◆幽石

第三話 清流の泉

五、

「大した奴だよ…。おまえは。」
 安堵の溜息が乱馬から漏れた。
 


 武烈舞台からあかねを城まで連れて来た鳥は、彼女を背中に乗せたまま、じっと早雲公の前にたたずんでいた。

「ご苦労さまだったな…劉。…あかねは、次の挑戦者が上がってくるまで、休むが良い。」
 父親らしく早雲公は、疲れ果てた娘に言葉をかけた。
 ところどころ、血が滲んでいる。毒の影響も残っている様子だった。
「あかね…。」
 心配そうに覗き込んだ乱馬に、にっこりと微笑み返す。
 戦士の顔から普通の娘の顔へと立ち戻っていた。
 痛々しい笑顔に、複雑な表情を浮かべて見詰める乱馬の瞳。生半可な傷ではないことは、一目瞭然だった。
 早雲公がポンと乱馬の肩を叩いた。
「大丈夫。清流の池があるから…。傷はすぐ癒える。」
「清流の池?」
 乱馬は早雲公を見上げた。
「ああ…。身体を一瞬で癒してしまう伝説の泉が注ぐ池だよ。見てごらん、武烈舞台の下を。」
 言葉につられてぐいっと覗き込んだ。
「うへっ!舞台の下に池がある…。」
 乱馬は驚きの声をあげた。
 
「ああ。清流の泉から流れ出る水が、少しだが地下水脈を通って、この武烈舞台の水溜りにも注ぎ込んでいるのだ。険しい山を登ってきた武道家たちは、この舞台へ上がるためにはあの池を最後に泳がねばならない。」
「そうか…。登ってくる間に疲れた体が自ずと、泳ぐことで…。」
「癒えるのじゃよ。そしてこの舞台へと立つ頃には、正道で受けた傷も癒える。だが、それだけでは対等になるかどうかはわからない。そこで清流の泉の源泉を含んだ聖杯を授けて、内蔵も元へ戻してやるのだ。」
「至れりつくせりだな…。」
 乱馬はじっと池を睨みながら言った。
「勝負する者たちは掟の前に平等なのだよ。それがフェアということだ。」
「フェアねえ…。あんな汚い手を使う奴に平等だなんて…。」
「それから、あかねが勝つということは挑戦者をあの池に叩き落す。それがジャッジだ。落とされた男は再びここへ上がる事は叶わぬ。だが、あの池に突き落とされることで、あかねにやられた傷が癒せるのだ。」
「なるほどね…。上手く考えられたルールだぜ…。さっきの奴も今頃は。」
「池から流れ出た川のどこか岸辺に打ち上げられているだろう。」
「川?」
「ああ…敗者が流される川だよ。あの池には流れがあってね…。落とされた者を下流…つまり麓まで流して行くんだ。」
「へええ…。池が水源の川があるのか…。」
「だが、この池の水とて、所詮は源泉にかなうほどの治癒力を持っていない。それで、あかねが深手を負ったときは、池の源泉…清流の泉に直接身体を浸すのだよ…。彼女が再び、次の対戦者敵と、いつでも対等に闘えるように治してやるのだよ…。」

 早雲公の目は憂いを帯びていた。
 そこまでして、家の掟を愛娘に強いなければならない、父親の憂いが痛いほど乱馬に差し迫ってきた。

「今回の傷はかなり深そうだ…毒も浴びているからね…。あかねを清流の泉へ連れていかなければならん…。」
 早雲公はそう言うと寂しげに笑った。
「乱馬さん…ぜひとも、君が連れて行ってやってはくれまいか。」
 そう付け足すことも忘れなかった。
「俺が?…ですか?」
「ああ…。君にあの清流の泉を見ておいてもらいたい…。」
「わかりました…。」
 乱馬は眉ひとつ動かさずに答えた。

 早雲公は気を失ったあかねをひょいっと劉の背中に乗せると、乱馬をかえりみた。
「頼んだぞ…。それから、もし、この娘と闘う決心がついたなら、清流の泉へ身体を浸らせれば良い。たちまち君は元の姿に戻るだろう…。」
 複雑な表情を早雲公は乱馬に差し向けた。
「ああ…。そいつも…考えておくよ。」
 乱馬は肯定も否定もせずに、そう答えた。

 やはり、早雲公は乱馬の正体に、気がついているようだった。
 無差別真流の正統後継者、早乙女玄馬の嫡子、早乙女乱馬ということに。

 乱馬は劉の背中にトンと駆け上がると、囁く。
「劉…おまえのご主人様を清流の泉へ運んでやってくれ。俺は付き添いだ。」

 クエーッ、と一声鳴くと、劉はバタバタと羽を羽ばたかせた。
 合点しましたというように、さあっと空へ舞い上がると、目的の場所へと一目散に飛び去った。





 泉は深遠な山奥の森の中にひっそりと佇んでいた。
 切り立った山の崖下。鳥でないと下りられないような岩場の洞穴の中にあった。
 劉はあかねを下ろすと、洞穴の傍へ腰を落として、羽を休めた。
 乱馬は、あかねを抱いたまま、早雲公に教えられたとおり、洞穴の奥へと足を踏み入れた。

「ここが清流の泉か。」
 降り立って目を見張った。
 岩の間から、ちょろちょろと滝のように流れ出す志水。それが溜まった小さな泉。もわもわと煙が上がっている。
「温泉…なのか?」
 乱馬はふっと言葉を継いだ。
「正確には冷泉よ。」
 胸の中で目覚めたあかねが力なく笑っていた。目がさめたのだろう。
「ありがとう。ここまで連れて来てくれたのね。」
「あ、まあな。おめえの親父さんに頼まれたからな。」
「この泉は岩間から流れるあの志水と、この下から吹き上げる冷泉の成分が程よく混じっているの。それで、傷に良く効くのよ。」
 あかねはそう言うと、乱馬の腕からそっと降りた。
 足元はふらついている。
「だ、大丈夫か?」
 思わず手を差し出して支えた。
「平気…。それより、元の身体に回復させなくっちゃ…。」
 あかねは乱馬の肩から手を離すと、よろよろと目の前の泉へと足を入れた。恐らく何度も身体を癒しに来たことがあるのだろう。慣れているようだった。
 あかねは乱馬をかえりみて言った。
「乱馬。あんたもどう?一緒に入ってみない?」
 少し回復したのか、あかねは肩まで浸りきると乱馬を誘った。
「いや…。いい。俺は別に傷なんてねえから…。」
「嘘…。昨夜狼たちとやりあった傷が残ってるじゃない。」
 鋭い眼光が乱馬の二の腕にある傷を捉えた。
「別にたいした怪我じゃねえから、リフレッシュはいいよ。」
「遠慮しなくても良いのに…。それに、あたし、泳ぎ方をちょっと教えて貰いたかったんだけどな…。」
 とあかねは笑った。
「泳ぎ方?」
 へっという顔を乱馬はあかねへと手向けた。
「ええ…。どういう訳か、父はあたしに泳ぎだけは手ほどきしてくれなかったの。」
「あん?」
「何度か自習しようと思ったんだけど…どうも、泳ぎだけは上手くいかないのよ。情けないでしょ?」
 それを聞いて、乱馬はフッと頬が緩んだ。
「おまえみてーな武道の塊みたいな烈女でも、苦手はあんだ…。」
「あー、バカにしてる?」
 屈託なく笑った。
「ま、泳ぎは次に会ったときに教えてやるよ…。まだ、闘いが終わった訳じゃねーんだろ?」
「そうね…。こうしている間にも、次の対戦者が山をうろついているのよね…。」
「そうだっ!おめーはとっとと泉に浸って回復させたらよいよ…。俺は、ちょっとあの岩陰で惰眠を貪ってくらあ…。昨日から全然寝てねーから眠くて仕方ねーんだよ。」
 ふわああっと欠伸が出た。
 そう、武烈山の麓の町に来て以来、睡眠をとっていない。二日も徹夜したことになる。そろそろ本当に体力の限界が来ていた。

 乱馬は極力あかねを凝視しないようにしていた。
 あかねの誘いを断わったのも、ここへ入ると男に戻ってしまうからだ。ましてや、泳ぎなど冗談ではない。
 もし、男に戻ってしまうと、彼女は屈託のない笑顔を、二度と見られまい…。そう思ったからだ。
 彼女は完全に己を女友達として認識しているようだ。
 それは親しげな言動からも良くわかる。 
 今の己は、あかねと同じく「武道を志す少女」として、「よき同士」としてしか彼女の目には映っていない筈だ。
 このまま、別れた方が互いのためになる。そう自分に言い聞かせた。

 彼なりに、複雑な心境を、この短い時間の中に、抱き始めていた。

 あかねは強い。苦渋を承知で尋常沙汰ではない勝負に挑んでいる。
 九百九十七人の猛者どもと闘ってきた。気の遠くなりそうな数字だ。それをたった三年でこなしてきたという。
 それも、あと少しでそれが満願を迎える。
 だが、もし、己あかねの目の前で男に変化したらどうなるか…。あかねは動揺するだろう。
 そして、間違いなく彼女を、望まぬ闘いへと駆り立ててしまうだろう。

 乱馬は、迷い始めていた。

 このまま何もなく、山を下りてしまうべきか。それとも、許婚として名乗りを挙げ、一千人目の挑戦者として闘うべきか。
 最初は嫁取りの闘いなどには、興味が無かった。だが、闘う彼女の姿を見せつけられて、真っ向から勝負したいという想いがふつふつと湧き上がってきたのである。
 強い者は強い者に惹かれる…それは、格闘家の性なのだろうか…。

「俺…。何てこと考え始めてるんだっ!!」
 ぐっと拳を作って、横たわった岩に突き立てる。
「こんな考え…、あかねの肉体を求めて上がってくる野獣と変わらじゃねえかっ!」
 
 湯気の向こうにぼんやりと見え隠れするあかねの肢体は美しかった。
 あの細い身体のどこに、あれほどの闘士と力が眠っているというのだろうか。普通の少女と何ら変わりはないあかね。
 乱馬は、あかねを「女」として意識し始めていた。そんな自分に対して、妙に苛立つ気分になっていた。

 ごろりとあかねから背を向けて、目を閉じる。
 体力はとっくに限界が来ていた。
 ちょろちょろと流れ落ちる、志水の音に、少しだけ安ぎを感じた。
「いいや…面倒なことは目が覚めてから考えよう…。」
 すうっと湿気を含んだ空気を飲み込むと、そのまま柔らかな眠りへと身を任せた。
 久しぶりの眠りを、清流の泉の脇で貪った。
 

 朝になって、やっと目が覚めた。
 柔らかな朝の太陽が、泉の上に開いた岩間からきらきらとこぼれて来る。


「随分、深く眠っていたのね…。あたしも、ちょっと眠っちゃったわ。」
 すぐ傍で声がした。あかねがさっぱりとした顔をして、傍に立っていた。
「どんくらい眠ってた?」
「さあ…。でも、一晩、眠っちゃったみたいね。」
「一晩も眠っちまったてたのか…。」
 思わず、ガバッと飛び起きた。
 クンと上に伸び上がった。

「それよか、もう傷は癒えたのか?」
「ええ。ほら、このとおり。」
 あかねはたっと、手を前に構えて空で拳を切った。
 ビュッと鋭い音。あかねの体力は驚くべきほどに回復している。
「この泉の水…。凄い効き目なんだな。」
「ちょっと待ってて…。」
 あかねはそう言って、乱馬の傍を離れて、泉の方へと駆けだした。そして、すぐにとって返して来た。
 泉の水をくみ上げたのだろう。持っていた竹筒を、あかねは乱馬へと差し出した。
「飲みなさいな…。お腹もすいてるんでしょう?」
 にっこりとほほ笑まれた。
「これは…?」
「あたしの水筒よ。中には癒しの源泉が入ってるわ。これを飲めば、喉の渇きもお腹の飢えも、一発で満足できちゃうから。」
 そう言いながら、乱馬の手に、竹筒を握らせた。
「これを…飲むのか?」
「ほら、遠慮しないで。あたしもさっき飲んだところよ。だから、お腹も満たされてるの。」
 そんなあかねを見て、乱馬は少し複雑な表情を浮かべた。
 「あたしもさっき飲んだところよ…」という件(くだり)が気にかかったのだ。この竹筒を遣って、あかねが飲んだということが、容易に想像できた。
 …ということは…間接キス。
 純情な青年が、戸惑わぬ訳が無い。
「味なら心配ないわ。普通の水だから。…ね?」
 乱馬は、思い切って竹筒に口をつけた。
 あかねが飲んだかもしれない竹筒に口をつけて、ゴクンと一口飲み込んだ。ちょっとだけ甘い感じがした。
「うめえ…。」
 思わず声が漏れた。
「こんなうめえ水…はじめてだ…。」
 そう言うと、貪るようにゴクゴクと水を飲みほした。
 と、どうだろう。あかねが言うように、さっきまで感じていた空腹感が無くなった。

「不思議な水なのよ…。」
 と、あかねは徐に、持っていた手ぬぐいを、乱馬の腕に押し付けた。少し濡れていたようで、手ぬぐいから水が滴り落ちる。
 何のつもりだと乱馬はあかねをかえりみた。
 少し押しつけてから、あかねは乱馬へと声を継ぐ。

「ほら…。見て、狼と闘ったときの傷…。」
「えっ…。」
 あかねが押し当てた手ぬぐいから滴る水で、みるみる乱馬の右腕についていた生々しい爪痕傷が消えてゆく。
 数秒足らずで、創傷が跡形も無くなった。
「源泉を浸した布でも、傷は癒えるわ。」
「すげえ…。浸した布きれでこの威力か。」
 感嘆の声を上げた。
「ほら、こっちの手も…。それから、首元にも傷があるじゃない。ついでだから、布でぬぐってあげるわ。」
「お…おいっ!」
 女同士の気安さからか、あかねは乱馬の着ていた衣服の胸元のボタンを外し、上半身を少しだけ肌蹴けさせた。
 女化した乱馬の、福与かな胸元が顕わになる。己の不注意で変化した、屈辱的な女体だ。
「あれ…?」
 ふとあかねが乱馬の胸元に瞳を止めた。
 左の鎖骨の下辺り。そこに、蒼い痣を見つけたのだ。豆粒ほどの薄い痣だった。
 「ああ…これか?」
 乱馬があかねの視線の先を見据えながら言った。水玉のような蒼い痣。
「身体でも打ち付けたの?」
 そう言いながら、あかねは布切れでごしごしとやった。が、一向に痣は薄くはならなかった。
「生まれた時からある痣だよ…。だから、消えねーよ。」
 乱馬はポツンと言葉を投げた。
「生まれた時からある痣?」
「ああ…どういう訳か、俺たちの一族のお…いや者には、この水玉の痣が、必ず一つ、身体のどこかにくっついて生まれて来るんだ。」
 途中、男と言いかけて、慌てて誤魔化した。今の自分は女化している。そこに男という言葉を遣う訳にはいかなかったからだ。
「ふーん…そうなの…。」
「ああ…俺たちの一族じゃあ、竜の証って言われている。俺の氏族は竜の末裔って言われてて、何故かこの痣を持って生まれて来る子が多いんだ。で…この証を持った子は、一子相伝の技を授けられるんだ。」
「一子相伝の技?」
「ああ…。」
「じゃあ、乱馬も、その技を…。」
「一応、習った。」
 ぼそっと吐き付けた。
「やっぱり、あんたも、武道一族の末裔なのね…。」
「ああ…でも、おめーのところのような、厳しい戒律はねえ…。自由闊達な流派さ。」
「自由闊達かあ…。ねえ、何ていう流派なの?良かったら教えてよ…。」
 興味を引いたのだろう。あかねが尋ねて来た。
 だが、ここで流派の名前を告げるわけにはいかなかった。
「ま、無名に近い田舎拳法だよ…。名乗るほどの名門流派じゃねー…。それよか、おまえの傷はどうなった?」
 言葉を濁しながら、あかねの身体を、見詰めた。
「ええ…。無数にあったあたしの傷も見て、このとおり。」
 確かにあかねの身体からは全ての傷が消えていた。元通りの玉のような肌になっている。
「源泉の威力なの…。傷を癒す志水。この志水は私たち一族の大切な宝。この水を欲して武烈山へ上がってくる輩もいるのよ…。皆、この水欲しさにあたしの婿となることを望んでいると言ってもいいわ。
 でも、この水は邪まな者には絶対に渡せない。この場所も一族の秘密の地。源泉はここから地下に潜って、武烈舞台の湖へと注いでいるの。だから、誰も知らない、秘密の泉。それにしても…良く父があなたの同行を認めたわね…。よっぽど信頼できるって父に思われたんだ。乱馬。」
 あかねの顔が好奇心に満ちた顔で乱馬を見返した。
「さあな…。早雲公がどういうつもりで俺におめえのお供をしろって言ったのかはわからねえけどよ…。」
「ねえ、あたしが一千人目の満願を果たしたら、一度手合わせしてみてよ。あたし…。あんたと一度、闘ってみたいわ。本気で。」
 ギラギラとあかねの目は輝いていた。
「だって…田舎流儀っていうけど…そうでもないんじゃないの?」
 と微笑みを返された。
「え?」
「乱馬の気脈は、男にも勝っているもの…。ううん…あたしが今まで倒して来たどの男たちよりも、澄んでいて深いわ。本当は、どこかの凄い流派の使い手じゃないの?」

 乱馬はその問いかけには答えなかった。正確には答えられなかった。
 そう、その時、また新たな気を遥か下方から感じたのである。

「また、誰か来たのね…。」

 乱馬の表情が厳しくなったのを受けて、あかねも険しい表情になる。
「帰らなきゃ…。」
 そう言い終ると、あかねは口笛を吹いて劉を呼んだ。 
 バサバサと音がして劉が現れた。
「ゆっくりと温泉に浸って身体を休める事もできねえのか?」
 劉の背中で乱馬が尋ねた。
「日によって違うわ。多分、あたしの満願が近いって男たちが競うように登って来てるんでしょうよ。九百九十九人目でぴったりと彼らが最後に抜ける武烈門は閉じられる…。あと二人だもの…。」
「帰ったら、直ぐに闘うのか?」
「ええ、それがあたしの選んだ運命だから。」

 「運命」という言葉の重さが乱馬へと圧し掛かる。

「なら、我武者羅に突き進めよ…。そうすれば、きっと運命は開ける…俺はそう思うぜ。」
 さらっと乱馬はあかねへとエールを送った。

「そうね…。あたしらしく、真っ直ぐに突き進むわ。」
 にっこりとあかねは劉の背中の上で微笑んだ。



六、

 武烈山へ降り立つと、早雲公が出迎えた。
「傷が癒えたところで早速だが…。」
「ええ、わかってるわ。」
 あかねは軽く微笑んだ。
「頑張れよ…。」
 乱馬の問いかけにあかねは軽く微笑んだ。まぶしい笑顔。
 日はすっかりと高く登っていた。が、生憎、今日は曇りがちな空だった。ぼんやりと太陽は薄い雲の中。それでも、思い出したように、雲間からその姿を現した。
 そろそろ季節は夏。真夏のじりじりした日差しほどではないものの、嫌な湿気を含んだ汗が、身体から噴き出してくる。

「なあ、もし、あかねがこのまま勝ち続けて、千人目の許婚野郎が現れなかったらどうなるんだ?許婚が来ねえーってこともありうる訳じゃねーか…。あかねは許婚が来るのをずっと待ち続けるのか?」
 あかねが闘いの準備をしに立ち去ると、乱馬は率直な疑問を早雲公に投げかけた。
「いや…。」
 早雲公は首を横に振った。
「いつまでも待つという無駄なことはしない。先方には九百八十人目が倒れた辺りで、連絡を入れている。」
「なるほど…。一人、二日と勘定して…約二十人で四十日、ひと月とちょっとか…。」
 乱馬は頭の中で計算しながら頷いた。

(確かに…親父が今回の修行に誘い出したのは、ひと月ほど前のことだったよな…。あの時、連絡が来たのか…。)
 グッと拳を握りしめた。
 珍しく、玄馬のところに仰々しい書状が送られてきたことを覚えていたのだ。
 あの時、桐箱に入れられて送られてきた書状を、無言で舐めるように読んでいた父の顔。どこかの王族が、武指南でも受けたいと申し入れてきたのかと、別に気も留めなかったし、問い質すこともしなかった。
 だが、良く良く考えてみると、あの書状が届いて数日もしないうちに、修行に出ると言って、故郷を離れたのである。
 どこへ行くのかと問いかけたが、「恒例の諸国漫遊修行じゃ。黙ってついて来いっ!」と一括された。
 のらりくらりと、旅をしながらいつものごとく、激しい修行していたようにも思えたが…はっきりと足取りは、この武烈山へと向かっていた。



「一定期間、許婚を待って、彼が現れなかったときは、満願の儀式を行うのだよ…。」
「満願の儀式?」
「ああ、そうだ。武烈流格闘術の女後継者は、その血の中に、強き武人の優秀な遺伝子を混入させ、強い子供を産み育てるのが背負わされた運命……故に、掟は非道だ。」
「掟は非道…ってことは…あかねは…あかねは千人の男を倒しても、解放されねーってことか?」
「ああ…。解放どころか、彼女には更なる地獄が待ちうけている…。」
 早雲公は、恐るべき儀式に付いて淡々と乱馬に語り始めた。


 その傍らで、闘いの準備を終えたあかねが、道着を着て現れた。

 上がって来た男は、一見、優男。ここで目にする、いわゆる巨漢とは本質的に違っていた。
 だが、肉体に巻き付く筋肉は、衣服の下に隠れてはいたが、見事な張りを持っているようだった。
 しかも、瞳の輝きは、ぎらぎらと強い。
 気が読めるあかねは、ゴクンと生唾を飲んだ。
 

(あいつ…相当な使い手だな…。)
 乱馬も複雑な表情を浮かべながら、武烈舞台へ立ち上がった男をチラッと流し見た。
 凛と立ち上がった男は真っ直ぐにあかねを見据えている。
 その瞳には、絶対な自信と気概に満ち溢れていた。
 ただの欲望の塊ではない。
(この気迫は、かなりの格闘家のものだ…。それも、俺と似たような、格闘馬鹿…。)


「良くここまで上がって来たっ!あたしはここの乙姫。決まりによって、おまえに癒しの水を与える。これは、この山に湧く、清流泉の湧き水だ。疲れが一所に癒せる筈。それを飲んで、疲れを癒せっ!!勝負はそれからだっ!」

 彼の前に立ちはだかったあかねも、凛とした声で言い放つ。
 一瞬、この男の気迫に飲まれそうになった自分を戒めたようだ。

「俺は響良牙っ!手合わせしていただきたく、ここまで上がって来た。よろしく頼む。」
 思ったよりも大きな声だった。頭には黄色い虎縞のバンダナ。彼の瞳は真っ直ぐに光り輝く。
 彼はあかねから、聖水の入った杯を受けると、一気に飲み干した。
 それから涼たる顔をして、あかねと向き合った。
 なかなかの好青年である。
 彼の気は清廉としていた。一点の曇りもない。かえってこういう邪気の全くない手合いは、闘う相手として厄介なことがある。


(こりゃあ、相当、苦戦するかもしれねえな…。)

 乱馬は苦い顔をして腕を組んだ。隣りの早雲公も同じことを感じているのだろう。
「あかねの体力が持ちこたえてくれれば良いが…まだ疲れが残っているやもしれぬ。」
 それもそうだ。昨夜出会ってから彼女は洞窟の中で少しまどろんだだけだろう。勿論乱馬もそうであった。元々タフな彼も、正直、身体が温かい塒(ねぐら)を欲しがっている。
 いくら、清流の泉に浸ってリフレッシュしたからと言って、あかねの疲れは完全には癒えていないだろう。いや、神経が昂ぶっている分だけ、厄介かもしれなかった。
 挑戦者の青年は、手を前に組むと、深々と一礼した。生真面目なのだろう。あかねもそれに対した。

 一瞬大きく気が動いた。

(来るっ!)
 乱馬がそう思った瞬間だった。青年の指先から大きな気が溢れ出した。

「爆砕点穴っ!!」
 掛け声と共に、バアンっと大きな音がした。舞台の床が炸裂した。あかねは寸でを空へと避けた。
 と、良牙があかねの背後に回る。させまじとあかねは身を捩った。彼女の蹴りが良牙の胸目掛けて飛ぶ。良牙は後ろへ倒れ込んだ。
 だが、良牙は直ぐに、真っ直ぐ立ち上がった。
(あの男も、気が使えるのか…。)
 乱馬の表情が曇った。気技を使いこなすには、相当の武道力と格闘センスを要求される。それもこの破壊力の大技をいとも簡単に使ってみせるのだ。普通、最初から大技をぶつけてくるような真似はできない。ということは、まだまだ大きな技を持っているということになる。
 おまけにあかねの蹴りは相当な威力を持っている筈。それを難なく胸で受け止めた彼は、全くダメージを受けていない様子だ。
 かなり強靭な体力を持っているのだろう。

「やるわねっ!」
 あかねの顔に夕陽が射した。真っ赤に燃え上がる夕陽。
 彼女の闘士にもまた火がついたようだ。
 強い者への憧憬が彼女にはあるのかもしれない。


「今までここへ上がって来た若者の中でも、彼は特別純粋で強健な力を持っているようだ…。彼なら或いはあかねを…。」
 早雲公の言葉に乱馬は複雑な想いを抱いた。
 そう、こういう邪気のない野郎は、欲がない分、真っ直ぐで情熱的だ。こういう輩が、あかねにとっては、一番やり辛い相手であろうことは、容易に想像できた。
 武烈流の使い手は、対戦相手が、思い切り、邪な欲情や支配欲に満ち溢れた相手の方が、御しやすいのではないかと、乱馬は察していた。
 相手の垂れ流す、邪気や欲望を、気の流れの中に捕え、それを、浄化する気弾を撃ち込む…恐らく、それを得意とする流派なのだと、薄々、感じ始めていた。



「なあ、乙姫さまよ…。本当にいいのか?」
 良牙は立ち上がると彼女に向かって声を掛けた。
「いいって何が?」
 彼の継いだ言葉の意味が分からずあかねは問い返す。
「だから…。その…。俺が本領を発揮して闘っちまってという意味だよ。俺は、女を打ちのめすことは極力避けたいんだ。乙姫さまの大事な身体に傷を作ってしまいたくねえ…。」
 彼の瞳は真剣だった。
「あたしと闘いたくはないの?」
 あかねは挑発するように言葉を吐いた。
「これは勝負よ。真剣なね…。いかなる理由があるにせよ、手を抜く事は許しないわっ。あたしは女ではあるけれど、同時に誇り高き武道家よ。」
「わかった…。あんたがそこまで言うのなら。」
「それに、ご心配なく。少々傷がついたって、癒すこともできる。さっきあんたが飲んだその水の源泉でね。」
「なるほどな…。なら、思う存分やるぜ…。」
 ぎゅっと握った拳。
「いくぜっ!」
「望むところよっ!!」

 新たに仕切りなおした闘い。
 乱馬が予想したとおり、どちらも一歩も引かない。

 二人とも、気の連続技を使い出す。
 二人の手先から放出される気砲弾は、互いの肉体を弾き飛ばそうと襲い掛かる。
 
 ドヒュッ!

 激しい気炎とともに、空中でぶつかり合う気弾は、夜の闇に包まれた、山肌をくっきりと浮き上がらせる光を放って弾け飛んだ。


 乱馬は瞬き一つせずに、二人の激闘に目を凝らした。

「やっぱり、ダメージは完全に回復してねえか…。」
 ふっと溜息を吐いた。
 あかねの動きは、若干、精悍さを欠いている。そう思えたのだ。
「疲れが溜まってるんだな…。表面は清流の泉で回復できても、身体の芯まで疲労を除くことはできねえって訳か。」
 それにしても、あかねは良く動いた。良牙が弾き飛ばしてくる気砲から避けて、己の気も飛ばす。
 だが、基本となるスタミナの違いは、時間の経過と共に、如実になって表れ始めた。

 残照はなくなり、辺りが闇に包まれる頃、闘いに修羅場が来た。

 良牙が地面に「爆砕点穴」という技を使って開けた穴の一つに、あかねがつまずいて倒れてしまったのだ。
 下りて来た夜の闇のせいで、穴に気付くのが、一瞬、遅れた。
「あっ!」
 小さく叫んで、彼女の身体が、一瞬、ふらついた。

「あかねーっ!」
 乱馬は思わず叫んでいた。

 ちょっとした隙が敗北を招く事もある。

 あかねはつんのめって前屈みに倒れ込んだ。
 そこへ気砲弾でも打ち込まれたら、ひとたまりもあるまい。

 だが、あかねの予想を裏切って、良牙は手荒な攻撃を加えてはこなかった。
 まるで、早く体制を立て直せと言わんばかりに、あかねが、立ち上がるまでじっと静かに見据えて待っていたのだ。

「何で、気砲弾を打ってこないの?」
 あかねは腰を上げながら、きっと良牙を睨みつけた。
「生憎、俺は倒れた女を叩きのめす主義はねえからな…。それよか、もう、ここいらで降参したらどうだ?乙姫さまよ…。」
 あかねはまた再び、闘いに望む姿勢で、構えた。
「いいえ。これは真剣勝負。どちらかが倒れるまで闘わなければ意味がないの。あんたも、あたしに勝ちたいのなら、今後は一切、手加減はなしにして欲しいわね…。」
「しょうがねえ、じゃじゃ馬なお嬢さまだな。…。仕方ねえ…。身体でわからせてやろう。」
 良牙の気が上昇した。
 あかねも負けじと己の気を昂ぶらせ始める。
 両者は睨み合いながら、互いの気を滾らせてゆく。

「次の技で、互いに、雌雄を決めようじゃねーかっ!」
 良牙があかねを煽った。
「望むところよっ!」
 あかねも激しくそれに対した。
 二人、萌え上がる気を、互いの身体へと巡らせ始めた。
 ビリビリと周りの空気が揺れ始める。



「あいつ…。相当な気を使いやがる…。あかねから発せられる気とは桁が違うぜ。」
 乱馬は複雑な表情を、対戦相手の良牙へと手向けた。
 このまま、あかねが組み伏せられたら。或いは彼女はここで負けを喫してしまうかもしれない。
 そんな焦りにも似た境地へと、追い込まれ始めていたのだ。
 他人の闘いとはいえ、見ていてハラハラしていた。このまま自分が飛び入りたいくらいの気分になっている。
 そんな乱馬を察したのか、早雲が一言、呟いた。
「勝負の世界は厳しいものだよ。」
 早雲公は闇に包まれる舞台を、じっと見据えながら、微動だにしない。





 一方、武烈舞台の二人。あかねと良牙は、互いに気を高ぶらせ合っていた。
 どちらも、一歩とも譲る気はないようだった。
 ゴゴゴゴと武烈舞台の下の池が、水をたたえて、一緒に震え始めていた。
 それほどに、激しい気流が、あかねと良牙の周りに、渦巻き始めていた。
 
 気が充満して、どちらかが飽和した時、雌雄が決する。
 緊張感が夜の闇の中に漂い始めていた。
 ある意味、駆け引きである。
 一瞬たりとも、出遅れた方が負けに近付く。
 互いにけん制し合いながら、睨み据え、気を手繰り寄せる。

「はああああっ!」
 先に気焔を吐きあげたのはあかねだった。
 一気に気を高ぶらせた。
 そして、良牙目がけて動き出そうとしたその刹那。良牙がニヤリと笑った。
「遅いっ!」
 先に良牙が動いた。電光石火のような、素早い動きだった。
「爆砕隆起!」
 あかねの目の前で、指先から気をほとばしらせた。
「あっ!」
 あかねが叫んだ時は、彼女の立っている地面が再び大きく揺れて、にょきっと上に盛り上がった。
 彼の指先から発せられた気は、あかねの立っていた地面を、何メートルか押し上げたのだ。
 目の前が急に隆起して、あかねはバランスを失った。
「きゃあっ!」
 悲鳴と共に倒れこむ。と、思ったときに、良牙の腕があかねを後ろから抱え込んだ。
「どうだ?これでもまだ闘いを続けるってか?」
 彼はあかねを見下ろしてそう言った。
 はがいじめにされて、動けない。
「大人しく、負けを宣言して、俺の女房になればいいじゃねえか。」
「あんた、もしかして、この闘いの勝ち方を知らないんじゃないの?」
 あかねは苦し紛れに彼にそう囁いていた。
「あん?乙姫さまを降参させればいいんじゃねえのか?」
 あかねの腰に手をかけたまま、良牙が答えた。
「やっぱり、知らないのねっ!」
 あかねは彼に肘鉄を食らわそうと身体を捻った。
「おっと…。そうはいかないっ!」
 良牙はその手をがしっと掴んで動きを封じた。
「あたしは絶対に降参なんかはしないのよ。いえ、してはならないことになってるのよっ!」
 絡み取られても、尚、あかねが気炎を吐き続けた。
「もう勝負はついちまってるじゃねーか…。」
「いいえ、まだよ。あんた、勝ちたいのなら、この場であたしを抱きなさい。そして、あんたの一物であたしの身体を貫きなさい。」
「な…。」
 良牙の顔が真っ赤に染まった。
「この勝負の本当の目的は、ただ一つ。武烈流格闘流後継者のこのあたしに、子供を孕ませること。だから、あんたがあたしを貫いて、貪って、蹂躙して、そそり立ったマラを突き立て、ホトを貫き通して…初めて勝者として認められるのよ。そんなことも知らないでここまであがってきたの?」
「おれが、乙姫さまを抱くのか?いや、マラをホトに突き立てる…?今この場で…。」
 良牙の手が一瞬緩んだ。あかねは決してその気を逃がさなかった。
 鋭いあかねの気が良牙の上に駆けあがった。
 渾身の気を、その小さな体から、打ち込んだのだった。

「武烈分気弾っ!!」

 真っ赤な光が辺りを包んだ。
 それはみるみるうちに舞台一面を包んで弾けた。

 ドオーッンッ!!

 凄まじい爆風が弾け飛んだ。 至近距離からあかねの気弾をまともに食らった良牙は、舞台から弾き飛ばされていた。自分がさっき盛り上げた地面の隆起に、激しく身体を打ち付けられた。
 地面の隆起は彼の弾き飛ばされた反動で、更に大きく割れが生じた。
 周りにバラバラと弾き飛ばされた石が降って来た。

「でやあああああーっ!」
 あかねは一切、避けようとせず、それに当たる事も厭わずに、気を全身から集中させる。
 身体に、ごつごつと石が弾けてはその白い肌に傷を作る。柔肌に赤き血が噴き出しても尚、気の放出を辞めようとはしなかった。
「やあああああああああーっ!!」
 声の限りに叫びながら、倒れた良牙へと気弾を放ち続ける。
 やがてあかねは、岩柱に打ち付けられた良牙目掛けて、最後の気を一心に両手から吐き出した。
 赤い閃光が良牙の身体目掛けて貫くように飛び出していった。


 岩柱は見事に粉砕されて音と共に崩れた。
「うわあーっ!!」
 良牙は爆風で、更に後方へと吹き飛ばされていた。それでも、彼は姿勢を立ち直らせようと空中で足掻く。
 が、人間は飛べる生き物ではない。いくら達人でも、空に浮き立つことはできなかったのである。 皮肉にも、彼が爆砕点穴で穿った穴へと、吸い寄せられるように落下してゆく。
 床と思っていたところに、丸い穴が開き、底を通り越して、下の池へと真っ逆さまだ。

「わああああぁぁぁぁぁっ!」

 彼の声は穴に飲み込まれるように、暗がりの水面へと消えていった。


「勝った…。勝ったわ…。」

 あかねは一言そう呟くと、どおっと前のめりに倒れ伏してしまった。
 腕や足の柔肌が、真っ赤に染まって行く。



「あかねっー!」
 乱馬は、思わず飛び出していた。
 ここが高い崖上にあることを忘れて、下に向かってダイビングしたのだ。
 後先など考えていなかった。
 彼の飛込みを見ていたのか、それとも主人の窮地を察したのか。
 さあっと黒い羽が落下する乱馬の方を目指して急降下する。劉だ。
「クエッー!」
 乱馬を大きな背中で受け止めると、一声鳴いた。
 それからあかねの倒れた辺りへと一目散に降下した。
 下へ下りると、乱馬は倒れ込んだあかねの上体を起こした。
「しっかりしろっ!あかねっ!!」
 あかねの気は弱々しかったが、息は規則正しく聞こえてきた。
「清流の泉へ…。お願い…。乱馬。」
 そう倒れ伏す。口元から鮮血が一筋流れ落ちていた。
「わかった、劉、頼んだぜ…。」

 劉は乱馬とあかねを背中に乗せると、闇夜の中へと飛び上がって行った。


つづく




ホト…女陰…古事記にも記載されている古い日本語。
マラ…男根…仏教語から派生した言葉(らしい)。
陰語なのであんまり使わないでね〜


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