創作ノート「をぐり」


 「説経節」について

 「説経節」とは安土桃山時代から江戸初期にかけて行われた「口承文芸」の語り物です。後に「人形浄瑠璃」と併合していったと考えられています。
 華やかな「浄瑠璃」や「歌舞伎」とは違って、かなりマイナーな口承芸能でありました。
 その代表的な物語りの中に「小栗判官(をぐり)」「信徳丸(しんとく丸)」「山椒大夫」があります。説経節は他の語り物文芸の中でも、一番庶民に近いと言われています。そのためか、同じ時代に成立した「お伽草紙」などとは違い、かなり際どい表現やドロドロした物が底辺に流れています。
 卑下された人々の語り文学。それが「説経節」なのかもしれません。
 学生時代、本当は中世文学の、それも「平家物語」を卒論のテーマに選ぼうと思っていた私ですが、基礎演習のときに触れた「説経節」の濃い世界にゾッコンになってしまいました。かなりマイナーな分野での卒論作成。基礎となる学術論文も極端に少く、苦労したのを覚えています。

「小栗判官」について

 説経節の小栗判官は、かなり好色で異端として描かれています。乱馬とは全く性格も違います。無理矢理、横山氏に押しかけて「照手姫」に入り婿し、挙句の果てに十人の従者共々、毒殺されます。そして渡った地獄の閻魔大王に蘇らされます。「餓鬼阿弥陀仏」に身をやつし、諸国を放浪した末にやっと熊野の湯で人間へと立ち返ります。その後、彼は、己を謀殺した横山氏へ復讐を果たすのです。
 小栗の奔放さと対照的に、ヒロイン「照手姫」は健気です。彼女は小栗謀殺の後、父と兄たちに川へ流されます。何とか助かった彼女は宿場町の水仕になりますが、死んだ夫への貞操を守って、何人とも交わろうとはしません。餓鬼阿弥陀仏へと身をやつした夫の車を引いたり、蘇った夫が座敷に招いても、不義は働けないと断わったり。波乱万丈の中でも必死で生きてゆくのです。
 物語は小栗と照手は無事に再会し、めでたしめでたしとなるのですが・・・。
 照手姫は聖女です。この辺り、あかねと通じるところがあります。
 筆舌には尽くし難いほど、プロット的にも面白い物語なので、是非、原文でどうぞ。


創作ノート

 停滞していたときに、己の原点に帰ってみようと思い書き出したのがこの物語。 
 一度、乱馬とあかねを掛け合わせた語り文学の世界を描いてみたいと思っていたのですが、気がつくと夢中でキーを叩いていました。
 始めは前後編くらいの短い作品にする予定だったのですが、乗ってしまった結果、予想外に長い作品になりました。この世界、記紀神話以上に好きなので、止まりませんでした。
 底本に使った「小栗判官」とはかなり違うプロットで追いかけて、私なりに改作しておりますので、ご了承ください。「小栗判官」では、小栗の愛馬は「鬼鹿毛(おにかげ)」と呼ばれた暴れ馬です。小栗が乗りこなしました。それをこの作品では「栗毛丸」と勝手に命名しております。
 小栗判官では小次郎助重という名前は出てきません。おそらく小栗判官のモデルになっただろうという実在人物の名前を貰っております。
ただ、元文の「小栗判官」はかなり奔放な男で、乱馬とは掛け離れたキャラクターです。自意識過剰というところだけはそっくりではありますが・・・。
 作品はその辺りを考慮に入れて、小次郎としてキャラクターを立て直しました。
 どちらかというと、私的には、「小栗」よりも「照手姫」に思い入れがあるかもしれません。
 照手姫は強くそして気高く、健気な女性です。

 「同じ一つの魂を持つ人間」。それが一番書きたかったこと。あかねの健気さは照手姫のそれに匹敵すると私自身は考えています。

参考文献
「説経集」新潮日本古典集成(新潮社刊)
「説経節」東洋文庫(平凡社刊)



追記

 この作品を半さんへ送ったときに、疑問をいただきました。
「何故、作中、女乱馬でなければならなかったのか?」
 という命題でした。
 この辺り、半さんとは意見が食い違う部分であるのは確かなのです。
 私自身は「益荒男(ますらお)」である乱馬を描きたいと常に思っている一人です。
 ただ、原作を見渡したとき、彼が「女に変身する異端」というこのことは、彼の人格形成へも、あかねへの純真な想いへも反映われているだろうと勝手に想像しています。

 以下、半さんの疑問へ答えたメールの本文から


 女乱馬の扱いですが、これは私の中の乱馬観に基づきます。
 私も女乱馬の描写は苦手で、彼が女然としていると喝を入れたくなっていました。
 ただ、「らんま1/2」という作品を考えた時、彼の女性化は彼の個性を考えていく上でも切り離せないのではないかと最近思うようになったのです。
 女になることの悲哀が彼にはあると思うのです。
 女性化するからこそ、あかねに対して臆病な部分を持っているのではないかという穿った考えに基づく描写です。
 もし、一年前の私なら、女乱馬の描写であの作品を描いていなかったと思います。
 全編を通して乱馬(男)で描いたかと・・・
 「雪山奇譚」で女乱馬を描写して以来、この辺りの葛藤を己の中でずっと引きずっています。
 これ(雪山奇譚)を境に己の中の女乱馬への意識が変化した・・・敢えて言うならばそうです。

 実は今叩いている「幽石」も前半部は女乱馬とあかねのやり取りが中心になっています。
 原作ではさらりと流された女乱馬とあかねの繋がりをもっと細かに描いて、乱馬の中にある「男性」にぶつけようと目論んでいます。
 女になることでより一層、乱馬の葛藤と、あかねへの思いを昇華させてゆく・・・。それがテーマとなる予定です。
 そういう意味では、半さんの中にある乱馬像とは相容れない作品(を叩くこと)になると思います。

(殆どそのまま引用)



 乱あ作文を手がけているうちに、確実に変化してきた私の中の乱馬像。
 ごく初期の頃の作品を見渡すと、殆ど私の乱馬は女に変化することはありませんでした。
 でも、今年の初め、「雪山奇譚」を描くときに、一度、女乱馬を前面へ出してみようと思った時から、彼への指向が変化しました。女になる悲哀というものがきっと彼の深層心理の中に潜んでいる。そう思えたからです。原作に置いても、悲壮感そのものは漂っていない彼の女への変身でしたが、ハーブ編にて実はそうでもないことが露見しました。男に戻ってあかねの元へ帰るという悲願。あかねを哀しませたくないとギリギリのところで踏ん張った乱馬。
 また、最終話ではわざわざ女から男へ戻って、目を開かないあかねへと本当の気持ちを吐露した乱馬。
 己のためだけではなく、あかねのために男で居たいという彼の本心が覗くシーン。
 あまり深く原作では言及されなかった彼の心理描写ではありますが、文章で表現してみたい。
 男乱馬とあかねだけのロマンスならば、他のキャラでも代用ができそうな気がしますが、そこへ女乱馬が絡むことで、本当の意味での「乱あ」になるような気がしたのです。
 それが私の作品傾向にもなり始めています。
 この「をぐり」はそんな作品の典型。
 説話文学の中の主人公は殆どが「異端」として描かれています。
 るーみっく作品はその「異端」がとても上手く味付けられていると勝手に思っております。出世作の「うる星やつら」も、「らんま1/2」も、そして現行の「犬夜叉」も。勿論「人魚シリーズ」も。
 皆、主人公は「異端」です。
 「異端児」たちは、己の能力から「漂泊」を余儀なくされ、苦しみもがきます。その中で彼らを助けるのは「配偶者」。巫女であることが多いのです。あかねもかごめも典型的な「巫女的キャラクター」だと私は考えています。「漂泊」は説話文学の場合は「道行」として描かれます。「道行」とは、人形浄瑠璃では、場面が変わる中に表現されていますが、この「道行」、重要な要素を含んでいたと考えられています。
 乱馬の「道行」はあかねと共にあります。必ずと言ってよいほど、あかねが寄り添うように乱馬に居るからです。彼女の健気さは、異端である乱馬を最初は口さがなく「変態」と否定していましたが、彼の変身をごく自然な成り行きとして受け入れるところにあると思います。飛竜昇天破のときも、サフランとの死闘のときも、彼女は己の危険を顧みず乱馬を助けるために飛び込んでいくのです。その決死の覚悟、は乱馬を取り巻く他の女性キャラにはないものです。
 あかねのようなやきもちやきは乱馬に相応しくないという意見も、らんまファンの中で囁かれることがあるようですが、とんでもないというのが私の自論。
 乱馬自身も、その彼女の中にある己への本当の愛を見抜いているのだと思います。
 ゆえに、女に変身してしまうことに対する畏怖も持ち合わせているかもしれません。
 その辺りを描いていきたいと、最近は真摯に思うようになりました。その裏返しのような作品がこの「をぐり」でもあります。


 私の場合、描き出す人物にのり移って書くことが多いので、上手く感情移入してしまうと、勝手に登場人物の中へと心理が入ってゆきます。(そういう意味ではかなり危ない書き手です。)
 この作品も最後の方は「あかね」に入っていました。乱馬に憑依していることが多いので、私にとっては珍しい作品かもしれません。
 主観的に作品を叩いていることが多いので・・・。もっと客観的にならないといけないとは思っているんですが・・・。まだその辺りは修業が必要なのでしょう。

 もっといろんな視野にたって、大好きな二人を描いていきたいと思っています。


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