◆幽石

第四話 青年の決意


七、

 いつの間にか、辺りは夕闇に包まれ始めていた。
 森の奥からは、獣の声がしきりにこだまする。
 劉は二人を乗せて、清流の泉が湧く森へと向かって飛んでいた。あかねはぐったりと乱馬へ身を寄せていた。

「たく…無茶な闘い方しやがって…。傷だらけじゃねーか…。」

 乱馬は腕に抱えたあかねを見やりながら、呟くように言った。
「仕方なかったのよ…。己の身体を気にしながら闘っていたら、あの良牙とかいう男には勝てなかったもの…。」
「そうまでして、勝ちたかったのかよっ!あの男に大人しく抱かれちまっても良かったんじゃねえのか…。」
 と、不機嫌な、それでいて怒ったような口調になる。
「馬鹿言わないでっ!」
 腕の中で激しくあかねが叫ぶ。バランスを崩して、劉の背中から弾き飛ばされそうになった。
「バカッ!大人しくしてろっ!只でさえ、気を使い果たした後だろうがっ!」
 乱馬は思わず抱き留める腕に力を入れた。
「あたしが待っているのは、あんな男じゃないの…。」
 思わず、苦言が漏れる。真摯な瞳で乱馬を見返して来た。
「あ…あの野郎は…いい男だったと思うぜ。純情で真っ直ぐで…。邪心は無かった…純朴な青年だったぜ…。」
 そう言いながら思わずあかねから視線を反らせた。
「そうね…。確かに、彼は誠実そうだった…そして、強かったわ。でも、違った。あたしの石は温もりを持たなかったもの…。」
「石?」
 乱馬はきょとんと問い返していた。
「これよ…。」
 あかねは胸元から、小さな巾着袋を取り出した。赤い布切れで縫われた掌に入るほどの大きさだ。
「この中に、母さんの形見の小さな石が入ってるの…。これをお守りとして、肌身離さず来たのよ…。」
 あかねは柔らかく微笑みながら続ける。
「この石はね…あたしの心に共鳴する人が現れると、幽かに温もりを持つんですって…。」
「温もり…?」
「ええ…。母さんが言うには、人には同じ輝きの心を持った人が必ず、一人居るんですって。その人と会えた時は、その心の石は共鳴するようにときめいて、温かい温もりを持つんですって…。
 でも、あの良牙って人と拳を合わせても、この石はぬくもりを感じさせてくれなかった…。あれだけ強く、清く真っ直ぐな青年(ひと)だったのに…石は冷たいままだったのよ…。」

 あかねの視線は遥かな空(くう)を見ていた。

「あたし…闘いながらね…本当はね…同じ輝きの石を持った人を探し続けていたのよ…。この石が温もりを持つ時を…。」
 ふっと自嘲気味に笑った。
 
「白雲幽石を抱(いだ)く…。か。」
 乱馬はふっと言葉を吐いた。
「何よ、それ…。」
「寒山の詩の一部だよ。修行に籠った寺で住職が教えてくれた。世俗から離れて白い雲が幽寂な石を包んで佇んでいる…というような意味の詩だよ。おめえは幽石なのかもしれねえ…。静かに白雲に抱かれたな。」
「そうね…。白雲に抱かれながら、この辺境の地でずっと、焦がれ続けたわ…。同じ耀きの石を心に秘めた男の人を…。でも、出会わなかった…。出会えなかったわ…。」
 それからあかねはふわっと言った。
「ねえ…乱馬…。あなたが男なら良かったのに…。」
 と。

 乱馬はそれを聞くと黙ってしまった。何も言葉が継げなかったのだ。
(俺は…本当は男だ…。)
 そう、言葉を心で握りつぶした。

「乱馬…。あなたにこうやって触れていると…この石が幽かに温もりを放ってくるの…。神様は意地悪よね。どうしてあなたは女の子なの?こんなにもあなたの腕の中は落ち着くというのに…。」
 それだけ言葉を継ぐと、あかねは石の入った巾着を握りしめながら、ふっと目を閉じた。
 気力を使い果たしたのだろう。そう言ったまま、眠りに落ちていった。

 精も魂も尽き果てた小さな身体。
 軽い寝息が聞こえてくる。我が身に全身を預けてくるあかねの柔らかな香りと暖かな体温。

「母ちゃんの形見の石か…。」

 腕に眠る、無垢な乙女の寝顔をながめながら、憂いを帯びた微笑みを向ける。
 そっと握りしめた石を彼女の懐へと戻してやる。
 と、確かに幽かな温もりを、その石は放っていた。発熱したのではなく、あかねがその手に握りしめたからだと、自嘲気味に微笑みを浮かべる。

「ここらが…もう…潮時かもしれねえな…。」
 乱馬はそう暗い夜空に向かって囁いていた。


 あかねが良牙いう男と死闘を繰り広げる直前に、早雲公が己に語ったことを思い返していた。


『許婚が現れなかったとき…または、許婚があかねに負けた時は…血の儀式によって、武烈山の世代交代が行われる。』
 早雲公の静かな横顔が脳裏に浮かび上がってくる。
『血の儀式?』
『ああ、そうだ。あかねは私と闘わねばならない。』
『え?』
 二の句が継げず、驚きの表情を向けた己に、早雲公は淡々と語り続けた。
『それが武烈流格闘術の掟だ。その勝負にあかねが勝った時は、私の頚城を切り落とし、世代交代が成る。逆にあかねが私に倒された時は…。私があかねを抱き、子を成さねばならぬ…。故に血の儀式と言われているんだよ。』
『なんだって?…。』
 それは耳を疑う、衝撃的な内容であった。
 生か死か…そんな次元を通り越した、おぞましき、掟であった。
 その掟がまかり通るなら、人としての禁忌(タブー)を破ることになる。
 娘が父を殺す…もしくは…父と娘が交わりその間に子を成す…という修羅場。
 もし、許婚が現れなければ、否が応でも、あかねに修羅の道が拓けてしまうというのだ。

『もし…、もし…あかねが、おじさんとの闘いを拒めば、どうなるんだ?拒否権はあるんだろ?』
『もちろん、拒否権はある…。その時は、私が後ろ盾となり、再び、武烈の門は開き、再び一千人の挑戦者と闘い続けなけれはならぬ。その次の一千番目に、許婚と闘うか、私と闘う運命。それを拒むならまた一千人…。そう、私をその手で殺すか、それとも、誰かに倒され、ホトをマラで貫かれるまで、あの子の闘いの無間地獄は続くのだ…。』
 乱馬は黙ってしまった。
『それが、あの子が望んだ運命なのだから…。いや、それが武烈流格闘術を後世に伝えるための、最良な子孫を得るための、掟なのだよ…乱馬君…。』

 早雲公の言葉尻が変わった。乱馬のことを、「乱馬君」とはっきりと呼んだのだった。

『あかねは…あいつは、承知しているのか?』
『いや。まだ伝えていない。九百九十九人目の男を斃した時、初めて私から語って聞かせる。そして、改めて、己の過酷な運命を悟ることになる。』
 無茶苦茶な話であった。

『これが、ここの…武烈流格闘術宗家、天道氏の掟だ…。』

『せめて…許婚との闘いが終わるまで…そのことを告げない訳にはいかねーのか?』
 返す口で、尋ねていた。
『いや…それはできぬ…。』
 早雲公は強く首を振った。
『掟だからか?』
『ああ、そうだ。』
『許婚と闘う前に、あかねを揺さぶるなんて…あいつは動揺して、まともに最後の…許婚との闘いができねーんじゃないのか?』
 思わず食ってかかっていた。
『それで、あかねが負ければ、それまでのことだよ。自分で背負った運命の大きさに気付いて、闘いに臨まねば、あの子とて先に進めない。後で知るか先に知るかの違いだ。ならば、知らぬで許婚と闘うよりは、知ってから闘う方が良いのだよ…。それが、格闘の道に生きる者の覚悟というものだ。』
 淡々と話す早雲公の瞳は、得も言えぬ苦悩に満ちていた。
 そんな、おぞましい覚悟を娘に強いなければならない父の胸の内は、張り裂けんばかりに苦しかろう。



「覚悟…か。」
 乱馬は、鳥の背中で、あかねを抱いたまま、空を見上げた。流れゆく景色の中で、空だけが普遍に広がっていた。

『そんなことでは、無差別真流の正統後継者としては生ぬるいわっ!もっと、凛とした覚悟を持てっ!このバカ息子っ!』
 口の悪い父親に、子供の頃から言われ続けた言葉を思い出していた。
『おまえには覚悟が足らんっ!』
 何度、罵られてきたことか。

 夜の闇が迫った稜線に、微かな残照の光が赤く燃え上っていた。
 闇が降りて来た東雲の空には、星たちが静かに輝き始める。



 こいつに、父と結び通せる精神力があるとは思えねえ…。
 おそらく、こいつは躊躇するだろう。
 そして、悩み…迷った末、再び、闘いの無間地獄へと身を投じる…。
 こいつは…あかねは…そんな女だ。



 彼女と一緒に過ごしたほんのわずかな時間で、深いところまで関りすぎたと思った。
 それが良かったのか…悪かったのか…。
 千路に絡みつく複雑な想いが、乱馬の心を乱していく。




 クエエエッ…


 劉が一声高く鳴いて地面へ降り立った。
 清流の泉へ着いたようだった。
 泉はごろごろと音をたてながら、その湧き水を吹きあげている。
 
 乱馬は眠ってしまったあかねを、しっかりとお嬢様抱きにすると、たっと劉の背中から地面へと降り立った。
 日が落ちて、辺りは闇に包まれてしまった。
 空に月も浮かんでいない。星明かりだけが頼りの暗がりの中、乱馬は静かに泉へと歩み始めた。
 
 彼は一つの決心を固めていた。
 己の運命に懸命に立ち向かおうとしている、健気な乙女。
 乱馬の腕の中で、健やかな寝息を立てて眠りつづける。
 穢れなき凛々しき乙女を、男として手に入れたい、それは、素直な青年の願望だった。
 この乙女になら、己の情熱を全て捧げられる。
 乱馬に触れていると、母の形見の石が幽かに温もりを放ってくる…あかねは乱馬にそう言った。…本当に、そうなのか。自分はあかねと同じ耀きの石を心に持っているのか……それを確かめてみたい…強くそう思ったのだ。

 乱馬は眠ってしまったあかねを抱え、清流の泉へと静かに降りていった。
 それは、美しい泉だった。
 洞窟の中とはいえ、泉の上には空が開けていた。岩の割れ目から、天空が見えるのだ。
 天でさざめいていた満天の星が、一斉に耀きを増し始めた。きらきらと今にも零れ落ちそうに、空で輝いている。
 足元で揺れる透明な聖水。立ち止まることなく、ゆっくりと、右足から踏み入れる。
 ちゃぷん…と水の音が跳ねた。
 冷たすぎず、熱くも無い、程よい加減の澄んだ水だった。温泉よりは、遥かにぬるい水が、足元から身体へと浸透してくる。
 少しずつ足を深みに入れながら、泉の中ほどへと進んでいった。

 水に浸った乱馬の身体が、変身を遂げ始めた。
 ゆらゆらと泉の影は乱馬の変化を映し出す。
 か細い手足は、少しずつその形体を骨太へと転化し、丸みを帯びた身体は、筋肉質な肉体へと変貌する。福与かな胸は、分厚い胸板へ。胸元の鎖骨も、がっしりとした骨組へと変化する。
 丸い顎も先が尖がり気味に広がる。眉毛は凛々しくつり上がり、白かった乙女の柔肌は、日に焼けた小麦色の逞しい艶(つや)を解きった。
 あかねを支える腕も、水に浸る足も、全てが一回り以上、大きく伸び上がった。
 胸元に水が来るほどに浸ると、逞しき青年へと完全に変化を遂げてしまった。
 女の身体の面影は、一切無い。
 変わらないのは、目の輝きだけ。いや、それと、強靭な身体に巡る、熱い血潮だ。
 乙女の身体の下へ追いやられていた男漢の気と力が全身へと漲(みなぎ)り始める。

 元の姿に戻ると、あかねが小さく見えた。
 全身傷だらけになってもなお、闘い続ける激しい気丈の持ち主。
 このか弱そうな身体の何処に、あれだけの誇り高き闘士が眠っているのだろう。

 力尽きて、ただ、己に身体を預ける無垢な乙女をじっと見つめながら、語りかける。

「すまねえ…。あかね。俺は気が変わった。」
 そう言いながら、額にかかる、細い髪の毛をすいた。
「俺はおまえに、真正面から勝負を挑む。おまえの望んだ自由、憧れていた自由…そいつを踏みにじることになっても……俺は、手を抜かねえ。
 全力を尽くして…おまえと闘うことにした…。」

 そう言い終ると、乱馬はあかねの身体を一度だけその胸に抱き締めた。
 小さい身体。だが、波打つ柔らかい艶肌。
 彼女の全てが欲しいと思った。
 心も身体も、全て己の元に留めたいと思った。他の誰にも渡したくない、切に思ったのである。
 こんな気持ちは初めてだった。
 女など、無用の長物と思っていた筈なのに…。あかねと、共に生きたいと願わずにはいられなかった。

 腕の呪縛を緩め、泉から上がると、岩場へと横たえた。額に手をかけ、水が滴る短い髪を、すきあげると、そのおでこに軽く唇をあてた。
 そして、振り向きもせず、洞窟から出た。

 洞窟の入り口では、傍で翼を休める鳥に語りかけた。
「劉…。頼みがある。」

 劉は変身を遂げた乱馬をじっとつぶらな瞳で見詰めていた。姿形、声色が変わっても、元々ある匂いや気は変わらないのだろう。男に戻った乱馬を怖がったり、訝しがることを、この賢き怪鳥は一切しなかった。 
 乱馬にはあかねに挑戦しに来る、他の男どものようなぎらぎらとした、殺気を孕んだむき出しの欲望が無かったからなのかもしれない。

「中であかねが眠っている…。彼女が目覚めて出てきたら……ちゃんと城まで送り届けてやってくれ…。
 俺はこれから下山する。そして、もう一度、正道を通って、山を登りなおす。
 武烈門を潜りぬけ千人目の挑戦者として舞い戻って来る。…だから、もう…早雲公の屋敷にこいつを連れて帰ってやれねえ…。」
 乱馬の目は澄み渡るほど輝きに満ちていた。
「…劉。俺の代わりに…あかねを宜しく頼む…。」
 劉は合点していると云わんばかりに、乱馬の目をじっと覗き込んだ。

 乱馬はあかねを劉に託すと、一度だけ洞窟の方へと振り返った。
 それから、くるりと身を翻すと、目の前に広がる崖下を覗き込んだ。
 殆ど足場もない切り立った崖。
 乱馬は己の懐から木の棒を取り出した。あらかじめ、こうなることを予想して、何本か上で拾っておいたものだ。それを握り返すと、岩の割れ目に木の棒を差し込みながら、切り立った崖を降り始める。
 崖下は暗闇。どこまで続いているかも分らない真っ暗な闇。
 不思議と恐怖はなかった。
 修行で野山を駆け巡ることが多い彼でも、難航しそうな切り立った崖だったが、特別とも思わなかった。
 元の姿を取り戻した今の乱馬なら、無差別真流の奥義を使役すれば、簡単に降りることができる崖だった。だが、それでは意味がないと思った。
 ただ、ひたすらに乱馬は暗がりの崖を降り出す。道はない。己で付けながら体一つで降りていくだけだ。そう思った。
 すぐさま掌の豆が潰れた。血が滴り落ちる。
 だが、痛いとは思わなかった。

(再び武烈山を上り詰め、そして、あかねと対峙したい。取り戻した男の姿で。)
 ただ、それだけを思い、彼は歯を食いしばる。
 ごつごつとした岩を足で探りながら道を付ける。玉のような汗が、全身から滲み出して飛んだ。
 ごおっと、不気味な音をたてながら、風が吹き続けたが一向に平気だった。
 ただ、そこにあるのは「執念」だった。あかねと一戦を交えたいという、強い意志。
 
『これは…俺が自分で選んだ道だ。一度降り立って、絶対に再び上り詰めてやる。待ってろっ!あかね。俺は負けねえ…。正面から闘って…きっと、おまえを手に入れる…。運命の呪縛から解き放ってやる…。』

 夜がいつか白み始め、また登り来た太陽が若者を照らし出す。

 その光の中で、若者は懸命に岩肌を降り続けて行った。

 白い剥き出しの岩肌に何度滑り落ちそうになっただろう。爪からも血が滲み出す。疲労で意識は朦朧とし始める。
 だが、乱馬は怯まなかった。
 諦める事、即ちそれは「死」を意味する。
 彼は崖を降り続けた。
 執念は何時しか、彼の身体を無意識に下界へと運んでいた。

 彼が崖下を降り立った時、太陽が昇り切っていた。
 暗闇の向こう側からは川のせせらぎが傍で聴こえた。どうやら谷底らしい。
 乱馬はざんぶと川へ入り、手で流れ来る川の水を掬った。
 ゴクンと、乾ききった咽喉へ押し込む。極上の一滴だった。水がこんなに美味いと思ったことはこれまでなかった。夢中で咽喉へと流し込んだ。
 身体の奥から生命力が湧き立ってくるような錯覚。
「ひょっとしたら、清流の泉が流れ込んだ水なのかもしれねえな…。」
 疲れ切った身体をせせらぎの傍の岩に横たえると、乱馬は天上を仰いだ。
 今下りてきた崖が、巨人のように、目の前に迫っている。その上には蒼天の太陽。疲れ切り傷だらけになった身体を水に浸すと、乱馬は。しばし浅い眠りへと落ちていった。





八、

 ぴちゃん…と水音が跳ねる音で、目が覚めた。

「あ…あたし…。」
 フッと意識が浮き上がった時、既に太陽は登りきっていた。
 岩の間から、太陽の光が、瑞々しく降りて来る。
 
 泉のすぐ際で、横たえて眠っていた。
「乱馬…どこに居るの?」
 あかねは当然傍に居るだろう少女の名前を呼んでみる。
「居るんでしょ?」
 だが、その問いかけに返事は無かった。
 一緒に居た筈の、乱馬の気配が、辺りから忽然と消えていた。

 洞窟から出ると傍で劉が心配げにあかねに近付いてきた。
「劉…乱馬は?」
 あかねは劉に尋ねてみた。
「ケ―ン」
 劉は一声高く鳴いた。
「そう、乱馬、何処かへ行ってしまったのね…。あなたが麓まで送り届けたの?」
 今度は何も答えずに劉はただ、大きな羽を背ばたつかせるだけであった。
「まさか、ここから下りて行ったとか…。」
 あかねは目を瞬かせて辺りを見回した。この泉は断崖絶壁に湧き出している。凡人には岩肌を上がるのも下りるのも、容易な事ではない。
 何故、乱馬がここから離れなければならなかったのか。あかねには理解は出来なかった。
 当たり前である。
 乱馬の正体が男であると言う事実は、知る由もなかったからである。
 どうやってここから離れたのか、勿論、興味は湧いたが、劉は言葉を話さない。
 従って、あくまで想像する他に手立ては無かった。
 ごおっと、崖を渡って吹き上げてくる風は、朝の冷気に当ってひんやりとあかねの頬を掠めてゆく。
「考えていても仕方が無いわ…。傷もすっかり癒えたから…帰りましょう…。」
 あかねは劉の背中へとたっと飛び乗った。
 一体どのくらい己は意識を失っていたのであろうか。

 ただ、あかねには解せないことが一つだけあった。

(あの人は誰だったんだろう…。)
 泉の中で、誰かに抱きしめられた…。そんな感覚を感じたのだ。
 あかねは飛び上がった劉の背中で、つらつらと考えを巡らせてゆく。
 夢だったのか、幻だったのか。だが、確かに己は誰かに抱かれていた。
 乱馬だったと思うのが自然なのであるが、己を支えてくれた逞しい腕は、か細い彼女のものとは異質だった。
 弾力がある、筋肉質な力強い腕。それに包み込まれて聴く柔らかい心音は安らぎに満ちていた。
(乱馬…じゃないわよね……。)
 あの腕は、男性だった。乱馬の柔肌ではなかった。
 では、誰が居たというのだろうか。

「ねえ…あそこに居たのは…乱馬だけよね?劉。」
 劉に尋ねてみても、納得行く答えは返される筈も無い。
「石も幽かだけれど、熱を持っている…。これは、どういうことなのかしら…。」
 じっと巾着を取り出して、見詰める。
 だが、それ以上、物思いにふけることは終ぞ無かった。

 というのも、山の中腹辺りを漂っている、強い気をいくつか肌に感じたからだ。
 空から感じる、男たちの飢えた気脈。
 その中の誰かが、九百九十九人目の挑戦者となることは、火を見るより明らかだ。

 その瞳が俄かに曇った。

「あと一人…もしくは…二人…。」
 ギュッと拳を握りしめる。
「ここで、油断してちゃだめよ…あかね。自由を勝ち取るのよ…。負ける訳にはいかないわ…。」
 か弱い女の瞳から、強い格闘家の瞳に立ち戻る。

 武烈舞台へ帰りついた時、早雲が静かにあかねを出迎えた。

「あかね…。九百九十九人目の挑戦者がもうすぐやってくるよ。大門の辺りが騒がしくなった…。」
「ええ…わかってるわ、お父さん。」

「それで…乱馬さんは?姿が見えないようだが…。」
 と、あかねへ尋ねた。
「やっぱりあたし…泉に行った時、乱馬と一緒だったの?」
 反対にあかねが問い質す。
「ああ…。九百九十八番目の青年とやり合って、おまえが舞台の上で力尽きて倒れたのを、劉と共に、清流の泉へと運んで行ったのだが…。」
「そうなの…。でも…乱馬は…泉から帰っちゃったみたい…。」
 あかねはポツンと早雲に言った。
「帰った?…あの泉から。どうやって…。」
 傍らに居た、なびきが驚きの声を上げた。
「わかんないけど…傷が癒えて目が覚めたら、姿が見えなかったわ…。」
「人間技じゃないわね…それ。」
 なびきが横から評する。
「ええ…劉が送っていった様子もないから…自力で降りていったようなんだけど…。」
 と、ポンと早雲があかねの肩を叩いた。
「きっと、山を降りねばならない何かがあったんじゃないのかな…。第一、あかねが無理やりあの子をここまで連れて来たんだろう?」
「ええ…狼とやりあって、へとへとになっていたから、うちへいらっしゃいって誘ったのよ。」
「狼?」
 なびきが驚いて声を投げた。
「そうよ…。」
「ってことは、あの乱馬って子、近つ道で獣が原まで上がって来たってこと?」
「ええ…。言わなかったっけ?」
 あかねは姉たちに瞳を投げかけた。

 狼の棲み家は近つ道の真ん中より少し上ほどのところにある。故に、狼と遭遇したということは、近つ道を辿ってきたことになる。
「だったら…清流の泉からだって、降りられるかもしれないわね。」
 と、かすみは、言葉を投げた。

「……そうよね…。狼とあれだけ激しくやり合ってたんだもの…。乱馬は無事に山を降りられたわよね。」
 あかねはふっとため息を吐き出した。
「乱馬ちゃんに、千人目を倒すまで居て欲しかったのかしら?」
 かすみが微笑みかけると、
「ええ…。満願がかなったら、一度、彼女と手合わせしてみたいと思ってたんだけど…。」
 少し複雑な表情をあかねは手向けた。
 正直、乱馬の強さは未知数だった。武烈流の使い手の彼女からみても、五分五分の勝負ができる女の子だと思ったのだ。狼の生息地から漂って来た彼女の気の大きさは、それを強く物語っていた。

「そうか…あかねはあの子と勝負してみたいと思ったのか…。」
 フッと早雲が笑った。

「ええ…。でも、帰っちゃったから…残念だったわ。闘ってみたかったなあ…。」

「そんな、悠長なこと言ってたら…足元すくわれちゃうわよ…。」
 なびきが茶々を入れる。
「あと二人で満願かなうんだから…気合い入れなさいっ!」
 パンと背中を叩かれた。
 それから、長姉のかすみが、ふっと言葉を投げた。

「あかねちゃんの闘いっぷりが最後まで見られないことは…残念だけど…。」

「え?」
 あかねの表情が変わった。
 何を言い出すのかと思ったからだ。

「あたしたち二人は、これから山を降りるのよ。」
 なびきが傍から声を出した。
「山を…下りる?」
「ええ…。恐らく、もう二度と、上がって来ることはないわ。」
「お別れなの…。」
 追い打ちをかけるような言葉を、二人の姉たちは口にした。
 突然な、下山宣言だった。
 むろん、そんなそぶりは、二人の姉たちは、一切あかねに見せて来なかった。

「ど…どういうこと?」
 震える瞳で、あかねは姉たちを見比べた。あまりに唐突だったので、どう対処したら良いのか、明らかに狼狽している。

「これは前々から決まっていたことなのよ…。あなたが、後継者に決まった時からね。」
「女後継者が九百九十八人目の武人を負かしたら、兄弟姉妹は、武烈山を去る…それが掟なの。」「武双山に行って、花嫁修業して、そこから適当な武人に嫁ぐのよ。」
「あたしもかすみお姉ちゃんも、天道氏の城に生まれたからは、その掟に従わなければならいの。」
 寂しげに揺れる、かすみとなびきの瞳。

「そんな…急に…言われても…。」
 狼狽しはじめたあかねに、ポンと早雲公が肩を叩いた。

「これは、おまえたち姉妹の運命だ。この城に生を受けた以上、逃れられぬ…。聞き分けなさい。」

 またぞろ、掟という言葉があかねの上に重く圧し掛かって来た瞬間だった。
 あかねにとっても、掟は絶対だった。
 掟が強いる運命を払いのけるために、身体を張って闘ってきたが、それもまた、掟に従っているに過ぎなかった。掟は自分を縛る…そう思っていたが、それは大きな間違いだったことに、改めて気付かされたのである。
 掟は姉たち…そう、この家の者全員を縛っていたのだ。がんじがらめに…。

「私たちのことは心配しないで…あかねちゃん。」
「武双山に行って、そこで誰か適当な金持ちの武人と恋愛して、結婚するわ。色恋のことは武烈流の跡目を取らなければならないあんたなんかより、ずっと、あたしたちは自由なんだから…。」
 なびきはそう言いながら笑った。
「あなたは存分にやりなさい。」
「ここまで来たんだから…。後は勝つことだけを考えたら良いわ。本当の正念場はこれからなんでしょ?」

 姉たちはとっくに覚悟ができていたようだ。

「名残は惜しいけれど、あまり時間も残っていないみたいだから…。あたしたちは、もう行くね。」
 なびきがそう言葉を投げると、劉の背中に、ひょいっと飛び乗った。
「かすみお姉ちゃんも早く…。」
 手をかすみへと差し出した。
 姉たちが劉へ乗り込むと、早雲公が劉へと目を転じた。
 
「劉、かすみとなびきを送って、武双山までひとっ飛びしておくれ…。おまえは、そこで、二、三日、羽を休めて、ゆっくりとここへ戻ってくればよい…。その時には、この武烈山の新しい領主…おまえのご主人が決まっているだろう。」
 そう言いながら、劉の首を柔らかく撫でた。

 クエエエッ!

 劉は一声上げると、バサバサっと羽ばたいた。そして、空へと舞い上がる。
 ゆっくりと、武烈山の上を旋回して、大きく羽ばたく。

「さようならー。」
「元気でねー。」
 上空から二人の姉たちは、手を振って別れを惜しんだ。

 それはあっさりとした、でも、哀しき別れだった。

 涙を流す暇も無かった。
 容赦なく、押し出される、運命の別れ。
 有無を明快にする前に、切り離された姉たち。


 茫然と力なく、空を見上げるあかねの肩に、後ろからポンと早雲公は両手を置いた。

「あかね…。背筋を伸ばしなさい。九百九十九人目の相手がもうじきやってくる。そんなことでは、勝てる相手にも勝てなくなるぞ。」

 つうっと流れた涙。それをぐっと右手で拭う。

「そうね…。これが運命なら、勝たなければ…。全てが無駄になってしまうわ。」
 ぎゅっと拳を握りしめた。
 迷っている暇などなかった。
 闘いは非情である。あかねが望まなくても、相手は現れるのだ。
「今は、目の前の闘いに集中するのみよ…。」
 あかねは気焔を吐きあげた。
 その美しき気焔は、はかなげにあかねの背中で揺れ始める。





 太陽が空を傾き始めた頃、乱馬はやっと、正道と近つ険しき道の蛇岩まで降りて来た。
 蛇岩は、正道と近つ返し気道の分岐点だった。

 身体を覆っていた着物はボロボロに破けていて、あの崖の険しさを物語る。
 途中で清流の泉の注ぎこむ水場にて、小休止をとったので、数多あった傷は癒ていた。
 
「随分、遅かったではないか…。バカ息子よ。」
 木陰で聞き慣れた声が響き渡る。
「うるせーっ!いろいろあったんだ。ぐだぐだ言うな…。」
 はあはあと上がる息を鎮めながら、じろりと振り返る。
「ふーん…。いろいろねえ…。無事に男には戻れたようじゃのう…。」
「ああ…。」
 どさっと、乱馬の立つ横に、玄馬が荷袋を投げつけた。
 何だという顔を乱馬が手向ける前に、言葉を発する。
「そら…食物だ?」
「へっ!気が利くじゃねーか…。」
 投げられた荷物へ手をかけながら、玄馬を睨み返す。
「一応、貴様の父親じゃからのう…。」
「ふんっ!何が父親でいっ!俺をこんな状態にしたのも、全て、てめーの差し金だったんじゃねーか…。」
 不機嫌に吐き付ける。
「不満かの?」
「ああ…。不満だらけだねー…。」

 乱馬はがっと荷袋を開くと、竹皮に包まれた握り飯を取りだした。
 そいつがぶっと食らいつく。噛み砕く間も惜しんで、もしゃもしゃと食べ始めた。
握り飯をへとかぶりついた。
 一心不乱に山から下りて来たのだ。腹ペコである。

「で?乙姫様はどうじゃった?きれいな方じゃったかの?」
 問い質されたところで、一切、口を開くつもりもなかった。
 ただ、もくもくと握り飯を胃袋へと流し込む。
「ふん…その様子じゃと…興味を持ったようじゃな。」

 うるせーという瞳を一度だけ玄馬へと投げつけた。

「で?これからどうするつもりじゃ?」
 ニヤッと笑いながら、玄馬が問い質した。

「…聞かなくてもわかるだろ?」
 握り飯を噛みしめたまま、じろりと玄馬を見返した。
 父親のお膳立てに乗ってしまった己への自戒か、それとも、照れ隠しか、つい、声を荒げてしまった。

「素直じゃない奴じゃなあ…。」
 玄馬は一つ頷くと、乱馬へと言った。
「食ったら、ワシに付いて来い。」
「あん?」
「正道を行ってたなら、いくら時間があっても間に合わん。それに、武烈山に続く武烈門はさっき閉じられた。」
「ってことは…。」
「九百九十九人目が通ったのじゃよ。」
「そうか…最後の一人が、あの武舞台へ上がるのか。」
 少し複雑な表情を浮かべた。
「武烈門付近には、あぶれた男どもが殺気だっているじゃろうしな…。それに…ワシらにもあまり時間が残されておらんということになる。」

 一定の時間が過ぎても、許婚が現われなかったら…その時は。

 早雲とあかねの間に闘いが始まってしまうかもしれないのだ。父と娘が果たし合う。
 何としても、それは阻止してやりたかった。

 興味を持つどころか、完全に心を持って行かれてしまっていた。
 運命に抗う彼女に、打ちのめされてしまったのだ。…いや、彼女にまとわりつく運命そのものを自分が変えてしまいたかった。
 最早、引き返すことは困難だった。
 父親にはめられた…という事は腹立たしかったが、大した問題ではなかった。だからと言って、ホイホイと父親に語って聞かせるほど、陳腐な想いではない。

「ま…野暮はこれ以上聞くまいよ…。」

 ひたすら、握り飯に食らいつく、息子を眺めながら、玄馬は満足そうに微笑んだ。

 父親に案内されるのは癪に障ったが、一刻を争うなら、それはそれで仕方のないことだと、己を納得させた。

 武烈山に至る道は三つあるという。
 一つは、挑戦者たちがバカ正直に登りつめる「正道」。この道半ばで殆どの男たちが脱落するという。道が険しいだけではない。互いに乙姫を得ようとするライバルたちばかりが通るのだ。
 結果、争いごとが起こるのは自明の理。小競り合いは日常茶飯事。おまけに、乙姫に敗れた若者が、腹いせに登って来る新参者に手をかけることもあった。
 武烈門へ達した者はそれなりに優秀だが、この門というのが、また、ひと癖あると、長い道を行きながら、父は乱馬へと語って聞かせた。
「門には武烈流の使い手が並び、首実検をするんじゃよ。彼らとの闘いを振りきらねば、門はくぐれん。」
 そんなことを言い放った。
 なるほど…と乱馬は内心、舌を巻いた。だからこそ、癒しの池が舞台の下に広がっているのかと、納得したのだ。
 癒しの池を泳ぐことで、挑戦者は、武烈山の弟子たちから受けた傷を癒し、空腹を満たすのだろう。
 いくつかの関門を通り抜けた者だけが、乙姫と武烈舞台で闘うことが許されるというシステムができあがっていたのだ。
 
 もう一つは、乱馬が通った「近つ険しき道」だ。獣が原と呼ばれる難所があり、飢えた野生の狼たちが跋扈(ばっこ)する獣道だ。清流の泉の崖下に降りた後も、この道を通り、下りて来た。
 その折は、狼たちは乱馬へと襲いかかってこなかった。尋常でない殺気を乱馬の中に感じていたか、餌を食ってお腹が膨れていたのか、あっさりと通り過ぎるのを許した。
 帰り道とて、楽ではなかった。崖に続く崖。おかげで、手にも足にも傷が無数についている。

「三つ目の道があるって言ったな…。今度はそれを通って行くのか?」
 やっと食い終わった手を、布でしごきながら、乱馬は玄馬へと問いかけた。
「ああ…。許婚だけが通れる道がある。」
「許婚は特別ってことか…。」
「でもないぞ。」
 玄馬は難しい顔をした。
「あん?」
「その許婚が、乙姫を嫁降させるに事足りるのか、試さぬわけがなかろう…。要所要所に武烈流の達人がおまえの行く手を阻む筈じゃ。」
「けっ!おもしれー。乙姫を娶りたかったら、命がけで上がって来いってか?」
 ペッと唾をはきつけながら、乱馬が笑った。
「そういうことじゃ。…嫌なら辞めるかの?」
 玄馬は息子を流し見た。

「いったん覚悟を決めたなら、それを貫き通せ…親父がいつも俺に言ってたじゃねーか?それに…俺も、無差別真流の正統後継者の意地がある。」

 ぎらぎらと輝く瞳を見ながら、玄馬はフッと笑みを浮かべた。

(こやつ…武烈山に登っただけで、随分、大きいことを吐くようになったな…。いや、それだけではない…。奴の気が今までにないくらい萌え上がっておる…。そんなに乙姫が気に入ったのか…。)
 ここ数日の乱馬の成長を、玄馬は的確に捕えていた。
 父親が修行しただけでは達せぬ境地に、この息子は立ち入り始めた…そう思って、内心、ほくそ笑んだ。


「良かろう…。ならば、案内してやる。」
「親父も一緒に上がるのか?」
「一応、無差別真流の家元としてな…。じゃが、安心せい。貴様の手出しは一切せんっ!闘いはワシの領域ではないっ!」
「ってことは、一緒に行くが、道案内だけで、武烈流の奴らとは一切闘わねえと、理解してよいんだな?」
「ああ…。嫁を貰うのはワシではない…貴様じゃからな。」
「手出し無用なら…口出しも一切するなよ。」
 乱馬は続けざまに吐き出した。
「もとい、そのつもりじゃっ!手も足も口も出さんから、好きにやれ…。その代わり、敗れれば、無差別真流の名に泥を塗ることになるから、破門じゃからな。」
「上等でいっ!俺は負けねえ…。」
 そう言うと、乱馬は地面を蹴って、すっくと立ち上がった。

 目指すは場所は、ただ一つ。
 乙姫が待つ、武烈舞台だ。

「行くぜっ!」
 そう気焔を吐き出して、乱馬は駆け出して行った。



つづく




 白雲抱幽石(白雲幽石を抱く)
 寒山の詩の一部です。
 漢字書道では結構、この五文字を書かされます。私も幾度か半紙や条幅に書き殴りましたが、一枚たりとて納得したのものは書けずじまいで筆を置いています。
 始めて自分で納得ができたなけなしの書を展示してもらう展覧会の搬入日に病に倒れて以来、筆は師匠のところに預けたまま…二年以上過ぎ去りました。戻れるかどうか、未だに不明です。また、倒れたくなければ、五年は我慢せよと、周りから口をすっぱく言われているので、もう書壇へ復帰するのは無理かもしれませんが…。(書はめちゃくちゃ体力が必要な上、集中力は半端なく、血圧があがりますので…。)




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