第二十話 激流


一、

 九能の若君は、靡郎女と結ばれて以後、折に触れて、彼女のところへ通い始めた。
 
 その彼を複雑な目で追っている、二つの瞳があった。
 茜郎女である。
 元々、この弟媛を手篭めにせんと、忍んできた若を、自分のほうへと靡かせてしまった、姉媛。その大胆さはさることながら、あかねにはどうしても、姉の心が掴みきれないで居た。

「人にはそれぞれ、恋の価値ってものがあるのよ。」
 姉媛は悪戯っぽい瞳をあかねに手向けてくるが、それでも、何故、どうしてという疑問は消えなかった。

「茜郎女…。靡郎女はご自身でお考えがあって、無理を承知で九能の若と契りを結ばれたのよ。」
 斎媛がそっと耳元で囁いた。
「最後に決めるのは本人の固い意志。それは靡郎女だけではなく、九能の若の意志も…ね。彼が納得していなければ、足繁くここへ通うことはないわ。私の占いで、良い方向へ向かうと指し示したとおり、この成婚は天道氏にも良い方向へ働くでしょう。」

 事実、あの後、帰宅した早雲は、九能の若の出現にいささか驚いたようであった。が、彼がずっと欲していた茜郎女ではなく、靡郎女に執心している様を見て、小首を傾げながらも承諾した。
 勿論、天道氏と縁者になりたがっていた「九能氏の本宗家」も二つ返事で、この度の婚儀を喜んだという。九能の若が大事な徴兵の話し合いをすっぽかしたことなど、不問にされたほどだ。その喜び方が、相当なものであったことが伺える。

 何はともあれ、茜郎女にとっては、一つの区切りがそこでついたように思えた。
 日増しに美しさに妖艶さが加わっていく姉。
 彼女を傍で見詰めながら、姉のためにも、この婚儀は良かったのだろうと、思えるようになっていた。
 確実に姉は九能の君の心を捉えたようだ。


 だが、茜郎女の心は晴れはしなかった。

 早雲が、九能氏の館から難しい話を抱えて戻ってきたからだ。

「乱馬殿の消息がわかったぞ。」
 早雲は九能の若が帰宅すると、あかねを呼び寄せて告げたのだ。
「乱馬殿の消息が…。」
 それを聴くのが怖くもあり、でも、是が非にも聴きたいと思うのが女心であった。
「斎媛殿も並んで聴かれるが良い。乱馬殿、どうされていると思う?素晴らしい早さで、朝廷内で名を挙げられておられるぞ。さすがに茜郎女が見初めた男だけはある。」
 そう言って嬉しそうに笑った。
「何でも、皇祖母尊(すめみおやのみこと)様をお守りして、姓(かばね)までいただいたそうだからのう…。」
 
「姓…。」

 あかねははっとして早雲を見上げた。

「ああ、姓だ。彼はもう「響氏」の者ではない。自分で独立した姓を持ったそうだ。その名を「早乙女乱馬」とな。」

「早乙女乱馬…。」

 まだ、交通網も未発達で、紙も高級品であったこの時代、文を通わせるということは無かったと言って良い。だから、あかねには口伝(くでん)とは言え、乱馬の消息は待ちに待った事であった。

「ああ、都から来た役人によると、難波宮で皇祖母尊様が刺客に襲われかけたとき、女官に紛れて潜んでおられた乱馬殿が身を挺してお守りしたのだそうだ。その活躍や、素晴らしき働きだったそうだ。…その褒美に、葛城皇子様自らが「早乙女」という名を拝命したらしいぞ。」
 早雲は聴いてきた話を、あかねに聴かせた。
「それだけではない。何でも、瀬戸内の海では、海賊相手に渡り合ったそうだ。」
「海賊。」
 早雲の語るのは、あかねには想像だにできないような事ばかりである。
 父は熱くなりながら、乱馬の話を娘に語って聞かせた。

「乱馬殿は単身、海賊の本拠地へ乗り込み、己の命を張って、大和朝廷へと海賊たちを従順させたのだぞ。乱馬殿のおかげで、海賊を気にせずに瀬戸内を行き来できるようになったそうだ。」
 
 瀬戸内の海も海賊も、あかねには遠い絵空事。
 聞かされた乱馬の武勇伝よりも、常に危険と背中合わせの彼の安否が、気になった。

 

「大丈夫よ。茜郎女。あの子には神のご加護が付いているわ。信じて待っていれば、きっと、戻って来ますとも。」
 斎媛は、そんなあかねの心情がわかったのだろう。
 傍で聞いていた斎媛が、そう耳打ちしてくれた。
 この母とて、息子の安否が気にかかるはず。

(女にはただ、待つことしか出来ないのだろか。)

 多分、あかねの中には、常にそんな疑問があったに違いない。
 元来の勝気さは、その時代の娘の中でも群を抜いていただろう。幼い頃から父、早雲の手ほどきにより、乗馬もこなせたし、弓矢も引けた。武人の家系と誉れが高かった天道家にあって、何故、女として生を受けたのか、父の早雲も少なからず残念がったという逸話も残っている。
 年頃になり、昔ほどの「お転婆」は形を潜めてはいたが、それでも、たまに「勝気さ」は顔を覗かせる。
 乱馬と出逢った「かがひ」おいてもそうだった。
 彼に真っ向から勝負を挑み負けた。彼に負けたとき、初めて、男と女の力の差を思い知らされた。彼に負けたことで、己の中の「女」が目覚めたと言っても過言ではない。


 父がもたらしたのは、乱馬の消息だけではなかった。
 難しい話も持って帰っていたようだ。 
 茜郎女に乱馬の消息を告げた後、斎媛を残し、長い間話し込んでいたことからも、事の難しさと重要さが伺えた。そこから先は、氏の代表者としての父とその斎媛の領分と、あかね自身はわきまえていたので、それ以上深くは立ち入らなかった。

「父上も大変よね。」
 と、或る日の朝、九能の若が帰った後、顔をあわせた靡郎女が、茜郎女にそう吐き出した。
「大変?」
 唐突にそう話しかけられて、あかねはきょとんと姉君と見返した。
「ほら、あかねは…。肝心なところで状況の判断が抜けてしまうんだから。」
 姉は苦笑しながらあかねを見返した。
 九能の若が寝物語に、何かを姉の耳にでも入れたのだろうか。
「お父様、もしかすると、大和へお帰りになるつもりかもしれないわよ。」
 そう吐き出した。
「大和へ…。」
 半年前の彼女なら、大和へ帰るということに喜びを感じたろうが、彼女を取り巻く情勢がいろいろと変化した現在(いま)となっては、いささか複雑な言葉であった。
「ええ…。朝廷は今、少しでも優秀な逸材を求めているというのですもの。父君は元々は大和の武人。その手腕は、これから戦を始める大和朝廷にとって眠らせておくには勿体無い宝でもあるからね。」
「でも、父はもう…。」
「太刀は鞘に納めたと言いたいんでしょう?でも、…周りをとりまく状況が、楽観ではなくなった今は、そうも言ってはいられないのよ。」
 なびきは達観した口調で言った。
「大和朝廷は、父に帰れとでも言って寄越したの?」
 あかねはなびきを見返した。
「暗にそう言いたいんでしょうね。でも、まだ、父君にはこの地でやり遂げねばならないことがあるから、早急に帰れということでもなさそうだけれど。」
「随分、曖昧な話なのね。」
 あかねは溜息を吐いた。
「駆け引きなんてそんなものよ…。」
「で、九能の若はどうなさるの?中央(やまと)へ出るつもりはないのかしら?」
「今のところないわね。彼にその意志があったとしても、彼の父君が許さないわね。今のところは。」
「命が惜しいってわけ…。」
「ふふふ、まあ、そうとも取れるわね。」
「九能の若は大和へ、西国へ行きたがっていないの?」
「時期尚早だと思ってるんじゃないかしら。彼の氏族はこの地の大豪族だから、それはそれでここらを安定して治めるという任務も残っているからね。その嫡男ともなれば、すぐに中央へってことにもいかないんじゃないかしらね。元々彼も大和で育ったようではあるんだけど。」
 確かに、九能の若はあかねに求愛した時に「大和に居たことがある。」そんなことを言っていた。
 茜郎女の周りでは、誰もが大和へ、西国へと意識が向かっている。乱馬の出世の話を聴いた若者たちは、こぞって西国へという意識に萌え始めている。朝廷の巧みな情報操作にはまったような、そんな気味の悪さも伺える。

「で、姉上はどうなの?大和へ帰りたい?」
 あかねは姉をじっと見上げた。
 中央(やまと)で育った姫にとって、常陸の国は蛮国。本当なら青垣連なる大和へ戻りたいのではないか、あかねはそう思っていた。
「まあ、戻りたくないと言ったら嘘になるけれど…。」
 靡郎女は遠くを見るような目を西の方向へと差し向けた。
「あなたはどうなの?茜郎女。少しでも乱馬様の近くに行きたい?」
 悪戯な瞳が問いかけてきた。
「言わずもがな、よ。」
 当たり前でしょうと言わんばかりにあかねは言葉を投げつけた。
「ならば、一つだけ、茜郎女が乱馬様の間近に行ける手立てがあるわ。」
 靡郎女はそう言うとふっと微笑んだ。





二、

「ならぬっ!」
 早雲は茜郎女を見詰めると、激しく言い捨てた。
 その声は母屋から離れたところにあった、斎媛の在所まで届いたほどである。何事かあらんと、驚いて斎媛が駆けつけたほどであった。

「何故です?父上っ!」
 茜郎女は早速、靡郎女に入れ知恵されたことを父に願い出たのである。

「茜郎女、早雲殿、どうかされましたか?」
 斎媛が二人の剣幕が尋常ではないことを嗅ぎ付けて、穏やかにそう問いかけた。
 回廊を暖かな風が吹き抜けていく。季節はそろそろ晩春を告げている。あれほど満開を誇った梅も桜も、すっかり緑色の葉を、茂らせて青空へと突き上げている。山つつじの鮮やかな桃色が目に映える。そんな季節へと向かっていた。

「斎媛様。これは声を荒げすぎましたかな。」
 早雲は大人気なく激高してしまったことを恥じるように言った。
「何、茜郎女がいきなり理に敵わぬことを言いだしたものですから。」
 そう言ってすり抜けようとした。

「いいえ、理にかなったことを私は申し上げているのです。父上。」
 茜郎女はまだ引き下がらないといった強い瞳で父親を見返す。
「駄目だ。いくらおまえが言っても、私は許すつもりはない。」
 早雲はあかねを睨み付けた。
「許す許さない…と、何か取り入ったお話でも。宜しければお話くださいませ。」
 斎媛は二人の顔を見比べながら口を挟んだ。
「斎媛様、私はただ、朝廷へ出仕すると父上に申し上げていただけです。」
 あかねは言った。
「朝廷へ出仕ですか?」
 目を丸くする斎媛に早雲は言葉を重ねた。
「だから、駄目だと言っているのです。」
「いいえ、父君。朝廷から一族から年頃の乙女を差し出せと言われて来たのでしょう?ならば、私しか居ないではありませぬか。」
 あかねは引き下がるつもりはないのか、そう言って畳み掛ける。
「朝廷から乙女を差し出せと…。もしや「采女」でしょうか。」
 斎媛はそう言って早雲を見上げた。
 己も「采女」として、舒明帝へと出仕したことを思い出していた。父の蘇我蝦夷の申し出により、有無も無く朝廷へと差し出された記憶が、斎媛の脳裏に浮かんだ。

「いいえ、采女ではなく巫女になり得る乙女を差し出せといわれた筈です。」
 あかねはそう言ってきびすを返した。
「巫女…。」
「ええ、戦船(いくさぶね)に同行する巫女です。」
 あかねは答えた。

 この時代、巫女は重要な役目を担っていた。戦に出る時、指揮官の船には巫女が同船し、率先して軍船を闘いへと導いたと言われている。中には神神懸(かみがか)りして一行の行く末を占った能力の高い巫女もいたという。
 特に有名なのは記紀神話の中に出てくる、仲哀(ちゅうあい)妃、神功皇后(じんぐうこうごう)こと息長帯比売(おきながたらしひめ)だろう。彼女は夫の熊襲(くまそ)平定へ従っただけではなく、夫の死後、神憑りしながら船団を率いて新羅まで出征したという、伝説上の后妃だ。
 それはさておき、此度の百済救済の進軍にも、是非に巫女が欲しいと、有力な豪族たちにその候補になる未婚女性を差し出せと、大和朝廷は拝命して回っているようだった。
 靡郎女はその話を茜郎女に持ちかけたのである。
 天道氏は大和朝廷に忠誠を誓った一族でもあった。九能氏が縁を結びたがった程の一族だ。早雲の家系は本宗家ではなく、末流ではあったが、それでも、名だる軍門の家系として、重要な位置にとらえられていたのである。たとえ、常陸国の国司として下向しても、その位置は変わらない。大和朝廷の役人は、東国から兵士を収集するついでに、早雲にも巫女になり得る婦女子が居れば差し出せと言って来たのである。

「ならぬ!第一、おまえは乱馬殿と契りを結んだのではないのか?巫女は元来、八百万(やおよろず)の神の嫁だぞ。」
 早雲は厳しくあかねに問いつけた。
「確かに妻問いの約は結んではいますが、まだ契ってはおりませぬ。私はまだ乙女です。」
 あかねはきっと早雲を睨み挙げた。
「しかし、妻問いの約を結んだのならば、最早、乱馬殿に降嫁したとも同じではないか。」
 早雲は負けじと言い返す。
 それに対してあかねは勢い込んで畳み掛ける。
「私を行かせてくださいませ!」
 
 あかねの真摯な眼差しは、父親の早雲を捕らえる。睨み合う状態で回廊で向き合っていた。

 とその時だった。
 館の雑仕女がバタバタと回廊を通り抜けて早雲の下へと駆けつけてきた。

「早雲様。」
 雑仕女は早雲を見つけると、声を荒げた。
「後にいたせっ!今は取り込み中だ!」
 雑仕女が茜郎女との激しい応酬の最中に割り入って来たので、つい、そんな言葉が前に出た。
「でも…。」
「後にいたせと申しておる!!」
 雑仕女は持ってきた用事を話す前に、突っぱねられたので、何か言いたげに言葉を継ごうとしたが、早雲はにべも無く突っぱねた。
 どうしようかとおろおろする雑仕女のことなど、視界に入らない様子で、早雲と茜郎女親子は激しく続きをやりあった。

「とにかく、茜郎女。そなたを差し出す気は私にはない。」
「何故です?この戦が終わらねば、乱馬様も私の元へは帰って来ませぬ。ならば、私が巫女になるべく出向いても一向に構わぬではありませぬか。天道氏から一人出せと言われているなら、姉上は最早、九能氏に嫁いだも同然。残された女子は私一人しか居ないでは在りませぬか。この度の拝命を背けば、大和朝廷へ忠誠を誓った我が一族の名折れ。父上は大和朝廷への恩義を忘れたのですか?」
「そうまでは申して居らぬ。巫女に関しては、どうにかなる。」
「どうなるのでございます?父上の子は私と姉媛二人きり。靡姉上は九能の若へ降嫁したばかり。霞姉上は既に五行博士の家、小乃氏へと嫁がれておいでです。暗に私を差し出せと朝廷は言って来たのでありましょう?」
「この際、どこかの豪族の若姫を養女として迎え、都へ差し送ればよいのだ。おまえが心配することではない。」
「天道氏の血を受けていない婦女子を差し出すつもりでございますか?そんな馬鹿なことを。」
「馬鹿ではないわ。」
「いいえ、馬鹿でございます。大和朝廷の期待を父上は踏みにじるつもりでございますか?私が行けばすむこと。私はどんな環境ですら、少しでも乱馬殿の傍に居たいのです。待つだけの女では居たくはありませぬ。」

 畳み掛けるあかねに、だんだんと気圧されていくのを、早雲は感じていた。我が娘ながら、なんと強い意志を持ち合わせているのだろうか。この娘が女であることを、これほどまでに惜しいと思ったことはなかった。
 だが、譲るわけには行かない。
 早雲も頑固になっていた。父親としての顔がむき出しになるのだ。
「大和朝廷は戦いに赴かれるのだぞ。遊びに行くのではない。第一、道中はどうするのだ?女子一人では危険過ぎる!」
「何とでもなりますわ。」

 解決の糸口も見つからぬまま、ただ、激しくやりあう父と娘。
 と、後ろ側で大きな人影が近づいて来た。

「ふふ、面白い。さすがに乱馬が選んだだけのことはある女性だ。茜郎女殿は。」

 聴きなれぬ声にはっとして父娘はその、男の方へと視線を巡らせた。

「そ、そなたは。」
 早雲は記憶を巡らせた。どこかで会ったことがある顔だと認めたのだ。
「響雲牙の嫡子、響良牙です。お久しぶりです、早雲殿。その節はどうも。」
 そう言って人懐っこい目を手向け、八重歯を出してにっと笑った。
「響殿の嫡男…。と申すと…。」
「前邑長、響雲斎殿の危急の折は、ここまで馬を飛ばして乱馬を迎えに参った者です。覚えておいでではありませぬか?」
 良牙はそう自己紹介した。
「おお…。あの時の御仁か。」
 そう吐き出した父とともに、あかねもはっとして見上げた。確かに、雲斎が倒れたということを告げに来た青年だ。特徴のある八重歯に見覚えがあった。

「先ほどからそこの雑仕女に取り次いで貰うべく、ずっと門先にて待っておりましたが、なかなか戻ってお見えでないので、勝手にここまで上がらせていただきました。」
 良牙はそう言ってぺこりと頭を下げた。

「雑仕女…。そう言えば…。」
 さっき、後にしろと命令された、雑仕女がおろおろとそこに立っていた。
「そうか…。おまえは良牙殿を案内したくてここまで来たのか…。それはすまぬことをした。」
 早雲は苦笑いを雑仕女に返した。

「そんなつもりは無かったのでござりまするが、茜郎女殿とのやり取り、思わず聞かせていただいた。」
 良牙はにっと笑った。
「おお、これは、お見苦しいところを見せてしまったわ、わっはっは。」
 早雲は笑って誤魔化そうとした。
 だが、良牙はそんな早雲に向き直って言った。
「茜郎女殿が乱馬の近くへ行きたいと思うのもわかる気がいたします。それに、大和朝廷への義をも果たさなければならぬならば、思い切ってお許しなされませ。早雲殿。」
「な…。」
 唐突な良牙の言葉に早雲は目を見張った。
「物の道理が、わかっておいでですね。良牙殿は。」
 逆にあかねはにっこりと微笑んだ。
「とは申しても、良牙殿。女一人で西国まで送り出すとは…。」
 明らかに早雲は狼狽していた。急に何を言い出すのかと言いたげだ。
「そんなにご心配ならば、茜郎女殿のご同行を、この響良牙が居たそうと思いますが、いかがなものでしょう。」
 良牙は一歩、前に進み出て言った。
「良牙殿…。」
 早雲は固まったまま、良牙を見返した。
「茜郎女殿は乱馬の妻となられる方。乱馬は我が盟友にして兄弟も同然に育ちました。ならば、茜郎女殿は私にとっても大事なお方。その方が此度の危急にお答えされると申しておいでなら、その役に立ちたいと思うのが自然の理。どうか、そうなさいませ。早雲殿。」
 早雲は腕組みして考え始めた。
「この度の大和朝廷の勅命はかなり厳しいものだと聞き及びました。我が響氏も私の妹背の里、雲竜氏も、邑長の嫡男がそれぞれ西へ行くことになりました。」
「雲竜殿のところもですかな?」
 早雲ははっとして良牙を見返した。
「ええ、雲竜氏からは私の義兄、雲竜勝麻呂が出ます。」
「何と…。」
 早雲はそこで絶句する。良牙も響氏の代表として行くつもりなのだろう。おそらく、そのことを告げに、ここまで来たのだと、想像できた。
「それぞれの豪族、氏族から、嫡子嫡男が出るときいております。または、男を出せない氏族は斎媛として媛を出したり、家の宝を出すのだと。…。先ほどから伺うに、早雲殿のところ、天道氏もそれなりの労役または財を差し出せと、九能氏のところに駐留している大和朝廷の使者に強く言われているのではありませぬか?」
 良牙の言葉は当たっていた。
 男の子の居ない天道氏にあって、ならば、斎巫女を差し出すか家財を出せと迫られてきたのであった。それが大和朝廷に仕える氏族の務めだと言わんばかりに。

「父上…。やはり、私が西へと参ります。」

 茜郎女は静かに言った。
 その決意は容易には揺るがない。そんな強い意志が彼女のきりっと結ばれた口と目の輝きからうかがい知ることが出来た。

「九能氏に直々に申し上げて、私が茜郎女殿を西国へとお連れいたします。」
「しかし…。茜郎女は…。」
「大丈夫です。此度の戦には大和朝廷の皇子、皇女なども、ご一緒に戦船に乗られて、大王様と行動をともになされているというではありませぬか。中には身重の皇女方もおられると聞いております。幼き皇子や皇女もおられると。それだけ真剣な遠征なのでございましょう。」
 良牙はゆるりと言い含めるように早雲に語りかけた。
「私も天道氏の血を受けし娘。それなりの覚悟は出来ております。」
 激しい情熱をたぎらせながらあかねは早雲を見詰めた。
「父上。ご決断を。」

 早雲は長い溜息をその場に吐き出した。

「行くなと言ったところで、おまえは、矢のように飛び出して行くのであろう…。わかった…。そこまで意志が固いのなら、天道氏に与えられた大儀を果たして来い、茜郎女。」
 早雲は荒げていた言葉を納め、透き通るような声で娘へと言葉をかけた。
 それを聞いて、みるみるあかねの顔が輝き始める。
「ありがとうございます。父上。きっと、私、立派に勤めを果たして参ります。」
「ああ、乱馬殿によろしくな。…。良牙殿、向こう見ずな娘を、どうかよろしく送り届けてくださいませ。」

「お任せください。きっと、ご無事に茜郎女殿をお送りいたします。」
 

 こうして、茜郎女の西国行きが決まったのであった。


三、



「早雲様。」
 斎媛は早雲へと声をかけた。
「良く、ご決意なされましたね。」
 一人佇む早雲へと言葉をかけた。

「仕方があるまい。茜郎女は男勝りなところがある娘。私が駄目だと言ったところで、ここを飛び出して行ってしまうような娘だからな。」
 そう言って自嘲気味に笑った。

「それで良いのですよ、懸命なご選択でしたわ。」
 斎媛が静かに言いはなった。
「斎媛まで、何と言うことを申される。」
早雲は苦笑いしながら斎媛を見返した。

「実は私の占いに、この度の卦はもう出ていたのです。恐らく、乱馬殿が西へと参られた時から…。いえ…。乱馬という若き獅子に茜郎女様が出会われた時から…。」
 斎媛は早雲へと視線を手向けた。
「運命の邂逅…か。」
「或いは、大和朝廷が乱馬を、あの子を私や漢皇子の元から引き離した頃から決まっていたのかもしれません。乱馬と茜郎女は出会うべくして出会った純粋な魂なのかもしれませぬ。」
「そうですな…。人間には不思議な宿縁がありますからな。引き離せども引き合う運命はあるもの。それぞれ張り巡らせた運命の糸は、誰にも切れぬものなのかもしれませんな…。」
 早雲は寂しげに笑った。娘と乱馬が出会ったことで天道氏の運命もまた、大きく動き始めたようだ。流れは最初は小さく、そしてだんだんと運命の激流へと飲み込まれて行く。そんな気がしたのだ。

「あの子たちは、どこへと流されて行くのだろうか…。」

 早雲は腕を後ろに組みながら、庭先から遠景を眺めた。そう遠くない場所に筑波嶺が見渡せた。神々しき神の山だ。雄嶺と雌嶺が寄り添うように聳え立っている。

「それをただ、見守るだけの人生もあるのかもしれませぬわ…。」

 静かに笑いながら、斎媛はそう象った。
 実の子供とわかっていながらも、名乗れない母。一抹の寂しさを感じつつも、長い間消息がわからなかった我が子をようやく見つけ出せただけでもありがたいと思っていた。名乗りたいと思う心はあれども、名乗ったところで乱馬がそれを受け入れるか否かはわからない。彼には生みの母という意識すらないかもしれない。また、どろどろした大和朝廷の政争の中へ彼を突き落としてしまうことも危惧される。
 それは母の望みではなかった。
 乱馬には伸びやかに生きて欲しい。そう、切に願った。
 

「斎媛様と乱馬殿が親子として見える日が来るのであろうか。」
 早雲の問い掛けに、斎媛は静かに言った。
「後は、神のみぞ知るところですわ。私は、見守るだけの母親でも良いと思っております。それ以上は望みません。」
 そう言って浮かべた微笑は、どこか寂しげな感じが漂っていた。
「響の若者、良牙殿はきっと、茜郎女を乱馬のところへと、導いてくださるでしょう…。」
「そうだな…。流れ始めた激流は、最早、誰にも止めることは出来ないのかもしれないな。」
 早雲も、自分に言い聞かせるように呟いた。






 それから間もなくして、茜郎女は良牙に伴われて、遠国、大和方面へと旅立って行った。

「茜郎女。…。乱馬様と出会ったら、今度こそ離れないでずっと傍に居なさいよ。」
 靡郎女は名残惜しそうに言った。
「それから、姉媛、霞郎女によろしくね。」
「そうね…。姉上もいらっしゃるかもしれないものね。」
 あかねはにっこりと微笑むと、なびきを振り返った。
 彼女の胸元には、赤い勾玉が美しく揺らめいていた。





第二十一話 熟田津 へつづく





 第四部を終わったつもりでいた、一之瀬をお許しください。まだ全話アップしていなかった事に最近気が付いたオオバカです。
 創作は第六部の途中で頓挫しております。
 今年は正月特番のドラマにV6岡田君主役(結構好きなんです…彼の実家は私の実家のある大阪郊外市ですし、地元民としても応援しとります。)の「大化の改新」があったので、また書きたいなあと資料だけは集め始めました。
 「東雲の鬼」を書いてから、古代情熱がまたフツフツと湧いてはいますが、なかなか先に進まず。
 腰をすえて創作する決心をしたので、ゆっくりとお付き合いください。
 次の第二十一話が第四部最終話になります。