第十九話  狼の末裔


一、

 夜陰が明けると、良牙は雲竜の邑を後にした。
 見送りに立つのは、明郎女。

「わ子の誕生を、俺は楽しみにしているぞ…。その子には竜牙と名付けてやってくれ。」
 良牙は別れ際にあかりへと告げた。
「竜牙にございますか?」
 あかりはきびすを返していた。
「ああ…。この子は狼から辿れし我が一族と、竜から辿れしそなたの一族の血を受けた子だ。竜のように強く、狼のように賢(さか)しく生きて欲しい。」
 力強い瞳をあかりとそのお腹の子に向けながら、良牙は言った。
「竜牙…。良き名です。」
 あかりは膨らんだお腹をさすりながら言った。
「女の児であったときはどういたしましょうか。」
「いや…。その子は男だ。…。考えたが女の名は浮かばなかった。」
 良牙は目を細めながら言った。
「男の児の名前しか浮かばないなんて…。良牙様らしいですわ。そうね、この子は男の子かもしれませぬ。今も自分の名前を聞いて、嬉しそうにお腹を蹴り上げましたわ。」
「竜牙。強く生まれて来い。父は離れていても、おまえのことを思っている。母のことと共にな。」
 良牙は今一度、あかりとそのお腹の子に語りかけると、柔らかく微笑みかけた。

 本当は引き止めたい。

 そんな激情があかりを襲い来たが、ぐっと黙ってそれを耐えた。
『男には何もかも捨てて、己の信念のために突き進まねばならない時がある。』
 黙ってそれに耐えなければならない時があると、まだ若いみぎりながら、明郎女にはおぼろげにわかっていた。
(私にはわ子が居るのですもの。良牙様と血を分かち合ったこの子が…。)
 決して見せまいと思った涙が、懸命に笑おうとする頬を一筋に貫いて零れ落ちた。

 と、前方からいくつかの馬身が現われた。朝日と共にこちらへ向けてやって来る一団だ。

「兄上様…。」

 その団体に、あかりはふっと言葉をかけた。
 朝靄に煙る荒野の向こうから、蹄の音と馬のいななき。

「明郎女か…。おお、これは良牙殿も…。昨夜は来ておられたのか。」
 そこに現われたのは明郎女の兄であり、この雲竜の次代の長、勝麻呂であった。明郎女の兄とは言え勝麻呂は年の頃合は三十歳近い。豪腕な身体つきに、次代の邑長の貫禄を蓄えていた。
「勝麻呂殿…。」
 良牙は馬上の武人へと言葉をかけた。
「今お戻りになったのですか?兄上。」
 あかりは涙を拭うと、そう語りかけた。まだ靄が深いので、多分、兄には涙は見えないだろう。

「おお、そうだ…。ちと小難しい話になったがなあ…。」
 勝麻呂は異母妹へと言葉を手向けた。年が離れている分、妹には優しい兄であった。だから、妹を嫁に迎えた良牙のことも、それなりに可愛がってくれている。
「大和朝廷からの兵役のことですか…。」
 良牙は勝麻呂を見上げた。
「ああ…。父君は風邪気味であったからな…。おまえが九能氏の館へ出向いて、代表として聴いて来いと言われたものでな。だから俺が出向いておったのよ。…。大和朝廷はかなり躍起になって兵卒を集めるつもりらしいぞ。」
「やはりそうでしたか…。勝麻呂殿。」
「ここいらの部族の長が集り、いろいろ話し合っておったわ。それで、俺も行かねばならぬと決意してきたところだ。」

「お兄様もお行きになるのですか?」
 あかりははっとして兄を見上げた。
「ほお、お兄様もということは、良牙殿、貴殿も出向かれるつもりか。」
 真摯な瞳が良牙へと手向けられた。こくんと良牙の頭は縦に揺れる。
「なるほど…。貴殿は響の氏だものな…。ほれ、去年、響の氏から旅立った、若者、名前は確か、乱馬と申したかな…。」
 馬から降りながら、勝麻呂が言った。
「乱馬?乱馬がどうしたと…。」
 良牙は思わず、勝麻呂から漏れた乱馬の名前に食い入るようにきびすを返した。
「ほう…やはり、その男、良牙殿の知り合いか。ま、当然だな、同じ氏の出自なら。…その乱馬とやら、凄い武人へと化けたそうだぞ。」
「凄い武人へ化けた?」
 良牙の肩がピクンと動いた。
「ああ…。何でも大海人皇子様直々の舎人となり、姓(かばね)まで拝命したそうだからな。」
「舎人…。姓?」
「舎人とは皇子や大王直結の武人だ。それになるだけでも並大抵ではないのに、手柄を立てて、姓まで貰ったそうだ。確か「早乙女の造」と言ったな。今では「早乙女乱馬」と堂々と名乗っているそうだぞ。大和朝廷からの使者がそう流伝していた。」
 良牙の耳にその名前は突き刺さんばかりに届いた。
「乱馬…あいつ…。響氏を越えやがったのか…。」
 ぐっと握りこぶしに力が入る。
「相当な武人だというぞ。一人で唐の刺客を打ち破り、大王様を守り通したそうだ。」
「大王様をお守りした…。」
 良牙には想像ができないことだった。大和朝廷の中央に君臨している「大王」が、女性だということは知ってはいた。が、都から離れたこの東国の小さな国にあっては、それ以上は知りえることもなかったからだ。
「それだけではないぞ。奴め、西国の海賊たちを制圧し、大和朝廷の味方につけたというではないか…。」
「か、海賊を制圧だって?」
 ますます、想像し難くなった。
「大海人皇子様などは、阿倍比羅夫を凌駕する武人になると宣言されているそうだ。あの、阿倍比羅夫だぞ…。東国を一気に大和朝廷へ弾きつけた倭国一の武人の。」
 阿倍比羅夫の名前は良牙も知っていた。
 その昔、響の邑へも来たことがあると、年寄り連中が言っていたのを訊いたことがあったからだ。勿論、乱馬を響雲斎に預けたのが彼だということまでは、知らなかったが。
「乱馬があの阿部比羅夫を凌駕する武人になるだと…。」
 それ以上言葉が継げなかった。それがどういうことなのか、良牙には想像できなかったのだ。
 言葉を失ったまま、立ち尽くす。
「ああ、もっぱらの大評判だぞ。そんな武勇伝を流布されては、こぞって兵とし前に立とうという者も出てくるだろうな。まあ、大和朝廷の使者はそれが狙いで乱馬殿の話を大きくきかせているのかもしれぬがな。」

 良牙にとって乱馬の話は確かに刺激的だった。
 ついこの前まで、響の郷にあった、屈託ない彼の笑顔が、急に遠くへ行ってしまったように思えた。

「とにかく、俺もこの度の兵役には参加する予定だ。だって、見たいではないか。大和の武人が一同に解するところを。そして、その中で揉まれながら、己の力を試したい。なあ、良牙殿?貴殿もそう思うだろう?」
 勝麻呂はそう言うと高らかに笑った。

「良牙様、存分に行ってくださいませ。わ子は私が必ず見事に育て上げます。」
 明郎女はそう言いながらじっと夫を見詰めた。
「ははは…。明郎女よ、良牙様も響の若者。きっと必ずや名を挙げて帰って来られる。この兄もな…。」

 既にあかりとの別れには涙はなかった。
 ただ、あったのは、前を行く乱馬の背中だ。
 
「乱馬…。俺も、おまえと並ぶ。きっと、おまえに追いついてみせる。」
 良牙は雲竜の郷を後にしながら、そう決意していた。



二、


 良牙は雲竜の邑郷を去ると、響の邑郷へと一端、戻った。


 彼が戻ってくるのを、石英は待ち構えていた。
 丁度、朝日が昇るのを待っていたかのように、彼の父、雲牙も邑郷へと丁度戻って来るところだった。
 九能氏の長の館で、徴兵について話し合いを持ったのだろう。父はかなり小難しい顔をしていた。人々は一様に良牙の父、雲牙の帰りを不安な瞳で出迎えた。
 邑の人々は、口々に、今度は誰に徴兵の白羽の矢が当たるのかと、こそこそと噂しあっていた。勿論、良牙の耳にも自然と言葉は漏れ聞こえてくる。

「大和朝廷の大王様は、また、この辺りの郷から、男をたくさん徴兵されたいと、使者を寄越してきたそうだ。」
「去年の秋、何人かが連れられて都へと出て行ったではないか?」
「あれだけではまだまだ足りぬそうだ。」
「米の上納はさげても良いから、とにかく、兵役で使えそうな男を欲しがっているというぞ。」
「これから、農作業が待ってるんだぞ!そんなことに男手を取られたら。」
「乱馬はどうしているのだろう…。」
「なあに、あいつのことだ。きっと元気でやっているさ。」
「そうだな…。この辺りの若人の中で、彼を上回る腕っ節を持ってる奴はいないもんな。」
「そろそろ年貢を納めに都へ出向いた者たちが帰ってくる頃だから、きっと奴の噂も入ってくるだろうよ…。」
「いや、雲牙殿は乱馬の話を聴いてきたのではないか?」
「かもしれぬなあ…。都から使者が来たくらいだ。」
 ふと誰かが言葉を漏らした。
 その声が聞こえたのか、雲牙はさらに難しい顔をしていた。

 良牙は雲牙と正面から睨み合った。
「親父…。」
 開口一番、父に言った。
「話し合いはどうなったんだ?折り合いがついたのか?」
 真正面から問い質されて、雲牙は息子を睨みつけながら答えた。
「この郷から、二十名の男を出すことを割り当てられた。」
 憮然とした答が返って来た。
 集ってきた邑の人々が、その言葉を聞きつけると一斉にざわめき始めた。

「二十名も持って行かれるのか?」
「そんなにたくさんの青年を連れて行かれたら…。今年の農作業はどうするのだ?」
「農作業だけではないぞ。狩場はどうする?」

「これは大和朝廷からの絶対命令だ。違えることは出来ん!」
 雲牙は吐き出すように言った。
「言うことが訊けぬ邑は、直ちに不足分の米を寄越せと言ってきた。一人頭、米俵二十寄越せとな…。」

「な、何だってえ?」
「そんなにあったら、運ぶだけでも大変じゃねえかっ!!」
 
 この時代の上納の大変さは何も米や農作物の量だけではない。まだ、未分化の交通手段。それぞれ都まで運び入れる労力も大変だった。それぞれの邑から出された米や上納品は、男たちが背負って行く事もままあった。勿論、往復の路銀なども自前だ。背中には米を担いでいるのに、食うものがなく行き倒れる。そんなことも平素のようにあった時代だ。
 船で荷を出せたとしても、そんなに大きな船は手配できない。また、航海とて命がけであった。
 そんな交換条件を出されたら、まだ、兵役へ男を出すほうが納得できる。暗に、約束は果たさせる。そう言いたげな大和朝廷の命令であった。
「大和へ忠誠を誓った以上は、兵役を出さなければならない…。」

「また占って決めるのか?」
「そうだ…。去年みてえに…。」
 人々は口々に叫ぶ。

「仕方があるまい。誰も行きたがらぬ…。」
 そう父親が吐き出した時、良牙は静かに進み出て言った。
「俺は行くぜ。親父。占いなどに当たらなくても。」
 

 その静かなる宣言に、人々は大きく目を見張り、どよめいた。
 誰も好き好んでこの常陸国を離れようとは思わなかったからだ。だが、この若者は、何の戸惑いもなく、俺が行くと言ってのけたではないか。
 驚愕の目が良牙へと注がれる。

「な、何を馬鹿なことを、言い出すの、この子はっ!!」
 慌てたのは、良牙の母、石英であった。
 当然だ。良牙は邑長の一族の嫡子。時期邑長の第一候補者だったからである。
「おまえにはもうじき、わ子が生まれるんだろう?わ子が男ならば、この響の郷にとっても大切な嫡流の子。それをほって行くわけにはいかぬでしょう!」
 石英が甲高い声をあげた。

「今朝、明郎女には出立を告げてきました。」

 良牙は静かに言った。

「な、何?」
 石英は信じられぬという顔を良牙へと手向けた。
「ならぬっ!おまえを行かせるわけにはいかぬっ!」
 石英だけではなく、雲牙もそう吐き出した。
「おまえはこの響の郷の正しい後継者だ。だから、失うわけにはいかぬっ!!」
 父親の本音がこぼれ出た。

「何故だ?親父っ!乱馬へは行けと言って置いて、俺には行くなと命ずるのか?乱馬は失っても構わぬが、俺なら良いとでも言いたげだな。奴は血こそ通っていなかったが、雲斎殿に育てられた立派な響の武人だろう?」
 父親の失言に、良牙は目をむいて食って掛かった。
「おまえ、どこでそれを…。」
 はっとして雲牙は石英を見返した。
「隠していてもわかるさ。俺以外の誰もが知ってることならばな。…それに…。俺は訊いたぜ。乱馬は大和朝廷から姓(かばね)を頂くほどの武人になったそうだな。たった数ヶ月で。」

 良牙の言に、取り巻いていた郷の人々は目を輝かせた。

「乱馬が姓を頂いただと?」
「あいつがか?」
 
 ざわざわと周りが囁きだした。

 良牙の目は真っ直ぐに父親に向けられる。

「俺には響氏の、狼の一族の血が混じっているんだ。奴にそれだけの活躍が出来るのなら、俺だって…。そう、俺だって中央へ出て、武人として輝きたいっ!!」

「ならぬ!おまえが行くのは戦(いくさ)だ。それも唐国というとてつもない大国が相手なのだぞ!」
「俺は世界が見たいんだっ!親父が反対しても、俺は行くぜ。徴兵へ志願する。」
「ならぬっ!!」


「行かせてやれ、雲牙よ。」

 静かに親子の間に入ってきた老人が居た。
 八宝斎だ。
 小さい背中を丸めて、ゆっくりと二人の間へと割って入る。そして、両方の顔を見比べて、穏やかに言い放った。

「誰しも、世の中を見たいと若い頃は夢見るものじゃ。この老いぼれもそうじゃった。見果てぬ夢を求めて、広い世界を一目見たいとな…。その機会が巡るか巡らぬかは、そやつの生きた時代にもあるのじゃろうが…。今は良牙にとって、大切な一つの転機の時なのじゃよ、雲牙。」

「黙れ、爺様よ!」
 雲牙は一括して八宝斎の言葉を遮ろうとした。

「いや、黙らぬ…。良牙が世界に目覚めたのは、雲牙よ、おまえがまいた種のせいじゃろうが…。」

「私がまいた種ですと?」

「ああ、おまえにはわかっている筈じゃ。良牙が生まれた時からずっと…。いや、乱馬という赤子がこの邑郷へ貰われた時からな…。響の血を守りたいと思ったおまえのその強い意志が、良牙を世界へと導いたんじゃよ。流れ出した運命を変えることは、おまえには出来ぬ。良牙の瞳を見てみろ。」
 八宝斎は良牙のほうへと目を転じた。
 良牙ははっしと父を睨みつけている。
「あの真摯な輝きを、おまえは奪うつもりなのか?良牙のあの、理想と野心に燃えた目を、おまえには、閉ざす権利などないのではないかのう…。おまえにもかつてあった筈じゃ。理想と夢に燃えた熱い思いがのう…。」
「理想と夢…。」
 八宝斎の言葉に、雲牙は思わず我を振り返っていた。
「ワシは、雲牙よ、おまえもその兄の雲斎の若い頃を見ておる。…おまえたちは、それぞれ大和朝廷の東征軍が東(ひむかし)へ上がって行くのを見て、心を湧き立てておったろう…。大和の兵たちの持ってきた剣や矛、装飾品の一つ一つに魅入られ、憧れを持って居た筈じゃ。兄者の雲斎と競って武勇を極めようとしたのも、響の民に流れる狼の血がそうさせたではなかったのかのう…。」
 八宝斎は厳しい目を雲牙へと手向けた。
「おまえはいつから腑抜けになった?「響の誇り」を失(な)くしてしまったのだ?」

 雲牙は八宝斎の言葉を聞くと、黙したまま俯いてしまった。
 続いて周りに起こった沈黙。人々は誰しもが黙ってしまった。
 その沈黙を打ち破るように良牙は静かに言い放った。

「親父…。俺は行くぜ。たとえ親父が反対してもな。俺は響の男だ。自分の確たる信念を貫いて生きる、狼の末裔(まつえい)だ。俺はこの一族の誇りにかけても、もっと大きな世界を見て、大きく成長して帰って来てやらあっ!」
 良牙の決意は固かった。

「わかった…。そこまで言うのなら、この父はこれ以上何も言うまい。」

 観念したような震えた声だった。
 ぎゅうっと拳を握り締めて、雲牙は言葉を吐き出していた。

「う、雲牙様っ!何を…。」
 驚いた石英が言葉を挟もうとしたが、雲牙葉それを制した。

「やめておけ…。良牙の性質はおまえが一番知って居るだろう。…良牙は男だ。この響の邑のな…。奴には狼の血が流れている。正真正銘の響の濃い血がな…。」
 それから良牙へと言い放った。
「後は好きにしろ。ここを出て行くなり、唐との戦に挑むなり。それで、おまえがもっと大きく成長できるのなら…。父親としての本望だ。」
 強い輝きが、再び雲牙の瞳に宿っていた。

「ふん、やっと、雲牙も響の誇りを取り戻しよったか…。」
 八宝斎はそれだけを告げると、くるりと背を向けた。それからゆっくりと中央から去った。

「もっと早くに取り戻しておったら、雲斎はもっと喜んだろうにな…。いや、雲斎は死なずにすんだのやもしれぬな。」
 誰にも聞き取れない小さな声で、八宝斎はそう囁いた。



三、


 夜が明け渡たり、日が天上へと登りつめてしまうと、瀬戸内を覆っていた靄が晴れ始めた。
 そこにあるのは、荒れ狂った嵐の海ではなく、穏やかな瀬戸内の海であった。
 あれだけ朝方、雲っていたのが、嘘のようにすっきりと晴れ渡る美しい海。春の穏やかな日差しが、瀬戸内全体に注ぎ込む。
 邇磨の人々は、出航の準備に余念がなかった。
 あちこちで動き回りながら、乱馬たちの出立を今か、今かと待っていた。

「世話になったな…。直人。」
 乱馬はそう言って笑った。
「ああ…。乱馬殿との日々、こっちも楽しかった…」
 直人は日に焼けた肌から白い歯を覗かせて乱馬へと告げた。
 初めて出会ったときは、真剣に渡り合った二人であるが、共に日々を過ごすうちに「友情」とも言える情が二人の上、共通に湧き上がっていた。人間は似たもの同士を惹きつけあう力があるようだ。
 直人も益荒男であった。邇磨の荒波に揉まれた海の男である。武に対する思いは、熱かった。強きものを求める、そんな男の闘争本能を持っていた。

「乱馬殿が必要としたとき、いつでも邇磨の男たちと共に駆けつける。今しばらくのお別れだ。」

 そう言って力強い腕を乱馬へと差し出した。合わされる手と手。骨っぽく皮も分厚い。

「兄貴…。そろそろ出航だとよ。」
 千文が傍らでにっと笑った。
 この数ヶ月で、千文の背丈も少し伸びたようだ。育ち盛りの少年だった。
 見送りには玄馬も立ち会った。
 
「乱馬殿。この先の瀬戸内の海の海賊どもは、ワシの盟友ばかりじゃ。後ろから手を回し、恙無く、大和朝廷の一行を筑紫国まで航行できるように手配しておいた。」
「それはありがたい。」
 乱馬は玄馬へと頭を下げた。
「頭を挙げられよ。邇磨の玄馬、早乙女殿の配下。このくらいは当たり前のこと。…本来ならば、乱馬殿にワシや直人が同行するべきところ、今しばらくは後方の海を守りに付かせていただく。」
 玄馬は乱馬を優しい瞳で見詰めながら言った。
「乱馬殿が筑紫の国から大陸へと出立する時は、必ず同行いたす。まだまだ、出兵までには時間が要されるじゃろう。」
「そんなものでござろうか。」
 乱馬は玄馬を見返した。
「戦は準備が要る。特に、未知の相手と闘うのじゃ。国の存亡をかけてな。そう易々と出兵できるものではなかろう。まだ、大和朝廷では兵の数も船の数も足りぬ。今、仕掛けては無駄死にしに行くようなものだからな…。だからこそ、筑紫国へ皇祖母尊を先導にして、地盤を固める必要がある。葛城皇子はそう思ったのだろうよ。狡猾な葛城皇子のことだ。きちんと機は伺ってはおられようがな…。」

「玄馬殿は皇子様を知っておいでですか?」

 乱馬ははっとして玄馬を見上げた。
 この物の言い方。論評のし方、葛城皇子にまるで接したことがあるような物の言い方だったからである。

 玄馬は視線を乱馬からすっと外した。

「いや…。そのくらいのことは、海賊の長たるもの、誰でも知ったことだろうよ…。実際以上に、海賊たちは世の動向には目聡いものだ。一族の浮沈がかかっておるからな。」
 それから玄馬は外した視線を乱馬へとまた手向けた。

「世界は広い。まだまだ乱馬殿の前にも、今まで見たことがない景色が拓けていくだろう…。どんなに困難な海原が待ち構えようと、その腕っ節を信じて突き進まれよ…。瞳に強い輝きを持っておれば、志を同じとする仲間にも恵まれよう。その清和な瞳、いつまでも失わぬようにな。」

 最後は暗示的な言葉だったが、玄馬はそう言うと、真っ直ぐに晴れ渡った空と海原を眺めた。

「海原は広い。そして厳しい。だが、同時に人間を包み込んでくれる優しさがある。海の波と風を味方につけよ。乱馬殿にはその力がある。この邇磨の玄馬が腕っ節に惚れた男だからな。さてと…。そろそろ出立を。大和の本体が乱馬殿の帰還を待ち受けておられようぞ。」
 それは父親の息子への餞(はなむけ)の言葉だった。

 喉元まで出かかった「おまえの父は私だ。」という言葉。ぐっと胸へと飲み込んだ。
 この先、息子は大和朝廷へと仕えていく以上、生い立ちが禍になることが目に見えるのだ。乱馬の向こう側にある大和朝廷の要人たちの顔が、次々と脳裏に浮かび上がる。
 己を陥れた皇太子「葛城皇子」、その彼を支える内大臣、「中臣鎌足」、皇太子弟の「大海人皇子」。阿倍比羅夫、蘇我赤兄。いずれも、乱馬にとっては下手をすれば「敵」となる可能性もある官僚ばかりだ。

(何も告げぬほうが、息子のためだ。)

 ぐっと堪えて、言葉を飲み込んだ。
 葛城皇子の姦計であることを知りつつも、たった一度きりの長閑郎女との契り。そしてその結果、この世に生を受けた息子、乱馬。
 己の想像をはるかに超えて、たくましく成長した我が子。
 今生では名乗りあえる日は来ないのだろう。

「玄馬殿…。お世話になりました。この先も、恐らくそなたの助けを要することになるでしょう。」
 乱馬はにっこりと微笑みながら、切り替えした。
「ああ、直人が言っていたように、乱馬殿が必要とすれば、いつでも船団を率いて参画しよう。それまで達者で。」
「玄馬殿も…。」

 雲間から太陽が光をたたえて照らし出した。さあっと辺りの海が明るくなり、金の漣を海原に浮かべた。

「名乗りあえずとも、父子の縁は切れはせぬ…か。」
 玄馬と乱馬親子の別れを、見詰めながら一人、小さく頷く影があった。砺波の爺さんである。
 玄馬の腹心でもあったこの老いぼれ爺さんのみが、彼らの間柄を唯一知り得る人間であった。玄馬にこっそりと息子を託されて二十年近く。乱馬は知らなかったようだが、響の郷から程遠くない邑でひっそりと生活しながら、彼の成長を見詰めていたのである。
 彼が都へ出立すると聞きだし、老いぼれとはいえ、志願して兵卒へと就いた。そして、初めて彼の近くへと侍り、今に至る。
 都の武人でも、もう彼を知るものは殆ど居まい。妻も子もない気楽な一人身であった。流されるままに、ただ、玄馬との約束を忠実に守って、乱馬の傍に付かず離れず居るのだ。
 玄馬は回りに気を配りながら、砺波に再び我が子を見守るように頼まれた。
「乱馬殿は面白き武人ゆえ。この老いぼれにも優しくしてくださいまするからのう…。彼の行く末を見守る役目、この命が続く限りは、きっと…。」
 そう言って二つ返事で再び引き受けたのである。

「爺さん、何一人でぶつくさ言ってるんだ?」
 傍で千文が怪訝な顔を手向けた。
「いや、別に…。さて…。そろそろ我らも出立じゃな。」
「ああ…。西か…。都とは全然違うんだろうな。」
「怖いか?千文。」
「怖くなんかあるもんか!わくわくしてらあ。」
 少年の瞳は美しく輝いていた。
「ほーっほっほ。若いということは怖い者知らずじゃな。愉快、愉快。」
 砺波の爺さんは蓄えたあごひげを手でさすりながら笑った。


「砺波の爺さん、千文…。行くぜ。出航だ。」

 乱馬は玄馬に別れを告げると、彼らに向かって逞しく声をかけた。

「ああ…。さっきから早く海原に乗り出したくて、うずうずしてたんだっ!」
 千文は真っ先に船へと駆け上がった。
 玄馬から預かった邇磨の海賊たち数名と共に、乗り込む。

「乱馬殿…。またな。」
 船着場で直人が名残惜しそうに声をかけた。
「ああ、先に筑紫国で待ってる。」
 乱馬も答えた。

「さあ、者ども、行くぜっ!目指すは「伊予国、熟田津だ!」
 乱馬は持っていた刀剣を抜いてさっと天上へと翳した。太陽が切っ先に照らしつけ、美しく煌めいた。
 
 おおおーっ!

 船のそこここから声が上がり、漕ぎ手たちが、一斉に櫓へと手をかけた。ゆっくりと滑り出す船体。
 見送る者も行く者も、万感の想いを込めながら、海原を見詰めた。


 時、斉明治世の七年三月。
 水がぬるむ季節の到来であった。
 


第二十話 激流へつづく




 良牙も、再び、物語に深く絡んでいく予定です。
 原作での乱馬のライバルという位置もそのままに、やはり、彼も魅力的なキャラクターです。
 ただ、原作と違って、方向音痴ではありません。多少はその傾向があるかもしれませんが、極端には出ません。本作はシリアスな歴史小説として書き進めていますので、ご了承くださいませ。






(C)2004 Ichinose Keiko