第十四話 相撲






一、




 祭りは夜行われる。


 日中のうちに、大和の武人と邇磨の岩麻呂が遠征をかけて相撲勝負で競り合うという儀が、邇磨の海賊たちに知らせが行き渡り、そこらじゅうの島から見物人が邇磨へと雪崩れ込んできた。まだ日が高いうちから港は船でびっしりと溢れかえる。まるで綿津見(わたつみ)の神々を迎えて、盛大な祭りを行うような雰囲気に、郷中、活気が溢れ出していた。
 郷の裏山前に設えられた会場。山を背に広がる野原には闘いの場に相応しい雰囲気があった。土俵となる四隅には注連縄が張り巡らされ大きな丸太が立てられ、かがり火が天辺に掲げられた。煌々と昼間のように照らしつけられる暗がり。それを囲うように人々が群がる。少しでも二人の闘いぶりを良く見ようと、先に来た人々から、前へ前へと押し寄せて陣を取り座った。
 いつの世にも物見遊山の人々は尽きない。その祭りの中心に「格闘技」があれば、否が応でも気性の荒い海の老若男女は浮き足立った。


 邇磨の郷。
 背後の山際は深遠なる木々の中に松の木が連なっていた。この辺りは松が多い。温暖な気候だからだろう。縄文期、瀬戸内沿岸にはすでに松林が広がっていたという。
 まだ寒い季節でも松の木立は常盤の葉を茂らせていた。


 集り来る人に紛れて、沐絲の姿があった。
 人目を忍び、目立たぬ風体に身を紛らわせていた。


(ふふふ。乱馬よ。ここがおまえの墓場となるのじゃ。必ず、岩麻呂におまえを倒させるだ。そして、再び珊璞の想いをオラの元へと取り戻してやる。…死んでしまえば珊璞とまぐ合うこと、かなわぬからな…。)


 殺気の混じった鋭い視線を乱馬へと巡らせる。


 やがて沐絲は闘いの場を確認すると、ふっと闇の中へと消えて行った。






「さあ、ここに集いし客人(まろうど)たちよ。今日はこれから邇磨の勇者と大和朝廷の使者が相撲で闘う。我が邇磨の代表は岩麻呂だ。」
 玄馬は中央に立つと、喝采を受けながら岩麻呂を呼び出した。
 上半身裸体、褌(ふんどし)のような短い布切れで秘部を覆っただけの簡単な装束の男が二人現われた。
「我が邇磨の代表は岩麻呂だ。」
 玄馬は中央に立つと、喝采を受けながら岩麻呂を呼び出した。その歓声に応えるがの如く、真っ赤に日焼けし、毛深い体毛を顕にした岩のような巨体がまず前に進み出た。「赤鬼の岩麻呂」という異名がある如く、強靭な身体つきだった。
 対する乱馬は、岩麻呂と見比べればいささか劣る体格である。決して彼も痩身とは言えない身体つきだが、岩麻呂とは比ではなかった。
「そんな青二才、直ぐにでものしてやれっ!岩麻呂っ!」
「そうだ、そうだ!大和の若者など、蹴散らせて、力の差を見せ付けてやれっ!」
 海の男たちの罵声が飛び交う。
 ここは邇磨の本拠地だ。岩麻呂贔屓の人間ばかりなのも頷ける。


 だが、戦い慣れた者が見れば、乱馬のその身体には一切の無駄な筋肉や贅肉がないことがわかるだろう。
 精悍な身体。むしろ、直人辺りは岩麻呂よりも乱馬の身体に見惚れたくらいだ。


「兄貴ーっ!俺たちが応援してっからな。」
 最前列から千文が声を荒げた。周りは岩麻呂贔屓ばかりの中、一人奮起して声援を送っている。乱馬はにんまりと笑ってその声に答えた。任せておけと言わんばかりに。


 玄馬は改めて一族の群集の前に立った。
「さて、勇者諸君よ。我が一族の運命を握る闘いの始まりだ。大和の益荒男、早乙女乱馬殿が勝たれたら、我らは彼の配下に入る。そして、もし、彼が負ければ、我らは今まで通り、この塩飽の海で奔放に生きる。それが約定だ。改めて問う。それで異存はないな?」
 その声に呼応するかのごとく、どよめきが起こった。口々に「おう!」と叫びたてる。
「よし、その約定、綿津見の神々の元、確かに誓約しようぞ。」
 玄馬は高らかに拳を挙げた。




 異様な雰囲気だったな。千文があとで回想してそう言ったくらいであった。
 玄馬はこの邇磨の郷にあって、確かに優れたくカリスマ性を身につけていた。カリスマ性は指導者にあって然るべきものだ。彼の言は海の男たちを惹きつけてやまなかったのだろう。


「絶対、この闘い、俺が勝ってやる。」
 乱馬は胸元に光っている勾玉にそっと手を当てた。
 あかねが別れ際にくれた青い勾玉。これを握り締めるとき、常にあかねのことを思った。あかねもまた、自分の与えた赤い勾玉に想いを寄せてくれるのだろうか。きっとそうなのだと信じていた。
 手に触れた勾玉のつるりとした感触が、あかねの柔肌を思い出させる。いつかあの清廉な身体に再び触れられるまで、絶対に生き抜く。その強い思いだけが乱馬の上に去来した。
「あかね…。俺は絶対に負けねえ。俺はおまえを育んだ、この秋津島を絶対に守ってみせる。だから…。ここで俺の闘いを玉共々見届けてくれ。」
 そう念じた。


 戦いの時は来た。


 玄馬に促されて二人は格闘場の真ん中に進み出た。


 飛び交う野次。勿論、この場に居るのは全てが邇磨の人間。だから、乱馬にとっては「敵」になる。だが、どんなに口汚くののしられても、乱馬は平気だった。元より耳元には入らない。そのくらい目の前の男に集中していた。
 確かに、直人が言うように、彼からはそう強い気は感じられない。身構え方も隙だらけである。構え方だけ見ていれば、直人の方が腕が立つ筈だ。
 だが、岩麻呂は不敵な笑みを浮かび上がらせていた。
 おまえなどには負けぬと、瞳はそう言っていた。


 既にこの時代には、日本の国技とも言われている「相撲」の言葉は記録に出ていたという。
 元々「相撲」という言葉は「すまふ」という「争い」「抗う」という動詞の連用形が名詞化した「すまひ」が語源であるという。そう、元来「相撲」という言葉は、現在の大相撲だけではなく、「格闘」そのものを指し示した言葉であったようだ。
 「日本書紀」の垂仁帝記に野見宿称(のみのすくね)と当麻蹶速(たいまのけはや)が天皇の御前でとったのが相撲の始まりと記されている。史上初のこの取り組み相撲で当麻蹶速は脇骨を砕かれ死んでしまった。この時の「相撲」はそのくらい激しい格闘技だったようだ。
 神話時代にも相撲の記述はある。出雲国稲佐の小浜で建御雷神と建御名方神が「力くらべ」によって高の原側が国をせり取ったという。
 国一つの運命をも左右する、そんな歴史もが刻まれている。
 今の相撲とは訳が違う。ルールも生易しいものではなかったかもしれない。時には命を落とすことも合ったろうし、ボクシングのような殴り合いにもなったかもしれない。 
 今日のスポーツとしての相撲へと進化するには、まだまだ悠久の時を経なければならなかった。


 それはさておき、乱馬と岩麻呂の相対した「相撲」は激しい肉弾格闘技とでも理解していただければいいだろう。勿論、武器は所持してはいなかったが、殴り合いであり果し合いだ。死と隣り合わせにあった激しい男同士の闘いには違いがなかった。


 乱馬が岩麻呂とが対したのはまさにそんな激しい格闘技だった。
 それぞれ男の誇りをかけて神前で力と技を競い合う。それが玄馬の指し示した相撲という勝負だった。今のように行司は居ない。だが、全ての人々が興奮を持って、勝敗の行方を見届けようとしていた。




「両者、始めっ!」


 玄馬がそう高らかに宣言した。


 一斉に沸き起こる大歓声。
 いつの世も人々は選ばれし者の闘いを見るのが好きだ。強い者同士の闘いは、人を惹きつけて止まぬ魅力があるのだろう。


 乱馬も岩麻呂も迷うことなく互いに激しくぶつかり合った。火花が飛び出すのではないかというように、肉体と肉体が張り付きあう。最初は力勝負。
 体重が重い分だけ、岩麻呂が有利なのは一目瞭然だ。だが、乱馬は決して押し負けはしなかった。腰の位置をしっかりと落とし、重心を下にして二の足で踏ん張る。それからふっと力を抜き、押し込んできた岩麻呂を思いっきり反動で地面に叩き付けた。
 どすんと音がして、巨体が前につんのめる。
「ふん、小僧、なかなかやるではないか。」
 すぐさま岩麻呂は立ち上がった。その動きに観衆は一斉に雄叫びを上げる。うおおおおっと老若男女の声が響き渡った。
「けっ!図体だけの男には俺は倒せねえ。」
 乱馬は白い息を吐きつけながら岩麻呂に言った。
「その元気、いつまで続くかな…。さあ、今度は俺様が貴様をのしてやろう。」
 岩麻呂は拳を突き上げると、乱馬を強襲した。
 シュンシュンと岩麻呂の拳が空を切る音が響く。
「けっ!拳も当たらなかったら痛くもなんともねえっ!拳はこうやって当てるもんだっ!」
 乱馬は隙を見て、岩麻呂に向かって一発、顔面に拳を炸裂させた。その反動で岩麻呂は後ろに吹っ飛ぶ。だが、彼は何事もなかったかのように直ぐに立ち上がった。
「思ったよりもやるではないか。」
 そう言いながらにっと笑った。


(変だ…。俺の拳はまともに奴へと入ったはずだ。手応えもあった…。だが、奴は、何事もなかったかのようにすぐさま立ち上がりやがる。)


 乱馬はじっと岩麻呂を見据えた。


 そうだ。彼の拳はかなり破壊力がある。物の芯を捕らえて打ち込むのが昔から得意だった。それなりに自信がある。
 そんな拳をまともに喰らっても、岩麻呂は屁とも思わないらしい。


「くっ!これでどうだっ!」
 乱馬は再び果敢に攻め立てた。
 何度も何度も拳を振り上げては岩麻呂の巨体を打った。
 だが、岩麻呂は打たれても直ぐさま立ち上がり、何事もなかったかのように乱馬を睨み返した。彼の身体は乱馬に打たれて、ところどころ変色し始めているというのにだ。


(化け物か…。こいつ。)


 乱馬は得も言われぬ不気味さを感じ始めていた。










「無駄じゃ…。岩麻呂は痛みを受け付けぬ身体になってしまったからな…。ククク。」


 二人の闘いを離れた場所から冷静に見詰める二つの瞳があった。沐絲だ。


「オラが処方したこの妖の薬…。こいつの効用で、岩麻呂には貴様の拳も蹴りも効かぬのじゃ。」
 にんまりと笑う。懐には妖しげな粉の薬包みを抱えていた。
 昨夜、沐絲はいつものようにこの粉薬を岩麻呂に渡した。この邇磨に来て、岩麻呂に狙いを定めてから、夜毎彼に与えて飲ませていた薬だ。一種の麻薬である。
 この薬を飲用すると脅威の肉体を作り上げていた。そう、痛みなどの感覚を麻痺させ、一種の興奮状態へと神経を導くのだ。無論、それだけではない。こういった妖の薬に共通するように、「常習性」の副作用もあった。身体はいつしか、薬を切らせることができなくなるのだ。
「ふふふ…。オラが奴に施してやったのはそればかりではないぞ。」
 沐絲の目は妖しく光った。
「この筋肉増強薬もついでに与えてやったわ。やつめ、この薬で普段の何十倍もの破壊力を引き出すぞ…。乱馬よ、貴様に勝ち目はないのだ。」


 卑怯なやり口であった。








二、




 二人の青年が撃ち合う中、玄馬はしかめっ面で動きを見詰めていた。


「喉がしこたま渇いたわい…。」
 彼はそう言うと、側に居た、直人へ耳打ちした。
「酒でも持ってまいれっ!」


 玄馬の命に直人は素直に従おうとした。


「そうさな…。大和の客人たちにも酒を平等に振舞ってやれ…。」
 そう言うと、真剣に取り組みを眺めて居た千文に視線を促した。
「おまえ、直人と親しいようじゃから、彼と共に行って、倉から酒を出して皆に配ってくれぬか?」


「お、俺がか?」


 千文が、俺だって懸命に見てる最中だぞ、と言いたげな目を向けた。


「行って参れ。おまえが一番、大和の武人の中では年が若かろう?気を利かせなされや。…わしも酒が飲みたくなった。」
 横から砺波が言った。


「ちぇっ!酒が飲みてえんなら、爺さんも手伝えばよかろう?」


「ばか者、ご老人は大事にするものぞ。」
 玄馬がそう言って軽くどやすと、
「わ、わかりました。行って来ます。」
 渋々、千文は直人の後を追った。


 彼らが遠くなるのを確認すると、玄馬は砺波に小声で話しかけた。


「久しぶりだな…。砺波彦よ。」
「漢皇子様もお元気そうで何よりですじゃ。」
 千文と直人が行ってしまうと、声の届く範囲に人気はなくなっていた。だが、玄馬はしっと言わんばかりに砺波を見返した。
 「漢皇子」。その名前を棄てて、いく久しい。
「その名は慎んでくれ、爺よ。わしはもう皇子でもなければ大和朝廷とは何も関わりもない、一人の海賊じゃ。」
「そうですなあ…。もうあれから二十余年、歳月が流るれば、もうあなた様はご立派な海賊の長とお呼びしても良かろうか。」
 そう密やかに砺波は笑った。
「砺波彦は変わらぬな。」
「いえ、わしも白髪がたんと増えましたわい。年月の無常を感じさせまする。のう、玄馬殿。」
「そうか…。二十年…。もうそんなに経つか。」
 深い溜息と共に玄馬は呟いた。
「皇子様も瀬戸内で、邇磨の玄馬と恐れられる立派な海の民になられまして…。人を惹きつける才はまさに天から与えらし功でございまするな。」
「ふん…。それもこれも、世捨て人になって都を捨て去り、逃避して来たからこその、今の己であるがな…。結局、人の子の親にもなれず、愛する者をこの手に守ることも叶わなかった弱き男よ。邇磨の玄馬は。」
 自嘲するように玄馬は吐き出した。その視線の先に、闘う青年たちの姿がおぼろげに映る。
「まさか、おまえと再び会い見える日が来るとは思わなんだがな…。砺波彦よ。」
 そう静やかに言った玄馬に砺波は返した。
「ふふふ。まこと、人の世は不思議な縁(えにし)で結ばれておりまするからのう…。玄馬殿がこの世に送り出しし小さき命。それがあのように大きく育ちましてこそ、わしもここへ現われましてでございますれば…。」
 砺波は柔らかく笑った。
「そうか…。やはり、あの青年が…。我が御子か。」
 玄馬はそう言ったきり、言葉を詰まらせた。


「はい。わしは玄馬殿の言いつけでずっとあの御子を見守って来たのですからな。人知れず、影からずっと。長閑郎女様の元から引き離されて以来…。」


「二十年も経てば、あのように赤子も大きくなりよるか…。」
 少しだけ笑みが玄馬から零れ落ちた。優しい瞳は愛しい者を見る輝きになった。
「乱馬殿は、なかなかの男ぶりに育たれてございまするぞ。益荒男ぶりは恐らく父譲りとお見受けいたします。御覧なされ。」


 舞いを舞うように躍り上がる青年の美しき肉体。


「容姿はわしではなく、あれ(長閑郎女)に似ておるな…。目元も眉も口元も…。」
 感慨深く解き放った言葉も、直人が千文を連れて、酒を持って戻ったので、そこで途切れた。何事の会話もなかったように、玄馬も砺波の爺さんも、黙り込んだ。




 さて、格闘場では、乱馬と岩麻呂の死闘が繰り広げられていた。
 一進一退。いや、戦いは乱馬が押していた。
 明らかに武人としての格は乱馬の方が数倍も上だった。
 だが、岩麻呂は打たれても、突き倒されても、立ち上がる。確かに身体にはダメージが見られるのに、傷の痛みなど諸共せずにすぐに立ち直るのだ。そこへまた乱馬が仕掛ける。
 その繰り返しであった。






「さて…。そろそろ本格的に始めようかのう…。」
 沐絲は口に葉っぱを当てた。それから、ゆっくりと言葉を継ぎ始めた。




「岩麻呂…。岩麻呂よ…。」


 特殊な周波を唇から発して、沐絲は岩麻呂に言葉を浴びせかけたのである。
 風がざわざわと会場を吹き抜け始めた。まだ春は遠い真冬の夜。しんしんと冷えが伝わってくる。


「何じゃ…。沐絲よ…。」
 岩麻呂は当たりに聞こえない声で囁き返した。その音は沐絲へと伝わってくる。


「そろそろ反撃に出るのじゃ。おまえの感覚は既になくなっておる。だから、奴の拳など、痛くも痒くもなかろう?…今までくらったその拳を何倍、何十倍にもして、奴めに浴びせかけてやるのだ。手筈どおりやれっ!」


 最初は乱馬に打たせて、体力を使わせ、ある程度彼の力が落ちたところで改めて岩麻呂に攻撃させる。そういう作戦を与えたのは沐絲であった。


「わかった。」


 沐絲の声を聴き終わると、ふうっと岩麻呂は乱馬の方へと目を転じた。襲い掛かって来た乱馬をギリギリまでひきつけると、めくらめっぽう、拳を振り回し始めた。
 ブンブンと音がして、近づいて来た乱馬へとかすった。


「うっ!」


 寸でのところでその拳を避けたのに、拳圧で吹っ飛ばされたのだ。勢い良く乱馬は後ろに倒れこんだ。


 ずっと岩麻呂を叩きつけてきた乱馬が、ここへ来て始めて倒れたのを見て、人々がどどっと響き渡る。
 乱馬の唇が少し切れて血が滲み出す。


(すげえ拳圧だ。人間業じゃねえ。)
 乱馬はその血を右手で拭った。
(あの拳に捕まったらあばらの一つや二つ、簡単にへし折られるぜ。)
 そう思った。


「ふふふ、小僧。今度ははずさぬっ!」
 勢いづいた岩麻呂は乱馬目掛けて突進してきた。
 その動きはのろく、すぐに見切って交わせたが、だが、容赦なく打ち込まれる岩麻呂の拳は、側に在った木や建物を尽く打ち砕き始めた。いや、砕かれたのは木や建物だけではない。石をも簡単に割りほぐす勢いだったのである。


(奴め、力だけの男なのは確かだ…。だが、…全然疲れる気配がねえ。)


 乱馬はだんだん息が上がり始めていた。自分の攻撃は岩麻呂に入るが、彼には全く効く気配がない。彼は乱馬が疲れるのを待っていたかのように、だんだんと動きに精悍さを増してきている。


(ちっ!このままじゃやべえぞっ!)


 乱馬は今のところ彼の拳や蹴りには捕まらなかったが、スタミナが切れ始めていることを自覚し始めたのだ。
 対する岩麻呂は沐絲が処方した「魔人になる薬」にて、興奮状態にある。痛みも疲れも知らぬ「化け物」へと化していたのだ。筋肉も増強され、常人ならぬ怪力を武器に襲ってくる。


「ふふふ、そろそろ仕上げといくかのう。乱馬よ貴様はこの岩麻呂に潰されてくたばるのじゃ。ボロボロに打ち砕かれてな…。」
 沐絲はすっと懐へ手を入れた。キラリ。彼の手元で光る糸。前に鷹麻呂の手下の死体たちを操っていた傀儡の糸であった。
「さてと…。可愛いおまえたち。」
 沐絲はふうっと掌を翳した。と、どこからともなく羽を持った虫が舞い降りてくる。一羽、また一羽。十羽ほどの蛾が沐絲の袂に飛来してきた。
「ほら、あの男の元へ糸を巡らせるだ。」
 蛾は沐絲の上をくるりと回ると、一目散に飛び立った。身体のどこかに沐絲の糸を付けて、ゆっくりと闇を舞う。
 沐絲が放った、蛾によって運ばれていく。闘いに夢中になっている乱馬は、己に向けて蛾が飛び立ったことなど、知る由もなかった。蛾は乱馬の側を付きつ離れつしながら飛び交い、その柔らかな傀儡の糸を乱馬の手や足へと巻きつけて行った。
 ひとしきり闇の中を飛び回った後、蛾たちは再び上空へ舞い上がるとどこかへ消えて行ってしまった。
「くくく…。これで乱馬、貴様は我が思うがままじゃ。その動き、全て止めてやる。」


 乱馬は岩麻呂の拳を避けながら、自分の拳を強く突き出す。何が何でも岩麻呂を倒さなければ勝機はない。
 とその時だ。沐絲が己の手に結ばれた傀儡の糸を一つ、人差し指一本でクンっと引っ張った。


「なっ?」
 
 乱馬の動きが途端、鈍った。何かに引っ張られている感覚が彼を捉える。


 と、待っていたと言わんばかりに、岩麻呂の拳が乱馬のみぞおちへと一本入った。


「ぐっ!」
 激しい痛みが乱馬を突き抜ける。ざざっと拳の勢いで後ろへと突き倒された。
 わああっという観衆のどよめきが沸き立った。初めて岩麻呂の拳がまともに乱馬に入ったからだ。
「くそっ!」
 乱馬は立ち上がろうと足に力を入れた。
「え…?」
 だが、彼の身体は動かなかった。
 すかさず打ち出される岩麻呂の拳。今度は右頬へと入った。乱馬は寸でのところで後ろに身体を引いたので、幸い、まともに食らうことはなかったが、それでも頬は赤く腫れ上がる。






「おかしい…。何故、乱馬の動きが急に止った?」
 観戦していた直人がそう吐き出した。今まで優勢に動き回っていた乱馬が、急にその軽やかな動きを止めたのが不自然に思えたからだ。
 乱馬は岩麻呂に打たれ始めていた。それも一方的にだ。
「体力が突然に切れたとも思えないし…。」
 直人の視線がふっと、他の気配を捉えた。
「あれは…。」
 ちらちらと乱馬の側を何かが光っているのが見えたからだ。
「糸?」
 その光る細い筋は、ある方向に向かって伸びていた。
「そうか。誰かが糸を使って乱馬の動きを封じているのか。くそうっ!岩麻呂めっ!卑怯なっ!」
 そう言って立ち上がろうとした瞬間、がっと太い腕が直人を止めに掛かった。
「待てっ!」
 そう言って表情一つ変えずに、試合を眺めて居た。
「玄馬様?」
 直人は止めた男を振り返った。
「何故止めるのです?岩麻呂は卑怯な手を使って乱馬の動きを止めているんですよ。」
 真正直な直人はきっと言葉を投げかけた。
「あれしきの姦計を見切れんでは、誰も奴を認めはせぬっ!そこまでの男よ。」
 玄馬は強く言い切った。
「しかし…。」


「この窮地を乗り越えてこそ、大和の益荒男だ。違うか?」
 玄馬はそう吐き出した。
 直人はそのまま黙ってしまった。玄馬に止める意志がない以上、彼もまた、この戦いを見守る他に術はなかったからである。
「ほっほっほ、大丈夫。乱馬殿はやられはしませぬ。」
 側で砺波の爺さんが抜けた歯跡をちらつかせながら、にっと笑った。






三、




「ふふふ、これだけで終わると思うなよ…。乱馬よ。」


 沐絲の卑怯な手はそれだけには留まらなかった。
 一度乱馬に破れた彼は、随分と周到に罠を張り巡らせたのである。


「唐の道士、沐絲様の術はこれだけではないだ。糸だけでおまえの動きを留めても、おまえはその糸を引き千切らんとも言いきれぬでな。」


 動かぬ身体を右往左往させながらも、乱馬は受身を取りながら、激しい岩麻呂の攻撃を紙一重で急所から交わしていた。岩麻呂もさほど真剣に乱馬を打ち砕くでもなく、まるでもてあそんでいるように、なぶりながら拳を差し向けていく。手加減してやっていると言わんばかりにだ。


「乱馬よ、その本能的とも言える動き、さすがにただものではないな。だが…。」
 沐絲はにっと笑った。
「我が術の前には成す術もないのじゃ。…おまえは岩麻呂に沈められ、無残な死体をここへ晒すのじゃ。」




 と、その時だった。
 沐絲から一番近いところに建てられていた四隅の柱のかがり火が一層大きく焔を立ち上げた。
 パチン!
 木の弾ける音が勢い良くして、さらに焔が闇の中へと浮き上がった。


「な…、何だ?この匂い…。」


 その柱の方から風に乗って、乱馬の方へと甘ったるい匂いが漂ってきた。荒い息の下、思わずその匂いを胸の中に吸い込む。
 と、ドクンと心臓がひとつ、うなりを上げたような気がした。それと共に乱馬の目が霞んだ。


「な、何っ!!」


 目の前の岩麻呂が二人に見えるではないか。ぼやけたかと思い目を擦り、更に驚いた。
 二人、三人、四人…。
 彼の前に岩麻呂が何体も立ち塞がる。そして幾重にも重なりながら、乱馬に襲い掛かってくる。


「わああっ!」


 乱馬は岩麻呂に打ち砕かれた。激しい痛みが身体を突き抜ける。




「兄貴っ!」
 思わず千文が身を乗り出した。


 はじめて乱馬は地面へとノックアウトされた。ざざっとのめりこむようにそこへと薙ぎ倒されていた。そのままふっと意識が途切れた。軽い脳震盪を起こすほど、岩麻呂の強い拳をまともにくらったのだ。


「終わりだっ!乱馬っ!」


 獲物を狙った岩麻呂の目が妖しく光った。倒れこんだ乱馬に、更に拳を振り上げた。


 と、その時だった。
 闇を引き裂くように天井がパアッと光り輝いた。同時に轟く激しい雷音。
 ザアザアと雨が闇空から滴り落ち始めた。
 その冷たい雨に身体を打たれて、乱馬は失いかけた意識を一瞬のうちに取り戻した。再び轟き渡る雷。その地響きがゴゴゴと唸る。その音に驚いたのか、一瞬岩麻呂の動きが止った。
「くっ!」
 動きが止ったおかげで、乱馬は岩麻呂の拳を紙一重でかわした。メリメリと音がして乱馬の倒れていた地面へ岩麻呂の拳が突き刺さった。
 乱馬はのろのろと立ち上がる。




「ちっ!香を焚いていたかがり火が消えただか。」
 沐絲が吐き出すように言った。そう、沐絲は乱馬の視覚を麻痺させるために、特殊な香をかがり火の中に仕込んでいたのだ。その香木が燃え、間近で嗅いだ乱馬の視覚に変調をきたしていたのである。
「だが…。」
 沐絲はにやりと笑った。


 かがり火は空から舞い落ちる雨に打たれて、一つ、また一つ消えていく。時々稲光で浮き出す明かり以外は、真っ暗な闇に邇磨の郷中が飲み込まれていく。
 人々は突然の暗闇の到来に、ざわざわとざわめき始めた。
 その音に紛れて沐絲は再び岩麻呂へと特殊な話法で語りかけた。


「岩麻呂よ…。」


「何だ?」
「拳はもう良い、今度こそ、乱馬を確実に仕留めるために、武器を使うだ。」
 岩麻呂の動きに一瞬戸惑いが生じた。
「武器だと?…これは相撲勝負。肉体と肉体での勝負ぞ、沐絲。」
 岩麻呂は小声で話しかけた。
「わかっておるわ…。」
「わかっておるのなら何故、武器を俺様にけしかける。」
「ここは闇に包まれた。奴の感覚はかがり火に仕込ませていた香のせいでまだ麻痺している筈だ。今しばらく元に戻るには時間がかかる。その間に確実に奴を倒せ。奴が感覚を取り戻したらやばいぞ。いくらオラが傀儡の糸で動きを鈍らせても、力でねじ伏せられたら切れる。」


「だが…。」
 武人としてのプライドがまだ岩麻呂には残っていたのだろう。


「安心せいっ。観客にはどうせ、わかりはしないだ。暗闇に乗じてオラの暗器を渡してやるだ。それで奴の心臓を一突きにすれば良いだ。使った武器はちゃんとオラが始末してやるだ。」


 暫く岩麻呂はじっと考え込んでいた。
 そして言った。
「いや、やはり、相撲という以上は素手で勝負したい。」
 その言葉に沐絲は口調を荒げた。


「オラの言うことがきけないなら、もう薬はやらないだぞ。」
 沐絲は最後通達のように吐き出した。


「そ、それは…。困る。」
 途端、岩麻呂は戸惑いの声を上げた。


「じゃろう?あの薬がなければ、女も抱けまい。」
 にやりと沐絲は笑った。そう、岩麻呂はこの岩麻呂を麻薬の中毒者に仕立てあげていたのだ。強さを手に入れた代わりに、岩麻呂は強い理性の意志を失ったのである。


「乱馬を殺したら、一生分の薬をおまえにやるだ。」


「一生分の薬…。」


 岩麻呂の頭で何かがはじけ飛んだ。沐絲の言葉にわずかに残っていた理性が吹っ飛ぶ。


「ほうら…。この匂い、嫌いではなかろう?」
 沐絲はすっと懐から香袋を取り出して岩麻呂の近くへと擦り寄った。


「薬が貰えるなら、俺様は…。」
 岩麻呂の目が妖しく光り輝いた。
「そうだ…。おまえはオラに逆らうことはできないだ。…さあ、殺せ。乱馬を。」
 沐絲は柔らかく岩麻呂の直ぐ側から囁きかけた。


「ランマ…。コロス…。」


「殺せ…。そうすれば薬はおまえのものじゃ。」


 ゆらりと岩麻呂が立ち上がった。


「くくく…。ちょろいもんじゃ。こやつは…。」
 沐絲は懐から燻る香炉を出した。そう、精神を操る香を今度は岩麻呂に嗅がせたのだ。その甘ったるい匂いに、薬漬けになっていた岩麻呂は、反応してしまったのだ。












「さっきから何たらたらやってるんだ?岩麻呂。まだ戦いは終わっちゃいねえんだぜっ!」


 乱馬はやっとあがっていた息を取り戻し、暗闇の向こう側から岩麻呂へと声をかけた。


「コロス、オマエヲ…。コロス。」


「お、おいっ!一体どうしたってーんだ?」
 様子がおかしい岩麻呂に乱馬は思わず身をよだたせた。


「コロス…。」


「なっ!」


 乱馬は再び戦慄した。
 身体が動かない。今度は手も足も微動だにしないではないか。


「どうなっちまったんだ?」


 ぐっと力を入れてもピクリともしなかった。


「畜生っ!どうなってるんだ?」


 足掻けば足掻くほど、身体は固定されていくようだ。




「乱馬、おまえの動きはオラがこの傀儡糸で今度こそ完全に封じただ。もう全く動けまいよ…。」


 沐絲は岩麻呂に言った。


「さあ、この石斧で奴を一思いにぶっ潰すだ。岩麻呂の力ならば、奴の頭を粉々にできる…。そうすれば、薬はおまえのもの。」
 沐絲は影から岩麻呂を焚きつけた。そして、闇に紛れてそっと岩麻呂に武器を手渡したのである。


「コロス…。」
 武器を受け取ると、岩麻呂はゆっくりと乱馬の方を目掛けて歩み始めた。












 第十五話 「父と息子」につづく








相撲と格闘技・補足
 裸の成年男子が闘う格闘技は、広く世界に分布していると言われています。様々な地域で様々な生活様式の中に、「男と男の闘い」は取り入れられ、文化として形成されていったようです。
 私観ですが、相撲だけではなく、ボクシングもK1もレスリングも殆どは裸体に近いいでたちで闘うのは、己の身体全体を武器として闘う男たちの熱い闘志と関係があるような気がします。武器を隠し持たないという証を立てるために裸になったのかもしれませんし、互いの素晴らしく鍛え抜かれた肉体を顕示するために何も身につけなかったのかもしれません。
 上半身裸体でぶつかり合う乱馬の素晴らしい肉体美を妄想するだけでわくわくしてしまうのは私だけでしょうか?





(C)2004 Ichinose Keiko