第三話 招かれざる客人



 はああっと乱馬は大きく溜息を吐いた。
 夜の帳が天から降りてきて、もうすっかり辺りは闇に包まれている。
「何でいつもこうなっちまうんだろう…。」
 と、よれたチャイナ服を恨めしそうに見やる。

 あの後、放課後、ゆかたちと赤間コレクションを見物した後、寒空の中、暖かな気持ちであかねと街を闊歩していた。
 冬山修行の後、あかねとは「好い雰囲気」を保っていた。
 不動明王の滝壷に落っこちて、そして奇跡的に互いに無傷で生還して以来、少しだけ互いの距離が縮まった。少なくとも乱馬にはそう感じられた。
 あかねの堅物のような気の強さも暫くは形(なり)を潜めていたし、天邪鬼的な己の言動も自重していた。
 愛を語らいあうにはまだ若すぎる。不器用なのは相変わらずだったが、当人たちにしてみれば、今の状況でもかなり前へと進展した、そう思っていた。

 なのにである。

 二人を取り巻く周囲の状況は、すんなりと二人の間がなびくことを、許してはくれなかった。

 家族たちは、乱馬とあかねが急速に接近することを「良し」として、優しく見守ろうという共同意識はあったようだが、恋のライバルたちは急転を好ましくは思っては居なかった。まあ、当然と言えば当然の成り行きだろう。
 特に、乱馬を取り巻く複雑怪奇な人間模様は、「あかねとの接近を許すまじ!」そういう風に突き進むのもまた、恋愛戦線の厳しさを物語っている。
 シャンプーと右京と小太刀。その三人娘。
 正月ムードでそれそこらは多少互いの腹を探り合っていた部分があったのだろうが、冬山修行から帰還してからの二人の進展を目の当たりにして、ここいらで「釘をさしておこう」という、暗黙の了解のような共同戦線が出来上がったようだった。

 この日の放課後乱馬争奪戦はいつもより数倍も激しさを増していた。

 仲良く肩を並べて校門を一歩出た途端だった。

「乱馬っ!新春一発目デートするね!」
 まず擦り寄ってきたのは中国娘のシャンプーだ。薄桃色の光沢あるスリットなチャイナ服が妖艶に彼女の愛らしさを引き立てて居た。乱馬でなくとも、男は一瞬目が釘付けになるだろう。股の部分にまで切れ上がった裾から、白い太股が欲情をそそらんばかりにちらりと覗いていた。

「し、シャ、シャンプー…てめえ…。その格好。」
 案の定乱馬は目が点になる。
 その様子にまず、隣のあかねがムッとした表情を浮かべた。

「何言うてるっ!新年初デートはうちとやっ!!」
 ビシッっと飛んでくるお好み焼きの大型コテ。
 きっぷしのよい良い関西弁は久遠寺右京であった。
 あかねと同じく「父親公認の乱馬の許婚」という地位を持つ彼女は、強健な恋敵でもあった。また、彼女は乱馬と幼馴染みという優位な立場も同時に持っていた。
 今日の右京はいつもの個性的な和風戦闘モードのハッピ風な衣装ではない。ましてや男と見紛うボーイッシュな井出達でもなかった。今しがた巨大なコテを投げつけきた逞しさからは想像できない和服姿。それも右京らしく、振袖ではなく、袖が短い留袖の大人の装いだ。薄桃色の着物。これがまた、良く似合っていたのである。
 長い髪の毛は後ろにあげ、和の装い。うなじが美しい。頬には仄かに薄紅を注し、口元の赤い口紅が栄えていた。

 と、黒い薔薇の花びらが、牡丹雪のように上空からひらひらと舞い降りてくる。
 一瞬、乱馬の背中に悪寒が走った。この薔薇が舞い始めると、決まって現われる女が一人。

「ほーっほっほっほ。前座娘が何を…面妖な。乱馬様は私とおデートなさるんですわっ!」
 真っ赤なマントを羽織った変な格好で仁王立ちする九能小太刀だ。

「フン、そんなけったいな格好で乱ちゃんを誘惑やなんて、百年早いわっ!」
「そうね…。そんなの乱馬と釣り合いが取れないね。」

「ほーっほっほっほ。だから身の程知らずの素人は困るのですわ。その貧相な目を円らに明けて良っく見なさい。これのどこが相応しくないものですかっ!!最高のセンスの美を!」

 小太刀はさらりとマントを翻した。
 中身は…。金糸銀糸で飾り立てられた「レオタード」だ。

「それのどこがセンスがええねんっ!」
「そうね、そんなのお笑い種ね。」
「何をおっしゃいますやら。レオタードは身体の美しさを一番栄えさせる美しい衣装ですわ。ほら、この脚線美。あなたたちとは一味も二味も違いますのっ!そうら、乱馬様、お気に召したら、私の身体をどこからでも召し上がりませっ!!」


 傍らのあかねの顔がだんだんとひきつり始め、終いには呆れ顔へと転じる。それでも、体中の何処かから、嫉妬にも似た怒気があふれ出しているのを隠し通すことは出来なかった。

「あたし帰る!」

 完全に機嫌を損ねていた。
 ここであかねをながめすかすような出来た男であれば、喧嘩などにはならないだろう。

「ヤキモチ妬いてるのかよ…。」
 とつい口から出てしまった。
 その一言は、あかねを完全に怒らせるのに充分すぎた。

「そんなの妬いてないわっ!自惚れないでよっ!!」
 くるりと背を向ける。
「待てよ…。あかねっ!」
 その後姿に追いすがるように声をかけようとしたが、三人娘がその前を悠然と立ちはだかったのだ。

「去る者は追わずですわ、乱馬様っ!」
「そや、勝負を投げた者には用はあらへん!」
「さあ、乱馬、私と一緒にデートするねっ!!」
 口々に勝手なことを罵り始める。




 その様子を摩尼宝珠(まにほうじゅ)で笑いながら見詰めている瞳が複数あった。

「ほお…。あの娘の気の強さ、確かに金加羅と良い勝負が出来るな。金加羅と瓜二つだ。」
 摩尼宝珠の主、慧喜童子は制多迦を振り返った。
「いや…。金加羅の方がもっと上を行くように俺は思うがな…。」
 制多迦は苦笑いして言った。
 確かにこの少女も気が強い。それに気高き部分が強くある。だが、常に相手している金加羅の方が聞き分けが悪いような気がした。
 この前は乱馬とは言葉を交わしたが、あかねとは直接関わらなかった。彼女はずっと気を失っていたままだったし、言葉も何も交わさなかったから、この時初めて制多迦はあかねの勝気さを目の当たりにしたのだった。

「で、慧喜童子、てめえはこの状況に、何を望むんだ?わざわざ人間界をその摩尼宝珠にて映し出して居るんだ。飛翔のためのエネルギーはどこから得ようってんだ?」
 制多迦は慧喜童子に畳み掛けた。
「まあ、見ておれ…。あの二人に送った「負」のエネルギーを「正」のエネルギーに転化させれば良いんだよ。」
「負のエネルギーって…。おまえ、まさか、あの二人に喧嘩させる波動でも送ったのか?」
 呆れ顔で制多迦が慧喜童子を見返した。
「少しだけな…。あのあかねとかいう金加羅に似た娘の気を必要以上に乱してやっただけだ。」
「お、おいっ!普通何か罰当りな真似をしない限りは「負」のエネルギーを人間に送っちゃいけないんじゃねえのか?バチを当てるとかいった類以外の…。」
「だから、おまえは恋愛ごとに関して奥手なんだよ、制多迦。乙女心を理解していないから金加羅とおまえも喧嘩ばかりしているんだろう?「負」のエネルギーが強いと「正」に転化しがいがあるってものだろう?何事も劇的な方が効果があるんだよ。まあ、見てろって…。あの二人がどうなるか。」
 再び慧喜童子は手を翳して摩尼宝珠を通して、現世の二人に何かあやしげな気を送り始めた。




 冬の夕暮れは早い。
 北風が吹き荒ぶ都会の夜道を、とぼとぼと歩きながら帰る少年。
 結局は三人娘に追い回される結果となってしまった。
 乱馬にしてみれば、迷惑以外の何物でもない鬼ごっこ。だが、追いすがる三人の鬼はなかなかにしつこかった。

 摩尼宝珠を通して見物していた制多迦も、乱馬が気の毒に思えるほどであった。
「もし、俺と金加羅が人間界へ転生したら、あんな感じになるのかもしれねえな…。ここへは滅多に仏もその眷属も渡ってこねえけど…。」
 制多迦も仏界の若者の中では指折りの「プレイボーイ」というイメージが高かった。本人にその気はないのだが、不動明王の元へ尋ねてくる仏たちにくっ付いてくる供人の眷属の女や男から何度か言い寄られたことがある。
 勿論、金加羅がやきもきすることが処々にあった。
 だが、絶対的人工の少ない神界にあっては、人の動きは稀であり、殆どの日々を、この不動明王界で金加羅と二人で修行しながら明王様にお仕えするのだ。三人一度に言い寄られるなどという、男にとっての花道のような出来事には遭遇したことはない。
 小一時間くらい続けられた鬼ごっこを見物しながら、制多迦は乱馬が気の毒に思え始めた。
「宿主の行状と実情を知るのには、丁度良いだろう?」
 その傍らでは慧喜童子が鼻先で笑っている。
(こいつ、自分に決まった女が居ないことと、誰にも言い寄られたことがないのを根に持ってて、こうやって俺に似た乱馬をいたぶって喜んでいるんじゃねえだろうな…。)
 そう思えたほどである。




 すっかり日暮れた街から、乱馬はようやく振り切った少女たちの気配にほっと一息吐き出した。
「たく…。どいつもこいつも…。」
 自然「愚痴」がこぼれて来る。



「あいつはあいつで苦労してるんだな…。」
「何だ、制多迦、自分自身にあの少年を重ねているのか?」
「うるせえよっ!」



 夕食の間中、隣のあかねは一言も発さなかった。
 対する乱馬も、自分は悪くないと思っているので、始終ムッとした表情を浮かべていた。
 家族たちはそんな二人には慣れっこになっていたので、気にも止めない。
「あ、早乙女君、そこのお新香取ってくれるかな?」
「これかな…。天道君…。わたっ!かすみさんらしくない、このお新香繋がってますぞ、わっはっは。」
「それ切ったのあたしよ…。おじさま。」
「なびきくんか…。道理で。」



「家人は口を挟まずか…。危ういとことには近づかないという、超合理主義な観念が伺えるな。」
「人間なんかそんなものなのだろうぜ…。しかし…。あいつら、一言も発しねえな。強情者同士かあ…。」
「のう制多迦、金加羅とあの少女、どっちが勝気だろう…。」
「知るかよ、んなこと!」



 食後、二人は明後日を向いたまま席を立った。
 二人が茶の間から居なくなると、ほおおっと居合わせた家族たちが思いっきり溜息を吐く。
「たく…。全く進歩しないんだから、あかねも乱馬君も。」
「今回の喧嘩の原因は何だろうね?」
「どうせ、些細なことですわ。犬も食わないっていうような…。」
「奥さんも淡白ですねえ。」
「気にしたって始まらないものね、早乙女のおばさま。」
「当人たちにはわかっているんでしょうから、ほっておけば良いのよ。…あなたっ!!どちらへ?」
「ちょっと…。」
 のどかが玄馬の裾を引っ張った。
「だからっ!ほっておきなさいな。下手に手出ししたら、元の鞘になかなか納まらないわよ。」
「ああ、早乙女君、まさか、先回りして…。だったらわしも…。」
「ダメですよ、お父さんまで。」
 かすみが早雲の袖を引き戻した。



「それなりに気は遣ってるみたいだな。」
「家族だからな。」
「家族か、制多迦からそんな言葉が漏れるとはな。」
「うるせえっ!」



 互いに茶の間から明後日の方へと出てはいたが、それぞれ向かう方は同じだった。
 おそらく、玄馬も早雲もそれを見越して、見張る行動へと出ようとしたのだが、それぞれ奥さんと娘に止められた。下手に手出しするなと、女たちは言いたかったのだろう。
 二人とも一端自分の部屋に戻ると、それぞれ着替えに掛かった。「道着」だ。
 それぞれ武道家の卵として、精進を欠かさない。
 白い道着に袖を通し、そして黒帯を丹田の前で締める。
 不思議と気が引き締まる。
 それから、迷うことなく、道場へと足を進める。



「ほお…。二人とも「武」を嗜むか。」
「なるほど…。だから、乱馬は気を扱えたのか。」
「ほお、人間なのに気を扱えるのか?あの乱馬と言う小僧は。」
「ああ、それも人間にしては一級品だったぜ。」
 制多迦はこの前の騒動を思い起こしながら言った。


 乱馬とあかねは、二人殆ど時を同じくして道場へと足を踏み入れた。
 互いに無言のまま、相手を牽制する。
 先に入って座していたのは乱馬だった。あかねの気配に一瞥を投げたが、それ以上のリアクションは起こそうともしない。彼はじっと、前を向いて座禅を組んでいた。
 あかねも躊躇うことなく、さほど彼から離れていない場所を陣取って、どっかと座った。



「さて…。これからどう出るか。」
「決まってらあ…。ああいう場合は手合わせする…。それ以外ないだろう?」
「ほお…。おまえと金加羅はそうするか。ならば奴等もそう出るかのう。」



 暫く無言で座禅を組んだ後、まずは乱馬があかねへと言葉を投げ入れた。

「俺が悪いんじゃねえからな…。おまえは何を怒ってるのかはしらねえけれどよ。」
 あかねの方へは目もくれずに、真っ直ぐ神棚と「はろい」の文字を見入ったまま吐き出すように言った。
「誰もあんたが悪いなんて言ってないわ!」
 あかねも負けじと吐き出した。
「じゃあ、何で怒ってるんだ?」
「怒ってなんかないわっ!」
「嘘付けっ!ヤキモチ妬いて先に帰りやがって。あの後俺は大変だったんだぜ。」
「そんなの…。自業自得じゃないのっ!」
 その声を聴いて乱馬はすっくと立ち上がった。そして、きっとあかねの方へ眼差しを向けた。
「とにかく…。来いっ!そのへし曲がった勝気な根性、今夜こそ叩き直してやるっ!!」
「面白いっ!直せるものなら、直してみなさいよっ!!」
 あかねも鼻息荒くすっくと立ち上がった。



「ほら見ろ、混沌とした気持ちをずっと腹にたぎらせたまま溜め込むくらいなら、ああやって手合わせして、互いの本音をぶつけ合うのが一番の解決方法なのさ…。」
 制多迦は摩尼宝珠へと視線を落としながらぼそっと言った。
 慧喜童子はそれには答えずに、何かしら意味深な笑みを浮かべていた。



「行くぜっ!」
 珍しく乱馬のほうからあかねへと仕掛けた。
 大抵の組み手は、乱馬が受け側に入って、あかねから攻撃させる場合が多かった。だが、今日は違う。
 乱馬の方から果敢に仕掛けて行った。

 勢い込んで仕掛けてくる乱馬は、相手があかねでも容赦はしない。いや、相手があかねであるからこそ、容赦しなかったのかもしれない。
 普段の軽い組み手とは違う様相を呈していた。いきなり拳の連打である。
 だが、あかねも持ち前の勝気さで、必死で応戦する。息をつく暇も無かった。
「もう、息が上がってきたか?」
 にやっと笑って乱馬が吹きかけてきた。
「まだまだよっ!」
 あかねは歯を食いしばって、乱馬の攻撃をかわした。
 スピードは決してないが、乱馬の攻撃は破壊力がある。シュッシュッと空を切る音がして、少し彼の拳に触れたあかねの髪の毛がピッと後ろに切り裂けた。
 このままでは壁際に追い遣られる。
 そう思ったあかねは、ふんぬっと右足を軸にしっかりと踏ん張った。
「えいっ!」
 そして、身体を低くし、思い切り軸足にしたのと反対の左を跳ね上げる。
 あかねの開脚が乱馬の肩のすぐ脇をすり抜けた。
「このじゃじゃ馬めっ!!」
 乱馬は瞬時にあかねの動きを察知すると、そのまま振り上げられた左足を右肩の上でしっかりと掴みかかった。あかねの足首は乱馬の手につかまれた。
「きゃっ!」
 小さな悲鳴をあげて、あかねはバランスを失った。だから自由な手でも反撃はできなかった。



 その様子を見ながら慧喜童子が金加羅に話しかけた。
「そろそろ、あちらへ飛ぶ心の準備をしておけよ、制多迦童子。」
「あん?」
 二人の格闘に見入っていた制多迦が、きょとんと慧喜童子の方を見返した。
「ガナハチイ・ビナヤカ!」
 慧喜童子は呪文を唱え、そして、空に種字を切った。 
 そうやって気を摩尼宝珠へと送り込んだ。彼が送った気に反応して宝珠がぱあっと赤らかに輝いた。
「お、おいっ!慧喜童子。てめえ、今、何しやがった。何の呪文唱えたんだ?」
 制多迦は慌てて慧喜童子を見返した。
「何、ちょっと、あの乱馬とかいう小僧の「煩悩」へ歓喜天の波動を送り込んだだけだ。」
 慧喜童子はそう言ってにっと笑った。
「ちょ、ちょっと待ていっ!!歓喜天の波動で煩悩を刺激なんかしたら…って…。まさか。」
 制多迦は強張った顔を慧喜童子へと手向けた。
「そういうことだ。」
 悪びれた風もなく、慧喜童子は頷いた。
「くおらっ!てめえ…。純朴な少年になんていう呪文を唱えやがった。そんなことをやったら…。」
 制多迦は慧喜童子の胸倉を掴むと、ぐっと力を入れた。
「仕方あるまい?ここには金加羅は居ないんだから。敵に悟られないほどの小さな波動でおまえを飛ばすためには、これしかなかろう?違うか?」
「おまえって奴は…。慧喜童子。」
「ふふふ、そろそろさっき唱えた呪文の効果が現れてくるぜ。制多迦。」



 乱馬はしっかりと掴んだあかねの足をいつまでも離さなかった。
 何故だろう、目の前でジタバタしているあかねが、今まで以上に愛らしく見える。
 こちらが優勢に立ったにも拘らず、勝気な光を満たして貫き通す彼女の鋭い視線。いつもなら一蹴してさっさと勝負をつけたがるのに、今日は違っていた。
 彼はあかねの足を掴んだまま、身体を前のめりに倒しこんだ。
 ドンッと音がして、あかねの身体が後ろの道場の壁板へと打ち付けられる。
 見方によっては、相当危ないポーズである。怪我をするという意味だけではなく、視覚的にも危なかったのだ。
 暫く乱馬はあかねの足を肩の上で掴んだままじっとしていた。それでもあかねは股に走る裂けんばかりの痛みを堪えながらも、ぐっと乱馬を睨みつけた。
「いい加減、観念したらどうだ?」
 乱馬は壁際にあかねを押し付けながら言った。口元には勝ち誇ったような笑みが浮かび上がる。
「あたしは…観念なんかしないわっ!」
 大きな瞳が乱馬を捉えた。いや口だけではない。左足を掴まれてはいるが、壁に押し付けられて自由になった両手から反撃の拳が突き出された。
「どこまでも跳ねっ返りな奴だぜ、おまえは。」
 勿論、乱馬はその動きを予想していたのだろう。余裕ですいっと彼女の手をかわした。
「うっ!」
 手を繰り出した反動で、バランスを失ったあかねが、再び、壁板へと勢い良くたたきつけられる。一瞬、怯んだ隙に、大きな手でひょいひょいっとあかねの手を絡め取ってしまった。腕を振り上げて万歳させられたように、あかねは壁へと押しやられる。
「ほら、もう後はないぜ。」
 乱馬は意地悪く突き放すように言った。
 それでもあかねは壁に押し付けられて自由を奪われた状態からも、身を精一杯捩じらせて対抗しようとしていた。
「たく…。おまえのじゃじゃ馬にも困ったもんだぜ。でも、この勝負は俺の勝ちだ。」
「嫌よ、まだ終わってない。」
「こんなになっててもか?」
 乱馬はぐいっとあかねの足を自分の方へと引き寄せた。
 痛いのか、あかねはぐっと息を飲み込む。だが、決して「痛い」とは言わなかった。
「たく、強情なんだから。…。もっと素直になれよ。おまえが他の三人にヤキモチを妬いて怒るのはわかるけど。…俺は他の女は要らねえ…。おまえが居れば。」
 そう言って目を細めた。
 その言葉にようやくあかねの身体から怒気が消えうせていく。
 乱馬はようやく、掴み取っていたあかねの左足を解放した。
「あかね…。」
 そう呟きながら、差し込めてくる強い瞳の輝きがあかねを捕らえた。今まで足を掴んでいた左手が、あかねの右頬へと添えられる。
 目の前で輝く乱馬のダークグレイの瞳の中に、星屑の宇宙(そら)が映っているように見えた。
「あかね…。」
 再び呼ばれた名前に反応して、すっと自然に閉じられていく、まぶた。
 二人の熱っした唇にが、ふっと、一つに重なったように思えた、その時だ。



 一筋の光が乱馬の上を燦然と輝いた。
 と、乱馬の意識が一瞬、混濁した。頭を何かに横からぶん殴られたような衝撃が乱馬の脳天を貫いた。

「うわっ!!」
 
 あわせられていた柔らかい唇は、瞬時に離された。

『たくうっ!慧喜童子めっ!何て姑息な方法で、俺を肉体ごとこいつの頭の中へ飛ばしやがったんだっ!!』
 確かにそんな声が脳内へと響く。
『久しぶりだな、乱馬。俺は制多迦童子だ。不動明王界のな…。悪いな、乱馬…。暫くおまえの身体を依代にさせていただくぜ。』
 制多迦が吐き出した。

「へ?」
 乱馬は自分の脳裏に浮かんだ制多迦のと気配に向かってそう声を荒げていた。

「へっ、じゃないわようっ!!馬鹿あっ!!」

 バッチン。

 それはそれは、乱馬がそのまま後ろへと吹っ飛ぶほどに、激しいビンタだった。
 思いっきりあかねの右手が乱馬の左頬に入った。

「あんたねっ!いつからそんな腐れ外道になったのよっ!あたしの乙女心をもてあそんでえっ!!」
 それだけ言い放つと、あかねはくるりと乱馬に背を向け、ドスドスと道場かだ出て行ってしまった。


「何だ?何だ?何なんだ?」
 おさまらないのは乱馬である。
『いやあ…。あかねって女も金加羅さながらにメチャクチャ気が強いな…。察するぜ、宿主の乱馬よ。』
「て、てめえ…。本当に制多迦か?あの不動明王界で会った。」
 乱馬はヒリヒリする頬を左手でさすりながら空に向かって話しかける。
『あ、頭で思い浮かべるだけでおまえの言いたい事は伝わるぜ…。独り言ぼそぼそじゃあ回りに気持ち悪がられるからな。』
「で…。てめえ、何でわざわざ俺に取り付きやがった…。」
『ちょっと一大事があってな…。人間界に来るには誰かの身体を借りるのが一番手っ取り早いんだ。身体を意識ごと浮遊体へと変化させてもらった。暫くおまえの中に居させてもらう。』
「って、何、訳がわからねえことを一方的にっ!だいたい何で俺がてめえの宿主にならねえといけないんだようっ!!」
『ま、追々わかるさ。とにかく、暫く世話になるからよろしくな。』

 制多迦は意識体の下でにっと乱馬に笑いかけた。
 こうして乱馬は制多迦を取り込んだまま、暫く、生活を共にする羽目に陥ったのであった。



つづく



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