をぐり  第四段


十一、

 栗毛丸は疾風怒濤のごとく、野原を駆けた。
 見事な駆けっぷりだった。疾走する猛馬。乱馬は懸命に彼の背中へとしがみ付いた。
 やがて、栗毛丸は川原に出た。
「何処まで行くんだ?」
 乱馬は栗毛丸に問い掛ける。と栗毛丸は川原目掛けて走り出す。
「おいっ!そっちは水場だぜ・・・。」
 川へ突進しそうな勢いの栗毛丸に乱馬は思わず声を掛けた。
 と、川向こうの異変に気がついた。

「燃えてる・・・。」

 川向こうの中洲から火の手が上がっているのを見た。

「まさか、あの中にあかねが?」

 彼の顔は青ざめた。
 栗毛丸はそうだと云わんばかりに川へとジャブジャブと入りだす。
「ちっ!水に入ると女に変身しちまう・・・。」
 乱馬は臍を食んだがそれも己の運命だと諦めた。
「ま、いいや。癒しの湯を持ってるんだ。いざとなれば・・・。」
 だが、栗毛丸にとっては乱馬が少しでも体重が軽い女に変化してもらえた方が好都合だったかもしれない。栗毛丸は足が立たないところへ来ると、俄然、燃え上がる中州へ向かって泳ぎ始めた。
「おまえ・・・。行ってくれるのか・・・。水の中へ・・・。」
 栗毛丸は必死で手足を動かし続ける。乱馬をそちらへ運ぶのは当然だと云わんばかりに。

「待ってろっ!あかね!絶対俺が助けてやるっ!!」

 川の流れに流されそうになりながらも、栗毛丸は必死で泳ぎ続けた。


 あかねは火に包まれていた。
 動かぬ手足では逃げようも無い。ぐんぐんと迫り来る火と煙。
 水場が近い川原だったが、火は思ったよりも周りが早かった。煙は煌々と上がり、あかね目掛けて確実に襲い掛かる。煙たさに咳が出る。だんだんと回りも熱で熱くなってくる。
「乱馬・・・。」
 あかねは必死で逃れようと足掻いた。
 だが、手に食い込んだ縄は容易には解けない。だんだんと意識が遠のいてゆく。

(こんなところで、訳のわからないところで死ななきゃならないの・・・。)

 歯を食いしばってそれでも抵抗を続ける。

 空の上はぽっかりと穴が開いて、鬼がこちらを覗き込んでいるようなうそら寒さを覚えた。あかねが灼熱に焼かれ、その身体ごと昇天するのを待ち構えている魔物。そんな気配がする。

「乱馬・・・。」

 絶望感へと襲われる中で、あかねはそれでも必死で許婚の名前を呼んだ。
「乱馬ぁ!」

 彼がざんぶと水から上がる頃には火の手は中州全体を囲んでいた。煙が辺りを一面に覆い尽くしていた。

「あかねっ!!」

 乱馬は叫んだ。

「乱馬ぁっ!!」

 その声に呼応するようにあかねの声が響いてきた。
「無事か?あかねっ!!」
 乱馬はほっとして叫んだ。
「乱馬、そこに居るの?」
 あかねの声色が変わった。
「ああ、居る。炎の向こうに居る。」
「あたし・・・。縛られてて動けないの・・・。」
 心細い声が響いた。
「待ってろっ!俺が助けてやるからな。」

 バチバチと火の粉が空へと舞い上がる。熱気で身体から汗が流れた。髪の毛へ飛んでくる火の粉。一刻の猶予もない。
「くそっ!この炎の中、どうやってあかねの傍まで行けっていうんだ!」
 メラメラと燃える炎の壁に乱馬は進みあぐねる。
 身体から滴る汗は熱い。
 その時、腰に結えていた剣がその存在を乱馬に主張し始めるように熱を帯びた。
「草薙の剣とか言ってたな。小次郎は・・・。」
 乱馬は柄を取った。
「草薙の剣って言えば、記紀神話でヤマトタケルが使ったという伝説の剣。」
 そうだ、伝説では草薙の剣を弟橘姫(オトタチバナヒメ)が炎に囲まれた倭健命を助けるために使ったと言われる。八坂の勾玉、八咫の鏡と同じく三種の神器だ。
「もしかすると火を薙ぎ倒せるかもしれねえっ!」
 乱馬は一か八か、この剣に賭けてみることにした。
「でやあっ!!」
 一振りすると、剣はたちまち大きくなった。
「何だ?この剣は・・・。」 
 構わず振ろうとすると、どっしりと剣が重たく感じた。
 振ってみると、剣からは微風しか出ない。
「これじゃあ話にならねえっ!俺の力不足か・・・。」
 予想以上に効かない剣に業を煮やして乱馬は言った。
「力不足・・・?」
 乱馬ははっとした。
「そうだ、男に戻れば・・・。」
 乱馬は頭から竹筒を浴びせた。
 湯煙がとおっと立ち上がる。暖かい湯が身体に注がれた。
 華奢な身体はみるみる骨っぽい筋肉質な青年へと立ち戻る。力も漲ってくる。
「よしっ!行くぜっ!」
 乱馬が剣を振ると、さっきの数倍以上の威力で剣先から風が立ち起こる。
「でやあっ!だあーっ!!」
 掛け声宜しく、乱馬は剣を振り続けた。
 剣先から起こった冷風に反応したのか、炎は裂けて道が開けた。炎が避けて一筋の道が現れた。
「ありがてえっ!」
 乱馬はその中へと果敢に飛び込んでいった。熱気で気がどうにかなりそうだったが、それでも、あかねの傍へ行きたいという一心で炎の中を駆け抜ける。

「あかねーっ!!」

 炎を掻い潜り、道を抜けると、卒塔婆に縛られ、ぐったりとしているあかねを見つけた。

「あかねっ!!」
 乱馬は形振り構わずに駆け寄った。そして持っていた剣で、あかねの縄を切ってやった。
「乱馬・・・。来てくれると思ってた。」
 あかねはそれだけ言うと、乱馬の胸へと倒れ込んだ。力尽きたのだろうか。彼女の肌からは汗が光り、顔も手足も煤だらけになっていた。
「しっかりしろっ!あかねっ!」
 乱馬が呼んだが、ぐったりとして返事はない。あかねの身体は火がついたように熱かった。
「くっ!あかねっ!死ぬなよっ!!」
 乱馬はそう叫ぶと、来た道を取って返そうと、草薙の剣を振った。

「そうはいくまじっ!!」

 炎の中に人影が見えた。

「てめえっ、誰だっ!!」
 乱馬はぐったりとしたあかねを抱えたまま、きっと言い放った。

「その乙女は、我の生贄。ここから逃がしはせぬっ!」

 人影はそう言い終えると、だっと炎を伸ばして乱馬に襲い掛かってきた。


十二、

「誰だっ!てめえはっ!!」
 乱馬は辛うじてそれを避けると、卒塔婆の横に立って陰を睨みつけた。

「冥府の大王、炎魔。この身の中にその乙女を焼きこみ、この世界と現世(うつしよ)を我が手に・・・。」
 おどろおどろしい声である。

「けっ!てめえかっ!小菟が言ってた邪悪の根源は・・・。」
「ふふ・・・。そうだ。それがどうした。おまえ如きに倒される相手ではないわっ!!」
 炎の向こう側から乱馬を睨み据えてくる。
「生憎、俺は諦めが悪いんでな・・・。おめえみたいな化け物に屈服はしねえっ!」
「ふん、いい根性だと言いたいが、馬鹿だな。所詮人間の分際で何ができる。大人しくその女を渡せっ!!」
 炎が揺らめいた。
「渡すもんかっ!!」
 伸び上がってくる炎の魔手を避けながら乱馬は叫んだ。
「ふふ・・・。その強がりもいつまで持つかな・・・。小栗判官っ!!」

 どうやら冥府魔王は乱馬を小次郎と間違えているらしかった。

 ボンッと炎が飛んできて、乱馬の右腕を掠った。
「うわーっ!!」
 その熱さ。いや、その炎は鋭い刃物のように鋭敏だった。血潮が飛ぶ。
「そら・・・。どうだ?炎の刃は・・・。くくく。それもう一発は姫に当てようか。」
「何っ!!」
 ぐったりと枝垂れかかるあかね目掛けて炎が飛ぶ。
「させるかあっ!!」
 乱馬は一瞬、身を固くしてあかねを胸へ抱かかえた。
「ぐわあっ!!」
 背中を鋭い痛みが走った。炎の刃があかねを庇った乱馬の背を命中したのだった。
「ふん、健気なことよのう・・・。愛する姫を傷つけたくはないのか・・・。」

「あったりめえだ・・・。あかねは、俺の大切な許婚だ。てめえなんぞに好きにあしらわれて溜まるかっ!!」

 その時、あかねの身体がビクンと反応した。
(やっぱり。あんたは・・・。本物の乱馬・・・。)
 傍に居て、必死で己を守ってくれているのが、他ならぬ許婚だと知った瞬間であった。
 この暖かい気も、逞しい腕も、懐かしい声も・・・。別世界の人間ではなく、己が良く知る「早乙女乱馬」、彼そのものだった。
 得も言えぬ安心感があかねの身体に満ちてきた。炎に焼けこがれて傷付いた身体。満身創痍の身体に力が滾り始めた。不思議な感覚だった。

「いつまで耐えられるかな・・・。ふふふ。そうらっ!そうらっ!!」
 冥府大王は弄ぶように、逃げ惑う乱馬をいたぶり続ける。

(くそっ!このままじゃ、埒があかねえっ!あいつは炎の化け物だ。氷の刃が苦手に違いねえっ!せめて飛竜昇天破が打てたら・・・。)
 乱馬は必死であかねを腕に逃げ惑いながら、攻撃態勢に入れないかと伺った。だが、大魔王には寸分の隙もなかった。
 この熱気の中に氷の刃を打ち込めたら、その破壊力はいつもの数倍、いや、数十倍にあがる筈だった。だが、あかねを抱えているままでは両手が塞がり、狙いを定めることもできない。
 それでも、乱馬は右手の指先に、集中して体内の力を集め始めていた。
(今の俺には一発の昇天破しか打ち出すエネルギーを集められねえ・・・。だから、確実にあいつに打ち込む一瞬を狙わねえと・・・。)
 気は焦る一方で、一向に埒があかない。

「ふふん。人間は不憫よのう・・・。どんなにおまえが足掻こうと、力の差は歴然。時の鍵を手にしていないおまえなど、恐るるに足らずだ。そろそろ沈んで貰おうか・・・。その娘と共に、我の体内へ骨も肉も溶かして取り込んでやろう・・・。」

 化け物はそう言うと、ごおおっと轟音を響かせながら炎の向こうで気を溜め始めた。

「乱馬・・・。あたしに・・・。その剣を貸して・・・。」
 胸に抱かれて沈んでいたあかねがふっと声をかけて来た。
「あかね?気がついたか?」
 腕に抱いたあかねの口に生気が戻ったのを乱馬はほっとして問いかけた。
「大丈夫・・・。あたしが奴をひきつける。そしてこの剣で奴の炎の中へ、冷気を送り込む・・・。その隙に乗じて、あんたは、あいつに飛竜昇天破を食らわせて・・・。」
 あかねはじっと許婚を見上げた。
「そんな、無茶なこと・・・。」
「できないなんて言わせないわよ・・・。」
 あかねはにっこりと乱馬に微笑みかけた。
「危険は承知の上。大丈夫。あたしはそんなに柔じゃない。このままみすみす二人揃ってやられてしまうくらいなら一縷の望みにかける。あたしも武道家よっ!!」
 あかねの瞳は真摯に乱馬に迫り来る。清んだ漆黒の輝きが乱馬をじっと見詰めた。
「あかね・・・。おまえ・・・。」
 乱馬はぎゅっと拳を握り締めた。
「あたしは、あなたの、早乙女乱馬の許婚よ。上手くやれない筈がないわ。」
 強気の言葉だった。
「わかった・・・。考えている猶予もないみたいだしな・・・。おまえの火事場のクソ力に俺も賭けてみよう・・・。二人揃えば、怖いものはない・・・っか。二人まとめてあいつの餌食になるか、それとも・・・。」
「帰るのよ。一緒に・・・。」
 あかねはそう言って笑った。
「帰る・・・。そうだな。まだくたばるには早過ぎる。」
 乱馬は萌える目であかねを見詰めた。心が通い合った瞬間だ。
「良し、行けっ。あかね。こいつは、この剣は思ったより力が必要だ。一気に振れ。じゃねえと、あいつのところまで道は開けねえ。一気に振り下ろしたら、そのまま地面へと這いつくばれよ。その上を寸分違わず、俺はあいつへ昇天破を打ち込んでやる。」
「わかったわ。乱馬。」
 あかねは落ち着いた表情で答えた。手には草薙の剣を持った。
「案外重いものね・・・。」

 と、炎の色が俄かに変わり始めた。さっきまでの火の勢いとは雲泥の差があるほどに、激しくどす黒く気炎を上げる。
「覚悟はいいか・・・。ふふ、念仏でも唱えておれ・・・。二人まとめて冥府へ招待してやろう・・・。」
 不気味なほど強い火柱が上がった。
「へっ!そうは行くまいよ・・・。俺たちは、帰る。おまえを倒してなっ!」
「まだ戯言を言うか・・・。ならば火で呑み込んでやろう。跡形もなく消し去るためになっ!」

「そうは、いかないわっ!覚悟するのはあんたのほうよっ!!」
 あかねは乱馬の膝から身を伸ばした。
 そして躊躇する間もなく、草薙の剣を、振りかぶって、思いっきり上から下へと振り下ろした。

「何っ?」

 化け物が一瞬怯んだ。と、振り下ろした草薙の剣から出た疾風が、燃え盛る炎を切り開いた突き進んだ。
 あかねは草薙の剣を振り下ろすと、だっと地面へと這いつくばった。
「この、女めっ!!」
 炎が怒りを上げて、伸びてきた氷ごとあかねを粉砕しようと伸び上がった。
「覚悟しやがれっ!!」
 乱馬はその前へ立ちはだかると、間髪入れずに右手の拳を前に出した。
「飛竜昇天破、変形、飛竜横断破っ!!」
 乱馬は放った右手をぐっと前へと押し出した。
 あかねが穿った氷の道の上を、飛竜の青白い炎が駆逐するように重なり合った。
「おのれえっ!小癪なっ!!」
 化け物はそれを粉砕しようと炎の刃を差し向けた。だが、それは無駄な足掻きに過ぎなかった。
 あかねの放った氷の道を流れるように進んでゆく飛竜の氷の刃は、回りの熱風を巻き込みながら、激しい突風となって突き進んだのである。その破壊力は、通常の飛竜昇天破の何倍にも達した。
「あかねっ!!」
 飛竜を放った後、乱馬は夢中で地面へ這いつくばったあかねへダイビングした。
 あかねの身体をがっと掴むと、守るようにその背中へと覆い被さる。
 彼らの上を、怒り狂った飛竜の竜巻が化け物目掛けて強襲してゆく・・・。

「おのれえーっ!!」

 化け物はたじろいだ。
「このワシを駆逐するほどの力を持っていようとは・・・。だが、再び闇へ帰る前に、お前たちだけでも、残りし力で粉砕してくれんっ!!」
 断末魔の雄叫びの中で、化け物は地面へ小さくうずくまる二人見下ろした。
「我と共に永遠の闇へ帰れ・・・。」
 化け物が最後の力を振り絞ろうとした時だった。

「往生際が悪いぜっ!冥府大魔王っ!!」

 背後から声がした。
「何っ?」
 うずくまる乱馬と寸分違わぬ声色に化け物は一瞬攻撃の手を緩めた。
「お、おまえたちは・・・。」
「ふん、俺がこの世界の小栗判官だ。」
「では今まで私が相手をしていたのは・・・。」
「現し世界の我らの分身・・・。といったところかな。」
 にやりと小次郎が笑った。
「畜生っ!小栗判官が二人も居るなんて聞いてはおらぬぞ・・・。」
「知らなかった己を嘆くのねっ!!」
 小栗の傍らには照手姫。
「なっ・・・。照手姫も二人居たというのか・・・。」
「冥府へ帰れっ!おまえの野望はここまでだ。
「南無冥府大魔王、退散離散っ!!」
 傍で数珠球をくっていた照手姫がそう言うと、化け物へ向かってそれを放り投げた。
「それは・・・。時の宝珠。いつの間に・・・。」
「小菟が、現し世の国から持ち帰って来たのだ。おまえを倒すために!」
 小次郎が叫んだ。
「小菟・・・?誰だそいつは・・・。」
 燃え燻る草陰から小菟が顔を出した。
「小菟・・・。おまえが・・・。いや、違う、おまえはっ!!」
 冥府大王が小菟に向かって何か言おうとしたとき、宝珠が虚空で弾けた。
 光が轟いて魔王の体を包んでゆく。
「滅び去れっ!魔界の大魔王っ!!」
 小栗はそう言うと、持っていた弓矢を魔王目掛けて打ち下ろした。

「うわあ・・・。ごわあっ!!」

 冥府魔王は身悶えしながら苦しみ悶える。
 どす黒い炎はやがてちいさな青白い炎へと転じ、やがて地面へと掻き消されるように見えなくなった。
「終ったか・・・。」
 小次郎はにっと笑って照手姫を見返した。
「ええ・・・。これで、あいつに異形に変えられた者も、横山の手の者も、みんな正気の沙汰へと戻るでしょう・・・。」
「そなたもな・・・。」
 こくんと微笑みながら照手姫は答えた。

「やれやれ・・・。これオラの出番も終わりだな・・・。無事、この世界も元の絵本へと戻るというもの。」

 小菟がひょいっと顔を出した。

「待ちやがれ・・・。てめえっ!このまま俺たちを捨て置く気じゃねえだろうな・・・。」
 灰だらけになった顔で乱馬がにゅっと起き上がった。
「安心しろ。ちゃんとおぬしらのことも覚えておるわ・・・。この世界へ捨て置く訳にはいかぬでな・・・。小栗判官は二人も要らぬ。もちろん、照手姫も・・・。」
 小菟はにっと笑った。
「それはどういう意味でいっ!!」
 乱馬がじろりと見返すと、小菟は笑いながら言った。
「同じ魂を持った人間は、各世界に一人ずつで良いということだよ・・・。乱馬。」
 急に柔らかな口調へと変化する。
「同じ魂だって?」
「この宙(そら)にはいろいろな世界が混在する。その中に同じ魂を持ちし者が存在することも何ら不思議なことではない。乱馬、あかね。おまえたち二人がここへ導かれてしまったもの、只の偶然ではあるまい。お前たちに私が見えたことも、召喚されたことも・・・。全部な・・・。おまえたちは一対の同じ魂の輝きを持った人間なのだから。二人で一つの魂を持つべくして生まれたな・・・。」
「だけど・・・。あかねは・・・。」
 乱馬は困惑したように腕に抱えたあかねを見やった。
 あかねはぐったりと目を閉じて乱馬の腕の中へ身を寄せていた。
「大丈夫・・・。さっきの闘いで己の気力を使い果たして眠っているだけだ。」
「でも・・・。」
「見よ、彼女を。安心しきって眠っておるではないか・・・。おまえに全てを託したのだ。力尽きた後でも、そうやって微笑んでいられる・・・。大した女ではないか。おまえのことを信頼しきっているのだろうな・・・。ほうら、蘇りの水だ。これを飲めば元の世界へ戻れる・・・。」
 つうっと空から竹筒が乱馬の傍に下りてきた。
 乱馬はそれを手に取ると、一口飲んでみた。無味無臭の只の水だった。
 それからあかねの唇へと当てようとしたが、固く閉じられたあかねの唇へ、水は流れ込みそうに無かった。
 小菟はそんな彼を見て柔らかく笑うと
「口移しで飲ませてやれば良い・・・。現し世の小栗は不器用だと見える・・・。こちらの小栗はもうじき父親になろうと言うのに・・・。」
 と言った。

「今・・何と?」
 小次郎の顔が変わった。
「後は照手姫から聞けば良かろう・・・。」
 小菟は笑った。
「そんなことを見抜いてしまわれるなんて・・・。あなた様は・・・。」
 照手姫が顔を染めながら振り返った。

 それには答えないで、ゆっくりと小菟は四人を見比べた。
「長居し過ぎたな・・・。我も返ろう。虚空へな・・。」

 小菟の小さな身体に光が射し始めた。と、眩い光が彼を包む。
 眩しくて目が開けられないほどに、小菟の身体は光り輝く。
 はっとするような美しい後光と共に、小菟の体が変化した。

『我は観世音・・・。魔を閉じ帰天する也。さらばだ、小栗、照手。そして、乱馬、あかね・・・。』


 光は空へと消えてゆく。

「あ、おいっ!だから、俺たちはどうなるんだっ!!」
 乱馬がそう叫ぼうとした途端、体がふわっと宙へ浮いた。

「さらばだ・・・。別世界のもう一人の私よ。早く彼女へ水を飲ませてやれ・・・。でないと目覚めぬかもしれぬぞ・・・。」
 小次郎が二人を仰ぎ見ながら笑った。
「乱馬・・・。彼女を大切に。あななたちもきっと結ばれし日が来るでしょう。私たちみたいに・・・。」
 照手姫もそれに答えた。

 その言葉を訊くと、乱馬とあかねはゆっくりと天空へと掬い上げられていく。だんだんと遠ざかる、下界。小次郎と照手姫が寄り添いながら見上げている。
 やがて下界は遥か眼下へと追い遣られる。眠り続けるあかねを腕に乱馬はふとさっきの小菟の言葉を思い出した。
(『一対の同じ魂を持った人間。』そいつが、あかねなのだろうか・・・。)
 先にこの世界へ召喚され、そして追いかけるように現れた許婚。嬉しくもあり、心配でもあった。
「いつだって無理ばかりしやがって・・・。」
 乱馬はそっとあかねに語りかけてみた。
「まだおまえには蘇りの水を飲ませていなかったな・・・。」
 それから手にしていた蘇りの水を口へ含むと、そっとあかねの口へと伝わせた。
 つうっと水があかねの口へと流れ込んでゆく。
(あかね・・・。)
 乱馬は飲ませた後も、静かに唇を重ね続けていた。



十三、

「あかね・・・。」
 
 乱馬の声を天空から聞いたような気がした。
「早く起きねえと、置いてくぞ・・・。」
 そうも聞こえた。
 置いていかれては大変だと、まだ目覚めぬ手足、動き出さない体の下の意識でぼんやりと考えた。
「眠り姫は王子さまのキスじゃねえと起きないってか・・・。」
 悪戯っぽい声も聞こえる。
「何よっ!」
 そう言おうとして、下りてきた唇。
 生温かい水が合わさった口から漏れてきた。
「ちょっと・・・。乱馬・・・。」
 躊躇することも出来ずに、あかねはその水をゴクンと飲み干した。
 口が離れたら、文句の一つも言ってやろうと、薄い意識の下から思っていた。
 
 だが、一向に彼の唇は退こうとしない。
 水は一度入りしか流れ込んでは来なかったが、柔らかい唇は合わせられたままだった。
 彼の唇が誘う世界へまどろみながら夢見心地で心音を聞いていた。トクン、トクンと流れ打つ心音は己の物なのか、それとも彼の物なのか。
 柔らかで温かくて、そして気持ち良い。
 このままずっと愛する人と唇を合わせていたい。回らない頭でぼんやりと考えていた。一つに重なり合う心と体。同じ魂を持つ人間。
「乱馬・・・ねえ。小栗と照手はどうなったの?あの世界は・・・。」
 沈んでいた疑問が、ようやく形になって表れてきた。
「乱馬・・・。」

 離れた唇へそう問いかけようとしたときだ。

「あかねっ!しっかりしろっ!!あかねっ!!」

 現実へ引き戻す声が耳元で聞こえた。

「天道さんっ!!天道さんっ!!」

 揺すぶられている。
 あかねははっとして目を開いた。
 と、心配そうに覗き込む顔がいくつか上に見えた。

「あれ・・・?」

 あかねは煤けた天井を見上げて、声を出した。

「何が『あれ?』だよ・・・。たく。」
 ふうっと長い溜息が傍で漏れた。
「乱馬・・・。」
 あかねは不思議そうに見上げた。
「たく・・・。書庫へ入ったきり戻って来ないって本田先生たちが言うから、心配して覗きに来て見れば、こんな所で寝込みやがって。」
 怒った声が響く。
「貧血でも起こしたんじゃないかって心配したのよ・・・。」
 本田が苦笑いしている。
「先生、わかってないなあ・・・。あかねが貧血なんて柔なもの、起こす訳ねえだろ?」
「ちょっと、乱馬・・・。」
 あかねは起き上がろうとしたが、頭がクラりと来た。
「貧血ね・・・。なるほど。」
 本田はあかねを見詰めた。
「本の上げ下ろしって結構、体力使うわよ・・・。天道さん、ひょっとして寝不足とか?」
 回らない頭で考えを巡らせたあかねは
「ええ、まあ。昨日はちょっと遅くまで・・。」
 と相槌を打つ。
「そういや、おめえ、遅い時間まで家庭科の縫い物やってたな・・・。」
 乱馬がほつんと溜息を吐いた。
「へえ、やっぱり許婚だけあって、ちゃんとあかねのこと心に留めて観察してるんだ、乱馬くん。」
 亜由美がけらけらと笑い出した。
「んなんじゃねえやいっ!!」
 真っ赤になって反論を試みる乱馬。どうやら図星だったらしい。
「そうよね・・・。早乙女君が図書館へ来るなんて。珍しいしね・・・。天道さんに押し付けてみたものの、気になってたのかな?」
 くすくすと亜由美がまだ笑いながら言った。
「るせえっ!俺はただ、本を借りようと思って来ただけでいっ!!」
「言い訳が幼稚ね。」
 
「あの・・・。」
 
 あかねはずっと乱馬の腕に抱かれていた。
 この場合、どうするべきかを躊躇して思わず声を出したのである。
「たく・・・。あかねがこんなところで倒れるからだぞ・・・。」
「何よ・・・。元々図書委員の仕事をサボったあんたのせいじゃないっ!!」
 あかねはきっと乱馬を睨んだ。
「どうどう・・・。天道さん、貧血起こした後なんだから安静に・・・。」
 本田も一緒に笑い転げていた。
「今日は帰りなさい。二人とも。」
 本田はそう命じた。
「保健室で休んでからでもいいけど・・・。」
 と付け加えることも忘れない。
「いえ、もう大丈夫です・・・。」
「でも、ちゃんと養生した方がいいわね。いいわ。あかねの分、あたしが当番やっておくから。」
 亜由美がにっこりと笑った。
「でも・・・。」
「たく、人の好意はきちんと受けるべきだろうが・・・。ほれ、俺がちゃんと連れて帰ってやらあ。」
 乱馬は仏頂面であかねに言った。
 こくんと頭を垂れて、あかねは今日のところは乱馬と下校することにした。素直に従うのは珍しいことかもしれなかった。何よりも、乱馬が本気で心配してくれているのが、少し嬉しかったのだ。
 あかねの胸から本が一冊零れ落ちた。
 『おとぎばなし集』。乱馬はそっとそれを拾い上げると、直ぐ近くの所定の本棚に置いた。


 帰り際、校門で待っていたお邪魔虫軍団。シャンプーと小太刀だ。
 放課後のデートを乱馬に迫るつもりなのだろう。
 彼は彼女たちを牽制するために、図書室へ舞い戻ってきたのかもしれない。そこで小菟に出会って本の世界へ引き込まれた。あかねは傍らでそう思った。
 彼女たちの執拗な勧誘に根負けして逃げ惑う彼。
 だが、今の乱馬はいつもと違っていた。
「今日はダメだ・・・。あかねの調子が悪いからな。俺はこいつを家まで送り届ける義務があるからな・・・。じゃあな。」
 珍しくきっぱりとそう断わったのだ。ただ、淡々とそう告げると、乱馬はあかねの鞄を脇に抱えて歩き出す。
 シャンプーと小太刀がその後姿に一言二言何か声をかけたようだが、乱馬は無視を決め込んで、あいた手であかねを引き寄せた。それからあかねを軽々と背負うと、黙々と帰路へ就いた。
 乱馬の背中は広くて温かかった。
「鞄、重くない?」
 あかねは背中にもたれながらそっと訊いてみた。
「重くなんかねえよ・・・。日頃の鍛え方がちがわあっ!」
 口調はぶっきらぼうだが、逞しい響きに聞こえた。
 ゆらゆらと揺れるおさげ。

「無理ばっかりしやがって・・・。」

 小声でそう聞こえてきたような気がした。
「無理なんかしてない・・・。」
 あかねも小声で答えた。
「あんとき、俺が現れなかったらって思わなかったのか・・・。焼け死んでたかもしれないのに。」
 怒ったような口調。
「大丈夫・・・。乱馬はいつも傍に居てくれるから・・・。あたし信じてるから。だから怖くはなかった・・・。」
 答えながらあかねは満足げに微笑んだ。
 あの世界が夢だったのかそれとも幻だったのか、今では確かめる術もない。だが、夢であっても、乱馬はずっと傍に居てくれた。きっとあの世界の二人は幸せに暮らしただろうと。そう確信していた。

「一対の同じ魂を持つ人間・・・だからか。」

 あかねに問い掛けるでもなく、答えるでもなく、乱馬は自然にそう口にしていた。
 その言葉を耳に、あかねは静かに目を閉じた。下りてくる柔らかい眠り。
「たく・・・。眠っちまったか・・・。」
 背中で黙ったあかねに乱馬はふっと溜息を吐いた。

 「おまえを守るのは俺の役目みたいなものだからな・・・。でも、本当のところはいつもおまえに助けられてる・・・けどな。」

 背中越しに漏れ聞こえてくる吐息に、乱馬はふっと微笑んだ。

 これから己が進む道は決して平坦ではないだろう。でも、二人ならきっと乗り越えられる。
 同じ魂を持っている。いや、二人で一つの魂を持っている。だから・・・。

 夕焼けにはまだ少し間がある空の果たて。天翔ける栗毛丸と凛々しい小栗判官そして照手姫が見えたような気がした。
 見上げる空にはぽっかりと浮かぶ雲一つ。



 完



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