制多迦と金加羅   壱の章  不思議な二人

前篇



「不動明王。インド神話における「シヴァ神」の異名「アチャラナータ」がそのまま仏教へと習合したものである。五代明王の一人。明王とは如来の教えを守り、仏教に敵対する神々や人々を従順させる役割を担っている。
 不動明王は大日如来の化身と言われているだけあって、強力な法力を持つ。右手に降魔(ごうま)の剣、左手に索(さく・綱のこと)を持ち、右目は天を仰ぎ左目は地を見通す天地眼を携え、背後には迦楼羅鳥(かるらちょう)の吐き出す火炎を持つ。激しい憤怒の風体の中にも天地間の一切の衆生(しゅじょう)を救わんとする慈悲がある。
 不動明王は悪を罰するだけではなく、修行者を加護する者としての信仰も集めてきた。日本固有の山岳信仰と密教が結びついた厳しい修行を行う修験道において、最も尊崇された仏でもある。武道を極めんとする者もこの不動明王の霊験にあやかろうとするのも、ごく自然な成り行きではないだろうか。」


 冬山のしばれる寒さの最中、バシン、と一際大きく、張り手の音が響き渡る。

「痛いじゃないかっ!この馬鹿息子ーっ!!」
 瞬時に腫れあがった頬を押さえながら、中年男が叩いた少年を振り返った。

「何、暢気に気取って講釈なんか垂れてやがるっ!!このクソ親父っ!」
 はあはあと白い息を吐き出しながら、少年がじろりと男を睨み返していた。
「だから、ここの先の不動淵にある霊験あらたかな不動尊の石仏について説明してやったんじゃろうがっ!」
「それが余計だっつーってんだよっ!そんな石仏の説明なんかどうだっていいから、飯だっ!さっさと飯の支度しやがれっ!このクソ親父っ!」
「乱馬っ、貴様なあ、その親を親とも思わぬ態度っ!この不動明王に成り代わって今回こそは徹底的に痛めつけてやろうかっ!この馬鹿息子っ!」
「てめえなっ!自分の置かれている状況を理解してんのかようっ!」
 ぐぐぐっと道着の襟元を掴むと、乱馬は父親へと身をせり出した。

 と、そこへプーンと漂ってくる、得も言えぬ異様な臭気。
 二人はそのまま、うっぐと口元を押さえ込んだ。

 彼らの背後から沸きあがってくるこの臭気。その先には一人の少女がご機嫌麗しく、鼻歌を口ずさみながら、鍋を掻き混ぜているのが見える。側には多種雑多な調味料の空瓶が転がっている。

「おい…。あれは何だ。あれは…。」
 乱馬は父親をじろりと見返した。
「たははは…。多分わしらの昼食。」
「んなこたあどうでもいい。何であんな奴をここへ連れて来たって俺は訊きてえんだよっ!」
 乱馬はあごを突き出して少女をちらりと見た。
「何を言う。あかね君も同じ「無差別格闘流」の流儀を継承する乙女、乱馬、貴様の許婚ではないか。一緒に新年の山篭りに連れて来て、何不都合があろうか?」
「許婚ったって、てめえとおじさんが勝手に決め付けただけじゃねえか?ああん?」
「ま、抑えて、乱馬君…。ここは私の顔に免じて抑えて。」
 いつの間に傍に来たのか、天道早雲が乱馬をなだめに割って入った。
「あれでも、あかねは一所懸命にだな、我々のまかないをやろうと頑張っておるわけで…。」
 早雲はおろおろしながら言った。
「頑張ってる、っつったところで、あれだぞっ。あの食い物とは思えないような匂い。第一、あいつの作った飯、おじさんも全部平らげる自信あんのかよ?」
 乱馬はじろりと早雲を流し見た。
「はは、あはははは…。正直言って無いっ!」
 ぶんぶんぶんと早雲は首を横に振る。
「言い切るなっ!だから、あいつなんか連れて来るなって俺は言ったんだよっ!あんな不器用で寸胴な女なんか、修行の邪魔になるだけじゃねえかっ!」
「こら、乱馬っ!寸胴はなかろう?あかね君は決して寸胴ではないぞ。ちゃんと胸も発育しておるし、容姿はなかなかなものだぞっ!」
「そうだそうだ…。我が娘ながら、良く育っておるわい!」
 たしなめた玄馬に早雲も相槌を打つ。
「貴様とて、料理の腕以外のところはそれなりに気に入っておるのであろうがっ!」

「いや、まあ、飯のこと以外なら、それなりに良い嫁さんにはなるんだろうが…っでえっ!話を逸らすな、話をっ!とにかく、俺はあいつの作った異様な物体だけは絶対に、食いたくなんかねえんだっ!」

 饒舌になりかかった乱馬の背後で、早雲と玄馬は黙りこくった。上か覆い被さるように迫る黒い影。思わず二人は、後ずさりながら乱馬の背後をその影に譲った。

「あんな訳のわかんねえ物食うんだったら、飢えてたほうがましだってんだっ!あんな不味い物…。」

 ぼかっ!どかっ!!ばきっ!!!

 目から火の玉が飛び出るかと思うほど激痛が後頭部を襲う。

「ぐう…。」

 その反動で思いっきり地面へと叩きつけられた。

「あんたねっ!黙って訊いてたら、好き放題っ!」
 すぐ後ろであかねの怒鳴り声が響く。

「てて…。痛いだろうが、この凶暴女ーっ!」
 乱馬は殴りつけられた後頭部を手で押さえ込みながらあかねを睨み返した。
「何よっ!不味いだなんて、食べてからいいなさいよっ!食べてからっ!」
「食べなくてもわかるってもんだよ。おめえ、わからねえか?この異様な匂い。」
 乱馬はちろっと鍋を見返して言った。
 確かに漂ってくるのは尋常な食べ物の匂いではない。一種独特な個性的な匂いだった。
「この匂い嗅いだらわかるだろうが…。あれが食い物の放つ匂いなのかようっ!第一、おめえ、味見したのか?あの異様な煮物の。」
「煮物じゃなくてカレーよ!味見なんてしてないわ。」
「だあ…。何で味見しねえんだ?」
「感覚よ、感覚っ!料理も武道も感覚が大事じゃなの!」
「しろよ、頼むから味見くらい…。」
「もういいわよっ!そこまで言うなら。」
 あかねは完全にヘソを曲げてしまったのだろう。ぷいっと乱馬から離れて鍋の方へとずんずん歩き出す。
「お父さん、早乙女のおじさまっ!乱馬なんかほっておいて、あたしたちだけでさっさと昼食すませちゃいましょうっ!」
 と叫ぶ。が返事は無い。
「お父さん、おじさま?」

「逃げたな…。あいつら。」
 乱馬はふつっと言葉を吐き出した。
「ちぇっ!結局、親父たちだって、命は惜しいんじゃねえか。」
 乱馬はほおっと息を吐き出すと、さっと森の木立の中へと駆け出した。一刻も早くあかねの手料理からだけは逃げ出したい。そんな本能が働いたのだろう。
「悪いな、あかね。俺、まだ死にたくはねえんでな。何でも良いから森の中で食料漁ってこねえと、体がもたねえやっ!」
 それだけ小さく言いおくと、さっさかと逃走にかかった。

「たく…。何で新年早々、こんな目に遭わなきゃなんねえんだよ!」
 逃げながらも愚痴はこぼれていく。

 そうなのだ。
 年始年末のぐうたらで溜まった贅肉を落とすべく、天道早雲と早乙女玄馬の二人が、恒例の冬山修行へと出ようと言ったまでは良かった。誘われるのも悪くは無い。乱馬自身もこのところのたるみきった生活から軌道修正して、心身鍛錬の必要性を感じていたからだ。新学期までの数日を山で過ごすことにより、武道家として新たな一年の目標を定めようと思っていたところだ。一人で出ても良かったが、やはり、父親たちと一緒の方が修行においても食糧調達においても、俄然有利にことは運ぶ。
 渡りに船と、修行に山篭りすることを了承したは良かったが、今年はもう一人余計なのがくっついて来た。
 余計な者。
 それは彼の許婚、天道あかねであった。
 天道早雲の娘だけあって、その武道のセンスは光るものがあり、組み手の相手としては、そこそこいけたが、如何せん彼女の料理の腕前だけはご勘弁願いたかった。その上、ごそごそとあれこれ世話を焼くことが嫌いではないと来ている。普段の天道家では主婦であるあかねの姉、かすみが食事まかないの全てを請け負っているので、己からそれと変わろうと言う差し出がましいことはしないが、こうやって野に放たれると、元来持っている「世話焼き」の性質が俄然目覚めてしまうようなのである。頼みもしないのに、鍋や釜を持参して、自炊をおっぱじめてくれたわけであった。
 せめて、普通の味覚の持ち主ならば、いくら普段は家事炊事に関わっていなくても、それなりの準備はできるのであろうが、彼女は無類の味音痴と来ている。どうやら、「味覚」というところだけは、良識家の彼女も一本ネジが外れているようなのである。

 とにかく、あかねの料理は食べられない。
 不味いというより、刺激的過ぎて、三途の川を渡ってしまうのではないかと思えるほどなのである。


 この山に篭るのは初めてだった。
 山に分け入ってしまえば、それなりに食べ物はある。
 このところ続いている暖冬傾向のおかげで、雪に埋もれた山でなければ、そこそこの食料は調達できた。まだ、木の実は細々とでも枯れ枝に実っているし、探せば小動物にだってぶち当たる。冷たい水さえ我慢すれば、魚も獲ることができよう。
 幼少時から父親に付いて修行に巡っている野生児。一人分の食料なら何とかなった。腹一杯にならなくても、そこそこの空腹を満たすことはできた。

「にしても、変わった山だなあ…。ここは。」

 乱馬は深い山に分け入りながら、そんな感想を持った。
「親父がさっき言ってたように、この辺り、山岳信仰が盛んに行われてた山なんだな。」
 あちこちにある、岩坐(いわくら)の注連縄、土師器(はじき)の欠片、それに、思わせぶりに彫られた苔むした石仏像などから、率直にそう思った。
 今ではすっかりこの山の山岳信仰は廃れたのだろう。最近供えられたものは見受けられなかった。殆どは朽ち果てかけかけた注連縄だの粉々になった土師器など。往年の盛況ぶりを思い浮かばせる物はまだ名残(なごり)を残している。



 あかねの元から立ち去って、腹を満たす目的は結構早く果たせた。
 野性の木の実などが思ったよりも豊富な山だったからだ。満腹とまではいかなくても、そこそこ腹は満たせた。後は夕食までに魚でもとっ捕まえておけば、それで動物性のたんぱく質は満たせるだろう。
 ならば、簡単な魚の仕掛けでも仕込んでおこうと、乱馬は丁度良い水場を探した。
 幼い頃から修行に明け暮れた彼は、こういう野外活動は慣れっこになっている。手にしているのはペットボトルの空がいくつか。これを魚の通り道にでも仕掛けておけば、適当に引き上げると中に魚が入っているというものだ。
 
「あの辺りが良いかな。」

 乱馬は直下に淵を見つけた。
 川の流れが自然の地形に堰き止められるように出来たそこそこ大きな淵であった。水深は適当に深いようで、水は緑色をしており、水底は見えない。背後の切り立った岩の壁には小さな滝が水を淵に向かって落としていた。
 その向こう側には石像が見え隠れする。中央に大きな不動尊の石仏、その左右に小さめのそのお供のような石仏が二体、合計三体の石仏が並んでいるのが見える。いずれの石像も古そうで、苔むしている。修験者が滝に打たれに来ることもあるのだろう。そんな雰囲気を持った淵であった。

「今は水量が少ない季節だからたいしたことはねえが…。多いときはもっと大きな滝になってるかな。」

 乱馬は水飛沫を上げている滝を見上げて呟いた。
 この淵はあの滝の所作なのだろう。長年にわたって削られた滝壺が淵になった、そんなところなのだろう。轟々とまではいかないまでも、そこそこ水飛沫と音を上げながら滝が水を落としている。

「できるだけ水には触れたくねえな。」

 乱馬は水面を眺めながら顔を映し出した。
 まだ水と湯で男と女が入れ替わる体質を引き摺っていた。うっかりと水に手を突っ込めば、やはり女に変化してしまう。
 縄にペットボトルを結わえながら、どうやって沢に沈めるか、思考を張り巡らせる。

 ふと人の気配に、はっとした。

「誰か居る?」

 乱馬は辺りを見回した。
 だが、シンと静まり返った淵。水面が気配もないのにゆらゆらと波打っている。おそらく滝壷の水がそこら辺で回流しているのだろう。枯葉はかさりと落ちて水面へと浮いた。
 
「気のせいかな…。」

 乱馬は再び自分のやろうとしていた作業へと立ち戻ろうとした。

 バサバサバサバサッ!

 羽音がして、上空を鳥が舞い上がった。カラスか何かなのか、折り重なる上空の木立から大きな黒い翼が羽ばたくのが見えた。

「鳥…。」

 そう思って見上げてはっとした。
 やっぱり誰か居る。
 滝の上に人影があるのを認めた。
 じっと目を凝らして、さらに声を上げた。

「あかねっ!?」

 見たことのある背格好の道着。それから短い髪が揺れていた。

「あいつ…。何やってんだ?」

 と、乱馬は更に驚いた。
 
 上から玄馬と早雲の怒号が響いてきたからだ。

「あかねっ!しっかり捕まれっ!」
「あかね君、大丈夫だ。すぐに引き上げてやるから。」

 さあっと血の気が引いていくのを感じた。

「あいつ…。」

 次の瞬間、矢もたて溜まらず駆け出していた。
 目指すのは滝つぼの上。何があったかは知らないが、彼女が危機(ピンチ)だっ!それだけは直感的にわかった。
 何処をどう走り抜けたのかわからない。だが、数メートル上の滝の上部に何とか辿り着く。勿論、息も切らさず駆け上がったので、そこここ、道着が擦れてほころびていた。


「親父っ!」

 そう声をかけたとき、さすがの乱馬も顔色を変えた。

「おお、乱馬か。丁度良かった。あかね君が大変じゃ。」
 玄馬はおろおろしながら言い放った。
 そのすぐ袂で早雲が必死に手を我が娘に向かって差し出しているのが見えた。その先には水に落ちたあかねが必死で何かを腕に抱えながら片手で枝につかまっていた。もう片方の手には後生大事に何か生き物を抱えているのが見えた。
「あいつ…。もしかして、あの動物を助けるために無茶したんじゃ。」
 乱馬は辺りを見回した。と、心配げにあかねの方向を見詰める黒い円らな瞳にぶつかった。野ウサギのようだった。
 どうやら乱馬の直感は当たっていたようだ。あかねの腕に後生大事に抱えられたのは多分、あのウサギの子供だろう。川を流れていたのを助けたのか、助けて自分も一緒に川に落ちたかのどちらかだろう。あかねは泳げない。その事実だけが乱馬に重くのしかかってくる。
「あかねっ!もうちょっとだ。堪えて。きっと父さんが助けてやるっ!」

 あかねのすぐ先には滝壺。流れは決して激しくは無かったが、手を離せば泳げない彼女は滝壺へと吸い込まれてしまうだろう。

「親父っ!何、悠長に突っ立ってやがるっ!飛び込めっ!飛び込ん助けろっ!」
 
 乱馬は叫んでいた。

「無茶言うなっ!わしが飛び込んだところでパンダになるだけで、何の役にもたたんわいっ!」
 玄馬が怒鳴った。
「畜生、このままじゃあ、あかねが。」
 そう思ったときだ。あかねが捕まっていた木に限界が来たのだろう。バキバキと乾いた音がして、木肌が剥けた。
「やべえっ!」

 咄嗟だった。
 乱馬はその音と同時に飛び込んでいた。女に変化することなど厭っている余裕はない。力が無くても飛び込めば何とかなる。自分の手腕を信じるしか術がなかったのである。
 水が冷たいと感じる暇もなかった。それほど事態は逼迫(ひっぱく)していた。

「きゃああっ!」

 あかねの手が堪えきれずに木から離れた。

「あかねーっ!」
 早雲の叫び声と共に、あかねは水面へと飲み込まれて行く。

「あかねーっ!!」
 無我夢中で飛び込んだ乱馬は、ただ、必死にあかねへと手を伸ばした。
「あかねーっ!!」

 滝壺に飲み込まれて行くあかねへ向かって、必死で身体を伸ばした。かざす手に届いたと思った時だ、体がふわりと浮き上がった。いや、滝壺に飲まれたのだ。


「あかねっ!あかねーっ!!」

 その声は俄かに水音にかき消された。
 無常にも二人、落ちていく。深遠な緑色の滝壺の中へと飲み込まれるように。
 そこで乱馬の意識は途切れた。ぼこぼこと泡と共に、水底へと落ちていく。


「あかねーっ!乱馬君ーっ!!」

 悲痛な早雲の叫び声がつんざくように響き渡った。



つづく



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