の里は霧の彼方へと溶け込むように見えなくなってしまった。
 また一人…。
 そう思った時、胸の辺りがまた熱くなった。見ると勾玉から淡い光が輝いているように見えた。

「そうだ…。俺の帰る場所は響の里じゃない…。俺が帰らねばならないのは…。茜郎女のところ…。彼女の居るところだ。」
 ぎゅうっと勾玉を握り締めた。
「茜郎女…。あかねっ!!」

 その名を叫んだ時、意識がふっと途切れた。

「私の名を呼んでくださったのね…。」
 耳元で柔らかく声が響く。
「ああ…。呼んだ。今一番逢いたいのはおまえだから…。」
「乱馬…。」
 ふわっと手が下りてくる。温かい血の通った手だ。
「あかね…。逢いたかった。」
 微笑がつい零れ落ちた。
「凄い熱…。」
 その手は乱馬の頬に触れると、そう呟いた。
「私が…。浄化してあげるわ…。乱馬。」
 確かにそう象った声。
「ああ…。そうしてもらえるとありがたい…。」
 柔らかい手は彼の頭を暖かい枕へと導いた。白い柔肌が目の前に揺れる。気持ちの良い膝の上だった。彼の頭を膝の上に横たえると、降りてくる柔らかい気。体中を包み込んでいく仄かな光。
 その気に全身を預けながら、乱馬はふっと目を上に見開いた。
 そこにある、優しい光に満ちた瞳と視線が合った。
「あかね…。」
 彼の声を飲み込むように、降りてくる潤んだ瞳。ふわっと引き上げられるように、頭が持ち上げられた。
「乱馬…。あなたの熱…全て私が浄化する…。だから…。何処へも行かないで。」

「ああ、行かない…。俺の心はいつもおまえの傍に居る。」

 降りてくる温かさに己を全て預けた。目を閉じると触れる、柔らかな感触。

「あかね…。」

 目を閉じながら乱馬は、甘い吐息に己の身を預けた。合わされた唇から、体の熱が全て吸い上げられていく。
 堅く閉じた瞳そそのままに、ぐっと引き寄せるように手を取ると、そのまま腕を腰へと回し、抱きしめた。
 
「あかね…。」

 そのまま降りてくる柔らかな光に、乱馬は全てを託した。確かに抱きしめた柔らかい身体と一つになって溶け合って行く、そんな感覚を覚えていた。いつまでも離れることなく、引き合う二つの魂。

『もう大丈夫…。』
 そんな声が耳元で聞こえたように思った。




「どうしたの?茜郎女。気分でも悪いの?」

 靡郎女があかねの顔をふっと覗いた。
 どうやら、うたた寝をしていたようだ。暖かに降りてくる日差しの中で、その場へ伏したまま眠り込んでいたようだ。

「準備はどう?もう粗方すんでしまったの?」
 靡郎女は茜郎女と見返した。
「ええ…。だいたいは…。」
 あかねは苦笑いをしながら姉を見上げた。

「でも…。不思議な夢を見たわ。」
「夢?こんな昼間から夢を見ていたの?茜郎女は。」
 呆れたと言わんばかりになびきがあかねを見返した。
 あかねは今しがたまで居た夢のことを姉のなびきに話し始めた。
「乱馬がね、霧の中を彷徨っていたの。行く当てもないように、ふわふわとね…。」
「ふうん…。」
「で、思わず彼に避けんだの。そっちへ行っては駄目って。」
「そうしたら?」
「そうしたら彼、私の方へ歩み寄ってきた。そしてそのまま倒れ伏してしまったわ。…触ったら凄い熱で…。苦しそうにあたしをみあげて、「逢いたかった。」って微笑むの。私、乱馬の熱をどうにかしてあげたくって…。気が付いたら夢中で彼を抱きしめていた。ずっとこの手に…。」
 そう言いながら両手を見詰めた。

「もう…。美味しい夢見てるのね…。茜郎女は…。」
 なびきはふうっと溜息を吐き出して笑った。
「きっと、乱馬様はあなたを呼んでいたのかもしれないわね…。」
「夢の中でなら魂は自由になれるもの…。遠く離れていても一緒に過ごせる。夢の中なら…。」
「夢でも逢えたら満足かしら?」
「ええ…。でも、逢いたい…。逢ってその身体を抱きしめてあげたい。」
「あら…。抱きしめられたいの間違いじゃないのかしらん?」
「もう、姉上ったら!」

 言の葉はそこで途切れた。だが、何故か、夢であるのに、乱馬の感触は生々しくあかねに残っていた。そのまま、口付け、激しくぶつかるように抱きあった感覚。

「乱馬…。無事だと良いけれど…。」

「もうすぐ逢えるわ。あなたも西へ旅立つんだもの。」
 なびきはそう言って妹を慰めた。九能の若を射止めた自信があるのだろう。姉はますます美しさを増していく。あかねは姉へと微笑み返し、ふっと寂しげに西の方を眺め呟いた。
「そうね…。もうすぐ逢いに旅立つんですもの…。」
 と。



 乱馬はその後、二日間、眠り続け、夢から覚めるように起き上がった時には、すっかりと熱も下がっていた。ずっとあかねに抱かれているような、そんな安堵感があった。
 確かに自分はあかねと睦みあった。
「あかねの意識が俺を助けてくれたのかもしれねえな…。」
 まだ床から上がることを止められた乱馬は、じっと、朝倉の麻底良布山を眺めながら、そう呟いていた。



第二十五話 「朝倉橘廣庭宮」 へ つづく




狗留須猛(くるすたける)
 イメージは記紀の景行記に出てくる倭武(ヤマトタケル)伝説の「クマソタケル」。
 南九州は古くは「熊襲」(くまそ)や「隼人」(はやと)などと呼ばれて大和朝廷とは対立関係にあったと言われています。隼人(はやと)も熊襲(くまそ)も九州地方の夷狄(いてき)をあらわす言葉でした。
 「クマソ」は球磨(くま)と曽於(そお)をまとめていう言葉だという説もあります。
 また、日向国も宮崎県のイメージが強いですが、702年(大宝二年)までは、日向だけではなく、薩摩、大隈を含む南九州全体をさす国名だったそうです。律令国家への推移の中で、朝廷によって「日向国」は「薩摩」「大隈」など新たに区分け編成されたというのが通説になっています。
 狗留須猛は川内川周辺の民として描く予定です。狗留須という名前も、地名を基につけました。
 古来、火山が多かった熊本以南の九州南部には別の文化の集落が発達していたと考えられています。いろいろ書物を調べまくったのですが、なかなかイメージを捉えきれず、以後、ストーリーの背後にある設定は完全に私の想像の産物となりますので、信じないでくださいませ。ごめんなさい!

 最初は書く気がなかった日向編。それにつけても七世紀の南九州地方の資料が少なくて、妄想をまとめて展開させるのに悪戦苦闘しております。(それはそれで楽しいのですが…)
 狗留須猛も最初は「隼人猛(はやと・たける)」と名づけていたのですが、資料を読み漁るうちに、「隼人」を名前に使うと今後の話に大いに支障が出ることに気がついて急遽変更しました。
 狗留須猛もいずれは活躍することになると思います…。どうなることやら(笑

 なお「鬼火」の記述は「日本書紀」の斉明記を出典としています。



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