第十話 難波宮


一、




 斉明女帝の前に乱馬は平伏した。
 大海人皇子が描いた脚本どおりに「到来の蝦夷の女官」として相対したのである。
 緊張した面持ちで女帝の前に出たが、乱馬は堂々としたものだった。阿倍比羅夫はその心臓の強さに目を見張ったものだ。
 とにかく、言われたとおり、一言も発さなかった。言葉が違うと言うことで、その場に居た誰しもが不可思議な女官に猜疑すら抱かなかったのは幸いであろう。人々にとって東国は未知の国。大陸から到達した渡来人からは、目の色、肌の色の違う人々が住む国もあると聞きかじる。生半可な知識があったので、誰も男性が女装した姿だとは思わなかった。
 斉明女帝の前には御簾が下ろされ、女帝の顔をうかがうことはできなかった。それがかえって功を奏したのかもしれない。女帝は重なる執務に疲れていたのだろう。
 傍に仕える女官を通じて
「大儀ない。これから思うように宮廷へ仕えよ。」
 とだけ、簡単に命令しただけで、ものの数分で面会は終わった。
 斉明女帝の続きには、大海人皇子も控えていたが、何事も発せず、ただ黙って乱馬を見下ろしていた。
 この場に、一番猜疑心の強い葛城皇子が不在だったことも、大きく左右したろう。葛城皇子はこれからの女帝の西方遠征の下準備に余念がないようであった。いずれにしても、猜疑心の強い兄皇子が居ないことは、大海人皇子にも都合が良かったに違いない。斉明女帝の了解さえ得られれば、乱馬をまんまと斉明女帝の近くに侍らせることができる。苦肉の策であった。
 勿論、一番迷惑していたのは乱馬とその近従の砺波と千文であったろう。乱馬ともども、彼らも仰々しい女装を暫く強いられるのだ。姿かたちを男と見破られぬように細心の注意を払わねばならない。
 阿倍比羅夫は乱馬を斉明女帝の宮へ送り届けると、さっさと下向してしまった。彼もまた、西方遠征の要となる人物。忙しい身の上であった。


 別れ際に阿倍比羅夫は乱馬に言った。


「どうやら、本当に唐国の道士はこの西方遠征で皇祖母尊様のお命を狙っているらしい…。確かな筋からわが耳に入ったことだ。心してかかれよ。」
 と。
 勿論、己のみが知る秘密については、一言も彼に発しなかった。漢皇子の御子に違いないという乱馬の秘密を。
(運命がそれを望むのなら、いずれ、事実は明るみに出よう。八百万の神がおまえをここまで引っ張ってきたのなら、或いは。…幸運を祈る。漢皇子の御子よ。)
 そう心で吐き出しながら。








「たく…。何の因果でこんなこと。」
 水鏡に映し出される己の姿に幻滅に近いものすら感じられた。
 まだ、乱馬は髭が濃い方ではなかったことだけが幸いした。いちいちこれを抜き取らねばならず、大変な作業だったからである。
 額田王近くに仕える女官が彼女の命令でやってくれた。
 当時の後宮はサロンのようなところであった。まだ、天皇が女帝だから艶かしさはなかったが、それでも常時、たくさんの女官たちが斉明に仕えていた。


 額田王は、鏡王の娘。鏡氏は近江あたりの豪族、または、大和平野の真ん中、大和郡山市あたりの豪族と二説が言われている。鏡王は「王」とつくから皇族だったとか、百済の王族出自だとか言われているが、いずれも確証を持てる定説はない。
 とにかく、額田王は当時の美人として名高く、神政も行える巫女的な女性でもあったようだ。その美しさ故に、葛城皇子と大海人皇子、二人の皇子に愛されたと言われている。


 乱馬が観察するに、女官たちの一番上に額田王が居るようだった。祭祀の知識も経験も豊富で、斉明女帝の信頼も厚いようだった。斉明女帝の御言葉は、だいたい彼女が、下々に伝えていた。
 当時、大王の御言葉を、臣下が直接聞くことは殆どなかった。祭祀とも深いかかわりのある大王は、その神格的な権威を保つため、直接言葉を下々にかけるなど、殆ど無いことであったからだ。
 斉明女帝の御言葉は額田王か、その嫡子、葛城皇子のみが拝聴を許された。もし他に例外があるとすれば、女帝の子でもあったの間人皇女と大海人皇子くらいのものだろう。
 額田王は大海人皇子へ降嫁し、十市皇女を儲けていたが、後に斉明女帝が重祚すると、望まれて斉明の後宮へ入り、実務を取り仕切る立場に入った。
 だからこそ、女帝、大海人、双方からの信頼も厚かった。今は男と女の係わり合いを絶ったとはいえ、元々己の妃の一人。まだその想いも互いに潰えず、だからこそ大海人皇子も乱馬のことを密かに彼女に任せていたのであろう。
 乱馬とて無能ではなかったので、額田王の近くに御し、男と悟られぬようにしながら、斉明女帝の警護にあたっていたのである。勿論、刀を懐の奥深く、柔らかな女衣の下に忍ばせる事も忘れてはいなかった。


 肩からかけられている茜色の頒布(ひれ)。筑波嶺のかがひで茜郎女から貰った美しい頒布であった。肌身離さずに持っていたものを、裙の上からふわりと装飾させている。
 茜郎女がこの姿を見れば何と言い出すか。いくら使命とは言え、顔をしかめるか。それとも、大笑いするか。


 今頃あかねはどうしているのか。


 勿論、音信する手立てもない。
 文一つ交わすことも苦労した時代だ。紙などは高級な代物。重要な書類すら、木簡でしたためられた時代。文ひとつすらおぼつかない。
 すっと懐に手を入れて、時々握る青い勾玉。その度に、一晩ただ何もせず、じっと抱き合ったまま共に過ごし、別れたあの清らかな朝を思い出す。


『あなたの玉は私が持つわ。だから私の玉はあなたに預ける。ここにいつも私が居るわ。そして、こちらにはあなたが…。私を思い出したいときはいつもこの青い玉を握り締めて。私もあなたを思うときはこの赤い玉を握り締める。』
 そう言って別れたあの健気な瞳を思い出すのだ。


(俺は必ず再びおまえにまみえる。そのために生き抜くんだ。何が何でも。)
 そう念じながら玉を握り締めた。


 数日間は何事もなく通り過ぎる。 
 そして、いよいよ難波の宮へ向けて、出立の日を迎えた。


 斉明女帝治世六年、西暦六六〇年一二月二四日。斉明女帝は百済救済のため、飛鳥を出(い)で、まずは難波宮へ向かった。






二、




「珊璞よ。」
 可崘婆さんは孫娘の珊璞と大和近郊で合流した。
「久しぶりね。オババ様。」
 珊璞はにこっと笑って見せた。
「どうじゃった?そちらの守備。」
「沐絲は彼に敗れたある。私が見たところ、なかなかの男ぶりだったあるね。力も判断力もかなりのものと見たね。」
「そうか…。で、気に入ったかのう?」
 孫娘を見返した。
「まだ良くわからないある。私が直接やりあったわけではないからな。沐絲相手にあれだけやれたのだから、相当な力は持ってるあるね。」
「ふふふ、おまえもなかなか用心深いのう。」
「当たり前ね。子種を貰う以上、それなりの格を持たねば意味がないね。」
「そうだな。そなたの母も強い男を求め、おまえを産んだように、おまえもまた、一族のために濃い優秀な血を求めねばならぬからな。」
 婆様はにっと笑った。
「で、今日は何用あるか?オババ様じきじきに会いに来るなんて珍しい。ほら、晴れた天から水が滴り落ちてくるではないか。」
 空が急に時雨れてきた。太陽の光が西の方から差し込めてくる。
 珊璞は現在、大和近辺の唐国から帰化した宮人の住処を拠点として暮らしていた。勿論、表向きはここの使い女(つかいめ)としてだ。
「ワシがここへ現われる時、それは即ち、おまえに任を与えに来ることと決まっておろうが。」
 ふっとなずむように可崘は笑った。
「任か…。丁度良い。あの男は大海人皇子だかいう男に伴われて宮の奥へと入ってしまったし。さすがにここから宮の奥へ入るのはまだこの国のことに慣れぬ身ゆえ難しくてどうしようか思って時間を持て余していたところある。任があるのなら退屈しのぎには持ってこいね。」
 珊璞は可崘婆さんを流し見た。
「まあ、あの若者のことは暫く置け。あやつが大和政権の中に身を置く限り、いずれやりあう日もくるじゃろうからな。それより…。」
 可崘は軽く咳払いすると、声を落とし、珊璞に言った。
「今度の標的は皇祖母尊(すめみおやのみこと)。即ち、大王(おおきみ)だ。」
 と。
「大王を殺るのか?それは、面白そうね。」
 珊璞は臆することなくそう吐き出した。大王と言えばこの国の宰相だ。実質の権力はその御子の葛城皇子が握っているが、それでも大王が殺されたとなると動揺も走ろう。
「皇祖母尊は最近、我が祖国、唐と対峙するために、百済国へ兵卒を送るというからなあ。まあ、多勢に無勢、百済国へ出兵したところで何の懸念材料にもならぬだろうが、念のため、見せしめに殺せと高宗様が言ってきたのでな。ふふふ。こんな小さな国の大王の命すら我が唐国がすぐにでも握りつぶせるとな…。」
 可崘はそう言って笑った。
「なるほどね…。無駄な援軍は即刻中止するべきという牽制にもなろう筈。その話、乗るある。で、方法は?」
「このオババが道をつけるから、そうだな、難波宮で呪殺というのもおもしろいかもしれぬな。」
「呪殺か…。」
「そうじゃ。難波宮は今の女帝にとって、忌むべき弟の血塗られた都だからな。その怨霊に呪い殺されたというようなところを装えばよいかも知れぬ。」
「ふふ。面白そうあるね。」
「五行博士の黒麻呂(くろまろ)の方にも手は打ってある。彼は葛城皇子にも信が厚いからのう。ほっほっほ。」
「怖気づかせて大和へ引き返させる。面白いね。」


 彼女たちの目の前を大きな軍船が何艘も川を渡って行く。大和川へ出て、難波宮まで下るのだ。悠々と行く船の姿。その傍を空っ風が吹きぬけていく。みぞれ混じりの雪が空から舞い落ち始めた。


 可崘はまず、葛城皇子に仕えていた五行博士の黒麻呂を計画へと巻き込んだ。黒麻呂の祖は唐の前、随から渡来した帰化人だった。もうすっかり倭人(わじん)として定着していたが、元は中国大陸の血が混じる。そんな隙を突いて、可崘は彼を買収した。
 そう、可崘側へと都合の良いように、卦を占えというのだ。
 大海人皇子同様に、いや、それ以上に葛城皇子は五行を意識していた。後の岡本宮に漏刻を作ったことからみてもそれは明らかであった。古くからの神政よりも、大陸的な暦を取り入れた文化の方が魅力的だったのだ。
 だから、葛城皇子も五行を重んじていた。ただ、彼の場合、弟の大海人皇子と違う点は、自ら卜占をしなかったことにある。大海人皇子は自分でも好んで良く、卜占をしたが、葛城皇子は雇った五行博士たちにせっせと占わせていたに過ぎない。自分では何事も占わなかった。
 葛城皇子の傍には何人もの五行博士が侍っていたが、黒麻呂への信望が事の外厚かったのである。そこへ可崘は目をつけ、まんまと己の方へと黒麻呂を引き付けた。
 黒麻呂は可崘に命じられるままに、葛城皇子へと進言をした。


「このままでは、斉明女帝のお命も風前の灯にございます。」 
 かしこまって葛城皇子へと占いの結果を報告する。
「回避できる方法はただ一つ。」
 妖しい目が光る。
「難波京へ着かれたら、祓(はら)えをなさいませ。」
「祓えとな?」
 葛城皇子は黒麻呂を見返した。
「難波宮には亡き前皇様の御魂(みたま)が彷徨っております。」
「前皇の御魂が…。」


 葛城皇子は案外、意気地がなかった。その当時の殆どがそうであったように、目に見えないものに対する畏怖が強かった。
 まだ後の世ほど「御霊信仰(ごりょうしんこう)」的な思考は強くなかったにせよ、怨霊に対する恐怖心は程度あった。特に、葛城皇子の場合、前皇、孝徳帝の死に、少なからずも己の謀略が影響していると明らかだったので、その傾向が強かったようだ。孝徳帝は己との軋轢の中で難波宮にて憤死したようなものだったからだ。
 必要以上に孝徳帝が飛鳥遷都を嫌がったのも、難波宮へ居続けることを固執したのも、他ならぬ己への抵抗心が成せる業だったということを葛城皇子自身が良くわかっていた。そして、それを利用する形で、前皇を死へと追い立てたのだ。
 それだけに、重用している五行博士に、気になる部分を突かれると、動揺を隠せずに居た。
 可崘の術にはまったようなものである。そう、彼女は「祓え」という儀式の中で斉明女帝を誅殺しようと目論んでいたのである。荘厳な儀式の席において、孝徳帝の怨霊を装い斉明女帝を滅する。それに対する心理的効果を最大限に狙おうと考えていた。


 葛城皇子は五行博士の黒麻呂の進言どおり、難波宮へ入ると、「祓え」の儀式をすると宣言したのである。




「変だ。」
 大海人皇子がふっと言葉を吐き出した。
 斉明女帝の船に同行した彼は、己の解き放っている子飼いの舎人から葛城皇子の動静を告げられると小首を傾げた。
 この軍船の奥に斉明女帝が乗っている。勿論、奥は一般では立ち入りが禁じられていて、近侍の者だけが行き来していた。大海人皇子も許されていた身分だが、兄への遠慮もあって、自重していたのだ。斉明女帝の傍らには常に兄の葛城皇子の顔があった。
「額田王はどう思う?」
 渇かぬ口で傍へと目を転じた。
「ある程度の祓えは確かに必要かもしれませぬが、そんな大袈裟にされることはないと私は。」
「そうであろう?わざわざ今頃になって前皇の御魂を乱すような真似は…。」
「あなた様の五行博士はどのようにおっしゃっているのですか?」
 目を細くしながら、額田王が振り返った。
「いや、彼は…。兄上が言うような怨霊の卦など一向に伺えぬと言っておった。兄上の五行博士と全く逆のことを申してな。」
「皇子様はどちらの博士の言い分を信用なさっておられで?」
「勿論、己の五行博士の方だ。」
 断言した。
「ならば、彼の占うとおりになさいませ。」
「祓えなど要らぬと皇祖母尊へ進言せよと言うのか?」
「いえ、そのようなことではなく…。他に東風は言っておられませなんだか?」
 胸につっかえるように言葉を投げると額田王はふっと微笑かけながら大海人を見上げる。
 はっと大海人皇子の顔つきが変わった。
「もしかして、額田王の卜占にも同じようなことが出たとでも。」
 こくんと揺れる額田の頭。
 額田王も卜占は出来た。但し、彼女の場合、蓄積されたデーターを元に占う五行博士たちの卜占とは違う。古来からのやり方、そう「巫女的能力」を持って占う「シャーマン」的なものに近い。それは彼女が元々霊力が高い巫女的な女性であった。神を斎ける立場にあったのだ。だからこそ、斉明女帝は彼女を傍に置いて重用していたと言って良い。わざわざ乞うて己の傍に侍らせている。

「このことは乱馬に伝えておくべきか。」
「それとなく私の方から言っておいてもよろしいですが…。彼に嫌疑の目を向ける輩が出るのも危ないですから、そのままでも良いやも知れませぬ。いい機会です。彼の力量を本当にお試しになさるには…。」
 柔らかく微笑んではいたが、額田王の目は鋭く光っていた。
「それもそうだな。」
 大海人皇子も彼女に同調した。






三、




 飛鳥から大和川を西へと下る。
 古代の大和川は今とは随分流れが違っていた。奈良盆地の水を集め、広瀬から亀の瀬を下り、河内平野を幾筋にか分かたれ、大きな入江もあった。入江は生駒山麓まで広がり「草香江」と呼ばれ歌枕にもなっていたのだ。
 今より遥かに大阪には水が溢れていたと言えよう。
 難波宮は六四五年、大化元年に孝徳帝が立ったあと、都となった。最初は元から難波にあった屯倉(みやけ)などの建物を利用したらしいが、難波に遷都されるにあたって、壮大な宮の造営が始まった。「難波長柄豊碕宮(なにわのながらとよさきのみや)」である。
 六五〇年白雉元年、孝徳帝以下が新しく移り住み、六五二年白雉三年、一応の完成を見た。実はこの難波長柄豊碕宮は近年に至るまで、どこにあったのか不明だった。「幻の宮」だったのである。第二次世界大戦後になって、発掘調査が進められ、大阪城外堀の上町台地で発見された遺構がそれであろうと定説となっている。
 難波長柄豊碕宮は壮大な朝庭を持っていた。飛鳥の宮とは比べ物にならぬくらい大きな建物が立ち並んでいたという。大化の改新後の律令制の整備とも関係が不可欠で、地方から多数の豪族の長たちが天皇と謁見するために参集した。地方豪族に対して、まだ不安定な基盤の上に立っていた大和朝廷の力を必要以上に強大に指し示すためにも、壮大な宮殿の造営は不可欠だったのだろう。


 だが、孝徳帝亡き後は、数年で荒びかけていた。
 あれだけ優美を誇った朝堂院の建物も寂れて見えるほどであった。


「あれが、難波宮か。」
 乱馬は船の上からその壮大な土地を見て、舌を巻いた。
 飛鳥後岡本宮とは比べ物にならぬ大きさに目を見張った。
 美しく整然と整備された建物。それを取り巻く朝庭。朝靄の中に浮かぶその有様は、まるで夢の中から抜き出てきた帝都であった。
 それでも労使する役人の姿もちらほらあったが、往年の賑わいはない。閑散とした雰囲気が人の世の無常を感じさせた。主無き内裏。
 そこへ、久しぶりに大群衆が集ってきた。今回の西方遠征のために、東国から集められた兵士たちも、こぞって軍船で飛鳥から移動してきた。一度に往年の賑わいを取り戻したかのように見える。
 だが、ここへ寄航するのはほんの数日間だけだ。また、閑散とした都跡へと戻るのに時間はかからないだろう。




 難波津へ降り立ってみると、さらにその広さと規模に圧倒された。東には遥かに生駒の青垣が連なっている。西方には海が。その向こうには六甲の山並みを望む。
 乱馬が生まれ育った関東平野とは少し趣が違うように感じた。
 乱馬は大海人皇子の命じたままに、斉明女帝の近くへと仕えた。とはいえ、蝦夷の女官ということになっている。言葉も上手く操れないと言う設定になっていたので、気が楽だと言えばそうだったが、それでも、女の服装にはそろそろうんざりしてきていた。


「今宵は祓えを行う。」
 唐突に額田王が言った。
「祓え?」
 小首を傾げながら、女官の長でもあった額田王を見ていると、
「祓えは我が皇祖母尊様が天と一体になって行う大事な行事。ゆめゆめ、そなたたち、女官も怠ることなく、つつがなく事が済ませられるように。」
 何十人と言う女人がこくんとうな垂れる。戦地へと赴くとは言え、この第船団には女や関係者の子孫たちがたくさん同行していた。さながら、都がそのまま船で移動しているような壮大さであった。
 そんなところからも、葛城皇子の今回の遠征に対する意気込みが知れようというものだった。彼は真剣に百済を救済するべきと思っていた節がある。長期戦になることも見通していたのだ。
 元々葛城皇子は天神地祇を祀るよりも、仏教にたいして帰依が深かった。仏教に対する崇拝の方が、古来の天皇の祖を祀るよりも優先されるような人であった。
 だが、「祓え」という、古来の倭国の呪法を用いようとしていた。それも、五行博士の進めであったのか、それとも自身の考えの上にたってのことなのか。


 儀式は夕刻以降に行われる。夜には夜の神、昼には昼の神が降臨すると思われていたが、重要な神政は一般的には夜に行われる。
 収穫感謝にも帰依する「新嘗祭」もやはり夜の儀式である。新しい穀物への感謝と次年度への豊穣の引継ぎを祈るために、天皇は一夜、神と共に引きこもって秘儀ともいえる神事を行う。これが新嘗祭であった。
 古代人は夜の闇に聖なる神秘を感じていたのだろう。
 難波長柄豊碕宮の中央部に建立されていた朝堂院の前の前庭部。。そこへ、埋め尽くすとまではいかなかったが、殆どの斉明女帝の女官は、身分の高きも低きも掻き集められた。勿論、乱馬もその中の一人に数えられていた。
 乱馬は額田王の監視下の中で、女装し、本来男が入れぬ奥深きまで入り込んだ乱馬たちは、さりげなく斉明女帝の警護に入った。


「何だか嫌な雰囲気だな。」
 乱馬は思わずそう吐き出した。
 何か潜んでいる。それも、魔物ではなくて人間だ。そう、殺気のような気配をビンビンと感じていたのである。
(こりゃあ、ひょっとしたらひょっとするかもしれねえ。)
 年寄りの砺波の爺さんはこの場へ連れて来なかった。できるだけ他に怪しまれないように斉明女帝の近くへ入り込みたかった。だから、爺さんは足手まといになる。そう踏んだのだ。
 爺さんも己の力量は良くわかっているようで、何も文句は言わず、快く引いてくれた。


 宮地は二重の外壁が内裏を取り巻いていた。広い敷地の中にいくつかの門戸があり、そこを出入りするのだ。
 真ん中に内裏がある形態をとっていたようだが、後の世に出現する「大極殿」は、まだこの時代には出現していなかったという。
 難波宮跡は前期、後期と大まかに分けてその二つの遺構が明らかに違って存在すると言う。まだ、建物の詳しい配備などは、これからの発掘調査に結果を待たねばならぬ部分もあろう。
 内裏の前部には朝堂院と言われる部分があった。広い前庭があり脇に十二堂院と呼ばれる、各省庁の建物のようなものが建てられていた。そこで日々の政が行われていたのだ。
 朝堂院と内裏の間には閤門(こうもん)と呼ばれる門戸があった。内裏は御座所とも言い、そこに大王の居住まいがあった。
 そう、閤門から内側は禁中。よほどのことがない限り一般人の出入りは禁じられていた。




 夕刻が近づく。
 冬の夜は闇が深い。いや、時間の長さと寒さが余計にそう感じさせるのかもしれない。
 荒んだ雰囲気の内裏に立ち、乱馬は厳かな祓えの儀式に臨むべく、入念に準備を始めていた。控えの間に入り、そこはかとなく辺りを伺う。
 周りには着飾った女官たちがひしめいていた。
 舞を舞う者があれば、食事を饗するものもある。みな、それぞれに役割を与えられて、儀式に臨むのだ。皇祖母尊の女官たちばかりだ。
(ここなら敵は紛れ易いかもしれねえな。)
 人に揉まれながら乱馬は顔をしかめた。
 女官たちの数だけに圧倒されたのではない。
(うへ…。女の匂いがきついや…。)


 その頃は勿論、今のように入浴という習慣があったわけではない。湯浴みも女帝ですら毎日望めるものではなかったろう。当然、体臭は今も昔も変わらぬ。となると、高貴な人はお香など炊き込めていたかもしれない。それに、女はそれぞれ化粧というものをしているし、頭に花も飾っている。それらの匂いや食べ物の匂いが入り混じり、会場となる場所は「匂い」が充満していたのだ。
 新鮮な空気が少し吸いたくなって乱馬は思わず外へと出ていた。
 空では星が瞬き始めている。内裏の裏側にほっと佇んでいた。


「やあ、どうした?気分でも悪いかい?」
 その男はにこにこしながら近づいて来た。ここは男性禁制の場だ。
 思わず裙の下に隠し持っている刀を握り締める。
「そんなに身構えなくてもいいよ…。私の主は大海人の君だ。」
 彼はそう言って笑った。乱馬の挙動など見通していると言いたげに。
「大海人皇子様の?」
「そう。私は大海人皇子様の五行博士、小乃東風だよ。響の君。」
 乱馬ははっとして見上げた。
 青年は涼やかに笑いかけてくる。五行博士が何故こんなところをうろついているのか。
「何で私ここに居るって訊きたそうだね。…それはね、君にこれを渡そうと思って待っていたんだよ。」
 男はごそごそと着物をまさぐりはじめた。そして、何やら白い粉薬みたいなものの入った紙を乱馬に差し出した。
「これは?」
「これは、匂いを麻痺させる薬だよ。」
 東風は言った。
「私の占いの卦にこれが必要だと出たものでね。」
「これを俺に?」
 にっと笑う顔。信用して良い者か当然迷った。
「これは嗅覚を損なわせる働きがある薬だ。そう。これを服用すれば、一時的だが嗅覚が鈍る。」
 乱馬は怪訝そうに東風を見上げた。
「毒薬などではないよ。一晩でその効き目もなくなるだろう。…それを服用しておきなさい。そうすれば、異国の道士の術も破れる、私の卦はそう出たんだ。」
 柔らかな笑みの中に潜む雄々しき気配。真っ直ぐに下りる瞳は乱馬を捕らえた。
 信じるか信じまいか。勿論躊躇した。何者かともわからぬ男の差し出した妖しげな薬。木枯らしが乱馬の傍を通り抜けた。
「わかった、おまえを信用しよう。」
 乱馬はそれだけを言い含めると、薬を口へと運び込んだ。甘ったるい味がした。


「これで飲み込んでしまうといい。」


 東風は持っていた竹の水筒を差し出した。そこへ水が入っている。乱馬はそれをもぎ取るように手にすると、勢い良く喉元へ流し込む。ぐぐぐっと喉が揺れた。そして、口元から水が溢れ出す。
 一気に飲み干した。飲み干してふうっと息を吐き出した。


「どうだい?別にどうってことはないだろう?まあ、暫くすれば嗅覚は著しく鈍るだろう。…尤も、何事もなければそれに越したことはないのだけれどね。」
 東風はにっと笑って見せた。
「私はそろそろ行くよ。そういつまでもこんなところに居る訳にいかないからね。」
 これで己の用は済んだとでもいうのだろう。
「後はしっかりやりたまえ。武運を祈る。」
 それだけを言い残すとくるりとそう言うと背を向けた。
 その後に木枯らしが舞い込んだ。


(ああ、正念場だな。絶対に守り通してみせるさ。)


 その背中に乱馬は言葉をかみ殺しながら吐きかけた。


 確かに彼の与えた薬は嗅覚を著しく低下させたようだ。
 宮殿の中に戻ってみると、あれだけ鼻についていた匂いが気にならなくなっていた。行き交う人々は忙しそうに動き回る。
 そろそろ祓えの儀式が始まるのだろう。人々の動きは一層慌しさを増している。
 乱馬は千文と共に、場末に御していた。
 言葉が通じない蝦夷の女官、それが今の乱馬の身の上だ。うろつかれても困るだろうし、宮廷のしきたりなど彼らには無縁と他の女人たちにはうつっていた。
 とにかく、目立たぬように隅に控えている。それが一番だろう。
 内裏の開け放たれた大きな柱の影に座し、中央へと敷かれた祭壇をじっと見詰める。そこに火がくべられ、厳かな儀式が始まろうとしている。
 内裏だけでは人が収納しきれないので、内裏全体が会場になっていた。
 閤門が開け放たれ、その後ろ側に下々の者たちが、そして内裏側には皇子や皇女、采女や女官、そして寵臣たちがひしめき合っていた。
 斉明女帝は一段高い内裏の建物の前に設えられた雛壇の中央に座し、下々の者たちを見据えていた。玉座に座し、じっと佇む。その側を葛城皇子が、そしてその一段下に大海人皇子や他の皇子、皇女たちが座していた。中央には祭壇が設えられていて、丸太が組まれ、火がくべられるようになっていた。


 その様子を木陰から覗き込む不穏な瞳があった。
「そろそろ始めるね。オババ様。」
「ふふふ…。この者たちが一斉にうろたえるさま、さぞかし面白かろう。しくじるなよ、珊璞よ。」
「任せるある。オババ様もよろしく頼むね。」
 そう言うとすっと陰が消えた。




 きらびやかな音楽と共に、儀式が始まる。
 まずは神を招聘するための神楽が舞われ始める。赤や青、黄色といった鮮やかな衣装を身にまとった宮廷の女官たちが、玉串を手に、舞い始める。肩からかけられた頒布がその動きと共に、美しく動き、まるで天上に居るような気分に辺りを高揚させていく。
 どこからともなく、松明を持った武官が現れて、さっと祭壇に火を投げ入れた。良く見るとその武官は阿倍比羅夫だ。直ぐには点火しなかったが、だんだんに焔は上がり始める。
 めらめらと音をたてながら暗闇へと焔は上がっていった。


 その光を受けて、殿上で女官が美しい舞を無心に舞う。
 儀式への誘いである。




 と、その時だった。
 突然、中央で舞っていた女官が倒れた。
 ゆらゆらと待っていた足がもつれ、まるで操り人形の糸が途切れたように床へと倒れ伏したのだ。
 何事かと人々は目を見張り、息を飲んだ。
 だが、倒れこんだ女官はピクリともせず、起き上がる様子だに見せない。
「どうした?舞は舞わぬのかっ!」
 と最初に叫んだのは葛城皇子だった。
 と、踊っていた女官たちは、彼の言葉に合図にされたように、次々とバタバタと床へと折り重なり始めた。そう、他の女官も舞台から転げ落ちるように倒れ始めたのだ。
 それは、悪い夢でも見ているような光景。
 人の倒潰はそれに留まらなかったのだ。中央に炊かれた火壇の近くから順に人々がもんどりを打って倒れて行く。
 見せ付けられた人々の悲鳴と怒号が、広い空間を響き渡った。聖なる空間は一瞬のうちに悪夢へと化した。そう、倒れた女官たちを見て、次々に閤門へと殺到しはじめたのだ。
 パニック状態に陥れられた人々は、われ先へと逃げ始めたのだ。


「千文っ!行くぞっ!」
「はいっ!」
 傍らの千文にそう合図すると乱馬は人の流れとは逆らって動き始めた。
「くっ!」
 流れ込んでくる人を掻き分けて進むのはただ一方向。斉明女帝の居る場所だ。
 女帝は乱馬からそう遠からぬところに据えられた玉座に座していたが、明らかに異様な光景に言葉もなくすくんでいた。
 流れてくる人は乱馬と千文をなかなか思うように動かせてはくれなかった。
「落ち着けっ!落ち着かれよっ!」
 そう叫びながらも急ぐ人々。皆、己の命が一番大事と見えた。


「母上っ!」
 取り巻いていた葛城皇子や大海人皇子がだっと女帝に駆け寄った。
 人々は女帝のことなどお構い無しに、閤門へと殺到する。雪崩れ込むように人々は逃げ惑った。
「あっちへ逃げてはかえって危険だ。こちらへ。」
 大海人皇子は女帝を促す。
 その導きに女帝は椅子から立ち上がった。その時だ。
 壇上に倒れ伏していたはずの女官が女帝目掛けて飛び掛ってきたのだ。手には逃げる様に誰かが落として言った刀を持っている。明らかに女帝目掛けて剣を突き出した。


「貴様っ!気でもふれたか!」
 そう言いながら大海人皇子は母親の大王をかばって身を投げ出した。
 斬られる、彼がそう思ったときだ。


 どすっ!
 鈍い音がして襲ってきた女官が下へと沈み込んだ。
 ふわりと柔らかい絹の上衣が大海人の頬を撫でた。横に倒れこむ女官。口から泡を吹いているのが見えた。
 その女の上に一人の上背のある女衣の人影があった。
「乱馬か?」


 それには答えず、人影は、間髪入れず襲い来る他の女官たちへと拳を振り上げていた。


「なんということだっ!」
 その光景を見ながら大海人皇子は吐き出した。
 中央の祭壇近くで踊って倒れた女官たちが、起き上がると、皆一様に、落ちている武器を手に、こちらへ襲い掛かってくるのが見えたからだ。彼の傍らでは肝を潰した葛城皇子が震えているのが見えた。
「皇子様、しっかりとなさいませっ!」
 その側で中臣鎌足が檄を飛ばした。


「千文っ!おまえはここで皇祖母尊と大海人皇子様をお守りしろっ!」
 乱馬が叫んだ。まだ女装は解けず、艶やかな裙をまとったままだ。
「兄貴は?」
「俺は、この元凶を探り出すっ!まだこれだけでは終わらねえだろうからな。」
 そう吐き出すと乱馬はだっと中央の祭壇目掛けて走り出していった。







第十一話 姓 へつづく






後飛鳥岡本宮
 斉明女帝の造営した宮です。
 「日本書紀」などに伝えられているところに寄ると、斉明女帝は難波から引き上げたとき、最初、飛鳥河辺行宮(あすかかわはらのかりみや)へ居しましたが、飛鳥板葺宮(あすかいたぶきのみや)で即位しました。板葺宮とは文字通り、板で屋根を葺いた宮という意味だったようです。即位とほぼ同時期に今度は小墾田宮(おはりだのみや)を造営し始めます。それまでとは一転して、瓦葺にしようと試みたらしいです。
 瓦葺屋根が一般化している現在とは違って、当時は寺院ですら、殆ど瓦葺屋根の建造物はなかったそうです。しかし、即位した冬、板葺宮が焼失。今度は焼失した板葺宮跡に宮を造営しはじめました。これが「後飛鳥岡本宮」と呼ばれています。また、時代が下り、天武天皇の時代になったとき、この後飛鳥岡本宮の場所に新しい宮が誕生しました。世に言う「飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)」です。
 何故、宮が移動したか。それは、古代社会に於いて、死穢(しあい)の思想があり、統治した最高権力者が亡くなると、新たに宮を造営しなおした風習があったことによると言われています。(これにもいろいろ異説があって決定的な定説とまではいかないようですが…。)
 天皇の即位後とに宮を建て替える。簡単な宮を作っていた時代ならそれでもよかったのでしょうが、大和政権がその支配力を広げるにつれ、一代限りの使い捨ての宮では追いつかなくなり、次第に恒久の宮、都へと転じはじめます。時代は唐の都にならった、藤原京を経て平城京へと進みました。そして、一千年の都、平安京へ。(途中、恭仁京や長岡京なども挟みましたが)
 余談ですが、現在の京都御所の内裏は本来位置していた場所ではないそうです。平安京内を御所そのものは移動したそうです。平安期には現在の上京区千本丸太町あたりに内裏があったと伝えられています。




小乃東風
そりゃあ、この方と言えばらんまキャラ(笑
本作では医者ではなく「五行博士」としてご登場願ってます。
さて、どのような味を出してくれますやら。




黒麻呂
一之瀬創作上のオリジナル人物です。




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