不知火

第一部 邂逅編


 暗い夜明け前。
 まだ辺りは深遠の闇に続いている。
 暁露の中で産声をあげた男児が居た。

「生まれたか…。」
 男は産屋に向かって言った。武人なのであろう。髭を蓄えた顔つきが勇ましい。

「で、どっちだったのだ?」
「男の赤子にございます。」
 産屋に仕えて来た一人の中年女性がそう言った。声は上ずり、か細く震えていた。

「そうか…。男であったか。」
 武人はそれだけを確かめると、ずかずかと産屋に向けて勇み足で歩いていった。

 ざわざわと木立が木枯らしにざわめく。

「約定通り、赤子は連れて行く。」
 まだ、産み終えたばかりで、息が上がっている産屋の産婦から、武人は赤子を取り上げようと身を乗り出した。

 赤子は火が就いたように泣き出す。

「後生でございます。せめて初めての乳だけでもその子に…。」
 憂いを帯びた産婆の目が武人へと手向けられた。
「駄目だ。この子が女子ならば、このままここへ置いておけただろうが、男児として生まれた以上は、連れて行けという命令だからな。それに、乳を一含みでも飲ませれば、母親とて、もっと別れは辛くなろうが。」
 冷徹にそう言い切ると赤子の方へと手を伸ばした。 
 お産を世話していた女性たちが、産婆共々あまりの惨い言葉に、思わずどよっと泣き崩れた。

「わかりました…。それがその子の運命ならば致し方ありますまい…。」

 気丈にも母親は涙一つ見せずに武人に向かって凛とした声で答えた。真っ直ぐに見上げるその瞳には一縷の曇りも無い。

「この子はそなたに預けます。大王様の思し召しどおり、この後はお好きになさいませ。でも、この瑪瑙の勾玉だけはこの子に…。母親としての最初で最後のわがままでございます。」
 産婦はにっこりと武人に微笑みかけた。媚びるような笑顔ではない。子を生むことを成し遂げたばかりの母親の微笑だった。
「勾玉とな?」
 武人は怪訝そうな顔を返した。
「私の一族に伝わる魔除けの玉にてございまする。勿論、何の変哲も無いただの勾玉。今生の別れとなるこの子にせめてもの、母親としての餞(はなむけ)をやりとうございますれば、ただ、一つのわがままを。」
 別れ行かねばならない我が子を前に、産婦は涙一つ見せないでそう懇願した。

 暫く武人は考えていたが、意を決するように言った。
「わかった。勾玉だけは許してやろう。…ただ、この子の命、今日明日中にも無くなるやもしれぬがな…。」
「それでもかまいませぬ。たとえ、この子の命、夜露と共に尽きようとも…。もとより覚悟はいたしております。」
 静かに産婦は言った。
「後は、大王様の思し召しだ。もし許されればこの子はどこか遠国で出生を知らずに生き延びるだろう。たとえ、奴婢と貶められてもな。」

 産婦はそれには答えずに、懐から取り出した勾玉を赤子の胸にかけてやった。赤い血の色の美しい輝き。赤子は出生の母との別れを知るのか知らぬのか、轟々と泣き続ける。
「そなたを育てられぬ母をどうか許しておくれ…。どうか、この母をも見下ろすくらいに大きく育っておくれ…。生きていさえすれば再び見(まみ)えることもあるやもしれぬ。母はその日を信じて生きて参ります。」
 声には出さずに産婦は赤子を最後に抱きしめながら言葉をかけた。

「では、私はこれにて…。」
 男は赤子を抱き上げると、産屋から出て行った。

 泣き声が次第に遠ざかる。

「せめて、無事に、無事に命を永らえておくれ…。そして、いつか母にその姿を見せて…。」

 遠ざかる我が子の泣き声に、自分の嗚咽が重なり始めた。






 第一話  歌垣


一、

 そろそろ朝夕が肌寒い季節になってきたろうか。
 西日に照らされて不死の山が薄い雲煙を上げているのが遥かに見える。

 ここは関東平野の中ほどにある、小さな邑里(むらざと)。
 何の変哲もない中規模の邑(むら)だった。

「なあ、乱馬…。」
 ふと狩りで得た獲物をどさっと地面に投げ出しながら、一人の青年が傍らの青年に語りかけた。
「あん?」
 何が言いたいのかと、乱馬は青年を見返した。鋭い眼光、精悍な身体つきは、邑里の中でも群を抜いている。
 乱馬に話しかけた青年も、それに勝ると劣らぬ精悍さを身に付けていた。
「かがひだよ…。」
 にやっと青年は語り返した。
「乱馬も参加するんだろ?今年こそは。」
「かがひか…。今年ももうそんな季節になりやがったか。」
「どうすんだ?そろそろ嫁も娶りたい頃合だぜ。他の連中だって絶対に今度の歌垣で良き女を娶ってやると鼻息も荒いぜ。」
「良牙は参加する気なのか?」
 乱馬はじっと若者を見返した。
 彼の名は良牙。乱馬と良牙、二人は幼馴染みであり、親友でもあり好敵手でもあった。

「ああ、勿論だ。この里以外の娘と出会える好機なんて、早々転がってるわけじゃねえしな。」
 良牙はふっとほくそえんだ。
「乱馬は出ねえのか?」
 良牙の問いに乱馬はポツンと答えた。
「出たくねえがな…。」
「え?出ねえのかよ…。」
 呆れたと言わんばかりに良牙が見返す。
「出たくねえけど…爺様がな。」
 思い切り苦笑いしてみせる。
「ああ、おまえん処へ同居してる、長老の八宝斎様か。」
「親父をたきつけて、そろそろ乱馬にも嫁を娶らせろってうるせーの何のって…。はっきり言ってよう、余計なお節介なんだっ!」
 はああっと溜息を吐く。
「余計なお節介ってことは…。おまえ、どこかに見初めた女でも居るのか?」
 良牙は好機の目をめぐらせた。
「居るわけねーだろ…。この邑のどこを探せば、抱きたくなるような魅惑的な女が居るっつーんだ。」
 と溜息を吐く。
「確かにな…。見目が麗しくても性格が悪い女とか、手癖が悪そうな女だらけが寄って集ってるようなところだしな…。」
 良牙も相槌を打った。
「だからよう…カガヒを利用しねえ手はねえだろう?」
「で、良牙…。てめえはかがひに参加するって訳か。」
「ああ、はなっからそのつもりさ。かがひはこの辺りの邑から、男も女もこぞって集ってくる祭りだぜ。同じ郷の女以外を手中に収める千載一遇の好機なんだぜ。逃す手はねえだろ?それに…。やっと、俺たちもその参加を認められる年齢に達したんだからよう。」
「たく…。親父はさっさと自分の子を身篭れる女を見つけて来いって言うし、爺様は女っ気のねえ、俺ン家にとにかく若い娘が欲しいんだろうな。あーあ、面倒臭いぜ。」
 乱馬は暮れなずむ夕陽を眺め見た。
「だから、女を貰えばいいじゃねえか。自分の血を分けた子供を抱くってーのは、こう、物凄く嬉しいものらしいぜ…。」
「興味ねえな。」
 素気無く乱馬は答えた。

「良牙ぁ、乱馬ぁ。」
「早く獲物を持ってきなよ。みんな待ちくたびれてんだよーっ!!」

 邑里の女たちがこちらに向かって大きく手を振った。

「ほら、皆さんお待ちかねだぜ。夕飯のおかずをよう。」
 乱馬は投げ出した獲物を再び背中に背負うと、ゆっくりと歩き出した。
「おまえのこと気に入ってる女も、一人や二人はあの中に居るんじゃねえのか?」
「知ったことかっ!」
 吐き出して向かう。
 途端に取り巻く女性たち。
 女たちにとっては、狩りでより良い獲物を狩って来る男は、必然的に「良い男」ということになろう。乱馬も良牙も、この里ではきっての狩り名人だった。まだ若いから向こう見ずな危なっかしいことも多々あったが、若さゆえに乗り越えられる力も持っていた。
 いずれ、どちらかがこの邑のリーダーになる。誰しもがそう思っていたのだ。
 それだけに、競争率が高い青年だった。自然、取り巻きも多くなる。
 我先に女たちは、二人の所へ馳せ参じる。自分が最初にその獲物を預かるのだと言わんばかりに。
 良牙はともかく、乱馬には全く女へ興味が移らなかった。決して男として不能ではなかったのだが、「妻問い」に関してもまだピンと来なかったのである。

 当人が飄々としていても、周りは放ってはおかない。
 これもまた、共同社会の面倒なところでもあった。

「乱馬よ…。貴様、そろそろ身を固めてしまえっ!」
 父親の雲斎が帰る早々、酒を飲みながらそう言った。
「そうじゃ、いい加減、妻問いして所帯を持て。」
 爺様も同調する。
「たく…。どいつもこいつも…。まだ早えよ!」
 と素気無く答える。
「だが、良牙はこの秋のかがひに参加を表明しておるのだろう?そろそろ一人くらい、定期的に通える女性を作っておくのも、男としての大事な勤めぞ。それに、良牙に先を越されてみろ。うかうかしておると、この里の時期邑長の地位を彼に持って行かれるぞ。」
 父の讒言に乱馬は言い放った。
「だから、俺は権力争いには興味ねえって言ってるだろうが。」
 吐き出しながら箸を持つ。
「何を言うか。邑長になれば、いつかはこの常陸の国を治める力をも持てるかもしれぬのだぞ。先頃お見えになった大和朝廷の役人殿も言っておられたろう。大和朝廷の益となる力が欲しいと。そうなれば、難波の宮や飛鳥の宮へだって行けるやもしれぬのだぞ。」
 延々と説教が始まる。
 大和朝廷という言葉に乱馬はますます顔を頑なにした。
「大和朝廷が何なんだよ…。ただの侵略者じゃねえか。」
「こらっ!罰当りなことを言うでないっ!今やこの常陸の国を始め、東国は尽く大王様の領土になっておることは知っておろうがっ!我らは大和朝廷に帰属して、ますます栄えを手に入れたのだ。見よ、この美しき邑里を。稲穂が垂れる黄金の田畑を…。大和の高い濃厚技術のおかげであろうが。だから、滅多なことを申すでないぞっ!!」
「長いものには巻かれろってか…。今まで祀ってきた神を棄ててまでも隷属したかったというわけだ、親父はよう…。」
 一気に不穏な空気が親子間に流れ込んだ。
「何を言うか。今まで祀ってきた神を我らが棄てたわけではないぞ。ちゃんと祀ることは許されておる。」
「だけど、隷属の上での習合じゃねえか。中央には必ず大和の神々が居る。」
「単に中央を大和の神に譲っただけじゃ。何も追い出されたわけではないわっ!」

「これこれ…。食事の際に言の葉を荒げては、御魂も荒(すさ)ぶぞよ。」

 とりなしに入った爺様の言葉に、二人はそれ以上抗うのをやめた。

「乱馬よ、おぬしに一言だけ言っておこう。男というものは女によってその輝きをますます増すものなのじゃ。愛する女という守るべきものができれば、男はもっと強くなる。だから、皆、年頃になると競って女を娶りたがるものなのじゃで…。まだ若いおまえにはその辺りが理解できぬようじゃがのう…ほっほっほ。」

 爺様に諭され、乱馬は黙ってしまった。

「乱馬よどこへ行く。食事はもういいのか?」
 玄馬は席を立った乱馬を呼び咎めた。
「ああ、もういい。これから鏃(やじり)を磨きに行く。自分で使う武器は自分で手入れする。親父がいつも言ってるじゃねえか。」
 そう言うと彼は外へ出た。

 満天の星がさめざめとこちらを照らし出す。

「かがひか…。面倒臭え…。」
 そう言って吐き出した彼の頭上に、一際明るい星が、筑波の峰に向かって流れていった。



二、

 いつの頃から「かがひ」が定例化してしまったのだろうか。
 常陸の国の筑波山は、神代から神の山として人々の畏敬の対象であったらしい。その聖なる山に上って若い男女が互いに出会いを求める。それを「かがひ」と呼び習わしていた。かがいという言葉の他に「歌垣」とも呼ばれている。
 歌垣。それは男女がそれぞれ互いの心情を歌で詠みながら、相手を探し求め、意気投合すると、その聖地で縁を結ぶ。一種の雑婚儀礼のようなものであった。
 筑波峰では、春と秋の二回、かがいが執り行われた。近隣から我もと思う若い男女が集い来るのだ。そして互いに相手を求めて、饗宴が催される。慣習化した一つの風習的行事になっていた。
 乱馬たちの邑も筑波峰を望む地にある以上、このかがひという行事と無関係ではなかった。
 秋津島という小さな島国は、その中でもたくさんの国や郡に分かれていて、それぞれ同じ氏族の中で結婚を繰り返すところも多々あった。生物学的に見れば、遺伝子が近ければ近いほど、劣勢遺伝が出易いのだが、この民族にあっては、そんな遺伝的配慮よりも余所者の血が己らの子孫に流れるのを嫌った習俗もあったという。
 古代史に目を転じてみれば、古代の大和朝廷では、異母兄妹間の結婚が率先して行われていたことに自然に目が行く。ことさら、古代の天皇家は他の氏族の血が混じることを嫌っていたと見える節があるのも、また面白い事である。
 それはさておき、やはり血が濃くなると、いろいろと問題も生じるので、新しい血の流れを呼びこまねばならぬこともあった。
 新しい血は新しい流れを作り出す。そして、後世へとまた新しい歴史を刻み伝えていくのだ。
 交通の便も今ほど発達していない古代。歌垣のような行事は、年頃の男女が出会う場所として、ある程度、神聖視されていたことも少しは頷けようというものだ。また、娯楽の少ない時代にあっては、かがひのような習俗行事は、人々の密かな楽しみでもあった。

 結局、乱馬もかがひへ出ることになった。
 本当は面倒で仕方がなかったのだが、良牙の勧めもあり、また、歌垣へ出ないなら、里の娘を嫁に貰えと、しつこく父親が迫ったので、渋々承知したのである。

「なあ、乱馬よ。」
「あん?」
 狩場で良牙が獲物を待つ合間に、話しかけた。
「おまえ、妻問いの宝はどうした?もう、用意したか?」
「妻問いの宝だあ?」
 乱馬はきょとんとして良牙を見返した。何だそりゃと言わんばかりに。
「ホント、てめえはかがひについて何も知らねーんだな。いろいろ決まりごとがあるんだぜ。」
 良牙はやれやれと言わんばかりに乱馬に目を向けた。
「んなこと言ったって、知らねーもんは知らねー。妻問いの宝ってかがひに関係あんのか?」
「これだもんなあ…。気楽というか何も考えてねえというか。おまえさ、気に入った娘が見つかったらどうする気なんだよ…。」
「けっ!女なんて面倒なだけじゃねえか。」
「だから、おめえはいつまでたってもお子様なんだよ。あのな、歌垣には、妻問いするためにそれぞれ取って置きの宝を懐に忍ばせておくもんなんだぜ。」
「取っておきの宝だあ?何のために。」
「何のためって決まってるだろう?気に入った女に貢ぐためだよ。」
「女にくれてやる宝かあ…。勿体ねえ。」
「二言目には面倒臭いとか勿体無いとかってよう…。宝がなかったら、女はなびかないぜ。」
「別にいいよ。俺。女をなびかせたいだなんて、これっぽっちも思ってねえもん。」
「じゃあ、おまえ…。何のためにかがひに参加するんたよ。」
「別に…。暇つぶしかなあ。」
「呆れた奴だな。」
 良牙は訊く相手を違えたかと思った。
「で、良牙。てめえは何を妻問いの宝にするんだ?」
「俺か…。櫛なんかがいいかと思ってるんだが。どうだろうな…。」
「櫛か…。女が喜びそうだな。」
「乱馬はどうするんだ?」
「さあな…。特に何も用意する気はねえよ。第一、俺は女を見初めるために歌垣へ行くんじゃねえし…。」
「本当におまえ…女嫌いなのか?抱いてみてえと思わないのか?」
「まだ興味がねえだけだよ…。それだけだ。」
「淡白な奴だな…。」

「それより、ほら…。獲物だ。」
 乱馬の目が輝いた。この男は女への関心よりも、狩の獲物への関心の方が深いのだ。
「へへ…。今度は大物だぜ。良牙っ!」
 そこには大きな鹿が動いていた。立派な角を持っている。
 矢じりをじっと引き付けて放つ。ビュンっと音がして矢が鹿の身体に突き刺さる。
「逃がさねえっ!」
 だっと野原へと駆け出す。嬉々として躍動する手足。戦いへと駆られる男の本能が沸き立ち始めるのだろう。女のことなど、正直どうでも良かった。狩りこそ己の命をたぎらせられるもの。乱馬はそう思っていたのだ。

『男というものは女によってその輝きをますます増すものなのじゃ。愛する女という守るべきものができれば、男はもっと強くなる。』
 八宝斎の爺様の言葉がふと脳裏を過ぎった。

(そんなことあるもんか。女なんか居なくても、俺は強くなる。もっと、もっとだ。)

「でやーっ!!」
 果敢にも獲物に飛び込んでいく向こう見ず。良牙は一緒に狩りをしながら、その強引さに目を見張る。
 ささった矢じりを持って、獲物を引き摺り倒す。渾身の力を込めて、剣を振りかざす。鮮血が流れとび、獲物は息絶えた。

「いつもに増して、見事な仕事っぷりだぜ…。たく。おめえだけは敵には回したくねえや。」
 良牙がそう言って八重歯を見せて笑った。



三、

「これ、少しは着るものを工夫してはどうじゃ?乱馬よ。」
 出立しようとする息子に向かって、雲斎は言葉をかけた。
「工夫ったって…。いつものでいいじゃねえか…。」
 乱馬は父親を見返した。
「たく、これじゃからなあ…。そんな造作もない格好だと、おなごが寄っては来ぬぞ。」
 父親は苦笑いした。
「寄って来ずともかまわねえさ。」
「おまえ、何しに筑波嶺へ行きやるのだ?女を娶りに行くのだろうが…。」
 やれやれと言わんばかりに溜息を吐かれた。
 鼻から嫁など娶る気がない乱馬はそれには答えなかった。
 「かがひ」は言うなればハレの場だ。だから、普段着ではなく晴れ着を着て行くべきなのだが、乱馬は無頓着だった。嫁取りに行くつもりはさらさらないので、ハレに相対するケでいいと思ったのだろう。
「せめて、髪の毛くらいまとめて行けっ!」
 父はそう責めた。

 この邑里でも、だんだんと大和朝廷風に髪束ねる者が増えてきた。それが今風だと若者たちもこぞって髪を編む。
 父は暗に、大和風にしていけと言いたかったに違いない。
 だが、乱馬は長い髪をなびかせていたにも拘らず、大和風には絶対に編まなかった。周りが同じ髪型だらけだと、反目したくなる。
 いつもは軽く後ろで束ねているだけだ。父親に身だしなみを言われて意固地になった彼は、変わった髪形を編んでみた。
 お団子があるような、誰もしたことがない髪型。おさげだ。
 大和嫌いな乱馬らしい髪型だった。

 それでもおさげを編んだことで、少し体裁が良くなった。着物はいつもよりこざっぱりした狩衣。
 父親も渋々承知したようだ。

 乱馬は良牙と連れ立って、前の日のうちに邑を出た。
 この邑からは彼らのほかにも数名、筑波嶺を目指して出立していた。皆一様に、それぞれの想いを胸に。

 それこそ、このかがひには、東国中から男女が集ってくる。
 まだ筑波嶺に近い彼らは前日で十分目的地へ到達できたが、中には一週間以上かけてやって来る物好きな連中も居た。
 最近では、大和朝廷からはるばるやってきた、木っ端役人たちも、歌垣に参加するようになってきている。
 この時代には既に全国各地に歌垣があったようだが、その中でも、摂津の歌垣山、常陸の筑波山、肥前の杵島山は三大歌垣として、文献にも登場している。
 筑波山は男体山と女体山の二峰からなり、今でも霊峰の一つとして名高い。山の中腹にある筑波山神社も、縁結びや夫婦和合の神として、広く信仰されている。
 ビル街が立ち並んだ今の世とは違い、古代は、関東平野のどこからでも、筑波嶺を見渡せたという。それだけに信仰の対象となりうる山であった。
 信仰の対象でもある神々が棲む山だからこそ、そこへ集り、和歌を持って求婚することに意義が生じたのかもしれない。

 傍らの良牙は足取りも軽やかに、対して乱馬は気乗りしないまま、対照的に道を行った。
 街道筋はそこここから集ってくる男や女たちの輪が既に出来上がっており、何となく賑やかだった。
 暑かった夏も過ぎ去り、後は冬へと季節は移ろっていく。今は秋真っ盛り。山のそこここで紅葉が萌え初めていた。
 一歩一歩山へと近づくたびに、周りの人々の足も浮き足立っていく。いつの間にか山へ向かう上り口へと差し掛かっていた。今とは違って舗装などない道。日陰には水が溜まり、所々に濡れ落ち葉が積もり、滑りやすくもなっている。
 その山肌を縫うように、目的地へと向かって歩み続ける。

 御幸ヶ原。
 目的地の広場には、そんな名前がついている。少しばかり平らな場所になっていて、そこを中心に人々が輪になって思い思いに佇んでいた。

「乱馬、とりあえず、ここで別れようぜ。」
 良牙が言った。これからは個々人で思うように行動しよう、そう言いたいのだろう。
 勿論、良牙の目的は「女を得る」ことにある。何が面白くて、二人で一人の女を口説けるものか。
「ああ、そうだな…。お互い朝まで好きにやるさ。」
 乱馬も気を遣ってそう言った。いつまでも良牙にくっついて、奴の恋路を邪魔するわけにもいくまい。その辺りはわきまえているつもりだ。
「てめえも、真面目に女を口説けよ。」
 良牙はにっと笑った。
 大きなお世話だ。
 乱馬は心でそう吐き出した。

 どこから湧き出てくるのか。御幸ヶ原は、男と女に埋め尽くされていた。
 それぞれ思い思いに着飾って、少しでも異性の目を引こうとしている。目を輝かせて、これぞと思う相手に歌を歌いかけていく。
 勿論、乱馬も何人かの女性に歌を歌いかけられた。だが、淡白な彼は真面目に返歌すらせず、無言で女性たちをあしらって行く。本当は作法から見ればはみ出したことなのかもしれないが、彼の目的は女になかったので、それも仕方のないことだろう。
 乱馬にふられた女性たちも、しつこく食い下がることはせず、すぐに他のめぼしい男へと渡り歩いていく。これもまた、一種の遊び感覚だ。


 月が昇り、辺りが華やかになる。原っぱに灯された松明が煌々と人々を照らし出していた。
 その人波を避けるように、木陰へ入れば、意気投合した男女がそれぞれ袖を引き合っているのが見える。我慢できずにまぐわっている男女も居るようで、それらしい嬌声なども辺りから漏れ聞こえてくる。
 一種独特の雰囲気だった。

 早く夜が通り過ぎてしまえば良いのに。

 乱馬はどさっと身体を投げ打って、人気がない茂みの中へと身を投じた。鼻から女を漁る気持ちも持ち合わせていない上、歌も苦手ときている。
 このまま妻問いせずに帰ると、父親辺りがぐだぐだと文句を言い連ねるだろう。だが、それはそれでかまわなかった。
 とにかく、歌垣に参加する気にもなれない自分は、ここは場違いだった。

 木陰の上に、星が面白いほど輝いて自分を見下ろしている。


 と、辺りが急に賑やかになった。
 がさがさと人が近づいてくる足音。

「おやめくださいっ!!さっきからずっと、嫌だと言っているでしょうっ!!」

 それは女の透き通った声だった。


 何だと思ってすいっと顔を上げてみた。と、少し先の木の幹に女が一人。追って来た男に対峙していた。

「何を今更。この歌垣に参加した以上、おぬしも男が欲しいのであろう?」
 女の向こう側から男の野太い声が響いてくる。

「私は望んで歌垣に来たわけではありませぬ。」
 女は頑として男を受け入れる気持ちはないようだ。
「望んでいないものなら、何故、この場に居られる?ここに居るということは、やはり男と交わるのが目的ではないのか?」
 男も引き下がる気持ちは持ち合わせていないらしい。

 乱馬はじっと二人のやり取りに聞き耳を立てていた。暗がりから目を凝らすと、男はそれ相応の身分の高い者のようだった。腰に下げた剣がそれを如実に物語っている。

「それに、私はいずれこの辺りを手中に収めた豪族の長になる者だ。察するにそなたは大和の方と見受ける。私も大和で育った者。母は都人なのでな。それで私も大和が恋しくなって来た頃。共に大和の思い出を語らおうではないか…。」
「嫌ですっ!!」
 ばしっと女は男をはたいた。

 気の強い女だな…。
 乱馬は二人のやり取りを観察しながら舌を巻いた。

「ふふ。この九能氏の手のもに楯突くとは。ますますもって面妖な。」
 男は怯む様子も見せない。いや、かえって火を点けられてしまったようだ。
「嫌よと拒否できるのも、身体をあわせるまでのこと。いくらあなたが強くても男の私には勝ち目はありませぬ。」
 勝ち誇ったように男が女へと触手を伸ばしたその瞬間だった。

 石つぶてが一つ、男目掛けて飛んだ。
 ボトッと鈍い音がして、男の腕に石が当たって落ちた。

「何奴っ!」
 男は痛みを堪えながら、石つぶての飛んできた方向を睨み返した。
 そこに見える二つの鋭い瞳。
 乱馬だった。

「たく…。嫌がってる女を無理やりにかよう…。無粋な奴だぜ。」
 乱馬はもう一つ大きな石つぶてを手に持ち、それを掌の少し上に放り投げては掴むことを繰り返しながら男に声を掛けた。

「貴様ッ!横取りするつもりかっ!!」
 男がすいっと剣を抜いた。

「いい加減にしな。ここは神聖なる神の山だぜ。」

「ぬかせっ!」
 男は乱馬に剣を振りかぶって襲い掛かった。
 乱馬は持っていた石を上空へと思い切り投げた。
「でやあっ!!」
 掛け声と共に男が剣を振り下ろそうとした時だ。乱馬はだっと動くと、男の懐へと思い切り体当たりを食らわせた。剣の切っ先は乱馬の直ぐ脇を抜けて、正面へと突き出される。僅かに男の狙いが外れた。その拍子にバランスを失ってぐらつく。だが、男も必死で、足をふんぬと踏みとどまり、差し出した剣を再び乱馬目掛けて横へ付こうとした。

 どすっ!!

「ぐえっ!」
 蛙を潰したような声を上げて、男はその場へと悶絶して倒れこんだ。彼の脳天へ、さっき乱馬が上に投げた石が落ちてきて命中したのだ。
「無念っ!!」
 男はそのままどおっと倒れ伏した。

「たく…。弱っちいクセに俺に勝負を挑むからだ。」
 乱馬はパンパンと着物に付いた土を払った。それから助けた女の方へと視線をめぐらせた。
 月明かりがさっと背後から差してきて、浮かび上がる女の御姿。
 長い髪が腰辺りまで垂れ、美しい赤い衣が身分の高さを物語っている。蒼い光に浮かび上がる顔も、それは美しく、きりっと引き締まった目元や口元は、この辺りのどんな美女にも敵うまいと思ったほどだ。
 目の前に倒した男が執拗に迫ったのも、何となく納得できた。

 運命の邂逅(かいこう)。

 まさにそれであった。


 時は斉明女帝治世の六年、西暦六六〇年九月。
 世はまさに動乱へと時代が激しく流れ初めていた。






第二話 邂逅  へ続く



<用語解説>
かがひ
 男女の饗宴「歌垣」のこと。東国ではこう呼び習わしたそうです。
 一説によると、「かけあひ」の略だと言われています。
 男山と女山との二峰あった筑波山は歌垣の舞台として有名だったようです。
 歌垣(うたがき)とは歌舞遊楽のことで、男女が歌を交わし、かけあいながら、互いに見初めると木陰で契りを結ぶというように、奔放な古代の宴でした。
 万葉集には、この歌垣を巡る恋歌がたくさん残されています。
 なお口語表記では「かがい」と書かなければいけませんが、この作品では「かがひ」と文語で表記させていただきます。



一之瀬の懺悔
 まだ、現時点ではまだ半分も書き遂せていない作品です。見切り発車しました。
 しかも、今までの作品と比べ物にならないくらい、長いし、くどいし、濃いし・・・。
 二次創作ならぬ三次創作と理解してもらった方がいいかもしれません。
 私、一之瀬はこの時代が大好きで、オリジナルでも歴史小説として何作か書こうと試みていた時代設定なものですから、気合だけは入りまくっています。(まさか乱あで書き始めるとは思ってませんでしたが・・・。)
 たかだか二次創作、同人活動に何やってるんじゃ、おまいわ!・・・と突っ込まれそうな壮大なプロットになってしまいました。このまま書きとおすと、おそらく二十話は軽く超えると思われます。いや、もっとかも…。
 歴史小説の手法を用いて、二次創作やるアホはらんま系ネット広しと言えども、多分、私だけでしょう(爆っ!
 無理を承知で乱あにしていますので、原作は全く無視です。借りたのは人間関係だけかもしれません。
 好き勝手書いていきますが、見放さずお付き合いいただければ嬉しいです。


(C)2003 Ichinose Keiko