をぐり  第三段


七、

  あかねが栗毛丸の方へと足を進めてしまうと、乱馬はだっと小菟の胸倉を掴んだ。

「てめえ・・・。小菟っ!話が違うじゃねえかっ!」
「さて、何がだ?」
「すっとボケやがってっ!あかねは絶対に巻き込まねえって約束だったろ?」
 鼻息が荒い乱馬を小菟は軽くいなした。
「約束などしておらぬぞ・・・。オラは。」
「しらばっくれるなっ!現世から俺を招き入れたときに言ったじゃねえか。」
「さて?記憶にないが・・・。」
「こちらの世界への魔物の浸透を避けるため、選ばれしおまえだけを招き入れるって。あかねが連れてこられるなんて話は、俺は一言も聞いてなかったぞ。」
「そりゃあそうじゃ。オラだって、おぬしだけで事が足りると思っておったから・・・。」
「じゃあ、何だって、鍵とやらを探しにいった時、あかねをこっちへ連れてきやがった?」
「仕方あるまい。現世へ時空を閉じる鍵を探しに行って、彼女とぱたりと顔を合わせてしまったんじゃからな。オラに責任はないわ。」
 小菟はそう言うと乱馬から目を反らせた。
「責任がないだとぉ?」
 乱馬はずいっと身を乗り出して小菟を締め付ける。
「ああ、責任はないぞよ。彼女の方がオラを見つけてしまったのじゃからな。」
「だからと言って、ここへ連れてくることはねえだろうが・・・。」
 怒りは収まりそうにないといった口調で捲くし立てる。
 そう、彼はあかねの許婚、早乙女乱馬、そのままだったのだ。
「照手姫に似ておるからな。彼女は。おまえが小次郎と瓜二つだったのも何かの縁じゃろうて。」
「俺は今だって承服した訳じゃねえっ!渋々付き合ってるんだ。」
「ガタガタと男らしくない奴じゃなあ・・・。」
 小菟はやれやれという感じで乱馬を見返した。
「そうか・・・。おぬし。あかねに惚れておるのか・・・。」
 小菟はポツンと言葉を投げつけた。
「なっ!!そ、そそ、そんなことおめえに関係ないだろう。」
 口篭った乱馬を見て
「正直な奴じゃな。そうか、それで、己の本当の姿をあかねに見せたくないわけか・・・。あくまで、夢の絵本の世界の中の人間の振りをして・・・。知らぬ存ぜぬと嘘を言って・・・。複雑な奴じゃな。」
 図星である。できれば、平穏なまま、あかねを現世に返したい。乱馬はそう思っていた。
「何でおめえが、俺が嘘を言ったことを知ってるんだ?さては、覗いてやがったのかっ!!」
 鼻息はますます荒くなる。
「ふん、そう風に乗って聞こえたんじゃ。オラの耳は特別だからな。」
 小菟はにっと笑ってみせる。
「とにかく、あかねを危険に・・・。」
「曝したくはない。こうじゃな。・・・じゃが、生憎、事態はそう悠長なことを言ってはおられぬのだ。今晩中に事を済ませなければ、この世界からおぬしらの世界への扉が開いてしまうんじゃ。そうなると、冥府大王がおまえたちの世界へと渡ってしまうぞ。」
「そいつが渡ったらどうなるんだ?」
「おぬしらの世界に魔物が溢れるな・・・。」
「・・・・・・。」
 乱馬は黙ってしまった。彼としてはあかねを巻き込むのは耐えられないことに違いなかった。
「何なら、ここで、男に戻ってみるか?」
 小菟の言葉に乱馬は締め上げていた手を緩めた。
「い、いや・・・。それは不味い・・・。」
 乱馬は口篭る。
「あいつには、俺が本物の乱馬だということは、知られたくない。」
「複雑じゃのう・・・。おぬしも。」
 小菟は乱馬の絡めてをさっと交わした。
「うるせえっ!何とでも言えっ!とにかく、あかねには何も言うなっ!」
「じゃあ、決まりだな。」
 小菟はにっと笑った。
「決まりって何がだ?」
「あかねに協力してもらうことだ。」
「おまえな・・・。」
「仕方あるまい?二人揃ってこの世界へ召喚されたんじゃ。諦めろ。」
 会話は振り出しに戻った。

「ねえ、さっきから何をもめてるの?」

 あかねがひょいっと後ろから声をかけた。

「わたっ!な、何でもねえよ・・・。」
「策略を練っていたんじゃよ。」
 小菟が意味深に笑った。
「策略?」
 大きな瞳を揺らめかせて、あかねはじっと二人を比べ見た。
「あかね、おまえは照手姫に似ておる・・・。じゃから、姫の身代わりになって貰おう。」
「な・・・。」
 乱馬が横槍を入れそうになったのを小菟は軽く牽制した。
「身代わり?」
 あかねが聞き返すと、
「そうじゃ、この先の遊女小屋に照手は捕らわれておる。悪いが、おまえさん、暫く彼女と摩り替わって貰えぬか?」
「っていうことは、照手を助けて、あたしが彼女の振りをして捕まっていればいいの?」
 こくん、と小菟は頭を垂れた。
「お、おいっ!てめえ・・・。」
 乱馬が鼻息荒く睨みつけたが、小菟はすまし顔で続けた。彼が何も言い返せないことを知っていたからだ。
「照手姫の力を借りぬと、小次郎は元の姿に戻せぬからな・・・。」
「どうやって元へ戻すの?」
 あかねは目を輝かせて小菟を見た。
「癒しの湯を使うんだよ。」
 小菟はふっと微笑んだ。
「癒しの湯?」
 あかねは後ろから覗き込みながら尋ねた。
「ワシとしたことが忘れていたよ。乱馬を見て思い出したんだ。この辺りには昔から湧き出る湯があってな、何でも治してしまうという不思議な湯脈だ・・・。その湯に浸かれば小次郎様の記憶も身体も元どおりに回帰されるだろうよ。」
「なるほど・・・。」
「その湯を使うには、彼を心より愛する者の手が必要なのじゃ。深い愛情に湯は敏感に反応して力を増すという。残念じゃが、姿形は似てはおるが、おまえさんでは照手姫の力には叶わぬ。今夜中に湯に浸からせねば、小次郎は元には戻れぬ。」
「そうか・・・。敵はそれで照手姫を幽閉してしまったのね・・・。」
「じゃろうな・・・。敵を欺いてその間に姫を。」
「湯場へ導いて、小次郎さまを元の姿に。」
「あかねは物分りがよいのう・・・。なあ、乱馬よ。」

 乱馬はじろっと小菟を睨みつけた。
(黙っていればいい気になって・・・。)
 彼の目はそういうふうに語っていた。

 乱馬は乱馬で気が気が無い。あかねを照手姫の身代りにすると、危険に曝すことになる。彼女のことだ、無理に頑張ろうとするのが目に見えている。
「勝手なことばかりぬかしやがってっ!!」
 ぶつぶつと合点が行かぬと口篭っている。
「何、心配することはない。あかねはこの乱馬が守ってくれるだろうからのう・・・。なあ、乱馬。」
 意味深な眼差しを小菟は向ける。
 言葉に詰まって困惑した乱馬は
「ああ、守ってやるよ!」
 と投槍に吐き出した。

「では、行こうか・・・。」
「ええ。」

 あかねはぎゅっと手を握り締めた。



八、

 三人はそこからほど遠くない、川原の町並みへとやって来た。
 中世時代、川原と言えば、人々出賑わうスポットの一つであった。
 権力者が決めた厳しい労役から逃れた人々は川原や社寺の近くへと流れてくる。社寺は現世利益を得ようと集まる人々の坩堝(るつぼ)であった。そのおこぼれを頂戴しようと門説教や琵琶語りなどの芸事、又は正規ではない法師や歩き巫女がわんさかと集まる。所謂、放浪の民である。川原は氾濫すると土地の境界線がなくなる。境界線が無い土地は徴税の対象にはならない。そこへ、流れてきた人々が住み着いて、田畑を耕し糧を得る。それが広がって、いつか一つのコミュニティーを作り出すのである。
 川原へ集まった人々は、独自に市を立てたり、芝居小屋を作ったり。「阿国歌舞伎」に代表されるような民間芸能も川原から発展していくのである。川原もまた、放浪の民の坩堝であった「川原乞食(かわらこつじき)」とは良く言ったものだ。
 人々が集まる場所には、遊郭の原型のような妖しげな場所も自然と生まれてくるのである。。
 あかねたちは夕闇迫る、川原の遊郭へ忍んできた。
 傍らには乱馬があかねを守るように傍に居た。三人とも深々と笠を被り、一目には、旅途中の女二人と子供という風体であった。
「顔を出すなよ。」
 乱馬は厳しい声で言った。
「わかってる・・・。」
 あかねはひっそりと答えた。短い髪の女は目立つので、小菟がどこからか見つけてきた「鬘」を上手い具合に被っていた。ちょっと見た感じでは、出会った頃のあかねに似ている。乱馬はそう思った。
 乱馬は目立たないように気を配りながら、あかねに目配せした。
「で、小菟。照手姫さまの居場所はわかったんだろうな・・・。」
 小声で小菟に話し掛けた。
「ああ・・・。ちゃんとわかっているぞ。」
 少し横柄な言葉使いで小菟は答えた。
「あの、蔀屋(しとみや)に居る・・・。」
 指差す方向に、簾で仕切っただけのみすぼらしい建物が目に入った。周りと同化して、いかにも何か潜んでいそうな気配が漂う。
「見て、周りにたくさん、人が・・・。」
 あかねがこそっと答えた。
 居る居る。周りを何気なく囲む庶子のなりをした男たち。皆、一様にしかめっ面。庶民の直垂(ひたたれ)を着てはいるが、甲冑や弓矢、刀が似合いそうな連中ばかりだ。
「横山氏の手のものじゃろうな・・・。」
 小菟は吐き出した。
「で、どうするんだ?」
「こうしよう。」

 途端だった。
 小菟はあかねの頭に深々と被せられていた笠を取った。
「あっ!!」
 あかねが声を上げたのと、小菟が声を上げたのは同時であった。
「照手姫が逃げたぞっ!!」
 小菟は声色を使って、小僧が放ったとは思えぬ声を張り上げた。

「何っ?」

 蔀の周りをそれらしく警護していた奴らが真っ先に引っかかった。

「くぉらっ!貴様っ!!」
 恐れを知らぬ小菟のやり口に、乱馬は思わず声を荒げる。
「おぬしはオラと来いっ!!」
 有無も言わせぬ速さで、あかねをその場へ突き飛ばすと、小菟は乱馬の手をぐいっと握った。
「上手くやれよっ!」
 ただそれだけを言い置くと、小菟はジタバタとする乱馬の手を引っ張って、蔀屋の方へと消えていった。
 取り残されたあかねは、みるみる蔀屋の近辺から集まって来る。
「あれほど、油断は禁物と言っただろうがっ!!」
 侍の大将だろうか。背後で叫んでいる。
 あかねは心得たもので、乱馬たちが蔀屋に入って行ったのを確認すると、だっと反対の方向へ向かって逃げ始める。少しでも多くの見張りたちをこちらへと引き付ける為だ。
「追えっ!逃がすなっ!!」
「取り押さえろっ!!」
 方々で怒声が響く。
 町ゆく人々は何事が起こったのかと一斉に振り返る。
「捕まって溜まるものですかっ!!」
 あかねはひょいひょいとそれを避けながら、懸命に走った。

 一方、乱馬は、小菟の力に引っ張られて、蔀屋の中へと潜んで行った。その力は、とても小さな小僧の強さではなかった。乱馬をして、抵抗できぬくらいの力だ。
 蔀屋の中に居た人々は、皆、牢から照手が逃げたものと勘違いをして、一斉に外へと飛び出していった。
「浅はかな奴らよ・・・。」
 小菟はにんまりと笑った。
「てめえっ!あかねは見殺しか?」
 乱馬は捕まれた手を振り解こうと懸命に抵抗したが無駄であった。
「いい加減、腹を括れ。彼女も巻き込まれてしまったのだ。大丈夫。彼女なら。上手くやるだろうよ。それより、早く、照手姫をここから連れ出せ。そして、湯場へと連れて行くんだ。急がないと、苦労が水の泡になるぞ。」
「くそっ!」
 乱馬は渋々、小菟に従うしかなかった。
 まんまと中へ侵入することができた二人は、照手姫が捕えられている牢へも易々と侵入できた。

「誰っ?」

 中で姫が気配を察して厳しい声をあげた。

「大丈夫。我らは姫の味方にございます。」
 小菟が叫んだ。
「味方?」
 姫が怪訝な声を出すと、
「さっさと開けろっ!」
 小菟が乱馬を促す。
「ちっ!てめえのそのクソ力で開ければいいだろうが・・・。」
 乱馬はたあっと手刀で気合を入れる。と、難なく錠が開いた。
 中から現れたのは、確かにあかねと違わない一人の少女であった。
 乱馬は暫し絶句して彼女を見た。
「ほら、見惚れてないで、彼女を連れ出せ。」
 小菟が促した。
「お、おう・・・。」
 乱馬はすっかり毒気を抜かれて、小菟の命令をきいていた。
「何処へ?」
 姫が訝しがって尋ねたのを受けて
「小次郎さまのところにございます。姫の力が無ければ、小栗判官は蘇れませぬ。」
「蘇れぬと?あの人に、何かあったのですのか?」
「詳しいことは後ほど、さあ、姫っ!一緒に行きますぞ。」
 小菟は乱馬と二人で蔀屋から逃れ出た。

 夕闇が迫り着て、辺りは一面、暗がりになる。誰一人、姫を負ぶった乱馬と小菟に気を配るものもなく、何事もなかったように人々は行き交う。
 だが、その横を、あかねが大男たちに囲まれながら歩いているのが見えた。
「あかねっ!」
 乱馬が思わず歩みを止めようとしたとき、小菟が制した。
「乱馬っ!気持ちはわかるが、今は、姫を小次郎のところへっ。小次郎の元へ姫をお連れすれば、おまえは直ぐに取って返して、あかねを助ければよい。」
 乱馬は内心ハラワタが煮え立つ思いであった。
「何故だ?」
 乱馬はきっと小菟を見た。
「あかねは照手と思われている。早くしないと、手遅れになるぞ。この世界とお前たちの世界の扉が開きかけておるのだ。見よ。」
 小菟が指差す方向。山の上が、妙に明るく光り輝いていた。
「あそこは、結界じゃ。結界が易々と見え始めたということは、冥府大王の降臨が近いということだ。あれが敗れ去れば、お前たちの世界とここは繋がってしまう。そうなれば、お前たちの世界は下手をす時空ごとどこかへ吹き飛んでしまう。おまえたちの世界が滅び去るのだぞ。」
「そんなこと、聞いてねえぞっ!」
 乱馬は走りながら小菟へ言葉を投げつけた。
「だから、おまえたちを呼んだのだ。結界を守るために。おまえたちは選ばれた。」
 小菟は真剣に乱馬を見返した。
「この時空を閉じられるのは、小次郎と照手姫しかおらぬのだ。そのためには、小次郎を元へ戻さねばならぬ!頼むっ!乱馬よ。」
「畜生っ!あかね、待ってろ。絶対俺がおまえを、おまえを取り戻してやるから!!」

 乱馬は虚空へ向かって叫んだ。


九、

「全く、世話が妬ける姫さまだぜ・・・。」
 あかねは大男たちにしょっ引かれて蔀屋へ連れ戻された。
 蔀屋へ戻ると、早雲そっくりのお館が待っていた。
「逃げたそうだな・・・。照手姫。無駄なことを・・・。」
 早雲にそっくりなこのお館はそういうとぎょろりと目を向いた。
 あかねはごくんと唾を呑み込んだ。彼の形相の中に、並々ならぬ狂気を感じたからだ。
「こちらへ連れて来いっ!冥府大王さまへ差し上げるのだ・・・。」
 
 燭が一つという薄暗さの中だ。あかねが鬘を被って変装していることに、お館も男たちも気付く筈も無かった。目の前に捕えられた少女が照手姫その人だと誰しも疑うおうとはしなかったのだ。

 あかねは蔀屋からそう離れていない、川の中州へと舟で運ばれて行った。
(乱馬・・・。)
 あかねは内心気が気でなかった。己が蔀屋から消えたら、彼女はどうやって探すというのだろうか。
 だが、舟は闇をゆっくりと滑り出す。
 岸へつくと、あかねは広い川原に立てられた卒塔婆に縛り付けられた。
「ここまで大切に育ててきたというのに・・・。小栗氏の息子と密通をするとは、不義な娘御よ。」
 お館は縛り付けた娘を見下ろした。
 ぞくっと背中が毛羽立った。
「じゃが、安心せい。冥府大王さまは、それでもおまえが欲しいとおっしゃったでな・・・。」
 お館は不敵な笑みを浮かべた。
(どういうこと?)
 思わず声を出しそうになったが、あかねは正体がばれてはと思い直し、ぐっと言葉を飲み込んだ。
「人身御供じゃよ・・・。」
 只ならぬ気配が上から降り注いでくる。
(え?)
 あかねは思わず頭上の空を見上げた。

 何かに見られているような、そんなおぞましい気配がした。

 大きな渦となって、空が唸る。

「あっ!」
 吹いてきた風に鬘が吸い上げられた。
「おまえはっ!」
 お館の顔色が俄かに変わった。
(ばれたっ!)

 万事休すであった。

「ふふん・・・。照手姫に化けてワシらを誑かしておったのか・・・。」
 お館はあかねににじり寄った。
「よくも騙したな・・・。」
 あかねはぎゅっと拳を握った。
「姫はどうした?」
 物凄い剣幕でお館は近寄ってくる。
「し、知らないわ。どこかへ逃げて行った筈よ・・・。」
 あかねはきっと見詰めて言い返した。
「ふん、まあ良い。今更、照手姫が足掻こうと、もう、手遅れじゃ。もうすぐ、冥府から魔王が下りてこられる。そして、この世界はワシはこの世の中の全てのを手に入れられるんじゃ・・・。」
「さあ、それはどうかしら・・・。あなたの思い通りになって溜まるもんですか。」
 あかねはきっとお館を見返した。
「ふふん。その鋭い瞳。真っ直ぐな美しさ。おぬし、見れば見るほど、照手姫に似ておるな・・・。」
 それからお館はにっと笑った。
「良かろう・・・。照手は後で差し出すとして、先に、おまえを冥府大王へ捧げてやろう。大王様がここへ降臨するための生贄として。」
 ごおんとお館の声に反応するように風が轟いた。
「くっ!」
 あかねは踏ん張って縄を解こうと手に力を入れた。普通の縄目なら、あかねの力で引きちぎることが出来る筈。そう思ったからだ。
 だが、縄は思ったよりも丈夫で、あかねの手足に絡みついたまま、切れようとはしなかった。
「無駄なことを・・・。その縄は特別でな・・・。冥府の竜の髭で作られておるのじゃ。人力では切れぬわっ!」
 ぐっと力を何度もこめたがびくりとも動かなかった。
「ふふ・・・大人しく、冥府へ行くが良い・・・。」
 そう言うとお館は背後で燃える松明へと手を伸ばした。
「足元を見るが良い。葦が敷きこめてあろう?乾燥した、古木と共に。」
 確かに、川原の小石の上に丁寧に敷かれた葦はあかねの卒塔婆を囲むように敷き詰められている。
「ふふ、これでおまえの清らかで美しい身体を焼き尽くしてやろう・・・。」
 ごくんとあかねは唾を飲んだ。
「灼熱の炎と共に、あの天空へとおまえは魂ごと、冥府へ向かう。そして、大王さまと煙となって同化するが良い。」
「なんですって?」
 狂気の沙汰だとあかねは思った。
「せいぜい苦しめ。迫り来る炎の恐怖におののきながらなっ!」

 お館は数メートル後ろへ下がると、わざと遠くへと松明を投げた。
「さて、ワシは対岸からおまえを焼く炎を見物するとするかな・・・。はっはっは・・・。泣き叫んでも、ここへは誰も来ぬぞ・・・。」
 お館はそれだけ告げると、漕いで来た舟へと飛び乗った。

 メラメラと投げた松明は地面へ燻り始める。
 あかねは必死で卒塔婆から逃れようと身体を動かしたが、縄は食い込むばかりで、身動きも取れない。
「乱馬っ!乱馬ぁーっ!!」

 彼女の声に反応するように、燃え移った炎がちろちろと地面を這い始めた。


十、

 照手姫を連れ出した乱馬は駆けた。
 ひたすら駆けた。
「すまぬ・・・。私のために。」
 照手姫は背中で乱馬に詫びていた。
「小菟っ!湯場はここからどれくらいだ?」
 乱馬は叫んだ。
「ほんの直ぐ先じゃ。ほら、あのお社の袂じゃ。」
 ほおーっと息を吐き出して乱馬は社へと駆け込んだ。
 背中に餓鬼阿弥を乗せて、栗毛丸が社の袂に居た。不思議なことに栗毛丸の上で餓鬼阿弥は放心したように、じっと手綱を握っていた。
「あいつ・・・。自分でここまで来たっていうのか?」
 乱馬は思わず声を出した。
「栗毛丸が連れて来たんだよ。そうするように命令しておいた。」
 小菟がにっと笑った。
「おめえ・・・。」
「造作もないことだ。オラにはな。」
「あの馬上の餓鬼童子は?」
 その姿が異様に映ったのだろう。照手姫は思わず訊いてきた。
「小次郎じゃよ。」
 小菟が答えた。
「小次郎さま?」
 信じられないという表情を照手は差し向けた。
 乱馬は栗毛丸のところへ駆け込むと、照手姫を投げ出して、思わずへたりこんだ。ずっと駆けてきたのだ。仕方が無いことだろう。
「ご苦労であった・・・。」
 小菟は乱馬へ声を掛けた。あれだけ駆けてきたのに、小菟は息一つ切らさずに、淡々と言葉を継いだ。
「照手姫。早く、餓鬼阿弥をこの湯で洗い流してくださらぬか?」
 小菟は照手姫を促した。
「洗い流す・・のですか?」
 照手姫は明らかに躊躇した声で小菟を見た。当たり前だろう。この薄汚れた得体の知れぬ餓鬼阿弥が小次郎だと言われてもピンとこない。
 餓鬼阿弥は喋ることもあたわず、ただ、じっとそこへ居るだけの存在であった。
「一刻の猶予もならぬ。彼の許婚が命の危険に曝されておるのじゃ。」
 小菟は照手姫を再度促した。

「あかねが・・・?危険に?」

 今度は乱馬ががばっと起き上がった。
「て、てめーっ!何だ、その命の危険っていうのは・・・。」
 乱馬が鷲づかみにしようと手を伸ばしてきたのを、小菟はとっと避けた。
「おまえはいいから、黙っておれっ!照手姫。早く、その沸き湯で、餓鬼阿弥の身体をっ!!」

 照手姫は暫く考えていたが、くんと立ち上がって言った。
「嫌です・・・。」
 清んだ声だった。
 言葉がそこで凍りついたように聞こえた。
 と照手姫はにっこりと微笑んだ。
「・・・と、いうのは容易いこと。本当に、彼が小次郎さまなのか・・・。私にはわかります。彼はきっと、小次郎さま。そう信じて、洗いましょう。彼を。そうしなければならぬのなら・・・。」
「照手姫・・・。」
 乱馬が胸をなでおろすと、小菟が傍で言った。
「素手で洗って下され。」
「素手でございまするか?」
 これまた難題である。
 餓鬼阿弥の肌は爛れて、手足はごつごつとしている。鼻に吐くくらいの悪臭があたり一面に漂い、立っているのさえも躊躇われるような異様な形相である。どこから湧いてくるのか、肌にはびっしりと蛆虫がこびり付いている。
 素手で触るのは御免被りたいくらいだ。それを姫さまに押し付けるのだ。
 だが、照手姫は肝が座っていた。
「わかりました。素手で洗ってみましょう。」
 そう言うと、着物の袖をたくし上げた。色白い姫の肌が顕になる。
 姫は餓鬼阿弥を抱いて湯へ浸らせた。湯が一瞬濁ったように澱む。それから姫は沸き湯に足を入れると、抱え込んだ餓鬼阿弥を丁寧に洗い始めた。
 不思議な光景だった。
 少しでも先に急がねばならぬのに、乱馬は暫し、その場へと釘付けられた。
 姫の周りに光が射し始める。
 だが、いくら洗っても餓鬼阿弥は餓鬼阿弥で、一向にきれいにはならない。
「照手姫さま・・・。彼の口へ息を吹き込みなされ。」
 小菟が叫んだ。

「わかりました。」

 姫はにっこりと笑うと、見るもおぞましい餓鬼阿弥の口へ己の唇を当てた。

 乱馬の身体に衝撃が走った。従順で素直で健気な照手姫の行動に心打たれたのである。
 姫の口から息が漏れた。
 と、みるみる餓鬼阿弥は柔らかい光に包まれた。
「な・・・。」

 みるみる彼の身体は大きくなり、逞しい成年へと変化を遂げる。
「小次郎さま・・・。」
 照手姫はそう嬉しそうに吐き出すと、彼の身体に抱きついた。
「照手姫・・・。」
 小次郎はそう答えると、柔らかく姫の身体を包み込んだ。
 乱馬は少し照れくさいような、くすぐったいような、そんな気分になっていた。目の前の二人が己とあかねの姿に被って見えたからだ。

「乱馬・・・。ありがとう・・・。そなたも、元の身体に戻るがいい。」
 小次郎はそう言うと、乱馬へ湯を掛けた。
 乱馬の福与かな身体はみるみる筋肉が張り出し、そして、逞しい姿へと立ち戻る。

「あなたは・・・。」

 一緒に見ていた照手姫は変化だけではなく、彼が傍に居る小次郎と寸分違わぬ姿に立ち戻ったのを、目を丸くして見詰めていた。
「ほんに、小次郎さまと瓜二つ・・・。」
 それには答えないで小次郎は乱馬に向かって言った。
「さあ、あかねを助けておあげなさい。彼女は冥府大王へ生贄として差し出された。この照手姫の代わりに。それを阻止するのです。あなたならできる筈だ。いや、彼女と元の世界へ帰るために!」
 乱馬はこくんと頷いた。
「乱馬、先に行けっ!この世界を閉じる鍵は揃った。後はおまえがあかねを助けたら、この世界を閉じる。行き先は栗毛丸が分る筈だ。後で我らも行くっ!」
 小菟がにっと笑って乱馬を見た。
「これを持っていけっ!乱馬っ!!」
 小菟は乱馬に一振りの剣を与えた。
「これは?」
「草薙の剣・・・と言われておる宝剣じゃ。持って行け。役に立つだろう。それと、癒しの湯だ・・・。これは冷めない湯だ。これを浴びれば喩え女に変化していても、男に戻れるだろう。それと、傷ついた身体を少しでも癒せる力がある。さあ、急げっ!」

 乱馬は剣と湯の入った竹筒を受け取ると、だっと栗毛丸の背中へと駆け上がった。
「髪が邪魔だな・・・。やっぱりおさげが良いや!」
 乱馬は慣れた手つきでさっとおさげを編みこんだ。それから、手綱を思いっきり引いた。

「頼むっ!あかねの居る所まで飛ばしてくれっ!!」

 ヒヒーンッ!

 了解しましたと云わんばかりに、栗毛丸が立ち上がって一声天高く嘶いた。
 そして、目も止まらぬ速さで駆け始めた。

「あかねっ!無事で居ろよっ!!」



つづく




長編になってしまった(汗
わ〜ん・・・前後編で片をつける筈だったのに・・・。

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