第五部 朝倉編

第二十三話 麻底良布の神


一、

 葛城皇子はすぐにも筑紫川沿いの朝倉の地へ宮を建てはじめた。
 周囲の反対を押し切っての着工だった。

 ひと月で皇祖母尊が住める宮を造営する。

 当時としてはかなり無謀な計画だ。

 ひと月後の五月初旬には、何としても新しい宮へ皇祖母尊を遷したい。葛城皇子はそう思ったようだった。
 この時代の暦は太陰暦。そう、今よりもひと月ばかり進行が早い。
 つまり、五月と言えば今の六月。梅雨時に当たるのである。
 梅雨は言うまでもなく雨がしとしとと続く。大和だけではなく、筑紫の国もそうであった。この国では夏前に必ず通る雨季。
 梅雨へ造営がずれ込めば、気候も悪くなる。だからといって梅雨が明けてしまえば、今度は猛暑が地を覆う。夏が来る。
 何としても五月、入梅の前に、新しい宮へ遷宮したい。
 葛城皇子は強く願ったのである。

 強い思いは時に暴走を始める。
 裏側で糸を引く者が居れば尚更のこと。



「ふふふ…。黒麻呂の進言どおり、葛城皇子め、朝倉の地に宮を造り始めただか。」
 人々が群れる工事現場を見ながら、ほくそえむ男が居た。
 沐絲であった。
 倭人に混じって、彼もまた、雑役として現場に立っていた。
 勿論、何処にでも居そうな若者として、汗を流すふりをする。

 大和朝廷の木っ端役人を頭に、いくつか組に分けられて、作業を進める。造営の中心を担うのは大和から借り出され、船団と共に連れて来られた寺院や社を作る職人たち。そして、下働きするのは地方から掻き集められてきた徴兵や雑兵たちだった。
 古代の造宮場所の近くには必ずと言って良いほど大きな河川が流れている。陸送する手段がない未発達な社会において、一番安定した大容量を運べる河川は大きな交通網の一つとして考えられていたからである。例えば、京都の木津は元々「泉」とばれていたらしいが、聖武天皇の治世に恭仁京や平城京を作った時に木材の運搬地として栄え始めたことから「木の港=木津」と呼び習わされるようになった。
 建物を造営するための木材の確保もまた、重要なことであったのは言うまでもない。
 急場な造宮事業。それに不可欠なのは、豊富な人材と木材の確保だった。
 急な計画は不備になる。それでも権力者は己の力を鼓舞しようと頑張るものだから、大きな軋轢を生み易い。

 沐絲はそこへ目を付けたのである。

 造宮が始まってすぐの頃、木材の確保がやはり一番難しかった。現在のように植林などされて居ない時代。山や野にたくさん木が自生しているとはいうものの、全てが建材として適したものではなかった。柱に使う木は真っ直ぐ伸びていなければならなかったろうし、大きな太い木が生えている場所となると、未踏地が多く、常に危険を帯びていた。
 無謀な計略はすぐさま木材不足という局面へと突入する。

「我は唐国の道士、可崘ばば様の配下、沐絲じゃ。黒麻呂よ…。オラの命令はオババ様の命令ときけっ!」

 沐絲は夜陰に紛れて分け入った黒麻呂の寝所でそう囁きかけた。

「唐国の道士、可崘。…。」
 寝入っていた黒麻呂は寝屋の中で目をぱっちりと開いた。
「起き上がるな。屋敷の者たちが目覚めては面倒だ!そのまま、オラの言うことを聞くだ!」
 沐絲は低い声で脅しつけながら言葉を継ぐ。
「麻底良布山(まてらめやま)の木を切り倒し、それを建立中の宮の柱に使えという卜占を立てるだ。」
「な、何っ!」
「しっ!声を荒げるでねえだ!」
 夜の闇が辺りをシンと包み込む。
 沐絲は辺りの気配を伺いながら、話しかける。
「おまえの卜占で、朝倉社のすぐ傍に皇祖母尊の宮を建立し始めたのであろう?」
「た、確かに、私の卜占ではあるが…。元はといえば、おまえたち道士が、その場所へと宮地を定めよと私にお告げをしろと言ってきたのではあるまいか…。」
「ふふふ、そうだ。だから、次のお告げをくれてやれと言ってるだ。おまえの卜占の卦に朝倉の神が降臨して、我が山の木を使えと言ったとか何とか言えば良かろう?」
 沐絲はにっと笑いながら告げる。
「そ…そんな恐ろしいこと。神の山の木を薙ぎ倒すなどということ…。」
「できぬとでも言いたいのか?黒麻呂よ。」
 沐絲は高飛車に出た。
「ああ…。あそこは神の山。そんなことをしては…地元の者や神の祟りが…。それに、そんな謀り事をするとは、可崘様からは聞かされてはおらぬ!」
「今更神を恐れるというのか?黒麻呂よ…。ならば、ここで死ぬか?」
 沐絲は冷たく笑った。
 すうっと彼の目の前に現われ、刀の刃を黒麻呂の首筋に当てた。
「ぐぬ…。」
「ふふふ…。動けはせぬ。金縛りの術をかけたからな。このまま、この寝床で息絶えさせてもよいのだぞ。」
 沐絲はわざと微笑んでみせる。黒麻呂はその顔を見てぞっとした。ここで承知しなければ、この道士は躊躇いもなく己をばっさりと切り刻むつもりだと。
 黒麻呂の体を汗がだらだらと伝い始める。冷たい汗だ。

「もう一度言うだ。麻底良布山の木を切り倒し、それを宮の柱に使えという卜占を立てるだ。」
「な、何を考えているのだ?可崘様は…。」
「知れたことよ…。麻底良布山のご神木を切り倒した罪を大和の者たちにかぶらせてやるのじゃ。祟りという最大の見せ場をな…。くくく、おまえは心配せずとも傍観しておればよいのじゃ。後はオラが上手く事を運んでやるだ。」
「も、もし、そちの命に従わなければ…ど…どうなる?」
 黒麻呂は震えながらも沐絲へと問いかけた。
「このまま、死あるのみ…。」
 すうっと沐絲は刀を滑らせて、黒麻呂の腕に当てた。それからつうっと刀身を押し付けてみせる。血が少し当てられた鋭い刃へ浮き上がってきた。少し黒麻呂の身体を傷つけてみたのだ。
 だが、これだけで充分であった。

「うひい…。わ、わかった。可崘婆様の申しつけなら逆らえぬ…。そ、その卜占を出そう…。」
「ふふふ…。聞き分けの良いことは長生きをする秘訣じゃ。期待しておるぞ。黒麻呂!ゆめゆめ違うことなかれ。事が順調に運び出すまで、オラはおまえの背後にはりついて、見させてもらうだぞ。」

 沐絲はこれみよがしに、にっと黒麻呂の鼻先で嘲笑すると、闇へと消えた。
 黒麻呂は恐ろしさの余り、そのまま、その場へへたりこんでしまった。


 
 翌日、黒麻呂は沐絲に言われたとおりの卜占を、葛城皇子に告げた。

「な、何?そのような卜占が出たと?しかも、皇祖神様がそのようなお告げを、おまえの卜占にあらわしたと言うのか?」
 我が耳を疑った葛城皇子ではあったが、ここは是が非でも造宮を急ぎたい。そんな気持ちが彼の背中を押してしまった。
「はい、皇祖神様はそのような卜占を私に立てさせました。いくつかの方法でも占ってみましたが、麻底良布の木を使えば、大和朝廷の御武運はますます栄えます。」
 黒麻呂は葛城皇子を拝しながら進言を続けた。

「産土の聖地の木か…。確かにこれ以上の木材は無いな…。よし、わかった。早速、人足たちを集めて、麻底良布山の木を切り倒し、造宮に当てよう。」
 と葛城皇子は即断して、詔(みことのり)したのだ。

 その詔は怒涛のように伝わっていく。


「これで良かったのだろう?可崘ばば様の子飼いの道士よ。」
 黒麻呂はすぐ後ろで立った気配に向かってそう囁きかけた。
「ふふふ…。ご苦労だっただ。後はオラに任せるだ…。」
 沐絲はそれだけを告げると、ふいっと黒麻呂の元から気配を絶った。



二、

 その日、乱馬は何となく体が熱っぽかった。
 ずっと邇磨から突っ走ってきた疲れが出たのだろうか。周りでも流感が流行っていたが、それを拾ってしまったのだろうか。
 咳の症状は無かったが、体の奥底に何か病魔が巣食っている。そんな感じを床にいる間から受けていた。

「兄貴?」
 いつものように起しに来た千文が不思議そうに乱馬を覗き込んだ。普段は起しにいかなくても乱馬の方から起き上がって身支度を始めるのに、この日はなかなか、起き上がる気配が伺えなかったからだ。
「ああ、千文か。もう朝が来てしまったか。」
「さっき、トキの声がした。まだ空は白み始めたばかりだけど…。」
 まだ夜明け前ではあったが、そろそろ辺りで人の気配が漂い始めている。慌しい朝は現代も古代も変わりがあるまい。
「兄貴らしくねえなあ…。」
 がばっと布団をめくりあげて、千文は乱馬を起しにかかる。
「今朝はちょっと寒いな。」
 思わずぶるっとした乱馬はそう吐き出した。
「寒い?…そっかなあ。別に昨日と変わらねえと思うけど。」
 そう返事されたが、何となく体がぞくぞくとする。

「もしかして、風邪でもおひきになられたかのう…。頑強な乱馬殿でも。」
 砺波の爺さんがにっと笑って顔を出した。
 ここ、那の大津へやってきても、彼らは乱馬の傍に常に居て、身の回りを世話していた。
「どうら…。」
 爺さんのゴツゴツした手が乱馬の額にあてがわれる。
「ちょっと熱が出ておりますかうのう…。本日はお休みになられまするか?」
 そう聞いてきた。

「いや…。そういうわけにも行くまい。早めに切り上げるとしても、己の役目は果たさねばな…。」

 乱馬は意を決して起き上がった。

「無理しねえ方がいいんじゃねえか?兄貴。」
 千文が大丈夫かあと言わんばかりの視線を投げかけた。
「責任ある役に就いている乱馬殿には、そう易々と休むこともできぬのだよ。千文。」
 砺波の爺さんはそう嗜めた。
「でもさあ…。」
 千文は心配げに主を見上げた。確かにいつもと違って生気がない。

「起き上がってしまえば平気だよ、千文。」
 乱馬は苦笑いしながら答えた。着物を着替えて、袖を通す。熱っぽい身体には、着替えた着物が冷たく感じられる。

「本当に大丈夫かねえ…。兄貴。」

「ほーっほっほ。いっぱしに千文も乱馬殿のことが気にかかると見えるなあ。」
「当たり前だろう?爺さんは心配じゃねえのかよ。」
「まあ、とりあえずは温かい朝餉を食してからじゃ。」
 あまり食したくないと正直思った乱馬であったが、家人たちをこれ以上心配させてはなるまいと、我慢して用意された食事を平らげた。砺波の爺さんは脇から乱馬の様子をじっと観察していた。

(相当、ご無理がたたられておるようじゃのう…。これ以上、体調を崩されぬと良いが…。)

 


「たく、兄君は何を考えておられるのだっ!!」

 ドスドスと足音がして、大海人皇子が乱馬たち舎人の集う場所へやってきた。
 かなり立腹の様子だった。

「どうなされました?」
 乱馬は、けんのほろろにまくし立てる大海人皇子を不思議そうに見上げた。
 結局彼は無理を押し通して、ここへ来た。風邪の病くらいで臥せるわけにはいかないと思ったからだ。起き抜けにはかなりだるかった身体も、朝餉を無理矢理かっ込み、己の任務へと就くと不思議と感じなくなるから不思議なものだった。
 義務感とは、体調を誤魔化してしまうものなのだろうか。

「兄君が、朝倉宮建造のために、麻底良布(まてらめ)山の木を切り倒すと詔されたのだっ!!」
 大海人皇子は顔を真っ赤にして叫んだ。その勢いの強さに、思わず乱馬は後ずさりかけたほどだ。
 
「麻底良布山の木を伐採して宮を造営されようと言うのだ。聖域の木を切ると言い出しておるのだぞ!」
「なっ!何ですって?聖域の木を!」
 聖域の木、聖なる山の木を伐採するという言葉を聞いて、さすがの乱馬も顔色を変えた。
 彼の生国でも、筑波嶺の木を伐採するなど、恐れ多くて出来る筈はなかった。

 そんな聖域の木を大量に切り出して、宮を造営しようというのだ。尋常ではないだろう。

「兄君は麻底良布(まてらめ)山の木だからこそ、大いに結構と言うのだ。そんな馬鹿な話があると思うか?」
 大海人皇子が烈火のごとく怒るのも仕方があるまい。
「聞けば、黒麻呂の奴の卜占で、皇祖神が麻底良布の木を使えとの卦が出たのだそうだ。」
 吐き散らすだけ吐き散らしても、なかなか大海人皇子の剣幕は納まらない。
「我が皇祖神がそのようなたわけたご神託を出すと思うか?ええ?」
 乱馬へぐいっと身を乗り出しながら大海人皇子はまくし立てる。

「それで、葛城皇子様は…。」
「配下に命じて木を切り始めたそうだ。」
「な…。」
 乱馬はそのまま絶句した。
「どう思う?乱馬よ!無茶な話だとは思わぬか?兄君によれば、産土神の土地は倭国の土地、即ち、我々皇族の土地だと言うのだ!だから木を切り倒しても構わぬとな…。そこまでこの私に言い切ったのだぞ。それにだ…。」
 大海人皇子は乱馬へと言った。
「東風の卜占にも額田王の卜占にも、そのような卦は出てはおらぬ…。このまま捨て置けば、大いなる禍となってふりかかる。…そう考えるのが当然の理(ことわり)であろうが。」

「大海人皇子様はどうなされるおつもりで?」
 開口一番、乱馬は大海人皇子を見上げた。
「止めに入らねばならぬだろうて。」
 大海人皇子はぐっと目を見開いて言った。
「しかし…。葛城皇子様は既に詔を発せられてしまわれたのでござりましょうぞ?」
 後ろから別の舎人の声がした。
「だが、何としても兄君の暴挙は辞めさせなければならぬだろう。」
 大海人皇子はその舎人へと厳しい顔を差し向けた。
「それに…。このまま捨て置くと、朝倉の社を崇め奉る、地元の民とひと悶着が起こるのは必定。そうなれば、遷宮の儀も上手くは立ち行かなくなる…。」
 舎人たちはざわついた。あの葛城皇子が一度出した詔を下げるとは思えなかったからだ。身体を張って誰かが止めに行かなければならないのか。そんなことをすれば、葛城皇子の逆鱗に触れてしまいかねない。

 大海人皇子は乱馬の方へと視線を流した。

「早乙女の造。乱馬よ。この役目、おまえが請け負ってはくれぬか。」

 鶴の一声であった。
 
「我が舎人の中ではおまえが一番、たまさかない能力を持っている…。おまえなら或いは、あの堅物の兄君を何とかできるかと思ってな…。それに…。」
 大海人皇子は声を強めて言った。
「どうやら、私の懸念が当たりそうなのだ。」

「大海人皇子様の懸念?」
 乱馬は円らな瞳を大海人へ手向けながら問い返した。

「さっきも言ったが、朝倉社を崇める地元の荒ぶった豪族や民たちが、何をするとも限らぬ。いずれも、我々大和の人間が宮を造ることを快くは思っておらぬだろうからな。」

「わかりました。私で宜しければ、すぐにでも朝倉へと発ちましょう。」
 
「おお、行ってくれるか。」
「私はあなたさまの舎人です。大海人皇子様のご命令とあれば、どこへでも。」
 ぐっと強い視線で見つめ返した。


「怖いお人だ…。大海人皇子様は…。」
 その様子をじっと影から見ながらそう囁く男が居た。東風である。
「早速、宿星の目星をお付けなさったか…。」
 そうだ。余善光に「宿星の強き者」の話を聞かされるや、大海人皇子は習いたての五行の占いを行っていた。それを東風は目撃したのである。その占いにはどう出たのか。東風には謀り知ることはできなかったが、凡その見当はついていた。彼もまた、余善光の言葉に促されて、己なりにいくつかの卜占を行ってみたからである。
「早乙女乱馬。」
 彼と思しき宿星が大きく顕に光を放ち始めていた。
 その彼を滅そうというのか、それとも、占い結果が直かどうか見極めるために危険を承知で彼を差し向けたのか。
「いずれにしても、乱馬殿にとっても、正念場になることは間違いないな…。」
 東風はふっと溜息を吐いた。




二、

「えええーっ!!じ、冗談じゃねえやいっ!!」
 千文は乱馬を見て、大きな声で叫んだ。
 
 あれから乱馬は朝倉の地へと赴く準備をするために、自分の館へと戻ったのである。那の大津、北の海を見渡せる場所に立てられた木造の家屋だった。竪穴式住居ではない。白木の建物とはいえ、かなり昔から建っていたのか、潮風でかなりそこここにガタがきている。が、この地に於いては珍しき木の建物である。那の港の船守りか何かが利用していた建物なのだろう。傍には大きな葉桜の木が植わっていた。
 もう花の時期は通り過ぎ、目いっぱい芽吹いた桜葉が青い空によく映えてゆらゆらと揺れていた。

「仕方があるまい。大海人皇子様じきじきに拝命したのだから。」
 乱馬は甲冑をつけながら、千文に言い返していた。

「拝命は良いとしてもよう…。兄貴、体調が悪いんじゃねえのか?大丈夫なのかよう…。そんな熱っぽい身体で重要な任に就けるのかよう。」
 千文はじっと乱馬を見据えた。
「何かと思えば…。そんなことか。大丈夫だよ…。もう熱は下がった。」
 乱馬は甲冑を結わえる紐を結びつけながら言った。
「嘘つけっ!そんな潤んだ目して…。」
「これ、千文っ!止さぬかっ!」
 食って掛かろうとした千文を砺波の爺さんが制した。
「乱馬殿とてわかっていなさるんだ。だが、行かなければならぬのだよ…。千文。」
 そう耳打ちした。
「でもよう、爺さんっ!!」
「それが益荒男(ますらお)というものだ。千文。」
 爺さんはそう言って千文を嗜めた。
「それに、乱馬殿が動きやすいように、務めるのがワシら家人であろうが…。」
 砺波にそう言われては、千文もそれ以上乱馬に突っ込むことが出来なくなってしまった。

 と、その時、表が騒がしくなった。

「何事?」
 他に雇っていた雑仕の者が小走りに乱馬の元へと駆けて来た。
「御客人がお目通りしたいと…。」
「客人?」
 乱馬が首をかしげながら問うと、雑仕が言った。
「小乃東風様と名乗られておりますが。」
「東風殿?」

 慌てて玄関先へ行ってみると、確かに東風がそこへ立っていた。

「やあ、乱馬殿。大海人皇子様のご命令で朝倉へ参られるとお聞きいたしましたので。」
 にこにこと笑いながら東風は語りかけた。
 そして、人懐っこい目はそのままに、東風は続けた。
「これをお持ちください。乱馬殿。」
 そう言って何やら麻布の巾着袋を乱馬に差し出した。
「これは?」
「我が家秘伝の夢見薬です。乱馬殿。」
「夢見薬?」
 聞きなれぬ言葉であった。
「いざというときはこれを火へとくべなされ。熱を加えることによって、よく散布いたします。この香を嗅いだ者はたちどころに夢見心地に入ってしまいます。ちょっとやそっとでは戻らない。」
「夢見心地に?」
「そう、一種の傀儡(かいらい)薬でございますよ。」
「傀儡薬。」
 その言葉に乱馬は一瞬厳しい目を手向けた。

「そんな怖い顔をなさいますな。何も人を操るためにあなたにこの薬を預けるのではありませぬ。」
 東風は笑みを絶やすことなく乱馬へと差し向けた。
「乱馬殿は決してそのような事にはこの薬は使われないだろうと思いましたればこそ、お預けいたすのです。…人を殺(あや)めるために使うのではなく、保身のためにお使いください。きっと何かの役に立つはずです。使わずにおけるのなら、それが一番なのでございまするから。」

「しかし…。」

 躊躇する乱馬に、砺波の爺さんが口を挟んだ。

「乱馬殿、東風殿は五行博士なのでござりましょう?…ならば、きっと何かの卦でこの薬を使わねばならぬことを見越してこうやってお越しくださったのでござりましょうや。ご好意は素直に受けなさるのが良いのではありませぬかな?」
 もっともな年長者の言であった。
 乱馬は砺波の爺さんの進言を受けて。東風からその薬を受け取った。
 それで用事が済んだのであろう。
「乱馬殿。あなたなら、きっとこの窮地、切り拓いていけるでしょう。ご無事をお祈りいたします。」
 東風は乱馬に薬を手渡すと、にっこりと笑って屋敷を辞した。
「あ…。それから馬を飛ばしてまいりましたが、鞍が少し不具合なのです。宜しければ、見ていただきたいのですが。私は武人ではありませぬから、そこのところが明るくなくって…。」
 東風は去り際に思い出したように言葉を返した。
「ならば私が参りましょう。馬の鞍のことくらいなら、乱馬殿の手を煩わせることまでもありますまい。千文。後は頼んだぞ。」
 そう目配せすると、砺波の爺さんは、そそくさと東風に付いて行ってしまった。

 後に残った乱馬は、何か腑に落ちない部分もあったが、東風がわざわざ持ってきた薬を無下に扱うわけにも行かず、結局は腰に結わえて持って行くことにした。

 東風の鞍の具合を見ていた砺波が、出立の準備に追われている乱馬の元へ帰って来るまでに、左程時間がかからなかったようだ。

「東風殿の鞍の紐が擦り切れそうになっていたので新しい物をお付けしておきました。」
 そう言って報告に上がる。
「そうか…。ご苦労だったな。」
 乱馬はすっかり身支度が整った様子で砺波に言い返した。
「爺さん、今回の朝倉行きは危険な任務になる。おまえは…。」
 言葉を継ぎかけた乱馬を砺波は途中で牽制して言った。
「私はここへ残れとおっしゃりたいのでございましょう?」
「ああ…。そうだ。」
 乱馬は鋭い目を爺さんに手向けた。
「嫌です…と申しても、お聞き入れるつもりはございますまいよ。」
 砺波は視線を逸らさずに乱馬を見返した。
「わかっているなら早い。」
 乱馬はにっと笑ってみせる。
「わかりました。仰せのとおり、ここ(磐瀬行宮)へ残りましょう。ただ…。」
 砺波はごそごそと腰辺りを探った。
「これを、この場で飲み干してくださいませ。それが条件です。」
 そう言いながら、一包みの紙を取り出してきた。
「何だ?これは。」
「薬にございますよ。乱馬殿の症状を抑えるのに役立つ筈です。」
 そう言って両手で差し出す。
「先ほど、帰り際に東風殿がさりげに私にお渡しくださったのです。」
 砺波はにっと乱馬を見て笑った。
「東風殿が?」
 怪訝な視線を手向けた乱馬に砺波は強く言った。
「東風殿は医薬の道にも優れた五行の博士とお見受けいたしました。乱馬殿の顔色を見ているだけでピンときたのだそうで…。体調が悪いということをお見抜きでした。悪いことは申しませぬ。これを召し上がって、少しでもその体調を整えてくだされ。でないと、爺は乱馬殿が心配で、心配で…。」
 東風はこっそりと砺波に薬を託すために、呼びたてたようだ。大将の不具合は付き従う武人全体の士気にも関わることだからだろう。砺波も東風の視線から何かを感じ取って進んで彼の鞍を見に行くと行って付いていったようだ。
「しかし…。薬など飲んだことはないぞ…。俺は。」
 乱馬は躊躇しながら返答する。
「何、大丈夫でございますよ。大陸辺りでは病も祈祷だけではなく、薬を使って治すことも多いと聞き及んでおります。
「こんな薬に頼らずとも…。」
「怖いのでございますか?」
 砺波は真っ直ぐに乱馬を見据えた。
「なっ!怖いなどということは…。」
「だったら御託(ごたく)を並べずに、お召しくだされ。熱の上昇と動悸や息切れを少しでも和らげる効果があるそうです…。このままだと朝倉に着く前に倒れてしまうかもしれませぬぞ。」

「わ、わかった。後で飲もう。」
「いえ、今すぐにです。水もここに汲んで来ました。」
「用意周到だな。」
「おほめに預かり嬉しゅうございまする。」

 砺波の爺はどうあっても乱馬に、薬を飲ませたいらしい。
 首根っこを掴んでも飲んでいただきますぞ。
 そんな気迫すら感じられる。

「わかった…。俺も男だ。おまえの言うことに従うから、爺はここへ残れ。いいな。」
「はい。」
 爺さんはにっと笑った。

 乱馬は意を決すると、爺さんが用意した高坏(たかつき)を取った。なみなみと注がれた高坏の水面を暫く見ていたが、一息に薬包を開くと口に含んだ。
 口に広がる薬はざらっとし、苦い味がした。
 一瞬その苦さに顔をしかめたが、そのまま一気に胃袋まで水で流し込む。冷たい水が胃袋へと流れていくのがわかった。苦さがまだ口に残っている。
 酒も相変わらず苦手であったが、薬も苦手だった。いや、生まれて初めて粉薬なるものを口に含んだのだ。

「あんまりうまい物ではないな…。」
 飲み干した後、高坏を砺波に返しながらそう呟いた。



 すっかり陽が高くなったあぜ道を馬でとぼとぼ歩きながら東風は空を眺めた。
 と、陽炎の立つ野原の向こう側で手を振る女性の影を見つけた。赤い頒布が良く似合う髪の毛の長い女性だった。
「霞郎女(かすみいらつめ)。」
 東風はふっと厳しかった表情を緩めた。
「おかえりなさいませ。」
 少しはにかむように女性は東風を見上げた。真っ直ぐな瞳はじっと東風をとらえる。
「いかがでございました?」
 霞郎女と呼ばれた女性は微笑みながら問いかけた。
「ああ…いいあんばいだ。」
「そうですか…。乱馬殿は受け取ってくださったのですね。」
 東風はこくんと頭を垂れた。
「今夜は天気も荒れそうだな…。」
 頬に吹き付ける西風には、微かだが湿った匂いを含んでいる。
「この天気、吉と出るか凶と出るか…。雨や風までも己の味方につけてしまわれる力を持っていたら彼の宿星は本物だ。」
「大丈夫ですよ。彼はいつかあの天に昂然と輝き始めますわ。」
「そうだね…。」
「ええ…。どんな困難も乗り越えていく、強い宿星を宿した青年ですわ。茜郎女が選んだお方ですもの。」
 二人の前を一組の蝶々が舞い上がる。ひらひらと白い羽を広げて精一杯飛び回っている。
「あの娘、茜郎女の妹背になる益荒男だからこそ、死なせるわけにはいかない…な。」
 東風は通り過ぎてゆく蝶々を見詰めながら呟いた。




三、

 乱馬は供の者を数名付き従えて、馬を飛ばした。
 付き従ったのは、いずれも、邇磨(にま)からずっと彼に従っている郎等たちだった。邇磨の海賊から陸(おか)に上がった者もいる。彼と運命を共にすることを選んだ武人たちばかりである。まだ、東国から上がってきて日は浅かったが、だんだんに統率者としての頭角も現し始めていたのだ。
 東風の調合した薬によって、それ以上の熱もだるさも感じなくなっていた。
 愛馬にまたがって筑紫(つくし)平野を駆け抜ける。
 その疾風のような速さには誰も追いつくことはできなかった。

「兄貴…。すげえや。」

 必死についていこうと、手綱を握り締める千文は乱馬の速さに舌をまいた。体重が軽い分、彼の方に操りの分がありそうだったが、とんでもない。
 道なき道、野や丘を駆け抜ける。
 馬を扱うことは筑紫平野で慣れていた。子供の頃から父、雲斎に仕込まれた。筑紫の狩場は彼の遊び場でもあった。だから、大和のどんな武人も彼の早駆けにはかなわなかった。陸は彼の本領だった。
 少しでも早く、朝倉へ着かなければならない。ただ、それ一心に駆け抜ける。
 
 彼の馬もよく駆けた。
 大和へ来てから与えられた馬だったが、良く彼の望みどおりに走った。
 夕刻を迎える頃には、朝倉の地へと到着した。


 乱馬が朝倉の地に足を踏み入れると、そこここから異様な雰囲気が漂っていた。
 建築中の真新しい柱が赤土の上に立ち並び、雑兵や雑夫たちが、おろおろとその周りを取り囲むように座っていた。中央の一際大きな建物になるらしい柱の辺りに、小難しい顔をした役人たちが、途方に暮れるように頭を垂れていた。
 乱馬たちの馬の嘶きを近くに聞きつけると、中から、役人が一人大慌てで出てきた。

「こは、どなた様でござりまするか?」
 役人は仰々しい声で乱馬へととがめだてをする。
 乱馬は馬からたっと降り立つと、手綱を手繰り寄せながら言った。
「私は大海人皇子様の舎人、早乙女造乱馬と申す者です。大急ぎ、大海人皇子さまよりの勅(みことのり)でここまで娜の大津から馳せ参じました。」
 そう言って役人を見た。
「大海人皇子様の舎人…。」
 役人はわかったのかわからなかったのか、良くわからない面持ちで乱馬を出迎える。
「で、何の御用向きでぎざいまするか?」
 当然の如く用件を聞いてきた。
「葛城皇子様は何処に。」
 その問い掛けに、取次ぎの役人は困りきった表情を浮かべた。
「麻底良布(まてらめ)の御社(おやしろ)の方へおいででございまする。」
「急ぎ大海人皇子様からの言を伝えたい。そちらへ参ってもかまわぬだろうか?」
 乱馬はじっと役人を見て問いかけた。
「構いませぬ…と申し上げたいところ、現在はお取り込み中でございますれば、ご遠慮くだされ。」
 歯に衣着せたようなすっきりしない答えが返ってくる。
「取り込み中とは?」
 乱馬は引き下がらないで問い返した。
「実は…。たいそう困った事になっておりまする。」
 困惑しながら役人は言った。
「困った事…。」
「はい。麻底良布山の木を切り出す、切り出させないと、朝倉の民たちと睨みあいが、ずっと続いているのでございまする。葛城皇子様は切り出しを強行なさりたいのですが、日向猛(ひゅうがたける)と申す日向の豪族が、切らせまいと盾になっておりまして…。一髪触発といった感になっておるのでございまする。造宮は遅れますし、かといって、祟りがあるなどと触れまわられては、人足たちも怖がってそれ以上の作業も出来ぬ状態で…。」
 ほとほと困り果てている様子が言葉尻からも伺えた。
「とにかく、大海人皇子様のところまで行きたいのだが…。」
「ならば、どうぞお通りください。皇子様たちはあの背後の山の麓に陣を作っておられまする。その目で確かめてくださりませ。」
 役人は半ば投げやりな口調で乱馬たちを通した。

 そうこうしているうちに、ようやく乱馬から遅れた武人たちが、息を切らせて辿りついて来た。

「遅いぞっ!千文っ!」
 乱馬は千文に言葉を投げつけた。
「兄貴が速過ぎるんだいっ!たくう…。物凄い勢いで先を駆け抜けて行くんだから。ついていくこっちの身にもなってくれよう…。」
 肩で息切らしながら千文が言った。
「たく、砺波の爺さんが来なくて正解だったぜ。来てたら、絶対、途中でおっ死んでたぜっ!」
 
「軽口は良いから付いて来いっ!」
 乱馬は先に立って歩き出した。

「わかったよう…。置いてかないでくれってっ!兄貴っ!!」
 千文ほど雄弁ではなかったが、乱馬についてきた兵士たちは、皆、汗ぐっしょりとかいた身体を大慌てで巡らせて、馬をその辺りへ繋ぎ止めると、乱馬にくっついて歩き出した。
 
 役人が呼んでくれた水先案内人は、乱馬たちを麻底良布山の麓へと連れて行った。
 朝倉の宮を建てている場所から、そう遠くない山裾に、その場があった。
 いくつか積み上げられた切り出されたばかりの木材が、そこここに寝かされて置かれていた。まだ枝葉も切り取られていない、木材の群れだった。木のじめっとした香が鼻先で香る。
 少しなだらかな斜面を上がって行くと、拓けた場所があった。
 そこは木が切り倒された後らしく、まだ生々しい木の根っこが切り口を上に向けて整然と並んでいた。その少し先にじっと山側を睨みすえている団体が居た。彼らは一様に剣を柄に入れたまま握り締め、はっしと一方向へと向けて座り込んでいた。
 その向こう側、彼らの視線の先の小高い斜面にも人影がいくつかあるのが見えた。じっと目を凝らすと、彼らは丁度山側から、こちらを見下ろすように睨み据えていた。

「ずっとあの調子でにらみ合っているのです。」
 乱馬たちを案内してきた男がそう説明してくれた。
「睨み合う?」
「ええ、上に居るのは日向猛とその家来や地元の民たちなのですよ。」
「地元の民が何しにあんなに徒党を組んで。」
「麻底良布山の木をこれ以上、私たちに切らせないためにです。」
 両者、弓や剣を持ったまま、はっしと睨み合っている。
 いつでも切りかかれるような状態とでも言おうか。
 何かきっかけさえ与えれば、すぐにでも暴発しそうな重苦しい空気が流れていた。
 その最中にあって、葛城皇子は黒麻呂と共に、朝廷側の舎人や兵たちの後方に居た。
 乱馬は開口一番、大海人皇子からの書を皇子へと差し出す。
 葛城皇子はそれを見ることなく、乱馬に言った。

「おまえ、あの状況を見てどう思う?」

 乱馬は暫く考えを巡らせて言った。
「あのまま、放置しておけば、興奮したそれぞれの民が衝突し、死人(しびと)が出るのは必至でございましょう。」

「ふん。誰が見てもそう思うだろうな。」
 皇子はそんなことはわかっていると言葉を投げ返した。

「ここは一端お引きにならねば、もっと大そうな事になるやもしれませぬ。高じた人間はともすれば暴走を起すものです。」
「私に指図はするな!」
 不快そうに葛城皇子は、乱馬に言葉を投げつける。
「黒麻呂様はどのような卜占を立てておられますのか?」
 乱馬は目を転じると、後ろに控えて黙っていた背の低い男へ言葉を流した。
「大王様の威厳は確たるもの。産土の神など恐るるに足りず…。」
 黒麻呂は低い声でそう唸った。
「本当にそうでしょうか。」
 乱馬は透き通った視線を手向けた。
 言葉数は少なかったが、乱馬と黒麻呂の間に見えぬ戦線が張り巡らされている。黒麻呂はこの強い光を持つ青年を、一瞬恐れた。己の心の中までをも見通しているような鋭い視線。思わず視線を避けた。

 と、その時だった。
 外が騒がしくなって、舎人の一人が小屋の中へと雪崩れ込んできた。

「た、大変でございますっ!!」

「何事っ!!」
 葛城皇子の側近が唐突に乱入した男を咎めて言った。

「鬼火が、鬼火が現われてございますっ!!」
 舎人は震えながら、地に頭を垂れた。




第二十四話 鬼火 へ続く





霞郎女(かすみのいらつめ)
 言うまでも無く、天道家の長姉、かすみさんです。
 この作品でもやっぱりあかねの姉という設定で書いてます。東風の妹背(妻)でもあります。で、妹思い。
 少し巫女(ふじょ)的な力も蓄えているような気もしますが、まだ、どう物語へ絡ませるか、決めていません。


麻底良布山(まてらめやま)
 朝倉宮の比定地はいくつかあるそうですが、福岡県朝倉市の筑後川沿いというのが定説になっています。
 麻底良布山とは朝倉宮の背後にある山です。古来から神の山としての信仰があったそうです。
 「日本書紀」の斉明記には、朝倉宮造営のためにこの麻底良布山の木を切り出したので、鬼火が出たという記載があります。それをベースとして書かせていただきました。
 「八百万(やおよろず)の神」という言葉があるように、この国は古来、自然や生活空間の中にたくさんの神を見出していました。全ての物に神が宿ると考えられてきました。そのため、山そのものも信仰の対象にもなり得ました。それは、修験道などと結びつき「山岳信仰」を生み出しました。
 同人誌「花魂」の後記にも触れましたが、八百万の神は、葉が枯れないので生命力に溢れ尊いと考えられた常緑樹の高い天辺に、天から降臨すると思われていました。神社の周りに常緑樹の森林空間が広がるのは、この考え方が根底にあると言われています。また、榊(さかき)を神棚に供えるのにも意味があり、神を供えた常緑樹の木に降臨させて守ってもらうと言う考えに基づいています。神社の祈祷時に神主様が玉串を振るのも、その枝先に神を降臨させ、儀式を行うためです。
 このように、神として崇められる聖地の木を切ることは、当然罰当りな行為になり、「鬼火」という話が生まれるのもごく当然のことだったと思われます。