◆幽石

第六話 同じ耀きを放つ石

十一、

 辺りは深遠な暗闇が広がり始める。
 下から渡ってくる湿った空気は、冷気に触れ、薄霧を運んでくる。
 山間の寂寥とした土地だ。
 夏が近いといえど、朝夕は冷え込む。
 
 
 玄馬は、城塞に上がってしまった。
 城の中から、二人の闘いの行く末を見守るのだろう。
 早雲公は二人の脇から少し離れたところで、闘いを見守る。この闘いの行く末を見守る、武烈山当主としての務めがあるからなのだろう。
 
 辺りにかかりだした靄(もや)に、少しだけ武舞台の床が霞んで見えた。
 そのうち、この靄(もや)がこの舞台を囲みっ切ってしまうのも、時間の問題だ。

 あかねは、すううっと大きく息を呑み込み、丹田へと吐き出した。
 その動作を何度か繰り返す。
 否が応でも、緊迫した空気が漂い始める。
 夜の闇と靄のせいで、殆ど視界はきかない。揺れる四隅の篝火(かがりび)だけが頼りだ。
 数メートルしか視界がきかなくても、互いに、睨みつける視線を外す素振りはなかった。

 ぎらぎらと輝く、青年の瞳。それに相対する、曇りなき乙女の瞳。
 
 と、青年はニヤリと微笑むと、ザッと手を上下に広げて身構える。
 いつでも来いと言わんばかりだ。
 その構えに一切の躊躇(ためら)いは無い。
 彼が放つ想像以上の強い生気に、あかねは一瞬、息を飲んだ。
 今まで対峙してきた男の誰が、ここまでの正気を放っていただろう。
 あかねも気の使い手だ。対戦相手の気の流れが、面白いほどにわかる。
 ややもすれば、その壮大な気に飲まれそうになる。が、ここで飲まれてしまえば、闘いを始める前に、勝敗は決する。
 そんなのは、まっぴらごめんだ。
 九百九十九人の猛者を倒して来た乙女。ここで引くつもりは微塵も無かった。

 この闘いに勝てたとしても、己の自由は無い。
 早雲公の口から、非情なる掟の存在を知らされて以降、返って、腹が据わった。
 
(あたしは…負けない…。)
 負けん気の強い気迫が、あかねから滲み出している。
(武烈流の誉(ほまれ)を胸に、闘い抜くわ…。)

 極限まで高めた気焔。
 それを握りしめると、乱馬目がけて突っ込んで行った。

「はああああっ!でやあああーっ!」
 強靭な蹴りだった。流星の如く、繰り出される脚。

 バシッ!

 舞台の床が、大きな音をたてて揺れた。

「っと…。」
 その蹴りを避けて見せた乱馬。
「まだまだあーっ!!」
 あかねは地面を蹴り返すと、両脇を抱えて、そのまま伸び上がる。
 今度は拳を、横に飛んだ乱馬へ向けて繰り出した。

 ビシッと音がして、あかねの拳が弾かれた。
 己の前に広がる、大きな気の流れ。
 乱馬が瞬時に己の身体から気弾を、あかねの拳目がけて打ったのだ。ぐいっと押し戻すようにあかねの方へ盛り上がってくる気の壁。

「くっ!」
 右手の拳に跳ね返った気に押し負けぬように力を込めると、今度はあかねがその拳から気弾を打ち返した。


 ドッゴーンッ!

 両者の放った気が、ぶつかりあって弾けた。
 ビリビリとその波動が、あかねの柔肌を突き抜けてゆく。

「へえ…。結構、鋭い気弾を打てるじゃねーか。」
 ハッとして振り向くと、いつの間にかそいつが、バックを取っていた。
「くっ!」
 あかねは背後へと右掌を繰り出し、そこから抜け出た気の玉を、そいつ目がけて打ち込んだ。
「っと…。」
 危険を察知したのだろう。背後に居たそいつは、瞬時にあかねから離れた。
 ひょいひょいひょいと、バクテンで遠ざかる。
「でいっ、やああーっ!」
 あかねは連続して、もう一発、その生意気な男へと、気の玉を浴びせかけた。

 ボムッ!

 予想外のあかねの反撃だ。乱馬はシタッと床を蹴って、気の破裂を避けた。
 気の波動が後へと烈風をなびかせる。

「うえーっ!あっぶねえー。連打かよ…。」
 ひゅうっと額に浮き上がった汗を、左手で拭(ぬぐ)った。
 かかり始めた、靄(もや)まで、一掃する気弾だった。ゆらゆらと篝火が炎を荒げた。
「すげえや…。思ってた以上にやるじゃん…。」
 ニッと笑いながら、タンと床に降り立った。

 あかねは息一つ乱さずに、はっしと乱馬を睨みつけた。力強い眼力だった。

「けっ!可愛くねーなあ…。ちっとは声を出したらどうだ?」
 乱馬はあかねに向けて、言葉を吐きだした。

「可愛さを求めてちゃ、武道なんてやってられないわっ!」
 と強気の言葉を返された。

「まあ…そうだけどよ…。折角だ。…楽しまねーか?」
「楽しむ?闘いを?」
「ああ…少なくとも、俺は…楽しませて貰うぜっ!」
「何、寝言、言ってるのよーっ!」
 あかねの気焔が再び右手に光った。
 そして、乱馬へと繰り出される、美しい気弾。

「っと…。荒っぽい奴だなー…。」
 寸でで避けながら、乱馬は吐きつけた。

「悪かったわねっ!荒っぽいのは生まれつきよっ!」
 今度は黄色い気弾が乱馬を襲う。
 避けようと身をよじらせたが、気はすり抜けずに、パッと方向を変えて、避けた乱馬へと容赦なく襲いかかる。

 ドゴッーン…ズズズ…。

 地響きと共に、気弾は弾けた。真っ白な煙がもくもくと辺りに立ち込めた。

「ひょー…おっかねー…。」
 両手を胸の前に、気弾をやり過ごした、乱馬が煙の中から現れた。

(こいつ…あたしの気弾を瞬時に弾き返した?)
 その姿を見て、あかねは驚きの瞳を手向けた。
 大概の相手は、追いかける黄色の気弾を避けられず、その餌食となって、多少のダメージを与えられる。きっと、今回もうまくいくと思って打ったのに、こいつ(乱馬)はケロッとしている。
「こりゃ、舐めてかかったら、こっちがやられかねねーや…。」
 しかも、余裕で、笑いながら、あかねを見詰めて来る。
 
「何が可笑しいのっ!」
 癪に障ったあかねが、むっとして言い返した。

「んーなの、ワクワクしてるからに決まってるだろ?」
「ワクワクですって?」
「ああ…許婚がこんなに強い女なんだぜ?嬉しいじゃんっ!」
「なっ!バカにしてるの?」
「バカになんかしてねーよっ!」
 
 今度は乱馬が軽く打って来た。
 かわしてみせなと言う具合に、軽くだ。
 その態度が気に食わなかったのだろう。あかねは、バシッと右手一つで、弾き飛ばした。
 それから、床を、ダンと蹴りあげる。

「今度は、強い蹴りを一発、お見舞いしてあげるわーっ!開脚流星脚ーっ!」
 あかねは踵を翻すと、乱馬目がけて蹴りかかる。
「真撃烈風っ!」
 乱馬は瞬時に掌を返すと、あかねへと気弾を浴びせかけた。
「え?」
 蹴りを食らわせようとしたあかねの目の前で、その気弾が弾けた。

 ゴオオオオオッ!

 乱馬の掌から発した気が、烈風となって上空へと駆け上がる。

「きゃあああっ!」
 軽量な身体が、空へ浮き上がった。
 そして、吹き飛ばされる。

「おっと…。いけねー、つい、強く打ち過ぎちまったかな…。」
 乱馬はあかねの落下点へと飛び移り、その腕にあかねを抱きとめ受け身を取った。

 ダンッ…ズッ…。

 舞台の床にあかねを受け止めたまま、沈む。
 
 ハッとしてあかねが気付いた時、乱馬の逞しい腕が、己を捉えていた。
「やっ!」
 あかねは無意識に、また、気を解き放っていた。
「っと…。」
 乱馬はサッと右に身体をくゆらせて、気弾を避けた。
 
 ボコッ…。

 あかねが解き放った気弾で、床に穴が開いた。

「たく…油断も隙もねーな…。そんなに俺と触れあうのが厭なのか?」
 少し苦笑いしながら、あかねへと瞳を返した。

 さすがのあかねも、気技の応酬で、少し、息が上がっていた。肩がかすかに上下している。
「ええ…ごめんこうむりたいわね…。」
 とにべもなく、強い言葉を浴びせかける。

「やっぱ…素直に俺を許婚と認める気はねーか…。」
 ふうっと乱馬はため息を吐き付ける。
「ある訳ないでしょ?」
 激しい言葉を、はあはあと上がった息の下から浴びせかけた。
「あたしと睦びたいなら、あたしを倒しなさい…。そして、組み伏してみせなさいよ。」
 声を荒げたあかねは、ギラギラと煮えたぎった瞳を乱馬へと差し向ける。

 暫し沈黙した後、乱馬が吐き出した。
「やーだねっ!」
 と、一言吐き付ける。

「え?」
 ハッとして見返したあかねに、乱馬は続けた。

「闘いで負かした女を組み伏すなんて…主義じゃねえよ…。」
「どういうことよ?」
「はっ!俺は承諾した女と睦び合いてえ…。」
「なっ?」
「おめーが相手してきた九百九十九人の飢えた男たちと俺を、同一に扱うなってーのっ!」
「だったら、何でここに来たのよっ!」
「おめーに興味を持ったからに決まってんだろ?あかねっ!」

 あかねの耳にはっきりとその声は響き渡った。
 闘いを前にして、己の名前は名乗らない。それが、武烈山の決まりだった。
「何で…何であんたが、あたしの名前を知ってるのよーっ!」
 次の瞬間、再び、あかねの両手から、気弾が解き放たれる。
 目の前の男が、己の名前を象ったのに、激しく動揺した結果だった。

「たく…荒々しいなあ…。」
 乱馬はサッとあかねの気弾を避けた。
「そっちが最初に名乗ったんだけどな…。…やっぱ…素直にはいそーですかって…聞く耳持たねーか。ま…俺も、おめーと闘うのが楽しいし…。もうしばらくこのまま、続けるか…。」
 ぼそぼそっと独りごちる。

「何、ぼそぼそほざいてるのよっ!」

「いや別に…こっちのことだよっと。…今度は俺から行くぜっ!」
 ザッと床に足をつけると、すいっと身構えた。
 そして、肉体攻撃を仕掛けた。
 あかねの身体能力がいかほどのものか、興味があったからだ。基礎能力を図るには、徒手での取っ組み合いに限る。

 乱馬の美しいほど鍛えこまれた筋肉が、あかねのすぐ傍で唸る。

「くっ!」
 あかねは乱馬が差し出して来る攻撃を、良く避けた。的確に、乱馬の次の動きを読み、見切って動く。もちろん、避けるばかりではなく、じっと乱馬の動きを観察し、反撃に転じた。

「でやああっ!」
 あかねから繰り出される拳は、ヒュンヒュンと飛ぶように空を切る。
 誤って当たれば、相当な打撃を受けるだろう。
 もちろん、拳だけではなく、蹴りもかなりなものだった。破壊力は抜群だ。
「へええ…組み手もなかなかやるじゃん。」
 乱馬は避けながらあかねへとたたみかけた。
「うるさいっ!」
 あかねは吐き付けながら、乱馬へと襲いかかる。
 華奢な身体のどこにその闘志が眠っているのかと感心したほどだ。
 早雲公が前に評していたように、体力も相当なレベルだった。
 男たちとの過酷な闘いの軌跡が、確実、彼女を育てあげている。
 九百九十九人のつわものを倒してきただけのことはある。

「やっぱ…すげえや…。おまえは。」
 乱馬は感嘆の声をあげていた。
 次から次へと繰り出される、華麗な技。
 それも、組み手の基本を凌駕している。
 基本ができている型は流れるように美しい。彼女の華奢な手足が、縦横無尽に乱馬へと襲いかかって来る。
「あんたも、少しは打って来なさいよっ!」
 あかねが吐き付けた。

「じゃ、遠慮なくっ!」
 タッと床を踏みこむと、高く飛んだ。
「猛虎高飛車ーっ!」
 上空で身構えて、両手を差し向ける。
 その掌からほとばしる気。

 ドッゴーンッ!

 吸い込まれるように打ち付ける大きな気砲。

「くっ!」
 あかねは全身を固く絞り、気を打ち出して、真横に飛んだ。
「背中、ガラ空きだぜ…。」
 飛んだ先に彼が待ち受けていた。
「はっ!」
 あかねは瞬時に左拳を突き出した。
「おっと…。」
 乱馬はあかねから離れると、下に着地した。

「そんなに俺が厭か?拒否ばっかしやがって…。」
 思わず、吐き出していた。

「ええっ!男なんかみんな大嫌いよ…。傲慢で欲望をたぎらせてる。」
 それに対して、あかねが吐き付けた。
 九百九十九人の猛者どもを相手してきたあかねだ。反吐が出るほど、男という生物に憎悪を感じているようだった。

「だからって、女と睦ぶわけにはいかねーだろ?世の中には、男と女しか渡れねえ川がある。違うか?」
 
「そっか、あんたが…あたしの事を知るために…乱馬を差し向けたんだ。そうなんでしょ?」
 あかねは激しい言葉を打ち付けてきた。
「乱馬はあんたの流派の子なんでしょ?御曹司の立場を利用して、彼女を斥候として寄こした。」

(たく…見当違いも良いところだぜ…。)
 フッとため息を吐きながら、乱馬はあかねを見返した。
 己自身が女体化してあかねの目の前に在ったのだ。そう説明したところで、この跳ねっ返り娘は、聞く耳など持つまい。

「だったら、どーだってんだ?」

「別にどうだっていいわーっ!とにかく、男なんて大っ嫌いっ!でやあああっ!」
 ドッゴオーっとあかねが気を飛ばしてきた。それも、超ど級の気の塊だ。

「たく…嫌われたもんだぜ…。」
 すうっと息を吐き出すと、乱馬は左手をあかねに向けて晒した。

 ゴゴゴゴゴゴゴゴ…

 快音が響き渡り、あかねの打った気が、乱馬の差し出した手に向けて、飲み込まれて行く。
 あかねが打ち込んだ気の最中にあって、涼しい顔でそれに耐えていた。

「あんた…。もしかして…。」
 上空から飛び降りたあかねが、乱馬を睨んで吐きつけた。

「ああ…。見た通り、気を受け止めることができる…。おめーみたいな真っ直ぐな気弾は、扱いやすいからな…。」
 ニッとあかねの前で笑って見せた。あかねから剥ぎ取った気が、彼の掌でゆらゆらと真っ赤に燃えている。

「じゃあ…何で絡め取った気を、こっちへ打ち返して来ないの?」
 再び激しい瞳を手向けて、問い質してくる。
「それを打ち返して、あたしを蹂躙したらいいじゃないのっ!」
 気を吸収できる能力があるのなら、それを取り込んで一瞬に打ち込める技も持ち合わせて居る筈だ。あえて、目の前の男は、それをしようとしなかった。やればできただろうに…。あかねはそれを糾弾したのだ。

「だから、言ったろ?俺はおまえを倒したくて、ここに来たんじゃねーって…。」
 そう言いながら、あかねから剥ぎ取った気を、己の拳の中に吸収させはじめた。真っ赤な気が乱馬の掌の中で、ジリジリと音をたてながら消滅する。

「じゃあ、何しに来たのよ?」
 その様子を目の当たりに、激しい言葉を投げつけながら、あかねは再び肉弾戦へと打って出た。
 目の前で見事に気を吸収されたのだ。これ以上の気技は藪蛇になる。
 ならば…と肉弾戦に切り替えたのだ。
「おめーを武烈流の掟から解放してやりに来た…。」
 あかねの蹴りを受け止めながら、乱馬が言い放った。
「なっ!」
 あかねの繰り出した拳が、乱馬の目の前ですっぱ抜けた。
「掟から解放するですって?」
 バランスを失いそうになりながら、耐えてタンっと床に足をつくと、はっしと乱馬を睨み上げた。
「ああ…おめーは掟という名の非情な運命にもてあそばれてるんだろ?」
 乱馬も少し離れたところに着地して、言い放った。
「もてあそばれてなんかいないわっ!あたしは、己の意志で武烈流の掟に従っているだけよっ!」
 あかねは再び、乱馬へと右蹴りを繰り出した。
「だったら…掟が命じたら…父親とだって睦びあえるってーのか?」
 その蹴りを左手で軽く払いのけながら、乱馬が吐き出す。
「あんた…やっぱり…乱馬から色々聞かされたのねっ!そうやって、あたしを揺さぶって、勝ちたい訳?」
 かわされた足を軸に、再び反対側の左足で蹴りを繰り出した。
「この、わからずやっ!」
 繰り出されて来た右足を両手でつかみとり投げつけながら、乱馬は思わず、声を荒げていた。
「だったら、このあたしを玉砕なさいよっ!武烈流の掟ごとっ!」
 クルクルと空中で回転して着地すると、あかねは、乱馬へと啖呵を叩き付けた。

「やっぱ…叩きのめさなきゃ、聞く耳も持たねえってか…。いいだろう…。」
 乱馬は一度、後ろに身体を引いた。

「おめーを縛っている、陳腐な武烈流の掟ごと、俺が粉砕してやる。」
「できるものならやってみなさいなっ!」
「ああ、やってやる…。それに…もう、おめーには残された気が少ねーんだろ?」
 ギュッと拳を構えた。

 その言葉に、あかねの表情が変わった。

 この青年は、あかねの状況を冷静に分析している。
 そして、もう、気力が底をつき始めたことも、察しているようだった。
 下手な小細工はきかないだろう。

「そうね…あんたはお見通しのようね…。そうよ…もう、あたしには、殆ど気が残されていないわ。」
 あかねはザッと身構えた。
「次の攻撃が、恐らく最後になるわ…。だから、全力でかかってくるのね…。」

 彼女の気は殆ど身体に残っていないようだ。
 まだまだ闘える乱馬と、もう後がないあかねと。
 しかし、あかねは悲壮感を微塵も感じさせなかった。強気の女の最後の気焔。

「ああ…そっちこを全力でかかってきな…。」

 凛とした瞳で、乱馬はあかねを見据えた。
 やめろと言って止める女ではない。こうと決めたら、とことん突っ込んで来る。
 乱馬はそんなあかねの一途な性質に惚れてしまったと言っても良い。

「武烈流格闘術の必殺丸秘奥義をぶっ放してあげるわ…。」
「おもしれえ…打って来いよ…俺が玉砕してやるぜ…。」
 静かに乱馬は言い放った。
 
 彼女の気の向こう側にある、悲壮な覚悟が、空気を通じてひしひしと伝わって来た。
 全力を次の技にかけるつもりだろう。

 あかねは、すっと、武舞台の際へと立った。切り立つ崖からせり出した、崖とは逆側の縁だ。
 真下には、清流の泉が注ぎ込む池がある。
 簡単な縄柵が設けられているが、あかねはその上へ、トンと二の足で上がった。
 そして、ぐっと両手を広げる。

「はあああああああ…。」
 拳を握りしめ、あかねは残った気を、体中へと充満させ始めた。

 ビリビリと辺りの空気が、あかねへと動く。
 かかっていた靄が、あかね目がけて吸い寄せられていく。舞台だけではなく、下方の池からも、靄は上がってくる。
 不思議な光景だった。
 篝火が靄の向こう側で、炎々と揺れている。その炎の中にある微かな気の流れまで、あかねへと吸い寄せられていくではないか。
 対する乱馬は、武舞台の中央へと進み出た。
 ここで迎え撃ってやると言わんばかりに、彼もまた、ゆっくりと腰を落として身構える。


 その後方で、早雲公がじっと二人の若者たちを見つめていた。腕を前に組み、一言も発せず、二人の闘いの行く末を見届けようとしていた。


 ゴクンと乱馬の喉が鳴った。いささか、唾を飲み込んだのだ。
 今まで見たこともない、気焔の渦が、あかねの周りを巡り始めている。
 そのさまは鬼気とした美しいほどの迫力がみなぎっている。
 見たこともない大技に違いなかった。
(すげえ…熱気だ…。)
 自然と汗が流れてくる。靄の湿気だけではない。
(ひょっとして…こいつが、武烈炎殺法…か。」
 聞きかじっている武烈流の最大奥義の名前が脳裏をかすめる。
 武烈流の最大奥義は炎系の技ということは、広く知れ渡っていた。
(いや…。単なる炎系の技じゃねえ…。それだけだと思っていたら、確実、こっちが粉砕される…。)
 闘いの駆け引きの中で、いかに相手の先の先を読むか…それは、勝敗を分ける。
(この気の流れ…まさか…こいつ…己の命の炎を燃やしているのか…。命を技に乗せる、禁断の技か…。おもしれー…。ならば、俺も、命懸けでおまえを玉砕してやるぜ…。)

 普通の神経の持ち主ならば、この尋常ならぬ気に中てられて、逃げ腰になるだろうが、乱馬は違っていた。
 格闘馬鹿の熱き血潮が煮えたぎっていく。

「来いっ!あかねっ!」
 真正面から、彼女へ向けて、声を放った。



十二、

 ビリビリと辺りの空気が、不気味なうめき音をあげる。そして、百八十度に開いたあかねの両腕に、面白いほどに、吸い寄せられていく。
 みるみる、気が大きく膨れ始めた。
 己の闘気と命の炎と、それから、武烈山付近に流れる気脈を、一身に両手の中に抱え込む。

 
 ズゴオオオオオオオオ…

 凄惨な程、激しい烈風が、彼女の周りを渦巻初めた。


「来るっ!」
 乱馬の瞳に緊張が走った。

「武烈炎殺法っ円殺壊滅破ーっ!でやああああーっ!」
 あかねのはらからの声が響き渡った。

 あかねの両手から、真っ赤な炎が吹き上げながら、撃ちつけられた。


 ブオオオオオオ…。

 烈火の炎風が、乱馬目がけて吹き上がる。
 夜の闇の中を容赦なく突進していく。

 ボウッ!
 乱馬の目の前で。一際、大きく炎が揺らめいた。
 真正面から、乱馬の肢体へと襲いかかった。と、みるみる炎に包んだ。

 グオオオオオオッ…。

 全てを焼き尽くさんと萌え盛る烈火の中に、乱馬を飲み込み、閉じ込めてしまった。
 渦巻く炎は、乱馬を焼き尽くそうと、まとわりついた。
(すげえ…気炎だ。気を抜くと、あっ言う間に焼き尽くされるぜ…。)
 炎の中で、乱馬が唸った。
 瞬時に発した冷気で、何とか、炎の強襲は耐えていたが、それも、時間の問題だろう。
(この炎が着きかけた一瞬…俺の気で粉砕してやる…。)
 ギュッと右手を握りしめる。

「やああああああ…。」
 あかねは決して気焔を緩めることなく、撃ち続ける。継続して、彼女の差し出された両掌から、真っ赤な気が吐き出され続けた。
「ぐっ!」
 彼女の顔が一瞬、苦痛に歪んだ。しかし、手を緩めることなく、乱馬目がけて気を打ち込み続ける。
 が、限界は来る。あかねの気が少し緩んだ。

 その刹那。 

「無差別真流最大奥義…臥龍氷壊破ーっ!」
 
 炎の中で乱馬の声が高らかに響いた。と、同時に、穿たれた炎の中に、蒼い光が鈍く輝いた。
 その光の環が徐々に光沢を増し、赤い炎を包み込んで行く。

 ゴオオオオォォォォ………。

 やがて、真っ赤な炎は、力尽きるように、真紅から橙、そして、黄色へと変色し始める。
 そして、跡形も無く、蒼き光の環の中に消えていった。

 その有様を見て、力なくあかねはフッと笑った。

「そっか…あんたには、この炎すら効き目が無かったのね……。」
 緩やかな笑みが、柵上の彼女から投げかけられる。ハアハアと息が上がって、声もか細くなっていた。

「いや…。そーでもねえぜ…。かなり効いた…。」
 蒼き環を鈍く光背にした男が、姿を現した。
 肌こそ焼け焦げていないが、着ていた道着がボロボロに破けている。ところどころ、ぶすぶすと焦げ目が煙をあげていた。ふうっと息を吐き出しながら、男は続けた。

「ただ、おめーより、俺の気の絶対量が、多かっただけさ…。」

「絶対量の違い?」

「ああ…強いて言うなら、男と女の器の差だよ…。幾ら修行を積んでも、この差だけは埋められねえ…。だろ?」

「そうね…あたしの負けね…。」
 そう言いながら、フッと浮き上がるあかねの瞳。
 靄がゆっくりと降りて来た。
「でも、あたしは屈しないわ…。あんたに負けても…身体は差し出すつもりはないの…。でも、あなたのおかげで、あたしは……掟から解放されたわ…。」

 浮かび上がる笑顔とともに、憂いた瞳を一度だけ、乱馬へと手向けた。
 あかねの美しい肢体に、靄がまとわりつき始める。夜の闇に溶け合うように、ふわっとあかねの身体が浮き上がった。


「ありがとう…あたしを…解放してくれて…。」
 そうかたどりながら、身を投げた。
 仰向けのまま、背後の闇へと身を委ね、白い肢体が舞い落ちて行く。




 唐突の彼女の行動に、乱馬は驚きを隠せなかった。

「あかねーっ!」
 声を限りに叫んでいた。

「あかねは、死を選んだか…。」
 その有様を見て、早雲公が呟いた。
 乱馬はハッとして早雲公を睨み返す。
「死だと?」
「ああ。あかねはその清流の池に身を投げることで、掟から自由になりたかったのだろう…。なぜなら、彼女には泳法を禁じてあるからね。」
 寂しげに揺れる早雲公の笑み。

 瞬時、乱馬はあかねが泳げないと公言していたことを思い出した。
「そういうことだったのか…。」
 グッと拳を握りしめた。
 舞台から清流の池に向けてその身を投じること。それは、泳ぎを禁じられた彼女にとって死を意味している。
 死をもって、初めて、武烈流から解き放たれたのだ。

「この闘いは終わった。武烈流格闘術の新しい盟主は君だよ…。乱馬君。君が闘いの勝者だ。次の武烈流は早乙女氏が継ぐと良い…。」
 
「…いや、この闘いに勝者は居ねえよ…。」
 乱馬はクルっと早雲公から背を向けた。

「…池に身を投じれば、君の勝利はなくなるが…。」
 乱馬のやろうとうとしていることを察した早雲公は、背後から声をかける。

「勝ち負けなんか要らねえー。俺が欲しいのは…あかねの身一つだ。無差別真流も武烈流も…彼女に勝るものはねえ…。だから、俺は行く…。あかねは絶対に、死なせねえ…。」
 迷いは無かった。
 乱馬はだっと駆け出した。
 その下には、清流の池が水をたたえている。

「くっ!」
 乱馬は無我夢中で、柵を乗り越えた。
 そして、あかねが落下した付近から、頭から飛び込んだ。
「無差別真流…竜閃急降下!」
 叫んだ乱馬の身体が蒼白く光った。滝壺に飲み込まれる竜神のように、加速を上げ、水面へと急降下する。
 ギューンと光の矢のように、遥か下方の池へとまっしぐらに落下していった。






「さらば…忌まわしき闘いの日々…。」
 ゴオゴオと落ちながら、あかねはふっと微笑んだ。

 憧れの自由…それは、死によって、始めて得られる…乱馬と闘う前にすでに決心していた。

 闘いに勝っても地獄、負けても地獄…ならば、精一杯、足掻いて、そして、最後に自ら、池へと投身して果てること…。それ以外、自由を勝ち取る術はない。
 父が泳ぎを教えてくれなかったのも、娘を掟から逃がすための、苦肉の手段だったことを、あの衝撃的な言動の中で、初めて理解した。
 父は敢て、泳ぎを教えず、そして、何らかの暗示をかけて泳法の習得を阻んだのだ。でなければ、武道に秀でるあかねが、泳法を難なく習得出来ぬ筈がない。
 運命に抗いたければ、群がる男たちとの闘いの中で、命の気焔を燃やし切り、最後に池に身を投じ幕を引く。これ以外に逃れる術はない…。

「これで、あたしは…自由……自由に…なれる…。」

 ザブン…。

 背中を激しく打ち付けた。
 ガボガボと池の水があかねへとまとい付く。
 その水は深遠な死の闇へとあかねを誘ってくれる筈だ。
 このまま、静かに池の底で、永い眠りに就く…それが、自分の運命の行く末だと、瞳を閉じていく…。
 泳げない彼女を、池の闇が捕える。
 その闇に身を任そうとした刹那だった。

 何かに、右腕を強く引っ張られた。そして、背中ごと掬い上げられた。
 降りてくる、強い輝きを放つ気。
 幽かに開いた瞳の前に、青い光の玉が一つ、輝いて揺れた。
 
『誰?…。あなたは…。』
 抱え込んだ気の持ち主に、問いかけていた。
 見覚えのある蒼い水玉。ゆらゆらと目の前で輝いている。
『どうして…?あたしは闇に身を任せたのに…。』
 ぐいぐいとその腕は水面へと己を引き上げて行く。
『永遠の眠りにつかせてくれないの?』

 プハッと傍らで漏れた息につられ、ふっと意識が浮き上がった。
 止まっていた肺が、また、空気を吸い込み始める。
 ゴホゴホと水を吐き出しながら、咳きこむおぼろげな瞳の先に、水が滴り落ちる、おさげが見えた。
 己を引き上げたのは、さっきまで舞台で闘っていた「許婚」であった。
 入水の衝撃で、すっかり、勝気さも形を潜めている。抗いたくとも、気力は殆ど、使いはたしていた。
 なすがまま、ぐったりと身を任せる。逞しき腕にあかねを抱えたまま、ゆっくりと岸辺に向かって泳ぐ横顔。
「どうして…。」
 あかねはその男へと一言流した。
「同じ輝きを持った石を…みすみす失いたくねーんだよ…俺は…。」
 ぽつんと、言葉を投げつけられた。
「えっ?」
 とあかねは声を飲んだ。

「まだわかんねーのかよ…。俺の正体が…。」
 不機嫌に言葉が突き返される。

 あかねを岸辺まで抱えて泳ぎ切ると、水からゆっくりと上がった。
 小屋とは反対の水辺だった。
 岸辺の岩の上に、抱えながら腰かける。

「あんたの正体?」
「ああ…。よく見ろよ…。俺の瞳を…。感じてみろよ…俺の気を…。おめーは、気が読めるんじゃねーのかよ…。」
 真摯な瞳が降りて来る。グッと手を掴まれた。
 そこからほとばしり落ちる、清涼な気。
 確かに、どこかで感じた気だ。そう思った。
 と、あかねの懐辺りが、俄かに熱を持ち始めた。
 そう、巾着の石が、布越し…いや、あかねの着衣越しに赤く輝き始めたのだ。
 そっと、震える手で、巾着を取り出した。赤い石が熱を帯びて、美しく輝きながら姿を現す。

「石が…光ってる…。」

「お前…俺に言ったじゃねーか…。俺に触れていると…その石が幽かに温もりを放ってくるて…。光っているのはその石だけじゃねえ…。俺の竜の証も、光ってやがる…。」
 肌蹴た胸元に、確かにその痣は存在していた。

「どうして…あんたにその痣が…。」
 ハッとしてあかねは許婚を見上げた。

「それも、前に言ったろ?…俺の一族には、竜の証と呼ばれる水玉痣が、必ず一つ、身体のどこかにくっついて生まれて来るって…。これは、俺が生まれた時からある痣だから、清流の源泉でも、消えなかったろ?」
 はっと思って、その顔を見上げた。
 何故か、乱馬とその男の顔が重なって見えたのだ。
「あなた…乱馬なの?」
 あかねは瞳を巡らせながら、問いかけていた。差し上げた手は、微かに震えていた。
「やっと気づいたか……俺の名前は、早乙女乱馬。…そして、あの時の女だよ…。」
「でも…。」
「あの時は呪いの水を浴びちまって女体化してたんだ…。女体変化を解くには、武烈山に登って、清流の泉に浸るしかねえって親父にたきつけられて、近つ道を登ってきたんだよ……。
 男に戻るには、清流の源泉に浸すしかねーってな…。」

「本当に乱馬なの…?謀(たばか)ってない?」

「たく…疑り深い奴だなあ…。早雲公は最初っから、俺の正体に気が付いていたってーのに…。」
 ふうっとため息が漏れた。

「じゃあ、何で、あたしと闘ったの?」

「おめーが俺と本気で闘ってみたいって言ったじゃねーか……だから…許婚として、男に戻って来てやったのに…。おめーは気付きもしねえ…。そればかりか、無茶しやがって…。」
 ガバッと乱馬はあかねをその胸に抱きしめる。
「死ぬ気だったのかよっ!馬鹿っ!」
 強い力だった。

「乱馬…。」
 何故だろう。頬をつうっと涙が伝い落ちた。
「そう…あの時の…清流の泉で感じたのは…やっぱり、乱馬の気だったのね…。」
 柔らかく微笑んで、抱きしめてくる胸にすがった。
 清流の源流で、己を抱きしめた夢の中の男と、乱馬の気の流れが合致したのだ。
 こわばっていた顔は、安堵へと満たされて行く。
 あかねの気に柔らかさが加わった。過酷な闘いの日々に押し殺していた、乙女心がにわかに浮き上がって来たのだ。
 それは、乱馬を、一人の男として…受け入れた瞬間だった。


「俺と一緒に来い…あかね。」
 胸に抱きしめた乙女に向かって、言葉を落とした。
「おめーも俺もあの舞台から自ら身を投げ出した…。勝者は居ねえ…だから、もう、武烈流の掟からも、無差別真流の掟からも、俺たちは弾き飛ばされた…。俺たちを縛るものはもうどこにもねえ…。俺たちは自由だ…。」
「自由…。」
「だから…俺と来い…。いや、連れて行く。俺の伴侶として。」

 降りて来る、柔らかな瞳。
 その漆黒の輝きに魅せられていく。 
 そっと差し出された太い指先。
 躊躇いがちに触れると、ギュッと強い力で握られた。
 甘い吐息がすぐ傍で漏れる。
 合わせられる、濡れた唇。 
 あかねは拒むことなく、受け入れた。
 長いくちづけから始まる甘美な時めき。
 瞳を閉じ、身を委ねる。
 重なり合う二つの影は、互いの存在をそこに確認しあった。
 全身全霊で求めあい、感じあう。同じ耀きを持つ魂。

 比翼連理の石たちは、夜の四十万の中で、固く結び合う。
 やがて、二つの石は、一つに溶け合い、美しく輝く光を塗り込めていった。






「行こう…。」
 東雲の空が白み始めた頃、乱馬はあかねへと声をかけた。
 乱れた髪をすきなおし、連髪も結いなおした。
「ええ…。」
 はにかんだ笑顔が目の前で揺れる。
 朝露が森の中をしっとりと濡らす道。
 何も手に持つものはない。腹を空かせば、獣を狩り、疲れれば木陰で休めば良い。路銀も道すがら稼ぐつもりだ。
 一からの旅立ち。それでも迷いは無かった。澄んだ瞳で互いを見詰める。
 固く手を握りしめながら、二人一緒に歩き始める。
 つかみ取った自由は、明日へと連なって行く。
 どんな山や谷が待ち受けようと、二人ならば、乗り越えていけるだろう。過酷な闘いも、夜の闇も打ち砕けるだろう。
 
 
 彼らの後方で、武烈の青垣がひっそりと見送る。
 若い二人の新しい門出を祝福するかのように、ゆっくりと環を描きながら、稜線から太陽が昇り始めた。




2002年6月プロット
2014年6月30日 完結



お粗末さまでした…。
本当は、長い髪のあかねちゃんのモードで書きたかったのですが、格闘少女なら短い方が良いだろうと、短い髪のあかねちゃんで描きました。先に描いていたイメージ絵もショートだったので…。
ああ…完結して良かった…。Rプロットから書き起こした濃厚作を…呪泉洞掲載にした私をお許しください。



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