第五話 幕開け


「こらっ、制多迦っ!」
 乱馬はブツブツと制多迦に対して文句を言い続けていた。
『何だよ…。さっきから。』
 眠そうな声を張り上げて、制多迦が脳内で答えた。
「てめえ、あれほどあかねの部屋へ忍び込むなって言ってたのによ、何であんなところで寝てたんだ?おまえ…。」
 生々しい傷が身体のあちらこちらにできている。あかねに思い切り竹刀で殴りつけられて、ボロボロになったのである。
『いやあ、あかねちゃんの寝顔を眺めているうちにさあ、眠っちまったらしくって…。悪かったな。』
「おまえなあ…。俺がそのせいで、どれだけ朝から痛い目に合わされたか知ってるのか?…たく。夜中にトイレに立った時に寝ぼけてあかねの寝床にもぐりこんだって、怪訝そうに起きてきたおじさんや親父たちには言い訳して、誤魔化したけどよう…。」
『ははは、俺はあかねちゃんには一指も触れてねえで、そのまんまお寝んねしていただけだからなあ…。』
 制多迦はすっとぼけて見せた。彼の詭弁は乱馬を遥かに凌駕している。
「まあな。あかねのパジャマは乱れてなかったから、何とかそれで言い訳が立ったけど…。いや、俺が言いたいのはそんなことじゃなくってっ!」
『いいから、いいから…。』
「よかねえっ!!」

「乱馬よ。さっきから何、一人でぶつくさ会話してるんだ?」
 衣装を着付けているひろしが不意に乱馬へと声をかけた。
「い、いや…別に。」
 乱馬は口を濁して誤魔化そうとする。
「おまえさあ…。この前から独り言多くなってねえか?」
「ははーん、あかねと何かあったのか?今朝から一言も話してねえみたいだけどよう。」
「あ、もしかして、喧嘩かあ?ベッドサイドで機嫌を損ねたとか…。」

「馬鹿っ!んなんじゃねえっ!!」
 つい言葉に力が入る。

「早乙女君。準備は良い?そろそろ本番よっ!!」
 慌しく、市瀬紗江が部屋へと雪崩れ込んできた。

「えっと、頭はそれじゃあねえ…。角髪(みずら)にでも編まなきゃ。」
「はん?」
「あんたは須佐之男役なんだから…。ほら、角髪よ、角髪にしなきゃ。」
「みずらだあ?」
「長髪を両端で止めるやつよ。良く日本史の挿絵にあるような。」
「やだっ!」

 乱馬は思わず強く言っていた。

「あのねえ…。あんたは古代日本の神様の役なの。それらしく見せなきゃ駄目でしょう?」
「でも、嫌だっ!」
「もう、わがままなんだからあ…。まあ、いいわ。髪の毛の形を気にされて、台詞とちられたり、動きが鈍くなるのは嫌だから…。で、台詞は?ばっちり覚えてきたでしょうね。」
「ああ、何とかなる…と思う。」
 ぼそぼそと付け加えた。実際のところ、今朝から制多迦がらみでドタドタとあったので、どのくらいきちんと記憶できているかは自信が無い。だが、この期に及んで、覚えてないとも言えないだろう。己の沽券にも関わる。

 紗江は半信半疑でじっと乱馬を見据えた。

「いいわ…。黒子になって舞台袖に立つから、わからなくなったら目で合図なさい。」

「そうしてもらえると、助かるぜ…。」

「もう!女や男に入れ替わるところは、存分にアドリブで頑張ってくれてもいいけど…。とにかく、最後のキスシーンだけは決めなさいよっ!最初にあたしたちに見せたみたいに…。こう、濃厚なの一発、ぶちかまして…。」
 ひろしや大介など、他の出演者のじと目が紗江を見据えた。
「もしかして…てめえ、それだけを強調するために、この舞台を仕込んだなんてことは…。」
 乱馬もじろりと紗江を見返した。
「観客は常に刺激を求めているの。わかる?」
「演劇ってそんなにいい加減なもんじゃねえだろうが…。ま、いいや…。適当に流さあっ!!」
「だから、流しちゃ駄目なんだってばあっ!キスシーンだけは…。」
「おい…市瀬。嫌に絡んでくるじゃねえかよう…。」

「そりゃあまあ、大々的にプログラムで宣伝されたらよう…。ほれ。」
 横から大介が入口で入場してくる生徒たちに配られた、今日の歓迎会のプログラムをびらっと広げて見せた。
『「本日のメインイベント。生徒会と演劇部、有志による大型古代神話劇「ヤマタノオロチ退治大作戦」』…えらく、鳴り物入りのふれこみだなあ……」
「その先読んでみな。」
 大介に促されて声を出す。
「格闘オロチ合戦、戦います、出雲国のため、愛のため、…。見せます、熱いラブシーン。…生キスシーン…見逃すな!……何だよこれ…。」
 乱馬の手がわなわなと震えた。
「そういうことだ。」
「ま、しっかり、最後くらいはあかねと二人決めねえとな、乱馬よ。」

「今更、演じないなんて言わないでよ…。あんたが演じないなら、他の男の子に須佐之男役やってもらって、是が非でもヒロインのあかねと生キスシーン見せちゃうんだから…。」
 紗江がにっと笑って見せる。
「鬼っ!小悪魔っ!」
「ほっほっほ、何とでも言いなさい。とにかく、あんたたちのキスシーンに、今回の舞台の全てがかかってるんだから…。」
「変なプレッシャーをかけるなっ!プレッシャーをっ!!第一、あかねだって、人前でキスするなんて…。」
「あら、自信ないのかしらん?早乙女君。許婚らしく、ばしっと決めるっていうさあ…。」
「うぐ…。」
 紗江に詰め寄られて、返答に詰まる。
「とにかく頑張ってよね。」
「期待しまくってるぜ。」
「舞台上から俺たちも応援するからようっ!」

 とかく、外野は無責任だ。
 
 はああっと深い溜息を吐いたとき、脳内で制多迦が話しかけた。
『まあ、そう力むなって…。いざっていうときは、俺が手を貸して、背中押してやるからよう…。』
 乱馬にとっては不吉な言葉を投げてくる。
「いや…。いい。てめえはどんなことがあっても、絶対に手出しするなっ!これは俺の舞台なんだからよっ!」
『遠慮するなって…大家と店子の関係じゃねえか!』
「遠慮する、思いっきり遠慮する!てめえが出張ってくると、絶対ロクなことがねえからよう…。いいな、絶対に出張るなっ!!」
『たく…。頑固な奴だなあ…。』
「てめえに言われたかねえやいっ!!」



 そんな楽屋でのやりとりはともかく、暗幕を張られた体育館に、生徒たちは続々と集り始めた。それぞれ、コートへと並べられたパイプ椅子へと鎮座していく。
 そのずっと後方、舞台から真正面の天井付近から、じっと舞台を見詰める妖しい影が一つ。暗闇にふうっと空に浮き上がるように、そいつは立っていた。
 良く見ると、衣服は平安時代の貴族が着ているような直衣(のうし)。髪の毛は長く、後ろに一括りにまとめられ、紐で結われている。そして、顔には般若(はんにゃ)の能面をかぶっていた。鬼の角のある面である。

 だが、彼は実態ではないらしく、薄い煙のような影法師として、そこに在った。当然、生徒たちは誰一人、彼の気配を読み取ることなく、ざわざわと、催しが始まるのを、今か今かと待ち侘びている。
 まだ時期尚早と思ったのか、般若の男はそのまますうっと消えてしまった。


「はあい!エブリバデー、皆さん、ベリーお元気ですかあ?」
 いきなりスポットライトが照らされて、ハワイアンよろしく季節外れのアロハシャツを着込んだ、九能校長がマイクを持って現われた。

「たく…。相変わらず脳天気な校長だぜ…。」
 袖の控え室で衣装を着込んでいた乱馬が苦笑いした。
 校長の開催の言葉を合図に、いろいろ趣向をこらした催しが一斉に花開く。
 風林館高校名物の「私の主張」、各部活動の勧誘挨拶、吹奏楽部の華やかな演奏、合唱部のコーラスなどが続いて行く。風林館には、際立った不良など居ないので、皆それぞれ、笑い飛ばしながらも、束の間の遊楽を楽しんでいるようだった。


「最後は、生徒会と演劇部、及び生徒有志による古代活劇「ヤマタノオロチ退治大作戦!」です。生徒会切っての切れ者、市瀬紗江さん作の脚本による、演劇です。主演は三年F組の早乙女乱馬君。彼の面白い体質を生かしきった演出と、許婚である天道あかねさんとの呼吸の揃った演技をお楽しみください。」
 場内アナウンスが響き渡った。

 その声を聴くと、空の影がふっと般若面の面の男が再び浮かび上がった。

「ふふふ…。やはり、この舞台に上がるのだな…。魔多羅神の贄となる乙女、天道あかねよ…。」
 影は小さく呟く。
「他にも匂うぞ…。あの憎々しい不動明王の気配が染み付いた野郎の匂い…。制多迦もここに居るのか…。それに演目はヤマタノオロチ…。くくく…。実に面白い余興になりそうだな。」
 そう言うと、影は直衣の懐からすっと何か白く長い紐のような物を取り出した。ちろちろと蠢くそれは、影の手に絡みつくようにゆらゆらと揺れる。白い蛇であった。そいつの頭を、指で撫でると、影は何か呪文を唱えだした。そして、息を軽く吹きつけ、手を離した。
 と、途端蛇はしゅるしゅるっと音も無く床へと落ちた。そしてゆっくりと生徒たちの足元を舞台の方へと進み始める。
「くくく…。この舞台…贄の血で赤く染めてやろう。魔多羅神(またらしん)の復活の前祝にな…。」
 そう吐き出すと、すうっと暗闇の中に吸い込まれるように消えていった。



「さて…。あかね。よろしく頼むわ。」
 乱馬は舞台袖に一緒に立っていたあかねに声をかけた。
 こくんと揺れるあかねの頭。今朝方はこっぴどくやられはしたが、この場に臨んでは、そんな小競り合いなど、彼女の脳裏からも消えてしまっているようだった。張り詰めた緊張感が、引き締まった顔からもうかがえる。乱馬はポンっとあかねの肩に手を置いた。自分自身も緊張しているが、大丈夫だと言い聞かせるように。
 それは制多迦のお節介でも何でもない。あかねを労わる少年のごく自然にこぼれた行動であった。
 制多迦は乱馬の中で、じっと会場内に意識を飛ばしていた。耳を澄まし、辺りの気配を伺っている。

『居る…。奴が居る…。どこかでこの舞台を狙ってやがる…。』

 乱馬には聞こえないように、心で呟いた。
 制多迦には魔物の気配がビンビンに迫ってきた。それも、一度遭遇したことのある強い邪気。

『相手は蘇曽(そそ)か…。やはり、完全に消滅していなかったようだな…。』

 嫌な相手だと思った。
 前に倶利迦羅龍(くりからりゅう)を使い金加羅を不動明王界から連れ去って、生贄にしようとした悪鬼。魔多羅神の眷属、蘇曽。
 何故だろう。蘇曽という名前を思い出しただけでも、身の毛が弥立(よだ)つほどの不快感を覚える。前に遭遇した折に、金加羅をさらわれたからだろうか。
 いや、それだけではない、何か危機的切迫感を覚えるのだ。
 制多迦には、まだ、その「感覚」の真意が汲み取れないでいた。
 忌まわしい因縁。その記憶が不動明王によって深く閉ざされ、封印されていることを知らずに居たのである。

 蘇曽という悪霊をこのままのさばらせてはいけない。ただ、それだけは理解していた。この前、完全に調伏していなかったのなら、余計だろう。
 今度こそ、跡形も無く消滅させる。乱馬の意識のずっと下で制多迦は、静かに闘志を燃やしていた。

 大歓声によって、幕は開く。
 主役は乱馬。相手役はその許婚のあかねだ。この二人が動くところ「トラブル」は必ず起こる。風林館高校の生徒たちはそっちを期待していたのである。
 乱馬は角髪(みずら)を編むことなく、おさげのまま舞台へ上がっていた。須佐之男の尊らしく、用意された衣装。黄ばんだ白い色の麻布服にズボン。腰には張りぼての剣。
 ヤマタノオロチのセットの中に、赤間から借りてきた古ぼけた刀剣が隠された。
 この剣を舞台袖で見た時、微かに制多迦が蠢いたような気がした。
「おい、どうした?」
『いや、なんでもない…。いいから頑張れよ。』
 制多迦はこの剣の素性をすぐに見破っていた。不動明王界から消えた宝剣だ。乱馬の目を通して見る剣にうっすらと不動明王の阿字の刻印が見えた。




 舞台は須佐之男が高天原(たかまがはら)から追放されたところから始まる。
 出雲の国、斐伊川の川上の小さな邑に辿りついた須佐之男は老夫婦と出会う。老夫婦は一人の乙女を囲み、涙にくれていた。
 怪訝に思った須佐之男はことの訳を老夫婦に問い質す。
 聞けば、老人はこの辺りを守っていた国つ神、大山津見(おおやまつみ)の子で足名稚(あしなづち)で、妻の老女は手名稚(てなずち)。そして、中央にかしずかれた乙女は櫛名田比売(くしなだひめ)という。
 山河を越えて「ヤマタノオロチ」という八頭、八尾の大蛇が、毎年、己の生贄としてやってきては一人ずつ喰らって去っていくという。二人には八人の姫がいたが、全てオロチの生贄となり、残るは櫛名田比売ただ一人になったという。宝のように育て上げた美しい姫を今宵、ヤマタノオロチに捧げなければならないので、別れを惜しんで泣いていたというのだ。
 櫛名田比売の美しさに、一目惚れしてしまった須佐之男は、姫と娶わせてくれるように老夫婦へ頼む。老夫婦は、彼の条件を飲んで、もし姫を助けることができたら、喜んで須佐之男に姫を嫁がせると約束した。
 さて、須佐之男は、姫を助けるために姦計を案じる。
 己の超能力で、まずは姫を櫛に変化させて己の髪の毛にさして隠した。そして、足名稚と手名稚に命じて八つの門と桟敷を作らせ、その先に酒樽を八つ置かせた。ここへヤマタノオロチの頭を一つずつ誘い込み、酒を飲ませて酔わせ、そこを襲おうというのだ。
 そして、まんまとヤマタノオロチを退治した須佐之男は、オロチの胎内から出てきた草薙の剣を取り、そのまま櫛名田比売を妻に迎え、長い間出雲の国を治め、めでたしとなる。
 一種の英雄譚だ。

 だが、紗江の脚本にかかれば、若干、乱馬とあかね向きに脚色されている。
 途中、台詞につまること数回。だが、何とか紗江やあかねの機転ですり抜けながら、物語はオロチ退治のクライマックスに順当に差し掛かる。
 オロチ役はそれぞれ演劇部員や有志が頭や胴体をこなす。段ボール箱を繋いで、その上から白い大きな布で覆って作った張りぼてのオロチの胴体。それを数人係でごそごそと動かして雰囲気を出す。
 勿論、櫛名田比売に扮する乱馬は、頭から水を浴びせかけられて「女」へと変身を余儀なくされる。
 彼の変身体質を知らない新入生たちは、おおおっと感嘆の声を上げるという仕組みだ。
 彼は女の形のまま、オロチを一頭一頭、酒樽へと導き酔わせる。そういう演出になっていた。

「やあやあ…。オロチめ、酒を喰らって心地良く眠りについた。さて、私は男に戻って、こいつらを一頭一頭胴体から切り離して、退治してやるとしよう。」

 乱馬は必死で覚えた台詞で演じる。
 ここまでくれば、あとは男に戻って、大立回り。それからキスシーンの大団円へと突入する。
 
 裏側ではオロチが酒を呑む不気味な音が響きだす。音響係の手腕の見せ所、いや聞かせ所だ。
 びしゃ、びしゃ、びしゃと音が響き渡る。

「なかなかやるじゃねえか。音響係。」
 乱馬は次のシーンの準備をしながら舞台中央へとさしかかる。

 と、その時だった。

 ライトが一瞬にして暗転した。
 妖しげな青や赤色に照らされていた舞台が、いきなり暗がりになったのだ。

「お、おいっ!ここで真っ暗になるなんて、聞いてねえぞ!」
 そう心で思いながらも、乱馬は目を凝らした。

 と、ひゅっと音をたてて何か白い物体が目の前を通り抜けた。
 えっと思って振り返る。
 何かが舞台の後ろ側へすり抜けた。そんな感じがした。

「な、何っ?」

 辺りが薄暗く仄かに蒼いライトで照らし出される。いや、電気的な光ではなかった。

「な、何だ?このライトは…。」

 と、次に、強い臭気が漂ってきた。
 花の香のような、香水のような強い匂いだった。
 はっとして振り返ると、青白い煙が後ろから漂ってきて、棚引いているのがくっきりと乱馬には見えた。
 本能的に異常を察知した彼は、さっと口に衣装を当てると、息を潜めた。
 途端、その臭気を嗅いだ舞台上の演じ手たちが、次々とたちどころに床へと倒れていくではないか。舞台上の演者だけではない。前を振り返ると、客席の生徒や先生たちも様子がおかしい。皆、だらりとパイプ椅子へ身を投げ出して、気を失っている。

「ふふふ…。さすがに制多迦を胎内に取り込んでいるだけあって、おまえはこの香だけでは倒れぬか。」

「て、てめえは誰だっ!!」

 乱馬は声のした方へと振り返った。
 
 青白い煙の向こう側から、人影がすうっと浮き上がってきた。
 般若の面をかぶったそいつは、じっと乱馬を見ていた。
 奴は人間ではないということがわかった。身体が透き通っているように見えたからだ。

「久しぶりだねえ…。早乙女乱馬。」
 ゆっくりとそいつは口を開いた。

「てめえ、俺の名前や制多迦の名前を知ってるなんて…。まさか…。」

「おや、思い出して貰えたかい。それは光栄だなあ。…そうさ、私は蘇曽だ。前に君らにこっぴどくやられたな。」

「まだ、現世を彷徨ってやがったのか!」

 乱馬はきっとそいつを見据えた。

「くくく…。この前は油断したからねえ。」

 般若の面をかぶったまま、蘇曽はじっと乱馬を見下している。その態度に乱馬は多少ムカッときた。

「今度は何しに現われやがった!」

「おや、私が用があるのはおまえではない。」
「まさか、あかねかっ!」
 乱馬ははっとして周りを見回した。あかねが後ろ側にうつ伏せになって倒れているのが見えた。
「だったらどうする?」
 さあっと蘇曽が両手を広げた。

「させるかあっ!!」

 乱馬はダンっと床を蹴った。

「かかったな。」
「なっ!」

 蘇曽はすいっと印を切った。

 と、ズゴゴゴゴと地面を揺るがすような音響と共に、乱馬の居る空間が歪んだ。床を見ると、赤い凡字がいくつか浮き上がった。

「しまった!魔の結界か…。」

 一瞬揺らめいたかと思うと、舞台がぽっかりとそのまま異空間へとリンクした。
 傍に倒れていた演劇部員たちは、すいっとそのまま、立ち上がり、虚ろな瞳で乱馬を睨みつける。まるで操られた人形のように、一人、また一人。傍にあった大道具や小道具の棒や刀剣を握るしめる。

「行け!」
 蘇曽が空でさあっと手を振りかざすと、彼らは一斉に動き出し、乱馬目掛けて襲いかかってきた。

「くっ!!」

 乱馬は最初に襲って来た、大介をさっと横に交わした。次はひろし。次々にオロチの八頭や八尾役の男子生徒たちが、乱馬を襲う。

「ふふふ、さすがに顔見知りへは反撃できまい。」

(くそ…。このままじゃあ、埒が明かねえっ!)

 乱馬は襲い来る仲間たちの攻撃を紙一重でかわしながら、辺りを見回した。舞台袖のどこかに、彼を男に戻すためのお湯が用意されているはずである。演劇の進行上では、この後、オロチと戦うのに、男に戻る筈だったからだ。
 辺りへと気を配りながら、必死で友人たちの攻撃をかわす。押し倒しても、再びゾンビのように起き上がってくるひろしや大介たち。傷を負わせられない乱馬の方が明らかに分が悪い。

「そうか…制多迦はおまえが女体で居る間は、表に上がれぬか…。」

 乱馬の動きを観察していた蘇曽が、わかったぞと言わんばかりににっと笑った。
 そうである。さっきから制多迦の反応はない。
 それは乱馬が水をかぶって、女に変化していることと、深い関係があった。制多迦の意識は女体の乱馬には何故か浮き上がってこないのである。それは、前回の戦いのときに実証済みであった。

「ならば、もっと存分に楽しませて貰おうかな…。」

 蘇曽は懐から何かを取り出した。それは、横笛であった。黒く塗り染められたそれを能面の口元へ当てると、ふうっと息を吹き込んだ。

 笛の甲高い音がピーヒャララと響き渡った。
 と、乱馬を襲っていた生徒たちが、ゆっくりと沈んで行く。まるで眠りに就いてしまったかのように床へと倒れこむ。と、みるみる彼らの身体が光り始めた。

「何っ!」

 暫く白く光った体は、煙のように光を棚引かせると、長い蛇の身体へと変化し始める。いや、それだけではない、彼らの頭が、それぞれ見事に蛇の頭と尾へと変化していくではないか。みるみるうちにそれらは一続きになり、大きな八つ頭(やつがしら)のオロチへと転じた。

「くくく…。せいぜい、私を楽しませておくれ…。乱馬よ。」

 蘇曽が笛の音をやめると、八頭が一斉に乱馬を睨み付けた。悪い夢でも見ているような光景である。

 しゃああああっと蛇たちは、その頭をめぐらせて乱馬を襲い始める。元は人間とは思えないような生々しい蛇の頭。そして口と牙。

「つっ!!」

 牙に触れた乱馬の衣服がぴっと破けた。と、そこから赤い血が滲み出る。

「どうだ?幻なんかではないんだよ…。尤も、繋ぎは人間の生身の身体だから、おまえが攻撃すれば奴らの肉体も傷つく。念のために言っておいてやるよっ!」

「ひ、卑怯者っ!」

「君がそいつらと遊んでいる間に、私はあかねを…。」

「させるかっ!!」
 乱馬は蘇曽目掛けて気を打ち込もうと溜め始めたが、そこをすかさず蛇たちの頭が襲ってくる。

「くそっ!これじゃあ気を溜めて放つ暇もねえっ!かといってこいつらを攻撃することもできねえっ!」
 
 女乱馬になっているので、動きには敏捷性があったが、ひっきりなしに襲い来る、蛇頭と蛇尾。だんだんと息が上がり始めた。
 八方塞がりである。

「畜生っ!このままじゃあ、あかねが危ない…。」
 と、逃げ惑う先に、金色の丸い物体を見つけた。
「やかん…。しめたっ!もしかするとあれに湯が…。」
 身体を翻してやかんの方へと進もうとするが、蛇頭と蛇尾が邪魔して思うように進めない。そうこうするうちに、蛇の尾が一匹、やかんを引っ掛けてしまい、空へと高く吊り上げてしまった。

「ええい、一か八かだ…。」

 乱馬は何を思ったのか、思いっきり衣装の胸元をはだけてみせた。

「俺の女体を見やがれっ!野郎どもっ!!」

「血迷ったか!貴様っ!」
 蘇曽が呆れ声を出したその時だった。
 乱馬を襲っていた蛇たちの頭や尾の動きがすっと止った。
 じいっと乱馬のはだけ出した女体を、物欲しげに眺めている。
 いくら化物に変化しているとはいえ、元は大介やひろしたち、風林館高校の男子生徒たちだ。女体露出にはその動きも凍り付けられるというもの。咄嗟に乱馬は奇策に打って出たのだ。己の女体をさらけ出して、相手の目を釘付けて動きを一瞬だけでも止めるという、荒業だ。
 案の定、それが当たった。
 八つ頭と尾の動きがピタリと止った。

「しめたっ!今だっ!!」

 乱馬は一匹がすくいあげていたやかんへと蹴りを入れた。

 と、やかんが蓋を開いて、まっさかさまに下へと落下する。すかさず彼は、その真下へと身体ごと飛び込んだ。

 ばしゃばしゃと湯が滴り落ちてくる。
 それを頭の上からひっかぶったのである。

 ガランガランとやかんが、床に落ちて転がった。

「ふん。男に戻りやがったか。」
 蘇曽がすうっと降りてきた。

「ああ…。男に戻った。もう、貴様の好き勝手にはさせねえ。覚悟しやがれ…。蘇曽っ!」
 乱馬は額から滑り落ちてくる湯水を手でさっと拭うと、きっと蘇曽を真正面から睨みすえた。



つづく



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