をぐり 第二段


四、

 どさっと投げ出されたのは寝屋の中。
 香があたり一面に焚き込まれている。
 若者はあかねを下ろすと、キョロキョロと辺りを見回して、たっと襖を閉じた。
 二人きりの密室。
 一応この若者へ「輿入れ」という形でここまで連れて来られた。身体の下にあるのは、硬い板でも畳でもない。柔らかい布の感触である。手を伸ばすと固い物にあたった。目を凝らすと「枕」に見える。
(ちょっと・・・。ここって、寝室?)
 あかねはドキドキと心臓が跳ね上がるのを感じた。暗がりの中、若者は身体をこちらへ返してくる。
(逃げなきゃっ!!)
 あかねは咄嗟に起き上がろうと身体を起こした。
 だがそれは、若者のいち早い行動で無駄に帰した。
 がっと太い手が伸びてきて、腕を捕まれたのである。
「嫌ッ!放してっ!!」
 あかねとて必死であった。このままみすみす捕まって、餌食にされたくはない。何より望まない交渉は嫌だと思ったからである。
 ジタバタと抵抗をする。
「たく・・・。そんなに暴れるなって。」
 若者は余裕で笑っている。
「嫌っ!!来ないで。」
「ダメだ。放してなんかやらねえ・・・。俺のところへ輿入れしてきたんだろ?覚悟くらいしているんじゃねえのか?」
 若者は嫌がるあかねの動きを封じると、彼女の上に馬乗りになった。
 恐怖があかねを支配し始める。
「お願いっ!許してっ!!」
 必死で懇願した。どう説明したものか、己は照手姫ではないのだ。
「契るために来たんだろ?輿入れとはそういうものだぜ。」
 明るい声が耳元で響く。
「違うっ!そんなつもりじゃあっ!!」
 暴れ回るあかねに若者は急にくすくすと笑い出した。
「あはは、嘘だよ。」
 そう言うと、つかんでいた手を放した。 
「いいから、大人しくしろって。これじゃ話もできねえだろうが・・・。大丈夫、俺はおまえと契る気なんかねえよ。俺の妻は照手姫だけだ。それ以外のおなごには興味なんかねえよ。照手の替え玉姫。」
「えっ?今、何て・・・。」
 あかねの抵抗は止まった。
「ふうっ!やっと話を聞く気になったか。今、明かりを点けるからな。」
 そう言うと、若者は傍にあった燭台へと手を伸ばした。

 ぽおっと灯火が点いた。
 と、若者の影がふうっと暗闇に浮かび上がった。
「え?」
 あかねは彼の姿を見て一瞬目を疑った。
「乱馬・・・?」
 そう、この小次郎助重と名乗った男は、あかねの許婚の乱馬そっくりだったのである。
「生憎、俺は乱馬という男じゃねえ。小次郎だ。」
 そう言いながらあかねを見詰める。柔らかい瞳だった。
「どういうこと?」
 あかねは彼を見上げて言った。度し難いことばかりである。
「こうやって見ると、本当に照手姫と瓜二つだな。おまえは。」
 あかねの問いには答えないでまざまざと下りてくる瞳。
「姫さまを知ってるの?」
 あかねはきょとんと彼を見上げた。
「ああ・・・。照手姫をこちらへ来るように差し向けたのも俺だからな・・・。そうか・・・。やっぱりあの狸親父、偽者をこっちへ寄越しやがったか。あくまでも小栗と一戦を交える気・・・か。」
「差し向けるとか偽者とか・・・。あたしには一向に話の筋が見えないんだけど・・・。」
 困惑した表情であかねは見上げた。
「見えなくて当然だよ。俺だってまだ全部事態を把握した訳ではねえからな。ただ、この世界の一大事におまえたちが絡んでくることしか、あいつには聞いてねえ・・・。」
「あいつ?」
 あかねは不思議そうに見上げた。
「それに、実のところ、俺と照手姫はもう契りを結んでるんだ。」
「は?」
 ますます話がこんがらがりだした。
「だから、照手姫と俺とは他人じゃねえってことだ。わかるか?」
「あの、それってもう、姫さまには手を出してあるってこと?」
 おそるおそる聞き返す。
「たく・・・。もっと色気のある聞き方があるだろうが。数ヶ月前から互いに密会を重ねて、もう、互いに夫婦として契りあった仲なんだよ。秘密裏にな。だが、問題は俺とあいつの一族間の確執だ。もう何代も前から両一族は睨み合い、憎しみ合い、互いの孤剣を賭けて争ってきた。それはそれで、両一族の楽しみみたいなもんだったんだがな。あいつが現れるまでは。」
「あいつ?」
 あかねは聞き返した。
「冥府大王という化け物さ・・・。」
「冥府大王。」
 確か、横山のお館がそのような名前を口にしていた。あかねは思い出したのである。
「横川氏の当主が魅入られた伴天連の化け物だ。そいつ、横川のお館に取り入って、この一体を支配下に置こうと仕組んできやがった。俺と照手姫の一族の前々からのいがみ合いに付け入ってな。俺と照手姫でその姦計を暴いてやろうとこの婚儀を計画したんだが・・・。へへっ!食らいついてきやがったか。」
 小次郎はにっと笑った。
「きっとこの宴会に乗じて、奴ら、俺たちの一族へ襲い掛かる手はずだろうが。そうは問屋はおろさねえ・・・。案じるな。奴らの計略に易々とやられる俺じゃねえ。それよか・・・。おまえ。本当に照手姫に似てるなあ・・・。」
 そう言いながら身を乗り出してきた。
「ちょっと・・・。」
 焦るのはあかねである。照手と契りを結んだと言ってはいるものの小次郎は迫ってくる。そしてあかねをふわりと抱き締めた。
「髪が短い以外は、映し鏡を見ているようだな・・・。抱き心地も同じだ・・・。」
 回された腕にドキドキとする。彼もまた許婚の乱馬に似ていたからだ。
「何を・・・。」
 あかねは、あたふたと動いた。
「ふふ・・・。ふわっはっは。」
 あかねが焦るのを見て、小次郎は笑い出した。
「大丈夫。おまえに手を出したら、助っ人のあいつに何されるかわかったもんじゃねえしよ。それよか、俺たちの計略におまえも協力して欲しいんだ。これから一芝居打たなきゃならねえし。それに、冥府大王の奴らとてどう出てくるかわかったものじゃねえからな。特に、俺と照手が既に結ばれてしまった後だと気がつかれたら。あいつの身もおそらく、危ねえ・・・。」
「いいわ。わかったわ。で、あたしはどうすればいいの?」
「俺の影武者の助っ人と合流して照手を助けてやってくれ。」
「あんたの影武者?助っ人?」
 あかねは聞き返した。
「ああ、俺とそっくりの影武者だ。会えばすぐわかるだろうよ・・・。事が済めば、元の世界へ帰れるだろうよ。あかね、おまえもな。」
 
『どうして、あたしの名前を知っているの?』

 そう問いかけようとしたときだった。

 急に、表が騒がしくなった。
 と、途端に障子の向こうに火の手が上がる。
「ちっ!計画より一時ほど早いじゃねえかっ!奴ら、嗅ぎつけやがったかっ!!」
 小次郎の形相が変わった。みるみる険しい顔になる。

「あかねっ!計略が変わったようだ。おまえはこの畳の下の隠し通路からここを逃れろっ!そして、栗毛丸という俺の愛馬に乗っていけ!行き場は多分、栗毛丸が分かっている筈だ。そして俺の影武者と合流して照手姫を、彼女を守ってやってくれ。頼むっ!!」

 それだけを叫ぶと、小次郎は燃え盛る屋形に向かって走り始めた。

「小次郎っ!!」
 あかねが叫ぶと
「後は任せたぜっ!!」
 と威勢の良い声だけが闇から帰って来た。

 見開かれた障子の向こうには、炎々と燃え盛る火柱が見えた。
 と、あかね目掛けて弓矢が打ち下ろされる。
 ビンッと音がして、目の前の畳に矢が刺さった。
「誰?」
 あかねはきっと暗闇を見据えた。
「ふふ・・・。替え玉っ!おまえもここで死んで貰おうか・・・。」 
 そう言って正面で矢をつがえていたのはコロンとそっくりな婆さんであった。


五、

「お婆さんっ!!」
 あかねは己を打ち据えるように見下ろす、老婆を見上げて叫んだ。
「これで小栗一族は闇に葬られる。おまえの存在も必要なくなったわけじゃ。可愛そうであるが、ここで死んでいただく・・・。口封じのためにな。」
 勝ち誇ったようにコロンはあかねへ言葉を投げた。
「じ、冗談じゃないわっ!!」
 あかねは咄嗟に傍にあった枕をコロンへと投げつけた。
「無駄なことをっ!!」
 コロンは一瞬怯んだが、枕など物ともせずにあかねに向けて弓矢を構えた。

 ヒヒーンッ!!

 馬の嘶き声が響いた。

 と、疾風のように雪崩れ込んでくる大きな馬影がそこにあった。
「何っ?」
 弓矢を携えてこちらを狙っていたコロンへとその巨体は身体ごと突進する。
「うわあっ!!」
 たまらないのはコロン婆さん。そのまま、馬に薙ぎ倒されて、弓矢ごと吹っ飛んでしまった。
「馬・・・?」
 あかねは助けてくれた巨体へと目を転じた。
 馬はあかねをじっと見据えていた。どこから飛び込んできたのか。だが、馬は早く乗れと云わんばかりにあかねを見詰めた。
「わかった、さっき、小次郎が言っていた栗毛丸ね。」
 躊躇している暇はなさそうである。婆さんは粉砕したが、いつ追っ手がかかるとも限らない。
「いいわ。乗るわ。」
 あかねはだっと馬の背中に駆け上がった。黒光りする美しい毛並みの馬。

ヒヒーンッ!ブルルルルッ!!

 馬は一度大きく嘶くと、あかねを乗せて走り始めた。
 あかねは馬などに乗ったためしはない。勿論、手綱も握ったことはない。ただ、夢中でその馬の背中に跨り、手綱を取ってしがみ付いた。振り落とされたら一貫の終わりだ。
 彼女もそれは承知の上だ。決死の脱出行である。

 弓矢や槍を持って待機していた、横山の手のものたちは、大きな馬の疾風に息を呑まれた。
「追えッ!栗毛丸が逃げたぞーっ!!」
「背中に女が乗っている!」
 声が方々から響いてはきたものの、誰も、どの馬も、その疾風を差し止めることは出来なかった。

「凄い・・・。」
 あかねは背中にしがみ付きながら、栗毛丸の速さに舌を巻いた。ただ、早いだけではない。襲い掛かる敵を即座に避けながら、闇の中を駆け抜ける。脚力だけではなく、判断力、瞬発力、全てが長けた素晴らしい馬であることは、一目瞭然であった。
「お願い・・・。あなたの主君の志を貫くためにも、あたしを乗せて遠くまで駆けて。」
 あかねは振り落とされないようにしがみ付きながら、祈るように彼の背中へと言葉を投げていた。

 闇夜の中をどのくらい走り抜けたのだろうか。
 辺りからは喧騒はなくなり、栗毛丸はようやくその駆け足を解いて、静かに歩き出した。
「こ、ここは?」
 ようやく静かになった辺りをあかねは馬上から見渡した。

「よっ!やっと来たか・・・。」
 と、ざざっと枝垂れかかる繁みが動いて、誰かが馬上へと降り立った。
「え?」
 下りてきた者を顧みて、あかねは声を出した。
「大丈夫・・・。味方だよ・・・。」
 少女の声が耳元でした。
 夜通し駆けたのだろうか。辺りは靄がかってはいたものの、少しずつ白み始めている。人の顔くらいは選別できる明るさになっていた。
「あんたは・・・。」
 あかねは伸びてきた腕を見返して思わず声を上げた。
「乱馬・・・。」
 男のそれではなく、女に変化した彼の姿がそこにあった。
「乱馬っ!!乱馬ぁっ!!」
 あかねは馬上ということを忘れて夢中で彼にすがり付いていた。

「ちょっと待てっ!!こらっ!俺はてめえなんか知らねえぞっ!!」

 少女はあたふたしながらあかねへ声を荒げた。
「乱馬っ!乱馬ぁーっ!!」
 お構いなしにあかねは懐かしい少女へ身を捩った。
「だから・・・。俺はおめえなんか知らないって・・・。」
 カチコチに固まっりながら、少女はあかねを牽制しようと試みる。
「わたっ!!」
 安定の悪い騎乗。言っている傍から下へと落ちる。
 ドスンと音がして、少女はあかねをしっかりと受け身で支えていた。
 あかねは馬上から落ちたにも拘らず、そのまま少女へとしがみ付いて泣いていた。
「ま、いいか・・・。」
 少女は溜息を吐くと、しがみ付いてくるあかねが落ち着くまで、柔らかく抱き締めてやることにした。

 朝靄が溶け始める頃、ようやくあかねは人心地がついた。
「たく・・・。俺はおまえなんか知らねえって言ってるだろ。」
 少女はやれやれという表情をあかねに向けながら答えた。
 傍らに繋いだ栗毛丸が飼い葉を食みながら、二人のやり取りを見詰めている。
「本当に?」
 泣き腫らした後であかねは心細く言葉を継いだ。
「ああ、確かに俺の名前も「乱馬」って言うんだけどよ・・・。まあ、おまえと同じく、小次郎様の替え玉だがな。」
 そう言ってにっと笑う。彼の頭にはおさげはなく。だらんとした髪が後ろに流されていた。
「小次郎様って男でしょ?」
 あかねはまだ納得がいかぬという表情で乱馬を見た。
「ああ、奴らの呪いのせいでこうなっちまったようだけどよ・・・。俺だって本当は男だ。」
 そううそぶく。
「呪い?」
 あかねは聞き返した。
「冥府大王の奴の差し金だよ。ったく。」
「じゃあ、小次郎様は?」
「やられっちまったようだぜ・・・。」
 険しい顔を差し向けた。
「まさか・・・。」
「まだ死んじゃあいねえけどよ。厄介なことになっちまったぞ。」
 あかねにはわからないことだらけであった。いきなりこんな訳の分からない前世代の世界へ迷い込み、謀略に巻き込まれて、挙句の果てにめぐり合った許婚には「知らぬ存ぜぬ」扱いである。確かに少女の発する気配は、顔かたちがそっくりだった、小次郎様とは違って、いつも傍に感じている乱馬そのものであるというのに。
「厄介なことって?」
「冥府大王の野郎、毒水を使いやがったんだ。」
「毒水?」
「ああ、呪いの泉の毒水だよ。屋形の騒動にかこつけたとき、油断した小次郎様に「毒水」を振り掛けやがった。」
「何故そんな回りくどいことを?」
「一思いに殺すのは面白くないと踏んだんだろうよ。畜生っ!俺にまで毒水をかけやがって・・・。」
 悔しそうに下唇を噛んでいる。
「あんたも呪いにかかったの?」
「ああ、だから女体化してるだろう・・・。本来俺も、小次郎様に負けずと劣らぬ美男子なんだぜ。」
 こういう言動は乱馬とちっとも変わらない。
「奴ら、小次郎様と照手様が契ったことに気がつきやがったんだ。」
「ふうん・・・。で、照手さまは?」
「父親に監禁されちまった。遊女小屋にな。」
「遊女小屋?」
「ああ・・・。身体を売る遊女たちが暮らしている川向こうの蔀屋の一つに捕らわれてしまった。そいつを助けようとして、俺までこんな格好に!畜生っ!マズッだぜ。俺とあろう者がよ。」
 腕組みをして乱馬はへたり込んだ。余程女にされた事が悔しくて仕方がないらしい。
「小次郎様は?」
 あかねは訊いてみた。
「わからねえ・・・。だが、おそらく、俺と同じように呪いの姿に身をやつされただろうな。それだけは確かなんだ。俺に水をぶっ掛けやがった横山の奴が高らかに叫んでいやがったらしいからな。小次郎は「餓鬼阿弥」にしてやったわと・・・。」
「餓鬼阿弥・・・。」
「その姿で現世を彷徨えとな・・・。くそうっ!今度会ったら只じゃおかねえぞっ!!」
「で、呪いを説く方法は?」
「わからねえ。」
 ふうっと乱馬は溜息を吐いた。
「とにかく、小次郎様を探すこと。それが先決だろうな。」
「どうやって?」
「屋形へ行ってみるの?」
「屋形へはさっき足を運んだよ。見事に焼かれちまった後だったぜ。屋形の人間どもは皆、悪鬼や獣に変化させられてよ・・・。お館さまなんて、白と黒の熊みたいになっちまってよ。ぱふぉぱふぉ言ってやがった。」
「何かそれ、あたしが居た世界とそう変わらないわね・・・。」
 あかねは苦笑しながら言葉を継いだ。
「とにかく、小次郎様を探さねえと・・・。おまえはここに居ろ。」
 乱馬はあかねを見返した。
「嫌よ・・・。」
 あかねはつんと切り返す。
「おめえが居たら足手纏いになるんだよ。それに、おめえは奴らに面が割れてるし・・・。」
「だったら変装すればいじゃない。」
 あかねはそう言うと、たったと着ていた着物の袖を切り取った。それから顔へ朝露で濡れる泥を塗りたくった。
「お。おい・・・。」
 乱馬が呆れるのを尻目にあかねは小汚い少女へと変貌する。
「これだったら、あたしってわからないでしょう?」
 泥だらけの顔でにっと笑ってみせる。
「確かに・・・。っと、よしっ!来いっ!その代わり、無理するんじゃねえぞ。」
 乱馬は苦笑いしながらあかねを見返した。
「栗毛丸は?」
「ここへ置いていく。こいつは賢い馬だから、ちゃんと敵からも上手に姿を隠すだろうし。」
 乱馬はあかねを見返すと。たっと駆け出した。
「何だって付いて来るなんて無茶言い出したんだ?おまえ。」
「だって・・・。一人ぼっちじゃ心細いもの。それに、乱馬の傍に居たいから。」
 凡そ本物の彼には口を吐いて言えない弱音をあかねは吐き出していた。 
 だから、彼が一瞬複雑な様子を見せたことなど、気がつかずに居た。
「たく・・・。いつだっておまえはそうやって無理ばっかするんだよな・・・。」
 聴こえないくらいの小声で吐き出す。
「え?何か言った?」
 問い返してきたあかねに、
「ぐずぐずしてると置いてくぜって言ったんだよ。」
 そう口にすると、乱馬はスピードを上げた。
「あ、待ってよ。」

 二人は朝の光の中を駆け出した。

六、

 屋形のあったあたりは黒い煙が燻って、何とも言えない異臭が漂っていた。
 人々の黒焦げの遺体、いや、それよりも異形を成した武人たちが、苦しそうに呻き声を上げている。
「何・・・。ここ、本当に屋形なの?」
 あかねは思わず足を止めて立ち尽くす。
「臆したか?だからついて来るなって言っただろ?」
 乱馬の表情も険しかった。
「昨日はあんなに賑やかで華やいだ雰囲気だったのに・・・。」
 そう呟いた時、乱馬はあかねに目配せした。
「しっ!どこで横山の奴らの手の者が潜んでいるとは限らねえ。あんまりぼそぼそ喋るな。正体がばれたら面倒なんでな。」
 乱馬の危惧は当然のことだろう。あかねはこくんと首を垂れた。同じように放心した風を装いながら、二人は見失った小次郎の姿を追った。
「やっぱ、小次郎様の姿はここにはねえな・・・。」
 乱馬は探しつかれてどっと腰を下ろした。と、背後で人の騒ぐ声がした。
 何事かと思って振り返ると、馬が一頭暴れている。
「乱馬、あれ、栗毛丸じゃない?」
 あかねはつんと彼を促した。
「あん?そんな筈は・・・。」
 乱馬もつられて喧騒の方へと目を転じた。
「ほら、やっぱり、そうよ。あの暴れ方。」
 馬は人の静止を聞かずに暴れ続けている。
「あいつ・・・。先にここへ駆けて来たのか?何のつもりだ?」
 乱馬は栗毛丸の方へと駆け出した。
 と、栗毛丸の暴れている辺りに、人垣が出来ている。屋形が焼かれたというのを見に来た物好きな庶民たちなのだろうか。
「乱馬、あそこ。」
 あかねは一際大きな木の根元へ蹲る人影を指差した。
 栗毛丸はその人影の袂で暴れまわっている。
 人影は栗毛丸が嘶くのを虚ろげな表情で見上げていた。顔も髪も身体も手足も、全てどす黒く焼け焦れたような色をしている。目だけは血走ってぎょろりと輝いていて、とても人間とは思えないような形相の化け物である。
「うへー、こいつ。生きてやがるのか。」
 取り巻きの一人がそれに向かって石を投げた。

ヒヒーンッ!!

 傍らに居た栗毛丸は嘶くと、石を投げた男向かって突進をするではないか。
「何だ?この馬ぁっ!畜生の分際で餓鬼阿弥の肩を持つっていうのかあっ?」
 取り巻きは栗毛丸向かってまた石を投げつける。

ヒヒヒーン!!

 栗毛丸は怯まずにそいつに息巻いている。

「餓鬼阿弥?」
 乱馬の顔へさっと光が灯ったように見えた。
「あかねっ!来いっ!」
 彼はそう言うと、あかねの手をさっと取った。そして、あれよあれよというまに栗毛丸へと飛び乗る。それからだっと駆け出すと、蹲っている餓鬼阿弥をひょいっと掬い上げた。
「乱馬?」
 あまりに見事な早業に、彼が何をしようとしているのか分からずに、あかねは声を駆けた。
「あかね、しっかり俺に捕まってろよっ!栗毛丸っ!行けっ!」
 乱馬はドンっと栗毛丸の横腹を足で蹴って合図した。

ヒヒーッ!ブルルル・・・!

 栗毛丸はわかっていると云わんばかりにその場から駆け出した。
「あ、こらっ!貴様らっ!!待てっ!!」
 周りをうろついていた横山氏の手のものが、弓矢を持ち出して牽制する。
「待てって言われて待てるかよ。」
 乱馬は餓鬼阿弥をしっかりと抱いて手綱を握り締める。
「ちょっと、何のつもりよ。そんな小さな変な奴を抱いちゃって。」
 あかねは必死で彼に捕まりながら叫んだ。
「わからねえか。こいつ、この、乞食(こつじき)のような餓鬼阿弥。これこそ、小次郎様だぜ。」
「え・・?」
 あかねは小さく叫んだ。
「まさか・・・。こんな醜い姿の者が、小次郎さまだなんて・・・。」
「へっ!多分、本人にも己が誰なのかわかっちゃいえねようだがな。何より、栗毛丸がこいつへ感心を示したのがいい証拠だぜ。動物はその辺の感覚が人の数倍も優れているからな。己の主君の匂いを嗅ぎつけてここまでやってきだんだろうぜ。俺たちだけに任せられねえってな。」
 栗毛丸は三人を乗せたまま駆けて駆けて駆けまくった。
「で、この餓鬼阿弥が小次郎様だったとして・・・。どこへ行くのよ?」
 あかねは率直な疑問を乱馬にぶつけた。
「そこだよ・・・。」
 乱馬はふと目の前の蔀の方をアゴで指した。
 昼なお暗い鬱蒼とした森の中。太陽の光はこの森の中までは届かないのか、じめっとした空気が渡ってゆく。
「どう、どうどうどう・・・。」
 乱馬は栗毛丸を静かにそこへ止まらせた。
 トンと先に降り立った乱馬は餓鬼阿弥を先に下に降ろしてから、あかねに手を差し出す。
「ほらよ・・・。」
 あかねは彼女に促されて地面へと恐る恐る降り立った。
「ここは・・・。」
 目の前に小さな祠があった。
 乱馬はあかねを振り返らずに、その祠に向かって声をかける。

「帰ったぜ・・・。」

 ぎぎぎっと音がして祠の観音扉が静かに開いた。
「首尾はどうじゃった?彼女とは会えただか?」
 あかねはあっと声を上げそうになった。
 そう。そこにはあかねをこの世界へと連れ込んだ張本人のあの男の子が顔を出したからだ。
「最悪だぜ・・・。てめえが言うように、横山のお館は小栗を尽く攻めやがった。」
「だろうな。空気がよどんでおるだ。」
 男の子は無愛想に答えた。
「で、小次郎は・・・。おお、やはり餓鬼阿弥に変身させられてしまったか。毒水で。」
「これからどうする?」
 乱馬は頭を掻きながら問い掛けた。
「最後まで付き合ってもらうかな・・・。丁度いい、あかねも居る。」

 あかねは後ろから不思議そうに二人を覗き込んだ。

「おぬしら腹が減っておろう?あれだけ動き回ったのだ。さ、この木の実を食べると良かろう。」
 男の子はにんまりと笑って、小さなドングリを差し出した。
「これで?」
「食べてみよ・・・。これはこの森の不思議な霊力を秘めた木の実じゃ。一つで腹が膨れるぞ。」
 半信半疑でドングリを頬張ってみた。 
 固い歯ざわり。ごりごりと噛み砕いて飲み込んだ。
「わあ、不思議・・・。本当にお腹が膨れた。」
 あかねは目を輝かせて男の子を見た。
「こいつは小菟(こと)。この世界の童子だ。」
 乱馬はあかねに男の子を紹介した。
「よろしく、あかね。」
 小菟はにっと笑ってみせた。
「あたしをここへ連れてきた子ね。ねえ、あたしはいつ元の世界へ帰れるの?」
 当然の疑問を小菟にぶつけた。
「冥府大王の野望を打ち砕いて貰えれば、直ぐにだって帰れる。おぬしまで巻き込んでしまって申し訳ないと思っているが、この世界の人間だけでは持て余すことが多くてな。どうしても、冥府大王を倒さなければ、おぬしらの世界にも禍が及ぶんだ。だからオラが召喚した。悪いが助けてはくれぬか?」
「ちぇっ!いい気なもんだぜ。どっちにしてもこの厄介事が片付かねえと、あかねは帰してはもらえねえんだろうが・・・。」
 乱馬は脇からぶつくさと愚痴る。
「まあ、そういうことではあるがな・・・。」
「じゃあ、この世界の厄介事を収拾しないと、あたしはいつまでたっても帰れないわけ?」
 あかねは顔をしかめた。
「聞くまでもねえさ。そういうことだよ・・・。ま、大丈夫さ、俺がサポートしてやらあ。」
 乱馬はぼそっと横から吐き出した。
「そういうことだ。悪いがもう暫くオラに付き合ってくれぬか?オラにはこの世界とおぬしらの世界を守る使命があるのじゃよ。」
 小菟には何かのっぴきならない訳がありそうだった。
「仕方ないわね。いいわ、考え込んでもしょうがないし・・・。早く厄介事を片すしかないんだったら。」
「おめえ、明るいな・・・。」
 呆れたように乱馬があかねを覗きこんだ。
「暗くなったところで仕方ないでしょ?あたしは前向きなの・・・。」
 あかねはそう言って微笑んで見せた。
「頼もしい助っ人じゃなあ・・・。ところで、あかね・・・とやら、悪いが、そこの飼葉から栗毛丸に食事を与えてやってはくれぬか?そやつも存分に働いてきて、腹を減らしておるはずじゃ。」
「あ、いいわよ。あの飼葉桶ね。」
 あかねは二つ返事で引き受けた。



つづく



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