第二話 不動明王界の異変



「制多迦っ!!せいたかぁーっ!!」

 麗らかな太陽の下、一人の少女が大声を張り上げて野原を探訪していた。

「もう、どこへ行っちゃったのよっ!!肝心な時はいっつも居ないんだからっ!!こらっ!制多迦ーっ!!」

 ここは乱馬たちの暮らす現世とは一線を画した異世界だった。
 月並みの言葉で表現するならば「神界」または「仏界」。神や仏の眷属が暮らす空間であった。
 だが、乱馬たちの世界と同じように空は存在し、太陽も星も照り輝く。昼には太陽が、夜は月と星が支配する。ただ、違うのは、それぞれの神や仏が支配するいくつもの世界が折り重なるように存在し、それぞれ殆ど人影が無いということだろうか。山や川、野原は存在するものの、人家はない。
 今、少女が或る世界は「不動明王」の鎮座する霊地であった。
 それから、もう一つ加えるならば、制多迦(せいたか)を懸命に探すこの少女。名は金加羅(こんがら)と言った。年恰好や背格好、それに顔つきに至るまで、天道あかねと瓜二つであることを先に述べておかなければならないだろう。
 いや、似ているのは外見だけではなく、その勝気さは現世のあかねそのものでもあった。

 そよそよと風がそよぐ岩陰の草の上で、一人の少年が惰眠を貪っていた。さっきまで、一人で荒修行をしていたのだが、小休止ということで陽だまりに身を投げていた。
 激しい運動の後の麗らかな午後の惰眠。それに勝るものはない。
 うつらうつらしながら、至福の時を過ごす。それがこの少年の極上の時間の過ごし方だった。

 と、俄かにまぶたに浮かぶ太陽の光が遮られた。
 その気配に制多迦はそっと目を開く。

「わっ!!」

 どすっと鈍い音がして独鈷(どっこ)が首もとのすぐ脇へと突き刺さった。髪の毛が数本、独鈷の鋭い先で切られて、ふわっと舞い上がる。

「な、何だ?何だっ?」

 慌てて跳ね起きた少年の目の前に、仁王様とも見紛うような形相で突っ立つ少女が一人。

「制多迦っ!!あんた、またこんなところで昼寝なんかしてーっ!!」

 目の前の少女の鼻息はすこぶる荒い。

「何怒ってんだ?おまえ…。」
 きょとんと見上げる少年の目に曇りは無い。怒られる筋合いなんかねえぞと言わんばかりだ。
「もうっ!!探したんだからっ!!」
 まだ怒りが収まらないのだろう、金加羅は肩がいかりあがっていた。
「何だよ、藪から棒に。…おめえが探してるなんて、こっちは知らぬ存ぜぬなんだからよう…。にしても、そんなに慌てて、何かあったのか?」
 制多迦は金加羅を見返した。
「あったどころの騒ぎじゃないわよっ!!不動明王様が探してらしたのよ。」
「不動明王様がか?」
「ええ、あんたが見当たらないからって、先に不動明王様はあたしにいろいろ言付けて胎蔵界(たいぞうかい)へ旅立たれたわよっ!!それなのにあんたはこんなところで惰眠を貪ってるなんて。」

「お、おいっ!!何だそれ…。不動明王様が胎蔵界へだって?」

 呆けていた制多迦の目に鋭い光が灯(とも)る。

「そうよっ!あんたがここで時間を潰している間に、どうやら大事が起こったみたいなのよっ!それで、大日如来様のところへ行くって、不動明王様、慌てて出て行かれたんだから。」
 金加羅はまだプリプリと怒気を振りまいている。
「大日如来様が居られる胎蔵界へか…。で、説明しろっ!金加羅、何が起こったんだ?」
 制多迦は金加羅へせっついた。
「とにかく、明王様は大慌てだったんで、あたしも良くわからないんだけど…。何でも「魔多羅神(まらたしん)」の封印が解けそうだとか…。そんなことをおっしゃってたわ。」

「な、何だってっ!!」

 制多迦はぐいっと金加羅の腕を両脇から掴んだ。そして、金加羅を揺り動かした。
「詳しく話せっ!!金加羅っ!!」
「ちょっと…。制多迦っ!やだっ!やめてよっ!!乱暴にしないでよっ!」
 バタバタと金加羅が身をよじった。制多迦がどうにかなったのではないかと一瞬思ったほどだ。それくらい、制多迦のリアクションは激しかった。
「あ…。ごめん、つい、力んじまった。…それより、魔多羅神の封印が解けそうだってえのは、本当か?」
 そう咳き込んだ
「ええ…。何でも、ずっと頑丈に封印されていた洞穴が最近、人間の手によって暴かれてしまったんですって。それで、そこにあった封印の呪具が人間の手で持ち去られたんだそうよ。その知らせを聞いて、不動明王様は大慌てで大日如来様のところへ出かけて行ったってわけ。」
「封印の洞穴…。あれはそんじょそこらの力じゃあ暴けないだろ?おい。」
「知らないわよ。そもそも魔多羅神のこともそれを封印したことも!!それに、封印の洞穴がどんなところかもね…。でも、そこが暴かれたんだったら、それだけ人間の文明が躍進したってことよ…。何でも機械とかいうからくり道具の力を人間は自在に使って、地下や山々を平気で掘削する知恵を身に付けたんですってよ。」
「で、洞穴を暴いて封印の呪箱を持ち出した人間が居るってんだな。」
「そういうことになるかしら。まあ、あれは人間が見たらただの「宝物箱」にしか見えないとか明王様はおっしゃってたけれど…。」
「確かに…よほどの事がないと、貼り付けてある呪符も剥がれはしないし、人間には何の箱かもわかりはしないだろうが…。」

「制多迦さあ、魔多羅神の事、や封印の呪箱の事、何か知ってるの?」

 きょとんと金加羅が制多迦を見返した。

「まあな…。昔、俺の一族の長老に訊かされたことがあるんだよ。長老様に、覚えておけ、制多迦って風にな。…だから、だいたい想像はつくぜ。」
「ふうん…。」
「それよか、呪箱が動かされたとなると、確かに不味いな…。万が一、魔多羅神の復活へ繋がったら大変だぞ…。」
「そのさあ、魔多羅神って何なのよ…。一体。」
「破壊神だよ。その昔、神界、現世、冥界を全て破壊しようとした禍々しい悪の神だ。訊いたことねえか?…。」
「知らない。訊いた事なんかないわ。」
「暢気な奴だな…。それでよく不動明王の童子が務まるぜ。」
「知らないったら知らないの。第一、末席の第八童子のあんたが知ってる方が不思議なのよね。その何たらっていう破壊神のことを。」
「魔多羅神だ。」
 制多迦は苦笑した。
「で、不動明王様は何か俺たちに言い置いて行ったのか?」
「ええ…。それが。」
 金加羅はふっと言葉を止めた。何か躊躇いを持つような間のおき方だった。
「何だよ。そのことを俺に告げるために、わざわざ探しに来たんじゃねえのか?」
 制多迦は金加羅を見返した。
「まあね…。でも、そんなことしちゃっていいのかなって…。」
「いいも何も不動明王様のお言いつけなら、実践するしかねえんじゃねえか?おい。それが不動明王に仕える者の役目だろうが。」
 制多迦の迫る瞳に、金加羅はすいっと一つ、大きく息を吸い込んだ。
「そうね、不動明王様が言ったんだから…。まっいいっか。あのね、不動明王様はねあたしたちに、「現世」へ行け…って言い残して胎蔵界へ行かれたのよ。」

「な、な、なんだってえっ!!」
 制多迦は再び大声を張り上げて大きくのけぞった。

「ちょっと、そんな大声張り上げないでよ。びっくりするじゃないっ!!」
「嘘だろっ!冗談きついぜっ!!」
「冗談なんかじゃないわ。真顔でそうおっしゃったんだもの。」
「本当に俺たちに現世へ行けって言ったのかよ…。不動明王様はっ!!」
 あんぐりと大口を開いた。
「ええ…。ほら、この前来たでしょう?結界を突き破ってここまでさあ、人間が。」
「ああ、あの乱馬とかいう女に変化する変な人間とその許婚か?」
「明王様が言うには、彼らがさあ、結界を突き破ってここまで落ちてきたのも、もしかしたら、今回の前触れだったんじゃないかって…。」
「前触れねえ…。で、まさかと思うが…。俺たちがあの人間たちと融合して…なんてこと…。」
「ご名答!同じ顔立ちをした者同士、気の波長は合うだろうから、彼らを依代(よりしろ)にして人間界へ様子を見に行って来いってさ。」
「ひえええ…。勘弁して欲しいぜ。何で俺が人間を依代にして…。それもあの乱馬とかいう奴、女に変化する変な奴だったじゃねえかっ!!」
「不動明王様がおっしゃってたけど、多分、あの乱馬って少年は「呪泉郷」の泉に溺れたんだろうってさ。…いいじゃない、面白そうじゃないの。」
「おまえなあ…。人事だと思ってよう…。」
「大丈夫。あたしも一緒だから。ほら、あかねって少女を依代にして、一緒に行くわ。」
「何が大丈夫なもんか。おめえが一緒だったら余計におぞましいじゃねえか。」
 ぼそぼそっと言った制多迦に金加羅はせっついた。
「ぬあんですってえ?何がおぞましいのよっ!あーっ!もしかして、あんた…。乱馬って少年に憑依して、人間界の女の子に手を出そうだなんて、不埒(ふらち)なこと思ってんじゃないでしょうねえっ!」
「あのなっ!どっからそんな発想が出てくるんだよっ!!人間界へナンパしに行けって不動明王様が言ったんならまだしも…。」
「言ったらナンパする気?」
「だああ…、しつけえんだよっ!!おまいはっ!!それより、急ごうぜ。人間界へ飛べって直々に明王様に言われたんなら…。ほら。」
 制多迦はすっと金加羅に手を伸ばした。
 自在に空を飛ぶためには、二人の唇を合わせなければならない。暗にそれを言おうとした。まだ修行中の二人には、一人で空を飛ぶには力が不足していたのである。二人の力を最大限に引き出すためには、呪文を唱えて口付けを交わすのが手っ取り早かった。ましてや、今回のように異次元空間を越えて行くには、かなりの超力を使わなければならない。
「ま、いいわ。あたしが一緒に行って、あんたの行動をちゃんと全部チェックしてあげるから。」
「はあ…。お目付け役つきかよう…。とにかく、行くぜ…。金加羅。」
 すいっと互いの瞳を真正面から見据える。自分の顔がそれぞれの相手の瞳へと映し出されるのが見えた。
 制多迦を真っ直ぐに見据えていた金加羅。
 と、その時だった。
 空から一筋の光が射し込めて来た。

「えっ?」

 金加羅の視線が制多迦の瞳から反れた。いや、それだけではない、その瞬間、ぐいっと何か強い力に引っ張られて行くのを感じたのだ。

「きゃああああっ!」

 それは瞬きをするくらいの出来事であった。
 射し込めて来た光は一瞬のうちに金加羅を捕らえると、そのままその場から引き剥がした。

「金加羅っ?」
 制多迦がぐいっと手を伸ばす間もなく、金加羅の身体は空へと舞い上がる。
「金加羅っ!!」
 制多迦が力の限り叫んだ。
「制多迦ーっ!!」
 舞い上がった金加羅も叫んだ。

『ふふふ…。この童女は私が貰ったぞ。小僧っ!』

 光が喋った。

「な、何だとっ?」
 制多迦は光に向かって金剛棒を投げかけた。
 だが、龍から放たれた光はその金剛棒を、ぐいっと制多迦の方へと押し戻した。

「うっ!!」
 制多迦の左肩に金剛棒が突き刺さるように押した。左肩に痺れが走った。思わず制多迦はその場にうずくまる。

「制多迦ーっ!!」
 声の限り金加羅が叫んだ。
 
「畜生っ!金加羅ーっ!金加羅ーっ!!」
 肩を抑えながら制多迦はぐっと空を睨みすえた。
「さらばだ、小僧っ!」
 にいいっと光が笑ったように見えた。
 と、一瞬、眩い光が金加羅を覆った。そしてぱあっと解き放たれるように光を放つと、空へと溶け込むように消えてしまった。

「金加羅ーっ!!」
 そのまま、制多迦はもんどりを打つように地へと倒れ伏した。
「畜生ーっ!!畜生ーっ!!」
 空を仰ぎながら、痛みに気を失っていった。






「旦那…。制多迦の旦那っ!」
 呼び声にふと浮き上がる意識。
「迦楼羅(かるら)か…。」
 制多迦は声の主を認めて言葉を吐き出した。右肩が引き千切れんばかりに痛い。
「大丈夫かい?制多迦。かなり深手を負ってるみたいだけどさ。」
 大きな赤黒い鳥が目の前で心配げに見下ろしていた。
「ああ…。何とか冥土には行かずにすんだらしいや…。突き刺さった金剛棒は縁の方だったからな。これが先っちょだったら、今頃くたばっちまってたかもしれねえけど…。」


「たく、だらしがないな…。制多迦は。」
 清涼な声が背後で響き渡った。迦楼羅のものとは違う声だ。

「…慧喜童子(えきどうじ)。」
 目を見張りながら乱馬は声の主に向かって吐き出した。
「何で、第二童子のおまえがここに来たんだ…。」
「ゾンザイな言い方だな。不動明王さまが胎蔵界へ立つ前に私の元へと立ち寄られて、おまえたち二人だけだと不安だから手助けしてやれとおっしゃったんで、わざわざ金剛界から出向いて来てやったんじゃないか。」

 慧喜童子。不動明王の八大童子の一人、第二童子である。すらっとした身体に涼やかな瞳。そして、通った鼻筋。嫌味なくらい聡明で気品が満ちた童子だった。乱馬はどうもこの兄弟子、慧喜童子は苦手であった。

「不動明王様がおっしゃったとおりだよ。制多迦…。おまえ金加羅を連れ去られたのか。倶利迦羅龍(くりからりゅう)の奴に。」
 と鼻先で冷たく笑った。
「倶利迦羅龍だって?」
 乱馬はまだ痛い身体をくねらせて慧喜童子へと問いかけた。
「ああ…さっきの光は倶利迦羅龍のウロコだ。…もしかしてそんなこともわからなかったのか。」
 この人を見下したような言い方。
「くそう…。倶利迦羅龍だったのかよ。あの光…。」
 乱馬はドンっと地面へ拳を一発沈めた。
「まだまだ半人前だな。おまえは。制多迦。…だから金加羅を奪われるんだ。」
 やれやれと言わんばかりに慧喜童子は制多迦を見返した。
「倶利迦羅龍…。あいつ、不動明王様の眷属じゃなかったのかよう…。不動明王様の眷属の龍が何だって金加羅を…。」

「たく、脳天気な奴はこれだから困るんだ。おまえ、倶利迦羅龍が現われたというのはどういうことかわかってないのか?」
 慧喜童子は眉間に皺を寄せた。
「倶利迦羅龍に与えられた勅命を言ってみろ。」
「あ…。そうか。」
 制多迦は慧喜童子が言わんとした事にピンときた。
「そうだ。倶利迦羅龍に与えられた勅命、それは魔多羅神の永遠の封印。その煙火で強固な封印を作り、そしてそれを守ることだ。倶利迦羅龍は不動明王様の焔に包まれた神龍。それがここへ現れたと言うことは…。」
「誰かが封印を解いた…って訳か。」
「やっとわかったか、制多迦。…そうだ、奴が現われたということは、魔多羅神を封じ込めた蒔絵箱の封印が解けたということだ。」
「でも、倶利迦羅龍の奴、何で金加羅をさらって行ったんだ?」
「だから、おまえはまだ修行が足りぬのだ。修行とは何も肉体だけを鍛えるのではないのだぞ。智慧も鍛えなければならない。なのに、おまえときたら…。まあ、そんなことはどうでもいい。倶利迦羅龍の法力は半端ではない。だが、長年暗い蒔絵箱の中で、滅びたとはいえ魔多羅神の残留する気を復活させぬように、抑えてきたのだ。長年の間に少しずつ邪気が倶利迦羅龍を蝕んでいたことは容易に想像できるだろう?それが解き放たれた一瞬のうちに、倶利迦羅龍の精気が邪気に包まれてみろ。」
「そうか…。魔多羅神の使い魔に変化してしまうことも充分考えられるってわけか…。」
「そういうことだ。恐らく、封印と共に蘇った邪気が倶利迦羅龍を操ってるんだろうよ。式神としてな。」
「まさか、倶利迦羅龍を操ってるのは魔多羅神なんてことは…。」
 乱馬ははっとして慧喜童子を見上げた。
「いや…。いくらなんでもそれはなかろう。たとえ蒔絵箱の封印が解けたところで、すぐに魔多羅神が復活するわけではない…。業火に焼かれて滅したからな。…だが、封印が解けたと共に、魔多羅の眷属が動き始めたことだけは確かなようだ。」
「じゃあ、魔多羅神の眷属がその復活を願って封印を解いたとでも…。」
「ああ、おそらくな。魔多羅神を滅した時に、完全に浄化できなかった眷属が影で蠢いているんだろうよ…。忌々しい奴らめ。」
 慧喜童子は苦々しく吐き出した。
「じゃあ、何でそいつは金加羅をさらって行ったんだ?」
 乱馬は慧喜童子へと食い入った。
「恐らく、魔多羅神を蘇らせるための「贄(にえ)」として金加羅が選ばれたんだろうな。そう解するのが妥当だろう。」
「贄…。」
「まだ大丈夫だ。金加羅は強い。あれだけ勝気な女だ。そんじょそこらの呪術で落ちるような女子(おなご)ではないからな…。ま、その辺はおまえが一番良く知っているだろう?制多迦。」
 慧喜童子はにっと笑った。
 制多迦はむっとしたが、言葉には出さなかった。
「いずれにしても、呪儀を行える満月の夜までにはまだ間があるからな。」
「満月…。」
「ああ、闇の力が強まる満月の夜に、奴らは何かしら行動を起こすだろうさ。金加羅もそれまでは大丈夫だろう。だが…。それを過ぎたら金加羅の命の保証はない」
「時限は満月までか…。」
 こくんと揺れる慧喜童子の頭。
「私が思うに、奴らは人間界に居る。」
「人間界?」
「ああ…。魔多羅神の眷属とはいえ、まさか仏界へ直接侵入できる超力はまだ持って居まい。だから、倶利迦羅龍を使って金加羅をさらったんだ。倶利迦羅龍は元々、我らが不動明王様の式神だからな。それに、人間界が一番邪気を孕みやすい。勿論、地の世界も闇を孕みやすいが、蒔絵箱が封印されていたのは人間界だ。地の世界へ潜るには、人間界を脱せねばならんからな。だが、奴らはまだ人間界から脱するだけの超力を持ってはおらぬ。だから、制多迦…。」
 慧喜童子は改めて制多迦を見た。
「おまえは人間界へ行け。そして、倶利迦羅龍の気配を追うんだ。そうすれば龍を操る奴の正体がつかめるだろうし金加羅も助けることができるだろう。…勿論、不動明王様も始めからそのつもりだったようだからな。」
「ああ…今すぐにでも…って言いたいところなんだが。金加羅がここに居ない今は、飛翔の真言が使えねえ…。慧喜童子、おめえに頼むのは反吐(へど)が出るんだが…。」
「それが兄弟子に言う言葉か?制多迦よ。…始めから不動明王様は金加羅がさらわれることを想定なさっていたのかもしれんなあ…。良いだろう。手を貸してやろう。」
 慧喜童子は懐から摩尼宝珠(まにほうじゅ)を取り出した。摩尼宝珠。それは雨だれのように先のとんがった水晶玉だ。慧喜童子はそれを高らかに差し上げ、太陽の光へと翳した。そして、もぞもぞと聞こえない声で呪文を唱えながら何かを念じた。

 と、玉の中に何かが映し出された。

「これは…。」

「おまえの人間界の依代になる人間、早乙女乱馬だよ。こいつの利点は、本性は男だが女に変化できることだ。おまえも知っての通りな。」
 そう言って慧喜童子はにっと笑った。俺は何でも知っている、おまえがこの少年と出会ったことも全てと言わんばかりにだ。改めて嫌味な奴だと制多迦は思った。
「私が呪文を唱えて飛ばしてやるのも良いが、飛翔呪文は相当な気のエネルギーを必要とする。よほど修練した者でなければ、筒抜けとなるからな。私だってまだ修練が足りているとは言いがたい。下手すれば奴らにこちらの動きを知られることになる。…だからあまりエネルギーを必要としないこの方法を取らせてもらう。」
 そう言うと、慧喜童子は右手を摩尼宝珠へと翳して包み込むように掌を開閉させはじめた。
「な、何をする気だ?慧喜童子。」
「まあ、見ておれ…。なかなか面白いぞ。」
 そう言うとまた、慧喜童子はにっと笑った。
 何が始まるのか。制多迦童子はじっと目の前の掌大の摩尼宝珠へと真摯な瞳を手向けた。



つづく





慧喜童子
不動明王の八大童子の一人。第二童子というのは創作です。左手に摩尼宝珠、右手に三鈷杵を持っています。福徳の徳を現す。福徳と智慧の二つをもって喜びとする。と言われる童子です。
脳内イメージでは九能ちゃんの顔で浮かんでいるのですが…。


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