◆幽石

第五話 千人目の対戦者


九、


 どおおっと、目の前で巨漢が倒れた。
 グッと言ったきり動かなくなった。
 意識を失ってしまったようだ。
 その胸倉をつかみ取ると、あかねは巨漢を持ち上げ、ぶんっと舞台から下へ向けて放り投げた。
 声を発することも無く、白目を剥いたまま、男の巨体が池へと吸い込まれて行く。

「か…勝ったわ…。これで九百九十九人目…。」
 はあはあとあかねが息を荒げる。
 いつもなら、ここで劉がさっと降りて来て、清流の泉へと運んでくれるが、姉たちを送って武双山へと出かけている。従って、自力で、城塞まで登らねばならない。
 大した相手ではなかったにしろ、九百九十九人目を相手にしているという気負いがあったのか、いつもよりも、動きに精悍さを欠いていた。
 大いに反省しなければならないところだ。乱馬が傍に居れば、喝を入れられたかもしれない…ふと、そんなことを思った。

 たった、数日しか一緒に居なかった少女なのに、姿を見失って、変に心がざわついている。
 何故、彼女に対して、懐にあった石が反応してしまったのか。女の友情の芽生えと一言で片づけ るには、あまりに理不尽過ぎた。
 かといって、己に同性愛主義は無い。
 いや、無くても、群がる男たちは、ただの厄介者にしか過ぎなかった。男に対する憎悪の念が強くなった分、もしかすると、女子の方が身に馴染むのかとさえ、思えてくる。
 
 
 天上の太陽は、容赦なく、あかねを照らしつける。
 そろそろ夏に近い。
 気温が上昇してきって、全身汗まみれだ。
 熱い吐息が口から零れ落ちた。まだ若干、闘いの後の動悸が、体のどこかで跳ね回っているような気がした。


「九百九十九人目制覇か……よくやったね…あかね。」
 ふと、目を上げると、いつの間にか、父の早雲公がそこに立っていた。

 父がこの武舞台まで降りて来ることは滅多になかった。
 この武舞台はあかねの闘技場。従って、父には無縁に近い場所だったからだ。
 九百九十九人目を倒した娘に、褒章の言葉でも褒賞の言葉でも投げかけにきたのだろうか。
「やったわ…お父さん…。これで、後は、許婚との闘いを残すだけね。」
 ふううっと長い息を吐き付けながら、あかねは父親を見上げた。

「その前に、武烈流格闘術の宗家家元として、おまえに話しておかなければならないことがある。」
 早雲公は娘の前に正座して座りなおした。
 改めて、何かを伝えようとしているのか。その表情は真摯にあかねを見据えていた。恐らく父は、何か重要なことを告げるために、武舞台まで降りてきたに違いない。
 慌てて、姿勢を糺すと、あかねも父の前に正座した。
 きらきらと汗が額から流れ落ちる。

「その前に、この聖水を身体に浴びなさい…。劉が居ない今は、下の泉まで行けないからね。」
 早雲公は持っていた竹筒を渡した。中には清流の源泉の水が入っている。

 あかねはその筒を受け取ると、栓を開け、まずは乾いた喉を潤した。そして、残った水を手にとると、傷ついた皮膚をこすった。
 源泉の水だ。ぬりこめただけで、みるみる、闘いでついた傷が癒えていく。そして、疲れ切った身体にも、少しだけ気力が回復したようにも思えた。
 一通り、身体に泉の水をすりこみ、はああっと大きなため息を吐いたところで、ハッとあかねの表情が変わった。

「これは…。」

 山の中に蠢く、気の塊を捉えたのだ。

 いくつかの気が、乱れあっている。それは、近つ道でも正道でもない、全く別の方向から流れて来た。
 さっきまでは感じなかった気が、身体の回復により、グンと迫ってきたのだろう。
 その塊の中に、一際、澄んだ大きな気があった。
 今までに感じたことがない、強靭な耀(かがや)きを放つ気だった。

「感じたかい?」
 早雲公は、あかねへと問いかけた。
「ええ…。凄い勢いで、武烈流の猛者たちを倒している人が居るわ…。」
 頷きながら、あかねが答えた。

「あかね…。これが、おまえの許婚の気だ。」

「許婚の気…。」
 それを聞いて、ぞわっと鳥肌が立った。

「一両日以内に、彼はここまで上がってくるだろう…。早ければ、明日の夕刻。おまえはここで、彼と対戦しなければなるまい。」
「ええ…そうね。最後の闘いだものね…。しかも、一族の了承の元、決められたあたしの許婚…。」

「聞き及んでいると思うが、彼は無差別真流の正統後継者だ。」
「無差別真流…確か、武烈流と同じ流れを汲む、気技の流派…。」
「そうだ…。若いころワシが一緒に野を駆け山を駆けた盟友、早乙女玄馬君の息子だよ。」
 早雲公はあかねへ向き直ると、言葉を続けた。
 間接的に姉たちから。許婚のことはチラッと聞いていたが、父の口から直に聞かされるのは初めてだった。
「敢えて、名前は今、告げずにおく…。彼がおまえに名乗るだろうからね。」
 と何故か、早雲公は肝心な許婚の諱(いみな=本名)を伏せた。
 或いは、父も、名前までは知らないのかもしれない…あかねはそう判断した。

 父は姿勢を糺すと、あかねを睨み据えながら言った。
「今一度、問うておく…。あかね。おまえは武烈流正統後継者として、無差別真流正統後継者の許婚と契りを交わす気は有りや否や?」
 ピクッとあかねの肩が動いた。

 この気の持ち主を倒すのは、並大抵ではないだろう。
 対峙する前から、畏怖にも似た、緊張感があかねを覆い始めていた。
 いや、畏怖だけではない。憧憬にも似た、ワクワクした気持ちが、同時に押し寄せてきていた。
 こんな気を解き放つ男とは、一体、どんな奴なのか。興味を持った。
 巨漢か痩せっぽっちか、それとも、中年なのか、青年なのか。一切の情報は与えられていない。
 わかっているのは、無差別真流の使い手ということと、早乙女氏の者だということだけだ。
 恐ろしいと思う反面、闘ってみたいという気持ちが、グイッと頭を持ち上げて来た。
 女である前に、あかねは武道家だった。

「あたしは…許婚と簡単に結ぶ気はありません。」
 暫し沈黙した後で、あかねはきっぱりと宣言した。
 もちろん、昨日まで傍に居た、女の子の正体が彼だということにも気づいていない。
 あかねは気をまさぐることが、乱馬ほどは得意ではなかった。故に、気を発する者の性格や性質までは、読むことが出来なかったのだ。故に、少女とこの気の持ち主が同一人物だということに気付いていない。
 男に戻った乱馬の放つ気が、あまりにも大きすぎたのだ。
 昨日まで一緒にいた、女の子と同一人物と見破れる筈もなかった。

「あくまで拒否権を発動し、彼と闘うというのだね?」
 早雲公は愛娘に真摯に問いかけていた。
「はい…。あたしは闘います。あたしは、武烈流格闘術の正統後継者として、この者と闘います。」
 早雲公の目の前で、決意の瞳がギラギラと揺れた。

「その決意やよしっ!」
 パンと早雲公は膝を叩いた。
「ならば…もう一つ…おまえに言い置かなければならないことがある…。」
 すっと早雲公はあかねから瞳を外し、息を飲んだ。そして、再び、視線をあかねの上に戻すと、静かに話し始めた。

「許婚との闘いを決意したところで…もう一つ…。おまえに了承しておいてもらいたいことがあるのだ。これは、一族の掟である。」
 父の強い光に、圧倒されながら、あかねは言葉を一つ一つ、逃さず、聞こうと、息を潜めた。

「この勝負を闘って、晴れて許婚を破った暁には、おまえはこの私と、当主の地位をかけて闘わねばならぬ。」
「えっ?」
 あかねの大きな瞳が、見開いた。
「その勝負におまえが勝てば、私はこの頚城を落とし、おまえに当主の地位が与えられ、おまえはここの当主となる……。だが、おまえが負ければ、私と契るのだ。」
 父の言葉に、一発、脳天を殴られたような衝撃が走った。
「今…なんて…?」
 思わず問い返していた。
「おまえが私と闘って負けた時は、おまえは私と契り、次の子孫を産み落として貰わねばならん…。もちろん、拒否権もある…あるが、私との闘いを拒否した時は、また、新たに許婚を定め、おまえはその許婚と睦ぶか、再び、千人の男漢と闘い続けなければならない…。」

「そ…そんな…。」
 顔面は蒼白になり、心音は激しく波打っていった。
 
「それが、おまえの運命だ…。これは代えられぬ、武烈流の掟。しかと、心に刻んでおいて欲しい。」

 何故、かすみとなびきが山から下ろされたのか。その時、初めてあかねは理解した。
 姉たちに、血を分けた父とあかねの修羅場を見せる訳にはいかないからだろう。ましてや、契る可能性があるなら猶更だ。父親と妹の睦びあいなど、外道に等しい。
 
「まあ、あくまで、おまえが許婚と闘って勝ってからの話となるがね…。」
 早雲公はにこりともせずに、あかねに対した。
「おまえは武烈流格闘術の華だ。だからこそ…修羅な闘いを強いられる。だが、掟とはいえ、それはおまえが選んだ道でもある…。
 が、誇りを忘れてはいけない。全力を尽くして、いずれの闘いにも望むこと…それが、武烈流格闘術宗家の私の娘としてのおまえの役目だ。誇りを見失うなよ…。」
 早雲公はそれだけを言い置くと、すっとあかねの前から立ち上がり、そのまま、舞台から上がっていった。

 あかねは、己の運命の行き先を聞かされて、すっかり狼狽していた。
 当り前である。
 良かれと思って始めた闘いの日々。その終末に来て聞かされた新たな掟。
 そんな伏兵が潜んでいるとは思わなかった。
 この時、初めてあかねは、女に生まれて来た己を、激しく否定していた。女に生れなければ或いは…。
 だが、涙など流している暇はない。
 下から漂う気は、容赦なく、上を目指している。
 いくら武烈流の猛者たちが立ち塞がっても、この気の持ち主にはかなうまい。ここへ現れるのは時間の問題だ。


「あたしには…闘い続けるしか…道は無いの…。誰かに倒されるまで。乱馬…ねえ、乱馬なら、どうするの?あなたも格闘家なのよね…。同じ女の…。許婚に身を委ねるの?それとも父に身を投げだせるの?…それとも、倒されるまで、闘い続けるの…?」
 巾着から石を取り出して、語りかけていた。
 それは、真っ赤な石だった。鮮血の紅さ…。いや、炎の紅さだ。
 今は発熱もしていない。ただの冷たい塊だった。

『大丈夫…。何とかなるさ。それに、そうやって意気消沈するのって…。あかねらしくねえぞ。』
 ふっと、乱馬の声が浮き上がる。

「でも、今回だけは、あたしダメかも…。」
 そう言いながら、巾着袋を懐へしまい込んだ。

『我武者羅に突き進めよ…。』
 また、乱馬の声がした。

「…考えていてもらちがあかないわね…。千人目の男は目の前まで来ているわ…。乱馬…あんたがあたしに言ってくれたように…ただ、我武者羅にこの男と闘ってみるわ…。そして…この人に敗れたら……あたしは……。」
 静かにあかねは、ある決意を固めた。
 それは、闘いを強いられた乙女の、悲壮な決意だった。




 その頃、山の中で、乱馬は孤軍奮闘を続けていた。

「たく…寄ってたかって、俺に狙いを定めやがって…。」
 ふううっと乱馬は息を吐き出した。
 既に、着こんでいた道着はボロボロに破けている。元々破けていたが、それ以上に、殆ど、上半身が剥き出しになっていた。
 闘い通しで、夜もすっかり明けていた。

 
 傍に倒れている男で、一体、何人を倒したことになるのだろう。いちいち数えていないが、四、五十人は倒した筈だ。
 しかも、それぞれが気技の使い手ときている。
 一応武人の群れだったので、対戦者は一対一で襲いかかって来た。集団で打ちのめす…徒党までは組まず、律儀にも一人ずつ、現れては乱馬へと果敢に闘いを挑んだ。
 一人、倒れると、また一人、姿を現して襲ってくる。その繰り返しだった。
 乱馬も気技のスペシャリストであったが、それでも、五十人を次から次へと相手していると、さすがにきつかった。

「そーんなに、流派当主の乙姫様が大切なら、自分たちが挑戦すれば良かったんじゃねーのか?」
 とぶうぶう文句の一つも呟きたくなる。
 どの男も乱馬にあからさまな敵意を抱いて挑んでいた。
 他流派の貴様に、流派の華、乙姫を嫁にやれぬ…という意気込みが感じられた。
「まあ…九百九十九人を相手した、乙姫様ほどじゃねーだろうがな…。」
 乱馬は汗をぬぐい、ふうっとため息を吐き出した。
 どうやら、今の男で、敵対してきたのは最後のようだった。
 気をまさぐっても、それ以上の輩は出てこない。
 遥か上方にある、あかねと早雲の気だけが、肌を通して感じられた。

 いや、もう一人…。
「何をぶつぶつ言っておる…。」
 物陰から見ていたそいつが、ひょいっと姿を現した。

「親父か…。…たく、いい気なもんだぜ…。数百メートルも間を開けて、ついてくるなんてよー。」
「仕方なかろう?武道会でもないのに、他流派の若者をワシがのしあげたら、大問題になるぞ。」
「…たく…。そこだけ、てめえ勝手な理屈をこねやがって…。まあ、いいや…。これで全部だな。」
 ほうっとため息を吐きだした。

「ちょっと見ぬ間に腕をあげたのう…。」
 玄馬がニヤッと笑った。

「うるせーよっ!それより、目的地はもうそこだぜ。」
 乱馬は顎先で進みゆく道を指し示した。

 そこには、水溜りがあった。
 美しい緑色の池が、さざ波をたてて、静まっていた。
 その上方に、城壁が見えた。その壁からせり出すように、平らな舞台が見える。
 あかねが九百九十九人の男を倒した、あの武舞台だ。
 その影が、朝の光に生えている。
 武舞台までは、数十メートルはあろう。下に池がなければ、確実、命を落とすだろう。
 いや、実際、何人かの力ない男は、ここで溺れて命を落としたに違いあるまい。たとえ、清流の泉が注ぐ癒しの池でも、あかねの強肩に倒れて、浮かび上がれなければ、確実死ぬだろう。

 道はその池でふっつりと途切れていた。
 池の周りは、これまた切り立った崖が続いている。
 対面には小さな小屋が立てられていて、その背後から、城壁に向かって、折れた石段が延々と伸び上がっているのが見えた。
 池を泳いで対面まで渡り、その階段を上ってこい…。暗にそう指し示しているようだ。

「さて…あそこまで泳ぐ以外に手立てはなさそうじゃな…。」
 ふうっと玄馬は吐き付けた。
「その身一つで泳いで来いってか…。」
 乱馬はフッと笑った。
 上から見れば、そう大きな池には見えなかったが、底は結構深そうだった。緑色の水が深遠と底まで続いている。透明度はかなり高いのに、全く底が感じられなかった。或いは、底なしなのではないかと思うほど、深そうだった。
「どーした?渡らんのか?」
「いや…。魚一匹、泳いでねーんだな…。」
 水面を見詰めながら乱馬が言った。
「薬事効果が高いのは、返って魚には毒なのかもしれぬな…。」
「ほう…親父も、この池の源泉のことは知っているのか?」
 乱馬が穿った瞳を玄馬へと傾けた。
「まーな…。癒しの泉、清流泉は闘いに身を置く人間にとっては、蓬莱水とも違わぬものじゃからな…。この水を守るため、武烈流の宋主は心を砕いてきたともいうし…。」
「ああ…ふざけた掟をたくさん作ってな…。」
 乱馬はキッと水面を見据えた。

 ドッブーン…。

 次の瞬間、水飛沫が上がった。
 乱馬が頭から飛び込んだのだ。
 思っていたよりも、水温は高かった。やはり、源泉の冷泉が、湧きだしているせいもあるのだろう。
 或いは、源泉に近いぬるま湯なので、生き物の姿が見当たらないのかもしれなかった。
 池に良く群生する、葦や蒲などの植物も一切、水の中には一切生えていない。透明だが、底が見えない分、水面は暗い光を放っていた。
 
 岩だけがごろごろと池の周りを囲んでいた。

 池というのに、微かな流れがあった。
 この池を源として、一本の川が、流れていたからだ。
 滝とまではいかないが、傾斜がかった流れのある川へ、池水が勢いよく流れ込んでいる。
 上から落ちた武人はこの川を流されて、下流まで運ばれると早雲公が言っていたのを、目の当たりにしたのである。
 気を抜くと、水流に引き込まれ、このまま己も流されかねない。
 それなりに、懸命に泳いだ。
 
「ふう…。やっと、人心地がつけるわい。」
 岸に上がった玄馬が、ほうっとため息を吐いた。
「てめーは闘っちゃいねーだろーが…。のうのうと見学を決めつけてやがった癖に…。」
 水をしごきながら、乱馬がじろりと玄馬を見返した。
「で?これから、どうするんだ?あの階段を上がって行くのか?」
「ああ…。」
 玄馬が頷くと、乱馬は軽く言い放った。
「じゃあ、行くか…。」
「待てっ!」
 小屋の裏側から続く道へと、向かおうとした乱馬を、玄馬が押しとどめた。乱馬の襟元をつかみ、強い力で引き戻したのだ。
「何しやがるっ!」
 急に首がしまりかけて、思わず乱馬は玄馬へと苦言を吐きだした。
「ったく…この武道馬鹿め。」
「あん?」
「上がって行くにしろ、作法というものがあるのだよっ!」
 と押しとどめる。
「作法だあ?」
「ああ…。貴様、その格好で行くつもりか?」
 ボロボロになった道着を見詰めながら、玄馬が唸った。
「仕方ねーだろ?一張羅(いっちょうら)だぜ。」
 ぶすっと乱馬が吐き付けた。
「そんな格好で行かせる訳にはいかんわっ!一応、おまえは、無差別真流の御曹司ぞっ!」
「だったら何だ?着替えでもあるのか?」
 つい、声が大きくなってしまう。

「あるわ。そら…。」
「どこにあるんだよ?身一つで駆けてきたんだろ?親父だって。」
「だから、そこの長持ちの中じゃ。」
「長持ち?」
 周りを見渡した。
 と、あった。小屋の中の隅っこに、その長持ちは、トンと置かれていた。
「開いてみるが良い…。」
 言われるままに、蓋に手をかけた。
 と、濃い青色の道着がその中から出てきた。襟元まで詰まった、光沢のある大陸風袖無しの新しい道着がそこにおさめられていた。ズボンも同色だ。腰に縛る薄い深紅の布切れもあった。胸には竜の透かし模様が入っている。

「おまえの身体に合わせてしつらえてある。」
 玄馬が得意げに言った。
「俺の身体に合わせてだと?…ってことは、やっぱりてめー…。」
 乱馬はキッと玄馬を見詰め返した。
「予め、早雲公の元に送りつけておいたのじゃよ。格闘馬鹿の貴様なら、きっと、乙姫と闘うことを選ぶと思ってな…。何、親心じゃよ。」
「格闘馬鹿は余計だ…。それに、何が親心だ。俺の純心をもてあそびやがって…。」
 ムスッとした表情で切り返す。
「ふん…。乙姫に興味を持ったからこそ、闘うことを選んだのじゃろうが……。ということで、今宵はここに泊まるぞ。」
「あん?今すぐ着替えて上に行くんじゃねーのか?」
「ったく…闘い急ぐな!」
 玄馬が乱馬を押しとどめた。
「…休憩も無しに一戦交えるつもりか?いくら体力の塊のおまえでも、きついぞ。」

 そうだ。丸一日ほど、懸命に駆けて来た。それも、武烈流の若者を相手に闘いながらだ。
 もちろん、睡眠もとっていない。

「…たく…。腹は清流の泉の水で、膨れるだろうが…。疲れを完全にとっておかねば…侮れば手痛い目に遭うぞ…。乙姫の闘いぶりだって見てきたのじゃろう?」
 玄馬はやれやれと言わんばかりに、言葉を継いだ。
 
 確かに、あかねは強い。だてに九百九十九人を倒して来た女格闘家ではない。
 相当な気の使い手だ。生半可な状態で臨めば、苦戦を強いられるだろう。
 それに、あかねとて、九百九十九人目を相手したばかりであるから、少しくらいは休みたかろう。そう思った。

「それに…。許婚同士の闘いは太陽が落ちてからと…掟で決められておるそうじゃからな。」
 フッと玄馬は笑った。

「そら、池の水を飲んで、腹を満たし、とっとと、休めっ!日が傾き始めたら、ワシが起こしてやるわ。」
 玄馬に促され、渋々、小屋へと入る。
 中は小ざっぱりしていた。
 恐らく、何人もの武人が、上に上がる前に休んだのだろう。
 床のようなものも設えてあった。
 泉の水を、少しあおってから、床にゴロンと横になる。
 身体は闘いを求めて、熱く燃え上っているが、ここは親父の言うとおり、少しは身体を休めておかなければ、極上の闘いにはなるまい。

(俺も、どこまで行っても、格闘馬鹿だな…。女と闘うのは主義じゃねーが…この勝負…あかねをぶっちぎって勝たなきゃ意味が無え…。)
 はやる気持ちを抑えながら、目を閉じる。




十、


「乱馬…そろそろ着換えろ。上に行くぞ。」
 太陽の光に力が無くなり始めた頃、玄馬が乱馬をゆり起した。

 少しだけ眠るつもりが、ぐっすりと寝入ってしまっていた。
 思ったより、身体に受けた疲れの影響は大きかったのだろう。
 ここ数日、いろいろなことがあり過ぎて、ゆっくりと眠る暇も無かったのだ。

「ああ…。わかった。」
 眠い瞳をこすりながら、玄馬が用意してくれた「親心」に袖を通す。
 
「男ぶりが上がったのう…。」
 丸い眼鏡越しに、玄馬が見詰めて、笑った。

「うるせー、からかうなっ!」
 つい吐き出してしまう。
「男ぶりが上がっても、多分、またボロボロになるんだろーぜ…。」
 ムスッと返答を返した。
「まあ、そう言うな…。おまえは、無差別真流の看板を背負って闘うのだ。乙姫様とボロボロの道着のまま、対面するのは、あまりに不味かろう?」
「恰好を気にしていたら、勝てる勝負も勝てなくなるぜ…。」
 黄色いリストバンドをつけながら、そう吐き付ける。
 それから、ぶんぶんと両手を回した。
「確かに、俺の身体にぴったりだな…。一応、礼を言うぜ…親父。」
「ほう…少しは大人になったか?貴様が礼を口にするとはなあ…。」
「…まあな…。それから、親父、一つ頼みがある。」
「あん?何じゃ?」
「乙姫様と対峙する時、俺の「乱馬」って名前は伝えねーで欲しいんだ。」
 ぼそっと吐き出した。
 あかねと女のまま対峙した時に、既に、名前を名乗ってしまっていた。従って、余計な混乱を闘う前にあかねに与えたくないと、思ったのだ。
「…ということは、貴様、乙姫さまと言葉を交わしたな?」
「ああ…女の姿のまま、名前を一度名乗っちまってる。」
「…たく、闘いの駆け引きから一歩引くつもりか?」
「悪いが、ここだけは譲れねえ。俺が乙姫に名乗りを上げるのは、勝負に勝った後でいい。」
「…相変わらず、律儀な奴だな。…まあ、よかろう。…そら準備が整ったら、行くぞ。」
 玄馬は先に立って外へ出た。

 そろそろ夕闇が降りて来る時刻だ。

 夕焼けが茜色に空を染め始めていた。
 真っ赤な空だった。
 血の色の雲が浮かぶ。

 小屋の裏手の石段に足をかける。
 いくつもの石を積み重ねて、丁寧に、城塞まで続いている。
 それだけでも、結構険しかった。九百九十九人の欲望を秘めた武人たちが、あかねを求めて上がった石段に、今、自分も足をかけている。
 不思議な気持ちだった。
 つい、五日ほど前までは、そんな素振りもなかった。第一、武烈山の乙姫など、知らぬ存ぜぬで過ごしていたのだ。

 たった、数日で、己の運命まで変わってしまった…。まるで、あかねの運命に引きずられるように、彼女と出会ってしまったのだ。初めから決められていたかのように…。

 石段を登りしめながら、ふっとそんなことを考えた。

 武烈舞台の上であかねはどんな顔で己を迎えるのだろう。
 
 女体だった時と同じおさげが後に揺れている。夕闇が迫っているとはいえ、あかねはそのおさげを認めて、どう感じるのか…。
 女乱馬は無差別真流が放った間者だったと思うかもしれない。或いは、この自分の血縁者だと思うのかもしれない。
(あいつがどう思おうと…俺の真意は一つだ…。正体を最後まで隠し通して闘いに臨む…。)
 一段一段を、踏みしめながら、はるか上で待つ、清らかな気へと、向かって行く。

 あかねの放つ気は、澄みきっていた。その清涼さが、返って、闘い続けねばならない彼女の運命の枷(かせ)の非情さを物語っているようにも思えて来る。
 九百九十九人目の男を倒した自信が、彼女の輝きを増したのか…それとも、早雲公に掟のことを聞かされて、腹を括ったのか。乱馬が心配していたような、心の大きな揺れは表面上は感じ取れなかった。
 むしろ、静かに過酷な運命を受け入れて、最後の敵「許婚」を待ち構えているように見えた。

 やがて、最後の石段を踏みしめた。先を行く父の背後から、つっと武舞台の上に立った。


 あかねは無言で、乱馬を出迎えた。
 真っ赤な光沢のある道着を身にまとっていた。炎のような赤い色だった。
 もちろん、にこりとも笑わない。
 固く口を結んだまま、じっと乱馬を睨み据えて立っていた。
 これまでに至る、九百九十九人の男たちに吐き出した出迎えの言葉すら、あかねの口からは発せられない。
 その代わり、あかねの後から、早雲公が一歩前に歩み出して来た。

「これは、早乙女君…。久しぶりだね。」
「おう…そちらも元気そうで何よりじゃ。」

 二人の父親は、盟友らしく、親しげに互いの再会を祝福しあい、肩をたたき合う。
 その動作を、あかねは、まんじりともせず、見詰める。
 表情はこわばっていた。得体の知れぬ「許婚」に対する猜疑心でいっぱいの瞳を浮かべていた。
 女乱馬に手向けた笑顔は、当然のことながら、一切、こぼれない。

「良く来てくれたねえ…。そちらが…君の息子さんかい?」
 早雲公はじっと、目を凝らして乱馬を見た。
「ああ…次代の無差別真流を背負って立つ、我が息子じゃ。歳は十八。」
「本当に、良く決意してくれた…。」
 ふっと早雲公の瞳が泥んだ。早雲公は乱馬の瞳に、女乱馬の影を見つけたようだった。初対面の緊張感が、どこか嘘っぽい空気を含んでいた。
「紹介しよう…。これが、私の娘の乙姫だ。君と歳は同じく、十八歳だ。」
 早雲公はあかねの肩をポンと叩いた。

 乱馬もあかねも、互いを紹介されても、一切微笑みを返さなかった。
 あかねはじっと睨み据えるように乱馬を見詰めてきたし、乱馬も無言でそれに答えた。

 闘いは既に始まっていたのだ。

(十八歳…同じ歳…。でも、あたしは負けないわ。)
(…たく、微塵も俺の正体に気付いちゃいねーか…。やっぱり…。)

 互いに複雑な思いを、無言でぶつけ合う。
 既に日は落ちていて、辺りは薄暗くなり始めていた。
 四隅に薪がくべられて、真っ赤な炎を上げていた。

「無差別真流の若者は、連髪を結うのが常だと聞いていたが…君もそうなのだね。」
 早雲公が二人の間に割って入った。
「いや、正確には、最大奥義を極めた者だけが連髪を許されている…。それ以外は結えぬよ。居ても数人じゃ。」
 玄馬がその問いかけに答えた。
「若いころから早乙女君は連髪など結っていなかったが…。」
「結いたくても結えなかったんじゃよ…ワシはね…わっはっは。でも、ワシもこいつの年頃には…ちゃんと最大奥義はおさめておったよ。じゃないと、宗家代表は務まらんじゃろう?」
 なんとものどかな会話を父たちは交わしていた。この場を和ませようと、それなり必死だったのかもしれない。
 だが、彼らのもくろみなど、二人の子どもたちには、一切、無縁だった。

(最大奥義を極めた者だけが連髪を結える…。)
 あかねはハッとして、乱馬を見据えた。
 目の前の男の背には、おさげが揺れていた。
 いや、それだけではない。女乱馬の背中にも、同じおさげが揺れていたことを思い出したのだ。
(やっぱり、乱馬…あんたは無差別真流の使い手で、あたしの様子を見に来ていたのね…。)
 複雑な表情があかねを過(よぎ)った。もちろん、彼女は、目の前の青年が女乱馬と同一人物だと気づいていない。
 彼女の小さな動揺など、気にも留めずに、早雲公は乱馬へと問いかけた。

「ということは…君も無差別真流の最大奥義を…。」
「もちろん、収めています。」
 澄み切った若者の声が、返された。自信に溢れた言葉だった。

「ふふふ…これは面白い…。どうだ?彼は好青年だ。今まで闘って来た九百九十九人の男たちと比べ物にならぬくらい、懐が深そうな気の持ち主だが…。それでも、闘うことを選ぶかね?」
 すぐ横で睨みつけている愛娘へと問い質した。

「はい…。あたしは、闘うことを選びます。でなければ、今までの闘いが無益になってしまいますから…。」
 丁重な言葉を投げ返した。どこか冷たい響きを含んでいた。
 
 それを耳にして、ふううっと早雲は長い溜息を吐きだした。

「見ての通り、跳ねっ返りの娘だ。悪いが、素直に君と契りを結ぶ気はないらしい…。」

「いえ…俺も、ただ、はいはいと従うだけの女はご免こうむりたいです…。むしろ、乙姫と闘ってみたい…。この手で組み伏すまで…。」
 乱馬はじっとあかねを見据えながら言った。そして、ニヤリと口元が笑った。
 巧みにあかねを煽って見せた。
 決して嫌らしい笑みではなかったが、その口元を見て、あかねの表情が豹変した。

(やっぱりあんたも、野獣なわけね…。他の男たちと同じ…あたしを蹂躙したいんでしょうけど…そうはいかないわよっ!)
 はっしと睨み返して来た。
 勝気な瞳が乱馬の目の前で弾ける。決して女乱馬には見せなかった瞳の輝きだ。
(いいぜ…。その調子だ。)
 乱馬は、してやったりとほくそ笑んだ。
 格闘馬鹿の乱馬は、あかねの本気を引き出したかったのだ。それでなければ、意味がない。


「乙姫…。彼に聖杯を持ってきなさい。」
 早雲公は、無言で気を飛ばし合う二人の間に、すっと入った。
 そして、あかねに命じた。
「聖杯?」
「ああ…。この舞台で闘う者は、常に対等でなければならない…。だから、おまえも、聖杯を飲んで来なさい。」
「わかりました…。」
 あかねはそう言うと、くるりと背を向けて、一旦、その場を離れた。


 あかねが行ってしまうことを確認すると、早雲公は乱馬へと声をかけた。

「君が戻って来てくれて嬉しいよ…乱馬君。」
 とにっこり微笑んだ。やはり、早雲公は最初から、乱馬の正体を見破っていたのだ。
「闘う気になってくれたんだね?」
「ええ…。あの真っ直ぐな瞳を持つ彼女と…あかねと闘ってみたくなったんです…。」
 乱馬は静かに答えた。
「勝つ自信は?」
「もちろんあります。それで…無差別真流の跡目として、俺があかねに勝った暁には、許してもらいたことが一つあります。」
 乱馬は淡々と述べた。
「何かね?」
「あかねと、この武烈山を降りたいんです。」
「こら、乱馬っ!貴様…。差し出がましいことを…。」
 口を挟みかけた玄馬を制して、乱馬は続けた。
「あかねはこの山しか知らない…だから、見せてやりたいんです。広い世界を…。もちろん、跡取はちゃんと作ります。武烈流も無差別真流も…両派それぞれを背負う子孫を、育て上げて戻って来たい…。」

 その言葉を聞いて、早雲がフッと微笑みを投げた。そして、キッと乱馬を見据えて言った。

「それは、この勝負が終わってから、改めて聞こう…。但し…君がこの勝負に勝てば…という条件がつくがね。」
「はい…。俺は負けませんから。」
「あかねは強いぞ…。何しろ、九百九十九人の男どもをなぎ倒してきたのだからね。」
 得意げに早雲公は乱馬へと吐き付けた。
「わかっています…。でも、俺はその上を行きます。行ってみせます…。だから、さっきのこと、考えておいて下さい。お願いします。」
 そう言って頭を下げる。

 そして、すっと立ち戻ったとき、青年の瞳に、闘志が灯っていたのを早雲公は見逃さなかった。

(いい瞳の輝きをしている…。女の時とは別の輝きだ…。彼なら或いは…あかねを…。)


「お父さん、聖杯を持って来たわ。」
 あかねがすっと舞台へと降り立った。
「はい…。」
 素っ気なく乱馬へと手渡す水。
 その水を受け取ると、乱馬はグイッと一気に飲み干した。
 聖なる泉の水。
 全身に尊き闘いの力がみなぎり始める。

「じゃあ、闘いを始めようぜ…。」
 空っぽになった聖杯を早雲公へ戻しながら、乱馬はあかねへと吐きつけた。
「望むところよ…。」
 あかねもダッと身構える。

「では、始めよう。無制限の一本勝負だ。」
 早雲公は二人の間に立った。

 運命の闘いが幕をあげる。


 
つづく







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