第十三話  海の益荒男




一、




 乱馬はじっと身構えた。手には養父、響雲斎から託された古い宝剣が鈍く光を放っていた。


 対するのは、吉備津直人。
 邇磨の海賊、玄馬の配下の若者だ。
 年の頃合は乱馬と同等、または少し上といったところだろうか。いずれにしても二十歳を幾許も過ぎては居ないだろう。
 だが、その裁量を頭領の玄馬に買われて、この塩飽の拠点を任されているようだ。
 彼もまた、腰元から剣を抜き放つ。


 海賊どもも乱馬の水軍兵たちも、固唾を飲んで二人の対決を見守っていた。
 誰もこの二人の間に割って入ろうとはしない。雌雄が決する瞬間をその目で捉えようと、じっと見守っていた。
 辺りは不気味な静けさに覆われている。
 ゆらゆらと荒波に揉まれて甲板が動く。空からは相変わらず雨が激しく滴り落ちていた。


(負けるわけにはいかねえ…。絶対に俺は…。俺の闘いをするんだ。)
 乱馬はそう言い聞かせながら隙を伺った。


 さすがに若いとは言え、水軍を一手に任される男だ。目前の男には隙が無い。こちらの気に怖気づくことなく、鋭い視線が睨みつけて来る。


(こいつ、想像以上に腕が立つな。)


 乱馬は負けない強い瞳で見詰め返した。


 どのくらい互いに睨み合っていただろうか。


 やがて、雨が上がり雲間に薄い太陽の光が差し込め始める。


「行くぞっ!大和の武人っ!」
 先に動いたのは吉備津直人の方だった。
 がっと剣がぶつかる音がした。ぎりぎりと互いに剣を構える。どちらも力を抜くことなく、歯を食いしばった。
 と、乱馬の足元が雨で滑った。力をこめていた分だけ、水に濡れた床は滑りやすくなっていたのだ。
 その僅かな隙を逃すことなく、直人は剣を振り下ろしてくる。
「くっ!」
 乱馬は体制を立て直せずに、そのまま横に飛びのく。と、がらがらと音がして、甲板にあった箱が飛び散った。
「この刀のサビにしてくれるわっ!」
 振りかぶって直人が覆い被さるように剣を討ちつけてくる。乱馬は必死でそれをかわした。
 乱馬の着物が腕の辺りから切れた。皮一つくらいの間隔で直人の剣を避ける。
 だが、容赦なく直人は乱馬目掛けて、更に深く突っ込んできた。


「でやああっ!!」


 直人が剣を突き通した時、乱馬は後ろ足を蹴り上げた。ふわりと宙に浮く体。帆船の帆柱に飛び移った。
「おのれっ!ちょこまかとっ!」
 切っ先をかわされて直人が唸った。


(船の上は慣れねえ分、やっぱり俺の方が不利か…。)
 彼らが激しく動くたびに、船の床はゆらゆらとゆれる。陸の上とは違う場に、慣れぬ乱馬はいつもより幾分か動きが緩慢だった。
(このままじゃ不味いな。)
 乱馬は直人の攻撃を交わしながら辺りを見回した。
 ふと脇を見ると、船は桟橋にしっかり繋がれている。
(よし、陸へ上がるかっ!)
 意を決して帆柱から横を見やった。そして、はっしと帆柱から延び上がる縄へと手をかけた。
 ザンっとそれを刀で切り取る。
「何っ?」
 帆布が求心力を失ってばさっと甲板に落ちた。覆い被さるように帆布は直人目掛けて舞い降りる。身動きできぬ直人が帆布を浴びせかけられてもがいた。だが、乱馬は彼には目もくれず、船の横付けされていた桟橋へと駆け出していた。
 直人の軍船はまだ岸辺に繋がれたままだったので、桟橋を越えればそこは陸(おか)だった。船が繋げられているだけあって、遠浅な砂浜ではなかったが、それでも、少し平らかな土地はある。
 何を思ったのか、乱馬は船を飛び降りたのだ。そして、後ろを振り返ると、直人へと叫んだ。


「陸(おか)へ来いっ!直人っ!ここで勝負だっ!」


 そう言って海岸に仁王立った。


「やつめっ!ふざけたことをっ!」


 直人は乱馬の挑発を受けると、自分に覆い被さった帆布を持っていた剣で引き裂いて、のそっと顔を出した。


「俺を愚弄したこと、後悔させてやるっ!!」


 若気の至りと言おうか。船を下りたことで、既に直人は乱馬の手の内に掛かっていた。
 陸の上では、海賊の女たちがこぞって彼らの戦闘を見物していた。勿論、直人の方へと激励が飛ぶ。
「こいつは俺の獲物だ。誰も手を出すなよっ!」
 興奮する女たちを尻目に直人は言い放った。
 海賊の女たちだ。荒い奴が多いだろう。直人の言葉が無かったら、乱馬へと一斉に飛び掛りそうな殺気が渦巻いている。


 再び二人は剣を前に身構え、対峙した。湊の側の石垣に、波がザバンと砕け飛ぶ。


「今度は逃がさないぞ!小僧っ!」
 直人は吐き出した。
「けっ!そんなに年の離れてねえおめえに、小僧呼ばわりなんぞされたかねえやっ!」
 負けじと乱馬が吐き出す。
 陸に上がった狩人の目が輝き始める。
 船の上は滑り易く、波の揺れがあったが、ここは違う。踏みしめているのは大地だ。小さな離れ島とは言え、ちゃんと土がある。立ち枯れた雑草が空風に揺れている。
 大地の気がみなぎっていた。


「でやああああっ!」
 直人は剣を前に身構えると、乱馬目掛けて突進した。その切っ先を横へ跳び避ける乱馬。船の揺れはない分、存分に動ける。
「逃すかっ!」
 予め乱馬の動きを予想していた直人が乱馬の方向へと一緒に飛んだ。だが、乱馬の動きの方が一瞬早く、直人をかわしていた。
「しまった!」
 直人がそう思ったときは既に遅かった。手がバシッと痺れ、剣がその手から零れ落ちた。乱馬は直人の剣を叩き落としたのだ。ザンっと音がして剣が落ちた。
 小手も一緒に打ったのだろう。ぐっと痛みを堪えるように、鋭い視線が乱馬を見上げて言った。


「勝負はあった!殺せっ!」


 だが、乱馬はそれには答えず、直人へと差し出した太刀をすっと引き、腰の鞘へと納めた。


「どうした、大和の武人。怖気づいたか?頚城(くびき)を落とすのが怖いのかっ!!情けないやつめっ!」
 直人は激しい言葉を叩きつけた。


「いや、そんなんじゃねえよ。おめえの命まで貰おうとは思ってねえ。」
 乱馬はにっと笑って見せた。不敵な笑みだ。
「命を取ろうとは思わぬだと?何故だ?」
「そんな小事のためにおめえと勝負したわけじゃねえからな。それに…。」
 乱馬は辺りを見回した。そして、囲んでいる人垣を見せた。
「俺がおめえに手をかけようなら、容赦はしねえって、この島の女や荒くれどもが俺を睨みつけていやがるだろ?」
 確かに、二人を遠巻きにしながらも、人々が恐々とした目で睨みつけているのが見える。大将に何かあろうものなら、命を投げ出すことなど辞さない。たくさんの瞳がそう物語っていた。


「だが…。約束は守ってもらう…。一斉にてめえの部下に武器を手放させろ。」


「わかった、俺は約束は守る。」
 そう言うと直人はすっくと立ち上がった。そして、船に向かって言った。
「武器を納めろっ!海の男の誇りにかけて、約束は違うなっ!」
 この水軍は、きちんと統制が取れているようだった。直人の一声に、誰もが嫌々ながらも従った。勿論、乱馬が直人へと手をかけようとしなかったので、渋々ながらも言うとおりにしたようなものだった。


「おめえらも武器はしまっちまえ。」
 乱馬は自分の兵士たちにも言い放った。その言葉に、乱馬の味方からも動揺が走る。
「俺は、戦いに来たんじゃねえからな。」
 そう付け加えた。
 それを訊いて直人は不思議そうに乱馬を見返した。
「戦いに来たのではないだと?」
「ああ、俺は戦いに来たんじゃねえ、交渉しに来たんだ。」
 不敵な笑いが乱馬から零れた。
「交渉?」
「そうだ。俺は交渉するためにここへ来てここの頭目のおめえと戦った。それだけだ。」


 さっきまで降りしきっていた雨が上がり、太陽が切れた青空から覗き始めていた。島を囲っていた霧も晴れ、向こう側に瀬戸内の島々と秋津島本島が見えた。








「無茶だっ!何てこと言いだすんだよっ!!」
 千文が乱馬を見返しながら目を丸くした。
「兄貴は命が要らねえのか?」
 叩きつけるように吐き出した。


 乱馬はこの島に駐留していた邇磨の海賊の一味、吉備津直人と交渉をした。それは、海賊の頭目、邇磨の玄馬の元へと乱馬を連れて行けというような内容だった。
 ずっと敵として大和政権が見なしてきた海賊を味方へ引き入れることを画策したのだ。
「ふふ、面白い事を言い出す奴だ。俺たちに大和の水軍に手を貸せとは…。そのために、頭目の玄馬様の元へ連れて行けだと?今までそのようなことを考えた奴はいなかったぞ。」
 直人はかかかと笑った。
「勿論、おまえの案内でだ。吉備津直人。おまえは俺とやりあって倒れたんだ。だから、おまえは俺の配下へと入ってもらう。俺が勝ったら俺の軍勢へと加わる約束だったからな。」
 乱馬は笑みを浮かべて直人へ言い放った。
「ああ、約束だからな。俺の預かる軍勢は、一応貴様に従おう。だが、玄馬殿がどのような判断をされるかは保証はせぬぞ。俺は俺、玄馬様は玄馬様だからな。第一、配下の俺が頭目の玄馬様に指図するわけにもいかぬからな。」


「そ、そうだぜっ!兄貴っ!いくらこいつが兄貴の軍門に下ったとて、邇磨の海賊全てが付き従うのとは訳が違わあっ!第一、こいつらだって裏切るかもしれねえじゃねーか!」


「だったら、千文は筑紫へ行く前に、この海を赤い血で染めたいと思っているのか?このまま、激しく海賊たちと殺しあったって、何も始まらねえし終わらねえ。殺し合いなら、俺以外の武人でも簡単に出来ることだ。」
 と乱馬はうそぶいた。
「ほっほっほ。じゃあ、乱馬殿は邇磨の海賊そのものを皇祖母尊の配下に入れてしまおうとお思いなのか。」
 砺波の爺さんが笑いながら問いかけた。
「ま、結果的にはそうしてえな…。だって、そうだろ?邇磨の軍勢だって馬鹿にはならねえ。かなりの数が居る筈だ。それに、ここで皇祖母尊様からお預かりした軍勢をこんなところで減らしてしまえば、これから先の遠征に支障が出る。だったらいっそ、邇磨の海賊たちを味方に引き入れるのが一番有効的な方法だと思わねえか?」
「何が有効的なもんか!軍勢を引き連れて行くならまだしも、兄貴と俺とあと二、三人の武者だけで玄馬の元へ行くなんて…。」
「千文は怖気づいているのか?わずか五人ほどの人数で邇磨へ乗り込む勇気などないと。」
 乱馬はにやりと笑った。かなり武人として痛いことを平気で突いてくる。
「いや、怖いとか恐ろしいとか、そんなことは思わねえっ!俺が言ってるのは、そんなの自ら命を棄てにいくようなもんだと言ってるんだ!」


「おまえが本気で俺のことを心配してくれているのはわかるさ。でも、千文、考えてみな。この直人という海の武人を見ると、邇磨の玄馬がどのような頭目であるかわかるだろう?義を持って接する奴をないがしろにするような海賊とは思えねえ。なあ、直人。」
 乱馬は傍らの直人に向き直った。
「ああ、玄馬様は真の武人だからな。卑怯なことはしねえさ。誇り高き海の益荒男(ますらお)だからな。」
「玄馬の配下がそう言うんだ。確かな男なんだろうさ。それに、いくら止めたって俺は行くぜ。これ以上、不必要な血は流したくはねえんでな。」
「不必要な血…か。よかろう、俺が先導しておまえたちを玄馬様のところへ連れて行ってやろう。おまえなら大和朝廷嫌いの玄馬様の御心を動かせるかもしれねえしな。」


「わしも行こう。」


「砺波の爺さんまで…。」
 呆気に取られた顔を千文は向けた。
「わかったよ!俺も兄貴に付き合ってやらあっ!こうなれば死なば諸共。乗りかかった船、人生は塞翁が馬だいっ!」
「やっと腹が決まったようだな。千文。」
 乱馬は満足そうに笑った。







二、





 乱馬たち一向は太陽が真上に上がりきった頃、水島灘を越えて、邇磨へと向かった。向かう船は勿論、乱馬の指令船一隻だ。堂々と甲板の上に座し、その側に吉備津直人を控えさせた。遠目で見ても戦いで来たのではないと分からせるために、他の軍船は塩飽の本島に留め置いた。後には、阿倍比羅夫の配下を固め、他の塩飽の海賊たちが悪さをしないように目を光らせる。
 また、皇祖母尊たちが逗留している大伯の津に向かっても阿倍比羅夫の配下の伝令を遣わせた。これから暫くは自分の思うとおりにやらせてくれと大海人皇子に進言するためにだ。他の征伐船隊をこちらへ向けぬように、暗に釘を差しに掛かったのだ。
 手出しは無用。暫くは俺の自由にやらせてくれ。
 乱馬はそう告げたかった。


「たく、乱馬め。あいつの考えはこのわしにも読めぬな。」
 乱馬からの伝令に、大海人皇子が愉しそうに笑ったと言う。
「勝手に動きよって。」
 対して、葛城皇子は批判的だった。
「いずれにしても、数日で結果は出るだろう。兄者が大軍を御して邇磨へと動かれるのは、もう暫く様子見ということでいいのではあるまいかな?」
 大海人皇子は苦々しい表情の葛城皇子にそう言って牽制をかけておいたのである。大海人自身も子飼いの舎人、早乙女乱馬がどのように動き、この窮地を乗り越えるのか、武人として興味津々だったのである。


 今朝方の霧や雨が嘘のように、昼間は晴れ渡っていた。
 時折、空風がひょおひょおと海面から吹き付けて行く。まだ春は遠い。そんな荒れた冬色の海だった。
 雨の後なのか、それとも海流が早いのか、結構波が立ち上がり、大きな船でも左右前後に揺れた。
 軍船には吉備津直人とその直下の武人。それから船を漕ぐ下民たちが数名。大将の乱馬とその配下、砺波と千文。それから数名の乱馬の軍勢だけが乗船していた。漕ぎ手以外は皆、甲板へと佇む。
 まだ冷たい潮風が紅潮しきった頬に当たる。
 どのくらい船の上に居たろうか。


「あれが邇磨郷だよ。」
 そう言われて陸を見た。
 普通の民家が海岸線に沿って立ち並ぶ。この時代の民家は、まだ殆どが「竪穴式住居」であった。草を萱吹きのように屋根に乗せ、雨露を凌ぐ。勿論、瓦屋根などは、貴族すら、そう住める建物ではなかった。
 所々にカマドの煙が空まで立ち上っているのが見える。
 良く目を凝らすと、海岸線に見慣れぬ軍船に弓を構える武人たちの姿が並んで見えた。だが、彼らは弓を打ち込んでは来なかった。甲板に吉備津直人が毅然と立っていたからだろう。


 と、一隻の船が港から発してこちらへ向かってくるのが見えた。斥候でもしに来たようだ。何故、大和朝廷の軍船に、直人が乗り込んで浜まで来たのか。その真意を確かめに来たに違いない。
 乱馬は近づいてくる船に向かって叫んだ。


「俺は大和朝廷から来た武人、早乙女の乱馬だ。おまえたちの頭目に会いたい。決して戦いに来た訳ではないから、それだけは勘違いしねえでくれっ!」
 大和の者が何しに頭目と会いたがるのか。小舟の連中はきっと不思議に思ったに違いない。
「立会いは、この吉備津直人がする。そう言って玄馬様に取り次いでくれ。」
 捕虜になったわけでもなく、直人は自由に乱馬の船の上を行き来していた。大和人の船に乗船していること事態、尋常な沙汰ではない。
 船に乗り込むとき、阿部比羅夫の配下辺りが、何故、直人に縄をかけないのか、乱馬に本来あるべき姿を進言したが、「俺は戦いに出向くわけじゃねえ。」と取り合わなかった。あくまで、対等という立場を貫き通す。そう決めていた。
「逆に捕虜になってしまわれたらどうするのです?」
 配下の者たちは身の上を心配したが、
「大丈夫だ。」
 その一点張りで跳ね除けた。


 絶対に邇磨の玄馬を従属させる。


 その覚悟で邇磨へと乗り込んで来たのである。無茶を承知の上で。


 結果的には、果し合いで落とした吉備津直人縄をかけず、己が船へと乗せてきたこと功を奏した。もし下手に直人を取り扱っていたら「敵」とだけ認識されていたろう。
 直人に害意がないことを確認すると、乱馬たちの軍船は邇磨郷へと着岸することを許されたのだ。


 邇磨郷の者たちが、怪訝そうに大和の船を出迎える。
 そろそろ西海へと陽は傾きはじめている。春先の昼間は短い。


 まずは先に直人が下ろされた。
 直人と一緒に乗船してきた、塩飽の海賊たちは乱馬の船に留め置かれた。全ての者を解放するわけには、さすがにいかなかったからだ。
「玄馬様には私があなたの旨を進言してまいりましょう。暫くお待ちください。」
 そう言い置いて、直人は陸へと上がっていった。



「本当にあの直人とかいう奴、信用できるのかねえ。」
 ふつっと千文が吐き棄てた。
「もし、あいつが玄馬とかいう奴に、俺たちを襲うように進めたら、それで終わりだぜ。」
「まあ、そう言うな。邇磨の玄馬は野蛮人ではないぞ。礼節を持って接しておればある程度はそれに答える。そのくらいの器量は持ち合わせておるわい。」
 砺波の爺さんが千文の心配事を笑い飛ばした。
「爺さんよう…。まるで邇磨の玄馬に会ったことがあるような物言いだな。」
 乱馬はにっと振り返った。
「人間、年を重ねれば、いろいろとありますわい。わっはっはっは。」
 と意味深な言葉を投げた。


 陽がとっぷりと暮れてしまってから、乱馬たちはようやく邇磨郷の土を踏むことが許された。
 直人がやって来て、乱馬たちを部落の中央に立つ、大きな高床式の建物へと導いた。元々高床式の建物は食物倉庫など、湿気を嫌う物品を収納するのに建てられていることが多かったが、どうやら、邇磨の玄馬はここで暮らしているようだった。
 乱馬は帯刀すると、案内に立った直人に従って先に進んだ。
 途中、海賊たちにじろじろと見られたが、どこ吹く風と、視線をかわした。


「怖くは無いのか?」
 直人が乱馬に訊いて来た。
「別に…。」
「ここは敵地だぜ。」
「敵地っていったって住んでるのは人間だ。海賊だと言っても同じ赤い血が流れてる。」
「おまえらしい言い方だなあ。」
 直人は笑った。


「さあ、入れ。…とその前に刀は預けてもらおうか。」


「いや、これは預けられぬ。」


 乱馬は鋭い目で言った。


「それなら中へは入れぬぞ!」
 と、側で大きな声が響いてきた。


「岩麻呂か。」
 少し嫌な顔を直人が手向けた。
 岩麻呂と言われた男はぬぼっと顔を高床式の建物から突き出した。じろりと乱馬たちを睨みながら見下ろしてきた。


「うへっ!でっけえ男。熊みたいだ。」
 千文が思わず小さな声で呟いたくらいだ。
 乱馬の倍以上はあろうかという体格だった。


「刀を持ったまま、この中へ入ることはかなわぬ。」
 岩麻呂と呼ばれた大男は、はっしと乱馬たちを睨み付けた。


「この刀は我が魂とも同じ大切な物だ。手放すわけにはいかない。」
 乱馬もまた、臆することなく、大男を睨み上げた。


 両者、目から火花を飛ばして対峙する。
 独特な緊張が二人の間を流れた。
 いずれも己の威信を貫こうとする。
 どうなるのかと千文はドキドキしながら側に侍っていた。
 と、中から野太い声が響き渡ってきた。
「帯刀したままでかまわぬ。岩麻呂。大和の武人をここまで通せ。」
 と。


「玄馬様。」
 何を言いだすかと岩麻呂が慌てたが、中の男は動じる風も無く言い切った。
「都人の刀など恐るるに足らぬ。それとも、岩麻呂。おまえは、刀が怖いか?」
 その声を聴くと、岩麻呂はその矛先を治めた。
「わかった。都の者よ、通れ。」
 そう言って乱馬を流し見た。だが、気は決して許さぬ。その鋭い視線はそう物語っていた。


 建物の中は思ったよりも明るかった。
 こうこうと燭が灯され、ずらっと男たちが居並ぶその奥に、熊の毛皮を頭からすっぽりと被った男が中央へ座していた。一目でこの男が頭目とわかった。
 人間の頭の上に、熊の顔がはっしとこちらを睨みつけながら乗っている。年の頃は四十代中頃だろうか。荒くれた海の男に相応しい強健な身体つきをしていた。
「おまえが都から来た、大和の武人か。」
 一際低い声が邸内を響き渡った。
「ああ、俺は早乙女の乱馬だ。大和の大舎人、といっても、まだそうなってから年端もたたねえがな。」
 そう言って乱馬は坐さずに立ったまま、玄馬を見据えた。
 入り口に近い方は下座にあたる。そこから座して真正面の玄馬を拝することは意に反する。そう考えたからだ。


「貴様。何故座さぬ。」


 案の定、岩麻呂がそれをとがめだてしてきた。


「まあ、よいわ、岩麻呂。おまえは黙っておけ。…。」
 それから舐めるように乱馬を見た。
「ふふふ、確かにそなた、吉備津直人が言うがとおり、変な奴じゃな。都のへっぽこ役人とは一味違うわ。おまえ。生国はどこだ?大和ではあるまい。」
 そう言って玄馬はにやりと笑った。
「俺は常陸の国の生まれだ。」
「ほう、東国の者か。ならば、大和人ではないのだな。なら、何故、大和朝廷へ服従しておるのだ?」
「俺は、別に朝廷に服従しているわけではねえ。」
「ほう、服従しているのではないと申すか。」
「ああ…。俺は己の意志で大海人皇子様にお仕えしている。ただ、それだけのことだ。」
「察するにおまえは大海人皇子の舎人か。」
「そんなところだな。」
「で、その舎人が何用でここまで来た。」
「皇祖母尊の西方遠征に手を貸してもらう進言をしに来た。」
「ふふふ、おまえ、このわしが誰かわかっていて言っておるのか?」
「ああ、邇磨の玄馬。この辺りの海場を暴れる海の益荒男だろ?だから、力を借りに来たんだ。」
「物好きな奴だな。大和朝廷嫌いのわしのところへわざわざ戦いではなく交渉を望みに来るなどとは。」
「悪いことは言わねえ。大和朝廷の遠征に力を添えてくれぬか?玄馬殿。」
「もし、わしが嫌だと突っぱねたらどうする?」
「俺が交渉に失敗すれば、間違いなく、この水島灘辺りは血の海と化すだろう。俺の後ろに控えている大和の大軍団が、西へ向かうにはこの海域を通らねばならないからな。」


「そんなへっぽこな大和の水軍など、敵ではないわ。」
 側に控えて黙って聞いていた岩麻呂が吐き出した。


「確かに、ここの水軍は強いかもしれねえ…。だが、強ければ強いほど抵抗は強硬となり、かえって戦いの激しさは増すんじゃねえのか?大和軍は西へ行かねばならぬからな。大和も必死でここを通り抜けようとするだろう。となると、双方、かなりの死人が出るのは必定。なんとも無駄なことではあるまいか?」
 乱馬は静かに言い切った。
「無駄とな?」
 玄馬はほほうという視線をこの男に投げかけた。自分の半分ほどの年の青年にだ。
「俺たちは共に秋津島に住む人間だ。主義主張は違うかもしれねえ、だが、根は同じ島内の者。だが、今度大和朝廷が相手に相手するのは唐国。そう、北の大地の夷敵どもだ。俺たち秋津島の者同士の争いを一番喜ぶのは唐国の奴らだろう。奴らは、この美しき国を狙っている。俺たちが血を流すということは、この秋津島にとって何ら得策にはならねえってことだよ。俺たちが殺しあえば、近い将来、ここの海には唐や新羅からやってきた異郷人たちに支配される。そんなことになったら、双方共に、全くの大損じゃねえか。そうは思わないか?」


 その論理的解釈には一理ある。玄馬にもわかっていた。
「だからといってわしらを巻き込むのか?」
 目はにこやかな顔と違って、決して笑ってはいなかった。
「秋津島に居する以上は、巻き込まれたくねえと言ったところで説得力はねえ。唐国の奴らからみたら、大和朝廷も邇磨もねえだろうしな。秋津島の住人は全て同じに見えるだろう差。百済国のように滅ぼされてしまうぜ。きっと。」


「玄馬様、騙されてはいけませぬ。こんな、大和の小僧の言うことなど。」


 岩麻呂が横から割り込んできた。
 が、玄馬はあえてそれを無視して乱馬を見据えた。


「おまえの言うことには一理はあるな。乱馬。」
 玄馬は静かに答え始めた。
「だが、邇磨にはその岩麻呂のように思う奴も多い。ここは大和嫌いばかりががん首を並べたような郷なのでな。」
 暫く考えた末、玄馬は言った。
「ならば、こうしよう。ここに居る岩麻呂は邇磨の若衆の中でも一、二を争う武人だ。奴と未来を賭けて相撲で勝負する…というのはどうであろうかな?」
「相撲勝負だって?」
 乱馬は目を見開いた。
「ああ、単純にして、一番良い方法じゃろう?勝負によって全てを決する。そうは思わないか?大和の武人よ。」
 玄馬は笑いを含みながら語りかけた。
「おまえは直人に勝負をしかけ、そして彼を破ってここまで来た。だったら、同じように我らを従えたければ、己が腕で承服させてみろ。おまえが勝てば、わしは喜んでおまえの言うとおり大和朝廷へ力を貸してやろう。じゃが、おまえが負ければ…。」
「意には従わねえってか…。面白え。その話に乗ってやろうじゃねえか。もとより、ただで邇磨の海賊を従えられるとは思っていなかったからな。俺は勝つ。そして、無駄な血は一滴も流さずにおまえらを併合させる。」
「良かろう。勝負は明晩。この邇磨郷の裏山前の広場にて一対一で行う。それでよいな。」
「ああ、それでいい。」


 こうして乱馬は邇磨の玄馬の配下、岩麻呂と意を決して戦うことになったのだった。







三、




「結局は力になれなかったな、乱馬よ。」
 直人は乱馬へと言葉を手向けた。
 玄馬の提案で勝負することになったが、それまでは客人としてこの里での宿泊を許されたのだ。村中にある竪穴式住居の中だ。特別もてなされたわけではないが、食事を饗され、そして暖かな寝屋を与えてもらった。
 常陸の国とて、まだ、大半は竪穴式住居へと寝泊りしている。庶子の家はこの形式の住居が殆どだった。大和とて例外ではない。地面にじかに藁や草を敷き、その上に寝る。そんな暮らしが普通だったのである。


「この辺りの土地は恵まれてるみてえだな。」
 乱馬は直人に問いかけた。
「ああ…。瀬戸内は温暖な気候だからな。稲も良く育つし、果物の木の実も豊富だ。それに、海も潮流さえ気にしなければ、たくさんの恵みを俺たちに与えてくれるからな。」
 直人は静かに言った。
 まだ、この地では馴染まない乱馬たち大和の一行は、最初に遭遇した直人の身辺の者たちが世話してくれていた。彼の一族の者だろうか。嫗(おうな・老女のこと)や娘たちも食事を運んでくれた。温かい食事はありがたいものだ。
「おまえ、どうしてもこの邇磨の男たちを大和朝廷の戦いに借り出したいのか?」
 直人は酌の相手をしながら乱馬に問いかけた。
「俺だって皇祖母尊様のしようとしている戦いに全面的に賛同してるわけじゃねえけどな…。でも、時代がそれを望むのなら仕方が無い…そう思ってる。」
 乱馬はしみじみと言った。
「人間にはそれぞれの境遇に応じた考えってものがあるからな…。それより、乱馬、おまえの相手の岩麻呂のことだが、奴には気をつけた方がいい。」
 直人はふと厳しい瞳を向けた。
「あいつ、岩麻呂は勝つためなら手段なんて選ばない男だからな。卑怯な手を使う事だって辞さない、そんな奴だ。」
「元より、それは覚悟の上だ。海の男の全てがおめえみたいなあっさりとした男だとはかぎらねえだろう?それは、大和だって同じだ。真正直な奴も居ればずるい奴も居る。だが、俺は絶対に負けねえ。」
 乱馬はそう言うと、くいっと差し向けられた酒を飲み干した。この辺りの酒は旨い。おそらく温暖な気候が極上の米を育てるのだろう。その旨味を存分に吸い上げた濁り酒だった。
「とにかく、気をつけてかかれよ。岩麻呂の奴、ここ数ヶ月の間に急に強くなりやがった。」
「急に強くなった?」
 こくんと揺れる直人の頭。
「あいつ、あの巨体だ。力は持っていたが、剣術も槍も弓もできる方ではなかった。だが…。ここ暫く、俄かに力をつけやがった。今では玄馬様を凌ぐくらいの力を持っていると仲間内では囁かれてるんだ。邇磨の次の頭目は岩麻呂だと公言する奴も出始めている。」
「玄馬の後継者?」
「まだまだ玄馬様は元気だが、それでももう四十路は越えている。そろそろ後継を決める時期にきてはいるんだよ。それに、玄馬様には子供は居ない。いや、妹背が居ないんだ。」
「妹背が居ない?」
 乱馬はきょとんと見返した。
「俺も良く事情は知らねえんだが、いろいろあって、生涯独身を通すと宣言されてるんだ、玄馬様は。誰がすすめても女は娶らない。それどころか側に置こうともしねえ。」
「へえ…。それはまた面妖な。」
「何かやんごとなき事情があるんだろうよ…。玄馬様にとっては、邇磨の皆が己の子供みたいなものだと公言して憚らねえんだ。この郷には戦で親を無くした孤児があちこちから集って来ているからな。種族の小競り合いに巻き込まれた奴らのな。玄馬様は慈悲深いお方だからな。迷い込んだ者には等しく親切に接してくださるんだ。大和の人間以外は。」
「大和以外の人間か。まるで大和朝廷を憎んでいるような感じだな。」
「ああ、まさに、玄馬様は大和嫌いな方としても有名だからな。」
「ふうん…。」
「きっと邇磨に来る前に何かあったんだろうな。俺はそう見ているよ。」
「玄馬殿は邇磨の出自じゃねえのか?」
 乱馬は直人に尋ねた。
「長老たちに寄ると、東から来たそうだ。当時は都の言葉を使っていたらしい。おそらく、都の人間だったんだろう。都の勢力争いか何かに敗れてここまで落ちてきたのかもしれねえ。そんなことを爺さんたちが酒の肴に言ってたな。だが、誰にも邇磨以前の玄馬様のことは知らねえ…。まあ、知る必要もなかったってーのが本当のところのようだがな。」
 乱馬と直人の間には、何か特別な関係が生まれつつあった。直人を素手で引き倒した乱馬だったが、敵ではない。直人もそう感じ取っていた。


「もし…。戦いに理由があるとしたら…。愛する者を、彼女が住むうまし国を守りたい…ただそれだけだ。」
 乱馬はいつしかそう呟いていた。








 その頃、邇磨の郷に一つの妖しい影が蠢いていた。
 邑外れにぽつんと一つ、離れて立っている竪穴式住居。
 中から女の呻く声が聞こえる。その側で男の荒い息。やがて、女は果てたのかピクリとも動かなくなった。
 


 
「ふふん、女を抱いてやがっただか。おぬし、余裕があるだな。」


 茂みからもう一人の声がした。
「その声は沐絲か。」
 腹上で果てた女をごろんと側に転がし、もっそりと男が起き上がった。そして、もぞもぞと着物を羽織るとじろりと視線を流し声をかけてきた男に向き直った。
「おぬしの相手、乱馬は侮れぬ男じゃぞ。」
 長髪の青年は鋭い視線を岩麻呂に投げかけた。
「ふん!俺様を誰だと思ってる。赤鬼の岩麻呂様だ。あいつとやりあって破れた直人と一緒にするな。」
 鼻先で一つ笑い飛ばした。
「力だけで敵う相手ではないだ。奴は戦いを冷静に捉える能力も高いだ。」
「ほお…。唐国きっての道士殿が弱気な言葉を。ふふ、さてはおぬし、奴に一度手痛い目にでもあわされたかのう。」
 沐絲は黙した。
 俄かに飛鳥で乱馬とやりあった記憶が巡る。
 夜盗たちの死体を操ったあの戦いの記憶だ。始めは完全に押していた。もう一息、もう一息で倒せると思ったときに己の気配を読まれたのだ。術を破られ敗走した己の惨めな姿が目に浮かんだ。
 あれから珊璞はまるで己を相手にしなくなった。
 それだけではない、はっきりと沐絲に宣言したのだ。『私、子種は乱馬から貰うね。』と。唐国の道士として屈辱の言葉だった。めらめらと燃え上がる復讐の焔。
 秋津島を点々としながら、沐絲はここ、邇磨に辿り着いた。西国を目指すなら、いつか彼はこの海を通る。そういう確信を持って。そして、岩麻呂の影になって、乱馬の通る日を待っていたのである。


(まさか、奴の方から、この地へ乗り込んでくるとは思わなかったがな…。ふん、ここをあいつの墓場にしてやる。オラがこの手で息の根を止めてやるだ。)


 沐絲はぐっと心に力を入れた。


「いずれにしても、岩麻呂。俺はおまえを影から支えてやる。今までのようにな。」


「ああ、期待してるぜ。沐絲。そして、俺が玄馬様の後継者になりこの郷を手に入れたら…。」
「ふふふ、その時はたっぷりと甘い汁を吸わせてもらうだ。」


 沐絲はそう言うとすっと闇に消えた。




 直人の危惧が現実になろうとしていた。










 第十四話 相撲 へ続く





古代の船考察
 実は「帆船」は絹織物が発達した15世紀以降に発達を遂げたと言われています。
 では、乱馬が乗った船はどんなだったか。だいたい、古代の古墳から発掘される船の埴輪みたいなものを想像してください。動力は人力でそれの中ほどに簡単な帆が張ってあるだけのような。
 大きさも数メートルほどのを想像してくださるといいかも。
 挿絵イメージ画は勿論、私の嘘っぽい想像の産物ですのでお間違いなく。
 勿論、要人や司令官が乗った船はある程度の大きさがあり、造りもしっかりとしていたでしょうが、小手先に動く軍船はそう大型のものが何艘も並んでいたとは考えにくいです。
 607年の遣唐使派遣のときも刳舟(くりぶね)と呼ばれた丸木舟だったと言われています。帆があったとしても簡単なものだったでしょう。当時の未発達な航海技術では、辿り着いて帰ってくること自体がかなり稀有なことだったようです。894年、菅原道真によって遣唐使は廃止されましたが、彼は遣唐使に選ばれて危険な海を渡るのが嫌だったので廃止運動をしたというような逸話も残っているようです。




(C)2004 Ichinose Keiko