第十七話  春嵐



一、


 菜種梅雨。誰がそう呼び始めたのだろうか。
 菜の花が一斉に咲き乱れるこの春の頃、春雨が降り続くことがある。
 降ったりやんだりを繰り返しながら、夕方になっても天気は一向に回復しなかった。

「これ、良牙。さっきから何をむっつっとしておいでじゃ?」
 傍らで石英(せきえい)が声をかけた。
 石英。雲牙の正妻であり、良牙の生母である。現在の邑長の正妻であるから、この邑の女の中では格段に高い地位に居る。
 年の頃合は四十過ぎといったところだろうか。
 まだまだ、女の妖艶さを持っている。目鼻立ちは良牙の母だけあって、彫が深く、口元から八重歯がのぞいていた。

 この時代、八重歯は忌み嫌われて、抜歯(ばっし)される習俗がまだ残ってはいたが、この響の一族の者たちは、そのような野蛮な術を持たなかった。
 抜歯は主に犬歯に対して行われる。悪魔の歯、鬼の歯、獣の歯として、昔からこの尖った歯は、人々の呪術的思考が手向けられていた。
 未発達な社会にあっては、「成年式」のひとつの行事として、抜歯を行ったところも多かったようだ。縄文、弥生、両時代通じて、犬歯を抜かれた人骨が多く出土することが、抜歯の風習が広く流布されていたことを物語っている。
 成年を迎えるに当たって、この忌々しき歯を抜く。その痛みに耐え得る者だけが「大人」として認められた。そんな社会もあったのである。
 だが、この響の一族は違っていた。周りの種族が抜歯を行っていたにも関わらず、犬歯は抜かなかった。何故なら、この一族は「狼」から転じた末裔と信じられていたのである。立派な犬歯を持つことは、一族の誇りでもあった。だから、八重歯でも一向に嫌がられはしない。むしろ、立派な八重歯は一族の誇りでもあった。

 良牙も実は八重歯である。それも尽く四本とも、前にせり出した歯並びであった。その口元も、おそらくは、母親譲りのものだったのだろう。

 母親の手向けた目を、良牙はふっと逸らしに掛った。
「良牙?」
 一見して機嫌が悪いことが見て取れる。そんな息子を石英は訝しげに覗きこむ。
「今日は、妹背のところへは出向かなかったのか?」
 と続けざまに訊いた。
 まだ、良牙は明郎女をこの響の邑には迎え入れては居ない。現在妊娠している彼女は、夏にも出産する予定であった。
 この時代の夫婦は互いに通い合い、そして頃合を見計らって一緒に住まいを定めた。多くの場合は夫の所へ入ったようだが、その逆もあったし、勿論、全く別のところへ居を構えることもあっただろう。いずれにしても、だいたいは子を成してから同居というパターンが多かったようだ。
 だから、妊娠した妻が同じ屋根の下に居なくても不思議なことではなかった。
 良牙は何を問いかけられても、黙って俯いていた。
 だが、そんなことは一向に構わずに、石英は続けて言った。

「おまえ、この頃、雲竜の郷へは行っておらぬのだろう…。どうした?もう飽きたのか?」

「違うよ。そんなんじゃねえよっ!」

 さすがにその言葉には良牙がカチンときたようだった。
 母親を睨み返して吐き捨てるように言った。

「じゃあ、何なんだい。そのふくれっ面。」
 石英はフンと鼻先で笑うと、息子を見返した。
「何でもねえっ!!」
 良牙はそのまま母親の傍をすり抜けて、自分の寝屋へと入り込もうとした。
 良牙たちの郷の家は、まだ竪穴式住居である。この時代の住居の多くは、まだ、竪穴式住居が主流であった。立派な柱を擁した建物は、まだごく一部。
 庶民の多くは、草葺き屋根を持った掘っ立て小屋のような竪穴式住居であったのだ。そこに家族単位で暮らしているのが普通だった。良牙の父、雲牙は一族の長になったので、もう少し気候が良くなったら、高床式の少し立派な建物へと居を移す予定ではあった。
 雨は竪穴式住居の草の屋根の上を、また、ばらばらと音をたてながら降り始めた。

「まあ、こんなお天気だから、わざわざ、雲竜の郷にまで出向くなんて気にもならなかったんだろうが…。おや、おまえ。珍しく今日は酒臭いね。さては、この邑中にも女が出来たのかい?」
 そう言って石英は意味深に笑った。盛んなことは良い事だとでも言いたげな光が瞳に灯る。

「うるせえっ!そんなんじゃねえっつーてんだろ?」

 ますます良牙の息は荒くなる。
 確かに酒は入っている。乱馬と雲斎の話を聞きに回るのに、あっちで訊き、こっちで訊きしているうちに、物好きな年長者たちから杯を手向けられたのだ。
 まだ酒が貴重品だった時代だから、そうがぶ飲みできるものではなかったが、それでも、時々人々は蓄えた酒を嗜んで、慰みとしていた。
 ちょっとずつでも、相手した数が多ければ、自ずと酒に酔うのも、あたりまえだ。しかも、決して楽しい酒ではない。

「たく。もっとしゃっきっとなさいよ!今のおまえは、響の郷の次代の邑長なんだよ!腹違いの兄弟たちとは、訳が違うんだっ!年長のおまえがしっかりしないで、どうするつもりだい?」
 やれやれと母親は息子を見返しながら溜息を吐いた。その溜息も、良牙には気に入らなかったらしい。

「うっせえよっ!俺はあんな野郎の跡なんか取りたかねえよっ!!くっだらねえっ!!」

「何だってえっ?」
 一瞬、へらへらしていた石英の顔が強張った。
「だから、俺は親父の跡はとらねえっ!邑長なんぞはクソ喰らえだっ!!」

「な、何を言い出すんだっ!この馬鹿息子っ!」
 石英は言葉を激しく叩きつけた。
 売り言葉に買い言葉だ。
「親父に言っておけよっ!てめえの跡は腹違いの兄弟たちへ譲れとなっ!」

「馬鹿っ!!」
 思い切り母親の平手打ちが良牙の頬へと入った。
「何を言い出すんだいっ!!父上が、雲牙様が苦労して手に入れなさった邑長の地位がくだらないだと?これもそれも由緒正しきおまえに、邑長の地位を繋げるためにどれだけ父上が臍を食むような想いをなさっていたか、知りもせぬくせにっ!この罰当り者がっ!!」

 立て続けにそう叩きつけるように吐き出した。
 だが、良牙とて怯みはしなかった。

「由緒正しきだって?…苦労して手に入れただと?邑長の地位にどんな由緒があるってんだっ!それに、親父は雲斎殿が運良く亡くなって手に入れた地位で、どんな苦労があったってんだよっ!」
「おまえは古代より連綿と続く、狼の一族の真っ当な後継者なんだ。他の汚れた血など入っていない。おまえが邑長の地位を継がなくて誰が継げるとでも言うんだよっ!」
 激しい言葉の応酬だった。
「汚れた血だと?…誰に汚れた血が入ってるっていうんだよ!そもそも汚れた血って何なんだ?母上っ!!」
 酔った勢いも手伝って、良牙はいつもに増して母親に食い下がっていった。哀しいかなは石英。彼女は遂に要らぬ言葉を吐き出してしまった。それが、良牙の誘導尋問だったとは思いもよらずに。

「他の部族の汚れた血だよ!どこの者かもわからない。そんな者へ邑長の地位を与えれば、この先、我が響の氏はどうなっていくことかっ!おまえの父上様はその悪しき縁をお断ちになったんだ。その手でねっ!!」
「それは、雲斎様の御曹司、乱馬のことを言ってんのかよっ!母上っ!」
 乱馬の名前が良牙から出たのに、思わず石英ははっとして言葉を飲み込んだ。そんな母親の様子を見て、ますます良牙は勢い込んで問い質しに掛る。
「俺は知ってるんだよっ!いや、俺だけじゃねえ、この郷の者みんなだ。乱馬は他所からやって来た人間だってな。」
 一瞬戸惑いを見せた石英は、腹が決まったのだろう。ぐっと良牙を睨み据えて言った。
「ああ、そうだよっ!乱馬は他の部族から来た人間だ。人の良い雲斎様は何を血迷ったのか、乱馬に邑長を与えようと企んでいたのよ。あんな余所者に邑長の地位が手渡ってしまったら、ここまで由緒正しき家系を伝えて来た、ご先祖様方に申し訳ないではないのさっ!父上はそれを阻止なさったのだよっ!むしろ感謝しなくてはいけないくらいだろうがっ!この馬鹿息子っ!」

「だったら、何をしたって良いのかよっ!その手を汚してまでも邑長の地位にこだわる理由なんてあったのかよっ!!」

 遂に、最後の一撃を良牙は母親へと打ち下ろした。
 その言葉に、予想通り、石英は顔色を一瞬で変えた。

「おまえ、どこでそれを…。」
 押し殺すような声に変わっていた。

 良牙は母親のその言葉と態度の豹変に、哀しい確証を持ってしまったのだ。今までずっと心のどこかで否定し続けた「父親が邑長を殺した」という血塗られた事実を。

「誰だって考えればわかることだ。皆、邑長の親父が怖いから、声を大にして言わないだけだ…。」
 ぎゅうっと握りこぶしを作り、良牙は声を震わせながら搾り出すように言い放った。ボロボロと涙が溢れ出てくる。頬から伝った涙はぼたっと床へと滴り落ちた。

「ああするしかなかったんだよ。雲牙様は。…そう、雲牙様は天から機会を与えられただけなんだ。」
 さっきまでの勢いはどこへ消えたのか、石英は、良牙から視線を外して、歯切れ悪くぼそぼそと言葉を吐き出した。
「天が与えた機会だと?嘘を言うな。」
 良牙はあらためて、母を見やった。
「嘘などではない。雲牙様はおっしゃった。葦媛(よしひめ)様がそうしろとお告げを寄越したと。」

「葦媛様だと?」

「ああ、産土(うぶすな)の神様じゃ。狩場の森のな。」

 葦媛という名前ははじめて耳にする言葉であった。聞き覚えなどはない。

「雲牙様がおっしゃるには、狩場で不思議な女神様に会われたそうな。名は葦媛様。そして雲牙様に命じられたのだそうな。一族の正しき血を伝えるために、手を汚せと。」

「そんな、己を保身するために手を血に染めろっていう「神」は神様なんかじゃねえっ!邪神だっ!!」
 良牙はいらだつような声を母親に浴びせかけた。
「俺は…。俺は誰の指示も受けねえっ!…俺は、俺の赴くままに、行動し、生きていくっ!」
「良牙っ!!」
「それが、響の益荒男(ますらお)の生き方だっ!!」

 良牙はそれだけを言い放つと、家を飛び出した。強い決意を秘めて。

 煙る雨が、春の宵を闇に包んで行く夕暮れであった。




二、
 

 瀬戸内の郷にも、雨は降り続いていた。
 海も時化が続いていて波が荒い。
 その中で乱馬は、傾けられた杯を、邇磨の海賊たちから酌み交わしていた。
 この雨が止み、晴れ間が出たら、この地を発つ。そして、ここからさほど遠くはない伊予国の熟田津へと向かう。
 熟田津には、彼の主人でもある大津皇子が、皇祖母尊と共に乱馬の帰還を待っているからだ。大和朝廷軍の本体と合流して、いよいよ、筑紫の国は娜大津(なのおおつ)へと向かうことになっていた。
 娜大津。それは、今の博多港である。
 日本海を臨むこの港は、古来より中国大陸への窓口として栄えた。志賀島で出土した有名な「漢の委(な)の奴(わ)の国王」という金印。これが物語るように、一世紀以前からこの地は重要な拠点としてとらえられていただろう。
 大陸へ出兵する母港として、葛城皇子らは、ここへ皇祖母尊(すめみおやのみこと)、共々御幸(みゆき)し、本格的な百済行きを模索しようとしていたのだ。皇祖母尊と共にある、主君、大海人皇子の片腕としての役目を果たそうとしていたのだ。

「明日でこの邇磨ともお別れかのう…。」
 砺波の爺さんがぽつんと言葉を吐いた。
「暮らしやすそうな土地だったけどな。」
 千文が出されたご馳走を頬張りながら言った。目の前で獲れた海の幸はもとより、猪肉、鹿肉、鶏肉といった山の幸もある。当然ながら、昨秋取れた米もある。海の幸と山の幸。両方の恵みを受けた温暖な土地であった。
 邇磨の玄馬はこの地を発つ客人を、精魂込めて送り出す別れの宴を催してくれていた。
 ご馳走には酒、酒には女。
 老いも若きも男も女もごっちゃになって、この大和の若い武人との別れを惜しんだ。
 ここで暮らしたひと月半。その間に、乱馬はすっかりとこの郷の者たちと打ち解けた。
 邇磨の玄馬の主君なら、己たちにとっても主君。勿論、そのような考えもあったのだろうが、物怖じしないこの逞しき若者は、人々の心をとらえる「天賦の才」を持っていたようだ。
 人々は自分の宴を楽しみながらも、それぞれに乱馬との別れを惜しみにやって来る。乱馬の周りにはすぐに人垣が出来た。

「ほんに、乱馬殿は人気がござるのう。」
 砺波が誰にでもなくふっと言葉を吐いた。隣りに来た玄馬に向かって言ったのだろう。
「ああ…。そうだな。まっこと良き益荒男(ますらお)に育ったものよ。」
 それを受けて、小さな声で玄馬が応じた。
 乱馬がこの地に滞在していた間、何度と無く彼と言葉を交わした。組み手も交えた。玄馬よりも一回りも二回りも細い体ではあったが、強肩で見事な格闘センスを持っていることを身を持って知った。
 決して奢らないし、何より生真面目だ。
「まるで若い頃のあなた様を見ているようだ…。」
 燃え盛る焚き火に魅入られながら、砺波が目を細めた。
「若い頃のわしか…。」
「乱馬殿の目にはまだ一縷の曇りもない。見なされ、あの澄み切った目を。」
 きらきら輝く若人の目は曇りを知らない。
「あやつには、あの瞳の輝きをいつまでも失って欲しくはないものだ。」
 玄馬は自嘲気味に笑った。

 宴がたけなわになってくると、人々の輪はだんだんに崩れていく。そこここで酒気を帯び、それぞれに議論など始める者も居れば、酌の女に言い寄る者も居る。一人孤独に飲む者も居れば、歌や踊りに高じるものも居る。皆それぞれに、大和の若者の門出を惜しみながら、美酒とご馳走に時を忘れた。
 もとより酒は強くはないので、もっぱら食べるに徹していた乱馬だが、それでも、いささか酔った。

「そんなところで寝ていると、風邪を召されますぞ。」

 背後で聞きなれた太い声がした。
「岩麻呂か。」
 乱馬はふと声の主を振り返った。
 邇磨に来た時に、相撲で競り合った相手である。
 沐絲に操られ、汚い手を使って乱馬に勝とうとしたが、玄馬に見破られた。それから、たいそう大人しくなってしまい、郷の隅で息を潜めるようにこそこそと暮らしていた。
 玄馬も罪以上には咎めることはなく、肩身を小さくしながらも、この郷を追われることはなかった。
「俺ははゃんと謝ってなかったからな。」
 岩麻呂は一回り小さくなった身体を乱馬に差し向けた。
「謝るなんてことは…別に望んではいねえさ。おめえには罪はねえ。」
 乱馬はけろっとした言葉を岩麻呂へ返した。
「おめえは、単に、異国の道士に操られていただけだからな。」
 そうだ。彼を操っていた奴が居た。乱馬はそれを思い出していた。
「いや…。道士に付け入られたのも、俺の心に隙があったからだよ。」
 嫌に神妙に岩麻呂は乱馬へと言葉をかける。傍で吉備津直人が怪訝な顔を手向けながら杯を重ねていた。

「なあ、乱馬よ。ちょいと時間を俺にくれねえか。」
 岩麻呂は本題を切り出してきた。
「あん?」
「このままじゃ、俺の気が治まらねえ…。詫びの印に、乱馬殿にお目にかけたいものがあるんだ。」
「お目にかけたいもの?」
 乱馬はきょとんと岩麻呂を見返した。
「ああ…。とっても良い物だ。」
 岩麻呂はそう言ってにっと笑った。
「岩麻呂…。おまえ。」
 直人がふっと立ち上がって、岩麻呂に問いかけた。邇磨の面汚しがこの期に及んで何が言いたいと、鋭い視線を投げかける。
「まあ、そう目くじらを立てるな、直人。」
 乱馬は思わず仲裁に入ったくらいだ。
「俺だって、あの闘いで学んだことはある。直人とだって最初は本気でやりあったろう?…闘いの後はこうやって分かり合えるものだ。」
「乱馬殿は人が良いな…。」
「そうでもないぜ。」
 直人の実直な問い掛けに乱馬は屈託無い笑顔を手向けた。その笑顔。人懐っこさ。それが乱馬の武器でもあった。
 直人の鋭い視線で、その気が削げたのか、岩麻呂はその場ではそれ以上、乱馬に問いかけては来なかった。
 だが、更に饗宴が進み、人々の殆どがまどろみ始めた夜半、再び乱馬を誘ってきた。


「なあ、乱馬殿。ちょっとだけだ。手間は取らせねえ。乱馬殿にどうしても会いたいって人が居るんでな。」
 辺りに気を配りながら、こそっと岩麻呂が誘いかけた。
「会いたい人?この俺にか?」
 きょとんと乱馬は岩麻呂を見返した。
「ああ…。何でも乱馬殿を追って、大和から来たとか言ってた。どうしてもって言うんだ。」
「大和から来た…。心当たりはねえな。」
「悪いようにはしねえから、頼む、ちょっとだけ会ってやってはくれねえだろうか?」
 揉み手になって岩麻呂は乱馬を拝んだ。
「わかったよ…。良くわからないが、その人に会うだけで良いんだな?」
 乱馬は折れた。岩麻呂の低姿勢に、仕方があるまいと思ったのだ。

「良かった…。どうしても立つ前にって言われていたから。こっちだ。俺について来てくれ。」
 岩麻呂は前に立って歩き出した。

 その様子を寝ぼけ眼で見ていた目がある。千文だ。
「兄貴?」
 声をかけたが、乱馬には聞こえなかったようだ。
「岩麻呂と一緒にこんな夜更けにどこへ行くんだろう…。」
 好奇の目が彼を捉えたが、付きまとっていた同じ年頃の村の少女たちが、千文に声をかけた。
「千文さん。もうちょっと話の相手しておくれよ。」
「そうよ。あんたの話聞かせてよ。」
「千文さんの話、面白いんだもの。」
 引っ張りだこだ。
「あ、ああ…。」
 怪訝に思ったが、千文はそのまま乱馬の背中を見送った。そして請われるままに、邇磨の少女たちの相手をし始めた。


 乱馬はそのまま岩麻呂について夜道を幾許(いくばく)か歩いた。郷から少し離れた海沿いの岩場。
 いつの間にか雨があがっていた。雲間から月が見え隠れする。
「ここだよ、乱馬殿。」
 道先案内の岩麻呂はにっと笑って振り返った。手元の松明がゆらゆらと揺れている。
「ここ?」
 岩場の奥に、灯火がちらちらと揺らめいているのが見えた。
「蔀屋(しとみや)でもあるのか?」
「まあ、行ってご覧なせい。あそこでお待ちでございますから。」
 意味深な笑顔が揺れる。
「おめえは?」
「ワシですかい?ワシはここで待ってます。」
「ここでか?」
「へい。…ここから先は乱馬殿お一人で。それとも怖いですかい?」
「こ、怖いことなどあるものか!」
 乱馬はじろっと岩麻呂を見据えた。
「そうでしょうなあ…。この岩麻呂を倒しただけの男ぶり。怖いなどと言ったら綿津見の神様が笑いましょうぞ。ささ、行ってみなされ。さるお方がお待ちでございますれば。」

 合点がいかぬ気がせぬでもないが、乱馬は岩麻呂から松明を受け取ると、岩場の明かりへ向かってゆっくりと歩き始めた。

 雨上がりの夜道なので、地面は滑りやすい。一歩一歩、踏みしめるように歩いて行く。明かりは岩場にぽっかりと開いた洞窟から漏れていた。
「誰が待ってるってんだ?」
 怪訝に思いながらも乱馬は足を進めた。そして、洞窟の中へと目を転じた。
 そこには洞窟の中とは思えぬほどの輝きがあった。
 蜀の火がゆらめき、照らし出される足元の岩には、美しい絹の布が敷かれている。
「こ、これは…。」


「待っていたね…。乱馬。」


 聞き覚えのある高いクセのある声が奥から響いてきた。

 奥から現われたのは一人の女人。
 大陸渡来の仏像のような薄い絹衣をまとっただけの衣服を着けていた。それも、柔らかそうな白肌が透けて見える。
 髪は後ろに束ね、ゆらゆらと金色のイヤリングが耳元で揺れる。微かに香るのは炊き込められたお香。
 妖艶な輝きを持った笑いで、女性は乱馬を出迎えた。


「お、おめえは…。」


 乱馬はがっと持っていた剣を身構えた。 
 そう。目の前で笑っていたのは、難波宮でやりあった唐の女導士、珊璞だったからだ。


「そんな物騒な物は今夜は要らないね…。柄に収めるよろし。」
 ふふふと珊璞はたおやかに笑った。
「俺に会いたい人とは、おまえのことだったのか。」
 思わず声が荒がる。

「そう…。岩麻呂とか言う男に使いになってもらった。私、飛鳥の都から来た乱馬の妹背と言ったらすんなり信じてくれた。」
「なっ!」
 乱馬はその言葉にきっと睨み返した。

「それ、決して、嘘でない。…。何故なら、今宵、乱馬と私、ここで結ばれるから。」

 その言葉に何を言い出すかと乱馬はじっと珊璞を見据えた。そして、解き放った言葉。

「じ、冗談じゃねえ…。何を戯言…。」

「戯言なんかではないね。おまえは私を破った唯一の男。だから、私、おまえの子種貰いに来た。」
 珊璞はすっと乱馬の元へとひざまずいた。
「愛人(アイレン)。さあ、その逞しい腕で私の身体を抱くよろし。」
 ふっとふれる甘い髪の香。

「断るっ!」

 乱馬は一言、珊璞へと投げつけた。

 だが、それに対して珊璞はふっと不敵に微笑みかけた。
「おまえ、拒むことできない。」
 と、呟くように言った。

「何故ならおまえ、ここから出ることはできない。私を抱くまでは。」

 その声を合図に蝋燭の火がぼうっと大きく燃え上がった。
「か、身体が…。動かねえ?」
 乱馬は、自分の手足がまるで金縛りにあったように動かないことを発見した。

「ふふふ…。おまえ、私の術にはまった。だから逆らえない。」
 珊璞は嬉しそうに乱馬を見上げて、にっと笑った。
「畜生!何だってんだ?」
 足掻こうとするが、全く意志は手足に通じない。

「さあ、睦み合うね…。ここで、朝まで。」
 珊璞はそう言うと、乱馬へとその細く長い手を乱馬へと差し出した。





三、

 乱馬が邇磨の洞窟で危機を迎えた頃、やはり危機的状況へと追い込まれる一人の女性が居た。
 茜郎女だった。


 雨は人の気配を遠ざける。
 雨音が馬の蹄の音やわななきを隠してしまうのだ。夜の闇も深く、人は好んで表へ出ることすらしない。
 濡れそぼった白木の建物の前に九能の若はすっくと立っていた。濡れ落ちる水滴など、感じもしないようだ。

「佐助…。手筈は良いか?」
 傍らに侍った彼に問いかける。
「整ってございますれば。」
「ならば、そろそろ始めようか。」
「はっ!」
 佐助は心得ましたと言わんばかりに、屋敷の敷地内へと消えた。佐助は九能の若に仕えて幾許か。後世で言う「忍者」のように巧みに侵入できる能力を持っていた。彼にとっては偵察や浸入は得意中の得意。それをひとつの手段として、九能の若は天道家へと浸入するつもりであった。
 佐助が首尾よく帰ってくるまで、九能の若は邸宅から少し離れた掘っ立て小屋のようなあばら屋に身を潜めていた。身体は濡れそぼってはいるが、そんなことは気にならない。これから女を抱きに行く。期待が心を支配していたからだ。
 雨は一向に止む気配も無く、暗闇の上から降り注ぐ。
 どのくらいそこでじっと待っていたろうか。
 やがて、佐助が邸内から帰ってきた。

「どうだ?」
 九能は待っていましたとばかりに目を輝かせて迎える。
「上手く行ってでございまする。若。」
 佐助は頭から被った頭巾から目だけを出してにっと笑った。
「そうか…邸内の者は皆…。」
「この唐渡来の安眠香でぐっすりでございましょう。」

 そう。九能の若は、天道家に佐助を浸入させて、香を焚き込めてきたのだ。それも強烈な「睡眠香」をだ。
「くくく…。あの可崘とか言った婆さんの香はそんなに効き目があったか?」
「はい…。雑夫も雑仕女も皆、すやすやと眠りに落ちてございまする。先ほど試して参りましたが、邸内で騒いでも起きることはありませぬ。皆、朝までぐっすりと…。」
「ふふふ、ここまで来たら、成功したも同然。」
「後は、茜様をお抱きになれば…。」
 にっと笑うと九能は立ち上がった。
「若。まずは頭巾をしなされ。若まで香を吸ってしまわれれば、そのまま朝まで眠ってしまいますぞ。」
「おお、そうであったな…。この不眠香を擦り付けた布をすっぽりと被らねば、茜郎女のところまで辿り着けぬ。」
 九能は持っていた絹布をすっぽりとショールのように頭から目だけを残して巻きつけた。
「ささ、こっちでござりまする。」
 佐助は九能の先に立って、邸内へと入っていった。

 何度か九能の言いつけで、この館を訪れていた佐助は、邸内を知り尽くしていた。ただ、九能の恋文をここへ届けていたわけではなかったのだ。
 どこにどれだけ人が居て、何があるか。それは、見事に頭の中へと入っていた。

「あの庭先の建物は?」
 九能ははっと離れて立っていた建物を指差して佐助に問いかけた。
「あれは、天道氏の斎媛様の斎殿でござるよ。あそこにもちゃんと香は焚き込めておきましたれば、斎媛様もぐっすりとお休みでございましょう。」
 佐助はさらっと言って退けた。
「ほお…。斎媛の居所か。…で、茜郎女はどこにおられるのだ?」
「茜郎女殿は、この先の奥まった一室で寝泊りしてござりまする。」
 佐助はそう言って廊下を伝っていく。
「ほれ、あの先。あの御簾の向こうに伏しておられまする。」
「おお…。あそこが媛の臥所とな…。」
 九能の若はにっと笑い含めた。
 と、佐助はつっと九能の若の背中を押した。
「さあ、若…。」
「うむ…。」
 九能はこくんと頭を垂れた。
「この時をどれだけ待ったことか…。やっと、媛をこの腕に…。この手で。」
 
「さて、私はここから先へは行きませぬ。この辺りで、お待ちしておりますれば…。後は存分に。」

 九能は佐助に促されるまでも無く、一歩一歩、踏みしめるように廊下を渡り、御簾の前に立った。
 それから軽く息を整えると、御簾へと手を掻け、中へと入っていく。

 蜀の火は消えて、中は真っ暗だった。
 廊下にはかがり火が焚いてあったが、それを持って入るのも何だか躊躇われた九能は、そのまま、暗い部屋へと足を踏み入れる。廊下の蜀の灯火が暗く辺りを照らし出す。
 だんだんと目が慣れてくると、うすらぼんやりと部屋の中が見えた。部屋の中には殆ど何も置かれては居ない。質素な部屋であった。
 中央には敷物のような薄い布団が敷き詰められ、その上に女性が眠っているのが見える。美しい長い髪が規則的に揺れながら、呼吸している。
 九能の若は何も言わず、じっとその様子を見ていた。
 愛しい媛がそこに眠っている。
 九能の若は懐をまさぐると、ひとつの小さな蓋のついた陶器の入れ物を出した。中にはざらざらとした粉が入っている。
 これも唐の導士、可崘が調合したものだ。媚薬だという。これを嗅がせれば、たちどころに人は傍に居る者の言うなりになるという。唐の貴族たちが、戯れに情婦に嗅がせて事に及ぶ時に使う薬だと聞かされていた。

「これでそなたは私の物だ…。茜郎女。」
 九能はそう呟くと、すっと、人影の傍へと立った。
 お香が効いているのだろう。起き上がる気配も無い。
 九能の若は意を決すると、陶器の蓋を開いた。それから指先で一つまみすると、眠っている茜郎女の鼻先へとぱらぱらと巻き始めた。こうしておけば、寝息と共に吸い込むだろう。
 また、彼は己の舌にもその薬を入れて舐めた。こうしておけば、睡眠香の効き目がなくなるのだという。

「茜郎女…。」
 九能は一言呟くと、すっと布団を引いて、己の身体を滑り込ませて行く。芳しい香の匂いと柔らかな人肌の温もりが、すぐ傍で感じられた。
「茜郎女…。」
 もう一声囁くと、九能の若は、後ろから茜郎女を抱きしめた。



第十八話 波濤 へつづく




石英
良牙の生母、響雲牙の正妻。
勿論、一之瀬の創作人物です。原作では良牙の家族に関しては「いつも迷っている」としか紹介されていませんでした。響家に置手紙があったので、母は生存してはいるのでしょう。
良牙を女性にしてちょっと老けさせた感じかなあと思っています。勿論、八重歯で妄想を(笑


産土神
土地の神様の総称です。
元々は氏神との対にあった「土地を守る神」だったのが、いつの間にか「氏神」と同意義になったとか。
この場合「葦媛」は可崘婆さんの策略で生まれた神です。だから純粋な意味での産土神ではなく「紛い物の神様」ということになるのでしょうか。


 さあ、どうする、あかねちゃん。そして乱馬は?
 このまま、九能の、そして珊璞の魔手に落ちるのか?


(C)2004 Ichinose Keiko