第二話  邂逅


一、




 一組の男と女が出逢うとき。
 そこには何か不思議な力が働くものなのかもしれない。
 それを運命と簡単に言い切るには安直過ぎる。


 乱馬は月明かりに浮かび上がった女を見て、何かしら赤い血潮が沸き立つ感覚を覚えていた。
 女を見て美しいと思ったのは、初めてだった。
 眠っていた何かが己の中で目覚めた。そんな感動にも似た気持ちに捕らわれた。


 だが、対する女はそんな彼を、きっと鋭い目で貫き通していた。


「何故手を出したの。私は助けなど頼んでは居なかったわっ!」


 それは、鼻持ちならぬ女の言葉だった。


「へっ!あのままじゃやばかったんじゃねえのか?」
 乱馬はじっと女を見据えた。
 鋭い眼光。野性の満ち溢れた瞳の輝きだった。
「馬鹿にしないでっ!あのくらい、かわせない私だとでも思ったの?」
 女は負けじと言い返してくる。
 こいつの気の強さは相当なものだと、乱馬は内心舌を巻いた。
「おまえ面白い奴だな…。名を何と言う?俺は響(ひびき)の邑長、雲斎の息子、乱馬だ。」
 乱馬は堂々と郡と名を名乗った。


 それを聞いて女は言った。


「あなた、馬鹿じゃないの?自分から名前を名乗るなんて…。」
 と。
「自分から名乗って何が悪い?」
 ぎらぎらとたぎらせた目を差し向けて乱馬は言い返した。
「身も知らぬ者に名前を易々と名乗るなんて、よほどの馬鹿か自信家ってものよ。」
「そういうものか?」
 乱馬はにやっと笑って見せた。


 この時代、同じ共同体に暮らす者以外に名前を名乗ることは殆どなかった。何故なら名前はその人間の霊魂や身体と不可分であったからだ。名前を知られれば「呪術」をかけることが容易く、自分の霊魂や命を危険に晒すものと認識されていたのだ。
 また、同時に、問われた男に大切な名前を告げることは、暗に身も心も男に委ねるということを意味していたのだ。そう、一種の結婚の承諾にも相通じた。


「私は名乗らないわ。」
 女ははっしと睨み返した。
 そう答えたのも、何不思議なことではなかった。あんたなんかに心は許さない。そう言いたかったのだろう。
 乱馬は更に続けた。
「何故だ?助けてやっったのに。」
 勿論、彼とて、古代の慣習を知らぬものではなかった。
「だから、助けなんか最初から要らないって言ったでしょう?こんな奴、私一人で十分倒せたわっ!」
 吐き出す女に乱馬はにやりと笑った。
「おまえはこいつの強襲をかわせたとでも言うのか?」
「かわせたわっ!こんな奴。」
 叩き付けるように答えが返って来た。
「本当、男は皆、乱暴で高慢なんだから。」
 彼女は畳み掛けるように言い放った。
 二人の上を、得体の知れぬ緊張感が漂う。そのままはっしと睨み合った。
「おもしれえっ!」
 乱馬は目を見開いて、女を見た。
「ならば俺をかわすことができるか?」
 そう言って挑発したのである。
「勿論よっ!」
 女は自身ありげに言った。
 あからさまにあげつらわれると試してみたくなるものだ。
「なら、かわしてみろっ!」
 乱馬はそう言うなり身構えた。
 いつでも来いと言わんばかりに。
「望むところよっ!」
 女もすっと身構えた。
「もし俺が勝ったら、おめえの名前を聞かせろよ…。」
「いいわ、その代わりあたしがかわせたら、今後あたしの周りには近寄らないで頂戴ねっ!!」
 売り言葉に買い言葉。知らぬうちに女は乱馬のペースにはまっていた。


(こいつ…できる。)


 乱馬の目が光った。
 武においては、どんな人間にも負けないという自負が乱馬にみなぎっている。身構えただけで、女の腕がはっきりとわかった。
 彼女の構えにはまるで隙がない。
 普通の女なら武道など嗜もう筈もないが、彼女は相当鍛えこんである。背負った気からも容易にそれは推察できた。
 できるゆえの自信が高慢な態度を取らせているのかもしれない。こういう煽動的な態度はかえって男をたぎらせていくものだ。


「確かに、おめえなら、この男くれえの奴は簡単にかわせるかもしれねえな…。だが…。」


 すいっと乱馬は足を滑らせた。


「俺をなめてもらっちゃ困るんだよっ!」


 電光石火、乱馬は女目掛けて飛び込んだ。


 女の絹衣がはらりと揺れた。頬を掠める柔らかな感触。
 だが、女は一撃で捕らえんと、しなやかな身体からは想像だにできない鋭い拳を、不用意に近寄った男目掛けて繰り出した。


 しゅっ!


 空を切る音が響き渡る。


 乱馬はそれを難なく避けた。
 女もその動きを逃さなかったようで、すぐさま体制を整えて今度は艶やかな衣装の下から脚をすくい上げ蹴りを繰り出した。


「なっ?」


 だが、そこに当然在ると思った筈の男の身体は無かった。
 女の足が届くより一瞬早く、乱馬は身をかわしていたのだ。そして彼女の背後に回り、その利き腕である右腕をねじり上げた。
 それでも抵抗しようと振りかざそうとした左手はわしっと彼の右手に掴まれて、背後にあった古木へとそのまま押し付けられた。
 背中を古木へ押し付けられ、右手も左手も封じられては動けない。
 乱馬は得たりと言わんばかりに、女の顔を正面から見据えた。
 だが、彼女はまだ抵抗を試みる。手は封じられていても脚は健在よと言いたげに。身をくゆらせて正面から蹴りを入れようと脚を引いた。
 その瞬間だった。
 乱馬はもう一歩前へと身を乗り出し、ぐっと女を己にひきつけると、いきなり唇を奪ったのだ。


「え?」


 突然の接吻に、女は我を失った。
 勿論、異性と口付けを交わすのはこれが初めてだった。
 全身の力が抜けていくのが分かる。蹴り上げようとしていた脚も動かせない。うねるように高鳴り始める心音。
 やがて、男の口は女から離れた。


「俺の勝ちだ。」


 そう言って目の前で笑った。
 その言葉に呆けていた女の瞳に生気が戻った。前にも増してその瞳の輝きが強くなったように見える。


「わかったわ…。約束は約束ね。名前を教えてあげるわ。私は茜郎女(あかねのいらつめ)。天道氏の娘よ。」


「あかね…。いい名前だ。萌える夕空の色と同じ名前か。」
 乱馬はゆっくりと反芻しながら、あかねの名前を胸に刻んだ。


「でも…。私、あなたに全部を許したわけじゃない。」


 勝気な瞳は、なおも乱馬を攻め立てた。


「それくらい分かってるさ。…すぐに靡くような女ならこっちから願い下げだ…。でも、俺は絶対におまえを妻に迎えて見せる。おまえが気に入ったからな。」


 澄み切った瞳があかねを捉えた。
 その輝きの強さに、思わずゴクンと唾(つばき)を飲み込む。


(この男…。力だけではなく心も強い。)


 あかねの心の中に、火照った情熱が灯った瞬間である。まだ仄かな火種は、激情となって燃え出すには時間がかかるだろう。だが確実にこの男は己の心に印象付けられた。


 男は胸元をまさぐると、すっと一つの石をあかねの前に差し出した。
「これをおまえに。」
 そう言うと、あかねの手を取り、それを握らせた。
「これは…。」
 握らされた掌を開くと、そこには赤い瑪瑙の勾玉が乗っていた。
「おまえの名前と同じ茜色の玉だ。俺の家に伝わる勾玉の一つらしい。…妻問いの宝として、おまえに預けておく。」
 さっき強引に唇を奪った青年とは思えぬくらい、赤みがかった顔を差し向け、ぶっきら棒に言い切った。あかねは彼のその表情が可笑しくて思わずくすっと噴出して笑ってしまった。
 突っ返しても良かったのだが、それも無粋に思えた。
「いいわ…。あなたに嫁すると決めたわけではないけれど…。」
 あかねはそう言うと自分の胸に輝いていた青い勾玉を結んだ紐へとその玉を結わえた。勾玉が二つ並んで胸で揺れていた。




 どこかで鶏鳴が時を告げた。
 まだ闇は暗いが、そろそろ空気が澄み渡って来た。夜明けが近いのだろう。


「私…。行かなくちゃ。」
 あかねがふと後ろを振り返った。
「行くって、どこへだ?」
 名残惜しそうに乱馬が振り返る。
「姉媛が待ってるわ。」
「姉媛?」
 こくんと揺れる頭。
 向こうの木陰で誰かがあかねを呼んでいるのか、袖を振っているのが見えた。きっと姉媛なのだろう。


「また、縁があればお逢いしましょう。逢えるかどうかは運命次第かもしれないけれどね。」


 そう言うと、あかねはくるっと翻った。


「ああ、縁はあるさ。でなければ、この神の山で出逢えるわけがねえだろう?」
 その声に一度だけ微笑むと、あかねは自分を呼ぶ袖の方へと駆けて行く。肩からかけていた頒布(ひれ)が解けて空を舞った。あかねが別れ際にふわりと残したのだ。妻問いの宝の返礼のつもりだった。
 それをはっしと掴んだ乱馬。茜色の布が手に絡まりつく。
 見えなくなる後姿を見送りながら、乱馬は言った。
「今ひと度、おまえを抱いてみせる…。この腕の中に。」
 乱馬は手にしたあかねの残り香がする頒布をきゅっと握り締めた。






 そんな二人の別れを冷ややかに見守る怪しい瞳があった。
 さっきまで彼らの直ぐ袂で倒れていた男、そう、乱馬が最初に倒した男だった。


「響の邑里の乱馬…。そして天道氏の弟媛、茜郎女か…。面白い。この九能の帯刀を踏みにじったこと、後悔させてやるわ…。覚えておけ。」
 不気味な笑みが木陰へと消え入る。
 これもまた、運命の出会いだったのかもしれない。







二、




「で、その殿方から、その赤い勾玉を貰ったって訳?」
 姉媛が好奇の瞳を巡らせて弟媛を見やった。こくんと頷く頭に姉は言った。
「あなたの一撃をかわして止めるなんて…。相当強い男よね。その響の君は。」
 姉媛はちろっと勾玉を見た。
「赤瑪瑙の勾玉だから、青瑪瑙のものよりはちょっと価値が劣るわね。……。でも、まがい物じゃなくて、しっかりした物よこれ。妻問いの宝としては極上の部類かもね。」
「ちょっとお姉さま。何を言いだすの。贈り物に優劣はないでしょう?真心が篭って居るのが一番だって父君も…。」
 少し苦笑いしてこの物欲が激しい姉媛を見返した。
「だからあなたは甘いのよ。世の中は権力か財力。それに勝る力を持つ男は居ないわ。」
 とうそぶいて見せた。


「これ、靡郎女、茜郎女っ!!」
 激しい声がして、ずかずかと中年男性が入ってきた。茜郎女の父、天道氏の族長、天道早雲であった。


「あらあら、父上のお越しのようね。」
 姉媛がにんまりと笑った。
「父上、何か。」
 その剣幕に圧倒されてあかねの方が驚いたくらいだ。


「何か、ではないぞっ!そなたたち、昨夜、かがひへ行ったそうじゃなっ!」
 早雲は、二人の娘たちを見るなり、血相を変えて怒鳴り始めた。


「何だ…。そんなこと。」
 姉媛のなびきは父親を見返して軽く言い放った。


「そんなことじゃとおっ?何を暢気にっ!!」
 父はかなり怒っているようだ。


「いいじゃない。東国へ下向してきて、退屈していたんですもの。ね。あかね。」
 姉はくすっと笑いながらあかねを見やった。
「おぬしたちは、かがひが何たるか、歌垣がなんたるか、知り及ばぬのか?」
 ますます早雲は鼻息を荒くした。
「知ってますわ。殿方と遭遇できる千載一遇の機会ですもの。」
 くくくと姉媛は笑った。
「靡郎女っ!はからずしも、おまえも弟媛の茜郎女も、まだ降嫁前の乙女であるぞ!それを、歌垣などへうつつを抜かしよって!もし、変な男にでも出会ったらどうするつもりだったのだ?そのまま、さらわれてしまったかもしれぬのだぞっ!!」
 怒りが収まらない父君は、二人の媛を見やりながら畳み込む。


 なびきはすいっと言ってのけた。
「私たちは御神事の手伝いで行っただけですわ。お父様。斎媛(いつきひめ)様のお供で筑波山へ上っただけですもの…。」


「いくら斎媛様のお召しと言っても、神の宮から抜けなければいいことであろうがっ!!聞き及んで居るぞ。そちたち、二人とも、夜中に宮を抜け出して、歌垣の宴の方へ行ったと、お付の者が話しておったぞっ!!」
 いよいよもって、父君の怒りの波動は上がっていくばかりだ。
「まさか、男と歌を交わし、妻問いされたなどということはないだろうなっ!」
「妻問いの歌の一つや二つ、投げかけられて交わすのは女の華よ、お父上。私たちくらいの器量があれば、男が言い寄って来ない方がおかしいというもの…。寄って来ない方が問題じゃありませんの?ねえ、お父様。」
 姉媛のなびきは飄々と答えた。
「それに…。何事も経験だから、って斎媛様もおっしゃったわ。だから、二人して宮を抜けて、宴の様子を見に行ったのよ。」
 この姉はずけずけと物を言うのだ。
 何も間違ったことはしていない。そう言いたいのだろう。


「靡郎女っ!そなた、まさか、男と交わるなどというふしだらなことはいたして居らぬだろうな…。」


「おあいにく様。ピンと来る殿方はいらっしゃいませんでしたわ。私にはね。」
 そう言いながらあかねへと目を転じた。
「茜郎女、そなたはどうじゃっ!」


 あかねは一瞬、昨夜のことを思い出していた。
 颯爽と現われて、自分に勝負を挑み、そして唐突に奪われた唇。響の里の乱馬と名乗った青年。その熱い吐息が一瞬脳裏に浮かんだ。


「茜郎女っ!!」


 早雲が声を荒げた時、穏やかな貴婦人の声がした。


「早雲殿、そのくらいでよろしいではないですか。」


 にこやかに御簾をくぐって現われたのは、落ち着いた雰囲気のご婦人だった。美しい絹衣をまとい、上品な物腰。ある程度の身分の女性と見受けられた。


「これは、斎媛様。」
 早雲は怒りの矛先をさっと納めた。
 斎媛と呼ばれた貴婦人は、あかねとなびきへ目配せを送ってから早雲に向き直った。


「この娘たちに、かがひへ行ってらっしゃいとすすめたのは、この私です。」
 貴婦人はそう言って話し出した。
「せっかく、都を離れて、この東国まで来たものを、名にし負おう筑波嶺のかがひですもの。雰囲気だけでも味わって来なさいと、私が宮代を抜けさせたのですわ。不味かったかしら。」
 落ち着き払った声でそうたおやかに言われては、早雲も怒りを納めるしか術はなかった。
「同じ氏や氏族ばかりとまぐわっていては、新しい血は吹きこめませぬ。何も血統の良さだけが人間の価値とは言いがたいもの…。本来人は、身分や出自に縛られることなく、もっと自由に恋するべきもの。早雲殿はそうは思いませぬか?」


「斎媛様にそうまで申されては、この早雲、これ以上娘たちを攻め立てるのはやめねばなりますまいな…。が。靡郎女、茜郎女。ぬしらの結婚相手は父が決める。大切に育てた娘を、どこの誰かもわからぬ男に寝取られるわけにはいかぬでな。この父の目に敵わなければ、婚姻はままならぬ。それだけは覚えておきなさいっ!」


 まだ言い足りぬような顔をしながら、早雲は娘たちの部屋を出て行った。






「それで?お二人のお目にかなった殿方は居ましたの?」


 早雲が部屋を出たのを確認すると、斎媛はなびきとあかね双方へと言葉をかけた。少し悪戯な乙女の目に立ち戻っている。


「私は特に…。三人ほど声をかけてきて、歌を詠み交わしましたけれど、いずれも平凡な男だったから、こちらからご丁寧にお断り差し上げましたわ。」
 姉媛のなびきは、らしい口調で答えた。
「茜郎女はどうでしたの?いつも身に付けていらっしゃる頭飾りの布が見あたりませんけれども…。」
 さすがに目敏いとあかねは思った。
 何も言わないのに、頭の飾り布のことに目を巡らせた斎媛の洞察力に、驚かされたのだ。おっとりと身構えている斎媛だが、ただ、のんびりと何事もなさぬままでこの世間を渡ってきたのではないことが、良くわかったのだった。
 お気に入りの布だったから、それを外したことに斎媛が何か不信に思ったのだろう。
「茜郎女は、赤い勾玉をさる殿方から「妻問いの宝」として貰い受けたのよね。」
 なびきが横から口を挟んだ。
「姉媛っ!」
 あかねは真っ赤になって睨み付けた。余計な事は言わないでと言いたげだ。
「まあ、妻問いの宝…。」
 そう言いながら斎媛はにっこりと笑った。
「思慮深い茜郎女が貰って来るのだから、その殿方はとても素敵な方でしたのね。」
 と斎媛は目を細めた。
「で、でも…父上がご心配なさったようなことは一切ありませんでしたゆえ…。」
 あかねはしどろもどろになりながらも必死で弁明した。勾玉は一方的に貰ったもので、男と女の関係に至ったのでは決してないということを強調したかったのだ。
「私も、弟媛のお相手を遠巻きから見て居りましたけれど、なかなかの精悍な好男子でしたわ。」
 姉媛があかねをからかうように付け加えた。
「姉媛様っ!」
 あかねの顔がもっと真っ赤になった。


 その様子を見ながら、斎媛は軽く微笑んだ。


「恋に恋する年頃というのものは、いいわねえ。私もそんな時期がありましたわ。」


 と、少し遠くを見詰める目をした。


「で、茜郎女。その殿方とはお名前くらい交わされたの?」
 あかねはこくんと一つだけ頷いた。
「あ、でも、このことは…。」
「わかってますわ。お父上には内緒にするわね。…ただでさえ、心配性な早雲殿。これ以上ご心労をおかけするわけにはいきませぬものね。」
 と斎媛はにこっと微笑んだ。


「響の里の若者なんですって…。」


 なびきが横からまた茶々を入れた。


「そう…。響の里の若者なの。」
 斎媛はゆっくりと言葉を反復した。


 あかねは当時の不文律に乗っ取って、乱馬の名前は出さなかった。家族とはいえ、不用意に他の共同体に属するものの名前は口にはできない。


「この勾玉を妻問いの宝にと渡してくださいましたわ。」
 あかねは着物の下に隠すようにさげていた勾玉の首飾りを出して見せた。


「これは…。綺麗な赤目の勾玉ね…。」
 斎媛がじっとそれに見入った。
「赤瑪瑙みたいだって姉媛様が…。」


 斎媛はその勾玉を見て暫く考え込むように黙り込んだ。その瞳には、何かしら真剣に勾玉を品定めしているように見えた。暫く玉へと視線をめぐらせた後、斎媛はそれをあかねの方へと収めながら言った。


「茜郎女はそのお方が気に入られたのかしら?」
 斎媛は柔らかい瞳をあかねに差しかけた。
「わかりませぬ…。」
 あかねは戸惑いがちにそう答えた。
「わからないって自分のことでしょう?」
 なびきが怪訝そうにあかねを見返した。
「だって…。本当にわからないんだもの。」
 あかねは深い溜息を吐いた。


「ふふふ…。恋なんてそんなものよ。私も若い頃はそうだった。それが恋だと知るにはまだ茜郎女は若過ぎるのかもしれませぬね…。いずれにしても、その勾玉は大事になさい。それは、あなたの身を守って下さるわ。勾玉には昔から霊力が篭りますもの。贈り主の想いがどんなことからも、あなたを守ってくれるのよ…。だから、ね。」
 少し寂しげな瞳を斎媛は差しかけたが、何故彼女が、そんな表情をしたのか、その時のあかねには理解する由もなかった。


 あかねとなびきの部屋から辞した斎媛。
 青く晴れ渡った薄空を眺めた。澄み渡る空には雲ひとつ無い。


(紛れも無く、あれは紅の勾玉だった。私があの子に授けた唯一の宝の…。あかね郎女へこの勾玉を託したのは、あの子なのかしら…。だとすると…。)
 斎媛が押し忍んできた想いが一気に逆流し始めた。
 故あって生まれてすぐ引き離された赤子。その元気の良い泣き声が今でも耳底にこだまする。


 生きていてくれた。あの子が…。


 飛び上がって喜びたい心境だったが、じっと堪えた。そして、斎媛は押し殺すように心の奥へとその想いを秘めてしまった。
 もし、あかねを妻問いした青年が、引き裂かれた「あの子」ならば、運命は悪戯好きだと思わずに居られなかった。


(響の里の若者だって言っていたわね…。)


 視線を流した空に鳥たちが遥かに飛んでいくのが見えた。







三、




「なあ、乱馬。」
 良牙が声を掛けてきた。
「あん?」
「おまえ…。その、守備はどうだった?気に入った娘の一人や二人居たか?」
「まあな…。良牙、てめえはどうだったんだ?」
 軽くはぐらかせて問いかける。


「いやあ、結構可愛い娘と出会ってさあ…。」
 良牙の鼻の下はグンと伸びた。
「ほお…。で、どうした?求愛したのか?」
「わっはっは、訊くなっ!そんな野暮なことっ!!」
 バンバンと背中を叩かれた。
(こいつ…。分かりやすい奴だなあ…。)
 乱馬はくすっと思わず笑いが漏れてしまった。
「ほお…。その分なら妻問いの宝は渡せたのか。」
「渡せたも何も…。今度彼女のところへ行ってみようと思ってるのさっ!」
 るらんるらんと今にも踊りだしそうな風体だった。


「彼女のところへ行く…か。良かったな、良牙。そこまで相手にも気に入られてよう。」


 この時代の結婚の形態は「妻問い婚」。つまり、男がこれぞと思う女のところへ通って行くのが大方だったようである。
 男が気に入った女に「妻問いの宝」を与え、女が男を家に迎える際には「百取(ももとり)の机代物(つくえしろもの)」を差し出したという。
 「百取の机代物」とは、何も物品に限ったものではない。殆どは「御饗(みあえ)」と呼ばれる飲食物の形態をが多かったらしい。これは女の家のカマドの火で煮炊きされた食物を食させることに意義があったと思われる。伊耶那岐(イザナギ)が伊耶那美(イザナミ)を迎えに黄泉へ出向いた折、既に伊耶那美が黄泉の国の火で炊かれた食事を食した後だったために、現世へ帰れなかったという神話からも、その呪術的意味の深さが伺われるのである。
 恐らく古代の人々は、自分の育ったカマドの火以外の物を口にすることを忌(い)みとして嫌っていたのだろう。他の共同体の火を使った食物を食べることで、その共同体への帰属を表したようだ。
 後に、平安時代に移って、「百取の机代物」は「三日餅」にと変わって行ったとも言われている。男が女の下へ三日通い続けて共に餅を食し結婚が成立するというあの「三日餅」である。
 また、この時代の男と女は結婚しても、すぐさま同じ家には住まなかった。女が子供を身篭っても、男と女は別々の所帯で暮らしていたというのも珍しくはなかったらしい。
 だいたいは子供が生まれた頃から夫婦が同居するのが一般的だったようであるが、その際、初めて二人は自分たちの住む家を新築した。ただ、夫方に新居を構えるのか、妻方に新居を構えるのか、それはまだはっきりと答えが出ていない。いやむしろ、カップルの諸所の事情によって、都合の良い共同体が選択されたと見るのが自然かもしれない。
 また、同時に、結婚と離婚の境界線も曖昧で、後の世よりももっと奔放に暮らしていたとも考えられている。だからこそ、男性が複数の妻を持てたし、逆に女性も違う男性の子供を産むことができたのである。
 今上天皇である斉明女帝とて例外ではなかった。夫、舒明天皇の正妃になる前には、高向王(たかむくのおおきみ)と婚儀を結んで、男子を一人儲けていた。


 さて、とにかく、良牙は相手の娘の里へと出向くとまで言い切った。歌垣の出会いは一夜の恋的な短絡な恋も多々あったのだが、彼は正妻としてその娘を迎え入れるつもりだったのだ。
 いずれにしても、相手が見つかったということは喜ばしいことではあった。


 特に、響の里の良牙の両親は、それなりに喜んだようだ。
 彼の父親、響雲牙はは族長の乱馬の父親の弟、つまり、族長の身内であった。
 この時代の族長相続は、嫡男志向ではなく、弟へと流れているので、響の里のナンバーツーは族長の嫡男の乱馬ではなく、良牙の父であった。
 特に雲斎と雲牙は政権争いを兄弟間で激しく行ったわけではなかったようだが、、年齢も近いことがあいまって、それぞれの家庭に於いて、目に見ぬ競い合いがあった。ましてや、雲斎と雲牙は母親が違う異母兄弟だったから、見えない軋轢が存在したのは当然といえば当然であった。
 乱馬も良牙もその辺りは全く無頓着だったのだが、彼らの父親は何かにつけ、それぞれの息子の優劣を競い合いだがった。
 乱馬の父が亡き後、良牙の父が健在ならば、族長の地位はそちらへ流れる。そしてその次は…。族長の嫡男である乱馬か族長の弟の嫡男である良牙か、どちらかに流れる。そう言う構図が出来上がっていたために、少し事情が複雑であった。
 特に、族長の雲斎には既に正妻は他界して、他の女性に生ませた子供らも、流行り病などでことごとく夭逝していたから、乱馬への期待度は高かったのである。


 良牙に相手が出来そうだということに対して、雲斎はもっと真剣に息子の乱馬に接してきた。


「おぬし…女性と交わりは持てたのか?」
 開口一番、尋ねてきたのである。
「まあ、それなりにな…。」
 乱馬ははぐらかしにかかる。気に入った女は出来たが、それ以上の関係は結んでいない。妻問いの宝は与えたものの、女の返事は決して色よいものではなかったからだ。
「たく…。良牙はきっちりと妻問いの約束まで取り付けて帰って来たというのに…おまえは。」
 と苦々しい顔を差し向けた。
 良牙の方が先に妻を迎えると、当然、先に子供が出来るということを示唆していた。一族の繁栄のため、子孫があるということは、次々期族長になるには、非常に優位な条件になる。
 父親としてはそれを避けたい。そう思うのはごく当然の結果であった。
「妻問いの宝一つ、女性に贈れなかったのか?この奥手めっ!」
 と乱馬をののしった。
「たく…。そんなことでは先が思いやられるからな、父がこの村の適当な娘を割り当ててやろう。」
 ととんでもないことを口にしだした。


 冗談じゃねえっ!!
 乱馬は思った。
(こんなぱっとしねえこの邑里の女なんか、割り当てられたら、たまったものじゃねえっ!)


「妻問いの宝なら、渡せなかった訳じゃねえ…。ちゃんと気に入った女には渡してあるさ。」
 乱馬は余りに父親がうるさいのでそう言い切った。本当の話であったし、時間がかかっても、あかねを手に入れるつもりであったからだ。それまでは、この邑の女などに娶らされるわけには行くまい。


「ほお…。ならば、相手の娘の氏名(うじな)くらいは訊いておろうな。ならば、申してみよ。」


 雲斎は意地悪そうな眼を差し向けた。どうせ口から出任せなのだろうとでも言いたげな表情である。


「ああ、言ってやらあ。どこの郡の者かまでは訊いてねえが、これから調べればわかるからな…。天道氏の女だよ。活きの良い娘っ子だったぜ。あばずれそうだが、芯はしっかりしてる。良い子孫をたくさん残せるだけの器量は持ってるぜ。」


「天道氏の娘だとおっ?」


 雲斎の顔色がさっと変わった。先頃、ここへ来た大和の一族だということが彼にはわかったからだ。


「おぬし、本当に天道氏の娘に妻問いの宝を渡したのか?」
 と勢い込んで問いかけてきた。


「ああ、そうだ。確かに天道氏だと言ってやがった。親父っ!知ってるのか?」
 乱馬は父親の言動に不信を抱いてそう訊きかえしていた。


「そうか…。天道氏の者へ求愛したのか、おまえは…。これも何かの縁なのかもしれぬな。」
 雲斎は寂しさとも侘しさとも言えぬ表情を、乱馬へと差し向けた。






 運命の糸が絡み始める。もう、後には引けないよと言わんばかりに。
 





<用語解説>
郎女(いらつめ)
 漢字としては「媛」などを当てることがあります。女性によく付けられた呼称です。今で言えば、「〜ちゃん」というような感じになるのでしょうか。
 作中では「茜郎女」と「あかね」を混用させていただきます。使い分けは、雰囲気。(いい加減だなあ…)


頒布(ひれ)
 衣の肩から左右の足元へ垂らしてある女性の装飾品。 
 良く天女の絵や彫刻に表現されている薄い布です。
 別れを惜しむときなどにこれを振ったそうです。また、「古事記」の「大穴牟遅神話(大国主命)」では、須勢理比売(スセリビメ)に求婚したとき、彼女の父、須佐之男の試練を乗り越えるために比売が「蜂の頒布」を与えたという記述がありますが、そのようなことからも「魔除け」として用いられていたようです。


「妻問いの宝」「百取の机代物」
 本文中に説明したとおりです。いずれも記紀に表記があります。
 妻を迎えるにあたって、現在でも結納を納めるしきたりが残っていますが、性格的には違うものだと言われています。結納は「妻盗り」、妻を迎える代償に妻の実家へ何某の返礼のようなものを言付けるという感じなのですが、妻問いの宝は娶る女性その人へ捧げられている宝物です。まあ、今で言えば、本人に直接手渡される、婚約指輪みたいなものでしょうか(笑
 宝は諸種雑多で、宝物の他に、犬を与えたというような話も伝わっているそうです。作品で言っているように、カマドで炊かれた食べ物の場合も多かったそうです。
 この時代はまだ律令制が引かれる前で、封建的ではなく、男女の区別がまだ左程きつくなく、女性も大らかに恋愛していたようです。
 推古帝、皇極帝(重祚・斉明帝)、持統帝、元明帝、孝謙帝(重祚・称徳帝)と女帝が多かったことも頷けます。





(C)2003 Ichinose Keiko