第三部 邇磨編


第十二話  邇磨の海賊




一、


 その朝は冬と言うのに穏やかな波だった。
 訪ね行く娜の大津はまだ遠く、白波が船を打ち付ける。


「乱馬殿は船酔いとは無縁らしいのう。」
 砺波の爺さんが笑いながら言った。
「へっ!俺はそこいらの奴らとは鍛え方が違うんでな。」
 乱馬はそう言いながら周りを見渡した。
 半日も過ぎれば、比較的穏やかな瀬戸内の海域ですら、船上の人々は立つのもままならぬくらいにへたり込んでいる。千文もさっきから甲板で己の気分と戦っているようだ。「船酔い」の症状である。激しい船の揺れに対して、平衡感覚がやられ、強い吐き気に襲われる「あれ」だ。
 船酔いに関しては、個人差があり、全く動じない者も居れば、床に這いつくばってへたり込んでしまう者も居る。当時の船は木製であり、いくらでかいと言っても人力と風力で動く。安定とは言い難い状況下での航行であった。


 乱馬に問いかけた砺波の爺さんも平気のようだった。
 ある程度船行きに慣れていたのかもしれない。
 乱馬たちの船では、船酔い組と平気組、はっきりと二通りに分かれていた。阿部比羅夫はさすがに、大和の水軍を御すだけあって、平気そうだった。船上で酒を喰らっていても酔わない。
「乱馬殿も船とは相性が良いと見受けられるのう。わっはっは。」
 豪快に笑い飛ばしている。


 二日目が過ぎようとした頃、一行の船団は大伯の海へ停泊することになった。


「どうして一気に筑紫国まで行かねえんだ?」
 乱馬は怪訝な顔をしながら比羅夫に尋ねた。
「筑紫国へ行くまでには他にもやらなければならないことが山積みだからな…。」
 と口を濁した。
「それに…。どうやら女官の船で何やらあったらしいでな。」
 と隣を並行して進んでいた船を指差した。
 そこには大和朝廷の皇子や皇女たちが乗船していた。大和に留まった僅かな皇子や皇女以外は、殆どこの遠征に同行していたのだ。船隊は何十艘も連なって一路西を目指している。
 何故こんなに大編成で瀬戸内を行くのか、乱馬には解せない部分がたくさんあった。わざわざ幼い皇子や戦いには関係のなさそうな女官までが同行する必要性があるのか、全くわからなかったのだ。


 女官たちを乗せた船は一際美しい布を抱げて曳航している。それを護るのが乱馬たち武人の乗った軍船であった。彼らの側には斎宮女帝の御船も曳航している。そこには葛城皇子や大海人皇子が乗っているはずだった。
 船団は寄港地に予定されていた大伯(おおく)海の港へと入っていった。今の岡山県邑久郡辺りだろうか。
 小豆島が南方に見える。


「お目出度じゃそうだ。」
 どこから聞き及んできたのか砺波の爺がにっと笑った。
「お目出度?」
 何が目出度いのか良くわからずに、乱馬は問い返した。
「大田皇女様が俄かに産気づかれたのじゃよ。」
 そう返答がかえってきた。
「大田皇女…。」
「ああ、大海人皇子の妃じゃよ。だから、この大伯に停泊なさる。」


 大田皇女は葛城皇子の皇女だった。母親は蘇我倉山田石川麻呂の娘、遠智郎女(とおちのいらつめ)。年が近い同母妹に鵜野讃良皇女が居た。後の持統女帝だ。姉妹で大海人皇子にめ合わされた、評判の美姫であった。
 姉姫の大田皇女は線が細い透明な肌をしていた。どこか憂いげな瞳を持ち、物腰も柔らかい。おっとりとした姫であるのに対し、鵜野讃良皇女は大胆かつ気丈な皇女だという。
 遠巻きにしか拝見したことはないが、どちらが姉でどちらが妹か、一目瞭然であった。
(鵜野讃良皇女はどことなく茜郎女に似ているな。)
 勝手にそう思えたほどだ。
 凛とした眉と口元。意志が強そうな姫である。年頃も茜郎女と同じ十代後半。
 姉姫と弟姫、並べてみると、面白いくらいに顔立ちが全く違う。
 大田皇女は母堂の遠智郎女に似、鵜野讃良皇女は父の葛城皇子に似ている、人々はそう口性を立てた。容姿だけではなく、或いは性格も父親に似たと囁かれるように、大田皇女と鵜野讃良皇女は同じ妃腹の姉妹ではあったが、全く性質を異にしていたのだ。
 大海人皇子はどちらかというと、姉の大田皇女の方が好みらしい。近くで侍っていた乱馬には、何となくわかった。物腰の柔らかさと女性らしい決め細やかさが大田皇女にはあったが、「鵜野讃良皇女はきつすぎる。」と愚痴をこぼすほどに男勝りな性質を持ち合わせていた。
「鵜野は男に生まれれば良かったのに。」
 そう言って、姉妹の夫である大海人皇子は笑った。
「あの天分は男だ。男子であれば、有無を言わせず、帝位を呼び込める、兄上の頼もしい跡継ぎになったであろうに。」
 とまでも言い切った。
「乱馬はどっちの女子が好みだ?」
 大海人皇子にそう訊かれて私観を述べたことがある。
「私は敢えて言うなら鵜野讃良皇女様でしょうか。」と。
 鵜野讃良皇女の中に茜郎女の片鱗が見えたからである。あの気の強さ。物怖じしない立ち居振る舞い。孤高な美しさ。
(でも、茜郎女の方が美しい姫だがな。)
 言葉には出さなかったがそう思っていた。
 鵜野讃良皇女も美姫であったが、乱馬の好みではなかった。あかねはそのきつさを、一見物柔らかそうな可憐な顔立ちに隠しているが、鵜野讃良皇女はそうではない。それは皇女と一介の地方国司の娘という差から生じたのかもしれないが、鵜野讃良皇女は見るからに「高貴」で「鼻持ちならぬ」感じを持っていたのだ。
「珍しいのう…。殆どの者は「大田皇女」の方が好みと申す中で。わっはっは。乱馬はきつい性分に男勝りな女子が好きなのか。」
 大海人皇子は笑った。


 とにかく、その美人姉妹のうちの大田皇女が産気づいたらしい。


「予定よりも半月ほど早い事でござったようで、あちらの女官船は今、右往左往の大騒ぎになっておるということです。」
 砺波が教えてくれた。この翁は年の功からか、情報収集が実に巧みなのだ。
「そうか…。」
 お産は時間がかかる。初産であれば尚更だ。お産の道が開くまで半日以上はかかるだろう。
 船団は大伯の海に停泊し、暫く様子を見ることとなった。


 大田皇女は深夜、皇女を産み落とした。
 大伯の海で生まれたことから「大伯皇女(おおくのひめみこ)」と名付けられた。後に伊勢斎宮となる孤高の皇女である。
 父親となった大海人皇子は皇女が生まれたという知らせに浮き足立っていた。勿論、初めての御子ではなかったが、愛する妃に子供が生まれたことは、すこぶる嬉しいものらしい。
 それだけ大海人皇子の寵愛が大田皇女へと向いていた証拠であろう。
「乱馬も付いて参れ。」
 と、とんでもないことを言う。
 大海人皇子は本当に、自分が気に入った者に対しては、必要以上の愛護をかける。乱馬もまた、彼のお気に入りになっていたことは間違いがない。
 早乙女の姓を賜って以後も、何かにつけて彼を自分の元に呼ぶ。
 勿論、古参の大海人皇子の舎人たちは面白くないという目を向けたが、乱馬はそんなことは気にもかけず、素直に大海人皇子に従っていた。


「大伯皇女は可愛い。」
 大海人皇子は満面の笑みを浮かべて赤子を抱き上げた。
 と、火がついたように泣く。
「おお、よしよし…。私はそなたの父ぞ。そんな顔で泣くな。」
「まあ、大伯が驚かれたようにございますなあ。これ、大伯。父上が困っておいでですよ。」
 産み落とした母がそう言って側に寄る。と、御子は泣き止んだ。


 乱馬には不思議な光景だった。


 猛々しいと評判の大海人皇子が、赤子の前ではまるで無邪気だったからだ。自分の血を分けた赤子とは、かようにも可愛いものなのだろうかと、思わずにはいられなかった。


(俺もいつかはああなるのだろうか…。)


 ふと浮かんだのは、別れて久しい妹背の茜郎女。彼女が母になる光景はまだ現実味が帯びてこない。いつか彼女が赤子を産んだ時、側に侍り、ああやって赤子をあやす自分が居るのかと考えが巡っていく。


「乱馬よ、おまえは赤子を抱いたことはあるか?」
 大海人皇子が笑いながら問いかける。
「いえ…。」
「まだ、そなたは決まった姫が居らぬのだな。」
 にっと笑う。
「は、はあ…まあ。」
 曖昧に答える。
「どうだ?そろそろ妻問いをしてみるというのは。おまえなら、望めばどのような娘でも靡くのではないのかな。」


「い、いえ…。まだそんなことは考えたこともございませぬ。」


 そう言って丁重に断りを入れる。


「それに…。いつ戦いになるやもしれませぬから。」


 と付け加えることも忘れなかった。
 己がこの場に居るのは西部遠征のためだと暗に言い聞かせたかったのだ。


「そう誤魔化すか…。」
 にんまりと大海人皇子は笑った。
「乱馬、おまえ、確か前に国元へ残してきた妹背が居るというようなことを言っておったな。」
「な、何のことでございましょう。」
「ふふふ、とぼけずとも良い。国元に愛しい妹背を残しておると顔に書いてあるわ。」
 乱馬は押し黙った。この皇子に嘘は通じないらしい。
「でも、妃は一人と限ったものではなかろう?国元には国元の姫、都には都の姫。それでも良いのではないか?」
 暗に、一人と決めずに姫を貰えとでも言いたげなさまだ。


「いいえ…。国元の妹背以外は、望みませぬ。」
 珍しく乱馬は真っ向から大海人皇子に言った。


「ほう。何故じゃ?己が子孫を後へ残すことも大切な人としての使命ではないのか?」


 乱馬は少し考えながら答えた


「確かに、子孫を後へ伝えることは大事なことでしょう…。だからこそ、私は見初めた姫に生んでもらいたいのです。私の血を分けた赤子ならば尚更。」
「今は、愛しの妹背以外のことは考える由もないということか…。ふふふ、若いな。それに、おまえらしい考え方じゃなあ。じゃが、乱馬よ、今は乱世だ。これから何年かはこうした不安定な時代は続くだろう。明日を知れぬ我が身ということもありえるかも知れぬ。それでもおまえは国許へ残してきた妹背以外の女との子は要らぬと思うのか?」
「それは、人それぞれの考えにございましょう…。今の私には、妹背以外は考えられませぬゆえ。」
「頑固じゃなあ。おまえは。まあ、良かろう…。」


 それから大海人皇子は声を落として言った。


「兄上は何か考えがあるらしい…。おそらく、直ぐにでもおまえに何か無理難題を言ってくるだろう。乱馬。」
 やさしい父親の顔から俄かに政治家の顔へと変化を遂げる大海人皇子。
「兄上は今、挙兵の人数を集めるのに必死になっておられるのだ。ここ大伯でも何人かの兵卒をお集めに走り回っておいでだ。兄上はしばらくこの地へ留まり、できるだけの兵を集めるつもりのようだ。」
「大伯の海でございますか?」
「ああ、海のことは海の民が一番良くわかることなのでな。船を操れる民を一人でも多く連れて行かねばならぬだろう。だから船を操れる民が欲しいのだ。…それから、兄上の懸念はそれだけではないのだ。」
「懸念…でございますか?」
「この辺りから西方には「海賊」が出るのだ。」


 「海賊」。訊きなれぬ言葉だった。山賊なら聞いたことがあるが、海を荒らしまわる荒くれたちのことは、海を知らぬ乱馬には想像だにつかなかったのだ。


「海賊と言われますと?」
「この内海を通る船に横付けては金品、奴婢を奪っていくゴロツキどものことだよ。邇磨(にま)の玄馬と呼ばれておる男がおってな、どうやらそいつが長となって荒くれどもをまとめ上げているらしい。」
「邇磨の玄馬。」
 初めて訊く名前であった。


 邇磨とは現在の岡山県吉備郡真備町辺りに比定されている。今ではすっかり内陸の平地になっているが、干拓が行われるずっと以前の古代は、今よりずっと平地部に食い込んで海があったと言う。倉敷よりも少し西方の山陽本線沿いになるのだろうか。 
 とにかく海岸にその海賊の本拠地はあった。


「先に兄上が筑紫国へ向かわせた先遣隊がここの海賊たちにやられてしまったのだ。」
 更に声を落として大海人皇子は言った。
「たいそう兄上はお怒りのご様子でな…。おそらく、その玄馬を滅さぬ限り、安泰で内海を航行はできぬだろう。奴は狡猾な武人だと聞き及んでおる。皇子や皇女をこの大伯の海に留めおいたのはそんな奴等が横行する海を行かせるわけにはいかぬからだ。」
 なるほど、一端ここで体制を整えるのかと、乱馬なりに納得した。
「しかし、我らはここで引き返すわけにもいかぬ。とりあえず、兄上は皇祖母尊を讃岐沿岸へと曳航させて、伊予国の熟田津へ向かわせたいのだ。だが、その目前の海には、邇磨の海賊どもが立ち塞がっている。」


 それからぐいっと大海人皇子は身を乗り出した。


「で、おまえは兄上は何を考えているかわかるか?」
 そう問い質してきた。
「海賊を討ち果たさなければこの先は進めない…と。」
「そういうことだ。兄上の狙い、それは、邇磨の玄馬を滅することだ。そして、それをおまえにやらせようとしている。相打ちを覚悟でな。」


 乱馬の視線が止った。
 大海人皇子はじっと乱馬を見据えて言った。


「わしは今しばらく、おまえたちとは袂を分かって、大伯に留まらねばならぬ。皇祖母尊様を守らなければならないのでな。兄上も先頭に立って、邇磨の海賊とやりあう気はないらしい。まずはおまえを戦いにあてて、様子を見てから大軍を出して動く、そう言うつもりなのだろう。もし、おまえがしくじれば、その後、阿部比羅夫を邇磨の玄馬に対峙させる腹つもりなのだろうな。…いや、兄上は始めからそのつもりなのかもしれぬが。」


 どうやら大海人皇子はそのことを言いたくて乱馬をここへと誘ったようだ。皇子の言い様では、乱馬は捨て駒ということになる。先に乱馬を邇磨の玄馬に当たらせて、戦況を見、そして、改めて阿部比羅夫をぶつけて滅する。いかにも狡猾な軍師が考えそうなシナリオだ。


「おまえのその強い宿星で、必ず困難を乗り越えよ。兄上に一泡吹かせてやれ。乱馬よ。」


 鋭い視線が乱馬を捕らえた。


「勿論そのつもりです。」


 乱馬は静かにそう言い置いた。
 相手が海賊だろうと、唐国だろうと、この国の未来の為には捨て身にならねばならぬことがあるだろう。それが武人となった己の務めなら尚更だ。




 その次の日、乱馬はその主人、大海人皇子と共に葛城皇子に呼び出された。
 葛城皇子は大海人皇子が言っていたようなことを乱馬へと命令する。それも、皇祖母尊の名を持ってだ。皇祖母尊の詔(みことのり)になると、それは私事ではなく、明らかに公事になる。
「早乙女乱馬よ、我が水軍のために、立ちはだかる謀反人、玄馬を討って参れ。軍勢は二百名ばかりを持って当たらせよ。」
 乱馬は黙って拝聴した後、言った。


「もし出来ますことなれば、その先導。阿部比羅夫殿の軍勢をお借りしたく思います。」


「比羅夫殿の軍勢だと?」

 怪訝な顔で迎えた葛城皇子に乱馬は言った。阿倍比羅夫の軍勢と言えば、東国の蝦夷をも屈服させた凄腕の水軍である。


「ええ、最初にどのくらいの力量が、その邇磨の海賊とやらにあるのか確かめてみたいのです。お借りするのは数隻でかまいませぬ。」


「ふふふ、面白い。わしもその航行に参加してみたいものだ。邇磨の玄馬がどれほどのものか、確かめたいのはわしとて同じ。乱馬殿だけにそのような大役を当たらせるのはずるいというもの。のう、葛城皇子様よ。」
 と、脇から阿部比羅夫が豪快に笑いながら言った。
「比羅夫殿には皇祖母尊を護衛していただくという大切な任務がござろうぞ…。」
 慌てて葛城皇子が口を挟んだ。ここで比羅夫に顔を突っ込まれては、己が思っていた作戦とは違うことになる。そこへ大海人皇子が口を挟んだ。
「ここは一つ、比羅夫殿の軍勢を乱馬に貸し出しても良かろう。まだまだ筑紫国までは先が長いのだ。そのくらい、航海が遅れても影響はなかろうに。それに、皇祖母尊様には葛城皇子殿や中臣鎌足殿が居られよう。」
「しかし…。」
「何も、比羅夫殿を随行させよとは言ってはおらぬ。ここは、乱馬の願いを聞き入れてはくれぬだろうか?兄上。」
 大海人皇子が乱馬の後押しをして、強く申し出た。


 躊躇する葛城皇子に大海人皇子が続けて、言った。


「阿部比羅夫殿の軍勢は戦い慣れておられる。乱馬にその軍勢を上手く扱ってもらうためにも、比羅夫殿が行けぬのなら、せめて、軍勢のうち選りすぐった人材だけでも、同行させるべきだな…。許されるのなら、私が一緒に行ってもかまわぬが…。」
「なっ!」
 葛城皇子はもっと慌てた。阿部比羅夫だけではなく、弟の大海人皇子までも一緒に先頭に立つと言うではないか。
 実はこの大海人皇子、養育が「大海連(おおあまのむらじ)」という海部を管理統括する一族だった。海部とは文字通り海産物の献納を運搬担当する「部」であり、伊勢湾から尾張辺りを根城とする一族だったと言われている。ゆえに大海人皇子の配下には海に精通した武人が多く集っていたのである。


「ほお、大海氏(おおあまし)の援護も受けられるのか?それは頼もしいことじゃ。」
 阿部比羅夫が笑った。


「それとも、兄上はご自分の軍勢だけでは皇祖母尊様を守れぬとでもお思いか?」
 そうあからさまに言われてしまっては、ぐうの音も出なかった。


「わかった、阿部比羅夫、そなたが直接行かぬまでも、その軍勢を少し早乙女乱馬と共に行動させろ。その代わり、比羅夫殿と大海人皇子はここに我と共に留まれ。そして、皇祖母尊様の警護に当たるのだ!ここを手薄にしてしまうわけにはいかぬのでな。」
 渋々、そう承知するしかなかったのだった。


「さてと。」
 葛城皇子の下を辞した後、阿部比羅夫は乱馬に言った。
「我が軍勢の主たる者はそちに付かせよう。じゃが、これからが正念場でござろうな。」
「ありがとうございます。」
 乱馬は深々と頭を下げた。
 一応、乱馬へ幾許かの比羅夫の水軍が加担して邇磨の海賊を討つという命令に落ち着きはしたが、難しい任であることは言うまでも無い。この先の児島半島の通行を妨げる彼らの存在を払拭しなければ、安泰に先に進めないことが明らかであったからだ。
「乱馬殿はどう戦略する?」
 若い武人の戦いぶりが楽しみでならないという比羅夫の目であった。
「私は海での戦いはこれが初めてでございますから…。ただ、丘でも海でも一つだけ言えるのは、相手の意表をつく、これに勝る戦略はないでしょう。」
「確かに…。」
「でも、残念ながら、私には海の知識がまるでありません。潮の流れも風の向きも全く読めないに等しいからです。」


「なまじ潮の流れや風の向きが読めない方が良い場合もありましょう。」
 背後から透き通るような男の声がした。


「誰だ?」
 比羅夫が目を転じたとき、そこに一人、痩身の青年が立っていた。


「あなたは…。」
 乱馬が目を見開くと青年は言った。
「お久しぶりでございます。阿部比羅夫殿、響の、いや、早乙女乱馬殿…。」
 そこに立っていたのは、五行博士の小乃東風だった。
「これは東風殿。大海人皇子殿の五行博士が何しにこのようなむさ苦しいところへ。」
 阿部比羅夫は人懐っこい顔を手向けた。東風とは良く通じているようだ。
「私が来る用事は決まっておりましょう?あなた方に卦を伝えに来たのですよ。」
「大海人殿の差し金か?」
「まあ、そんなものです。乱馬殿。あなたはこの戦いに勝つ。私の卜占にはそう出ておりますので。ご自分の信じるところを貫いてまい進なさいませ。」


 東風はそう言うと、にっこりと微笑んだ。






二、




 その日は朝から霧に海面が覆い尽くされていた。東風が言った通り、数メートル先も見渡せぬ霧だった。
 乱馬は昨夜のうちに大伯を発って直島(なおしま)の周りまで軍勢を進めてきていた。


「すっげえ、霧だな…。何にも見えねえや。」
 乱馬の背後で千文が言った。


「怖いか?」


 乱馬はじっと彼を見返す。


「怖くなんかあるもんか…。」
「でも、震えているぞ。」
「ちょっと寒いからな…。海の上は。」


 今は一月の末。


 それはさておき、一月も末にもなれば、殆ど二月に近い。
 この頃は太陰暦なので、一月の末は今の二月末に当たる。春は近いようで遠い。そんな厳しい季節である。
 東風の占った卦に寄ると、今日は潮と風の流れが激しく変わるだろうというのだ。霧が立つということは海面の温度の変化が激しい証拠。水温が一時的に上がっているようだ。
 瀬戸内は霧が立ち込めやすい気候であった。


「なあ、この霧、兄貴の妹背が兄貴のことを想っている証じゃねえのかなあ…。」
 ふっと千文から言葉が漏れた。
 この時代、霧が立ち上るのは、男性を想うあまりに嘆く女性の息だと万葉集にも詠われている。
 霧の向こう側に、凛とした瞳の面影が浮かび上がる。


「茜郎女…。」


 思わず名前がこぼれた。
 ぎゅっと握り締める胸元の青い勾玉。
『ここにいつも私が居るわ。』
 彼女の声が耳元に聞こえたような気がした。
 青い玉を握りしめると、くじけそうになる自分に力が湧きあがってくるように思えた。


「乱馬殿。」
 そう言って声を掛けてきたのは砺波の爺さんだった。
「爺さん、ほら、年寄りはこの戦いには来るなって言われてたろう?」
 爺さんの顔を見るなり千文が言った。いつものように、乱馬に戦いは危険だからと船には乗らないように申し付かっていた筈なのに、この場に現われたからだ。
「何を言うかっ!わしが居なければ、この海上は行けぬぞ。このような霧の海で、おまえさまたちたちだけで何とするつもりじゃ?」
「だってよう、阿倍比羅夫様のところから何人か、海の航行に詳しい奴が先導してくれるって…。」
 千文は怪訝そうに爺さんへと吐き出した。
「阿倍比羅夫様がいくら海に詳しいとて、それは東の海での話じゃ。瀬戸内となると、少し事情が違って来るでな。」
 砺波の爺さんはにやりと笑った。
「そんなこと言ってよう…。だったら、爺さんはこの辺りの海に詳しいのかよ。」


「詳しいも何も、わしの庭のような海じゃからのう。」
 爺さんは悠然と言った。


「マジかよう…。そんなこと初めて聞くぞ。」
「ああ、初めて話すんじゃ、知らんで当たり前だ。」


 確かに、この砺波爺さんの素性はわからないことが多かった。いったいどこの郡の出身なのか、そして、今まで何をしてきたのか。千文は鷹麻呂という盗賊にかまわれていた少年だったが、この爺さんは違うようだ。大和に来る途中、いつのまにか乱馬とくっつき、気が付けば側に侍るようになっていたのだ。
 未婚なのか、家庭はあるのか。それすらもわからないし、訊いたことすらなかった。
「わしの砺波は越中の郡の名ではないからな。元は「戸浪」。瀬戸内の白波から付けられた名前なのでな。」
「へえ…。知らなかったぜ。爺さん。」
 乱馬が感嘆の声を出した。
「それより、ささ、戦闘の準備をなさいませ。乱馬殿。」
 爺さんは乱馬をせきたてるように言った。
「戦いの準備と言ったって、爺さん、この霧の中どうやって行くんだよ。」
 千文が何を言いだすかとばかり爺さんを見返した。
「だから、素人はいかん。この海の性質を全く見通しておらんでな。」
 爺さんは笑った。
「この辺りは潮の流れが速いって阿部比羅夫様が言ってたぜ。それにこの霧だ。こんな中進めるのは、自殺行為だぜ。」
「確かにここらの海は流れが速い。霧が深ければ見通しも立つまい。だから、わしがじきじき舵を指し示して差し上げようと言っておるのだ。。素人のおまえ様たちでは務まるまいからのう。さあ、私の言うように舵を進めなされ。総大将よ。」
 爺さんは乱馬をきっと振り返った。
 見たことのない活きた瞳だ。水を得た魚のように凛としている。


「ここの海は霧がある間は海が静かじゃ。船を進めるには、この朝凪を利用するのが一番。朝霧が晴れれば潮の流れは間もなく変わりましょう。」
 砺波の爺さんが言った。
「流れが変わる?霧が晴れればか?」
「はい。この辺りの渦は時間によってその大きさや流れが大きく変化します。」
「朝霧が取れるとどうなるのだ?」
「海面に渦が湧き始めます。」
「どっちへ潮は流れる?」
「ここらあたりは潮の流れが流動的で、その都度違います。」
「つまり厄介な渦が行く手を塞ぐということか。」
 乱馬は指を強く噛んだ。渦が沸き始めると水の利がわからない己の水軍の方が不利なのは明らかだったからだ。
「朝霧の立つこの時間帯は朝凪と言って、この辺りの海は少し穏やかになりますのじゃ。この凪を利用しない手はありますまい。勿論、この霧も。」
 にんまりと砺波の爺さんは笑った。
「この朝霧の中を行くしかねえか。」


 そう思ったときだ。ほつりと冷たい雨水が甲板に滴り落ちた。


「雨…。」


 空から舞い落ちる水の雫が、ざあざあと音をたて始めるまで時間はかからなかった。


「乱馬殿、あなたは真に運が良い。天までご自分の味方にしてしまわれた。」


 そう言って砺波の爺さんが笑った。


「どういうことだ?爺さん。」


「雨が落ちると言うことは、海原の見通しがもっと悪くなると言うこと。それだけではない、軍勢の音も雨音と波音に紛れてしまうではありませぬか。」
「なるほど、雨だと、波音が激しく立つ。そして視界も一層狭まるということか。」
 こくんと頷く砺波。


「千文、全船に伝令だ。一気に本島へと進軍するんだ。陸へ上がりさえすればこちらの勝ち。いいか、霧や潮の流れに怯むな。一気に行けっ!」


「さて、私も故郷の海で本領を発揮しますかのう。」
 爺さんはそう言うと、赤い鉢巻をぎゅっと結んだ。乱馬の鉢巻と同じ色合いのものだ。
 乱馬は茜郎女から貰った頒布を使って己の鉢巻を作っていた。赤はあかねの色だったし、己の血の色でもある。彼女の気持ちと共に戦いたいという想いは、鉢巻と腕巻きへと頒布を変化させていた。爺さんはそれを真似たのだろう。


 千文は辺りに居た船に向かって乱馬の伝令を伝えるために、小舟を出すように指示した。勿論、漕ぎ手にはこの辺りの潮の流れを精通していた漁民を使う。予め、砺波に言って、児島湾岸の漁村から掻き集めてきた漁民と大和の兵士を対にして送り出す。
 降りしきる雨に負けじと、乱馬の軍勢の船は荒波の中を進み始めた。砺波の爺さんの先導に従って悠々と荒波の上を渡っていく。
 その後の爺さんは阿倍比羅夫がわざわざ遣わせた、東国の海の荒くれ男たちも舌を巻くほど、巧みに潮を掻き分けて進んで見せた。


「行けっ!潮の流れが変わる前に一気に突っ込むんだ。」


 先頭を切って彼の船が動き始めると、遅れまじと矢継ぎ早に船団が動き始めた。






三、



 空から落ちる水は、激しく水面を叩きつけはじめた。と共に、風が吹き始める。白波も立ち始める。
 だが、乱馬たちは臆することなく塩飽諸島へと立ち向かった。


 時と共に朝霧が次第に晴れていく。目の前にいくつかの島影が広がった。


「あれが、塩飽(しわく)の島々の本島じゃ。ここらは潮の流れが速い。…よもやこのような霧の中を進軍してくるとは敵も思ってはおりますまい。あの島腹に水軍の拠点があります。」


 あたかも知っているかのように爺さんは一つの島を指差した。本島と呼ばれている島の中心とも呼べる島だった。五キロ四方ほどの島だ。


 この塩飽諸島は、潮が湧き上がるように激しくぶつかり合う。その流れの速さから付けられた名だという。この辺りの渦は瀬戸大橋からも望めることがあるという。また、後世、塩飽水軍と呼ばれた海の荒人たちの本拠がこの本島にあったのである。 
「一気にいきなされ。相手に時間を与えると、反撃の機会を与えるのと同じこと。さあ。」

 爺さんの言葉に乱馬は反応した。

「さあ、あの島の湾内に見える奴らの船目掛けて一斉に矢を投じよ。そして、一気に行くのだ。俺たちの強さを見せてやろうぜっ!」

「敵は目前だ。行くぜっ!」

 雄叫びがそこここで上がる。
 潮の流れが変わる前に彼らは島に現われた。慌てたのは海賊の軍勢だろう。
 ここまで入ってきた敵は乱馬たちが初めてだったのは言うまでも無い。見たこともない都の軍船が、朝霧の中に突如として現われたのだ。
 乱馬たちの水軍は一気に水軍の停泊している船目掛けて火矢を打ち放った。次々に燃え盛る赤い炎。


「敵襲だあっ!」
「大挙として大和の軍勢が押しかけてきたぞっ!」


 相手はいきなり現われた乱馬たちに仰天して、迎え撃つべく走り回った。だが、奇襲をかけた乱馬たちの方が圧倒的に勢いがあった。勿論、彼の軍勢の中には、阿倍比羅夫から借り受けた軍勢もたくさん居る。


「引くなっ!奴らはどうせ、この辺りの潮の流れには精通はしておらぬ。玄馬様が異変を嗅ぎつけてやってこられるまで持ちこたえれば、勝算はある!」
 邇磨の海賊たちの中に、一際、猛々しい若者が居た。ここに逗留する海賊たちの頭領らしく、てきぱきと海の荒くれどもをさばいていた。
 最初、統率を失いかけた海賊たちは、この優れた頭領の元に、次第に失いかけていた統制を再び取り戻し始めた。


「不味いな。」
 乱馬は船上から海賊たちの動きを見ながら呟いた。
 奇襲は勢いあっての攻略法だ。相手が怯んだ隙を突いてこそ、味方を勝利に導ける。だが、時間を無駄に相手に与えてしまっては、かえってこの辺りに精通していない自分たちの方が不利になっていく。
 それが証拠に、だんだんと最前線は激しい賊どもの抵抗にあい、少しずつ後退を余儀なくさせられている。このままでは、こちらが蹴倒されてしまう。
 一際大きな船舶。その甲板に居る男。
「あいつが、敵陣の司令官だな。」
 乱馬はそう遠目で確認すると、大声で叫んだ。
「あの船へ横付けせよ。この船ごとぶつけるんだっ!」
「でも、乱馬様。」
 千文が目を丸くした。
「かまわねえ。帰りはあっちの船を争奪すればいいんだ。ここを勝たねば俺たちはどの道帰れねえっ!」


「訊いたか、漕ぎ手ども、思いっきり穂先をあの船の横っ腹へとぶつけるんだっ!」
 千文は船倉の方へと叫んだ。


 間もなくして船体が大きく横揺れた。乱馬の命じたとおり、船が舳先から敵船へと体当たりしたのだ。
 大きく左右に揺れて、バリバリと木の砕ける衝撃音がした。


「それっ!我に続けっ!大和の猛者どもよっ!」


 乱馬は先頭を切って相手の船へと突入した。


「でやーっ!!」


 乱馬は驚いて棒立ちになる敵を剣で勢い良くなぎ払って言った。それに遅れまいと続く、水の武人ども。船上は直ぐに怒涛と化した。


 と、敵方の船上に一人の男が立ちはだかった。
 海賊たちにてきぱきと指示を出していた「司令官」だった。


「やっと、出てきやがったか。」
 乱馬はその男を見るとにっと笑った。
「ほお…。貴様は私を待っていたとでも言うのか?」
「ああ…。おめえだろ?この荒くれたちの長は。」
「だったらどうだというのだ?」
 男は長身の身体を乱馬へと手向けた。年の頃はあまり乱馬と違わないだろう。


「直人様っ!」 
 彼の背後から部下と思われる武人が顔を出した。手には弓矢を握っている。勿論、乱馬を狙っていた。


「待てっ!この男の相手は私一人で充分だ。」
 男は怒鳴った。
「でも…。」
「敵方の大将自ら戦いを挑んできたのだ。受けて立つのが海の男の誉というものであろう?」


「そう来なくっちゃ。」
 乱馬はにやりと笑った。


「兄貴っ!」
 脇から千文も顔を出した。こちらも弓を構えている軍勢が立ち並ぶ。
「おめえたちも手を出すなよ。」
 乱馬はすっくと剣を抜いた。


「俺はこの船団を率いている大和朝廷の舎人、早乙女乱馬だ。ここに勝負を乞う。俺が勝ったら素直に俺の軍勢に従え。俺が負けたら、この海から一端手を引こう。」


 そう言葉を吐きつけた。


「ふふ。面白い。私はこの島の海賊、吉備津直人だ。邇磨の玄馬様の配下。大和の武人め。もし、私が負ければ、おまえの言うことは何でも訊いてやる。勿論、おまえの命があったらの話だがな。」


 大勢の軍勢が見守る中、乱馬は静かに吉備津直人と対峙した。
 二人の武人が、船上へ立つ。
 澱んでいた朝霧が次第に晴れ渡っていく。大和の船が幾重にも重なっているのが見え始める。


「行くぜっ!」
「来いっ!」


 両雄ははっしとにらみ合った。









    第十三話 海の益荒男 へつづく







邇磨の海賊
 この記述に関しては一之瀬の創作です。
 「備中国風土記逸文」に葛城皇子が備中国下道郡邇磨郷付近で兵を集めたと記述があるのみです。そこから妄想を広げて創作したものです。
 この辺りは水島灘と言われ、「瀬戸大橋」が掛かっていることからも分かるように、本州と四国の間が比較的短く、島も多いところです。また、「桃太郎」の鬼が島と言われている「女木島」があります。私の母は児島半島の海沿いの町出身なのでこの辺りの海には何となく親しみがあります。そんなこんなで、古代にも海賊が出た海とも思えるようなのでここらを舞台に創作させていただくことに。
 また蛇足ですが、後の世では、もう少し西方の内海、今治から松山辺りを根城にした「村上水軍」が活躍しました。源平の戦いにも村上水軍の力は無視できなかったと言われております。




大田皇女と鵜野讃良皇女
 父親は葛城皇子(天智天皇・中大兄皇子)、母親は蘇我倉山田石川麻呂の娘、遠智郎女(とおちのいらつめ)。共に大海人皇子妃。
 大田皇女は大津皇子を鵜野讃良皇女(持統天皇)は草壁皇子を生んでいます。大田皇女は薄命で間もなく病死。
 大海人皇子が壬申の乱を経て天武天皇として即位後、大津皇子は謀反を起こし殺されました。(大津皇子の変)。一説に寄ると、草壁皇子を次期天皇に推すために母の鵜野讃良皇女が裏で手引きしていたとも言われています。
 しかし、草壁皇子も大津が殺された翌年に病死。草壁の子、軽皇子(聖武天皇)を天皇として擁立できるまで鵜野讃良皇女は頑張ります。そう、鵜野讃良皇女は持統天皇として夫、天武天皇(大海人皇子)の後に即位したのです。
 この二人についてはこの作品にては活躍させない「つもり」ですから、さらっと流してくださいませ。




吉備津直人
 一之瀬の創作です。ただ、某氏に了承を得て、またまた彼から脳内へ湧き上がるイメージを転化させました。
 以後も関わってくるキャラなので記憶しておいてくださいませ。某氏とはあかねちゃん激ラブなあの方です、一之瀬の相棒の(笑




霧と妹背
「我がゆゑに妹歎くらし風速の浦の沖辺に霧たなびけり」
「君が行く海辺の宿に霧立たば吾(あ)が立ち嘆く息と知りませ 」


 いずれもこの時代よりも少し下った時代の「万葉歌」から。
 このように、防人たちが残した妹背(妻)の嘆きが霧となって現われると思われていた節があります。瀬戸の霧もきっと遠征する防人たちを見送った嘆きの霧が立ち込めたものと思われていたことでしょう。






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