第四部 決志編


第十六話  嵐の前


一、

 弥生、三月。
 ようやく海の水もぬるみ始め、そろそろ筑紫に向かって出航できる季節になってきた。
 瀬戸の海の二月は風が吹く。思わぬ風に行き来する船たちは「沈没」を余儀なくされるようなこともあったという。「二、八(にっぱち)の強風」とか「二八かわい子、舟に乗らすな」とかいう言葉が今も瀬戸内の各地方には残されているくらい、旧暦の二月と八月は急に海が荒れることがあった。
 何しろ、斉明女帝と言えば、もう六十歳を過ぎた。「老齢」に入る。現代と違って、食生活も衛生管理もかなり劣っていた古代。その年まで、元気に生きられた人間は少なかったと思われる。また、形は元気でも、この老齢になってくると無理は禁物だ。
 海の荒波が治まる温かい時節になるまで、老齢の女帝をここで暫く滞在させようと、葛城皇子は考えていた。
 舒明帝治世十一年、六百三十九年、斉明女帝は夫、舒明天皇と共に、一度岩湯行宮へ行幸されていた。その時代より以前の五百九十六年にも聖徳太子が訪れている。道後温泉は古代より、名湯として大和朝廷の支配者層たちにも重宝されて、たびたび御幸されていたことが伺える。
 岩湯行宮は斉明女帝にとっても、夫、舒明帝との思い出の地でもあった。女帝も嫌な顔はせず、束の間のリゾート気分を味わっていたようだ。
 女帝がゆっくりと行宮で休息しているうちに、ある程度、筑紫国の滞在先を整備できる。また、付近の海邑から、兵力となる男たちを徴兵してくることもできるだろう。聡い葛城皇子はそう考えていたに違いない。

 一方乱馬は、岩麻呂と戦った時に負った深手で、まだ邇磨の郷で養生していた。思ったよりも傷の治りが遅かったのだ。それだけ重傷だったのである。
 勿論、ただ、ずっと寝ていたわけではなく、海の荒くれ男たち相手にそれなりの「修行」はしていた。

「乱馬殿はなかなか強い!」
 直人をしてそう言わしめたほど彼は強かった。身体や力だけではなく精神力も強い。
「あなたに敵わなかったのも、仕方がないことだったのかもしれませんね。」
 直人はそう言って笑った。
「俺は東国の原野に育ったからな。」
 乱馬はそう言いながらも、身体が鈍らないように適度に運動を続けていた。
 邇磨の玄馬は怪我に倒れた乱馬の代わりに、瀬戸内の海に出て、そこここの邑の長に掛け合い、大和朝廷の配下につくように進言して回った。
『このまま大和朝廷に楯突いても何の得にもならぬ。いや、唐国が攻め入ってくることも考えられる。ここらで朝廷に借りを作るのもいいだろう。』
 そう触れて回ったのだ。
 唐国が攻めて来る。その言葉は平和な瀬戸内の民にも刺激的に聞こえたようだ。何より、朝廷軍が皇祖母尊を伴って伊予国にまで来ているという事実が彼らを戦慄させたのである。
 こうやって、朝廷軍はその兵力を容易に増やしていった。

「乱馬め。邇磨の玄馬をここまで丸め込めるとは…。たいした男だ。」
 兵を統率する立場にあった大海人皇子も阿倍比羅夫も舌を巻いた。

 そろそろ、大和朝廷の水軍の本隊へと帰還できるくらいに回復した頃は、菜の花が一杯に咲き誇る麗らかな季節になっていた。春の到来は人を解放的にさせるらしい。
 乱馬は邇磨の豪腕、岩麻呂を倒したほどの男だ。邇磨の郷の女たちは、ここぞとばかりに色目を使ってきた。優秀な男の子供を身篭りたい。そう思うのは女性の本能なのかもしれない。
 恋愛に関して、比較的、自由闊達だったこの時代。が、当の本人は全く意識の外にあった。

「乱馬殿は女子に興味はないのか?」
 直人が苦笑したくらいだ。
「そうだよ…。兄貴…。こんな海辺にだって、良い女は居るだろうに。」
 からかい気味に千文が口を挟む。
「女に興味はねえっ!」
 乱馬は淡々としたものだ。
「どうです?今宵の宴の後、邇磨の女で気に入った者が居れば…。」
 直人がさりげなく乱馬に言った。
 明後日、邇磨を立つことになった乱馬に、一人、女を差し出そうと、そんな心配りを直人は示そうとした。
「いや…。俺は女はいい。」
 乱馬はその申し出を断る。
「健康体なら、何日も女を我慢できるものではあるますまいに。乱馬殿は邇磨の長にも匹敵するお方になられたんだ。何も遠慮なさることはないですぞ。それに、邇磨の女を側に侍らせていただければ、玄馬殿もお喜びになられる。」
 直人は乱馬が遠慮しているものと思って、しきりにすすめた。大方、玄馬にでも言い含められたのだろう。
「お気に召す女が居たら、いつだって差し出すと玄馬殿も言っておられたがなあ…。」
 砺波の爺さんまで、歯が抜け落ちた口元をにっと突き出して笑ってみせる。
「いや…。いい。」
 乱馬はそれでも頑なだった。
「兄貴さあ…やっぱり、そのなんて言ったっけ…。時々寝言で呼んでる妹背が恋しいのか?だから他の女が抱きたくねえとか。」
 ほつんっと千文が言った。
「うるせえっ!千文っ!」
 真っ赤になって乱馬は千文を睨み返した。図星だったのである。
 乱馬自身、心に誓っていた。あかね以外の女は決して抱かないと。そんなことをすればあかねが悲しむだろうし、もとい、己には彼女以外の女は必要ないと思っていたからだ。
「ほう…。乱馬殿には既に妹背がおられるのか。」
 直人が目を見張った。
「居るなんてもんじゃねえよ…。しょっちゅう寝言で呼んでるんだぜ。あかねっ、あかねってさあ。」
「こらっ!千文っ!余計なことくっちゃべるんじゃねえっ!」
 思わず手が出た。
 パシっと乾いた音がして、千文が後ろに吹き飛ばされた。
「これこれ…。乱馬殿。大人気ない。千文が痛がっておりますぞ。ふわっはっは。」
 砺波の爺が笑った。
「へえ…。茜郎女と申されるのか。…きっと可愛い女性なのでしょうなあ。…邇磨の乙女に全く興味を示さないほどに。はっはっは。」
 乱馬は顔を真っ赤に熟れさせて、そのまま黙り込んだ。
 これ以上口を開こうものなら、この場の好奇心の種にされてしまう。そう思ったからだ。案外シャイな青年だった。

「抱きたいと思う乙女が居ないのでしたら、それも仕方のないことでしょう…。明日は瀬戸内の海の上…。せめて、女を抱かないのであれば、旨い酒でも味わって…。明晩の邇磨の最後の夜を楽しみなされ。乱馬殿。」
 直人はそう言って笑いながら行ってしまった。

「たく…。いらねえことばっかり言いやがって。」
 乱馬はまだ千文を睨みつけている。千文は乱馬にはたかれた頬を撫でながらもにっと笑っている。
「だって本当のことなんだろ?兄貴…茜郎女って妹背、物凄く美しい人なんだろうな…。他に媛を娶りたくなくなるくらいに。俺も会ってみてえや。」

 自分とて逢いたい。心でそう思った。

 時々、あかねの夢を見た。
 夢の中で言葉を交わすこともあるが、目覚めれば、その気配が消え、決まって海に霧が立ち込めていた。楽しい夢を見れば見るほど、愛しさは募っていく。
 そんなときは決まって胸の青い玉を、そっと握り締める。



二、
 
 時同じくして、やはり赤い勾玉を握り締める女性の姿が常陸国にあった。
 憂いた瞳を、いつも西の方角へと向け、じっと流れ行く雲を見送って過ごす。
 この季節、関東平野では強い風が吹き渡っていく。「春一番」。今の人々はそう呼ぶ強い風だ。
 この時代は「花」といえばまだ「梅」をさしていた。「桜」ではない。その梅花の盛りもいつの間にか遠く過ぎ去り、西よりも少し遅い東国の春もたけなわになりつつあった。
 雲は上空を飛ぶように流れ、天気が良いと、遥か向こうに不死の山が煙を棚引かせているのが見えた。
 

「また、西の空を眺めているのね。茜郎女は。」
 姉のなびきがあかねに言った。
「あまつ空なる君を想う…か。」
 なびきは一緒に流れ行く雲を眺めた。
「で、また来たの?あの九能の若。」
 無口なまま空を見上げる妹になびきはすかさず問いかける。こくんと揺れる頭。
「本当、性懲りもなく…。」
 なびきはほおっと溜息を吐き出した。
 そうなのだ。九能の若はここのところ、三日とあけずに天道家へと通ってくる。それも、或る一つの野望を満たすべく、しつこく通ってくるのだ。
「いくらあんたに求愛してもねえ…。」
 なびきは呆れ顔で吐き出す。
 九能の若の願いは唯一つ。あかねを得ることであった。
 それでも、乱馬が居なくなった当初は、我慢していたようだ。だが、立春を過ぎ、水が緩み始めると、揺さぶりをかけるように天道家へと使いを寄越した。あかね本人だけではなく、早雲にもだ。あかねの美貌と器量にぞっこんになっていた若は、乱馬が居なくなると、必ずあかねが自分へと靡くと短絡的に考えていたのだ。
 勿論、あかねの答えはいつも決まっている。
「私には響乱馬という夫が居ます。」
 と。
 まだ、あかねは乱馬が響の氏名から独立して「早乙女乱馬」と名乗り始めていたことなど知らなかった。文を出そうにも、女はこの時代、殆ど字を習わなかったし、乱馬の所在も雲のようにつかめない。
 遥か西海の国での乱馬の活躍など、知る由もなかった。
 ただ、日々、その無事と安泰を祈ること。それに尽きたのである。
 いい加減、九能の若の求愛にはうんざりしていた。出来ることならば、その顔も見たくないと思った。
「本当…。あんたの気持ちは離れたことくらいで揺るがない確かなものだと、どうしてわからないのかしらねえ…。あのとうへんぼくは。」




 あかねが鬱陶しく思うのとは裏腹に、九能の苛々は募る一方であった。

「今日も良い返事は貰えなかったのか?」
 そう言って、使いに出た佐助を責め立てる。
「そんなことを言われても…。私には妹背が居ます、その一点張りでござりまして…。」
 そう言いながら佐助は主を見返した。
「天道早雲に使いを出しても、茜郎女の夫は乱馬殿と決まっておる。その一点張り。…いくら賄賂を持たせても、うんとは言わぬ…。ううぬ。これでは何故に乱馬を兵役に差し出させたのか、意味がないではないかっ!」
 と声を荒げる。
「そ、そんなことを言われましても…。」
 佐助はすっかり困惑の表情を差し向けた。
「こうなれば、最終的な手段に出るしかないかもしれぬな。」
 九能の若はふっと含み笑いを浮かべた。
「最終的な手段…と申しますと?」
 佐助は恐る恐る首をもたげた。
 九能は軽く顔先で手を握り、その親指を噛みながら言った。
「この手に茜郎女を抱いてしまえば良いのだよ。」
 と吐き出す。
「ええ?」
 佐助ははっと九能を見返した。
「何故もっと早く、この手を使わなかったのだろう…。ふふふ。茜郎女を我が手に抱いて、既成事実を作ってしまえば、良い。女のことだ。最初は嫌々でもこの手に抱いて男の味を知らしてしまえば自然と靡く。それに…我が子を孕ませてしまえば、いくら乱馬が帰って来たところで…。」
 にっと九能は笑った。
「でも、どうやってあの天道家に浸入するのでござるか?夜這いをかけるのもただならぬことでありましょうや…。」
 佐助は口を挟んだ。
「機会はある。…数日後にまた大和朝廷から勅使が来るらしい。父上に訊いた。それを利用すれば良いのだ。」
「はあ?」
 大和朝廷の勅使と夜這いの関係が繋がらずに、佐助は突拍子のない声を上げた。
「大和朝廷からもっと武人を集めよとお達しがあってな…。丁度明晩、その対処を話し合うべく、この近隣の邑からその長が我が屋敷へと参ることになっておるのだ。それぞれの邑からの徴兵人数の調整をしなければならぬのだよ。」
「はあ…。」
「…佐助。まだわからぬか?その寄り合いには、国司の早雲殿も来られる。その寄り合い、私は風邪でもひこうかと思うのだが…。」
「もしかして、若は早雲殿がお館を離れるその隙を突いて…。」
 九能はこくんと頭を垂れた。
「調整は一晩では済まぬだろうよ…。それに、夜は酒盛りになろう。その隙に天道家へ乗り込み、そのまま、茜郎女をこの手に抱いてしまえば良い…。」
「そう上手くいくでござろうか?」
「ふふふ…。良い考えがあるのだ。準備を万端に整えれば…。見れおれ、絶対に茜郎女を我が妻に迎えてみせようぞ。」
 九能は狡猾に考えをめぐらせていく。
 その考えに佐助は同調しながら頷いた。
「ふん、ふんふん、なるほど…。さすがに若様は策士でござるな。」
「そうと決めたら、佐助。後は頼んだぞ。全てはおまえの腕にかかっておるのだ。上手くやれよ。」
「わかりましてござる。」
 佐助は、浅い春の朧月の下、だっと駆け出して行った。




三、


 様々な人々の想いが交錯する中、もう一人、心を焦がす純粋な若者が響の邑里に居た。
 良牙である。
 時々、妻となった明郎女の里へと出かけて行く以外は、この里の中で邑長の嫡男として一族をまとめていた。この一族の生活の中心は狩猟と農作。どこの邑でも同じような生活をしている。
 長かった冬も、そろそろ終わりに近づき、昨秋備蓄していた農作物も、そろそろ底を尽かし掛けている。恵みの春は、また、農作開始の時期でもある。そろそろ、土地を耕し、次の耕地を作らなければならない。狩をする以外は、邑の周囲に作られた耕地を均し始めていた。
 真面目一点張りの良牙は、乱馬の代わりに、前の邑長、雲斎の墓詣でも欠かさなかった。
 この時代の邑では、死者は近しい存在であった。
 大きな墳墓を作って、その権力を指し示した時代は遠ざかっている。また、地方の共同体に於いては、集落から程遠くないところへ躯(むくろ)は葬られた。響氏も例外ではない。
 八百万の神々と共にあった生活では、死者はある一定の期間を過ぎると、一族を守る祖霊となると思われていた。特に、共同体にとって大切な存在であった人が死ぬと、しっかりと祀れば、邑の強固な守り神となると信じられていた。
 雲斎もこの響の邑の一族にとっては、大切かつ良き邑長であったので、その霊力は高いと皆が考えていた。昔のように殯を行い、長い葬儀を行うことは、大化の薄葬令により無くなってはいたが、人々の思いは一つであった。
 仰々しい副葬品や墳丘を築くことはしなかったが、それでも、良牙は折に触れ、雲斎とその正妻、銀英の墓へと足を運んだ。

「もうそろそろ半年にもなるか…。雲斎殿が突然に斃れられてから。」
 良牙は盛り上がった墳丘に向かって話しかけた。
「ほんに、雲斎は人が良すぎたからのう…。」
 ふっと振り返ると、雲斎や乱馬と共に住んでいた、八宝斎の爺様がちょこんと傍らに腰掛けていた。小さく丸まった背にしわがれた声。雲斎も死に、乱馬も兵役に出てしまってから、ひっそりと暮らしていた。勿論、響の邑の最長老だったので、それなりに大切にされてはいたが、良牙の父、雲牙とは反りが合わなかったようだ。
「人が良すぎて疑うことを知らぬでいたからな…雲斎は。」
 八宝斎は真っ赤な顔を良牙へと向けた。どうやら、昼間から酒を呑んでいるようだった。
 勿論、この時代の酒は今よりももっと高価な代物。神々と共にある「夜」にしか飲めない飲み物であった。にも拘らず、どこからせしめてきたのか、それとも、最長老の彼の行状には、誰彼もが目をつぶって見ぬふりを決め込んでいるからだろうか。
 八宝斎は、真っ赤に酔っ払った顔を良牙へと手向けた。
「人を疑わなかったばかりに、殺されたんじゃ。雲斎殿は。」
 聞き捨てならない言葉を吐いた。

「爺様、いくら何でもそれは言い過ぎですぞ!言葉を慎みくだされ。」
 生真面目な良牙が言った。
「ふん!わしは事実を言ったまでじゃ!事実を、ういっく。」
 八宝斎は構わず続けた。
「雲斎様は卒中で倒れられたのです。私が見ておりました。」
「おぬしが見ていたのは、雲斎が倒れてからのことであろうが!わしはもっと前から見ておったわ。たわけ!」
 八宝斎は絡むように良牙へと鋭い視線を手向けた。
「第一、誰が、雲斎様を殺そうなどと思うものか…。あんな良き邑長を。」

「だから殺されたんじゃ。おまえの父にな。」

 八宝斎は良牙が思いもよらぬ言葉を投げつけた来た。
「父上に?」
 良牙の言葉が止まった。
「そうじゃ!あいつは、雲牙は雲斎と共に酒を酌み交わしておったのじゃ。そして、奴が肴を取りに言った後、程なくして雲斎殿は倒れたのじゃ。どおっとな…。あれは毒じゃ。雲牙が毒薬を酒に仕込んでおったに違いないわっ!ういっく。」
 八宝斎は酒の勢いで、べらべらと良牙へ語りかけた。
「何を根拠に…。父上が伯父上にそんなことを…。」
「肉親だからこそ、欲にかられたのじゃろうよ。乱馬に響の邑長の家督を与えぬためにな。先に手を打ったのじゃ。あやつは…。」
「まさか、そんなこと…。」
 実直な良牙は、八宝斎の勝手な憶測とあしらおうとした。だが、八宝斎は酔った勢いも借りて、畳み掛けるように饒舌になっていった。
「乱馬は響の血を受けてはおらぬからな…。」
「また爺様は冗談を…。」
「冗談などではないわ!乱馬は雲斎殿の子でも銀英の子でもない。赤ん坊の折に大和朝廷の武人に連れて来られたんじゃ。奴婢に貶めても良いと預けられた男子の赤子を、気立ての優しい雲斎夫妻は育て上げたんじゃ。逞しき響の益荒男としてな。」

「な…。」

 良牙には、初めて聴かされる事であった。

「乱馬にはおそらく、大和朝廷の血が入っておるのじゃろう。皇族方にとって、生きておられては都合の悪い、そんな不義の子なのかもしれぬ。いや、むしろ、ワシはそうじゃと睨んでおる。…。それをおまえの親父殿は、雲牙は体よく遠ざけたのじゃ。響の邑を余所者の手に渡さぬようにな。」

「そ、そんなこと…。」

 始めは八宝斎の作り話だと思って聴いていた良牙だが、だんだんと冷静さを失っていく。

「乱馬は…。乱馬は知っていたのか?己の素性を。」
 いつの間にかくって掛かっていた。

「知らずに育ったがな…。死ぬ間際に雲斎が言い残しおった。おまえには大和朝廷の血が入っているだろうとな…。赤子だった乱馬と共に預かった宝剣が全てを語っていると。」
「宝剣?」
「雲斎がずっと後生大事に取っていた乱馬の御印の宝剣じゃ!あんな素晴らしい細工の施された宝剣は、そこら辺の鍛冶の民に作れるものではないわ。ワシも雲斎に見せられたことがあるが、それは見事な宝剣じゃった。」
 作り話にしては具体的過ぎる。本当に八宝斎の言っていることは真実なのかもしれない。良牙はだんだんと、目の前の酔っ払い爺さんの話にのめりこんでいった。

 爺さんの話から、思い当たることが多々あった。
 何となく、乱馬を取り巻く邑全体の雰囲気が冷ややかだった事を思い出したのだ。
 同じように狩場で活躍しても、自分や他の若衆の方が、里の大人たちに褒められた。一番手の乱馬を差し置いてである。 それは、邑長の雲斎への遠慮からくる行為だと、良牙なりに理解していたが、どうやら真相は乱馬の素性にあったのだと、初めて気付かされた。彼が響の里の血を受けていないのであれば、回りの大人たちの冷たさが、紐解けるように理解できた。
 良牙の父も母も、何かにつけ、乱馬を目の敵(かたき)にしていたし、乱馬にだけは負けるなというのが口癖であった。良牙自身も乱馬は好敵手と見ていたし、何かにつけ勝負を挑んだが、彼には正直敵わなかった。狩に出ても、いつも良物の獲物を捕らえる確かさ。弓矢にも槍にもそして素手でも、彼は他を卓越していた。勝負を挑んでは負けたが、良牙自身は不思議と悔しいとは思わなかった。
 彼にとって乱馬は好敵手であると共に、一番の理解者でもあり親友でもあった。小さな枠組みに捕らわれない乱馬が羨ましくこそあれ、妬ましい存在では決してなかったのだ。

「乱馬…おまえ…。」
 そうだったのかと、良牙はぐっと奥歯を噛んだ。
 今まで彼と築き上げてきた関係が一気に崩れていくような気がした。
 乱馬は己に響の里を譲って、邑を出た。何も語らずに、ただ、運命の赴くままに。
「爺様、教えてくれっ!本当に親父は、雲斎様を殺(や)ったのか?」
 いつしか縋るような目で八宝斎を見返していた。
「ああ…。あやつは私利私欲に、いや、悪魔に身を委ねたのじゃろうよ。雲斎殿を殺し、そして響の里の実権を全て握った…。ワシは知っておる。雲牙は雲斎の死を悼(いた)んでなど居らぬ。あやつが雲斎のために泣いて居るところを、おぬしは見たことがあるか?」
「親父はぐっと堪えて泣かないのだと思っていた。」
 良牙は言葉少なげに言った。
「それがあやつの心を如実に物語っておるではないかのう。堪えておったのではないわ!悼(いた)めぬのじゃ。自分が手にかけて殺してしまった者の死をな。…そして、体よく乱馬を邑から追い出しよったわ。大和の軍門へと送ることでな。不憫な奴よ、おまえの親父様は。」
 酒が回ってしまったのだろうか…。八宝斎は今度はおいおいと泣き始めた。泣き上戸(じょうご)である。
「まさか、そんなことが、裏にあったなんて…。乱馬がこの里の出自ではないことは本当なのか?爺様。そのこと、信じて良いのか?」
 
「どうしても確かめたいのなら、自分の目で耳で、邑の者へと問い質せばよかろう。ある年齢以上の里人なら、乱馬のやってきた日のことは良く覚えておる筈じゃからな。」
 

 その後、どうやって邑里まで戻ってきたかは、記憶が定かではない。
 脳天を勝ち割られたような激しい衝撃が動揺となって良牙の胸を焦がし始めた。
 彼は八宝斎に言われたとおり、邑里へ戻ると、そこいら中の実年の男たちを捕まえては、乱馬の事を聞きまくった。雲牙に気を遣っていたのか、大人たちの口は堅かったが、それがかえって、真実を垣間見せてくれたように良牙には思えた。
 こういうことは男よりも女の方が口が軽かった。
 良牙は邑の女たちにも尋ねてみた。


「ああ、そのことか。」
 始めに聞いたのは、良牙の世話係をしていた女だった。気風しが良い闊達(かったつ)な中年女性だった。
「乱馬が他から来たことなんてーのは、あたしらの年齢だと、知らない者は居ないんじゃないのかねえ。いやあ、雲斎様も銀英様も、良く出来たお方だったよ。ご自分の本当の児を亡くされた後でもあったからねえ…。本当のお子様として育てられたよ。響の子として。」
 女はそろそろ植えなければならない稲の種籾作業をしながら、人のよい女人がポツぽつと答えて、教えてくれた。
「何で今まで黙ってたかだって?…それは、皆、雲斎様が好きだったからだろうさ。他の部族から来た赤子でも、ここで育った者は響の者だ、同じ赤い血が流れている以上はな、と、かねてから雲斎様もその妻の銀英様もはおっしゃってたよ。」

 今度は別の場所に回ってみた。
「ああ、確かに大和の武人が預けて行きなさった赤子さ。乱馬はね。でも、このことは黙っておいでなよ。勿論、暗黙の了解ではあるんだけれどね。」
 と、噂話を語るように良牙に耳打ちしてくれる女も居た。

『乱馬が他所から来たというのは、本当だったのだ…。』

 その事実だけ充分だった。
 八宝斎の言ったことが、おそらく真実なのだろう。余所者にこの里を任せたくは無い。父、雲牙も苦渋の選択だった。そう思いたかったが、優しく猛々しかった雲斎のことを思い出すと、どうしても許す気持ちにはなれなかった。

 春の嵐が彼の心を吹き荒んでいく。

「畜生!何で一言も俺に相談してくれなかったんだ…。乱馬っ!」
 良牙は人知れず夜半過ぎから降り始めた豪雨に打たれて、涙に暮れた。
 お互い、邑長一族の嫡男であり、一人息子でもあった境遇と、歳が近かったせいで、兄弟のように、いや、それ以上に互いの信頼関係が厚いと信じていたのだ。
 その関係が音もなく崩れて行く。繋がっていたと思い続けた「血統」は違った。
 共に野山を駆け、そして語り合った、あの友情が、肉親の情が、虚しく思えてくる。いや、それだけではない。潔癖症の良牙には、雲斎を殺めた父、雲牙が許せなかった。情が厚ければ厚いほど、裏切られた者の激情がほとばしってくる。

「畜生っ!畜生っ!畜生っ!!」
 良牙は一人、感情を押し殺して、心で叫び続けた。
 
 そしてそれは、良牙の心の中に、或る決意が浮かんだ。



四、


 明けて次の日。
 昨夜から降り始めた雨は、まだ止むことを知らず、厚い雲から降り注ぐ。
 咲き始めたばかりの花たちが、雨に打たれて苦しげに見えた。

 朝早くから早雲は屋敷の者を呼び、己が九能の館へ行かねばならぬことを告げた。
「それは急なお話ですこと。」
 斎媛が怪訝そうに早雲を見詰めた。
「仕方があるまい。大和朝廷は、現在、着々と戦の準備を進めておられる。それに協力することは、我々国衙(こくが)を預かる身の者の義務であるからな。」
 早雲は支度をしながら溜息を吐いた。己とて、戦は好きではない。いくら武に優れていたとしても、人をたくさん殺めねばならぬ戦を好きにはなれなかった。だが、朝廷が対百済戦略で苦労しているとなると、他人事のような顔はできない。
「場合によっては、再び大和へ戻らねばならぬことも有るかも知れぬ…。」
 早雲は難しい顔をした。
「何か、私に占えることがございましたら…。微力ではありますが。」
 斎媛は早雲の顔を見ながら言った。
 乱馬を西へ送り出して以来、再び斎媛に卜占の力が戻った。一時期停滞していたのが嘘のように、すらすらと様々な事象を言い当てることが出来始めたのだ。以前と同じように。いや、それ以上の力が舞い戻ってきたのかもしれない。
「いや…。占いの結果が如何にせよ、朝廷からの命令は背くことはできぬからな。」
 早雲は暗に斎媛の占いを拒否した。占ってもらったとて、結果は変わるまい。そう思ったのだ。
「とにかく、昼過ぎから九能殿の館へ参らねばならぬ。おそらく、夜通し、難しい話をすることになろう…。今夜は戻れぬ。いや、今夜だけではなく、二、三日、ここへは戻って来れぬかもしれぬ。」
「まあ、そんなに…。」
「話が早くにまとまればよいが…。でなければ、もっと時間がかかるやもしれぬ。…。悪いが、斎媛様、わしが戻れぬ間、ここを仕切ってはくれぬか?」
「私でできることでございましたら…。」

「こういうときに、嫡男たる、男子が居ないことは何かと心細いものだがな。」
 早雲はふっと、まだ降り続く空を眺めた。

 彼が出て行ってしまうと、屋敷はひっそりとなった。

 まだ雨はしとしとと空から落ちてくる。

 斎媛は、早雲が出て行った後、社へ篭り、八十神に祈りを捧げていた。炎を焚きこめ、玉串をゆらゆらと振りかざした。衣切れの音と、炎の燃える音が雨音の合間に聞こえてくる。
 早雲には占わずとも良いと言われてはいたものの、やはり気になったのだ。
 
『早雲さまもまた、運命の帰路に立たされている。』

 それは長年、斎媛として神に仕えた者の直感だったのかもしれない。

 香木をくべ、その焼け方と炎の勢いで彼女は占った。
 真剣に行く末を知りたいと思ったからだ。

 バチン!
 
 香木が弾けると共に、火がぼっと飛び出した。そして床へと弾けて焦げる。

「こ、これは…。」
 
 燃え移った火を見詰めながら、斎媛はそこへと凍りついた。

『禍が来る…。今夜、茜郎女の元に…。転じて福に成せ。』

 彼女の占いはこう出たのだ。


「茜郎女っ!」
 はっと我に返った斎媛は、屋敷を巡って、あかねの元へと駆けた。自分の占いを伝えるためにだ。

「私に禍が?」
 あかねは俄かには信じられぬという顔を手向けた。斎媛の占いは正確でよく当たる。そう思ってはいたが、何がどう具体的に起こり得るのか、雲をつかむような話だったからだ。
「邪な者があなたを狙っている。占いには確かにそう出たのです。」
 斎媛は真摯な顔をあかねへと手向けた。
「邪な者…。」

「それは、あれじゃないかしら…。ここのところずっと、しつこくあんたに言い寄って来る、あの若君。」

 斎媛があかねを呼ばわったので、何事かと現われた靡郎女がポツンと言った。

「九能の若が?どうして…邪な者なのよ。」

「あら、あんたからそんな言葉が漏れるなんてねえ…。乱馬の君から九能の若に乗り換えるつもりなのかしらん。」

「ま、まさかっ!冗談言わないで、お姉さま。」
 あかねは吐き捨てるように言った。九能の若など、顔を思い浮かべるのも嫌だったからだ。

「斎媛の言う、邪な者はきっと九能の若よ…。」
「でも、占いには禍を転じて福に成せなんて出てるんでしょう?夜盗か何かに狙われるのかもしれないし…。」
「夜盗…。」
 はっとなびきの目が光った。
「そうか…。なるほどね。」
 一人、にっこりと微笑んだ。
「茜郎女…これから私の言うことを良く聞いて、そのとおりになさい。」
 
 唐突になびきは何かを提案してきた。

「でも…。」
「つべこべ言わないの…。斎媛様の占いが当たっていたとしたら、あんたには確かに禍かもしれないけど、私には痛くも痒くもないから。」
「姉上、本気なの?」
 あかねは、今しがたなびきが言った事が、信じられないと言わんばかりに顔を上げた。
「本気よ…。ねえ、斎媛様はどう思う?」
「私なら…。靡郎女様がそれで良いと思われるならあえて止めはしませぬ。それで、茜郎女様を守れるのであれば。」
 そう、斎媛とは言え、彼女は母親でもあった。生まれてすぐ引き離された息子、その息子が愛した女性を守るためなら、どんなことでもしようと思っていたからだ。
「まあ、斎媛様は私のことより茜郎女のことなのね。」
「そう言うつもりではありませぬが…。」
「手を打って、何事も無ければそれで良し、ね、茜郎女。そうなさいな。」
 靡郎女の半ば強制的な掛け声に、茜郎女は渋々承知した。


 夕暮れ近くになっても、一向に雨は止まなかった。



「たく、息子にも困ったものじゃのう。」
 九能の屋敷内で、その父が苦笑いを浮かべていた。
「仕方がありませぬ…。熱が高ければ、客人の前に出ること敵いませぬ。」
 佐助が申し訳なさそうに頭を垂れる。
「いろいろな客人がお目見えになるというのに…。」
 九能の父はそう言って溜息を吐き出した。
「良かろう…。風邪とて、こじらせれば立派に死に至る病じゃ。若には、せいぜい身体を休めて、後々へ病を持ち越さぬように、佐助からしっかりと言い含めておくれや。」
 そう言ってその場を立ち去った。

「行ったでござるよ、若様。」

 佐助はこそっと耳打ちした。

「そうか、行ったか、父上は。」
 九能の若は布団からごそっと抜け出すと、そう言って笑った。
「さてと…。私の代わりにここへ一晩中寝て貰う相手は…。」
「あの男でござるよ。」
 佐助はだっと指差した。ひょろひょろっとした冴えない男がそこに立っていた。
「さあ、下人、貴様はこの布団をずっぽりと頭から被って、若と成りすましてこの寝屋で一晩を過ごせ。」
 九能の若の言葉にひょろっとした青年は、ははっと平伏した。主人の命令は絶対服従。それは、どの世の中でも変わらない不文律である。
 他の男を布団へと寝かせてしまうと、九能はにっと笑った。

「さて…。好都合なことに、この雨だ。物音を多少たてても、見つかりにくいだろう。佐助。」
「はっ!準備は整っております。」
 佐助はそう言うと、さっと馬を見せた。九能の愛馬が繋がれていた。
「後は、若が変装なさいませ。そのままのお姿では目だってしまいますゆえに。」
「私に農民の格好をせよと言うのか?」
 一瞬嫌な顔を手向けた九能の若に、佐助は言い含めた。
「いつものいでたちでございましたら、一見して貴人とわかってしまいまする。まだこの館にはぞろぞろとこの辺りの有志が集ってござりまする。中には若の顔を見知った者も少なくはありますまい。それでは、せっかくの仮病が父上に知れ渡ってしまいますぞ。」
 と。
「ううむ…。仕方があるまいか。」
「聞き分けてくださいまするか?…勿論、先方へ着きましたら、ちゃんと衣装を召し換えなさいませ。それから事に望めば、万事上手くゆくでござりましょうや。」
 暫く、みすぼらしい麻布の衣と睨めっこしていた九能であったが、茜郎女のためだと佐助に言われては、従わざるを得なかった。

「さあ、行くでござるよ。若。」

 佐助は先導して、そろそろ暮れなずむ雨の中、飛び出して行った。九能もそれに続く。

「ふふふ…。見ておれ。明朝ここへ戻ってくる頃には、茜郎女を我が物に。」
 九能の若はそう呟きながら、手綱を握り締めた。




第十七話 春嵐 へつづく




夜這い
この言葉には本来「呼びあう」という意味があります。「呼ばう」という男と女が呼び合い愛を確かめ合うという意義から、いつの間にか「逢引する」という意味へと転化したそうです。


斉明女帝の比定年齢
 本作品では「招運録」、「水鏡」説ではなく「帝王編年記」の説によっています。「日本書紀」には年齢の記載がありません。
 661年。没した年が「招運録」、「水鏡」説では68歳、「帝王編年記」によれば61歳となります。私自身の古い考察では、日本書紀説をそのまま引用すると、瀬戸内を越えて筑紫国まで行軍するには年を取りすぎているような違和感があったためです。
 昔、この辺りのことを作品にしようと足掻いていた頃集めた資料に自身で考察を加えたことがありますが、その折も「帝王編年記」説を採るのが妥当かと思ったので、そのまま作品として投影させていただきました。
 予めご了承くださいませ。




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