第十一話  姓(かばね)



一、


 辺りの空気が澱んだものになる。
 暗闇の中に浮き上がる祭壇。
 朝堂院の御柱がゆらゆらと焔に揺れ動いている。
 中庭に設えられた祭壇。それを取り囲んでいた人々は、我先にと逃げ惑い、閤門の外へ出てしまったようだ。




「さあ、皇祖母尊、こちらへ。」
 落ち着き払った大海人皇女が斉明女帝を促そうとした。
 だが、その時だ。
 ギギギっと重たい音がして、閤門が閉まるのが見えた。


「な、何っ!」
 大海人皇子は驚いて背後を見据えた。


『逃しはせぬ…。』



 どこからともなく響き渡ってくるどすの利いた声。

「ひい…、あれは、先の大王。」
 真っ先に反応したのは葛城皇子だった。
「まさかっ!」
 大海人皇子はきっとその声のする方向へと目を転じた。
 その声は、燃え盛る祭壇の後ろ、内裏の建物の中から響いてくるようだった。


『わが恨み、ここで晴らしてやろうぞ!』


「ひいい…。」
 葛城皇子が顔を歪めながら腰を抜かした。
「皇子っ!葛城皇子殿っ!お気を確かにされよっ!」
 鎌足が彼を気つけようとしたが、葛城皇子は既に気を失いかけていた。


『おまえたち、全てここで我が怨霊によって呪殺されるが良い。ははははは、はーはははは。』


 怨霊の高笑いが響いた。


『さあ、可愛いおまえたち。皇祖母尊を殺せ。その手で。』


 その声に反応するかのように、倒れていた女官たちが再び起き上がった。
 ゆらゆらと肩を揺らせながら、女官たちはすっと立ち上がり、そのうつろげな目で皇子たちを捕らえた。


『閤門は閉めた。もう、逃げ場はないぞ。大人しく、その命、我に差し出せ。そなたたちが染めにしその血の色で、この難波の京を彩ってやろうぞ。』


 大海人皇子が傍らを見たときは、既に皇祖母尊は気を失っていた。余りの恐ろしさに意識をなくしたのだ。
 こうなってくると、意識が無い方が、大海人皇子にはありがたかったかもしれない。なまじ、葛城皇子のように意識があると、御し難いことも出てくる。葛城皇子はあまりの恐ろしさにすっかりと正気をなくしかけていた。ただ、ガタガタと歯を震わせてその場に腰を抜かしていた。
(たく、兄上め、意気地の無いことよ。)
 大海人皇子は兄、葛城皇子の体たらくを見て、思わず苦笑いが漏れたくらいだ。大海人皇子は葛城皇子とは違って、勇猛果敢だった。もし、母君を抱きかかえていなければ、乱馬共々、化け物の正体を剥がしに剣を携えて駆け出していたかもしれない。
 彼にはわかっていたのだ。この事態は「怨霊」などの仕業ではなく、五行博士の小乃東風が指摘したように、唐国からやってきた道士の仕業に違いないということに。


(乱馬、頼んだぞっ!)


 心根でそう吐き出していた。




 一方乱馬は、瞬時に駆け出していた。彼は斉明女帝目掛けて襲い掛かる女官に向かって激しい攻防を続けていた。
 相手は自分よりも身分の高い豪族や皇族の娘たちだ。下手に切りつけることもできない。できることなら無傷で居させたかった。
 だが、相手は容赦なく、果敢に皇祖母尊に向かって切っ先を向ける。


「畜生っ、キリがねえっ!」
 多勢に無勢だ。それに、女官たちは乱馬に倒されても倒されても、再び起き上がって襲い掛かってくる。


「どうなってやがる…。何で女たちは事切れずに動き回れる…。」


 ぴっと一人の女官の切っ先が乱馬の頬を掠めた。飛び散る赤い血。
「あれは…。」
 その時だ。飛び散った己の血が、空に浮いたままなのを見て取った。いや良く見ると空に浮いているのではない。
「あれは糸っ!」


 乱馬は俄かに思い出した。
 確か、千文を取り返しに来た、鷹麻呂の一味と戦ったときも、このように死体が己を襲ってきたことを。


「もしかして…。こいつらも。」
 乱馬は思い当たると、ぐっと気をそこら中に張り巡らせた。もし、己の思っていることが当たっているなら、女官たちを動かしている「本体」がそこに居る筈だと。
 動物の気配を読むことはガキの頃から得意だった。ついこの前まで筑波嶺の麓(ふもと)に広がる湿地帯や平地で、弓矢を持って狩りに走り回っていた己。鹿や猪、水鳥や野兎を追った狩りの日々。
 野性の感を研ぎ澄ませる。
 一分の気配も逃さぬと、じっと全身を目にして、辺りを伺った。


「居る…。誰か操っているやつが、確実に居る。びんびんに殺気を感じるぜ…。」


「兄貴っ、危ないっ!」
 間一髪、千文が乱馬に振り下ろされた剣を跳ね返した。カチンと音がして剣が床に転がり落ちる。
「千文…。」
「へへ、意外とおいらだってやるだろ?」
 千文はにっと笑って見せた。
 剣を持って襲い掛かってくるとはいえ、元は宮中の女官たち。か細い腕では剣を交えることは無理だったようだ。
「おいらだって、こいつらと戦えるぜ。」
「待てっ!千文。この者たちは…。」
「わかってらあっ!宮中の女だから傷つけるなって言いたいんだろ?兄貴は。」
 千文はそう言うと、襲い掛かって来た女官に向かって剣を交えた。そして、その勢いで剣を弾き飛ばす。
「無傷ってわけにはいかねえかもしれねえけどな。頑張るぜっ!」
 千文はなかなかやり手だった。ここ何週間かの乱馬との暮らしの中で、少しだが剣の腕が上達したようだ。もともとの才覚を持っていたのだろうが、それでもそこそこに腕前を上げていた。
 乱馬は千文が女官たちとやりあっている間に、再び野性の感性を研ぎ澄ました。さっき感じた気。明らかに女官たちとは違う強い気。


「そこかっ!!」
 乱馬は落ちていた剣を拾い上げると、さっとその気配に向かって投げた。
 しゅっと音がして、前方から襲い掛かっていた女官がバタンと前のめりに倒れた。いや、彼女だけではない。他にも数名、そのまま地面へと倒れこむ。まるで、操り人形の糸がふっつりと切れてしまったかのようだ。その後、いつもなら、再び起き上がる女官たちが、今度は地面に伏したままピクリとも動かなかった。


「出て来いっ!そこに居るのはわかってるんだぜっ!」


 乱馬は高らかに叫んだ。


「見事ね…。私の傀儡術を見破るとは。」


 背後から上った月明かりに、一人の女の影が浮かび上がった。長い髪をなびかせて、そして動き易そうな唐模様の衣服が闇に現われた。珊璞だった。


「そこの女。何でおまえ、傀儡にならなかった?ここに居る女官たちは皆、こぞって私の焚き込めた傀儡香に反応したというのに。」
 内裏の殿上から女はじっと乱馬を見据えた。


「てめえかっ!この仕業は…。」
 乱馬はきっと顔を上げて睨み付けた。


「おまえ…。そうか。そうあるか…。ふふふふふ。」
 珊璞はいきなり笑い始めた。
「おまえ、乱馬あるな。」
 女ははっきりとそう象った。それから、さっと何かを投げつけた。
 カカカッと音がして、鋭い短刀が何本か地面へと突き刺さる。と、乱馬が羽織っていた裙が破れ落ちた。


「てめえ…。何で俺の名を…。」
 破けてしまった裙を手で払い落としながら乱馬が女を見上げた。


「ほほほ…。それは、この娘が私の孫じゃからだよ。」


 もう一つの声が彼女の背後から上がった。
 可崘だ。


「ば、ばばあっ!てめえは。あの時のっ!」
 乱馬の目がぐわっと見開かれた。
 そう、思い出したのだ。そのしわがれた顔。そして、人を見下すような瞳の輝き。それと、得も言えぬ妖気のような気配。
 忘れたくても忘れ得ない、あかねを手に入れた「適妻(むかへつま)」の儀式に対峙した老婆だ。


「久しぶりだのう…。乱馬よ。」
 可崘はにっと笑って見せた。


「てめえかっ!黒幕はようっ!」
 乱馬はきっと可崘を見据えた。
「ふふふ…。いかにも。まさか、おまえさまがこの儀式の場に忍んで居たとはのう。それも女の形で。」
 ふわっと彼女は内裏の大きな屋根からトンと下に降りた。


「うるせえっ!好き好んでこんな格好してたわけじゃねえやっ!」
 乱馬ははっしと睨み返した。
「そりゃあそうじゃろう。好き好んでそんな格好をされたら、ただの呆け者じゃ。ほーっほっほ。」
「てめえ、黙って言わせておけば。」
 乱馬は拳を握り締めた。


「兄貴、あの婆さん知ってるのか?」
 千文が側で問いかけた。
「ああ、一度、やりあったことがある。あの時は仕掛けられただけで、俺はその術から逃れるのに必死だったがな。」
 九能氏の墳丘での火攻めを思い出していた。
「あの時は、運に助けられたようじゃがのう…。ほっほっほ。じゃが、今回は違うぞ。」
 可崘はにっと笑った。
「けっ!それはこっちの言うことでいっ!あの時の借りは倍にして返してやらあっ!覚悟しな。婆さん。」


「ほっほっほ。早まるでない。おまえの相手はワシではない。今回はこの珊璞じゃ。」
 そう言って、まだ内裏の屋根に居る珊璞を見上げた。
「珊璞よ。それでよかろう?」
「異存はないね。」
 珊璞は吐き出した。
「何悠長なこと言ってやがる。二人とも相手してやらあっ!」
 乱馬がだっと可崘目掛けて剣を振りかざした。
「ほっ!」
 気合と共に、可崘は持っていた杖を軽く突くと、その反動で上に再び舞い上がった。そして、内裏の屋根の上に再び乗っかる。


「おまえの相手はこの珊璞じゃと言うとろうて…。せっかちな奴じゃ。どら、ワシはここから見物しておいてやろう。それから…。」
 可崘は一呼吸吸い込むと、再び言い放った。


「珊璞におまえが勝てたら、この場は引いてやる。…じゃが、おまえが珊璞に負けたときは…。」
 そう言って可崘は下を見た。
「あの者たち、全ての命はワシが貰う。ほっほっほ。」


 可崘が眺め下ろした先を見て、乱馬は表情を強張らせた。
 斉明女帝も、大海人皇子も、中臣鎌足も葛城皇子も、そして、千文さえも、いつの間にか皆、気を失って倒れこんでいたのだ。ぐったりとそれぞれ地面に伏していた。


「てめえっ!何をしたっ!」
 乱馬は叫んだ。


「何もしてはおらぬわ。ちょっと眠ってもらっただけじゃ。せっかくの戦いに邪魔は入って欲しくはないでな。それに…。」
 可崘は先の閤門へも目を転じた。
「あの門も、戦いが終わるまで開かぬ。ふふふ、誰もこの場に入ってこられないのじゃ。邪魔立てする者が居ない方が、おまえたちも戦いやすいじゃろう?」
「オババ様は気が利くね。二人だけの愛の語らい、持って来いの場面ね。」
 珊璞は腕組みして笑っている。


「な、何を考えてるんだ?てめえらは…。」


「何も考えてはおらぬぞよ。ただ、おぬしにどれだけの力量があるのか、これではっきりするからのう。ほれ、珊璞よ。せっかくの舞台だ。思う存分、暴れて見るが良い。」
 こくっとあごを乱馬へと手向けた。
「もとい、勿論、そのつもりね。乱馬。覚悟するよろし。私は手は抜かないね。おまえ、この私に子種授けられるだけの力持ってるか或いは、私にここで倒されて、真っ赤な血をここへと滴らせるか…二つに一つ。」


「なっ!」


「行くねっ!」






二、




 戦いの火蓋は切って落とされた。
 珊璞が地面目掛けて飛んだのだ。


 ふわりと空へ舞う美しき肢体。


「訳のわからねえこと、ぐちゃぐちゃと!」
 乱馬は同時に動き出した。
「は、早えっ!」
 珊璞はつっと地面へ降り立つや否や、すっと反射的に横へ飛んだ。乱馬の切っ先をかわしたのだ。それだけではない、にっと笑うと今度は己の体から鎖を引き出した。
 ブンっと音がして珊璞の鎖鎌が飛ぶ。
「くっ!」
 乱馬はすんでのところでそれを避けた。
「まだまだあるっ!」
 珊璞はしゃっと再びそれをうならせる。
「ほっ!たっ!やっ!とおーっ!」
 乱馬は軽くいなしながら、鎖鎌の攻撃から身をそらせた。勿論、かわしながらも珊璞との間合いを計ることも忘れなかった。
「でやーっ!」
 乱馬は隙を突いて剣を前に差し出した。


 すっと空に溶け込むように珊璞の体が消えた。


「何っ?」


 と、背後から新たに気が出現する。


 すんでで避けた。
 つっと腕を鮮血が伝わる。避け損ねて少しだけ彼女の剣を受けたのだ。


「おまえも赤い血流れているね。その血、もっと滴らせるよろし。」


「くっ!」
 乱馬は横へ飛び退いた。


「逃げても無駄ね。」
 珊璞は再び背後から話しかけてくる。甘い吐息が近くで漏れた。
「なかなかいい男ぶり。ふふ、好みあるよ。」
「う、うるせえっ!」
 乱馬は剣を横に薙ぎ払った。
 ふつっとまた珊璞が消えた。


「これじゃあ、身が持たねえ…。」


 珊璞に近寄られては逃げ、隙を見ては斬りつけ。だが、どちらかというとこちらが追い詰められているような感があった。


「もう終わりか?」
 またにゅっと現われる彼女。にっと笑っている。


「まだまだだっ!」
 乱馬はがっと剣を突き出す。だが、また当たらない。一瞬早く彼女が空へと溶け込むのだ。


「何故だ、何で俺の剣が当たらねえ…。」
 汗が滴り落ちる。
 と、天から白いものが舞い降りてくるのが見えた。
 雪だ。
 冷たい雪がはらはらと地面へと落ちる。ここは閉ざされた空間とは言え、外である。雲間から雪が落ち始めたのだ。
 ふわふわとボタン雪。だが、気温が低いのだろう。地面へ届くと溶けずにそのまま白む。


 バチッと祭壇の火が弾けた。と、何か甘ったるい匂いが鼻先を掠める。


(匂い?)


 と、途端、くらっときた。その匂いに体が微かに反応したのだ。ぼんやりと揺れる焔。乱馬はその焔を見てはっとした。


(匂いと焔…。まさか。あいつ。)


 乱馬は握っていた剣を元の鞘へ戻すと、すっくと立ち上がった。




「どうした?もう諦めるか?」


 どこからともなく珊璞の声が響いてくる。


「俺は諦めねえ。その逆だ。」
 乱馬は身体に絡みつくように巻いていた頒布を手に手繰り寄せた。あかねと初めて出会ったときに、彼女が残してくれた頒布だ。茜色が鮮やかだ。彼はそれを手に取ると、二つに裂いた。そして、一つを頭に巻きつけた。鉢巻のようにだ。もう一方は左の腕に巻きつけた。
(あかね、俺に力貸してくれっ!おまえと共に戦う。)
 念じると力がふつふつと湧き上がってくるように思えた。胸元で青い勾玉が揺れている。


「ふふ、いくらおまえたちの神に頼んでも、おまえは私には勝てないね。その布切れと同じ緋色にこの雪を染めてやる。勿論、おまえの血でだ。乱馬。」


 乱馬はそれには答えずに目を閉じた。


『心眼。心で見るんだ。乱馬。…獲物の息遣いそして気配、それは何も目に映るものが全てではない。』


 頭の中を懐かしい声が過(よ)ぎっていく。響雲斎の声だ。


『全身の神経を研ぎ澄ませ。そして獲物を一撃で仕留めるんだ。乱馬よ。』


 刀の柄に手をかけた。


「来いっ!いつでも俺は相手してやるぜ。唐国の女狼っ!」


「言われなくても行くね。おまえの屍をその雪の上に積みあげるっ!」


 珊璞はそう叫ぶと共に、乱馬目掛けて、己の持っている鎖鎌を投げ下ろした。
 乱馬は動いた。電光石火に、だ。
 珊璞が投げ下ろした鎖鎌とは違う方向へと剣を差し出す。


「血迷ったか、乱馬っ!」
 珊璞が勝どきを上げたときだった。
 乱馬は差し出した剣を握り返すと、思いっきり、反対側へとさし伸ばした。


 手応えがあった。
 ザンっと何かを切る音がした。


「しまった…。」


 珊璞がバランスを崩して倒れこんだ。
 雪が一層激しく上から舞い降りてくる。


「勝負あったな。」
 乱馬はすっと刀を倒れこんだ珊璞の背中へと差し向けた。




「ほーっほっほ。さすがにワシが見込んだだけの男ではあるな。乱馬よ。」
 上空からオババの声が響き渡った。


「何余裕かましてやがる…。この剣をそのままこの小娘に突き立ててもいいんだぜ。」
 乱馬は背中越しに凄んだ。


「ほっほっほ。見くびられたものだのう。おまえはそういうことは出来ぬ人間。」
「何だと?」
「それに…。この場はおまえの勝ちだが、皇祖母尊始め、倒れている皇子や寵臣たちの命はこのワシが握っておるのだぞ?そうであろう?」


 ぐっと乱馬は息を詰めた。
 そのとおりだったからだ。
 一瞬、己の剣に迷いが過ぎった。そのまま本気で突っ込めば、間違いなく珊璞の胸元を、刀は貫通して串刺しにしていただろう。だが、女を刺すことへのためらいが、一瞬彼の手元を狂わせたのもまた事実だった。
 珊璞はただ、着物を切り刻まれただけで倒れ込んだ。


(私が負けた…。この私が…。)
 彼女はぎゅうっと拳を握り締めた。何よりも、殺そうと思えば一思いに貫き通した彼が、迷いがあったとは言え寸止めして己の命を永らえてくれた。
 複雑な想いが珊璞の中に芽生えるには、充分すぎる理由だった。


「ほっほっほ。約束どおり、これ以上今夜は我々は手出しせぬ。齢いくばくも無い女帝の命など、いつでも取れる。…それになかなか楽しい余興であったぞ。まさか、おまえが我らの術を破ろうとは思いも寄らなかったがのう…。気がついておったか。我が術を。」


「ああ、勿論だ。」


 乱馬はすっくと立ち上がった。刀は最早鞘に収めていた。
 可崘が戦闘を放棄した以上、戦いは無用だ。そう判断したのだ。


「おまえたちは、そこの祭壇の焔の中に投じた香木で女官を操り、また、皇祖母尊様たちを眠らせたのだろう?そして、多分、この小娘も、その匂いの魔力を使って俺の感覚を麻痺させ、かく乱していた。…そんなところじゃねえのか?」


「いかにも…。良く見通せたのう。」


「おまえ、前にも同じ手で俺を襲っただろ?…九能との適妻勝負の時だ。大方、あの時も香木を焚き込めて、蟲の幻でも見せたんじゃねえのか?墳丘を焼き尽くした焔は本物だったみたいだけどよ。」


「ほっほっほ。そこまで見通しておるとは。強ち侮れぬ奴だ。それで、煙を吸い込まぬように息を止め、幻影に惑わされぬように目を閉じて気配だけで珊璞を攻撃したのじゃな。…末恐ろしいやつめ。」
 楽しそうに可崘は言い含めると、まだ呆けている珊璞に言った。


「珊璞よ。今夜のところはこやつの勝ちじゃ。ワシらはさっさとここから出て行こう。そろそろ、閤門の外の者たちの中でも気が戻る奴が出てくるころあいじゃろうからな。この辺りが潮時じゃ。」


「わかったある…。」


 すっくと立ち上がった珊璞。乱馬は黙ってあさっての方向を見定めていた。


 と、ふわっと彼女の体が接触してきた。そう、乱馬の背後からいきなり抱きついたのだ。唐突だったので身構えることすらできなかった。


「愛人(アイレン)…。いつかきっとおまえの子種貰うね。それまで生き抜くよろし。大和の猛者よ。それまで、再見(ツァイツェン)…。」


 珊璞は柔らかに背後からそう微笑みかけると、すっと彼から離れた。


「また会おう、乱馬よ。」


 可崘はそう言うと、さっと気配を消した。




 彼らが気配を消したのと、阿倍比羅夫が閤門をねじ明けて、配下の舎人たちと共に、雪崩れ込んでくるのは殆ど当時だった。乱馬は何も言わずにじっと可崘と珊璞が立ち去った闇を睨みつけていた。


「響郎女…。いや、乱馬殿よ。」
 阿部比羅夫は乱馬を顧みた。


「比羅夫殿か。賊を取り逃がしてしまった。」
 乱馬はそれだけを言うとドンっと乱馬はそのまま地面へと膝を突いて、拳を叩き付けた。
「くそうっ!もうちょっとで倒せたのに…。俺は、俺は…、あの女を討ち取ることは出来なかった!」
 と吐き出しながら。
 もう少しというところで迷いが生じ、珊璞を討てなかったことに対して、悔恨したのである。
「女だったのか?相手は。」
 比羅夫の問いに答えた。
「ああ、婆さんと若い女だった。唐国から来た…。畜生っ!みすみす逃してしまうとはっ!!」
 武人の阿部比羅夫に対してだけに見せた悔恨だった。


「いや、孤軍奮闘、乱馬殿はよく戦われたよ。誰もその事に関しては責めることはできまい。それに…。男というものは女と子供には手を挙げられぬようにできておるのだ。きっと、な…。」


 肩をわなわなと震わせている若者に比羅夫は優しく言った。


 かつて己がそうだった。
 殺してもかまわぬと言われた赤子を殺せなかった。懸命に生きていこうとする一つの生命を絶つことは、男として、武人としてできなかったのだ。


 初めて知る、人間としての、いや武人としての恥辱だった。








三、




『乱馬…。あなたがあの場であの唐国の女を殺すような人だったら、私はあなたを愛せなかったかもしれない…。』


 あかね…。


 夢の中のあかねは寛大だった。


『あれでよかったのよ。もし、あなたが彼女を殺していたならば、きっと、あの婆さんは皇祖母尊様や大海人皇子様を手にかけていたかもしれない。ねえ、そうでしょう?』


 ああ、そうだな。そうかもしれねえ。あの婆さんならやりそうだ。


『だから、乱馬。あなたはあなたらしく生きて。たった一つのかけがえの無い命ですもの。』


 あかねはそう言いながら笑った。
 愛しさがこみ上げてくる。その輝かんばかりの笑顔をもっと近くで見ようと引き寄せる。




「兄貴っ!こらっ!乱馬の兄貴っ!」
 耳元で声がした。
「いい加減にしてくれっ!俺は女じゃねえぞーっ!!」


 ぱかっと目が開くと、あわわと千文がじたばたしていた。良く見ると己の腕が彼を抱きとめている。


「わたっ!何だあ?」
 驚いてがばっと起き上がった。


「たくもうっ!今日は参内を言い遣ってたから、起こしに来てやったのに。いきなり抱きつくんだからよう!もしかして、欲求不満溜まってんのか?兄貴はっ!」
「違う。んなことはねえっ!」
 ぶんぶんと頭を振るった。
「その髭面でほお擦りしてくるしよう。気持ち悪くってかなわねえや。俺はそんな嗜好ねえんだからよう。」
「こ、こっちだっておめえみたいなのとは願い下げだっ!馬鹿っ!」 
「だろうねえ…。で、兄貴、そのさあ。」
 千文はにっと意味深に笑った。
「その茜郎女って誰なんだい?故郷に残してきた女か?」
 一瞬乱馬の目が点になった。
「なっ!何っ!何でおまえがその名前をっ!」
 いきなり千文の口からあかねの名前が出て、焦ってしまったのだ。
「そりゃあ、あれだけ「あかね、あかね」って連呼されれば、誰だって…なあ、砺波の爺さん。」


「そうじゃな。毎夜のように寝言で言っておられまする名前でございますからなあ。今更とは思いまするが。」


 そのまま乱馬は絶句してしまった。


「で、その女とはどんな仲なんだ?妹背か?子供も居るのか?」


「子供なんか、いねえっ!」


「でも、愛しい妹背なのは違わねえんだろ?その茜郎女ってさあ、兄貴。」


「そんなことはどうでも良いから、参内する準備をしろっ!」
 真っ赤になって怒鳴った。
 確かにあかねは愛しい妹背には違いない。夫婦契りの約もしてある。が、まだ、身体は結ばれてはいなかった。心では既に結ばれていたにも関わらず。己の前に立ちはだかった「兵役」をかんがみて、抱くことはできなかった。


「兄貴の妹背なら、きっと綺麗な女性(ひと)なんだろうな。会ってみてえや。」
「だから、そんなんじゃねーっつってんだろっ!」
「へえ、じゃあ、兄貴ってば、まだ童貞なのかよう?」
「うるせーっ!!」
「純愛なのかよ?」
「黙れっ!馬鹿。」




 朝から大騒ぎだ。
 ひとしきり暴れまわったところで、参内する。
 あてがわれた衣装も舎人より少し立派に見えた。


「これから出航だからな。難波宮を立つんだ。おまえたちもちゃんと準備しておけよ。」
 さっきまでの騒動とはかけ離れた真摯な顔で千文と砺波の爺さんを見返した。












 あの後、乱馬は斉明女帝から拝命を頂いた。正式に武官としての参内を許されたのだ。これは異例だと言ってよい。
 勿論、その配慮には大海人皇子の尽力もあった。元々彼の舎人として仕えている身の上。これで大手を振って、大海人皇子が女帝の近くに参上するときも乱馬は常に近くに立ち入ることができる身の上となる。大海人皇子にとっても都合が良いのは言うまでもない。


 乱馬はあの異常な事件の功労者だ。
 彼が居なければ、まんまと可崘たちに女帝を殺されていたかもしれない。
 女帝は己の窮地を救ってくれたこの若者に素直に礼を尽くしたのだった。


「最初から女に化けてこの舎人を忍び込ませていようとは…。一歩間違えば乱馬殿は斬首になっても仕方のないところ。何と大胆なことをなさいまするか、大海人皇子様は。」
 中臣鎌足も呆れ顔であった。
「しかし、大海人皇子様の機転のおかげで、今回の暗殺計画を未然に防ぐことができたのじゃ。これはやはり、手柄と言っても良いのではないのかえ?」
 額田王が笑った。
「何にしろ、女官たちを操って、皇祖母尊を襲う巧みさじゃ。のう、鎌足殿。あの場は乱馬殿が居られなければと思うとぞっとするのう。」
 大海人皇子も御満悦だった。
 葛城皇子は憮然とした表情で一同のやり取りを聞いていた。機嫌が悪いことは顔色から充分に窺い知れた。何も言わず黙って一物を飲み込む。そんな風が、傍らに座す乱馬かたも見て取れた。
「なにはともあれ、大海人皇子様の機知で暗殺計画は潰えたのだ。手段はさておき、結果往来。それで良いではありませぬか。」
 額田王はじっと一同を見渡した。


「そこで、皇祖母尊様がおっしゃるには…。」
 女帝の仲介者役だけあって、額田王は口が滑らかであった。


「乱馬殿の参内を許そうということ。彼の強さは阿倍比羅夫殿の報告に寄っても一目瞭然。大和一の武人になられる力を持っておられるとな。これからも折に触れて大王一族の近辺をお守りするようにと、皇祖母尊様、自らおっしゃっておられます。」
 そう言いながら御簾を顧みた。
 御簾は下ろされたままであったが、人影がじっとそこへ座しているのが見えた。


「乱馬よ…。」
 額田王はすっくと立って彼に向き直った。
「おまえに参内の自由を与えよう。今後も皇祖母尊様の身辺をお守りいたせ。皇祖母尊様は大変にご満悦とのこと。良いな。」
 額田王は大王の代弁者として、威圧的に言った。おそらく、斉明女帝の言をそのまま言ったのであろう。
「ありがたき幸せにございますれば、今後、一層尽力いたします。」
 乱馬はそう言うと、御簾の前に進み出てひざまづく。


「ならば、姓(かばね)が必要であろう。」


 ずっと黙していた葛城皇子が初めて口を利いた。


「姓か…。そうだな。兄上」
 大海人皇子が同調した。
「私には響という氏名(うじな)はありますが。」
「いや、あまつさえ、大王様のお目に留まったのだ。今までどおりの姓(かばね)では不都合があろう。」
 大海人皇子が乱馬を牽制しながら言った。遠慮せずに新しい「姓」を貰えと、目は語りかけている。


「ふふふ。姓はこのワシから進呈してやろう。」
 葛城皇子がたっと乱馬を見下ろした。冷ややかな瞳が彼を捉える。


「おまえは「早乙女の造(みやつこ)」と名乗るが良い。」
「早乙女…。」
 乱馬はそう言うなり顔を上げた。
「そうだ、おまえは男性禁制の宮中へ入り込み、大王様をさりげなく警護していた。それも女に変化させてだ。誰もおまえが男と思わぬくらい良く化けておったしな。どうだ?良く似合った名前であろうが。」


 その言葉にはあからさまに「棘」があった。
 この度の事態に己はただ、鎌足の袂で震えているだけだった。その事実が葛城皇子をこのように皮肉な発言へと駆り立てたのかもしれない。
 「早乙女」という言葉には文字通り「乙女」という意味合いがある。「さ」は接頭語であり、「五月」と深い繋がりがあるとされた。「早乙女」には「五月乙女」、つまり、田植えをする乙女という語意もある。
 つまり、葛城皇子は乱馬の女装を逆手に取り、田舎の田植え女が田植え踊りを舞う有様のようだったとでも揶揄(やゆ)したかったのではあるまいか。


「つくづく兄上は意地悪なお方だ。」
 後で大海人皇子がそう言い切ったくらいだ。


 だが、乱馬は「早乙女」という名前に新しい己を見出していた。
 「響」とは違う新しい姓。たとえどんなに揶揄的な侮蔑が入っていようとも、それはそれで良いのではないかと。
 五月の風が香るそんな勢いある名前。それを「早乙女」の中に感じ取っていた。「響」という氏族の柵からこれで完全に抜けられる。己の出生の秘密を死の間際の養父から訊かされて以来、燻り続けていたわだかまりがそこで一つ解き放たれたような気がしたのだ。

「早乙女の造。その姓、ありがたく拝命いたします。」
 乱馬は間髪入れずに葛城皇子に答え返していた。








「ほら、千文も砺波も支度は出来ていような?このような朝に遅れを取るではないぞ。」
 乱馬は爛々と目を輝かせ、二人を振り返った。
 新しい姓。そして、新しい船出。
 勿論、これから先には想像だにできない苦難が待ち受けているだろう。この先に続くこの国の未来を見据えながら、難波京から船出する。その瞳には一縷の曇りもなかった。
 晴れ渡った冬の朝のように清廉とし、そして厳しくも気高かった。


(あかね、おまえは早乙女乱馬の妹背だ。今度まみえるときにはもっと強く、そしてもっと高みに登りつめてやる。だから…。)


 胸元に光る青い勾玉は、その想いを照らし出すように、碧色に輝く。
 朝日の昇る方向、そこには、愛しいあかねが待っている。
 これから行くのは西。反対の方向だが、太陽は乱馬の背中を強く照らしつけてくる。その光を背に確かに受けながら、乱馬は新しき門出の海を見詰めた。


 時に、斉明女帝治世七年、西暦六六一年、正月六日の朝であった。








 第二部 完




    次回より第三部「邇磨編」









姓(かばね)
 上代において家系や代々の職業を表した称号のようなものです。 「臣(おみ、おとど)」「連(むらじ)」地方においては「国造(くにのみやつこ)」「県主(あがたぬし)」などがそれにあたります。
 その後天武帝のときに「真人(まひと)」「朝臣(あそん)」「宿称(すくね)」「忌寸(いきみ)」「道師(みちのし)」「臣(おみ)」「連(むらじ)」「稲置(いなき)」の八色の姓(やくさのかばね)が定められました。
 氏名(うじな)は元々言われていたものや呼び習わされていたものが氏族、血族社会において定着したものだと言われています。
 この場は一之瀬の想像の産物ですが、「姓」の中には上位の貴人から与えられたものもあったと思います。後の世、中世に至って、武士社会になったとき、主君が従者に名前を与えることにより、より強固に主従関係を表した如く、おそらく上代の戦乱期にも同じようなことは行われていたと想像するに難くないでしょう。







 第二部はかなり「くどい記述」が多かったような。
 物語が動くようでよどんでいた展開です。
 この時代はまだわからないことの方が圧倒的に多いので、どこまで話を作りこんでよいのやら、私も手探り状態。生半可な知識があるばっかりに、いい加減なことを書きつつ、うぐっとなること数回。
 お気づきの方も多々いらっしゃるでしょうが、本作の乱馬は大穴牟遅(オオアナムジ)のようで倭武(ヤマトタケル)のようで、はたまた須佐之男(スサノオ)のようでもあります。実はいろんな記紀神話の英雄譚を基盤に書いています。それがテーマの一つともなっています。
 で、あかねちゃんはもうちょっと出番がないです。乱馬書きの本領発揮と某氏に言われたとおりかもしれません(笑
 次回からは瀬戸内へと舞台を移し「邇磨(にま)編」となります。
 もう暫く乱馬の出番をどうぞ。




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