◆幽石

第一話 青年の苦悩


一、

 延々と続く青垣。どこまで行けども山、また山。
 切り立つ峰々は人が入るのを拒むようにそそり立つ。

「どこまで行くんだよ。」
 若者は不機嫌な表情で言葉を食んだ。
「…もうばてたのか?乱馬よ。」
 前を行く壮年の男は、後ろを振り返り、にっと白い歯を見せて笑った。
「けっ!冗談じゃねえっ!これくらいでばてる俺様じゃねえやっ!」
 若者は乱暴に投げ返す。 
 その体は逞しい筋肉が覆い、鷹のような目は獲物を狩る強靭な光に満ち溢れている。
 ごつごつとした岩肌を踏みしめながら歩く道。ばてたというよりは、単調さに飽きたという方が良い。

「いったい全体、何処へ行こうってんだよ。親父。」
 怪訝な顔で前を行く背中に、言葉を継ぐ。
「武烈山(ぶれつやま)じゃ。」
 ぶっきらぼうに突き返される答え。
「武烈山?」
「ああ、そうじゃ。ほら、あの切れ立つ尖がった峰があろう。その麓の町を目指して歩いておる。」
 玄馬は息子を顧みながら答えた。
「町だって?あんなところに町なんかあるのかよ。」
 半信半疑に問い掛ける。どう見ても、町などがあるような感じの土地ではない。
「湯治場(とうじば)として有名なんだぞ。」
「湯治場?…温泉気分か?」
「まあな。」
「たく。俺たちは遊ぶために旅を重ねているんじゃねえぜ。武道を極め、己を高めるために諸国を回っているんだろうが。修業のために。」
 いい加減な父親に乱馬は喝を入れる。
「いや、主たる目的は、あの武烈山じゃよ。」
 にっと笑って玄馬は息子を見た。
「武烈山…聞いたことねえぞ。そんな山。」
 乱馬は怪訝な顔つきを返す。
「おまえは知らんやもしれんが…武烈山は武門を志す若者にとっては、一種、憧れの山じゃぞ。」
「知らねえもんは知らねえんだ…。で?その山へ登る気か?」
「ああ…まあな。」
 玄馬は口を濁した。
「そら、急げっ!ぐずぐずしていると、日が落ちるまでに着けんではないか。温泉がワシらを待っているんじゃぞ。」
 そう言うと、足を速めた。
「ちぇっ!温泉気分に浸るなんざ、十年も早ぜ。」
「ぐじゃぐじゃ言うな!父とてたまには手足を伸ばしたいわいっ!!ほら、とっとと行くぞっ!」


 彼らが武烈山の麓の町に着いたのは、すっかり日が落ちた後だった。
 町並みには明かりが灯され、そこそこの賑わいを見せている。
 道の両脇に、湯治のための宿屋が並び、しきりに女たちが来客を呼び止めている。
 こんな山奥に似合つかわしくないほどの賑わいだった。

「へええ…結構、人が居る町じゃねえか。」
 乱馬はきょろきょろしながら、メインストリートを歩く。

 道をすれ違うのは、いい体つきをした男が主流を占める。いずれ劣らぬ武道家なのだろう。鋭い眼光の輩たちが、やたらたくさん目に入ってくるのである。
「何か、武道大会でもあるのか?名前が「武烈山」というくらいだし。」
 乱馬は不思議そうに辺りを見回した。
 更に驚いたことに、怪我人と思しき武人どもも多い。
 集まってくる半分以上の男たちが、何らかの故障を抱えている。そんな風だった。
「ここの湯は、傷に絶大な効果があるからのう…。大方、皆、荒修業で傷付いた体でも湯で癒しに集まってきたのじゃろうて…。」
 玄馬はそう解説して見せた。
「ふーん…。」
「っと…今夜の宿を決めんとな…。」

 彼の父親は、道端で呼びこみをしている宿引きの女たちの方へと駆け寄った。宿代の交渉をし始めたようだ。
 身振り手振りで言葉を交わす。聞こえてくる言葉は、随分と訛りがきつかった。
 玄馬が交渉している間中、乱馬は傍らで町ゆく人々の影をぼんやりと眺めていた。

「ま、いいか…。町へ入ったのは久しぶりだし…。たまには心地良い蒲団の上に眠るのも、悪かねえか。」
 父親と修業で流浪をしている身の上では、殆どが石を枕に草の寝床へ横たわる。
 洞窟や蔀屋(しとみや)があるのはいい方で、夜露には濡れっぱなし、天上は月明かりの野宿ということも珍しくはない。
 いくつかの宿の中から話がまとまったのだろう。玄馬は息子を手招き寄せた。
「今夜はここへ泊まるぞ。」
 玄馬はにっと笑って先に入って行った。

 何処にでもあるような木賃宿。そんな安普請の宿屋であった。

「お客さんたちも、武烈舞台へ行きなさるか?」
 夕飯を運んできた飯盛り女が二人を見比べて尋ねてきた。
「武烈舞台?」
 乱馬は丼を受け取りながら女をかえりみた。
 中年の小太りの女は飯を盛り付けながら答えた。
「武烈山のてっぺんにある武道場だよ。聖女が居る。」
「聖女?」
 乱馬は不思議そうに聞き返した。
「ああ、正しくはこの辺り一体を納める早雲公の乙姫さまのことだよ。知らないのかい?」
「ああ…知らねえ…初めて聞くぜ…。」
「何だ、知らないのか。あんたも、乙姫さまを狙ってここまで来たのかと思ったよ。だって、ここに来る若い武道家の連中は、みんな彼女が目当てで登っていくんだ。あんたも武道家だろ?だったら、興味はあると思ったんだが…。」
 飯盛り女は小首を傾げながらも、乱馬を舐めるように見た。
 彼の盛り上がる筋肉と堀の深い鎖骨。それを見ただけで相当の使い手だということは、素人目にも良く判る。
「どうだい?あんた、武烈舞台へ上がってみる気はないのかい?乙姫さまと闘って勝てば、この辺り一体を治める権力と、姫さまの瑞々しい体と、その両方が手に入るんだよ。」
 飯盛り女は焚きつけるように乱馬へ言った。
「生憎、俺はまだ修行中の身の上だ。権力にも女にも興味はねえよ。」
 と取り合わない。もくもくと、目の前に運ばれて盛られた飯を、腹ペコの胃袋へと掻きこみ始めた。
「相変らず、無粋な奴じゃのう…。ワシがもう少し若かったら、戦わずとも、乙姫さまを拝見しに、山へ登るがのう。わっはっはっは。」
 玄馬はちらりと息子を見ると、己も箸を持って食べ始めた。
「ねえ、若いお客人、あんた、幾つになるんだい?」
 飯盛り女は、立ち上がりざまに乱馬に問い掛けた。
「十八だ。」
「呆れた、十八っていったら適齢期じゃないか。乙姫さまも十八になられたところだからねえ。勿体無い。あんたとなら気高い乙姫さまとつりあうかもしれないのに。」
「女なんかに興味はねーよ。」
「ま。人それぞれだからねえ…。その気になったら、行っておいでよ、武烈山へ。」
 それだけ言い置くと奥へと消えていった。

「ホンに、興味はわかないのか?息子よ。」
 玄馬が箸を止めてじっと伺った。
「女にか?」
「いや…武烈山の乙姫様にだよ。」
「わかねーよっ!」
「ワシも小耳に挟んだことがあるが、美姫らしいぞ。」
「それがどーした!」
「十八と言えば、女の一人も抱いておって然るべきじゃぞ。」
「うるっせえなっ!女なんて面倒臭いだけだよ!」
「ふっ!女を抱くのが怖いのだろう。奥手な奴だな!」
「何とでも言え。」
 玄馬はふうっと溜息をつくと、また黙々と箸を動かし始めた。
「まあ、武烈舞台の闘場は無事では帰れぬ、命がけの熾烈な闘いが繰り広げられると言う噂だからな。行きたくなければ、それでも良かろう…。」
 と気になるような言葉を継ぐことも忘れなかった。
「何だよ。その熾烈な闘いって…。」
 玄馬の言に乱馬はふっと丼から顔を上げた。「熾烈な闘い」という言葉に反応したようだ。女よりも闘い。今の乱馬には、そっちの方が興味がある。

「早雲公の乙姫は、武道の達人でな。幼い頃から武烈流を継ぐべく育て上げられたんじゃそうな。才色兼備の美姫だそうでな、堅物の親父殿である早雲公が「乙姫と闘って勝ったものを婿と定める」という触書を三年前に出してな、それからと言うもの、皆こぞってこの山を目指して来るようになったと言う訳じゃよ。何しろ、この辺りの広大で肥沃な領土と美姫が手に入るのであるからな。どうじゃ?少しは興味が湧いてきたじゃろう?」
 にんまりと笑って息子を見る。
「へっ!それがどうしたって言うんだ。領土を巡って、女と闘ったところで、面白可笑しくもねえな。第一、娘と勝った者を頭領として迎えるだあ?ったく…理解に苦しむぜ。その早雲公とか言う領主様はよ。」
 乱馬は止めていた箸をまた動かし始めた。
「たく、色気のない奴じゃな。そんなことでは世継は出来ぬぞ。」
「何が世継だよ!俺はまだ修業途中の身の上だ。これからもっと強くなりてえ。女だの世継だの権力だのに、現(うつつ)を抜かす暇なんてねえよ。」
「おぬしは女の良さを知らないだけじゃ。食わず嫌いじゃぞ。情けない。」
 父親はほうっと溜息を吐いた。
「そんなもの、まだ知りたかねえよ。」
「そろそろ女を抱いてみろ、息子よ。」
 玄馬は含み笑いしながら乱馬を見た。
「余計なお世話だってんだよっ!さてと、先に床へ就くぜ、俺は…。」
 鱈腹(たらふく)食った乱馬は、空になった器を盆に置くと、徐(おもむろ)に、ごろんと横になった。

「たく、この格闘馬鹿め。まあよいわ、さてと、ワシは隣りの部屋へ移って寝るからな。後は、明朝ここを出立するまで好きにするんだな。」
 食事を終った玄馬が乱馬に声を掛けた。
「あん?今夜は同室じゃねえのか?」
 乱馬は面倒臭そうに父親を見上げる。
「折角の湯治宿じゃからな。久々に金を払って宿へ入ったんじゃ。たまには個室ってのも良いだろう?」
「何、贅沢言ってやがる!」
「たく。この前、賭場でいささか儲けたではないか。」
 と玄馬が笑い出した。
 そう、こういった宿が立ち並ぶ場所には、決まって賭場があった。つい、二日ほど前に泊まった宿場町で、幾らか儲けてご機嫌になっていたことを思い出した。だからこそ、屋根の下に寝る気になったのだろう。
「宵越しの銭は持たねえってか?」
 乱馬が侮蔑した瞳を父親に手向けた。
「まあ、そう言うな。夜は長い。お楽しみはこれからじゃ。おまえも精々、楽しめば良かろう。路銀も少し分けてやるぞ。」
「要らねーよ、そんな訳のわかんねー賭けごとで貰った金なんか。」
「まあ、良いからよいから、その気になったら使うと良い。朝までは好きにしろ…。ワシも楽しんでくるわい。湯治場もあるしな…。はっはっは。」
 意味深な言葉を残してとっとと部屋から出て行く。

「何が湯治宿だよ。はした金が入ったからって、浮かれやがって。」
 乱馬は背を向けた。大方、父は女を抱きに行くのだろう。
 父が止められぬ男の性欲をどうやって止めているか、考えたことなどなかった。が、父も男。定期的に訪れてくる性欲はどうしようもないだろう。
 乱馬とて欲望と無縁な訳ではない。女体に興味が無いと、口で言っていても、夢で感じる快楽と共に、起き抜けに股間辺りが汚れていることが、時々あった。
 いわゆる「夢精」だ。
 その間隔が、最近、縮まってきているように思う。前は一度出るとひと月以上も何ともなかったのに、この頃は七日と持たないことがある。
 まだ、女を抱いた経験のない彼は、定期的に訪れる「夢精」が後ろめたくて仕方がなかったのだ。
 かといって、自慰する気にもなれなかった。

 父はどんな気持ちで欲望と対峙しているのだろうか…と、思うことが時々あった。

 時々父は、息子の傍を離れて、一夜中姿をくらますことがあった。それは溜まった欲を吐き出すために、女を買いに行くのだということに、やっと最近、気付いたのである。
 恐らく、今回も、賭けで稼いだ金で、どこか女を買いに行くのだろう。
 そう、勝手に解釈して結論付けた。

 と、暫くして数人の女たちが膳を下げに来た。あらかた食器を片してしまうと、一人だけぽつんと女が残った。長い髪の女だ。

「申し、若さま。」
「あん?」
 若君と呼ばれて思わず乱馬は後ろを振り返った。
 飯盛り女かと思えば、少し雰囲気が違った。
 ぷんと香水の匂いが鼻に突いた。甘ったるい香りだ。
「何か用か?」
 乱馬は寝転んだまま顔を上げた。
「夜伽(よとぎ)を申し付かってございます。」
「夜伽っ?そんなもの頼んだ覚えはねえぞ。」
 きょとんとして見返した。
「いえ、父君さまよりお代は頂戴しておりまする。父君さまもあちらの部屋にてお楽しみでございましょう。」
(親父めっ!性懲りも無く、変な気を回しやがってっ!!)
 内心煮えたぎってきた。
(さっきから嫌にそわそわとしていると思ったら親父の野郎っ!)
 侮蔑の表情が乱馬に浮かんだ。
 夜伽と言って入って来た女は年の頃は自分と同じくらい、いや、それより上かもしれなかった。
「若様、もしや初めてにございまするか?」
 妖艶な笑みを浮かべてにじり寄ってくる。
 ぞわっと背中が粟立つのを覚えた乱馬は思わず後ろへと下がっていた。
「大丈夫にございまする。何も怖くはありませぬ。」
 女はしなやかな腰を振りながら部屋へ入ると、思わせぶりに衣を脱ぎ始めた。
 思わず固まってしまった乱馬は返す言葉も無く、ごくんと唾を呑み込んだ。
 女の福与かな体が、目の前で一つ一つ顕(あらわ)になる。
 当然のこと、女の生身など、目にした事は無い。
 女にまとわりついていた、艶かしい香りが、つんと、鼻を刺激してくる。逃げようかと思う反面、身体は凍りついたまま、女から視線を外せない。
 女は女で思わせぶりに、楽しそうに、己の衣服を脱いでいく。 
 最後の砦である、下衣の腰紐を解けば、生まれたままの姿が露呈する。
 艶美な身体だった。福与かな二つの乳房と、くびれた腰、そして、円い臀部。

 心音は跳ね上がり始めたが、どうもいけなかった。興奮こそすれ、彼女を抱く気にはなれない。

「ほうら、若様、麗しき女体を存分に味わいなされ。
 そなたのような若い男の初めての夜伽に、お相手できますのは、娼婦冥利につきまする。初心な男は好きでございまする。あな、うれしや。」
 ふわっと女は乱馬へと枝垂れかかってきた。最後の砦である下衣の腰紐をするりと解いたまま、衣ごと、乱馬の身体に覆いかぶさったのだ。

「じ、冗談じゃねえっ!俺は女なんか抱きたくはねえっ!!」
「逃げなさるか?ほんに、恥ずかしがり屋の若様だこと。」
 ふわっと女が笑った。
「夜は長い…。存分に楽しみましょうや…。大人の男になりなされ。若様。わらわを初女にしてお楽しみくだされ…。」
「やめろっ!下がれっ!!」
 思わず突き飛ばしていた。
 相手が女と言うことを忘れてしまうほどに。
「きゃっ!」
 女は悲鳴を上げて後ろへ倒れこむ。
 暫し沈黙が部屋を支配した。
「おのれ…。この宿街一の美妓と謳(うた)われたわらわを、こけにして…。無事に済むとは思うでないぞえ!この呪いの水を受けてみいやっ!!」

 頭から水が滴り落ちてきた。

「な?」

 乱馬は水にかかるとみるみる変化し始める。
「ほほほ…。いい気味。私を拒否するからでございまする。呪い水で女になって、頭を冷やしなされっ!ほーっほっほっほ。」
 それだけ言い置くと、女郎は笑いながら消えていった。

 女に変化してしまった乱馬を残して。






「たく、面倒なことに巻き込まれよって…。変な声が響いてきたから覗きに来てみれば…。」

 目をぱちくりさせて、玄馬は女化した乱馬を見詰めた。

「うるせえっ!てめえが変な気を回すから、こんなことになるんでいっ!!」
 甲高い声を響かせながら睨みつける乱馬。
 姿形はすっかり少女へと変化してしまっている。
「それよか、どうしてくれるんだよっ!この姿。こんなんじゃ、修業もままならねえぞっ!」
 明らかに狼狽している。

「油断しておるからやられるんじゃ。情けない。」
 ふうっと玄馬はため息を吐き出した。
「おい…親父っ!元に戻る方法はあるのかよ。まさか、ずっとこのまま女体だなんて。」
 顔面蒼白になりながら、乱馬が言葉を吐いた。
 福与かな胸に、くびれた腰。脂肪に満ち溢れた筋肉。
 ゴクンと生唾を飲み込みながら、震える手で己の身体を触った。

 冗談ではない。男に戻れなかったら、どうすればよい…。

 深刻な表情の乱馬に対して、玄馬は落ち着き払っていた。

「大丈夫じゃ。その呪いを説く方法はある。」
「ほ…ほんとか?」
 乱馬の表情が、少し明るくなった。

「恐らく、お主は、「娘溺泉」という毒水をかけられたのじゃろうて…。」
「娘溺泉?」
「ああ、一度被れば、暫くは娘のままに捨て置かれると言う呪いの毒水じゃ。ということは…武烈舞台の近くにある「清流泉(せいりゅうせん)」の湯を浴びれば、たちまち…呪いは解けるじゃろう。」
 とさらっと言って退けた。
「何か、やけに詳しいじゃねえか…。親父。」
 合点がいかないというような目を乱馬は差し向けた。
 どうしてそんなに詳しく知っているのか、疑問が脳裏を駆け抜けたからだ。
 その視線を痛く感じたのか、玄馬が慌てて言い捨てた。
「あわわ…。有名な志水じゃからな。娘溺泉も清流泉も。」
「ホントか?…俺は初めて聞いたけど…。」
「娘溺泉が湧く泉はもう枯れてしまったから、おぬしは聞いたことがなくて当り前じゃ。」
「何か…おかしいな…。枯れた泉の水を、何であの娼婦が持っていたんだ?」
 じっと乱馬は父親を見詰めた。
「さああ…大方、水脈が残っておったのじゃろーて…ううむ…。」
 とわざとらしく、唸って見せる。
「まあいい。で、本当にその「清流泉」へ入ったら元の姿に戻れるんだろうな?」
「戻れる!ワシが保障する!」
 きっぱりとした返事が返って来る。
「やっぱ…何かあんじゃねーんのか?」
 じろりと乱馬は父親を見た。
「何を疑っておるんじゃ?このワシが、おぬしにわざと娘溺泉をぶっかけた…とでも言いたいのか?
第一、そんなことをして、どういう意味があるというんじゃ?息子を立派な武道家に育てたいとは思うが、女化させたいなどと、ワシが思う訳なかろー?」
 焦りながら、玄馬が言った。
「ま…それもそーか…。俺が女になっちまったら、確実、武道家の道は狭まるわけだから…。」
「そ…そういうことじゃ。」
「で?その清流泉というのに入れば、男に戻れるってーのは、確かなんだろーな?」
「試してみるしかないじゃろうが。おぬしとて女のまま生きていくわけにはいかんじゃろう?」
「あったりめえだっ!一秒でも早く男に戻りてえよっ!」
 乱馬は唾を飛ばした。
「試しに、今から行ってみるかの?」
 玄馬は乱馬をじっと眺めた。
「ああ…。みっともなくて、お天道様(てんとうさま)の下を歩けねえよ。こんな姿じゃな。清流泉の場所がわかるなら連れて行け!親父っ。今すぐにっ!」
 乱馬は己の女体を見て、ふうっと溜息を吐いた。
「よっし。ワシも一緒に行こうと思うたが…。生憎、お楽しみが途中なのじゃ。一人で行って来い。」
 と素っ気ない返事が返される。
「あん?何だそりゃ。」
 乱馬は親父を繁々眺めた。
「仕方あるまい。ワシとて男ぞ。ひとたび、床へ入らば、最後まで遂げねば、沽券にかかわる。」
「何を偉そうに…。」
 じろっと親父を一瞥すると、ほうっと溜息を吐いた。
「まあいいか…。一人で行くよ!で、場所は?」
「ほうれ、地図じゃ。」
 玄馬は絵図を乱馬に渡した。
「やけに用意がいいじゃねえか。」
 乱馬は握らされた地図を見て玄馬をかえりみた。
 玄馬の眉がピクリと一瞬攣(つ)り上がった、が、すぐに言い返してきた。
「何を言うっ!貴様の一大事じゃから、ここの女将に対処法を尋ねてきてやったんじゃろがっ!!」
 と怒鳴った。
「その息子の一大事だというのに、貴様は女遊びか?言ってることと、やってることが何か矛盾してねえか?」
 後ろめたきがある時は、こうやって怒鳴って誤魔化そうとする父親の性癖を熟知している乱馬は、猜疑心いっぱいの瞳で睨み返す。
「ええい、うるさい、うるさいっ!ワシとてたまには羽根を伸ばしたいのじゃ!それ相応の金を払ったんじゃ。その分楽しまねば勿体無いじゃろうが!」
「それが本音かよ!」
 如何にも父親らしい道理だと思った。
「悪いか!」
 玄馬はばつ悪そうに、息子を見返す。
「てめえの変な差し金でこんな事態になっちまったんだろうが。…まあ、いい。変身を解けるなら、何処へだろうと行ってやる。」
 鼻息荒く、吐き出した。
「その泉は特別な泉だそうじゃ。だから傷にも何でも直ぐに効果が現れるという伝説の湯泉だそうじゃ。が、如何せん、武烈舞台よりも、険しいところにあるので、常人にはなかなか行けぬらしい。
 貴様の鍛えぬかれしその脚力と腕力なら、喩え女性化しておっても、三日もあれば、行って帰れるじゃろう。ワシはここで待っていてやるから、行って来い。」
 玄馬はそう言うとにやりと笑った。
「あーあ…面倒だな。でもいいか。俺に辿れない道はねえよ。修業にもなるかもしれねえし。行ってくらあっ!俺が帰って来るまで、待っとけよ!くそ親父っ!」
 乱馬はそう言うと、地図を片手に夜道を走り出した。

「たく…世話ばかり焼かせよって…。何が修業じゃ。この武道バカめっ!!」
 そう言いながら息子の背中を見送ると、物陰に居た女に目配せした。
「ご苦労じゃったな…。」
 と、女が一人するりと飛び出してきた。
「いえ、あれで宜しかったのかしら…。お客さま。」
 さっき、乱馬に水をぶっかけた小太刀という女郎だった。
「ああ、十分じゃ。おかげで奴を武烈舞台へ導くことが出来たわ。」
 玄馬はにっと笑って見せた。
「回りくどいお膳立てをしないと、あやつは、彼女に会わずにこの地を去るだろうからな。これも旧友との約束事のためなのでな……。」
「でも、えし男でしたわ…。本当に私好みの。あのまま、抱かれたいと思いましたもの。処女を差し上げるのには極上の若君…。」
 ふっと漏れるうっとりとした笑み。
「後は運命の歯車が、上手くゆけば良し。ゆかぬならば、それまでのこと。これでワシも旧友との約束は果たせた訳じゃから。果報は寝て待て…じゃな。さてと。湯でも浴びてゆっくりと待とうか。」
 玄馬はそれだけ言うと、宿へと取って返した。毛頭、女を抱く気などない。
「乱馬のことばかりを言ってはおられぬか…。生涯交わる女は一人で良いのだからな。」
 ほうっと玄馬は溜息を吐いた。



二、

 夜道は暗い。
 
 貰った地図を月明かりに照らし出して、乱馬は行くべき方向を見定めた。
 道はぷっつりと途中で途切れている。貰ったのは、目印しか書き込まれていない簡単な絵地図だった。
「道はここで途切れるって訳か…。」
 宿場を過ぎれば、人影もない暗闇。不気味なほど静けさが漂う。 
 足を急がせながら乱馬は山を見上げた。
 暗闇に浮かぶ、青垣は、手招きするように聳え立つ。山と星空の境界線に浮かぶ稜線。切り立った山肌が暗闇でもわかる。
「あれが武烈山の峰か。」
 見上げた時だった。
 がさっと傍の草陰が動いた。
「誰だっ?」
 只ならぬ殺気を感じて乱馬はだっと構える。
 と、武人が二人、にゅっとそこから現れた。

「兄貴っ!見ろっ!女人じゃ。」
「おお…。」

 デブとノッポの二人組だった。
 一人はこん棒を、一人は刀を携行している。
 鋭い目は夜盗の輝きがする。体の悪いごろつき。そんな風体だった。
「お嬢さん、こんな夜更けにどちらへ行かれる?」
 兄貴と呼ばれたノッポがにっと笑って乱馬を見た。舐めるように艶のある乱馬の変化した女体を見ている。
 乱馬はその視線に、嫌なものを感じ取った。
 ぐっと手を握って乱馬は答えた。
「あの武烈山だよ。」
 ムッとしながら、一言投げた。
「ほお、その女体であの切り立った山道を登っていかれると。悪いことはいわねえ。辞めた方が良いぜ。」 
 ノッポが笑った。
「俺はあそこへ行かなきゃならねえんだっ!」
 乱馬は取り合わずに、さっと傍を通り抜けようとした。
 と、二人はにやにやしながらそれを遮るように乱馬の前に立った。
「そんな華奢(きゃしゃ)な体で、夜駆けできるとでも?変なお嬢さんだ。なあ、そんなところへ行かないで、俺たちといいことしねえか?」
 デブが口火を切った。
 乱馬は黙って彼らを見返した。侮蔑を含んだ目で。
 ナンパしているなら、もっとましなやり口があるだろうと、そう言いたげな瞳を向ける。
「生憎、急ぐんでな。」
 さらりと流した。
「へっへっへ…。急ぐんだとよ。兄貴…。」
 デブは舌なめずりをした。
「いい体してるじゃねえか…。お嬢さん。今夜は前哨戦になりそうだぜ…。なあ、弟。」
 ノッポが笑った。ぞくっとするほどいやらしい笑みだ。
「前哨戦?」
 怪訝な顔をして乱馬はノッポを見上げた。
「ああ。俺たちは明日、武烈舞台へ立つんだ。乙姫と闘う。そして勝利して、乙姫を妻に迎えて、この辺り一帯の領主様になるんだ。どうだ、いいだろう。
 だがそれは明日のこと。先に、この高ぶった気を、おまえの体で鎮めさせてもらうとするかな。」
 どうやらこいつらは、乱馬の肉体(からだ)が目当てで近寄ってきたらしい。ここで乱馬を襲おうという魂胆なのだろう。

 乱馬の体に激しい怒りの血が逆流し始めた。
 
「俺の傍に立つんじゃねえっ!」
 だが、女の姿で凄んでみたところで、彼らには一向に効果がなかった。

「へっへっへ…。悪いようにはしねえよ。おまえも十分に楽しませてやるよ。そうだ、ここの領主になったら、おまえを妾として迎えてやってもいいぞ。」
 ノッポは笑った。
「そいつは、ご遠慮願うね!」
 乱馬はぺっと唾を吐いた。
「こいつ…。俺たちに逆らおうって言う気だぜ。気が強いお嬢さんだ。乙姫さまにも勝るとも劣らないな。」
 デブがけたけたと笑った。
「体でわからせないといけないタイプかもしれないな…。やっちまえっ!」
 言葉と同時に、男たちが腕まくりして構えた。そして、乱馬に襲い掛かる。

「俺の傍に立つなと言ったんだっ!!」
 乱馬はそう叫ぶと、だっと飛び上がった。
 女体化しているとはいえ、技は一向に衰えていない。いや、むしろ、体重が減った分、力は半減しているが身軽だった。
「なっ!」 
 あっという間にデブが沈んだ。彼目掛けて、着地際に、何発もの蹴りをお見舞いしたのだ。
「こいつっ!」
 ノッポが叫んだ。
「やあっ!!」
 ノッポの攻撃を余裕で交わすと、乱馬は正面から拳を入れた。
「そんな…。こんな女如きに…。」
 そう言うとノッポも前のめりに地面へと倒れ込んだ。

「だから、俺の傍に立つなと言ったんだ。それに、そのくらいの戦闘力じゃあ、俺には勝てないぜ。」
 乱馬はそう吐き捨てると、また先を急ぎ始めた。
「女に現(うつつ)をぬかす男はみんな、こうやって強引に女体を手に入れたがる…。獣と一緒だぜ…。たく…。だから修業の妨げになるんだ。女は。」
 そう呟きながら道を走った。
 だが、乱馬を襲ってきた不埒者はノッポとデブだけではなかった。

 道を少し行けばすぐに誰彼ともなく、血の沸き立った武人が前に現れて、さっきのチンピラと同じような暴言を吐きながら乱馬へと襲い掛かってきた。
 そう。出会う男たちは、乱馬を一人の「か弱い女人」としか認識できないのだろう。
 夜更けに女体を曝したまま、一人でウロウロしている乱馬も乱馬だが、ごろごろと居るわ居るわ。暴走寸前の熱きスケベ心が通った武人どもが。
 どいつもこいつも、乙姫への憧れと決戦を口にしながら、乱馬の若い瑞々しい女体を求めて襲い掛かってくるのだ。
「なあ、お嬢さん、俺と交わらないか?」
「その体、欲しいな…。」
 そんなことを平気で口にする野獣が、そこここの闇夜に満ちていた。
 ある男などは、全身を包帯に覆われてどう見ても怪我人としか思えないのに、乱馬の前へと立ち塞がった。
 何度目かの男たちの応戦にいい加減うんざりしていた乱馬は、包帯男に向かって言葉を投げつけた。
「てめえ…。怪我人じゃねえか。怪我人が女の体に何の用があるって言うんだよっ!」
「怪我人とて女と交われるわい…。ワシは乙姫と遣り合って舞台から突き落とされた。ここの湯治場でやっと回復したんだ。悔しいではないか!乙姫を物に出来ずにここを立ち去るのは。そのせめてもの慰めに、大人しくワシの腕に抱かれろっ!」
 無茶苦茶な要求である。

(乙姫ってのは、そんなに強え女なのか…。)
 包帯男の暴言に、乱馬は訳のわからない興奮を覚えた。
 目の前の包帯男。全身怪我をしているが、ある程度の武道の使い手であることは、気を探ればわかった。乱馬とて、無駄に修行に時間を費やしていない。相手から発せられる気の強弱で、だいたいの強さが予見できたのだ。
 包帯男をのし上げた乙姫は一体どんな女なのか。「興味」が湧き始めたのだ。
「なあ、乙姫っていうのはそんなに強い女なのか?」
 包帯男へ対峙しながら乱馬は尋ねた。
「ああ、強い。それに好い女だ。ああいう女を抱きたいと思うのは男の本能だぜ…。いや、おまえも好い女だ。惚れ惚れするような肉体美を持っている。男の本能をくすぐるような…。」
 女の体は不便極まりない。乱馬は改めてそう思った。
 慣れぬ女の身体で対戦しているので、つい、拳が空振りしがちだ。腕の長さが男の時と勝手が違う。
 だから、つい、空を切った。
 さっきまで対峙したチンピラどもは、武道の何たるかがわかっていない「ど素人」どもだったが、包帯男は少し、様子が違っていた。
「へええ、おまえさんも武道をやりなさるかい。でも、拳の使い方がなっちゃいねえや。そんな、力任せにブンブン振っても、当たらなけりゃ意味がないぜ。」
 と軽口を叩いてくる。
(ちぇっ!厄介だな。俺はまだ、この身体のパーツに慣れてねえからな…。)
 包帯男は乱馬の拳を、紙一重でかわしてしまう。男の手足の長さの感覚で攻撃を仕掛けてしまうから、思ったところに攻撃がヒットしない。

(これは是が非でも女体変化を解かなければ、体が幾つあっても足りねーぜ!)
 乱馬はそう思った。

「おらおら、お嬢さん。いい加減に諦めて、ワシと楽しいことをしようじゃないか。」
 包帯男はにっと笑いながら、乱馬の拳を余裕でかわしている。
 だが、さすがに、乱馬もただの武道家ではなかった。何度か拳を突き上げているうちに、だんだんと、今の女体へも馴染んできた。手足の長さと力の加減が、だんだんとつかめてきたのだ。
「生憎、俺はてえめと交わる気はこれっぽちもねえんでなっ!」
 そうはきつけながら、乱馬はだっと駆け上がる。勢いをつけ、渾身の力を込めて、交わそうとした男に向けて、拳を突き出した。下から突き上げるより、思い切って懐へ飛び込むのが一番だと、判断したのだ。
 彼の判断は間違っていなかった。男は、思わぬ乱馬の攻撃に、怯んだ。
「悪いが、これで終わりにさせてもらうぜっ!喰らいやがれっ!」 
 と、気を込めた拳を男へお見舞いした。

 ドッゴーンッ!

 乱馬から放たれた、一発の気弾。その一撃で包帯男は仰向けに転がって行く。
「くそう。乙姫といい、おまえといい…。女如きに軽くあしらわれるとは…。」
 男はそう言うと、惨めにも、草むらの上に倒れ込んで果てた。今以上に包帯を巻かれるだろうことは確実だった。


「たく…。これじゃあ、いつまでも、目的地へ辿りつけねえぜっ!!」
 乱馬は、肩で息をしながら、倒した男を見下ろした。
 さすがに体力は限界に近かった。ここまで、何人、いや、何十人のいかれた猛者たちを相手してきたろうか。

「男たちが潜んで居ねえ、道はねえのかよっ!」
 別の道を探そうと、地図を月明かりに透かしたのだ。
 と、ぼおっと何かが浮き出して見えた。
「これは…。」
 地図を月光にあて、凝らして見ると、別の道が真っ直ぐ、清流泉に向かって伸びている記述があった。「近つ険しき道」そう但し書きが見える。
「正道を進んでいたんじゃ、また男どもが潜んで襲い掛かってくるともかぎらねえな…。「近つ険しき道」か。そっちへ行ってみるか。」
 乱馬は山へと続く正道を諦めて、横道へ入ることにした。
 正道を行くと、男たちの強襲がまだまだ続くだろう。道端に潜んだ男たちの気が、ありありとそこここで見え隠れする。男たちがわんさかと、女化した自分を待ち構えている…正道からは、そんな気配が漂っていた。
 ならば、険しい道へ入った方が楽だと、即座に判断した。
「近つ険しき道は蛇岩から左へ入れ」
 地図にはそう示されていた。
「蛇岩…。」
 辺りに目を凝らすと、とぐろを巻いた蛇のような横傷がある岩が見えた。
「あれか。」
 左側に目を反らすと、細い獣道が山へ向かって真っ直ぐに伸びているのが目に入った。
「きっと、これだな。」
 確かに、厳しそうな道が延々と山肌を縫って続いている。いや、道とは言い難い感じが漂う。
「これ以上男にからまれるのは、ごめんだからな…。やっぱ、こっちにするか…。」
 そう思って入った頼りない一本道を辿り始めると、道はすぐに途切れた。
 山の中でぷっつりと切れていたのだ。
 予想はしていたが、明らかに険しい岩肌が目の前に現れた。ごつごつした岩が、これ見よがしに上へと続いている。
「ここを登れっていうのか。」
 乱馬は上を仰ぎ見た。殆ど直角に近い岩肌が登れるものなら登ってみろと云わんばかりに立ちはだかる。
 唾をぺっぺとぶっ掛けると、乱馬は地図をズボンのポッケに仕舞いこみ、上へと登り始めた。
 女体に変化してしまった非力な彼には少しばかりきつい岩肌だった。
 足場を丁寧に確保し、手をのばすところを考えながら、上によじ登る。
「くそっ!男の体なら、もっと楽に登れるのによ。」
 玉のような汗が滴り落ちる。
 ようよう登り切ったときは手が痺れるほど力を使い切っていた。

 上は少し平になっているところ進むと、また別の岩肌道が上へと続いている。
 休む暇も惜しんで彼はまた上を目指した。
 今度は谷が現れた。
 流れが速い水がごうごうと音を発てて流れている。
 道はその向こう岸へと続いている。

「この川を渡れってか…。」

 乱馬は流れてきた流木へ飛び乗ると、向こう岸目指して泳ぎ始めた。
 水は思っていたよりも冷たく、体に纏わり付いて来る。そんなに広い川では無かったが、流れの速さに水底へと引き込まれそうになりながら、必死で手足をばたつかせた。
 これも男の体なら容易なく越えられる試練だ。だが女の身体にはきつかった。なんとか泳ぎきると、どぼどぼになった服を搾る。
 山端に掛かっていた月が雲間へ隠れ、辺りは暗闇に包まれる。夜明けまではまだ時間がありそうだった。
 と、獣の戦慄(わなな)きが聞こえた。
「ちぇっ!今度は獣(けだもの)かよ…。」
 乱馬はふうっと息を吐いた。そして、傍に生えている木の枝をポキンと手折った。それを掴むと、闇の奥を見据えた。光る目が数個。彼をじっと見詰めている。
「狼。」
 武器は持っていない。あるのは今手にした棒切れだけ。
 じわじわと敵は乱馬との間合いを詰めてくる。汗が光った。
「一、二…。三、四、五…十匹か。多勢に無勢だな。」
 ふっと零れる苦笑い。
 飢えた群れが一斉に乱馬目掛けて飛び掛る。
「くっ!」
 乱馬は棒切れを派手に振り回した。

 キャイン、キャインッ!

 彼の振り回す棒に、何匹かの狼が倒れた。
「ちっ!やっぱ、手足が短い分、分が悪いぜっ!!」
 乱馬は振り回しながら思った。
 一匹、また一匹、狼たちは乱馬に投打され、地面へとのた打つ。
 だが、あと数匹というところで棒切れが折れた。
「しまったっ!」
 狼たちは我を得たりと一斉に攻撃を仕掛けてくる。
「くっ!奥の手だっ!!」
 乱馬はだっと後ろへ駆けると、右手をぎゅっと握り締めた。ぽわっと彼の気がそこへ集中する。
 間合いを詰めた一匹が、乱馬目掛けて飛び込んできた瞬間、拳を前へ振り出した。

 ドオーッ!

 拳が青く光った。そう、そこから彼の気が流れ出したのである。

 ギャウンッ!ワウーッ!!

 狼たちは断末魔の悲鳴を上げながら、その気に触れてバタバタと倒れ始めた。
 乱馬から放たれた青白い光がすうっと途切れた時、狼たちの屍がぶずぶずと焦げて異様な匂いを立ち上げていた。

 はあはあ…。

 彼は肩で息をしながら、どおっとその場へと倒れこむ。気を使い果たしたのだ。

「誰だ?」
 彼は振り向きざまに声を荒げた。人の気配を感じたからだ。
 さっきの闘いで気力は使い果たしていた。
 だが、果敢にも彼は立ち上がり、じっと暗闇を凝らした。

「見事なものね。」
 
 傍で凛とした声が響いた。

「大丈夫よ…。あたしは、あんたを襲ったりはしないから。」

 涼やかな声がして、人影が一つ、乱馬の前に現れた。


つづく




元々、R18設定で書きだした作品のため、結構、表現がどぎついです。
かなり、柔和に書き直しましたが、それでも、随所にきわどい表現が出てきますので、ご了承ください。


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