◆幽石
第二話 武烈山の乙姫
三、
対峙する二人の間に微妙な沈黙が流れた。
隠れていた月が雲間からゆっくりと現れる。
まだ明けやらぬ夜の闇へ、月明かりがさあっと下りてくる。
青白い光の中に映し出されたのは、一人の少女の姿だった。
髪の毛はさらさらと短い。
月明かりを背に浮き上がる少女の瞳は、真っ直ぐに乱馬を見詰めていた。
「あんた、強いわね。」
少女は和んだ声を出した。
乱馬は咄嗟にとった戦闘態勢を解いた。彼女の声に殺気がなかったからだ。
味方か敵かはわからなかったが、今は攻撃してくる意志はないらしい。
「誰だ?おめえ…。」
乱馬は少女を見上げて、一言、疑問を投げかけた。
「ずっとさっきの狼たちとの闘いを見学させて貰ったわ。凄いじゃない…。気を使えるなんて。そんな女の子、初めて見たわ。」
にこっと微笑んだ。
それから彼女は、つうっと音も無く乱馬の横へ立った。
乱馬の背筋に戦慄が走る。
(こいつ、強え…。)
ゴクンと唾を飲み込んだ。
武道家の本能が、彼女の中に秘められた能力を瞬時のうちに推し量っていた。
只でさえ女性に変化している己。しかも、今までのアクシデントの連続で、戦闘力は完全に劣化している。今、彼女と対戦などしたら、十中八、九、大負けを喫するだろう。
「傷…。大丈夫?」
彼女は血が滴り落ちている乱馬の手を取った。
「へ、平気だ…。」
彼女の柔らかい手に触れて、思わず固くなった。心臓の鼓動がピンと跳ねた。
「あたし、あかね。あんたは?」
凛とした声で自分から名乗ると、彼女は乱馬の名前を訊いて来た。
「乱馬。」
答えないのもバツが悪いので、すっと名乗った。
「らんま…。男の子みたいな名前ね。」
そう言われてむっとしたが、彼女の次の言葉に、押し黙った。
「あんたが女の子で良かったわ。」
そう言って、あかねは微笑みかけた。
「え?…。」
と言う表情を投げかけると、続けざまに彼女は言った。
「物凄く大きな気を感じたから、ここまで様子を見に来たのよ。また、男が来たのかって思ったんだけど…あなただったのね。」
あかねは勿論、乱馬を見てくれのまま、女と思い込んでいる。そして、女であることで、ホッとしている様子が伺えた。
「おまえ…気が読めるのか?」
乱馬は思わず訊き返した。
「勿論っ!」
にっこりとあかねは笑った。
気が読めるということは、気の使い手でもあろう。ということは、相当、強いことになる。言い切ったということは、腕に自信があるのだろう。
乱馬は、少しだけ、彼女に興味を覚えた。
「ねえ。あたしの所へいらっしゃいよ。」
と、あかねは、大きな目を輝かせて乱馬を誘った。
「え?」
「あたしの家はこの山の上にあるの。ね、いらっしゃいよ。」
くいっと引っ張られる。と、ヒュウッとあかねが口笛を吹き付けた。
と、バサバサっと音がして黒い影が近づく。
「鳥?怪鳥?」
近づいて来た影は、大きな黒い鳥だった。ゆうに、人を乗せて飛べるだろう大きさはあった。
「大丈夫、劉(りゅう)はあたしの言うことならちゃんと聞きわけてくれるのよ。それに、夜目が効くから、夜でも空を飛べるの。」
そう言うと、ひょいっと乱馬を上へ担ぎ上げた。女の子とは思えぬくらいの力だ。
怪鳥は乱馬を背中に乗せると、クエーッと一声鳴いた。
背中は思ったより広い。
空へ上がると、鳥は山のてっぺんを目指して飛び上がった。
遥か向こうの東の空が少しずつ白んでいる。もうすぐ朝が来るのだろう。
その微かな光を横目に、二人を乗せた怪鳥はぐるりと空を旋回する。
「へええ…。こんなところに人家があるなんて。」
風を受けながら、乱馬が目を見張った。
正直、驚いた。山間のそれも難所の中にぽつんと開けた別世界。そこには、城壁があった。石で造られた小さな城がそこに建っていた。
「あれが、あたしの家よ。」
あかねはにこっと笑って乱馬を見た。
「麓からここへ登ってくるには、一晩じゃあ、まあ無理ね。あんたでも二日くらいはかかるんじゃないかな。かなりきつかったでしょう?」
あかねはくすっと笑った。
「もちろん、下りるのだって大変だからね。」
「だから、鳥に乗ってんのか?」
乱馬が尋ねた。
「ええ、そうよ。あたしたちは鳥に乗って、自由に空から行き来してるって訳。ま、滅多に山を下りて町へ出ることはなくなってしまったのだけど…。」
少し憂いを含んだ目をあかねが空へ向けたことに乱馬は気がついた。
「ふーん…。鳥かあ…。結構、おとなしいんだな…こいつ。」
乱馬はふっと頬を緩めた。
「あんた、鳥に乗ったことある?」
「ねーよ。今日が初めてだ。」
「だったら、ねえ、ちょっと空の散歩をしない?怪鳥の背中に乗るのって面白いわよ。」
あかねは憂いを打ち消すように笑った。
ふと目を転じると、城が建っている切り立った崖下に平らな台のような場所が見えた。
「あれは?」
乱馬は指を指した。
「ああ、あれは「武烈舞台」と呼ばれている武道場よ。」
あかねはさらりと答えた。
「あれが「武烈舞台」…。ってことは、もしかしておまえ…乙姫か?」
あかねは一瞬表情を強張らせた。
「そうよ。確かに世間の人たちはあたしのことを「乙姫」って俗名で呼んでるわね。早雲公の末の愛娘って。」
風が二人の間をごおおっと鳴りながら、通り過ぎていった。
途中で行きあった男たちは、みな、乙姫に惹かれて武烈舞台を目指していたことを、思い出したのだ。中には、包帯男のように、既に彼女に負かされて下りて来た奴も居た。
あかねが乙姫だとしたら、やはり、相当な使い手であることは、一目瞭然だった。
「強いっていうから、もっと、でっかい女かと思ったけど…。そーか…。おめーが乙姫さんか…。」
つい、口から本音が飛び出してしまった。
「あら…。格闘の強さには身体の大きさなんて関係ないわよ。あんただって、相当強いじゃない。」
あかねは笑いながら、そう切り返してきた。
「確かに…身体能力はガタイだけじゃわかんねーな…。」
「ええ…。気を使いこなしたら、巨漢だって簡単にぶっ飛ばせるわ。…でしょ?」
「まあ、そうだな。」
乱馬は小さくなった己の右手を見ながら、答えた。身体が縮んでも、恐らく、気弾の威力はそう変わるまい。あかねに示唆されるまでもなく理解できた。
「ひょっとして、あんた。あたしに興味があって、ここまで上がって来たの?」
「あ…いや…その。」
咄嗟の問いかけに、思わず、口をつぐんだ。
目的は、清流の泉だ。女化した自分を元に戻しに上がってきたのだ。
どう切り返そうかと迷っていると、
「ふふふ…嬉しいなあ…。家族以外の同世代の女の子と話すのって、本当に久しぶりだもの…。それに、同じ格闘少女なんて、ざらには居ないわ。」
と笑った。
本当に屈託なく笑う女だと、乱馬はあかねを見ながら思った。
こんなあかねが、何の必要があって、群がる男たちと闘う必要があるのか。疑問に思ってしまった。
「なあ…。何でおめーは…その…男たちと闘ってんだ?」
ぼそっと聞いてみた。
「運命よ…。」
「運命?」
咄嗟に聞き返していた。
「ええ…。それがあたしに課せられた運命だから…闘ってるの。」
あかねは登って来る太陽に向かって、そうつぶやいた。
「あんただったら少しは分るかもしれないわね。同じ女ですもの…。闘いに借り出される女の運命の重さがどんなものか。」
何か複雑な事情でもありそうだと乱馬は思った。
「好きで闘っているんじゃねえのか?」
「まさか…。強いて言えば…自分に絡みつく柵(しがらみ)を捨てるために闘ってるの。あたしは。」
「柵を捨てる?」
「あたし…武烈流格闘術の正式後継者なの。何十代も続いてきた、ね。」
「武烈流格闘術…聞いたことがあるぜ…。華麗な気技を自在に扱う、無敵の格闘術だ。」
「ええ…。古代連綿に続く、気を媒体に様々に繰り広げる格闘術の家元なの。この流儀の最大奥義は昔から「男系の一子相伝」で伝えられてきたわ。でも…。父の代には男は生まれなかった。子供はあたしを含めて三人、全員女だったの。」
「へえ…。妾腹もいねーのか?」
「生憎、妾など取らない一族なのよ。正しき武道は正しき手順を踏まえてこそ、次に繋がるってね…結構、いろんな掟があるの。」
「掟ねえ…。確かに、うざってーな。」
「で、一族の掟に従い、末娘のあたしは、物ごころがつくかつかないかの頃から激しい修行をさせられたわ。そして、自分の役目を果たすため、十五歳のときに婚姻することを強いられた。」
「十五歳で婚姻?」
「ええ…。十五歳の誕生日に、どちらかを選べと父に言われたわ親の決めた許婚と婚姻すること…もしくは、あたしと闘って勝った武道家の子を産むこと…このどちらかを選べってね…。」
「親の決めた許婚?そんな奴居るのか?」
「ええ。父が教えてくれたわ。」
「究極の選択だな…そいつは…。で、許婚がいけ好かねえ奴だから、闘って負けた奴に嫁ぐことを選んだのか…。」
「ううん。許婚には会ったことなんてないわ。どんな奴かも知らない。」
「あん?会ったことねえのか?」
「ええ…。流派だけしかわからない。でも、あたしだって武道を離れれば一人の女よ。自由に恋愛の一つもしたいじゃない…。だから闘うことを選んだの。」
「あん?己を負かす男が現れるまで、闘い続けるのを選んだのか?」
「ふふ、闘いを選ぶとね…あたしにだって利益があるのよ。」
「利益?」
「ええ…闘って、千人の武人を倒したら、あたしは掟から解放されるのよ。そう、自由に婿を選べるの。どんな男の人と結ばれても、あたしに一子相伝できる能力がある子を産めるって判断されてね。」
「それで、群がる男たちと一人で闘ってるっていうのか?」
こくんとあかねは頷いた。
「ひでえ話だな…。」
ぽつんと吐き出す。
「…仕方ないのよ。掟には逆らえないわ…それに、あたしが選んだ道だから。…で、今日までに、九百九十六人の武人を倒したわ。あと四人。それであたしは解放される。自由になるの。」
あかねはにっこりと微笑んだ。
「へえ…。九百五十六人…そりゃあ、すげえー数字だな。おめー。歳いくつだ?」
「十八よ。」
「じゃあ、俺と同じか…。」
「へええ…あんたも十八か。同じ年ね。」
「十八ってことは…十五から数えて三年…ってことは、ざっと計算して、三日に一人倒してきたことになるのか…。」
それはそれで、とてつもない数字であった。
「あと四人…それで、あかねは自由になれるんだ。」
「正確には三人と一人。最後の千人目は許婚と闘うことになるそうよ。今までそこまで勝ち残れた一族の女人は居なかったらしいから、許婚と一線を交えるのはあたしが多分、最初ね。」
「ふうん…。どっちにしても、近く決着がつくってわけか。」
乱馬は少し考え込んでしまった。自分と同じ歳の彼女が背負わされてしまった運命の大きさに。
(それで、強くならざるを得ないって訳か…。想像以上に、肩肘張って生きてきたんだろーな…。こいつ。)
そんな考えを巡らせた後、乱馬は己の疑問をぶつけた。「許婚」と闘わねばならないと、あかねが口にしたからだ。
俄かに興味が湧いた。この少女を許婚の男とはどんな奴なのかが。
「で、千人目の野郎、おまえの許婚はどうしてるんだ?強いのか?」
「そろそろ山へ登ってくる頃だって父が言ってたわ。諸国を渡り歩きながら修業はしてるらしいけど…。上の名前しか聞かされてないから、名前は知らない。父の盟友の息子さんだそうよ。亡くなった母も同意して許婚の約束をしてるって聞かされてる。」
「へえ…。親父さんの盟友かあ…。」
「若いころ、一緒に修行していたんだって…。」
「ってことは、相手も、気技のスペシャリストなのか?」
「ええ…。相手も気技を使う一派よ…確か、無差別真流の家元、早乙女玄馬の御曹司…って言ってたわ。」
乱馬は思わず怪鳥の背中からずり落ちそうになった。
(な?早乙女玄馬だとお?……親父は、無差別真流の家元だ…。で、そこの御曹司って…俺じゃねーかあっ!)
「乱馬…。しっかり捕まってないと落ちちゃうわよ。」
バランスを崩しかけた乱馬を見てあかねはくすっと笑った。
(俺は聴いてねえぞ…。許婚のことなんか。それに、こいつと闘うことも…。)
乱馬の思考は、ぐるぐると回り始めた。
(あーっ!もしかして、親父の野郎…。俺を焚き付けるために、一芝居打ちやがったのかあっ?)
そう考えると某か納得できることがたくさんあった。
今回、女に変身させられたことも、一人で山へ上がらされたことも。最初から仕組まれたことであったのであれば…。
乱馬は押し黙ってしまった。
「そろそろ下りるわね。」
あかねは瑠に合図した。と、劉は分ったと云わんばかりにすうっと吸い込まれるように、山の崖に立っている建物へと下りていった。
「ここがあたしの家…武烈城よ。」
あかねはトンと地面へ降りると乱馬を促した。
乱馬も劉からトンっと降り立った。赤茶けた土の上に、立派な建物が聳え立っていた。決して楼閣のように高くは無いが、敷地は思ったよりも広い。
「ここに父と二人の姉と暮らしているの。」
「使用人は?」
「居ないわ。さ、こっちへ。」
あかねは乱馬の手を取ると、母屋の方へ歩き出した。
「ただいまっ!」
あかねの声に、奥から人が現れた。
「あかねちゃん。遅かったのね。心配したわよ。…あら、お友達?」
「姉のかすみ姉さんよ。こっちは乱馬。獣が原で狼と格闘して怪我してたみたいだから連れてきたの。」
「あ、乱馬って言いますー。よろしくお願いしまーす。」
流石に氏名は口にできなかった。
「まあまあ、それは、大変だったのね。何もおもてなしできないけれど、ゆっくりとしていらっしゃってくださいな。」
愛想笑いを返すと、姉はこちらへと案内してくれた。
中はがらんとして、無駄な装飾は一切ない。そんな質素な作りだった。長い風雪に耐えてきたのだろうか。建物自体はどっしりとした風体である。
「これはこれは、あかねがお客さまを連れてくるなんて、珍しいのう…。」
奥から壮年の男性が出てきた。
「父の早雲よ。皆は早雲公って呼んでるけれど。…こちらは乱馬。」
ピクンと早雲公の眉が動いたように見えた。
「ほお、こちらが乱馬さんか…。」
腕組みをして答えた。
(ひょっとして、俺のこと、親父に聴いてるのか?)
乱馬はそんな早雲公の素振りと口ぶりに疑念を抱いた。
「何々…朝っぱらから。」
眠気眼をこすりながら、もう一人の女性が奥から顔を出した。
「次姉のなびき姉さんよ。」
あかねはまた、乱馬への紹介を繰り返した。
「何だ…。あかねが連れて来たからって男の子かと思ったら、女の子じゃない。いらっしゃい。」
鋭い目が乱馬を観察している。
「男の子なんか連れて来ないわよっ!」
少しあかねは膨れた。
「乱馬、夕べから何にも食べてないんでしょ?」
あかねが聞いてきた。
そう言えばそうだ。宿屋で夕食を平らげてから何も口に入れていない。山や谷を駆け、獣と乱闘し、すっかりハラペコということを忘れていたのだ。急にお腹がぐうっと鳴った。
「正直ね…。いいわ。あたし、何か作ってあげる。」
そう言い置くと、だっと奥へと駆けていった。
「かすみっ!ぐずぐずしないで、フォロー入れてあげなさいっ!」
早雲公が長姉を促した。
「はい。お父さま。」
かすみはゆっくりと奥へ向かう。
「大変っ!あんた、覚悟しておいた方がいいわよ。」
なびきがにやつきながら乱馬を見返した。
「はあ?」
「あんた、胃腸は丈夫?」
「至って健康だけど…。」
「そう…。ならいいけど…。まあ、頑張りなさいね。」
訳のわからないことを言う姉だと乱馬は小首を傾げた。
が、彼女が云わんとしていたことは、朝餉の食卓に向かう頃、明らかになった。
四、
促されて通された居間に、朝食が準備されていた。
温かいご飯や汁物やら。通り一遍等の食材が並んで居た。が、乱馬の席の一角だけ、何やら異様な感じの物が並んで居た。黒焦げになって、何の食材を使ったか不明な物。得体のしれない臭いがつんと鼻に来る。
あかねはそそくさと食事の用意に余念がない。
「さあ、召し上がれ。」
ニコニコ顔で進めてきた。
「ああ…いっただきます…。」
そう言って、箸をつけた。
「ぐ…。」
乱馬は口をつけて、まさに拷問に曝された己を自覚したのである。
(な、何だ?この異様な味は…。)
脳天を突き破るような不味さであった。
「どお?」
あかねが覗き込む。
「う、あ、まあまあだな。」
どう答えてよいものやら、乱馬は口篭りながら答えた。
「たくさんあるから食べてね。」
あかねは納得したように笑顔を返す。その笑顔に圧倒されながらも、乱馬はどうしたものか考え込んだ。不味いなどという甘っちょろい代物ではなかった。
「たく…。あかねは。」
傍でなびきが苦笑いしながら妹を見た。
「乱馬さん、困ってるわよ。箸が完全に迷って止まってるもの…。あんたは、全然進歩しないな…。親切の押し付けは良くないわ。」
助け舟なのか、余計なお節介なのかわからない言葉を横から挟んだ。
「お姉ちゃん、何よ。その押し付けっていうのは。」
あかねはギロッと姉を見返した。
「あんた、味見した?」
「ううん。してない。」
「ほら見なさい。何なら自分で口に運んで御覧なさいな。」
なびきはしたり顔でそう進めた。
「わかったわよ。」
あかねは面倒臭いなあという表情を向けたが、姉に勧められて己の創作料理を口へと運び入れた。
「うっ!」
そう言ったきり、あかねは悶絶する。
「ほら、不味いでしょう?」
なびきはきっぱりと言ってのける。
涙目になりながらあかねはお茶をいっぱい喉の奥へと流し込む。
「乱馬さん、こっちのを食べなさい。これはかすみが作ったものだから。」
その空間に耐えられなくなったのか、早雲公が乱馬に綺麗に盛られた料理皿を手に取った。
「はあ…。」
乱馬は躊躇しながらも、己の食の欲求には逆らえなかった。かすみの作った料理は美味かった。
あかねはそれ以来黙り込んで箸を動かす。
己が作ってしまった気まずい雰囲気に、沈みながらも、乱馬はかすみの料理を平らげた。
「よく食べるわねえ…。いい食べっぷり。」
なびきが目を丸くしたほどだ。元々は元気のいい青年なのだから、食欲は旺盛。食べられる時に食物は出来るだけ胃袋へ流し込む。そういう荒修業での性分が身に付いてしまっている。
「食欲旺盛。結構!いやあ、気に入ったよ。」
早雲公がにこにこと乱馬を見返した。
その一方で、あかねは殆ど箸が進まないらしい。
食事が終って、かすみが空になった皿を下げてしまうと、乱馬は表へ出てみた。
すっかり太陽は頭の上に輝き、新しい一日が始まっている。
ふと目を転じると、井戸端にあかねが座っていた。
「どうしたんだよ…。」
乱馬が声を掛けた。
あかねは力なく笑うと
「ごめんね…。さっきは。あたし。どうも料理はダメなんだ…。いくらやってもかすみお姉ちゃんみたいに上手くなれない。」
ほおっと溜息を吐いた。
「こっちこそ…。折角、作ってくれたのに、無駄にしちまって。」
「ううん。いいのよ。あたしが悪いんだもの…。あたし、幼い頃からずっと武道一筋で来たでしょう?本当ならこの歳頃になると、家事や料理の一つもできないといけないのに。」
「でも、おめえ、望まない結婚はする気なんてねえんだろ?」
乱馬は仰ぎ見た。
こくんと頷くあかね。
「だったら、無理に家事を覚えなくてもいいんじゃねえか。ちゃんと好きな男が出来てから、修業すれば。結婚する意志もねえのに、ガタガタ言ってても。今は、おめえの目的を果たすために集中すればいいさ。」
「でも、千人目を倒せても、この腕じゃあ、好きこのんであたしと結婚してくれる相手なんて…現れないかもしれないわ。」
「蓼(たで)食う虫も好き好きってな。世の中は広いんだ。一人くらい貴重な男が居るかもしれねえし。それに、おめえ、それだけの武道の腕を鍛え上げてこられたんだ。料理だって真剣に取り組めば、大丈夫…。何とかなるさ。それに、そうやって意気消沈するのって…。あかねらしくねえぞ。」
と言葉を掛けた。
「そうね…。今は目の前のことに集中していればいいのよね。ありがとう、乱馬。」
輝くような笑顔があかねの顔に零れた。
(か、可愛い…。)
一瞬乱馬は我を見失った。凛とした強き中に存在する少女の脆い部分。それにくらっときたのである。
ドキッと高鳴った心臓は、彼女の笑顔に合わせて波打ち始める。
一瞬であったが、この彼女が懸命に料理を作るようになるかもしれない男が己であれば…。などという訳のわからない考えが頭に浮かんだ。
己のためにかいがいしく動き回る可愛い彼女。彼女なら、己の傍にずっと居てくれてもいい、そんな想いに一瞬捕らわれたのだ。
(ダメだっ!俺はまだ修行中の身の上。)
乱馬は頭の中からそんな浮ついた考えを押し出そうと首を振った。
と、乱馬の表情が一瞬険しくなった。
「誰か来るっ!」
禍々しい「気」を感じ、言葉を吐き出していた。
「本当だ。…乱馬もわかるの?」
あかねは自分とほぼ同時にその「気」を感じ取ったようだ。
「ああ…。この気は男…だな。それも相当曲がった根性の持ち主だ…。禍々しいものを感じる。」
「あんた、そこまでわかるの?」
あかねはじっと乱馬を見返した。
「このくらいの気ならわかるさ…。」
乱馬の流派、無差別真流も、気技は得意としている。あかね以上に気を読むことには長けていた。
その気脈にはおどろおどろしい、邪気が漂っている。
「九百九十七人目のお出ましか…。あたし、行かなきゃ。乱馬はそこの窓から見てて。」
「がんばれよっ!」
「ええ。あたしは勝つわ。」
あかねは奥の部屋へと消えていった。
「どうかね…。あかねは。」
あかねが居なくなると、早雲公がすっと現れた。
「真っ直ぐなお嬢さんですね…。」
乱馬は眉ひとつ動かすことなく答えた。
「一本気過ぎて融通が利かないのが欠点ではあるが…。」
「本当に九百九十六人の猛者どもを倒してきたんですか?」
「ああ。そうだよ。この舞台まで上がって来られる男とてそうは居まい。君も何となくわかるだろう…君が上がって来た「近つ険しき道」に比べ正道はきつくないにしろ、大抵の男たちは途中でばてるんだよ。並みの能力しか持ち合わせていない男は、体力と気力を使い果たし、この舞台を見ることなく引き返す連中が多いのさ。」
「武烈舞台まで上がって来られるのは、ごくわずかな男ってわけですか…。実際、彼女を求めて上がろうとする奴らは、ここへ来る連中の何十倍と居るってことになるんですね……。今まで良く無事だったもんだ…。相当腕に自信があって鍛えこんでいるんですね。」
吹き上げてくる谷間風は、嫌な湿気を含んでいる。
「どうだい?君も、あの娘と闘ってみる気はないかね?」
早雲公は乱馬の横顔に言葉を投げてきた。
乱馬はそれには返事しなかった。
やはり、早雲公は己の正体が薄ら薄らわかっているようだった。遠まわしだが、確実に核を捉えてくる会話をぶつける。
「まあ、まだ千人目までには三人の猶予がある。その間にじっくりと考えて決めてくれたら良いよ…娘の、あかねの闘いぶりを、しっかり目に焼き付けてやってくれ。」
「目に焼き付ける…。か。」
乱馬は彼の言葉を反芻しながら、じっと舞台を見詰めていた。
一人の男が舞台へとよじ登って来た。あかねの数倍も体重があろうかという大男だ。髪は後ろに乱れ、筋肉溢れた身体がのっそりと立ち上がる。決して美男子とは言い難い野獣のような男である。
「良くここまで上がって来たっ!」
背後で甲高い声がして、さあっと彼目掛けて鳥が舞い降りる。背中にはあかねが乗っていた。
「決まりによって、おまえに癒しの水を与える。これは、この山に湧く、清流泉の湧き水だ。疲れが一所に癒せる筈。それを飲んで、疲れを癒せっ!!勝負はそれからだっ!」
鳥からたっと降り立ったあかねが、男に聖杯を差し出した。青い硝子の器だ。
(闘う者は対等っていうわけか…。)
乱馬はじっと遥か下にある舞台の武人を見比べながら思った。
ここまで上がってくる猛者とはいえ、体力は相当使い果たしているはずだ。そんな奴と闘うのはフェアではない。聖杯を授けることによって、闘う条件を同じに整えるのだろう。
男は無言でそれを受け取ると、にやっと笑い、一気に飲み干した。
(あの男…。なんて腐った気を出してやがる…。)
胡散臭いものを乱馬はさっきから感じ取っていた。
(あかね…。手綱を締めねえと、やられるぜ…。)
何時の間にかあかねに肩入れをしていた。
あかねは静かに中央で構えた。
美しい身体の線に、目は吸い寄せられる。
真っ赤な道着を着ていた。血の色だ。彼女の白い肢体によく映える色合いであった。
どちらからともなく攻撃が始まった。
獰猛に狙いを済まして襲い掛かる男。力任せの拳はぐいぐいとあかねを目指して飛ぶ。
あかねは良く動く。身が軽い分、難なく男の攻撃をかわしてゆく。
(早えっ!)
その動きに寸分の無駄もないことに乱馬は舌を巻いた。
美しい動き。まるで舞踏を見ているようなしなやかさ。身体が柔らかいのだろう。
あかねは容赦なく、男へ蹴りや拳を連打してゆく。
男がどおっと舞台へと倒れ込んだ。
「立ちなさいっ!あんたはそれだけの男じゃないはずよっ!ここまで上がって来たんだからっ!!」
男はゆっくりと身体を起こした。
ゆらりと状態が揺れる。あかねが言うようにダメージなど殆ど食らっていないようだ。
にやっと笑った男は再びあかねに襲い掛かった。
あかねは余裕でその攻撃も交わしてゆく。
(あの男、何企んでやがる。)
乱馬の目は鋭く光った。あかねもまだ本気は出していないようだが、男も勿論、軽いウォーミングアップのようだ。
そんな牽制のし合いが数十分間続いた。
(不味いな…。)
乱馬は腕組みをした。
いくら強いとはいえ、あかねは女だ。力があり溢れた怪力男とは基礎体力が違う。闘いが長引けば長引くほど彼女のスタミナは切れてゆく。男の狙い目がそこにあるとしたら。
「心配はないよ。あかねの体力は相当なものだ。」
乱馬の心配を察したのか、早雲公が呟いた。
「あの子だって、だてに子供の頃から武道をやり続けて来たわけではないからね。」
早雲公は目を細めながらうそぶいた。
果たしてそうなのだろうか。
乱馬は何か得体の知れないものを男から感じていたので、内心はらはらしながら闘いを見守った。
やがて、その危惧は現実になって現れる。
何度目かの攻撃を交わされたあと、男はいきなり、道着から武器を出したのである。
「あっ!」
思わず乱馬は手に汗を握り締めた。
「卑怯なっ!武器を使うなんて反則じゃねえのか?」
そう傍らの早雲公に問い質していた。
早雲公は首を静かに横に振る。
「いや、この闘いには規則はない。只あるのは、本気と本気のぶつかり合いだけだ。」
「ってことは、どんな手を使われても文句は言えねえってことなのか?」
「ああ。所詮闘いは殺し合いだ。強い者が勝つ。いや、勝った者が強い。そう、勝った者こを真理になる。君も良く知っていることだろう?」
あかねの身体に鎖が伸びる。ひゅんっと音がして右手と左手が胴へと巻きつけられた。
「きゃあっ!」
色めかしい声が聞こえてきた。
男はあかねの動きを封じてにんまりと笑っている。
「くっ!」
あかねは全身で抵抗をする。
男は鎖を片手に、どおっとそれを己の方へと勢い良く引っ張った。
ごろんと音がして、あかねの体が舞台へと打ち据えられた。手の自由が利かないながらも、あかねはそれを懸命に耐えて、なんとか受け身を取って、衝撃が少ないように、肘から地面へと倒れこむ。
「いいざまだ…。」
初めて男の声があかねに聞こえた。
あかねはきっとそいつを見上げると、足を回して振り上げた。
男のアゴへと蹴りが入る。
「生意気なっ!!」
男はアゴから血を滴らせて、あかねを見据えた。
男は懐へ手を滑らせた。何かを取ろうとしたのか。
そのとき一瞬隙ができたのをあかねは見逃さなかった。
「えいっ!」
あかねは全身を振り回して、再び男へと足蹴をかけた。
ドンっ、と、今度は男が後ろ向きに倒れる番だった。男の手から鎖が離れた。あかねは思い切り後ろへと飛んだ。
「はっ!」
気合を入れて鎖を弾き飛ばす。
「やるじゃねえかっ。だが…。」
乱馬は顔をしかめた。
あかねの動きが止まったのだ。
乱馬の危惧が現実になった瞬間だった。
「あんの野郎っ…。」
乱馬の表情はみるみる曇りだす。
「どうかしたのかね?」
早雲公が乱馬を見た。
と、あかねはその場にへたり込んだ。様子がおかしい。
「けっ!あの野郎、今の隙に毒を仕込みやがった。」
「毒?」
「ああ…。鎖を放すときに少し隙を作ったろう。計算した上で、一瞬あかねに向かって何か粉みたいなのを投げやがったんだ。ほら、あかねを見てみな。」
舞台の上であかねが苦しんでいるのがわかる。
「毒も…。使ってもいいんだよな…。」
乱馬はしかめっ面を早雲公へ向けた。
「無論じゃ。毒を使う隙を相手に与えてしまったのは、彼女の不注意からだからな…。」
複雑な表情で早雲公は舞台を眺めている。
あかねは吸い込んだ粉の毒のせいか、激しくむせている。
「ふふ…。どうじゃ。即効性の毒花の粉は。」
にやりと笑って挑戦者の男はあかねの前に立ちはだかった。
あかねは歯を食いしばって、それでも男を睨み上げる。
「いい、顔してるじゃねえか…。可愛い顔だ。好みだぞ。評判どおりの娘だ。」
男はそう言うと、にっと笑った。
舞台の端には少し盛り上がった石がある。まな板のような、いや祭壇のような平らな石だ。丁度ベッドのような高さになっている。男は動きを止めたあかねをそこまで引きずって行った。
「ふふ…。もう、動けまい。動けなければ、俺の攻撃を緩める事はできないだろう…。もう勝ったも同然だな。」
にやりと男は笑った。獲物の美しさに満足しているのだろうか。
「この勝負の勝ち負けはどうやって決まるんだ?まさかKOを食らわせるとかいうんじゃねえだろうな…。」
乱馬は早雲公に尋ねた。
「そんな安易な野蛮なことで勝敗はつけさせぬ。あかねは大事な跡取りを生むのだからな。だが、あかねには耐え難きことかもしれぬ…。その男を配偶者として認める行為を受けることが敗北の証となる…。」
「おいっ!それってまさか…。」
「そうだ、あかねを組み伏し、その身体を貫いた男が勝者となる。」
淡々と継がれた言葉に乱馬は絶句した。
汗が額から流れ落ちた。その場面を見せ付けられるというのだろうか。父親として、耐え難きことではないのか。
「美しい姫だ。ふふふ…。望んだとおりのな…。おまえを孕ませることが出来るのは、男冥利に尽きるということだ。容赦はしないぜ。」
男は舌なめずりをしてあかねをまな板岩の上に引き上げた。
「あ、あたしは、負けはしないっ!」
果敢にも動こうと足掻くあかねだったが、毒が身体を痺れさせているのだろう。身体は殆ど動かない。
「威勢のいい女だぜ…。どうら、その肉体を拝見させてもらおうか。」
男はあかねの胸倉に手を掛けると、一気に服を引きちぎった。
ビリビリっと音がして、真ん中からあかねの道着が縦に裂けた。白い肌が剥き出しになる。
「あかねっ!!」
乱馬の口から思わず声が漏れた。彼の居る所からも、あかねの白い玉のような素肌が覗いた。
「いい眺めだ。」
男は暫くあかねの顕になった胸元を、舐めるように見て楽しんだ。
「ふふ、そう固くならずとも良い。すぐにワシが快楽の園へと連れて行ってやるからな…。快楽へと誘って、楽しませてやろう…。」
男は上着を脱ぐと、上半身を剥き出しにした。盛り上がる筋肉質な腕。それをあかねの首の下に這わせる。
「さて、どこから食らいついてやろうか…。その福与かな胸か。それとも濡れた唇か…。」
今にも飛び出したいという衝動を乱馬はぐっと堪えた。
(これはあかねの勝負だ。俺には関係ない。)
気がつくと必死で自分にそう言い聞かせていた。
だが、このままでは、あかねはあの男の餌食にされてしまう。毒の粉を使って動きを封じるという、最低最悪の手を使ったあの大男に。
男があかねに馬乗りになろうとしたときだった。
「あたしの身体には指一本触れさせないわっ!!」
あかねがそう叫んだ。
ドオンッ!
次の瞬間、轟音がして、煙が湧き上がった。
「あいつ…。気砲を使いやがった。」
動かない手に気を溜めていたあかねは、じっと男が迫り来るのを耐えて待っていたのである。男があかねに掴みかかろうと手を伸ばした瞬間、あかねは広げていた両手首を僅かに動かして、両掌から目の前の男の身体目掛けて気砲を炸裂させたのである。
「うぎゃあーっ!!」
至近距離から爆裂を受けたのである。大男とて堪ったものではない。狙われた両腕を抑えて、床に転がり落ちもんどりを打つ。
「おあいにく様…。気の中へさっき身体に受けた毒も一緒に集中させたわ。ほら、このとおり。あたしは動ける。」
あかねはゆっくりと立ち上がった。そして、転がっている男の腕を掴んだ。
「消えなさいっ!あんたの負けよ。」
そう言うと、がっと勢いをつけて、男を舞台の上から下目掛けて放り投げた。
「うわああああぁぁぁぁぁっ…。」
男の叫びは下方へと吸い込まれてゆく。
やがて、ドッボンと大きな水音が聞こえた。
「終わった…。」
あかねはそう言うと、どおっとその場に倒れてしまった。
劉が空を旋回し、一目散にあかねの傍へと舞い降りた。
そして、乱暴だがあかねを足で鷲づかみにすると、するっと舞台の上にある、居城へと飛び上がって連れ戻す。
それから、心配げに観戦していた、乱馬と父親のところへそっと降ろした。
「勝ったわ…。九百九十七人目の男に…。」
あかねはVサインを出して、そのまま気を失った。
つづく
この作品のあかねちゃんは、闘いに慣れていて強いです。多分、女化した乱馬とどっこいどっこい、いや、それ以上で設定してあります。
一回、強いあかねちゃんを描いてみたかったので…。
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