第二十一話  熟田津


一、


 西暦六百六十一年、斉明女帝治世、七年三月末。
 乱馬は邇磨を旅立ち、熟田津(にぎたつ)へと到着した。
 ここに、大和朝廷の本隊が抑留していたのである。石湯行宮(いわゆのかりみや)、今の道後温泉付近にて、一向は船出の時をじっと待っていたのだ。
 大船隊での移動はそう易々と勤まる者ではなかった。いわゆる「観光旅行」とは訳が違うのだ。これから朝鮮半島へと「戦(いくさ)」をしに向かうのである。それ相応の人員を集めなければならなかったし、どこに本拠地を置くか、その行宮の場所も決めなければならなかった。
 今でこそ、付近の海賊たちは、乱馬が邇磨の玄馬を押さえ込んだおかげで、心配はなくなったが、それでも、この先は、一向にとっては予期せぬ事態が起こらないとも限らない。
 葛城皇子はそれでも、先遣隊を筑紫国に送って、どの辺りに居を構えたら良いかは、だいたいの見当は付けていた。
 まずは「娜の津」と呼ばれた、現在の博多港付近へと船団を進め、そこから適当な場所へと宮を造営しようと思っていたのだ。

 乱馬が邇磨から朝廷軍の本隊へと合流した時、当然の如く、一向から温かい出迎えを受けた。
 邇磨の玄馬を併合し、この先の海路を容易くした功労者でもある彼に、人々は敬意を持っていたのは言うまでもない。
 その主でもある、大海人皇子は事の外、乱馬の帰還にはご満悦であった。

 船が熟田津へと到達した時、正直乱馬は、その整備された港に目を見張った。船出してきた邇磨とは違い、大船隊も留まることが出来る大きな港に、驚いたのである。難波津とまではいかないにしても、雨風はゆうに凌げたし、海岸線に並ぶ家々もみすぼらしい蔀屋ではなかった。
 さすがに、大王様の抑留される土地柄だけはあると、内心、舌を巻いたほどだ。何において、驚いたのは「石湯行宮」の立派さだったかもしれない。
 古代からわが国には「温泉場」が多い。斉明女帝も湯治は大好きで、有間の湯や紀の湯などへ出かけたことが記録に見えるのである。
 実は、この熟田津へも、一度、訪れたことがあったというから、驚きであった。わざわざ、大和から船でここまで湯治に訪れる。乱馬はその事実を供人から聞かされて目を見張った。

「本当に、立派な建物が並んでおるよ。」

 船上から眺めて、目を細めた。

「折角ですからのう…。筑紫国へ向けて出立するまでの、短い期間だけでも、我々も湯治の恩恵にあずかりましょうや。」
 砺波の爺さんは年寄りらしく、ほっほっほと笑いながら上機嫌で語りかけた。
「食べ物も海の幸が多くて、美味しいらしいぜ。」
 千文も下評判を聞いてきたらしく、爛々と目を輝かせた。
「たく…。爺さんも千文も、そういうことは耳聡いなあ。」
 乱馬は思わず苦笑いを浮かべた。
「折角、瀬戸の海をここまではるばる渡って来たんだから。それくらい楽しんだってかまわねえだろう?」
 千文はそう言って、少年らしい微笑を浮かべた。

 確かに、熟田津は良いとことであった。
 砺波の爺さんが楽しみにしていたとおり、湯の質も良く、ここまでの疲れを一気に癒してくれるような気分になった。
「温泉などに浸るのは、随分久しぶりだからなあ。」
 乱馬は湯に身体を沈めながら、ほっと溜息を漏らしたほどだ。

「そちの国許には湯地は無かったのか?」
 と、湯煙の向こう側から声がした。
「こ、これは、皇子様。」
 乱馬は慌てて立ち上がろうとした。

「いや、そのままで良い。乱馬が戻ったと皆が知らせてくれたからな。わしも湯へとあたりに来た。」
 そう言って大海人皇子は乱馬を見下ろした。
 この時代、勿論、裸で湯へと入ることもあったろうが、高貴な人は衣服を身に付けたまま湯へ身体を浸していた。だが、珍しく、大海人皇子は上体は裸体であった。逞しい筋骨が白い湯煙に見え隠れする。
 武人としても名を馳せたこの大海人皇子は、体格も良かった。そこそこ鍛えているらしい、美しき肉体を持っていた。

「邇磨の件、ご苦労であったな。」
 大海人皇子は直々に乱馬へとねぎらいしたかったようだ。
「海の男たちと殺りあったという傷は癒えたか?」
 そう言ってじっと彼の身体を見詰めた。
「ありがとうございます。おかげさまで、傷は癒えました。」
 邇磨の地で決闘したときに、岩麻呂から受けた傷がうっすらと胸元に浮かんでいたが、生々しさは消えていた。
「そうか…。配下の者に聞き及んだが、なかなか派手な闘いを繰り広げてきたらしいな。おまえは。」
 そう言ってからからと笑った。
 はっきり言って、ここまで乱馬がやり遂せるとは思って居なかった大海人皇子である。命を落とさなかっただけでも奇跡に近いと、大和の人々は噂しあったほどだ。

「おまえは葛城皇子(兄上)との駆け引きに勝ったのだ。乱馬よ。」
 そう言って笑った。

 そうであった。葛城皇子は「捨て駒」として邇磨の玄馬に乱馬を差し向けた。ところが、この駒は、期待以上に働き、邇磨の玄馬を滅ぼすどころか「味方」へと招き入れてしまったではないか。それも、双方とも殆ど、流血をせずにだ。驚異と言わずして何と言おうか。

「本当に大した男だよ、おまえという奴は、乱馬よ。」
「お褒めいただき、光栄でございます。」
 乱馬は謙虚に頭を垂れた。
「本来ならば、ここでゆっくりしていけと言いたいところだが…。情勢はそうも言っては居られぬ。明晩にでも、筑紫国へ向けて、出航したいらしいのだ。兄上は。」
 そう大海人皇子は吐き出した。
「娜の津の受け入れも整ったそうだ。こんなに早くに筑紫まで行けるとは、兄上も思ってはおらなんだろうがな。…。とにかく、皇祖母尊様に気力が残されている間に、なんとしても、筑紫までは行きたいのだろうな、兄上は。」
 そんな言葉を吐きつけた。


 温泉から上がると、海産の珍味がずらりと乱馬を出迎えた。
 せめてもの慰みに、大海人皇子が特別に用意させたもののようだった。
「明日はまた、船上の人にならねばならぬからな…。ゆっくりと地に足を付けておけるのも、今夜限りになるかもしれぬ。」
 そう言って乱馬たち一行にご馳走を振舞ったのである。
 関東育ちの乱馬には、瀬戸内の海産物は少し勝手が違うように見えた。鯛やサワラ、白魚といった魚介は勿論のこと、山で彫った筍なども添えられている。邇磨とはまた違った味覚が彼らの食欲を捉えたのは言うまでもない。
 美味い料理があれば、旨い酒もある。これもまた、条理であった。

 ほんのりと心地良い酔いが乱馬たち一行を温かく包み込む。寒い身を切るような風はとうに消えうせ、季節は晩春。
 酒の好きな大海人皇子は、乱馬たちを前に、上機嫌であったことは言うまでもない。乱馬もまた、久しぶりに主の元へと帰還し、ほっとしていた。

「伊予国へは初めてか?乱馬は。」 
 大海人皇子は杯を持ちながら乱馬へと尋ねた。
「はい、勿論、初めてです。」
 乱馬は答えた。
「そうよのう…。確かそなたは、東国の生まれじゃったな。」
「生まれ育ちは常陸国でございます。」
「どうだ?東の国とここはかなり勝手が違うだろう?」
「勿論…。食べ物も風土も違います。…にしても、立派な湯殿でございますなあ。行宮と言いますから、もっとこじんまりとしたものを想像しておりました。」
 乱馬は正直に言葉を連ねた。
「そうか、もっと陳腐な場所だと思っておったか。」
「いえ、そこまでは…。」
「よい、よい。初めてならば仕方があるまいに。ここはな、皇祖母尊も一度お越しになられた由緒のある温泉だからな。」
「皇祖母尊様がですか?」
 乱馬は驚きを隠せなかった。
 皇祖母尊が以前にも来た事があるということは、わざわざ大和から船を連ねて何日もかけてここまで下向してきたということに他ならないからだ。どこへでも気軽に行ける今の御世とは勝手が違う古代。高貴な人が御幸するだけでも、大変だったことは容易に伺える。
「ここは、皇祖母尊にとって、思い出の土地でもあるのだよ。乱馬。」
「思い出の土地?」
「ああ、皇祖母尊は、この地へ夫であった大王と共に御幸されたのだ。」

 皇祖母尊の夫、それは舒明(じょめい)天皇である。田村皇子と呼ばれていた彼は、当時、権勢を誇っていた蘇我本宗家当主、蘇我蝦夷の後押しを受け、推古女帝が崩御した後に皇位へと就いた。

「夫の大王様とこの地へわざわざ赴いたのでございますか。」
 今で言えば、夫婦旅行だったのである。その言葉に乱馬は、感嘆した。わざわざ、この地へ湯治に出かけてくるほど、仲睦まじい夫婦だったのだと素直に思ったからだ。

「そう、だから、この石湯行宮はその頃のお二人の思い出深い土地なのだよ、乱馬。」
 語り聞かせるように大海人皇子は言った。

「ふん、それはどうかな。大海人皇子よ。」
 背後から投げやりな声がした。
 乱馬が振り返ってみると、そこには葛城皇子が立っていた。どうやら、大海人皇子と乱馬の会話を聞いていたらしい。顔が赤らんでいるところをみると、いささか酒に酔いしれているようだった。漏れてくる吐息からも酒の匂いが立ち込めている。
「皇祖母尊は、母君は父帝とここを尋ねたことなど、とうに忘れ去っておるわっ!」
 珍しく、葛城皇子は酒に乱れていたようだ。
 吐き捨てるように言い切った。
「兄上。」
 大海人皇子が何を言いだすかと、驚いて兄の葛城皇子を振り返った。
「大海人よ、おまえも知っておろう。母君の想いは父帝の上になど、全く無かったことをなっ!」

「葛城皇子様。少し、お言葉が過ぎますぞ。」
 大慌てで入って来たのは、中臣鎌足であった。葛城皇子の忠臣として、常に彼に付き従っている、大和朝廷の内大臣だ。
 だが、葛城皇子は一向に言葉の矛先を納めようとはしなかった。それどころか、酒の勢いからか、饒舌になっていく。

「何を言う、鎌足殿とて、その辺りのことは良く知って居る筈ではなかったのかのう。」
「兄上…。」
 大海人皇子も止めに入ろうとしが、そんな彼らのことを見るにつけ、面白がるように葛城皇子は言葉を重ねた。

「皇祖母尊は父帝のことなど、これっぽっちも愛してはおらなんだわ。だから、父帝がここへ連れて来たことなど、とうに記憶の外へと追いやっておられるわ。そう、母君の女としての想いは四十数年、ある一点へしか注がれてはおらぬのよ。父帝がいくら母君を慕っておっても、それは変わらなんだのよ。はっはっは、何と愉快なことではないか。」

 葛城皇子はそれだけを高らかに吐きつけると、千鳥足で宴を抜けて行ってしまった。
「葛城皇子様。」
 彼に寄り添うようにくっついて、中臣鎌足も足早に立ち去って行った。


二、


 宵が進むうちに、辺りはすっかり「無礼講」のような雰囲気になっており、人々の輪も崩れていた。だから、今の葛城皇子の失言ともとれる言葉は、辺りに居た、乱馬と大海人皇子と中臣鎌足とほんの少しだけの者たちにしか聞こえなかったようだった。
 酒の勢いからか、この夜の葛城皇子は今までとは違った一面が見えたような気がした。いや、本来の姿が露呈したのかもしれない。

「かなり、酒量が入っておられたご様子ですが…。大丈夫でしょうか…葛城皇子様は。」
 乱馬は葛城皇子の姿が見えなくなると、そう言って溜息を吐いた。酒は時には人を全く別の人格へと変えてしまう。そう、思わずにはいられなかった。
 彼の言葉を後に受けて、大海人皇子がぽつぽつと乱馬に語り始めた。

「兄上がそう申されるのもわかるような気がする…。」
 何故だか寂しげな表情が大海人皇子の顔にも浮かび上がった。
「大海人皇子様?」
 乱馬ははっとして皇子を見上げた。
「兄上のおっしゃったことは、多分、本当のことだろうな…。母は父帝を心から愛しては居なかった。それは隠しとおせぬ事実だ。」
 乱馬にはこの兄弟が何を言わんとしているのか、皆目検討がつかなかった。きょとんとした目を大海人皇子に差し向けたほどだ。そんな乱馬の素朴な疑問に答えるように、大海人皇子は静かに語り始めた。
「皇祖母尊は、母君は父帝の元に入内する前に、一度、他の男と契りを結んでいたんだよ。」
 勿論、大和朝廷の云々など全く知らない乱馬には、初めて聞く話であった。
「母君は父帝が始めての男ではなかったのだ。その前に、高向王という末席の皇族を夫として、幸せな生活をしていたのだよ。」
「高向王?ですか?」
 勿論、そんな名前も初めて耳にした。
「おまえは、大和の出自ではないから、皇族方の名前など殆ど知らぬのであろうがな。高向王…生きておられれば、母君とそう年も変わらぬな。おまえも名前くらいは知っておろう、聖徳太子と謳われたあの「厩戸皇子」の父でもあった用明帝の孫にあたる、いわば、皇族の末端だ。それぞれ相思相愛で、それは似合いの妹背だったそうだ。」
 乱馬は黙って大海人皇子の話を聞き始めた。
「ならば、何故、母君は父、舒明帝の正妃となったのかと不思議に思うかもしれぬが…。添い遂げられなかったのだ。高向王は早世されたのだよ。舒明帝が大王に立たれる少し前にな。」
 大海人皇子は持っていた杯を一気に飲み干した。そして、杯をトンと床に置くと、また続けた。
「高向王は聡明で強く、武に優れた大和の益荒男だったそうだ。だが、ある時突然、病に倒れられ、そのまま身罷られてしまったそうだ。まだ二十五にも満たないうちにな。」
 それから声を一段落として乱馬へと話した。
「表向きは突然の病と言われてはいるが…。どうやら、その病には父、舒明帝が手を引いていたとも、噂されておるのだがな。それがどういう意味かわかるか?」
「さあ…。わたしにはとんと…。」
 乱馬はわざととぼけて見せた。それがどういう意味か聞かれたら、一つしか答えはないだろう。だが、敢えてそれは口にはしなかった。舒明帝は乱馬の主君、大海人皇子の父親でもあったからだ。

「父帝は母君を手に入れたかったのだ。何としてもな。」
「……。」 
 乱馬はその言葉にただ口をつぐんだ。
「父帝はずっと母君を恋い慕っていたそうだ。今でこそ、その美貌は老いと変わってしまったが、母君は当時、聡明で美しき乙女だったらしい。勿論、それだけではない。血統的にも母君は申し分がなかった。敏達帝の孫にあたったからな。宝皇女。母上は、容姿も血統も、名前の如く光り輝く宝物のような女であったらしい。我々、大王の一族は、同じ血の流れを持つ者を正妃とし、そして正しい血の道を伝えていく。それが、言わば宿縁のようなものだ。特に蘇我本宗家に担ぎ出されて大王の位に昇った父帝にとって、正妃は大王家の流れを汲む者でなければならない。そう思われたのだろう。母君を愛していた父帝は、帝位と共に正妃として、手に入れようと思われたのも、また必定だったのだろうよ。そして…。高向王は早世し、母は舒明帝の正妃としておさまったのだ。本来在るべき場所にな。」
 何と言う政争。正妃一人を娶るために行われた陰謀。
 乱馬は複雑な思いでその話に耳を傾けていた。
「蘇我蝦夷の力で大王の座と母君を手に入れた父帝ではあったが、手に入れられなかった物があるとしたら、それは…。母君の心だよ。」
「でも、皇祖母尊様には葛城皇子様や、大海人皇子様、間人皇女様がお生まれになっているではありませぬか。」
 乱馬はたまらなくなって言葉を吐いた。
「確かに…。父帝との間には三人の子を儲けてはおるがな。だが、母君は我ら三兄弟のことなど、眼中にはないのだよ、乱馬。」

 尤も、古代大王家において、皇子皇女の養育は、もっぱら、それぞれ預けられた豪族が行うのが常である。同じ腹とは言え、必ず母親によって育てられるとも限らない。事実、養育に関わった豪族の名前を通称としている皇子や皇女も数多居た。葛城皇子は葛城氏、大海人皇子は大海連がそれぞれ養育に関わっていたとされている。

「まさか、皇祖母尊に限ってそのような…。」

「ふふ、まだまだ蒼いな乱馬は。その分だと、女と遊びで交わったことがないのだろう…。まだ、恋に恋しているそんな一途な青年なのだな。おまえは…。」
 大海人皇子は乱馬の反応を見て笑った。
「それとも、よほど、愛し合った父母に産み育てられてと見えるな。妾など取らぬ父と母との手にて育てられたのかのう…。」

 義父、雲斎は妾は取らなかった。結局、自分の子ではない乱馬をその妻、銀英と共に育て上げたのだ。

「皇祖母尊の想いは、高向王の上にあるのだ。それは終生、変わらないだろう。自分の腹を痛めて生んだとしても、愛した者との間に成した子でなければ、愛情は注げぬのだよ。それが証拠に、どこか距離を置いておられるのだ。兄上にも姉上にも、そしてこの私にも…な。」

 それは寂しい言葉だと思わずにはいられなかった。そんな親子があってよいものなのだろうか。生さぬ仲の親子であった、己の方が恵まれているとでも言うのだろうか。

「ふふふ…。皇祖母尊にとって真の子は、高向王との間に生まれた、漢皇子ただ一人なのだよ。乱馬。」
「漢皇子?」
 それもまた初めて耳にする名前であった。
「高向王との間に生まれた皇子だ。生きておれば四十中頃といったところかのう…。」
「生きていれば…。」
 これまた、曖昧な言葉だった。
「若かりし頃、母君の愛に飢えていた兄上が、政界から遠ざけたのだよ…。ずるい手を使ってな。」
 大海人皇子はそう言うと、再び杯へ酒を入れながら飲み干した。
「もうかれこれ二十年前になるかな…。私はまだ年端も行かぬ少年だったから詳しい話は知らぬが…。兄上が鎌足辺りと結託して、漢皇子を陥れたともっぱら言われておるな。……いや、案外、母君の愛情を手に出来なかった父帝の陰謀だったかもしれぬな。」
「漢皇子は失脚なさったのですか?」
 乱馬は恐る恐る聞いてみた。
「ああ、陥れられた。漢皇子の情愛を利用してな…。兄上は漢皇子が愛していた蘇我一門の娘を、その父、蝦夷をそそのかして父帝に妃として差し出させたのよ。漢皇子の一途な性質を利用しようとしてな…。まんまと漢皇子はその計略に乗り、蘇我の娘と密通してしまったのだ。父君の手が付く前にな。…それを咎められて、漢皇子は身分を剥奪、蘇我の娘はたった一度の密通にもかかわらず子を身篭り、生まれでた男の赤子は遠国へと流された…。恐らくもう生きてはおるまいがな…。それを聞いた漢皇子は大和から忽然と姿を消してしまったそうだ…。最早、どちらも生きてはおらぬだろう。」

 聞けば聞くほど切ない話であった。溜まらず胸の奥がぎゅっと締め付けられるようになった乱馬であった。
 だが、彼は知らなかったのだ。漢皇子こそ、邇磨の玄馬であり、そして流された赤子こそ、己自身であるという、衝撃的な事実を。

「……。皇祖母尊は黙して何も語りはしないが、行方知れずの漢皇子とその御子への思いは今も途切れはしていないらしい…。口が利けぬまま育った建皇子へ特別の愛情を注いだのも、物言えぬ皇子に何も言えぬ己を投影させた表れではないかと、人々は噂しあったものだよ。その建皇子も亡くなって久しいがな…。」
 建皇子とは、大海人皇子の妃、大田皇女と鵜野讃良皇女(持統天皇)の同母弟である。口が利けず、夭逝した皇子であるが、その不憫さゆえか、斉明女帝は傍に置いて、たいそう可愛がったと記録は告げている。

 乱馬にとって、熟田津の酒宴の夜は、忘れ得ない日となった。
 常陸国から出てきたばかりの彼にとっては、中央の政争など、まだ「他人事」であった。本当は己がその渦中に居たなどと、夢にも思わなかったのである。

 血の引き合わせた運命なのだろうか。それとも、神は何か他のことをこの男にさせようとしているのだろうか。

 夜が更けて、大海人皇子が乱馬の横を離れて行ってしまってから、一人の武人が乱馬の元にふと立ち止まって杯を傾けた。

「乱馬殿。」
「阿倍比羅夫殿。」
 それは、東国を征服した大和の武人、阿部比羅夫であった。
 阿部比羅夫は、じっと二人から程遠くない場所から、杯を傾けながら、じっと話を聞いていたのである。
 
「此度の烈賞、大海人皇子殿もたいそう喜ばれておるようですなあ。」
 そう言って乱馬へと杯を手向けた。やはり、酒は苦手ではあったが、先輩の武人でもある阿部比羅夫の杯を断るわけにもいかず、乱馬は少しずつ口に含んだ。
「大海人皇子がこんなに饒舌になったことは久々かもしれませぬな…。それだけ、乱馬殿を信頼なさっておいでなのでしょうな。」
 乱馬はその言葉を聴きながら、何とか注がれた酒を飲み干した。
「だが…。乱馬殿。」
 飲み干した乱馬に阿倍比羅夫はにっこりと微笑みかけた。だが、口元は決して笑ってはいない。
「比羅夫殿?」
 乱馬はその様子に、思わず問い返していた。
「今の話、お忘れなされ…。聞かなかったことになさいませ。」
 比羅夫の口は、そう凛然と告げていた。
 はっとして見上げた乱馬に、間髪居れず彼は言った。

「それが、あなたのためです。乱馬殿。」

 念を押すようにそれだけを言い置くと、比羅夫は立ち上がった。そして、別の武人のところへとまた酒を持って流れていったのである。

 一体全体、阿倍比羅夫が何故にそんなことを言い置いたのか。その時の乱馬には理解はできなかった。
 だが、何故かずしりと、心の奥底へと、比羅夫のその言葉は沈み込んで行った。忘れ得ぬ言葉として、重みを持ったまま。



三、

 翌日は晴れ渡った穏やかな一日であった。
 美酒に酔いしれ深酒した人々は、遅い朝を迎えたが、その一方で、裏方とも呼ぶべく、下働き雑仕の人々は、朝からバタバタと動き回っていた。
 それは、今夜船出するという勅命が出ていたからだ。
 乱馬たちも無事合流し、筑紫国の受け入れ施設も何とか体裁が整ったので、一気に船を巡らせて娜の津へ入ることになったのだ。
 いよいよ新しき世界へと向かう。緊張感が、人々の上をみなぎっていた。
 儀式が政の中心にあり、その形式を重んじた時代にあって、出航の儀もまた、荘厳な演出がかもし出された。
 裏で葛城皇子がその動作一般を指示していたのも、頷ける話であった。

 昨夜の乱れなど、どこに行ってしまったのか。
 酒の抜けきった葛城皇子は、普段どおり、黙々と自分に与えられた才を振るっていた。
「たく、兄上は出航の一部始終に至るまでも、緻密に計算しておられるわ。」
 大海人皇子が影で乱馬たちにそう吐きつけたほどであった。
 戦船が海に荘厳に浮かび、それぞれ持ち場に乗船した。
 乱馬は主である大海人皇子と共に先頭に近いその中でも大きな船に千文や砺波の爺さんたちと共に乗り込む。連れて来た邇磨の海賊も何人かが漕ぎ手として乗り残りは別に船団を組み、乱馬たちの船に曳航する形になる。
「乱馬の連れて来た邇磨の海賊たちは、さすがに慣れているだけあって、船の操りは上手そうだな。」
 この先の内海には海賊たちがうようよと散在していたが、玄馬のおかげで、気にせず通行できるようになったのである。

 とっぷりと陽は落ちて、闇が支配する夜になる。
 かがり火が船や陸に焚きこめられ、厳かな雰囲気へと誘われる。松明の炎は、橙に燃えながら辺りの闇を昂然と照らす。
 夜を照らし光を解き放つ者こそ、この世の支配者。夜の闇にまだ畏敬を居た居ていた人々は、燃え盛る炎に、八百万の神の降臨を願った。
 やがて、月が満天に輝き始めると、皇祖母尊と葛城皇子が乗船している一際大きな軍船に、幾重にも松明が灯された。他の船と比べて格別多い炎の明り。食い入るように、船団の人々は、その船の甲板を見詰めていた。
 と、中から白い装束を身にまとった、一人の女性が忽然と現われた。辺りの船からは、おお、という歓声が上がった。
 女性は長い髪をくくらずに後ろに垂らし、額から鉢巻のように後ろにくくった白い布切れに、耳の両側から玉串を刺していた。肩には朱色の頒布(ひれ)が風に煽られて、後ろに靡く。夜の闇に白い装束は良く栄え、神々しさをかもし出していた。
 
「あれは…。額田王様。」
 乱馬は呟いた。
「額田か…。」
 大海人皇子も溜息と共にその名を吐き出した。

 そう、中央の皇祖母尊の乗船している船の甲板に出でましたのは、額田王であった。年の頃は既に三十路へと差し掛かっているのに、一向に衰えない豊満で美しい体をしていた。その艶かしさに、思わず、猛々しい海の男たちは、固唾を飲んで見守っていた。
 群集の雄叫びは静まり返った。歓声を上げていた者も、じっと、次の動きを待つように、皆、船上の額田王へと視線を吸い寄せられる。

 と、額田王は、徐(おもむろ)に頭に飾っていた玉串を抜き取ると、両手に掲げるように恭しく天上へと差し上げた。彼女の頭上で数箇所焚かれた松明は、その姿を美しく浮き上がらせる。
 彼女は何かを口にしながら、熱心に祝詞(のりと)を唱え始めた。
 最初は静かに、穏やかに始まった祝詞。だが、だんだんに、その声もそれに伴う体の動きも大きくなり始める。
 一心不乱に祈りを捧げる彼女。
 天上に昇りきった月が、さめざめと彼女へと、真っ白な光を投げかけた。最初は静かに持つだけだった玉串も、彼女の祝詞の声が大きくなるのに比例して、両側へと動き始めた。自分の真正面、ヘソの辺りを頂点に、だんだんと振り子を描くように、左右への動きが大きく、そして、激しくなり始める。
 人々は一言も発せずに、ただ、じっと額田王の様子を見入っていた。
 額田王の動きと声が激しくなるにつれて、彼女はだんだんに、高揚しはじめているのが、手に取るようにわかった。
 そう、彼女は神懸(かみがか)り始めたのである。一種の興奮状態に陥ったのであろう。わなわなと両肩は震え、身体は前後にも揺れ始める。
 やがて、彼女は、大きく身体を揺さぶると、正面に差し込める月に向かって、玉串をすっと差し出した。
 そして、大きな声で歌を詠い始めた。

「熟田津に 船乗りせむと 月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな。」(熟田津を出航しようと、月を待っていたが、月も出た、潮も丁度良くなった、さあ、今こそ漕ぎ出そうよ。)

 凛と透き通る大きな声であった。
 離れていた乱馬たちのところまでも、聞こえてくるほどの、声量だ。
 神の巫女としての美しい額田王の御姿。その神々しき輝きに、戦場の人々は息を飲んだ。声が聞こえない船も、彼女の姿に気圧されていた。心に染み入る声であった。また、目に焼きつく舞いであった。
 それほどに悠然と、額田王は餞(はなむけ)を詠ってのけたのである。


「さすがに、美しき巫女姫様じゃ。額田王様は。」
 そう、砺波の爺さんが乱馬へと耳打ちした。
「巫女姫?」
「おお、そうよ。額田王様は斉明女帝に特別に請われて、その宮廷へとお入りになられた姫ですからな。…大海人皇子様の後宮をお出になられて…。」
 舳先に立ちながら、額田王をじっと眺める大海人皇子の横顔が、乱馬から真っ直ぐに見えた。砺波と乱馬の会話は聞こえないだろう。

「額田王様は大海人皇子様の妃だったというのか?」

 思わず、爺さんの言葉に反応していた。初めて耳にした事柄だったからだ。

「ほっほっほ…。乱馬殿は御存知なかったか。額田王様は大海人皇子様の妃じゃった。それも、最初のな…。誰もが知っていることですがのう…。宮廷へ仕える者であれば。」
「そうか…。そうだったのか。」
 大和へ来て、大海人皇子の舎人となりたての頃、皇祖母尊を守るために女装したが、その折、手引きしてくれた、額田王と大海人皇子の慣れ親しんだ様子を思い出しながら、乱馬は言った。
「皇女さまもお一人お生まれになっておりますよ。ほれ、あちらの女人舟に。」
 促されて隣りの綺麗な船を見た。そこには、皇族方の妃や子供たちが乗船していた。甲板へと出港式の様子を見に、絢爛豪華な衣装を身にまとった皇女や皇子たちが夜風に吹かれていた。
「あの十歳くらいの可憐な皇女様が大海人皇子と額田王の一粒種、十市(とおいち)皇女様でございますよ。」
 砺波は詳しく教えてくれた。どこからそのような情報や知識を手に入れて来るのか。とかく、この年寄りは物知りであった。
「乱馬は横の船から視線を逸らせると、再び大海人皇子の横顔を眺めた。一瞬、大海人皇子が額田王へ流した目が、柔らかに見えた。はっとして、目を見張る。優しげな瞳はどこか憂いに帯びているような気もした。
 中央の船で舞っている額田王の視線も、時々こちらへ向いているような気もした。
「運命というものは時に、過酷な仕打ちをしなさる…。方やは斎事に優れた巫女の能力を持った美しき才女。方やは皇太子弟。誰もが羨む男女であればこそ、別の道を歩まねばならぬこともあるのでございましょうて…。」
 砺波は誰に語りかけるでもなく、そう、空へと呟いた。

(そうか…このお二人には、我々には理解し難い「溝」が横たわっているが、それでもなお、惹き合っているのか…。)
 
 砺波の言わんとしたことが、わかった乱馬は、ふっと天上の月を見上げた。満月ではなかったが、それでも、人々を導かんと、青白く輝いている。海面はその白き光をゆらゆらと反射させてゆらめいていた。静かな波が船を柔らかに揺らせる。
 やがて、舳先へと額田王は静かに進み、持っていた玉串を海へと投げ入れた。
 玉串は飲み込まれるように海中の闇へと消えていった。
 と、音も無く、額田王の乗っていた船は、滑るように走り出した。その時を図って待っていたかのようにだ。
 感動覚めやらぬ厳かな雰囲気の中、一斉に大和の水軍が後を進み始める。

「もう後戻りはできない。」

 乱馬はそっと、胸の袂で、あかねに貰った蒼い勾玉を握り締めた。

 西暦六百六十一年、三月、斉明女帝治世七年の晩春の月夜の出立であった。




 第四部 完







斉明女帝の父と母
父は敏達天皇の孫、押坂彦人大兄皇子の子、茅渟王(ちぬのおおきみ)。母は欽明天皇の孫、櫻井皇子の子、吉備姫大王(きびつひめのおおきみ)。いずれも大王から流れる血族です。


額田王の出航の歌について
 万葉集巻一、第八に収録された有名な歌です。
 この歌には斉明女帝謹製という説も残っていて、作者がどちらなのか詳らかではありません。
 また、額田王に関する資料は「日本書紀」に簡単な記述があるだけで、その生涯にも諸説あります。
 通説で言われているのは「鏡王」の娘で、大海人皇子と契り、十市(とおいち)皇女(大友皇子妃)を儲けたことのみです。大海人皇子と天智天皇(葛城皇子)の二人に求愛され、大海人と結ばれた後、天智帝の後宮に入りました。
 また、万葉集には「あかねさす 紫野行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る」と「紫草の にほえる妹を 憎くあらば 人妻ゆえに われ恋ひめやも」という大海人皇子との有名なやり取りの歌が残されています。これにも諸説があります。ぱっと読んだ感じでは「不倫の歌」のようにも見えますが、この歌は「薬猟(くすりがり)」という五月五日の宮廷行事のときに詠まれた遊び歌だったので、昔の関係を逆手に取った茶目っ気溢れた二人のやり取りとも言われています。
 大海人皇子から天智帝の後宮へ入るその間に、この作品で書いているように、斉明女帝の高級官僚として巫女的な働きをしていたとも一般には言われています。有名なこの歌も、熟田津から娜の津へ向けて、いざ出発する時に斉明女帝になりかわって詠まれたのではないかと言われています。
 中国には「美人」と呼ばれる、女性の高級官僚があり、宮廷の一切を仕切っていたそうでが、額田王は丁度その「美人」的な役職をこなしていたという説があります。いずれにしても、残された歌から、宮廷きっての才媛であったことは間違いがないでしょう。
 イメージを膨らませたい方は、古代日本の世界を描いた歴史小説の手本のような名作、井上靖氏の「額田王」を是非一読してみてくださいませ。



熟田津出航
 「日本書紀」には「三月二十五日、娜の津の磐瀬行宮に入る」という簡単な記述があるのみです。熟田津をいつ出航したのかに関してはわかっていません。従っていくつかの学説が存在します。
 月は満月ではなかったという説も勿論あります。一月二十二日か二十三日の深夜というのが有力とも言われています。
 ただ、船なら熟田津から娜の津までそんなに所用日数はかからなかっただろうというので、作中にあるように、熟田津へ長らく抑留し、体裁を整えてから出航というように記述してみました。また、斉明女帝が舒明帝と道後温泉に来たことがあるという記述は「日本書紀」には記載がなく、「伊予国風土記逸文」によっています。





第五部はかなり物語が動く予定ではあるんですが…。
あかねサイドよりも、やっぱり乱馬サイドになるかなあ。
年表作ったほうがええかなあ・・・やっぱり。