第十八話  波濤


一、


 時を殆ど同じくして、一組の愛し合う男女は、それぞれの危機に瀕していた。互いの想いとは裏腹の、望まぬ「契り」を結ばれんとしていたのだ。


「さあ、朝まで私と睦み合うね…。」
 珊璞は勝ち誇った目を乱馬へと手向けた。
 目の前には自由を奪われた男が、はっしと己を睨みつけている。

「そんな怖い顔、差し向ける、よろしくない…。男は女に優しくするものね。」
 珊璞はくすっと笑った。

「戯言を言うなっ!」
 最後に残った抵抗は浴びせかける言の葉だけ。
 動かない乱馬をもてあそぶように、珊璞はすうっと乱馬の身体に手をかけた。
「この逞しい胸板、そして腕…。足。全て私の物にするね…。愛人(アイレン)。」
 珊璞の瞳は妖しい輝きに満ちていた。美しき瞳に宿すものは、魔性の輝き。睨み返した時に、その瞳に思わず見入ってしまった。
 乱馬と視線が合うと、彼女はにっこりと笑った。
 それからゆっくりと乱馬に語りかけた。
「さあ、一緒に来るね。」
 傍に設えてあった寝台へと乱馬を誘った。
 あんなに動くのを拒んでいる手と足なのに、彼女に誘導されれば、不思議なくらいすっと動くのである。

「くそ…。何でおまえは俺を操れる?」
「簡単なことね。特別製の香を炊き込めれば手足は動かない。おまえの動き全て封じた。その上で操る。これが私の術。」
「動かなくした上で、糸か何かで俺の手足を操ってるのか?」
 乱馬はきびっと珊璞を見据えた。また妖しく揺れる、セピア色の瞳。
「糸?…そんな物はないね。私は糸使いの沐絲とは違うある。」
 そう言って嘲るように微笑んだ。
「沐絲…?」
 乱馬は珊璞を見上げた。
「そう、我が一族の末端の小人。おまえも何度かやりあってる筈ね…。尤も、おまえを倒せるほどの力はなかった一族の面汚しでもあるかな…。」

(そういえば…。)

 乱馬は記憶の糸を手繰り寄せた。
 邇磨に来て、岩麻呂と対峙したときに陰から奴を操っていた男が居たことを思い出したのだ。

(何度かやりあってるってことは、あの時だけじゃねえのか…。もしかして、大和で俺を襲った奴も、その沐絲って男だったのか?)

「ふふ、私は沐絲よりも格が上の道士。もっと特別な方法でおまえを操ってるね…。おまえは私に抗えない。そうら。」
 小悪魔のような微笑を乱馬に向けながら、珊璞は寝台を指差した。美しい織物のぬの布が広げられた平らな岩に、乱馬を誘う。
「さあ、ここへ横になるよろし。」
「くっ!」
 乱馬の足は寝台の前に止まると、そこへ仰向きに横たわった。必死で抵抗を試みるが、己の手も足も、自分の意には動かないのだ。
 珊璞は寝台の傍に軽く腰掛けると、上から覗き込むように微笑みかける。
「最初のうちだけね…意識が抵抗するのは…。おまえ、私抱く。そうすれば、否が応でも私の身体欲しくなる。そして、朝まで深く愛し合うのだ。」
「な、何のためにそんなことを…。」
 乱馬はきっと珊璞を見上げた。
「何のため?決まってる。優秀な子種、我が一族のために迎えるため。」
「優秀な子種だって?…。」
「ああ、そうね。男と女の睦みあいは、これ即ち、子孫を残すための手段。おまえの荒く猛々しい子種は私と結ばれて、強き良き子が生まれる。」
「それで良いのか?…おまえは…。」
 乱馬は珊璞を見上げて言い放った。
「男と女の睦みあいは、子を成す手段だけのことなのか?」
 その言葉を聞いて、珊璞はふっと笑った。
「子を成すこと。それは全ての生命に与えられた崇高な使命ね…。優秀な血を後世に残すこと、それ即ち、私たち女の最大の生きる証…。わかりきったことではないか。」
「確かに…。生きる証には違いねえが…。だが、俺は…。俺は、愛した女に俺の血を残させてえ。訳の分からぬおまえのような異国の女狐に与える種などない。」

「ふん。その抗いの意志がどこまで通じるか。」

 珊璞は羽織っていた薄い絹衣をはらりと脱いだ。

「もう逃れられはしない…。ほら、私の肉体に触れる、よろしい…。」
 降りてくる女体に乱馬は必死で抗おうとする。だが、手は己の意志に反して、珊璞の身体へと伸び上がっていく。
 珊璞の妖しい瞳が輝きながら乱馬を見下ろす。その瞳の中に、確かに「魔性」を見た。
 釘付けられて動かない。

「そのまま抱くよろし…。」
 勝ち誇った瞳で乱馬へと、口付けようとした瞬間だった。

 乱馬は思わず触れた珊璞の髪から、それをもぎ取っていた。最後の抵抗心が無我夢中でそれを探らせたのかもしれない。
 手の中に納まったもの、それは、女人の髪を飾る「カンザシ」であった。最後の意志の力を振り絞って、そのカンザシを珊璞の柔肌に突き立てたのだ。

「うっ!」

 突然の激しい痛みに、彼女は上体をくゆらせた。彼女の美しい腕から鮮血が滴り落ちる。乱馬が夢中で振りかざしたカンザシが、彼女の左腕へ突き刺されたのだ。

「しめたっ!」
 
 珊璞の呪縛から解き放たれた。

「己っ!!何するかっ!」

 髪を振りかざして襲い掛かる女体に向かって、彼は、傍にあった香炉を彼女目掛けて投げつけた。

「きゃあっ!」
 悲鳴が彼女を襲った。香炉が目の前で弾けとび、中から灰が舞い上がる。その灰を浴びて、珊璞は後ろへと後ずさる。

「やっぱりな…。貴様の操心術とは、香とその瞳の輝きが一体化したものなんだろ?香で俺の動きを封じ込め、その妖しい瞳を俺に向けることによって、惑わせる。一種の催眠術。だから、目の光さえ封じてしまえばっ!」

「くうっ!」
 珊璞はばっと身構える。手にはどこから取り出したのか、剣を携えていた。

「やめとけ、剣の腕は俺にはかなわねえ…。」
 乱馬はすっくと立ち上がって睨み付けた。
 それからふっと闘気を納めた。
「どうした?私を斬らないのか?」
 珊璞ははっしと睨みつける。

「ああ…。おめえを斬ったら容赦はしねえっていう殺気を近くから感じるんでな。…おめえの命をもぎ取ろうとまでは思わねえ…。女を切るのは主義に反するんでな。」
 そう言うと乱馬はくるりと背中を珊璞に向けた。
 珊璞は持っていた剣を構えて乱馬の背中を睨み付けた。今にも切りかかりそうな風体で。だが、乱馬は振り返りもせずに言った。
「やめとけ…。おまえが剣を抜けば、俺も容赦はしねえ…。それに、剣を納めた者を背後から切りつけられるほど、おめえの一族は腐っちゃいねえだろう?」

 それだけを言い残すと、さっさとその場から出て行った。

「くっ!」
 珊璞は悔しそうに剣を投げ出すと、その場へ、へたりと座り込んだ。

「ほんに…。ますます奴の血を我が一族へと注ぎ入れたくなったのう…。」

 奥からしわがれた声がして、一人の老婆が現われた。可崘である。

「あやつ、ワシの存在にも気付いておったようじゃ。侮れぬ奴じゃ。」
 そう言うと可崘は珊璞を見下ろした。
「どうじゃ?もう奴を付け狙うは、やめるか?やめて、沐絲あたりで手を打つかのう…。」
 孫娘の意志を確認するように言葉をかけた。
「諦めないね。絶対に、乱馬の子種、私の中に注ぎ入れる。」
 珊璞は下唇を強く噛みながら言った。傷ついた彼女の左腕から滲み出る血が、一筋の道を作り、床へと流れ落ちた。
「ほーっほっほ。それでこそ、我が一族の女じゃ。しかし…。一筋縄ではいかぬのもまた事実…。そこでじゃ。」
 可崘はにっと笑みを浮かべた。
「あの男の想いを一心におまえに手向ける良い方法がある。」
 そう言って目を細めた。
「本当か?ばば様。」
 珊璞の目がきらりと輝いた。
「ああ、良い手がな。じゃが、その手を使うためには、今一度、おまえの気持ちを確かめておかねばならぬ。…。どんな汚い手を使ってでも、あの男が欲しいか?」
 じっと見据える玉の瞳。
「欲しい…。あの男の子種、手に入れるためならば、魔物にこの身体を売ってもいいね。」
 激しい言葉が彼女から漏れた。
「わかった…。この手を使えば、必ずやあの男はおまえになびく。そして…。子種をおまえの中に注ぎ入れることになろうぞ。だが、修羅に手を染めるのを覚悟せよ。珊璞よ。」
「わかってる。どんなに卑怯な手でも、一度決めたこと。決心は揺るがない。」
「ふふふ…。それでこそ、我が曾孫。では、その法をおまえに授けてやろう。あの男の愛する者と成り代わる、秘術をな。ほーっほっほっほ。」

 老婆の不気味な笑いが邇磨の海へと響き渡った。




二、

 まだ降り続く雨の中、ずぶ濡れになった青年が、その戸口の前に立っていた。
 古びた戸板がガタガタと音をきしらせて、開いた。

「良牙様?」
 
 中から一人の若い女性が、真夜中の訪問者を驚いて迎え入れる。家の中が一瞬騒然となるのが、外まで伝わってくる。

 良牙はじっと出てきた女を見詰めた。
 愁いを帯びた寂しい目だ。

「どうなされました?このような夜中に…。」

 そう女性が声をかけた途端、その逞しい腕が強く彼女を抱きしめた。

「良牙様?」

 女ははっとして彼を見上げた。

 良牙は黙って雨に濡れながら、女を抱きしめる。かすかに震える彼の肩に、泣いているのがわかった。冷たい雨が二人の上に降り注ぐ。

「とにかく、こんなところにずっといらっしゃっては風邪を召されてしまいまする。さあ、どうぞ、中へお入りになってください。」
 女は静かに笑いかけながら良牙を住居へと誘った。

 突然の訪問者に驚いた家人たちが、大慌てで火を焚き起こしていた。
 ここは、良牙の住まう、響の郷からそう遠くない、地続きの小さな邑里。人々は「雲竜の邑」と呼んでいる環濠(かんごう)集落だった。
 集落のぐるりに利根川水系の沼地から流れ出る川を利用して、濠を築き上げていたことから、地元では「水の民」と古くから呼ばれてきた一族。
 産土神はそんなことからも「水神」であり、水を治める邑でもあった。水の神をあがめていた。丁度、良牙の出自、響の邑の者は「狼」を祖先に持つと言い伝えられていたのと同じように、この雲竜の邑のの一族の祖先は「竜」だ信じられていた。
 昨日からの雨で環濠の水も増え、普段は静かな水面も、ごうごうと音を立てながら流れるのが、家の中まで聞こえてくる。
 建て続きの集落から、一人の実年の男が大慌てで飛び出して来た。がっちりした体格は、良牙のそれと引けを取らない。
「これは、婿殿。」
 そう言って良牙を快く迎え入れた。
 この雲竜の邑長、明郎女の父親であった。

「急なお越しで。わかっていましたら、起きて待っておりましたものを…。」
 そう言って人懐っこい笑顔を向けた。
「あ、いや…。急に明郎女の顔を見たくなって…。ただ、それだけでござりますれば、どうか、お気遣いなく。」
 良牙は出された布で身体の水滴を拭った。

「おお、そうでござったか。まだ夜明けまでは遠い。今夜はゆっくりと明郎女の元へとお泊りになられよ。…何かござったら、遠慮のう、家人に申し付けてくだされ。」

 一通り挨拶を終えると、邑長は自分の寝屋へと戻って行った。
 後に残ったのは明郎女と彼女に仕える付き人の女だけ。

 ほっと人心地がつくと、付きの女も心得たもので、すっと部屋から居なくなった。
 しとしとと外はまだ雨。
 少し立派めに建てれた、竪穴式住居の草葺の屋根の上で雨が弾けているようだ。
 春先とは言え、まだ夜中は寒い。
 明郎女は付き人の女が起こしたカマドの火の近くに良牙を誘うと、静かに座した。
 彼女の美しい玉肌は、炎に生えて、美しく見える。たおやかにたわむ、お腹は、そこに、赤子が居ることを伺わせる。まだ、そう大きくはなかったが、順調に育っていることが窺い知れた。

「わ子は健やかか?」
 良牙は父親の顔になって尋ねた。
「ええ…。この頃はお腹の中で元気に跳ね上がりますの。」
 あかりはにっこりと微笑みかけた。
「動くのか?」
 良牙は目を輝かせて彼女を見返した。
 こくんと揺れるはにかんだ顔。
「そうか…。動くのか…。」
 納得したような顔を差し向けると、良牙は着物の上から、お腹の上へと手を差し向けた。
「父君ですよ…。わ子や。」
 あかりはそう言って、お腹へと話し掛けた。と、トンとお腹が動いた。
「おお…。本当だ。動いている。」
 良牙はそう言うと、慈しみの表情をあかりに手向けた。
 それはとても不思議な感触だった。せり出したあかりのお腹には、脈々と新しい命が息吹いている。この世に生まれ出ることを望んでいるように、その生命は逞しく母の腹を蹴り上げているのだ。
「不思議なものだ…。生命というものは。」
 良牙はあかりの顔を見ながら、そう呟いた。
「ここに良牙様と私の命の絆がございますの。」
 嬉しそうにはにかみながら答えるあかり。その満ち足りた表情を見ながら、良牙は寂しげな顔を手向けた。
「父も母も、こうやって、生まれてくる新しい命を慈しむものなのか…。我が父も母も、俺が生まれる前には、こうやって語り合ったのだろうか。」
 つい先刻、言い争った母、石英の顔が、良牙の脳裏に浮かんだ。
「良牙様?」
 あかりは不思議そうに良牙を見上げた。そして、良牙の顔に苦悩の表情があることに気付き、はっとした。

(良牙様は何かを苦しんでおれられる…。だから、こうして私の元へ…。)

「のう、明郎女。例え、生まれてすぐ我が子と引き裂かれても、母親は、そして父親はその子供の行く末を思えるものなのだろうか。」
 ぽつんと言い放った。
「勿論でございますわ。たとえ離れてしまっても、血の繋がりは絶対です。自分の御身を分けた子ですもの。たとえ、離れていても、どこかで繋がっているものですわ。」
「血の繋がり…、か。」
「ええ、どこまでも連綿と続く血の繋がりです。離れていても呼び合う魂の繋がり。だから…人は、こうして愛する人との交わりを望むのですわ。自分の血を、確かに愛し合ったという証を、次の世代へと引き継ぐために。」
 あかりの表情には、母となる女の柔和な微笑みが宿っていた。
「ならば、明郎女は、その子を産むときに、俺が居なくとも大丈夫か?」
 良牙はそう切り出した。
「あなたと繋がっているという確たる信念があれば、多分…。私は…私は大丈夫です。」
 あかりは凛とした声で答えた。
「俺は…。」
 良牙はあかりの方を振り向くと、がっと抱きしめた。そして一気に、想いを吐き出した。

「あかり…。こんなことを言い出す俺を許してくれ…。」
「良牙様?」
 その逞しい腕に抱かれながら、あかりはそっと良牙の名前を呼んだ。
「俺は、西へ行く。行かなければならないんだ。」
「に、西へ?」
 唐突な言葉にあかりは驚いて良牙を見上げた。そこにある苦しげな良牙の表情を見て、あかりは悟ったのである。この人は別れを告げに来たのだということを。
「西…と申しますと、都ですか?」
 震えてはいたが、透明な声で胸元に囁いた。
「いや…。もっと遠くだ。」
「もっと遠く…。」
「ああ、俺は戦へ行く。大和の兵士として…。百済遠征へ。この度の徴兵に応じようと思うんだ。」
 一気にそう吐き出した。
「誰かが行かなければならぬのだ。この常陸の国からも。武人として戦いの場へ。俺は行ってみたい。そして、常陸以外の国をこの目で見てきたいんだ。」
 一気に溜めていた言葉をあかりへと吐き出した。
「百済へ…。」
 飲み込むようにその言葉を胸へと沈めると、あかりは静かに言った。
「私には良牙様を止める言われはありませぬ。良牙様がそうしたいと言うのでしたら、それは仕方の無いこと…。でも…。」
 そして、穏やかな表情の中央にある、意志の強い瞳を差し向けた。
「きっと…ここへ、わ子を抱きに帰って来てくださらなければ…、そう約束していただかねば、嫌です。」
「あかり…。」
 あかりの目に涙が浮かんでいた。それは、強い女性の清らかな涙であった。
 その涙を見て、良牙は愛しいという想いが一気に胸を突き抜けた。か細そうに見えるこの腕、そして弱そうな身体。だが、あかりには「真の強さ」があった。
「ああ…。約束しよう。俺は決して命を散らすために西へ行くのではないからな…。この腕を試してみたいんだ。広い世の中で。そして、今よりももう一回りも二回りも大きくなりたいんだ。そなたと…それからまだ見ぬわ子のために。」
「きっと…、きっと私の元へ帰ってくださいますね?」
 あかりは念を押す表情を手向けた。
 彼女にはわかっていたのだ。ここで引き止めたとしても、彼の心は繋ぎとめられないと。下手をすれば全てを失うかもしれないと。
 身重でなければ、己もついて行くと言ったかもしれない。
「帰ってくる。そして、その時こそ、二人で新しい一族を築こう。響でもない雲竜でもない、新しい一族を。」

 良牙もまた、武人の心を持っていたのだ。
 己が大和の徴兵に応じて、西国を目指すということ、それは彼を育てた父と母から決別することを意味していた。
 父が盟友の養父を殺害して、その盟友を追い出してまで手に入れた「響の族長」という地位。安穏とそれを自分の手に引き寄せたいとは思わなかった。いや、己にはそんなものは必要ないと思ったのだ。
 父が作った道を歩くくらいなら、あえてそれから逸し、己の道を築きたかった。前を行く乱馬という盟友を追い越したいと思ったのかもしれない。人が作った道を歩くままでは、いつまでたっても、乱馬には追いつけない。だからこそ、常陸の国を離れて、敢えて未知の世界へと飛び出すことを選んだのだ。

 良牙はぎゅっとあかりを抱きしめた。
 愛しくて愛しくてたまらない女性。それがあかりだった。妻問いをし、そして、互いに強く愛し合い、子供を宿した。
「ありがとう…。あかり。俺はおまえをいつまでも妻として大切に思っている。たとえ離れていても、俺の心はいつもここに、おまえの元にある。」
「良牙様っ!」

 互いの心を確かめるように、二つの影は互いを強くそして、激しく求め合った。

 あれほどやかましかった雨音が、いつしか止んだ。雲が切れ始め、月が天上へと姿を現した。
 二つの魂のぶつかりあいを、そっと見守るように、月は静かに地上を照らした。
 




三、

「雨があがったようだな…。」
 九能の若がふっと言葉を漏らした。
 腹の下には柔らかな女体がある。
 まだ互いに荒い息が残っている。
 彼女の流した赤い印を見初めながら、満足げに微笑む。
 
 彼女を手に入れた満足感が、九能の若を満たしきる。
 獣のように激しく彼女を求め、彼女もまた、己の腹の下で共に喘いだ。
 
「これでおまえと私は妹背だ。」
 そう、微笑みかけて柔らかく声をかけた。
「妻問いの宝をおまえに。」
 そう言って傍らに無造作に置かれた召し物の中から、ひとつの美しい勾玉を取り出した。それは見事な翡翠でできた勾玉である。
 勾玉はわが国独自に発展した装飾品だったようだ。倭国以外の土地では殆ど見られない、独自の勾玉文化を形成していたらしい。韓国の古代遺跡から出土したこともあるが、だからといってかの国に勾玉が広く分布していたわけではなさそうだ。
 中でも翡翠の勾玉は特に貴重なものとして取り扱われてきた。それが大きければ、言うまでもない。机代物としては破格の贈呈品であったろう。

「これは我が一族に古くから伝わる、大陸渡来の勾玉だ。おまえに良く似あうぞ…。その高貴な美しさは、これから以後は私のためにあるものぞ。」

 そう言いながら九能の若はあかねを抱き寄せた。

 雨が上がり、宵の月がさやかに天上から地上を照らしこめてきた。その明りが、簾を通して、寝屋の中へも差し込めてくる。
 月明かりに抱いた愛しき人の顔が浮かび上がった。

 微笑みながら九能の若を見上げていたのは、茜郎女ではなかった。

「そ、そなたは…。」

 今の今まで、掻き抱いたのが茜郎女と信じて止まなかった九能の顔色がすっと変わった。

「嬉しゅうございますわ。若君がそこまで私のことを思っていてくださるとは…。」
 九能の若が妻問いの宝として差し出した、大粒の勾玉を手に握り締めると、女はふっと微笑んだ。

「そ、そなたは、茜郎女の姉媛…。」
 九能はそれだけを吐き出した。

 そう、九能が抱きしめていたのは「靡郎女」だったのである。

「い、いつから、そなた…。」

 九能の若は唖然とした表情で、なびきを見下ろした。

「あら、始めから、ここに寝ていましたのは私でございますわ。…。私を妻にするために、あなた様は夜を忍んでお尋ねくださったのでしょう?私をその妻に迎え取るために。…何よりこの美しき「妻問いの宝」は、その証…。」
 なびきはにっと笑うと、すぐ隣りの部屋へ声をかけた。

「ばあや、ここへ「百取の机代物」を。」

 その時、九能の脳裏に浮かんだのは「謀られた」ということだった。
 
 ややあって、天道の館は賑やかになる。人々の眠りの帳も上がったようだ。佐助が仕込んだ薬の効果も消えてしまったのだろう。
 暫くして、待ち構えていたように、朝餉の膳が運ばれてきた。しかも皮肉なことに、それを持って現われたのは、九能が求めていた、茜郎女であった。




「そんな、無茶な!」
 
 最初、姉のなびきから、今回の計略を聞かされたときには、我が耳を疑った。

「あら、何が無茶なものですか…。茜郎女、そなたにあの若と結ばれたいという意志がないのであれば、この方法は有効だと思うわよ。私は。」
 姉媛はそう言ってにっと笑った。
「そんな…。姉上があの男と契りを結ぶだなんて。」
 その後の言葉がつげなかったくらいだ。
「悪い話じゃないと思うわ。九能氏だって、ずっと我が天道氏と関係を取り結びたがっていたし、父上だって、その求めに応じて最初はあなたを九能の若と婚姻させようと思っていらしたんですもの。それに…。小耳に挟んだけれども、あなたが乱馬様と婚姻の約束をされてから、九能氏の長はお父様に結構辛く当たっていらっしゃっるそうなのよ。」
 表情ひとつ変えず、なびきは妹に言い聞かせる。
「でも、それじゃあ…。」
「あんまりだとでも言いたいの?あたしに気を遣うことはないわよ。私ももう十七ですものね。ここらで婚儀を結んで、子供の一人も居ても良さそうな年頃よ。」
 なびきは妹を見ながら笑った。
「だからって、どうして九能の若なのよ。」
 あかねは怪訝な瞳を差し向ける。
「本当、あなたってまだまだ子供じみているのね。…。九能の若は確かにあなたの好みではないのかもしれないけれど、私にはとっても魅力的な男に見えるの。何しろ、この辺りの豪族の一番手、九能氏の嫡子なんですもの。あの壮大な実権はいずれ彼の元へと下ることになる。」
「あんな男に嫁したところで、九能氏の将来は目に見えているわ。…。」
「手厳しいのね、茜郎女は…。だからこそ、正妻となる女の手腕にかかってくるのよ。」
「正妻となる女の手腕?」
「そう…。上手く男を操れば、人生は安泰するわ。ああいう男だからこそ、それを上手く操る魅力があるものなのよ。私はあの男に嫁いで、この手に常陸国、いえ、東国の権力をこの手に入れるわ。」
「東国の権力…。」
「ええ、そうよ。西の大和は大王の一族が既に権力を一身に集めてしまっているわ。そこへ入り込むには、皇族と言う身分が必要だけれど、これから発展する東国なら、まだまだ権力は未分化。面白いじゃない。彼と結ばれて、常陸国一番の権力をこの手にするなんて。」
 姉の言葉はどこまで本気なのか、どこからが希望的観測なのか、あかねには度し難かった。だが、きらきらと光るなびきの瞳は「本物」だった。九能氏へ飛び込むことによって、その力を一身に集めてやる。そういった気迫のようなものが伺えたのだ。
「それに…。さっき、斎媛様に、占ってもらったの。私と若の相性などをね。」
 なびきはそう言ってにっと笑って見せた。
「そうしたらね、彼にとっても私にとっても最良の相手なんですってさ。幸先が良いじゃない。斎媛様の占いにも良い卦が現われるなんて。」
「でも…。」
「あら、斎媛様の占いは良くあたるでしょう。それはあなたも良く知ったところ。禍は転じて福と成せ…。そう出たじゃないの。」
 あかねは黙ってしまった。
 姉は本気で九能の若の元へと身を投じようとしている。それだけはわかった。
「姉上は…。姉上は、あの若をずっと愛せるの?」
 一番肝心なことを問いかけていた。
「愛は何も情だけではないの。人間に纏わり付く、様々な事を含めて考えるなら、彼の毛並みは今の私には極上ね。…それに、心配しないで。あたしもあなたの姉。天道氏の血を受けた娘。九能の若くらい、惹きつける力を持っているつもりよ。」
「でも…。」
「愛にはいろいろな形があるわ。あなたのような純愛だけが全てではないの。妥協と騙しあい、そして略奪愛だってある。」


 そこまで言われてしまえば、無下に反対することもできなかった。
 姉が今まで独身で通して来たのは、自分の眼鏡に敵った男が居なかったことに尽きる。どんなに言い寄られても、結婚を申し込まれても、何かと難癖をつけては断ってきたのだ。その姉が、妹に言い寄ってきた男と結ばれることを良しとしている。尋常の沙汰とは思えなかった。

(姉上はもしかして、九能の若のことを見初めていたのだろうか…。)
 今まで傍に居ながら気が付かなかった衝撃的な姉の想いに、あかねはすっかり飲まれてしまっていた。淡々とした態度の中に見せる、姉の一風変わった愛の形が、そこにあるのかもしれない。



 茜郎女は、作り笑顔を浮かべると、静かに九能の若の前に進み出た。

「これで、九能の若様は私の兄(いろど)ということに相成ります。」

 そう言いながら静かに膳を差し出した。
 百取の机代物として設えられたものだった。

「何故、このように手際よく準備されているのだ?もしかして…。」

「あら、あなたが今夜ここへ起こしのことは、私たちにはわかっていましたもの。」
 すっかり召しかえしたなびきがふっと微笑みかけた。
「わかって私をはめたというのか?」
 九能の若は靡郎女を驚きを持って見返した。
「ふふふ…。これで天道氏と九能氏は縁続きになれたわ。きっとあなたの父君も私の父君も喜ぶと思うわよ。」
 なびきはあっさりと言い放った。
「それから…。妹の茜郎女には私の目が黒いうちは手は出させないからそのつもりで…。」
「な…。」

 この時代、兄媛、弟媛と揃って同じ男へと降嫁することは決して珍しいことではなかった。記紀神話にもそのような話は載っているし、現に乱馬が仕えている大海人皇子は同じ腹の葛城皇子の娘、大田皇女と鵜野讃良皇女の二人を同時に娶っている。早世した大田皇女は大伯皇女と大津皇子を、鵜野讃良皇女、後の持統帝は草壁皇子を産んでいる。
 
 暗に靡郎女は九能の若へと心理的圧力をかけたのである。茜郎女へ手を出さぬようにと。

「まあ、お戯れを。姉上様。私には夫、響乱馬が居ますわ。」
 茜郎女はあらかじめ言われたとおりに立ち居振舞う。まだ、彼女は乱馬が響姓から早乙女姓へと変わったことを知らなかった。
「そうよね…。あかねには乱馬殿が居たわよね。」
 靡郎女の圧力は、ぐいぐいと九能を押していく。
 だから、絶対に、茜郎女には手を出させない。と言いたげだ。

 単に妹を守ろうという、強い意志だけではなく、案外激しい情熱を、このすぐ上の姉は持ち合わせているのかもしれない。

 どこかで鶏が時を告げた。
 そろそろ夜の帳も明け渡るだろう。

 新しき朝は来る。
 東国にも西国にも。
 また新たな一日が始まろうとしていた。





第十九話 狼の末裔 につづく



雲竜の邑
当然のことながら一之瀬の創作です。
残念ながら、私は筑波付近は全く知らない土地なので想像の産物。
調べたところ、古代の利根川は今よりももっと湿地帯が大きかったようです。縄文時代へ下ると、下総は殆どが水地だったようです。
場所は特に比定して書き出していないのですが、その辺りは適当に想像で読み飛ばしてくださいませ。






(C)2004 Ichinose Keiko