◇制多迦と金加羅 弐の章 闇の胎動


第一話 不思議な巻物



 真冬の最中とは思えない、麗らかな昼下がり。
 少年が前についっ伏して午後の惰眠を貪る教室の窓辺。遮る物が何も無い南グランド側の座席は、極上の特別席。彼の前には無造作に開かれた教科書とノートが雑然と置かれている。
 遠くに聞こえるのは、担当教師の単調な声。

「ちょっと、乱馬…。」

 少年が眠っているのが気になったのだろう。隣から一人の少女が、ツンツンと肘で彼を揺り動かす。

「う…ううん…。」
 その振動に彼は鬱陶しげに顔をしかめた。
「起きなさいよ…。ほら。」
「うるせえよ…。俺は山修行で疲れてるんだから、このまま見逃して寝かせてくれ。」
 少年はぷいっと横っちょへ顔を背ける。
 そう。ついこの前、冬篭り修行へ行って帰ってきたばかりだ。いろいろあって寝不足が溜まっていた。
「もう、乱馬ったら!疲れてるのはあんただけじゃないわよ。」
 一緒に修行をしてきたあかねはそう言ってしつこく揺り動かす。が、彼は一向に起き上がろうとしない。

「いい加減にしなさいったらっ!乱馬っ!」
 つい荒げた声。

「こらっ!そこっ!何やってる!」

 壇上の教師の怒声が飛ぶ。
 一斉にクラスメイトたちがあかねの方を見やった。その隣で堂々と乱馬が寝ている。

「は、はい…。すいません。」
 ちらっと横を見ながらあかねは答えた。

「たく…。またこいつか。」
 つかつかっと教師は乱馬の脇に立つ。
「こらっ!早乙女っ!」

 ポカッと乱馬の後頭部に拳骨を喰らわせた。

「な、何だ?あかねっ!」
 がばっと起き上がる乱馬はまだ寝ぼけた目をきょろきょろと辺りに巡らせた。
「起き抜け一番に許婚の名前か…。おまえは。」
 教師が苦笑しながら乱馬を見下ろしているのと視線がぶつかった。
「たく…。天道も大変だな。こんな奴と将来所帯を持つんだから。ほい、しっかり授業を聞けっ!早乙女っ!」
 半分からかい口調の先生の声にクラスメイトたちがクスクスっと笑い出した。
 その傍ら、あかねはばつが悪そうに真っ赤になって俯いた。



「もうっ!あんたのせいで、赤っ恥かいちゃったじゃないのっ!!」
 授業が終わると、あかねは乱馬にそう声をかけた。
「……。うーん。おかしい。」
 帰り支度をしながら乱馬はふっと漏らした。
「おかしいって何が?」
 きょとんとあかねは乱馬を覗き込んだ。
「いや、赤間の野郎、えらく機嫌が良かったじゃねえか。」
 乱馬はそう言いながら小首を傾げる。
「そう言えば…。」
 あかねはそんな彼を見上げながら一緒に小首を傾げた。
「だろう?あいつ、いつもだったら容赦なく『早乙女っ!眠気覚ましに廊下へ立っとけっ!』とか『明日までに特別課題としてレポート提出!』とか、無理難題言うじゃねえか。それがよう、今日は「しっかり授業を聞けっ!」だけで終わってやがんの。…変だと思わねえか?」
「うーん、そうね。いつもなら愛のムチとか言っていろんな課題出してくるものね…。」
「今日はすいっと見逃してくれたというか…。」
「あたしはとばっちり受けて恥かいちゃったけど。」
「そんくらい良いじゃねえか。」
「良くないわよっ!…でも、本当に赤間先生、何か良いことでもあったのかしら…。」

「それはあれね。」

 背後でゆかの声がした。あかねの親しい友人の一人だ。
「何か知ってんのか?」
 乱馬がちろっとゆかをかえりみた。
「まあね…。地歴部の子が言ってたんだけど、赤間先生、この正月休み、中国へ行って来たんだって。」
「ほお…。中国ねえ。」
「で、土産に面白い骨董品をたくさん購入してきたんだって。」
「骨董品だあ?」
「あら、あの先生、骨董マニアで結構有名なのよ。」
 ゆかが教えてくれた。
「何でも、家に行ったら、曰くありげな仏像だの古文書だの巻物だの、たっくさんあるんだってさ。」
「へえ…。知らなかったなあ。」
 あかねも目を丸くしながらゆかの話に耳を傾ける。
「で、国内ならまだしも、外国から持ち込むときは、ほら、いろいろさあ、ややこしいことがあるじゃない。文化財の流出を保護するための法律とか税金とか…。何でも今回も税関で引っかかったらしいんだけど、何とか難しい問題をクリアして、持って帰って来られたんだって。で、ここんところずっと機嫌が良いんだってさ。」
「単純な奴だな…。」
「あら、乱馬君。人間なんて所詮そういった生き物よ。即物的というか、厳禁というか。あんただって、良いことがあったら上機嫌になるでしょう?…ううん、あたしが見たところ、この冬休み進展みたいなことあったんじゃないの、あんたたちさあ。」
「ばっ…。そんなことはねえっ!」
 乱馬が狼狽して声を張り上げた。
「ふふふ、本当、乱馬君ってわかりやすい性格してるんだから。ね、あかね。」
「ゆかったらっ!」
 真っ赤に熟れた顔をあかねがゆかへと差し向ける。
「乱馬君だけじゃなくってあかねもわかりやすい性格よね。…ま、そんなことより、何でも赤間先生、その骨董品コレクションの一部をさあ、今日、風林館高校(ここ)へ持って来てるんだって。」

「へ?」
「え?」

 乱馬とあかねは首をもたげた。

「地歴部の子が言ってたけど、九能校長が見たがってたんで、自宅から持参してきたんだってさ。」

「九能校長があっ?」

 乱馬は声を荒げた。
 九能校長。どちらかと言えば、ハワイアンに傾倒する変なダンディー中年。「風林館高校の蒼いイカヅチ」こと、九能帯刀先輩の実父でもある。
 九能校長と骨董品コレクションとの関係が、ミスマッチだと思ったのだ。

「何か、面白い物ばかりなんだってさ…。せっかくだから、あかねも乱馬君も見に行かない?」
 ゆかがそう声を掛けた。それが狙い目だったらしい。

「くっだらねえっ!」
 乱馬はそう言ったが、あかねは続けざまに言った。
「そうねえ…。赤間先生があんなに嬉しがってる品物だもの。あたしは見てみたいような気もするわね。行ってみようよ…乱馬さあ。」
「おめえ物好きだな。」
「いいじゃない!またと見られない物があるかもしれないじゃない。」
「ま、いいか。面白そうな物が確かにあるかもしれねえし…。」
「決まりね。」


 ゆかに先導され、向かった先の地歴部の本拠地、社会科教室。そこには、物見遊山の生徒や先生たちがひしめいていた。さながら、何かの展覧会のような具合になっていたのだ。今日ばかりは他の地図や資料たちは隅っこへと追い遣られ、折り畳み机の上に、博物館よろしく、いろいろな古美術品が並べられていた。中でも仏像や仏画などの仏教関係の骨董品がやたら目に付く。

 九能校長が変な英語訛の日本語を赤間にぶつけている。
「ヘイ、ミスター赤間、今日は貴重な物をたくさんありがとうゴザイマース。目の保養になってマース。ミーのスチューデント諸君、その円らなおめ目、かっぽじって貴重な物、見せてもらいなさーい。」

「相変わらずだな…あの変態校長。」
 乱馬は苦笑いしながら教室へと足を踏み入れた。
 確かに、いろいろな古美術品や骨董品が所狭しと並べられている。
「しかし…、良く集められたものだなあ…。」
「何でも赤間先生のご実家はお寺さんで、この手の仏教関係の古美術品はたっくさんあったそうよ。」
 ゆかが説明してくれた。

「へえ…。お寺さんかあ。」
「すっげえ…。」
「持ってくるだけでも大変だったろうに…。」
「赤間先生の愛車のワゴンに乗っけてきたんだとよ。」

 口々に生徒たちが囁く。
 その中に一人の薄暗い雰囲気の少年が、目を爛々に輝かせて展示物へと魅入っていた。こういう場が最も似合う少年、五寸釘光であった。
「凄い…。赤間先生、良くこんなに集められたものだなあ。羨ましい。」
 そんな言葉をぶつぶつと吐き出していた。

「先生凄いですね…。」
 口々に生徒たちは感想を漏らした。
「塵も積もれば山となるってね…。」
 笑いながら赤間が受け答えしている。
「で、今回、手に入れて来た物って何?先生!」
「あ、俺も見たい。」
「ははは…。まあそう焦らずに。これだよ。」

 そう言って差し出したのは古い漆塗りの立派な巻物箱だった。

「これかあ、先生が中国から持って帰ってきたのは。」
「わあ、何だか古そうねえ。」

 煤けてはいるが、龍の絵が描かれている重々しい雰囲気を持った漆塗りの箱だった。
「仰々しい箱だな。」
 乱馬はふっと言葉を吐いた。
「これは倶利迦羅龍(くりからりゅう)を模した細工か。」
 五寸釘がふっと言葉を吐いた。
「倶利迦羅龍?」
 乱馬は五寸釘を見返した。
「ああ、そうだよ。この龍の周りに激しい焔の装飾が見えるだろう。」
 五寸釘は目を細めて言った。
「良く知ってるな、五寸釘。そのとおり、これは倶利迦羅龍だ。」
 赤間が五寸釘を見返した。
「えへへ…。こういうことには詳しいからね、僕は。」
 得意満面胸を張る。
「すごいわ。五寸釘君。」
 あかねが素直に褒めた。
 それを聞くと、五寸釘はぱあっと明るい表情をそちらへと向けた。あかねのことが好きな彼は、彼女に褒められたのが何よりも嬉しかったのだろう。

「そもそも倶利迦羅龍は不動尊の化身と言われているんだ。この周りに張り巡らせた焔は迦楼羅炎(かるらえん)と呼ばれ、ありとあらゆる煩悩を焼き尽くす焔(ほのお)とわれているんだ。おそらく、不動尊に関係のある経典か何かを入れていた蒔絵箱じゃないのかな。」
 五寸釘は得意満面になっていた。だが、あかねは既にその場から離れ、他の古美術を丹念に眺めて居た。
「ほお、なかなか面白い講釈ではないか。五寸釘。」
 五寸釘の背後にはあかねではなく、既に人が変わっていて、九能帯刀が熱心に聞き入っていたのである。
「ならば、この中には経典の巻物でも入っているのか?赤間先生。」
 九能は蒔絵の箱を指差して訊いた。

「ううん、それがねえ…。古びた絵巻物が一本入ってるだけなんだよ。」
 先生はぽりぽりと頭を掻きながら答えた。
「絵巻物?」
 一同の目が好奇心で輝き始めた。
 その様子を見ながら、赤間は答えた。
「いやあ、そんなに保存状態が良いものじゃなくってね…。何の絵が描かれていたのか、わからないくらいぼやけてるんだよ。まあ、だからこそ、日本へ持って帰れたようなもんなんだけどね。」
「何で古びてると持って帰れるのだ?」
 九能が怪訝な顔を手向けて訊いた。
「それはあれだよ。この絵巻物がもし、立派な絵や名のある書家や画家の手のものだったら、まずもって日本へは持ち帰れないよ。よしんば持って帰ることができても、没収だったろうね。…どちらかといえば、僕は中身の絵よりも外の箱に価値を感じていたからね…。納められてたのがたいした絵でなくて良かったと思ってるくらいなんだ。」
「なるほど…。で、どんな絵巻物が納められておったのか、この目で見てみたいぞ。」
 九能が身を乗り出した。
「そうよね…。先生がたいした事がないって言うくらいの絵、見てみたいなあ。」
「ねえ、先生、見せてよ!」

「ははは、本当にみすぼらしいくらい訳がわからない絵だけど、いいかい?」
 赤間の問い掛けに、そこに居た生徒たちは声を揃えて構わないと口々に発した。

「これだよ。」

 赤間はこなれた手つきで掛け軸の軸紐を解いた。バラバラと中に納められていた絵巻物が広げられていく。
 確かに、外を見ただけでも古びていて、ボロボロになっているのがわかる。所々にシミが見て取れる。
 広げ切ってしまうと、生徒たちは、ほおっと溜息を吐いた。

「うっわー、本当に訳がわからないぜ。」
「ハゲ禿じゃん。」
「カビっぽい匂いまでするわ。」
 一同から溜息とも感嘆とも取れぬ声が上がった。

「立派な塗り箱に納められていたから、こんなに痛んでしまう筈はないんだけどね…。よっぽど保存状態が悪い場所に保管されていたか、後から塗り箱に納め変えられたか…そんなところだろうな。」
 赤間は苦笑いしながら言った。
「でもさあ、中央部の人間らしきところははげはげだけど、背景の炎はきれいじゃない。」
 あかねがそう言葉を吐いた。
「本当だ。真ん中の薄汚れた感じと比べると、後ろの炎はきれいよね。」
 ゆかが同調した。

「にしても、何の絵が描かれてるんだろう…。」
「人間みたいよ…。三人居るみたいだけど。」
「ほおお。」

 良く目を凝らすと、何かの絵が浮き上がってくる。
 中央に大きな仏像のような影がある。そして、その両脇に、一回り小さな人物像の影が二体浮き出している。
「やっぱ、絵は保存状態が悪いみたいねえ。一文の価値もなさそうだわ。」
 なびきががっくりと声を吐いた。
 保存状態が悪くて消えかけてるのだろう。不自然に三体の像が描かれた痕跡が浮き上がるだけの古びた絵巻物であった。
「見たところ、不動尊と二童子を描いた物だったと、僕は推測してるんだけれどね。」
 赤間はふっと言葉を入れた。
「不動尊?」
「ああ、この絵の背後に広がる迦楼羅炎。確かにこれは瑞々しいくらいに美しいのに、何で描かれた人物像が消えかかっているのか解せないんだが…。で、恐らく中央のでかい絵が不動尊、そしてそれぞれ左右に居るのが金加羅童子と制多迦童子だと思うんだ。」
「コンガラドウジにセイタカドウジだと?面妖な名前だな。」
 九能が横から声を挟んだ。
「不動明王の二童子の名前だよ。昔から不動尊と金加羅童子、制多迦童子の三体がセットで仏画に描かれることが多いんだ。仏画だけではなく仏像もこのセットで安置してある寺院が多いんだぞ。」
 と赤間は日本史の教師らしく解説し始めた。

「金加羅に制多迦…か。あいつらの名もそんな名前だったな。」
 乱馬がこそっと呟いた。
「何?乱馬、知ってるの?」
 あかねが聞き逃さずに声をかけてきた。
「あ、いや別に何でもねえよ。」
 乱馬はそのまま口ごもって誤魔化した。
 この冬の修行中、彼は金加羅と制多迦に会っている。それも、金加羅はあかねの顔、制多迦は自分の顔とそっくりだった。彼らは神界に迷い込んだ自分を、何とか現世へと導いてくれた恩人でもある。だが、それが夢の世界での出来事なのか、実際にあった出来事なのか、判然としないのである。
 だから、あかねには話はしていない。『夢でも見ていたのよ。』と一笑に付されるのが落ちだからだ。


「なあ、この絵にあるこの凡字みたいな印はなんだろう。」
 ふいっとひろしが掛け軸の下方部を指差した。
「お札だって?」
「どこどこ。」
 良く見ると、掛け軸の下方部に印のように赤い文字が書かれてあった。
「落款(らっかん)じゃないのか?」
「落款のある仏画なんてあるのかよう…。」
「誰かの仏画の写しかもしれないじゃん。」
「先生はどう思う?」
 好奇心の塊の生徒たちがこぞって赤間の方を見た。
「先生も前から気にはなってたんだ。漢字のようで象形文字のような不思議な印字がね。落款のようにハンコでもなさそうなんだ。朱で直に書き入れたものなんだろうね。」

「封印の文字に似てるかな…。」
 ふつっと五寸釘が言葉を吐いた。
「封印?」
 あかねがきょとんと声を張り上げた。
「ええ…。その絵に邪気とか魔物を封印する時に使う文字に何となく似ているような気がしたんで。あかねさん。」
 五寸釘が顔を染めながら答えた。
「封印かあ…。そういえば、乱馬、あんたさあ、前に「落書きパンダ」にまとわり付かれたことがあるじゃない。あの絵って、こんな文字のお札が張ってなかったっけ。」
 あかねが乱馬を流し見た。
「そういや…。それらしい文字の札があって、それを剥がした途端、あのパンダが現われたよな。」
 チンチクリンな落書きパンダに一晩振り回された苦い記憶が乱馬の脳裏に蘇る。

 中国から持って帰ってきた巻物とその外箱。
 その他にも、たくさん、いろいろな骨董品がそこにある。
 一通りあかねは隅々まで見て回った。
 と、一つの古い箱の前で目が留まった。

「あら…。これは。」
 そこには、菓子箱くらいの大きさの宝珠箱があった。これもかなりの年数が経っているのだろう。所々煤けて見える。
「ねえ、これ。」
 あかねは傍に居た乱馬に問いかけた。
「あん?」
「この絵さあ、さっきの巻物の外箱の細工と似てないかなあ。ほら、倶利迦羅龍とかいうさあ。」
「どら。」

 目を凝らしてみると、確かに、似たような絵細工が施されている。

「どうしたの?仲睦まじく二人でがん首並べちゃってさあ。」
 ゆかが声をかけてきた。
「ほら、この箱の絵さあ、さっきの絵巻物の箱とそっくりでしょう?」
 あかねの言葉に
「わあ、本当。似てるわ。」
 ゆかが答えた。
「ほら、見てよ、こっちの掛け軸の方の表装部分。蒔絵の側面と同じ文様になってるわ。」
 じっと二つを見比べていたゆかがすっと指差した。 
 確かに彼女が指摘したとおり、蒔絵箱の側面に彫られた文様と、掛け軸の背景になっている紙の文様は同じように見える。炎を模した唐草模様のような模様が赤い顔料で描かれている。

「ああ、その箱かい。」
 赤間がひょいっと顔を覗けてきた。
「確かに、似てるけど、違う物だよ。」
 と問い掛けに答えた。
「何で違う物だとわかるんです?」
 ゆかが問いかけると
「さっきのは中国から持ち帰った物だけど、こっちのは、ずっと古い時代からウチの寺にあったものだからね。」

「寺って…先生の実家の?」
 あかねがきょとんと声を上げた。

「そうだよ。これも古いものらしくて、いつ頃からウチにあったのかはわからないんだが…。」
「先生の寺っていつの時代に建てられたんだ?」
「一応、鎌倉時代って訊いてるけどな。」
「わあ、古いや…。」
「まあ、その間、何度か建て直されたりしてるけどね。…。これも結構古いものではあるらしいんだが…。尤も、今は兄貴が稼業を継いでるんだけどな。」
 そう言って持ち上げた箱に何か赤い札が張り付いているのが見えた。

「何?これ…。お札?」
 あかねが指を差した。
「ああ、これね…。封印の札だよ。」
 赤間は箱を手にしながら答えた。
「封印?」
「ってことは、何かが入ってるのか?」
 また、好奇心に溢れた生徒たちが取り囲んできた。
「さあ…。持ったところ、何も手応えがないから、空っぽだと思うのだけれど…。」
 赤間は答えた。
「空っぽだと思うって、先生開けたことないのか?」
 乱馬が問いかけた。
「ああ、ない。ウチの寺には、檀家さんから結構預かったものも多くってね。ほら、昔は祟りとか幽霊とか信じられていたろう?そういう何か因縁めいた物が納められていたかもしれないから、無用に封印されている物は開かないようにしてたんだろうな。でも、いつの間に、コレクションの中に紛れ込んできたんだろう…。確か、寺の物とは別にしていた筈なのになあ…。」
 と苦笑いしながら先生は答えた。
「こういうのがあると、開いてみたくなるのが心情よね。」
 なびきがひょいっと乱馬の後ろから声を掛けた。
「確かに…。気になるぞ。」
 なびきの横に突っ立っていた九能がうんうんと頷く。
「先生、その中に何が入ってるか開けてみようよ。」
「あたしも見たいわ。」

 と、見る間に人垣が出来た。

「いやあ、封印が施されている物を、無用心に開けて良いものやら、はっはっは。」
 先生はそう言って笑った。
「何でだよ、宝物が入ってるかもしれないじゃん。」
 無責任な発言をする奴が一人や二人、何処にでも居るものだ。
「うん…。先生もどうしようか前から思案はしていたんだけれどね。やめておくよ。万が一何かあったら大変だからね。」
「案外臆病なんだ。先生は!」

「どら、僕にも見せろ。その封印とやらを。」
 九能が乱暴に横から割り込んだ。
「こらっ!九能っ!大切に扱えよっ!」
 赤間の制する声など聞こえないのか、九能はひっくり返して蒔絵の箱の下部になされた封印を覗き込んだ。左右それぞれ底の部分に二枚の赤い札がそれらしく貼り付けられてある。凡字のような墨で書かれた文字も薄っすらと見えた。
「ほう…。これが封印の札。」

 そう言った時だ。九能の手から蒔絵の箱が滑り落ちた。

「わたっ!こらっ!九能っ!!」

 赤間の顔色が変わった。
 だが、寸でのところで手を出した、あかねが箱をしっかと受け止めていた。

「もう、九能先輩っ!赤間先生が大切にしているものなんだから…。気をつけてあげないと…。」

 とその時だった。

 ひらっと何かが箱の底から剥がれ落ちた。

「えっ?」

 ひらひらっともう一枚落ちた。

「えええーっ!!」

「げっ…。札が勝手に剥がれ落ちた?」
 赤間もあんぐりと口を開いた。
 あかねはごくんと唾を飲み込むと、そっと蒔絵箱を机の上に置いた。
 何事もなく、蒔絵の箱は卓上に鎮座している。札は重なるように床に舞い落ちる。

「札が剥がれ落ちるなんて…。それも自然に…。」
 赤間が驚愕の目を向けた。
「先生、ごめんなさい。」
 あかねがぺこんと頭を下げた。
「あ、いや…。天道のせいじゃないだろう。破いてこじ開けようとしたわけでもないし、ましてやおまえは落下からこの箱を守ってくれたんだから。」
 赤間は苦笑いしながらあかねを見た。
「そうよね…。どっちかというと、悪いのは九能ちゃんのほうだわ。あかねじゃないわ。」
「何だと?天道なびき。」
「だって、九能ちゃんが乱暴に扱ったから箱が落っこちたわけで、あかねはそれを受け止めただけよねえ。」
「だから何が言いたい…。」
「だから、あんたが責任持って、箱を開けなさいってこと。」
 なびきがにやっと笑った。
「こらこら、天道なびき。」

「先生良いでしょう?封印が解けちゃったんだから、開けてみても。」
「そうだそうだ。せっかくだから見ようぜ。中身。」

 またまた無責任な生徒たちがはやし立てる。

「仕方が無いなあ…。でも、何が出てきても、僕は責任を持たないからね…。」
 そう言いながら赤間は薪箱へと手を差し伸べた。
「生徒に危険を背負わせるのは快くないから、僕が開けるよ。」
 一同、ごくんっと唾を飲んで見守る中、赤間はそっと蓋を開いた。

「え?」
 乱馬には箱の中から何か陰気な黒影が一瞬にして飛び出したように見えた。

 だが、誰もそんな影は見えなかったようで、皆、箱の中のほうへと視線が集中していた。
 箱の中は漆塗りで黒光りがしていた。さすがに古びている分、光沢は失せかけていたが、それでも往年の輝きは偲ばれた。
 そして、その底に大きな頭蓋骨の線画が朱色で描かれていた。

「うへ…何だか気持ちが悪いな。」
「骸骨の絵かよう…。」
「何でこんなきれいな箱の中底に骸骨の絵なんか描かれてるんだ?」
「さあ…。」

 ざわめき立つ野次馬を他所に、乱馬だけが厳しい顔をあさっての方向へと手向けた。

「どうしたの?」
 あかねがそわ立つ乱馬を見て訊いた。
「おまえ、今、感じなかったか?」
 乱馬は厳しい表情を緩めずに言った。
「何を?」
 あかねはきょとんと視線を乱馬へと手向けた。

「いや…。何でもない。」

 乱馬は声を落とした。

(感違いだろう。今は特に何も感じねえし、…。感じたのは蓋を開けた時の一瞬だけだったし…。)
 これは乱馬の希望的観測に過ぎなかったのかもしれない。
 禍々しい気を一瞬嗅ぎ取った彼であったが、「気のせい」という言葉一つで片付けたかった。何か邪気が飛び出したのなら、それなりの瘴気を感じる筈であるが、今は感じられない。全身全霊の気を部屋中に飛ばして探ったが、特に変わった気配はない。
 ただの一瞬、何かを感じ取っただけだ。
「ま、いいか。」

 そうこうするうちに、邪気を感じたことすら、忘れてしまった。


「勝手に剥がれ落ちた封印のお札。それから髑髏の蒔絵の宝珠箱と顔の無い不動明王の絵か…。何か面白い事が起こるかもしれないな、くくく…。」
 乱馬の他に「異常」を感じ取っている者が他にいたとすれば、それは五寸釘だけであろう。
 彼の場合、邪な物には危機感よりも、好奇心の方が強かった。だからこそ、邪な物を宿らせる媒体になり得るということを、誰が予想できたであろうか。
 五寸釘が自分の目の前に舞い落ちた赤い呪札をそっとポケットに入れたことなど、誰も気がつきはしなかった。



つづく



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