第十五話  父と息子


一、

 雨はさっきから叩きつけるように上から降り続く。
 冷たい雨。
 火も消え、会場は萎えてしまったように静まり返った。
 だが、乱馬と岩麻呂の死闘は続けられている。
 人々は恨めしそうに空を仰いだ。時々していた稲光も、ただ数回の気まぐれだったのか、もう雷の音すら聞こえない。
 辺りはただ、暗闇が迫り来ていた。

「誰か明かりを持て。」
 そんな声も響いてはいたが、人々はどうすることもなく、ただ、その場に濡れそぼちながら立っていた。



「コロス…。」

 その一方で、乱馬と岩麻呂の死闘は今まさに大詰めを迎えようとしていた。

「くっ!何で動かねえっ!まるで糸か何かが絡み付いているようだぜ。」
 乱馬はキリキリと指先に力をこめたが、それ以上はどこも動かすことができなかった。
 それだけではない。闇のすぐ向こう側から、鬼気とした殺気が己に向かってゆっくりと近づいてくる。岩麻呂だ。それも、どこか様子がおかしい。

「畜生っ!」

 乱馬は足掻き続けたが、無駄な抵抗だった。

 荒い岩麻呂の息遣いが直ぐ側まで来た。

「コロス…。オマエヲ…。」
 そう念じるように口にしながら、ゆっくりと岩麻呂は石斧を振りかざした。

「あかねーっ!」
 何故だろう。彼は心でその名を呼び求め叫んでいた。

 と、何か小さな物体がさささっと乱馬と岩麻呂の間を走り抜けた。バシャバシャと水飛沫を上げて、そいつは闇から闇へと渡っていったのだ。

「ネズミ?」

 乱馬がそう思ったときだった。
 振りかぶった岩麻呂がその小さな生き物に当たって足元を滑らせたのだ。
 泥でできたぬかるみに足を取られてよろめいた。元々薬の効力で足元がふらついていたことも幸いした。
 そのまま、前のめりに岩麻呂はすっころんだ。

 バシャッ!

 岩麻呂が倒れこんだのと、乱馬の手足が自由になったのとはほぼ同時だった。岩麻呂の巨体は倒れこんだ拍子に、沐絲の呪縛の糸を切断してしまったのである。張り詰めた糸は衝撃には弱い。岩麻呂の巨体によって見事に切断されてしまったのである。

「しめたっ!」

 急に動きが軽くなった乱馬はだっとその場を逃れた。
 再び岩麻呂がゆっくりと巨体を起こしたときは、既に目標の乱馬はそこには居なかった。きょろきょろと辺りを見回している。

「けっ!あいつは気の流れを読めねえのか。だったら…。」
 乱馬はだっと駆け出していた。
「岩麻呂っ!俺はこっちだっ!」
 そう言いながら岩麻呂へと襲い掛かる。
 岩麻呂は声のした方に身体を向けて、石斧を振り上げた。だが、それより数段も早く乱馬は身体を翻し、岩麻呂の後頭部へと回った。
「でやあああっ!」
 乱馬は手刀で岩麻呂の後頭部を一気に殴りつけた。

「ぐわああっ!」
 岩麻呂は激しい声をあげた。まさか、乱馬に反撃されるとは思っていなかったのだろう。

「まだまだっ!一気に行くぜっ!」

 乱馬はすぐさま次の攻撃へと身体を突進させた。
 暗闇の中で乱馬の気配を察知できない岩麻呂は、攻撃を避けることはできなかった。
 対する乱馬は響の邑の夜狩で闇には慣れている。動物の気配を闇の中でも感じることが出来るほど、研ぎ澄まされた野性の本能。
 岩麻呂如きの敵ではなかった。
 いくら薬で感覚を鈍らされていようとも、元は生身の人間。
 ある一定の時と攻撃によって、ネジが切れた人形のように、ふっつりとその営みを止めた。

「あおおおお・・・。」

 そう一声、人間の声とは御し難い雄叫びを上げると、どおっとぬかるみの中に倒れ伏した。
 
 岩麻呂が倒れ伏したのと、再びかがり火が灯ったのは殆ど同時であった。
 人々は明かりの再来と共に、岩麻呂の巨体が倒れこんだまま微動だにしないのを目の当たりにした。


「勝者、大和の武人、早乙女乱馬っ!」

 その光景を見た玄馬が、高らかにそう宣言した。

 わあわあと会場は歓声に包まれていく。

「俺は認めんっ!」
「そうだ、奴は暗闇に乗じてずるをして岩麻呂を倒したに違いないっ!」

 会場の中からそんな野次が飛んだ。

「そうだ、そうに違いないっ!」
「無効だっ!この闘いをやりなおせっ!」
「いや、大和の若者を引きずり下ろせっ!」

 大衆とは、かくも愚かなものだ。
 贔屓のし倒しは、公平な判断を欠いてしまう。もしかすると沐絲はそこまで計算しつくしていた。
 
「殺せっ!その大和の武人をっ!血祭りに上げろっ!」

 群集心理を上手いこと利用しようと一声上げたのだ。


 と、まさにその時だった。
 天が怒りを顕にした。
 バキバキと音がして、再び雷鳴が格闘場のすぐ側の雑木林にその光を叩きつけて弾けた。

「静まれっ!静まれっ!皆の者よっ!」
 玄馬が高らかに叫んだ。
「天の、雷神のお怒りが聞こえぬかっ!」

 ピカピカとまた眩いほど稲妻が走る。
 
 人々は雷鳴と稲光にシンとなった。

「この相撲勝負は、早乙女乱馬の勝ちだっ!この事実は変わらない。天もそう認めておるのだからな。」

 玄馬は勢いに乗じて叫んだ。

 再びざわつき始めた会場を制して玄馬は続けた。

「早乙女殿は立派な益荒男じゃっ!傷つきながらも良く耐えて闘った。だが…。」
 じろりと玄馬は倒れた男を見た。
「こやつは武人の風上にも置けぬ、不届き者じゃっ!」
 そう言って玄馬は岩麻呂の体の上に己の足をかけた。
「見よっ!こやつの手元を。」
 そう言いながら直人へ来いと促した。直人は黙したまま、持っていたかがり火を岩麻呂の右手へと差し伸べた。浮き上がる石斧。それはしっかりと岩麻呂の手に握り締められていた。

「それから…。そこだっ!そこのおまえっ!さっき乱馬を殺せと大衆に向かって言ったおまえだっ!」
 玄馬は鋭い目を一人の男へと差し向けた。沐絲だった。
「貴様っ!どこの国の者だっ!岩麻呂をたき付けて卑怯な手を使いよって。」

「な、何のことだが?」
 沐絲はそう言いながらたじろいた。

「わしの目は節穴ではないわっ!その手に握られた糸の残骸が全てを物語っておろうっ!貴様じゃな。乱馬殿の動きを封じ込めておったのはっ!」

「ちっ!ばれていたら仕方がないだ。」
 沐絲はそう言うと居直ったような言葉を吐き出した。
「いかにも、オラが岩麻呂を操っていただ。あと少しで乱馬を亡き者にできたというだに…。まあ、良いわ。ここは一端引くだ。だが、オラはまだ、おまえを倒すことを諦めたわけではないだ。」
 そう言うとボンッと煙玉を投げた。

『また会うだ。乱馬。今度会うときは必ず、必ずオラが倒してやるだ。ふっふっふっふ。』

 どこか遠くで声がした。

「逃げ足の速いやつめ。」
 玄馬はその声に向かって吐き出していた。


「岩麻呂っ!」

 はっと我に返り、目が開いた岩麻呂に叩きつけるように玄馬は叫んだ。
「貴様っ!海の男の誇りを忘れたかっ!」
「ひっ!」
 その形相の激しさに岩麻呂は思わず開いた目を伏せた。
「私は一対一の相撲勝負をしろと言った筈だ。それを受けたのはおまえであろう。それを何だっ!見たところさっきのは異郷の者、さしずめ、唐国の道士であろう。」
「は、はは…。そ、そのとおりでございます。」
 すっかり気を取り戻していた岩麻呂は血相を変えて答えた。鋭い玄馬の洞察力には敵わないと腹を括ったのだろう。もう、沐絲も消えてしまった。
「邇磨の誇りに泥を塗りよって。天もおまえの所業を嘆いておろうが。」
 雨の中、玄馬は岩麻呂を睨みつけていた。
 すっかり恐縮した岩麻呂は、返す言葉もなく、ただ、その雨に濡れながら俯いていた。

「乱馬殿よ。」

 玄馬はゆっくりと勝者の方に向かって口を開いた。

「約束どおり、邇磨の玄馬はおまえの軍門に下ろう。おまえのような益荒男の下へかしずくのだ、誰も異存はあるまい。」
 そう言って海賊たちを振り返った。
 会場はシンと静まり返り、誰も異を唱えなかった。
「だが、一つだけ言いおく。わしは、乱馬殿、そなたの軍門には下ったが、決して大和朝廷にかしずくわけではないからな。それだけははっきりしておくぞ。あくまでも乱馬殿の命で動く。大和朝廷の命によって動くのではない。」
 玄馬はゆっくりとその場にいる者を諭すように続けた。
「従って、乱馬殿が皇祖母尊へ従うなら我らも従おう。全ては汝の思うがままだ。」
 どこからともなく、再び歓声が沸きあがる。と、直人が進み出てひざまずいた。そして、言った。

「我々は邇磨の玄馬様に従いし者。玄馬様があなたにかしずくと言われた以上は、私もあなたに従います。乱馬殿。」

「今日、今、この時から、邇磨の玄馬は早乙女乱馬の配下になった。俺は大和の舎人だ。だから、皇祖母尊の命に従う。だから、おまえたちも従え。そして…。この瀬戸内を通り抜ける皇祖母尊をお守り申し上げろ…。いいな、これは早乙女乱馬の命令だ。…玄馬よ…。」
 それだけを言い切ると、乱馬は身体を玄馬へと預けていた。玄馬の胸へと倒れこんだのだ。

「乱馬殿っ?」

 それには返事せずに、乱馬はふっと意識を失っていた。
 想像以上に岩麻呂とやりあった傷が深かったのだろうか。いや、沐絲の術のせいで相当な負担がかかっていたようだ。良く見ると体中から血が浮き出すように流れ出していた。沐絲の糸が絡んだ跡だった。
 そのまま乱馬はよろけるように倒れこみ、全身全霊を玄馬へと預けて沈んだのだ。漏れ始めるのは健やかな寝息。
 玄馬にとっては初めて触れる、息子の肌であった。安心しきったように笑みさえ浮かべて崩れかかる乱馬。不思議な感覚が玄馬を捕らえていた。くすぐったいような、それでいて愛しいような。確かに彼が息子であることを認識した瞬間でもあった。
 乱馬の中に眠る、己との深い絆を垣間見たような気がした。
 砺波の爺も思わずにんまりと微笑んだ。

 名乗りあわずともそこに繋がる父と子。

「ふふふ、力を全うして使い切ったか。大した奴じゃ、早乙女乱馬という男はようっ!わっはっはっは!わっはっはっは。」
 玄馬の笑い声が高らかに邇磨の郷へと響き渡っていった。





二、


「乱馬…。乱馬…。」

(俺を呼ぶのは誰だ…。)

 沈んだ意識の中で乱馬は微かに自分を呼ぶ声を聞いた。懐かしい透き通った声。

「乱馬…。」
 はっきりと聞こえる声。

「あかね…。」
 思わずその名を呼んだ。

「傷だらけな身体ね。どうかしたの?」
 そう問いかけられた。
「ああ、これか。大したことはねえ。ちょっとな、己の命を賭けて闘ったんだ。」
「命を懸けて?」
「ああ…。どうしても果たしたいことがあったんでな。…でも、大丈夫だ。こんなのかすり傷。」
 そう言い掛けてはっとした。
 目の前の彼女が半べそをかいていたからだ。
「そんな傷まで負われて…。」
 夢の中であかねは袖を濡らす。思わず焦ってしまった。
「だ、大丈夫だ…。俺はこんなにピンピンしている。それに…。俺は勝ったぞ…。俺は血を流すことなく邇磨の玄馬を配下にしたんだぜ。」
 その声にあかねは泣きべそをいかいていた顔を乱馬へと向けた。そしてにっこりと微笑んだ。
「良かった…。」と。
 乱馬はあかねを覗き込みながら言った。
「あのとき、俺が岩麻呂にやられかけたとき、鼠(ねずみ)を走らせてくれたのはあかねじゃねえのか…。」
「さあ、それは…。」
「いや、きっとあの鼠はおまえの心が呼び寄せてくれたんだ、きっとな…。」
「いやよ、人をネズミ呼ばわりだなんて。」
 涙で濡れていた袖を口へ持っていってあかねはくすくすと笑い転げた。

「乱馬…。いつ私の元へ帰って来られます?」

 あかねはそう目を輝かせた。

「まだだ…。あかね。」
 その返事に少し曇った笑顔を手向ける。

「まだ俺は、常陸の国へ帰ることはできない。俺にはまだ、やらなければならないことがあるからだ。」
「やらなければならないこと?」
「ああ、そうだ。今、倭国は、とんでもねえ奴らと渡り合わなければならねえことに直面してるからな。」
「とんでもないこと?」
「ああ、戦(いくさ)だ。近いうちに大きな戦へと俺たちは借り出されていくかもしれねえ…。」
「戦。」
「そんな顔をするな。俺はこの倭国を守りたいんだ。大和朝廷の国だけではなく、常陸の国やこの瀬戸内の郷もだ。俺はこの美しき国を守りたいんだ。勿論、おまえも含めて…。だから、まだ帰れねえ。でも…。」
 乱馬はすっと優しい表情を浮かべた。

「いつかはおまえの元へと帰る。俺の帰る処はただ一つ…。それは、おまえの傍だ。だから…。辛いだろうが待っていて欲しい。俺の妹背はおまえだけだ。」
「本当に私だけ?」
「ああ、俺はおまえ以外の女は要らねえ…。妾は持たねえ。おまえと出逢ったかがひから決めてるんだ。おまえを放さねえ…。ずっと、こうやって心と心を通わせていてえ。」
「心を通わせる?」
「そうだ…。離れていても、まだおまえを抱いていなくても、俺たちは妹背だ。おまえが居るから俺は闘える。そして、もっと強くなれる。おまえは俺の太陽だ。真っ赤に燃える美しき太陽だ。」
「本当にそう思うなら、今度見(まみ)える時、その口で、私に囁いてくださいな。」
「ああ、いくらでも囁いてやる。尽くせぬくらいの愛の言葉を…。何万回だって言ってやる。」
「ふふふ…。私もその日が必ず来ると…。そう信じてる。乱馬。」
「ああ、俺もおまえを忘れねえ。忘れるもんかっ!おまえは俺にとって唯一の存在なのだから。あかねっ!」

 乱馬はそう言うと、腕を広げて、あかねをぎゅっと抱きしめた。貪るように唇を押し当てた。

「この温もりは忘れねえ…。おまえの柔らかな温かさと優しい匂いは…。」
 そのままぎゅっと腕を閉じて行った。






 次に光を感じたとき、ふっと目が開いた。今までのあかねとのやり取りは既にそこにはなく、彼女の姿も虚空へと消えていた。

「夢…。夢か。」
 浮き上がった意識の中で深く長い溜息を吐き出した。
 確かに今あかねをこの腕に抱きしめていた。だが、そこにあかねの姿はない。
 胸元に青い勾玉が揺れている。そこに感じる暖かな温もり。
 目を転じると、寝かされていた寝屋の小窓から外を眺めた。
 昨夜の相撲勝負。満身創痍になりながらも競り勝った。身体中に残る傷痕がその激しさを物語っているようだ。岩麻呂に打たれたところは青味がかっている。
 朝霧が立ちこめ、数メートル先すら見えない。白み渡った世界がそこにあった。

「あかね…。おまえも俺のことを想っていてくれるのか。この朝霧はおまえが立てた想いなのか…。」
 霧の世界は音すらも吸収してしまうのか、辺りは静けさに包まれていた。
「いや…。この朝霧を立てたのは、俺の心だ。これは俺がおまえを想う霧だ。
 幻でも良い。あかねに逢いたいと思った。
「あかね…。」
 乱馬はそう念じると静かに青い勾玉を握り締めた。
 ここに彼女の想いがある。念の篭った勾玉。





「あかね?」
 姉の靡郎女はふと声をかけた。
「どうしたの?ぼんやりとして。」
 朝餉に来ない妹の様子を父あたりに言われて見に来たのだろう。
「あ、お姉さま。」
 あかねははっとして姉媛を振り返った。
「らしくないわね。身体の調子でも悪いのかしら?」 
 なびきはじっとあかねを見た。
 あかねは首を横に振ると
「いえ…。久しぶりにあの方の夢を見たものですから。」
 そう声を落とした。
「あの方…。乱馬様の夢ね。…あれからそろそろ三ヶ月は経ってしまったものね。で?夢の中では言葉を交わせたの?」
 そお問い掛けにあかねはにっこりと微笑んだ。
「そう、それは良かったわね…。元気そうだった?」
「ええ、少し怪我をなさっていたようでしたけれど、大丈夫だったわ。」
 あかねは夢で逢った乱馬のことを思い出しながら答えた。
「夢であなたに会いに来るなんて…。きっと彼もあなたのことを想っていてくださるのね…。」
「そうね…。」
「これだけあんたも彼のことを思ってるんだもの…。まだ先は長いかもしれないけれど…。」
「待つわ。その覚悟はできているもの。」
 あかねは姉ににっこりと微笑みかけた。
「本当、羨ましいこと…。私もそろそろ良い殿方と恋仲になりたいわ。このまま誰も居ないまま老け込んでいくなんて嫌だもの。」
「あら、まだまだお姉さまは若いし…。何よりもお姉さまはお目が高すぎるのですもの。ただの田舎者じゃあ嫌なんでしょう?たとえ豪族の息子でも。」
「まあね…。財力は勿論のこと、ある程度垢抜けていないとね…。そんなことより。」
 なびきはあかねに言った。
「早く行かないと、せっかくの朝餉(あさげ)が冷めてしまうわよ…。私、先に行くからね。さっさと着替えをすませて出ていらっしゃいよ。」
 そう言いおくと、頒布をなびかせて部屋を出て行った。
 あとに残されたあかね。
 今しがた見た生々しい夢の余韻を今一度思い出していた。
 確かに己を包み込んで抱いてくれたあの逞しい腕。熱い抱擁。顔から火が出そうなくらい情熱的だった乱馬。
「ただの夢の中での出来事なのに…。あたしったら。でも…。」
 彼は傷ついていた。激しい戦いを高じた後のように。全身擦り傷と打撲に覆われていた。気になるとしたらそのことだろう。
「彼を想うがあまり、余計な心配をしてしまっているのかしら。」
 そっと触れる赤い勾玉。朝の光を受けると、勾玉は美しく光り輝いた。良く見ると火の玉が浮かび上がる美しい勾玉。
 これに触れるたびに、乱馬の無事を祈らずにはいられない。夢であんな傷だらけの身体を見せられた後だ。余計に心配になるというのが心情だろう。
「怪我をしているのなら、早くその傷が癒えますように。乱馬…。きっと帰って来て。私の元に…。」
 祈るように胸に手を置いた。
 じっと耐えて待つ者の想いが、勾玉を伝って乱馬へと巡っていくような、そんな気持ちに捕らわれる。

 常陸国もその日の朝は、濃い霧が立ち込めていた。






三、


「目が醒められたか。」
 藁の寝床の上にぼんやりと座していた乱馬に、玄馬は声をかけた。
「玄馬殿か。」
「思った以上に深手を負われておったようじゃな。その分ならあばらの一つも折れているやもしれぬ。今はゆっくりとこの邇磨で養生されよ。そのうち、大和の水軍もこの塩飽の海へとやってくるだろう。その時に合流されれば良い。それまでは、ゆっくりと休んで行かれるが良い。」
「お世話になります。」
 そう言って頭を下げた。
 玄馬は足早に乱馬のところを立ち去ろうとした。その時だ。
 目に一本の太刀が飛び込んできた。古びた太刀。見覚えのある太刀だった。
 思わず手が伸びていた。その指先は少し震えていた。

「この太刀は…。」
 思わず乱馬に問いかけていた。

「親父の形見です。」
 乱馬は静かに言った。
「親父様の形見…とな。」
「はい。俺は常陸国の生まれです。そこの豪族の響雲斎によって育てられました。」
「ほう、常陸国の出自か。」
「親父が死ぬ間際に俺に残してくれた唯一の宝剣です。」
 乱馬はじっと玄馬を見据えながら言った。
「そうか…。良い刀だな。…。」
「玄馬様には刀の目効きがおありですか?その刀のことについて、何か知っていたら教えてください。」
 真っ直ぐに伸びてくる瞳。何か心当たりでもあるのかとでも言いたげだ。その輝きに気圧されながら、玄馬は答える。
「いや…。ただ、これは大和の剣かと思ったのでな…。剣はそれぞれ作った地方によって若干、形や色艶が違うという。常陸国といえば東国。東国の剣とわかるものは数本しか実際は見たことがないから、これ以上のことはわからぬが…。」
「そうですか…。大和の剣ですか…。」
 乱馬は玄馬の言葉を聞いて言葉が詰まった。やはり、死の間際に雲斎が言ったことは真実に近いと駄目押しされたような気がした。
 「おまえには大和朝廷の血が入っているかもしれぬ。」今際に言った義父、雲斎の言葉にだ。
「常陸の国のおまえが何故このような大和の剣を?…あ、いや、正確には亡くなられたおまえ様の父上の所蔵品じゃな。親父様の形見と言うのならば。」
 玄馬は己の動揺を隠すように言った。

「それは、恐らく俺の本当の父親が持っていた剣です。」

 乱馬はそう答えた。

「本当の父親?」
 玄馬は思わず乱馬を見下ろしていた。

「ええ、俺は親父に預けらたようなんです…その時一緒にその刀も預かったと、死ぬ間際に親父が言い残したんです。」
「ほう…それは面妖な。…で、本当の父親のことは…。」
 乱馬は玄馬の問い掛けに頭を横に振った。
「わかりません。…探す暇もなく…。俺は常陸国から出てきて、大海人皇子様の舎人になってまだ日が浅いんです。」
「ほう、おまえは大海人皇子様の舎人になったのか。」
 思わず答えていた。大海人皇子。玄馬から見れば異父弟になる。知略に長けた狡猾な兄、葛城皇子と違って大海人皇子は骨っぽい武人派に属すると言われている。
「大海人皇子様を御存知ですか?」
 乱馬は率直に問いかけた。
「あ、知っている。…と言っても、名前だけじゃ。実際に会ったことがあるわけではない。わしはこんな海の端の海賊だからな。大海人皇子様など大和朝廷の主要な皇子や武人は、こんな片田舎でも名は轟いておるぞ。」
 無論、嘘だった。情報が未発達な社会に於いて、人名などの情報がどのくらい列島を駆け巡っているというのだろうか。それに、玄馬は大海人皇子とは面識があった。
 だが、面識があったと言っても、それは自分がまだ大和の人間だった二十年も昔のこと。今は三十路の大海人皇子も、当時はまだ十歳前後。闊達(かったつ)な少年だった。
 もう当時の生意気盛りな紅顔の少年、大海人皇子とは様子が大分と違っているだろう。
「俺、この度の百済遠征のために昨秋、常陸の国から兵役で出てきたばかりなんです。」
「ほお、それで、もう、このような西海に。」
 玄馬は目を丸くした。西海へ来ただけではない。日が浅いというのに、武人の大将として単身この邇磨に乗り込んできた彼だったことに正直驚いたのである。
「たまたま運が良かっただけです。まあ、それはいいとして、俺は迷ってるんです。父親を探すことに。」
 乱馬は言った。
「迷ってるとな?」
「はい。俺は何か事情があって親父に預けられたのでしょうし…。それに、俺は今の境遇で充分に満足してるんです。本当の父親ではなかったけれど、育ててくれた親父は尊敬しています。その死の間際まで、俺はその人の実子と信じて生きてきたのですから…。そんな中で本当の父親を探す意味がどのくらいあるのかどうか。」

 玄馬は黙って乱馬の言を聞いていた。
 この刀は己の物だったと、口元まで出掛かっていたが、ぐっと飲み込んだ。今の己は邇磨の海賊の首長だ。大和の者ではない。斉明女帝の第一子、漢皇子ではないのだ。諸所の事情もあってそれは語ってはならない事実だった。
 過去はとっくに清算していた。
 長閑郎女のことも、彼女と成した子のことも、全ては消し去った過去の出来事として割り切って生きてきたのだ。
 今、その想いが掘り返されようとしている。最早忘れた筈の思いがどんどんと心の底から湧き出してくるのが、面白いほどわかるのだ。

「大事にされるが良かろう。乱馬殿の父親がどこの誰かとはわからぬが、いずれ、真実に突き当たることがあるかもしれぬ…。それに、刀には昔から念が篭るという。おまえが武人としての道を進むのであれば、きっとこの刀はおまえを守り、また導いてくれるだろうて。」
 そう言って立てかけてあったところに戻した。 
 やはり、砺波が言ったとおり、この目の前の乱馬という青年こそ、別たれた己の御子なのだ。そう確信した。
 何より彼は長閑郎女と似ているのだ。その大きな瞳の輝き。そして、意志の強さ。
 別れて久しい最愛の女性に似ている。その事実が玄馬に揺さぶりをかけていた。

「いずれ俺は、父に合見(あいまみ)える日が来るのでしょうか。」

 乱馬は玄馬へと言葉を飛ばした。

「さあ…。それは…。八十神のみぞ知ることだろう。」
 玄馬はただそう一言置くと、彼の元を辞した。
(もう合間見えている。おまえの父は、ここに居る…。)
 心でそう吐き出しながら。
 その時、玄馬は悟ったのだ。自分が乱馬の父であることは隠しとおさねばならない、と。息子を少しでも愛しいと思うのならば、それが一番なのだと。
 今回の邇磨での功績はきっと彼を大和朝廷の中央へと推し出すだろう。今はまだ東国から出てきたばかりの若輩者だが、短期間でここまで武功を成したのだ。目立たない筈はない。
 そんな中で己の素性と乱馬の繋がりが明かされようものなら、必然的に、朝廷のドロドロした政権争いの中に身を投じさせてしまう。そう危惧したのだ。

(朝廷にはあの葛城皇子が居る。…わしや長閑郎女をたき付けて、引き裂いたあの張本人が…。)

 葛城皇子。まだ幼少の折から才覚は長けに長けていた。いずれ、大和政権の全権を手中に収めようと若い頃から野望に満ち溢れていた異母弟、葛城皇子。彼がその才において秀でていたのは、志と利害を殆ど同じくしていた寵臣、中臣鎌足を近侍に据えたことに始まる。鎌足と謀って、まず最初にしたことは蘇我蝦夷、入鹿親子をそそのかして山背大兄王を排したことだ。法隆寺の焼き討ちで一夜のうちに、当時台頭していた一勢力、上宮王家(聖徳太子一門)を滅ぼし去った。傲慢になっていた蘇我氏を上手に焚きつけそして火をつけたのは、確かに葛城皇子だ、玄馬はそう睨んでいた。葛城皇子にとって大和政権の実権を握る上で、聡明と謳(うた)われた聖徳太子の嫡男、山背王は目の上のタンコブだったのだ。それを己の手は汚さずに排した見事さ。
 そして、やがて斉明女帝と同じ腹から出た異母兄の己を、長閑郎女の元へと焚き付けたのも葛城皇子だった。海石榴市で出遭った美しい美姫、長閑郎女。どこで嗅ぎつけたのか、己が長閑郎女に想いを寄せていることを知った葛城皇子は、蘇我蝦夷に長閑郎女を舒明帝へ出自することになっていた長閑郎女との密会を後押ししてくれた。
 その掌に踊らされて、恋に負け、長閑郎女と契ったあの夜。奴の手の者の換言によって密通が明るみにでて、己は皇子身分を剥奪された。後で聞くと、長閑を舒明帝へと差し出させたのは、葛城皇子の上奏だったらしい。己と長閑郎女が互いに思いあっているという事実を逆手に取ったのである。してやられたと思った。年端の行かぬ異母弟に足元をすくわれてしまったのだ。奴の野望の実践のために。純愛を踏みにじられた。
 玄馬は己は全ての過去を棄て、幽閉されていた大和から逐電した。もう二度と戻るまいと心に誓って。
 あの日、大和を出た日、漢皇子はこの世から姿を消したのだ。今、ここに居るのは「邇磨の玄馬」だった。瀬戸の塩飽の荒海を乗り越える海賊の長。

 上宮王家を滅ぼした蘇我氏は程なくして今度は皇極帝の目前にて、葛城皇子ら一派に排された。それが「乙巳の変」、「大化の改新」と呼ばれている事変だ。
 己の前に立ちはだかる者は、たとえどんな手を用いても必ず仕留める。それが、葛城皇子だ。
 策略に長けた葛城皇子が乱馬のことを知れば、必ず排しにかかるだろう。乱馬のような逸材を排することは、大和朝廷にとって痛手となる。父親としてよりも、秋津島の一種族の長としてそう実感したのである。

「ふっ、側に居ながら名乗りあえぬ父…か。これも運命ならば仕方があるまい。」
 玄馬はそう心へと吐き出した。
「名乗れぬなら、せめて、見守るだけよ…。それが父として唯一わしが出来る事柄じゃろうて。なあ、長閑郎女よ。」
 
 いずれ、葛城皇子は乱馬を認めるかそれとも排するか、大きな帰路に立つだろう。玄馬はそう思った。舎人になって数ヶ月で成し遂げた快挙は、彼の存在を否が応でも浮き立たせる。
 葛城皇子はそんな乱馬を可愛がるか、それとも煙たがるか。
「奴の同母弟(いろど)、大海人皇子の舎人として仕えている以上は、後者になるかもしれぬがな…。それも、八十神のみぞ知る…か。」

 霧がだんだんと晴れて行く。瀬戸内の海が白んだ太陽に光り始める。







 乱馬は邇磨の海賊、玄馬を己の配下へと治めた。
 その知らせは早々に、邑久に停泊していた大和朝廷軍の本隊へともたらされた。大和の水軍は沸き立った。
 ついこの前、邇磨の海域で海賊たちに襲われたところだ。玄馬の併合を誰もが喜び祝った。
 邇磨の玄馬を配下に置いたことは、その他にも大きな意味を持っていた。玄馬は瀬戸内でも最大級の海賊勢力だったので、彼が軍門に下るということは、自動的に他の海賊たちも配下へと入ることに通じるからだ。これからは少なくとも塩飽諸島付近は無事に通り抜けることができる。筑紫と大和の行きかいが楽になる。いや、功績はそれだけには留まらない。
 玄馬が大和朝廷に協力するならば、敢えて朝廷と事を構えようとする海賊は居ないだろう。海賊とて馬鹿ではない。長いものに巻かれるように、次々と大和水軍へと迎合されていくのは時間の問題だろう。画期的なことだった。
 
 大海人皇子の徴兵作業もやり易くなるだろうし、事実、瀬戸内の邑々から男たちが兵士として集ってきた。まだそれでも兵力は満ち足りるとは言わなかったが、当初の目標は達成できつつあった。

「たいした男よ。早乙女乱馬という奴は。血を殆ど流さずに邇磨の玄馬とその配下を己がもとへと治めたのだからな。わっはっはっは。快挙だ。これは我が朝廷軍に於いて、実に快挙だ。わっはっは。」
 阿倍比羅夫はそう言って武人らしく豪快に笑った。

「血を流すということはそれだけ恨みを作ることだ。奴め、血を流さずに成し遂げたのだからな。ふふふ、奴以外にこんな芸当をやってのける武人は居らぬのだろうがな。末恐ろしい武人だ。奴は。…敵には回したくないな。」
 大海人皇子も乱馬の功を褒めた。
 敵に回したくはない。それはまた、武人としての誉も高い大海人皇子の本音でもあっただろう。

 湧き上がる朝廷軍の中で、ただ一人、乱馬の功績を苦々しく思っていた男が居た。葛城皇子であった。
「早乙女乱馬…。いずれ奴は我が朝廷に仇名す時が来るやもしれぬな…。淘汰するべき存在になるかもしれぬ。その時はこの手がまた血に染まる…か。」
 自嘲気味に彼は笑った。強大な権力を己の手の中一点に集中させる者の孤独が葛城皇子を再び覆い始めていた。



 西暦六六一年一月十四日。
 邑久から瀬戸内を渡り、斉明女帝たち大和朝廷の一行は伊予国の熟田津へと到着した。
 一行は石湯行宮(いわゆのかりみや)、今の道後温泉にて静養しながら、次の出航を暫く待った。
 花が一斉に開く春はまだ浅い、空風の吹く季節のことだった。
 


 第三部 完







補足
 中臣鎌足と葛城皇子(中大兄皇子)の出会いは、通説では645年の多武峰(とうのみね)の談山神社(たんざんじんじゃ)での蹴鞠ということになっています。また、山背大兄王(やましろおうえのおう)の法隆寺焼き討ち(643年)に葛城皇子の姦計があったことも史実としては確認されていませんのであしからず。一之瀬の創作でございます。(勿論、そういう説もあるようですが。)
 第三部自体が史実から呼び起こした勝手な創作です。邇磨に海賊が居たのかどうかも知りません。後世、塩飽諸島には実際に海賊が居たそうです。この先の伊予付近は源平時代に活躍した海賊、村上水軍の本拠地ですし…。
 この時代の海賊とは、行き交う船を呼びとめて、通行料金を競り取った輩とでも解してください。襲い掛かって強奪するのは後の世のイメージです。通行料を払わずに無理矢理通ろうとした大和の水軍と一戦を交えた…そんな感じでイメージしていただければなおよろしいかと。
 史実とそこから派生する妄想と、錯綜する話は続きますが、どうぞお付き合いくださいませ。次章ではあかねセクションも出てくる予定です。



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