第五部 朝倉編

第二十二話 遷宮



一、

 西暦六百六十一年、斉明女帝治世七年、三月二十五日。
 大和水軍の一行は、娜の大津へ到着した。今の博多港である。
 急ごしらえの磐瀬行宮(いわせのかりみや)へ、皇祖母尊はじめ、皇族や朝廷の要人たちは入った。

「思えば遠くへと来たものだ。」
 乱馬たちはそれぞれ、郷愁の思いに駆られる暇もなく、忙(せわ)しく、新しい土地での生活が、すぐさま始まった。
 ずっと大和で安穏と暮らしてきた、朝廷の人々は、慣れぬ土地での暮らしに、いささか疲れを見せ始めていた。長きにわたる、船上での暮らしは、人々に相当ストレスをも溜め込んだに違いない。どうなるかも知れぬ、大和から遠い西国での暮らし

 そんな中、流行り病がくすぶり始める。衛生状態も栄養も、決して良いとは言いきれぬ時代だ。ある程度、仕方がないことだったかもしれない。
 そこここで、咳やら高熱といった、病の声が聴かれた。
 まだ、夏場には程遠かったので、瘡病みではなかったようだが、それでも、たちどころに症状は人々の間に流布していく。
 強靭な身体を持っていた、大海人皇子さえも、身体に異常をきたしていた。

「たく、情けないものだ。」
 顔を赤らめた大海人皇子が頭からずっぽりと布団をかぶると、床へと横たわっていた。
「海上でのご無理がたたったのでしょう。」
 見舞いに訪れた乱馬が、そう言いながら、苦笑した。
「おぬしも油断はするなよ。若いとて、病は突然に襲い来るものだからな。」
「は、はあ…。」
 今まで病と言う病を体験したことがない乱馬は生返事をした。風邪すらも殆どひいたことがない。
「まあ、病には酒が一番なのだが…。」
 
「駄目でございますよ。皇子様。薬を飲まれている時は、下手に酒を煽られると、かえって症状を悪化させてしまいます。」
 透き通った声がすぐ脇からした。乱馬にも聞き覚えがある声。
 五行博士の東風であった。
「あなたは…。前に一度…」
 乱馬は東風の顔を見ると、そのまま口をつぐんだ。名前など知らなかったが、確かに一度、前に会っている。その時の記憶を思い出そうと、じっと目を見詰めた。
「ああ、覚えておいででしたか。嬉しいですねえ。」
 東風はそう言って人懐っこい笑顔を乱馬に手向けてきた。
「ほお、知り合いか?」 
 二人の様子を見て、大海人皇子が起き上がろうとした。
「ええ…。前に難波宮で一度。」
 乱馬は真正直に答えた。

 そう、可崘の姦計にはまりかけたとき、予め乱馬に匂いにやられないようにと、鼻を一時的に効きづらくする薬を調合してもらったのだ。それを持って闘いに望み、大事には至らなかった。そんな思い出が脳裏に蘇ったのである。つい、数ヶ月前の話である。

「あの折はあなたに助けられました。ありがとうございました。」
 乱馬は歯に衣着せることなく、率直に礼を述べた。
「ああ、あの折のことですか。」
 東風はにっと笑って言った。
「たまたま、卜占をしたところ、大きな暗雲とそれを振り払う強い力を感じましたゆえ。」
「暗雲と強い力か…。」
 大海人皇子の問い掛けに東風は続けた。
「ええ…。影で蠢く唐国の道士らの気配、それは想像以上に強く…。」
「唐国の道士か…。厄介な連中だ。」
 大海人皇子もコクンと頭が揺れた。
「道士?」
 乱馬がぽつんとに含んだ。道士…。確かに邇磨の海で行き会った珊璞は己を「道士」と言っていた。
「道士とは妖しげな術を使う唐国人のことです。」
「妖しげな術?」
「ええ、妖しげな香や薬。動物や人間の死体まで操ると言われている秘術を行う者たちです。」
 東風の目が鋭く輝いた。
「乱馬殿、あなたが難波宮で対峙したのも、唐国の道士です。」

(そうか…。奴らは唐国の道士だったのか…。)
 その問い掛けには黙したまま、乱馬は可崘や珊璞、沐絲のことに思いを巡らせた。

「ほお、あの時皇祖母尊を襲ったのも、唐国の道士だったということか…。そいつを乱馬は蹴散らしたのか。なかなかやるのう…。」
 大海人皇子は感嘆の声をあげた。
「だから、あれは東風殿の助けがあったからこそのこと。」
 そう言いかけた乱馬を東風は制した。
「いえ…。あれを退けたのはあなたの実力ですよ、乱馬殿。あなたには道士たちの術を打ち破れるほどの強い宿星(ほし)の力が在る。いくら、私が手引きしても、あなたの宿星(ほし)が強くなければ、あの危機を乗り越えられたかどうか。」
「宿星の力?」
「ええ、生まれ落ちたときに宿る天星の力です。この先も、あなたの宿星は幾度も危機を乗り越えて、ますます強く光り輝くでしょう。」

「ほう…。東風がそこまで入れ込むのも、また、珍しきことだのう。わっはっは、これはいい。」
 大海人皇子は乱馬を見詰めながら、愉快そうに笑った。
「あなたのその力、存分にこの国のために使いなされ、乱馬殿。」

 東風は買いかぶりすぎではないかと、乱馬は正直に思った。

「でも、道士たちは、このまま黙って引き下がるとも思いませぬ。早ければ、数日のうちにでも、次の企みを皇祖母尊や朝廷へと向けてくる、と私の卜占は告げています。
 乱馬殿、あなたのその、強い宿星で、どうか、奴らの企みから、朝廷を、皇祖母尊をお守りください。」
 東風はじっと乱馬を見据えた。

「東風は心配性だからのう…。だが、こやつの卜占は、残念ながら良く当たるのだ。おそらく、今、このようなことをおまえに申し付けるのも、きっと、良い卦が卜占によって出なかったからであろうしな。」 
 大海人皇子はちらっと東風を見返しながら言った。その辺りはどうなのだと言いたげであった。
「大海人皇子様のお感じになられたとおりでございます。率直に申し上げると、こたびの遷宮の儀は真に不吉の卦を孕んでおりまする、」
「遷宮の儀?」
 勿論、乱馬には初耳の言葉であった。
「兄君はここ、「磐瀬行宮」へ長居するつもりはないらしいのだ。乱馬よ。」
 大海人皇子はそう告げた。
「ここは大和朝廷の機能を全て置くには手狭過ぎるし、何より、大陸の方に近く全面の海は拓けずぎておるのでな。守りが手薄になると兄上は踏んだのであろうよ。さすがだな。東風はそのずっと先を占ったか。」
 こくんと東風の頭が縦に揺れた。
「恐らく、葛城皇子様はここよりも西側へと拠点を変えられるおつもりでしょう。そう遠くはない将来、ここ、磐瀬行宮から葛城皇子様が選定なさった土地へと遷る筈。しかし…。そこには予期せぬ禍もまた待ち受けているという暗示。何度どのように占っても、その懸念は、残念ながら付きまといます。」
「しかし、兄上とて無能ではない。兄上もちゃんと五行博士を召抱えて、卜占を抜かりなくやっておるのだぞ、東風。」
 ちょっと意地悪い言葉を大海人皇子は東風へと手向けて見せた。
 東風は首を横へと振って見せた。
「その五行博士の腹の中に一物が含まれていましたらどうです?」
 東風は表情一つ変えずに、淡々と自説を述べた。
「事実、葛城皇子様の召抱える五行博士は唐国からの帰化人です。」

 乱馬ははっとして東風を見やった。

「全く、東風の黒麻呂嫌いもここまで来るとのう…。わっはっは。」
 ひとしきり笑って、大海人皇子は東風を見返して言った。
 黒麻呂とは葛城皇子に仕えている五行博士の名前だ。

「このことは、ここでだけの言に留めておけ、東風。滅多なことは口外するな。勿論、乱馬もだぞ。」
 声をうんと落として続けた。
「兄上の黒麻呂への信頼は昨日今日のものではない。蘇我一族へ集中していた権力を一気に、ぱっとしなかった場末の皇族の端くれであった兄上が握れたのも、黒麻呂の卜占を重用した結果だということを忘れてはならぬ。」
「ええ、勿論でございます。大海人皇子様。」
 東風はにこにこと笑いながら深く頷いた。
「だからこそ、大海人皇子様と乱馬殿には、奴の危うさを知っておいていただきたかっただけです。……。必ず、大きな禍が近く皇祖母尊様の上へと降り注ぎましょう。それを援けられるのは、あなた方以外には居ない。ゆめゆめ、このことを心のどこかに留め置いておいてくださいませ。…おっと、長居をしてしまいました。そろそろお薬を調合して大海人皇子様に召し上がっていただかなければ。」
 東風はぺこんと頭を下げると、下がっていった。

「たく、しょうがない奴だのう…。東風は。」
 大海人皇子は乱馬を振り返った。
「今のことはおまえの腹の中に留めておけ。しかし、忘れるな。東風がああ言い出したときは、大概、奴の卜占が悪い事を告げているのだよ。」
「は、はあ…。」
 乱馬は気のない返事をした。いまひとつ、東風という五行博士のことが、よく飲み込めていなかったのだ。
「東風はのう…。百済から帰化した一族の出身なのだよ。」
「百済からの…でございまするか?」
「ああ…。奴の一族は長らく百済王族に仕えて来た五行博士だ。それが自ずと何を意味するかわかろう?唐国は新羅と手を組んで百済を滅ぼしにかかった。ゆえに、奴は、唐国人に良い感情は持ってはおらぬ。勿論、我が倭国に帰化した唐国人であってもな。
 だから、我々の想像以上に、兄上の下に侍っている「黒麻呂」という唐人の五行博士のことを疑いの目で見ておるのだろう。己の出生国に災いをもたらした唐人が許せぬのだ。」
「そういうものなのでしょうか…。」
「生まれた国は、どう足掻(あが)いても、その者の故郷、忘れえぬ場所なのだ。おまえとて、生まれ育った常陸の国は忘れえぬ土地であろう?違うか?」

 筑波山の山並みが脳裏へと浮かび上がってくる。そこで育ち、そして茜郎女と出会った。

「その国を踏みにじられることがどのような意味を持つか…。」
「東風殿の生国は百済なのでございますか?」
「ああ…。育ったのは倭国ではあるがな。…。奴の両親は余豊章と共に倭国へと渡ってきてそのまま帰化したのだ。」

 余豊章。百済王一族の王子の一人だ。弟、余善光と共に倭国へと渡って来た。その詳細は不明であるが、一説には、百済から倭国との交友の証として渡って来たとも、大和朝廷の人質だったとも言われている。豊章が倭国へやって来たのは、今より三十年ほど前のことであった。当然、乱馬は生まれていない。
 百済王の一族は、先頃の新羅、唐の侵攻で実質上倒れた。今まさに、百済王氏の血を受けた余豊章をその指導者の中心へと据えるべく、百済本国への帰国を強く乞われていたのである。
 事実、この度の皇祖母尊の西行に余豊章も同行していた。近い将来、余豊章は葛城皇子が差し向ける大和の援軍と共に、百済へと帰還することとなろう。

 いろいろな思惑やしがらみが、乱馬の見知らぬところで朝廷へと絡みついているのだ。

「とにかく…。東風の卜占は良く当たる。それは私も認めるところだ。彼があれだけのことを、ずばずばと言い退けるのだから、あながち無視はできぬ…。乱馬よ、おまえも心しておけ。何事が起こっても己自身を見失わぬように、そう、動揺せぬようにな。」


二、


 確かに、東風が大海人皇子に忠告したことは、現実になろうとしていた。

 ここは朝倉行宮からさほど遠くはない、筑紫国の山中に彼らは潜んでいた。

「何故じゃ?お婆様。何故、オラを珊璞に会わせてくれぬだ?」
 強い青年の声が山間の谷へとこだまする。
 胸倉を掴まれて、老婆は男をつっと後ろへと突き倒した。青年は勢い良く後ろへと尻餅を着いた。
「何するだっ!」
 青年はきっと老婆を睨み返した。
「それはこっちの言い草じゃ、沐絲よっ!」
 老婆はぎょろりと大きな目を男へと差し向けた。
 可崘と沐絲であった。
 さっきから、珊璞を巡っての小競り合いが続いていたが、一端そこで途切れる。

「何故じゃ?珊璞は怪我を負ったのであろう?乱馬とかいう男に切りかかられて。そう伝え訊いたからわざわざここまで来てやったというに!」
 沐絲は未練がましく可崘を見上げる。
「だから、それはおぬしとは関係のないことだとさっきから言っておろうが!それに、おまえは二度も、乱馬に破れておろうがっ!おめおめと珊璞に会わせるわけにはいかぬのじゃっ!!」
 厳しい声であった。
「ぐっ!」
 沐絲はそこを突っ込まれると、言葉に詰まった。
「全く…。二度も敗れるとは、一族の名折れぞ!沐絲!」
 可崘は厳しく沐絲へと視線を流した。
「オラも、それは充分に承知じゃ!じゃが、珊璞はあの男に、乱馬に怪我をさせられたというではないだか。だから様子を見に来たのじゃっ!それのどこが悪いというのじゃ?」
 沐絲はそのまま、へたりと座り込んでしまった。
 珊璞を娶ることをずっと昔から心に誓ってきた沐絲。珊璞はそんな彼を押し退けて、乱馬と言う倭人と契ろうとしているのが耐えられなかった。しかも、その恋敵に怪我を負わせられたというのだ。心騒がぬ筈はない。
「あれは珊璞のしくじりじゃ。おぬしには関係ない。」
 可崘は強く言い切った。
「関係あるだ!」
「ないっ!」
「そんな危険をおかしてまで、契りを結びたい相手なのか?あの乱馬とかいう男はっ!」
 沐絲はじっと可崘を見上げた。
「我が一族に優れた子孫を残すためには、必要なことじゃ。」
「何故、オラでは駄目なのじゃ?同じ一族の血同士の掛け合いの方が良いのではないのだか?」
「新しい血を常に追い求め、少しでも優勢な子を残していく。これもまた、我が一族の女の大切な役割じゃからな…。それも珊璞ほどの強い娘であれは尚更にな。だから、おまえでは駄目なのじゃよ、沐絲。悪いことは言わん。あきらめろ。そして、他の一族の娘と契れ。」
「嫌じゃ!オラは珊璞がいいだっ!」
「話にならぬな。」

 ずっとこの調子で水掛け論が続いている。
 珊璞が乱馬に必死な以上に、沐絲もまた真剣であった。

「おまえは乱馬に勝負をしかけて、二度もしくじっておるのだろう?明らかに奴より劣っておるではないか。」

「それは珊璞とて同じではないだか?おまけに契ろうとして拒絶されたのじゃぞ?なのに、まだ諦めきれぬと言うのか?珊璞は。」
 駄々っ子のように沐絲はじっと可崘を見上げた。
「このままじゃと、子孫を残すどころか、契る前に珊璞は倒れてしまうぞ!おばば。」
 彼の言にも一理はあった。
「それに、まだオラは乱馬に完全に負けたわけではないだ。諦めてないだ。オラも唐国の道士じゃからな。」
 ぐっと握りこぶしを作って地面へと押し当てた。

「ふっ!おまえも強情な奴じゃのう…。」
 可崘はふつっと溜息を吐いて沐絲を見た。それから、トンっと沐絲の前に立った。

「良かろう…。おまえにもう一度、機会を与えてやろうかのう…。」

「本当か?」

 沐絲はがばっと起き上がった。
 目に輝きが灯りだす。

「丁度、唐本国から指示が来たところなのでな…。」
「本国直々だか?」
「ああ…。そろそろ倭国の女帝には退散願いた言ってきた。」
 可崘はふふっと笑った。暗に女帝を殺せと言っている。
「この任務…。おぬしに預けようかと思うがどうじゃ?」
「良いのか?オラで。」
 沐絲は可崘を見返した。
「女帝の前には自ずと、乱馬も立ちふさがろう…。」
「望むところじゃっ!今度こそ、奴をねじり伏せてやるだっ!」
「本当におぬしに任せて大丈夫かのう…。」
 シワだらけの顔に、これみよがしに不安な表情を満たし、沐絲へと手向ける。
「勿論じゃ!絶対に乱馬と女帝を亡き者にしてやるだ!」
「ほーっほっほ。これは頼もしいのう。」
「オババ様、オラが乱馬と女帝を倒した暁には、今度こそ、オラが珊璞を貰い受けるだ。」
「良かろう…。乱馬を倒してしまえば、自ずと、珊璞と契ることは不可能になるからのう。」
 可崘の目が妖しく光った。
「約束だぞ。」
「ああ…。そうなれば、珊璞に子を成すこと、ワシが許してやろう。」

「ふふふ…。見ておれ。珊璞。オラは絶対におまえを嫁にしてみせるだ。」

「詳しいことは葛城皇子の五行博士として宮廷に入り込んでいる黒麻呂が手引きしてくれるじゃろう。そこで方法を探るが良い。良いか、これは本国の指令じゃ。くれぐれも無様な失敗などせぬようにな…。」

「わかっておる。オババ様は高みの見物をしておれっ!」
 そう言うと、意気揚々、沐絲は来た道を引き返していった。

「無論、おぬしに言われなくても、この件に関しては高みの見物じゃ…。悪くは思うなよ、沐絲…。」
 彼の後姿を見送りながら可崘はにっと笑った。


「オババ様…。」
 蔀屋の中から珊璞の声がした。
 乱馬に刺されたかんざしの傷が思ったよりも深手になり、今だ回復しきれずに居たのだ。
 膏薬などないに等しい時代。衛生的にも決して良いとは言えない。下手をすると傷口から膿み、命さえも落とすことがあった。幸い破傷風にはならなかったが、それでもかなり傷口は腫れあがった。
 たくさん腕に巻きつけられた布が、痛々しい。
「沐絲をあんな風に調子付かせて、良いのか?私は沐絲の嫁になどにはなりたくはないぞ!」
 よろっと起き上がった孫娘を労わりながら、可崘は言葉を継いだ。
「何、沐絲のことじゃ。恐らく失敗するじゃろうよ。女帝の命は落とせても、乱馬殿の命までは落とせまいに。」
「だったら、何故、沐絲に任せた?」
 珊璞は荒い息で可崘を見返した。
「これは本国の指令じゃ、誰かが当たらねばならぬ。幾人か道士がこの国に入り込んではおるが、腕の立つものはそうは居らぬ。一番頼りになる、おまえがこのザマじゃから、沐絲に命ずるのも仕方があるまい。」
「だから、オババ様は沐絲に私が怪我したことを、仲間を通じて流布したのか?ここへ呼び寄せ、彼に押し付けるために。」
「ふふふ、まあそう言うことになるかのう…。」
 可崘は目を細めた。
「オババ様も人が悪い。」
 珊璞はやれやれと婆さんを見返した。
「それに、おまえが怪我をしているのは本当のことじゃ。本来なら、おまえが一番い動かねばなるまいことじゃがな。怪我をしていると流布して広めておけば、今回の勅命からは外れることができよう?そうなればしめたもの。この後の姦計もやり易くなるし、まだ準備に今しばらくかかりそうじゃからな。」
「まだ手に入らないのか…。あれは。」
 珊璞が溜息を吐いた。
「そんなに早急に手に入るものではないわ。まあ、傷を癒しながらゆっくりと待っておれ。今、本国から取り寄せておるわ。急いては事を仕損じるやもしれぬでな。」
「でも、あんなふうにたき付けて、乱馬が沐絲に殺されたらどうするね。」
 可崘は声を落として言った。
「なあに、心配は要らぬわ。沐絲は乱馬を倒せる器ではないわ。だが、女帝だけでも沐絲に倒して貰えれば、乱馬は朝廷には居づらくなろう?女帝を守りきれなかったら、舎人としては失格じゃ。そうなれば、乱馬は我らが手に落ちたも同然じゃ。」
「沐絲が女帝を倒せなかったらどうなる?本国への言い訳はできるのか?オババ様。」
「珊璞は心配性じゃな。何、女帝は老齢じゃ。今回、しくじったとしても、もう長くはない…。」
「長くはない?」
「そうじゃ…。手はいくらでも打てるわ…。黒麻呂が葛城皇子に重用されているうちはな…。おまえは、そんなことは気にせず、一日も早く、その傷を治すのじゃ。傷が治らぬと、良い子は産めぬぞ。」
「わかった…。ここの湯でじっくりと傷を癒す。乱馬と再び逢い見える日までに。」
「そうじゃ、珊璞。聞き分けが良いということは、女には必要なことでもあるからなあ…。ふふふ。まずは沐絲のやり口を、見物させてもらうかのう。ほーほっほ。」
 可崘は愉快そうに高く笑った。

 そう、乱馬や大和朝廷を取り巻く情勢は、少しずつ闇に侵され始めていたのである。



三、

「この地が宜しいかと思いまする。」
 葛城皇子の横で、板木を広げながら、黒麻呂が言った。
 ここは行宮の一角にある葛城皇子の居室。
 さっきから、皇子付きの五行博士、黒麻呂が四方八方手を尽くして、彼に言われたことを一つ一つ、丁寧に占っていた。
「ほう…。ここが良いか。」
 葛城皇子は目を細めた。
「ここら辺りは木材も豊富でございますし、何より交通の便も悪くはありますまい。大きな川が流れておりまするからなあ…。」
 黒麻呂が言った。
「ほう、そんなことまで黒麻呂は見通すのか。」
「勿論、私も五行を扱うものでありますれば。」
 黒麻呂はゆっくりと皇子の方へと顔を手向けた。
「ここを上手く切り開けば、飛鳥の宮とも見紛うばかりの立派な御宮が建てられまする。私には見えまする。後飛鳥岡本宮よりも数段も美しい、西の都の姿が。」

「良かろう…。この辺りは候補地として、前からも思っていたところであるからな。何しろ、豊かな平野も拓け、古くから稲作も盛んだしな。木材も豊富なれば言うことはないだろう。早急に、そこに宮を造らせよう。」
 葛城皇子は即決したようだ。
 
 その日のうちに、宮廷の役人を掻き集め、新たな宮造りを高らかに宣言した。


「たく、あんなところへ宮を造営しようというのか?兄上はっ!!」

 その勅命を聞くや、大海人皇子は物凄い形相を乱馬たち舎人へと手向けた。
 乱馬は、予め、遷宮のことは大海人皇子と東風に聞かされていたので左程驚きもなかったが、千文や砺波の爺さんは、大海人皇子の激高した様子に仰天した。

「正気とは思えんっ!!」

 大海人皇子の鼻息は荒い。

「どうしてです?ここ(磐瀬行宮)が手狭ならば遷宮は仕方があるまいと、皆、一様に口にしておりますが…。」
 乱馬は大海人皇子が何故そんなに立腹しているのか見当が付かなかった。

「兄上が遷宮を決めた土地にはな、朝倉の社と背後には麻底良布(まてらめ)というご神山があるんだぞ!」
 大海人皇子が勢い良く吐きつけた。
「麻底良布?」
「ああ、古くからあの辺りの信仰を一身に集めてきた御社と聖域があるんだ。例えば大和の三輪山に匹敵するようなな。」
「三輪山…。」

 飛鳥より少し北へ上がったところに鎮座する三輪山。美しい山形を持つこの山は古代から信仰を集めた聖域であった。三輪山には現在も大神神社(おおみわじんじゃ)が祀られている。ここは山全体が信仰の対象となっている、広い聖域であった。
 この北側に広がる「巻向(まきむく)地区」は箸墓古墳や、行灯山古墳、渋谷山古墳といった巨大古墳も点在しており、大和政権の発生の地とも言い伝えられている。
 だが東国育ちの乱馬には三輪山と言われてもピンとは来なかった。
 そんな彼を見て、大海人皇子が言った。
「そうか…。乱馬は大和育ちではなかったな。…確か。」
「常陸の国の育ちです。」
「それなら、筑波嶺と同じと思えば良かろう。」
「筑波嶺…。」
「それなら、わかろう?おまえたちの生国でも筑波嶺は聖域だったのではないのか?」
「は、はい…。確かに。皆に崇められていた神の山でございました。」
 大海人皇子の激高振りがいまいち理解できなかった乱馬は不思議そうに顔を手向けた。

「そのすぐ麓へ宮を造営すると言うのだぞ!この意味なすことがおまえにはわからぬか?乱馬よ。」

 
 筑後川の流域にあった麻底良布山は朝倉社という古い聖域があった。この山は古来、そのままご神体としてあがめられた聖なる山であったのだ。倭国では山そのものがご神体として崇められるのは、左程珍しいことではなかった。言うなれば山がご神体ということはそこに生える木や生息する動物たちも信仰の対象になっていた。三輪山ならば蛇や狼(狗)と言ったところだろうか。後の世に広まった稲荷信仰などの狐神信仰も山への信仰と深い繋がりがあると言われている。
 それはともかく、この地域の民に信仰深いご神体の山のすぐ脇に宮を造営するというのだ。
 大海人皇子はその尋常ならざることを乱馬に吐きつけていた。

「良く考えてみよ。信仰がある山ということは、地元の民にとっても大切な土地ということになるであろうが!」
「あ…。」
 なるほどと乱馬は皇子を見返した。
「無下にそんな土地へ宮を造るとろくなことにはならぬぞ!この土地が元々我らが一族縁の土地であればいざ知らず。我らはこの辺りの民にとっては所詮、余所者(よそもの)。たとえ同じ言葉を話しておろうとな。」
 大海人皇子は憤慨しきっていた。
「兄君は何を考えておられるのだ。そんなところを宮地へ選ぶとは…。」
 乱馬はただ黙って皇子の言葉を聞いていた。憤慨はしているものの、兄とは言え、大海人皇子が葛城皇子へ変更を詰め寄ることは出来ない様子だった。勿論、彼はその決定を聞く前に猛反対したことは伺えたが、宮廷こぞって退けられたのかもしれない。いや、勅命が下された以上、最早変更は出来ないのだろう。
 ならば、腹に溜めていることを、ここで一気に言うだけしかできなかった。いわば、憂さ晴らしだ。
 造営が決まった以上は、作り上げなければならないことは、大海人皇子が一番承知しているだろう。

「乱馬殿、先ほど、阿倍比羅夫殿がお探しでしたよ。朝倉宮造営の警備に関して、ご相談があると申しておられましたから。」
 東風がひょっこりと顔を出した。

「阿倍比羅夫殿がですか?…わかりました、すぐに伺います。」
 そう言うと頭をぺこんと垂れて、乱馬は大海人皇子の下を去った。
 東風が代わりに入ってきたということは、彼が恐らく、皇子をなだめてくれるだろう。大海人皇子は東風をかなり信頼している。彼なら何とか上手く大海人皇子をなだめてくれるだろう。後は東風に任せよう、そう思って、すぐさま下がった。

 だが、なかなか大海人皇子の怒りは収まりそうではなかった。東風がとりなそうとしても、鼻息は収まるところを知らない。

「たく、兄君は皇祖母尊をどこまで危険に巻き込まれれば気が済むのだっ!!それに、何故あんなところへ宮の造営などっ!!」

「それは勿論、黒麻呂の進言でございましょう。」
 また一つ、後ろから声が聞こえてきた。
「おお、これは余善光殿。」
 百済王族の一人、余豊章の弟、善光がすいっと後ろから現われた。
 東風はすうっと彼の後ろに立った。
 
「気になりまして、私も東風へいろいろと卜占をさせてみたところ、かの地はやはり大きな禍の土地と何度でも結果が出まする。」
 余善光はにっこりと微笑みながら大海人皇子に告げる。
「ならば、余計にやめさせなければならぬではないかっ!…ううむ。やはり納得がいかぬ!もう一度兄君と渡り合って、どうしてでも止めなければ…。」
 大海人皇子が席を立とうとしたのを善光は咎めた。
「いいえ、良いのです、これで!」

「なっ!」

 その言葉は、大海人皇子の行動を遮断させるに余りにも効果的だった。

「善光殿!そなたは、皇祖母尊様に大いなる禍が降りかかっても良いとでも言われるのかっ!!」
 激しい声で叱咤した。百済の客人に、この国がどなっても良いのかと言わんばかりに詰め寄った。
「勿論、危険は承知の上です…。でも、いくら進言したとて、宮の造営が動き出した以上、あの御方は後にはお引きになさりますまい。たとえそれが宮中全部のご意見であろうと。葛城皇子様のそういう性質はあなたさまが一番御存知なのではありませぬか?」
 怒っていた大海人皇子の肩がすとっと落ちた。善光にこのように切りつけられては反論のしようもなかったからだ。
 余善光。謎に包まれたこの人の人生もまた、前に立ちはだかる兄、余豊章という存在があった。豊章と共に倭国へと渡り、今度は潰えた百済王氏のために、兄は祖国へと帰還するのだ。

「これも宿命のなせる業でございまする、大海人皇子殿。」
 静かに善光は言った。
「しかし…。」
「ここだけの言でございますが、様々な占いで見たてたところ、皇祖母尊様はもう長くはありませぬ。」
「な、何を!」
 何を言い出すのだと言わんばかりに厳しい顔が善光へと差し向けられた。
「腫れ物の病を得ておられるのは、大海人皇子様も、とっくにご承知なのではありませぬか?」
「うぬ…。」
 そうなのである。
 斉明女帝は実は病を得ていたのだ。時折腹辺りが酷く痛むという病であった。腫れ物の病、今で言う癌であろう。
「だからこそ、宮の造営を葛城皇子様はお急ぎなのでございましょう。夏暑くなる前に何とか新しい宮へ皇祖母尊をお遷ししたいと思っておいでなのでしょう。」
「あの兄君に限って…。そんな母親思いとは思えぬがな…。」
 大海人皇子は苦笑した。前にも少し言ったが、兄は母を快く思って居ない節がある。ないがしろにされたと思い込んでいる子の恨みみたいなものが、母親に対して露骨に顔に表れることがあるからだ。
「せめて行宮ではなく、仮初にも正式な宮で終焉をお迎えいただきたいと思っておられるのでございましょう。」

「ならば、何故、そのような不吉な土地へ母君を誘おうとする?そなたはやはり、倭国がお嫌いか?」

 大海人皇子は肝心なことを問い質しにかかった。

「いいえ、私はこの国が好きでございます。私は兄と違って、この倭国へ骨を埋め、そして子孫を永劫に伝えていく覚悟。」
「だったら、何故にそのようなことを申される?」
「それが宿世だからでございます。」
 善光は静かに言った。
「人には変えられぬ宿世がございます。皇祖母尊様を縛っている宿世があの土地へ導いているとでも申しましょうか…。」
「解せぬっ!」
「その宿世は、新しい因縁を繋ぐ柱ともなると東風の卜占には出ております。」
「新しい因縁?」
 大海人皇子はますますわからぬという顔を善光へと差し向けた。
「あなた様の周りを輝き始めた大きな宿星(ほし)でございまする。この宿星は強い。この天地を光らせるほどに強く温かい。」
「何が言いたいのだ?善光殿っ。」
 大海人皇子は声を荒げた。

「あなた様はこの宿星の正体を見極めなければなりませぬ…。この輝き、放置すれば、いずれ葛城皇子様だけではなく、大海人皇子様、あなた様にも大きく降り注いできまする。あなた様がこの倭国の帝王にならんとするのであれば、この宿星を見極め、必要ならば落さねばなりますまい。」
 ゆっくりと善光は大海人皇子を見返した。
「私は、あなた様の、大海人皇子様の御即位をこの目で見たいのでございます。」

「滅多なことは申されるな!私の前には葛城皇子(兄君)が居るではないか。皇祖母尊が亡き後は兄君が大王の位を継ぐ。そうではないのか?」

「確かに、次の大王は葛城皇子と東風の卦もそう出てはおります。」
 そらみろ、と言わんばかりに大海人皇子は善光を見返した。
「でも、その後は?葛城皇子が身罷られたあとは?誰がこの倭国を治めまする?」
「兄君の子の誰かが継ぐであろうなあ…。」
「果たしてそうでしょうか…。葛城皇子には跡目を継げる皇子や皇女はおいででしょうか。」
 大海人皇子の目は凛と見開かれた。
「帝王の宿星は大海人皇子様の方が葛城皇子様のどの皇子や皇女よりも強い…。私の卦にはそうはっきりと浮き出ております。そのためにはまず、貴方の障害となるかもしれぬ、新しき大きな輝きの宿星は落さねばならぬでしょう。」

「新しき大きな輝きの宿星か…。それを見極めるためには、たとえ皇祖母尊を、母君を窮地へ追いやってもと、善光殿は言いたいのだな。」
 こくんと善光の頭が縦に揺れた。

「恐らく、新しい宮地で、宿星は輝きを増すでしょう。あなたがいずれ、この国を治めてみたいと思うのであれば、その宿星を見極めなさいませ。…。そのための良い機会になられましょう…。」

「ふん。その地への宮造りを進めているのは兄君でもあるしな…。たとえ、何が起ころうとも、私は傍観していられると言うわけか。」

「是非、そうなさいませ…。」

「良かろう…。その宿星とやらを、見つけてやろう。」

 大海人皇子は宮の造営に関する不満はそれ以降口にすることはなかった。
 他の誰もが無茶だと思った遷宮の話も全て、兄、葛城皇子に異を唱えることもなく。ただひたすらに沈黙を守り続けた。



第二十三話 麻底良布の神へつづく




余善光
 帰化人の一族、百済王氏(くだらのこにきし)の祖。
 その名前の如く、百済王の末裔に当たります。余豊章の弟とされています。
 白村江の戦いのあとも、倭国に居て、持統朝時代に百済王氏という氏名を拝命しました。
 その生涯は謎に包まれています。(良くわかっていないともいいますが。)
 百済王氏は八世紀から九世紀にかけて朝堂において重要な地位を占め、聖武天皇の寵臣であった敬福などの有力者が出ました。(藤原氏とも関わりが深かったとも言われています。)
 後に桓武天皇の母となった「高野新笠(たかののにいがさ)」などもこの氏族の出自です。本作品とは直接関わりませんが、桓武天皇の即位を受け、天武系(大海人皇子)の血筋は天皇本宗家からそれ、再び天智系(葛城皇子・中大兄皇子)の血筋へと返り咲きました。



 創作の方向がやっと定まったので再開であります。
 ストーリーの加筆修正も今のところしなくてもよさそうです(良かった!)
 が、舞台に予定している古代南九州地方の資料がともかく少ない!記紀にも殆ど記載がなく。こうなったら最後の手段…と妄想と想像をフル回転させて乗り切ることにしました。真面目に乱あで古代史を描きたいと思っていたのですが…はや挫折であります。それでも、やっぱり書き上げたいので頑張ります。