巻七 闇の中の光

一、

 八方翁に命令された触手が一斉に動き出し、あかね姫へと襲い掛かった。
(やられるっ!)
 あかね姫はそう思ってぎゅっと目を閉じた。
 次に襲い来る触手によってその身を引き裂かれる、そう思ったときだった。

 ぴしゅっ!

 何かが裂ける音がして、生温かい液体が頬を掠めた。

「えっ?」
 思わず目を開けると、あかね姫を捉えていた触手が何本かどわっと赤黒い液体を流しながら崩れるのが見えた。

 おおうおう・・・。

 呻き声とも取れる低い唸り音を上げながら触手たちがもがきはじめた。と、ばらばらと鋭いものが舞い落ちてきては、触手を切り裂いて落ちて行くではないか。
 あかね姫を捕らえていた触手が彼女の身体から離れて、ズンズンと次々に床下へと沈みだす。

「何奴?」
 八方翁が鋭い目を天井へと向けた。
「出て来いっ!そこに居るのは分かっておるっ!!」
 八方翁はたっと手を翳すと空へ向けて突き出した。暗黒の気砲が天井へ弾け飛んだ。

「けっ!見つかっちまったか。」

 天井から俄かに声がした。
「ら、乱馬っ!」
 あかね姫は思わず声をあげた。
「乱馬?」
 八方翁は声を返した。
「よお・・・。八方翁、久しぶりだな。」
 とんっと天井から降りてきた少女が、そう言って八方翁を見据えた。
「乱馬・・・。どうしてここに・・・?」
 あかね姫は驚愕の声をあげた。
「言ったろ・・・。俺はずっとおまえの傍に居て守ってやるって。」
 そう言うと乱馬はにっと笑った。あかね姫は心強い助けを得て表情が明るくなった。
「そうか・・・。先ほどの護符もおまえの仕業か。まだ生きていたとはのう・・・。疾風の長、怪盗乱馬!」
 八方翁はぎろっと彼女を見据えた。
「へっ!てめえのくたばるところを見るまでは絶対に死なねえんだ・・・。俺は。」
「大方、都を捨てて尻尾を巻いて逃げ出したと思っていたがな・・・。ふてぶてしい奴じゃ。」
 八方翁は憎々しげに乱馬を見据えた。
「おめえの放った火のおかげで俺たちの一党は都を去ったが、決っして都を捨てた訳じゃねえ。おめえみたいな妖怪野郎に、このままのさばられるのも癪に障るからな・・・。それに、おまえにお返ししてやらなければならない理由が他にあるんでな。」
 乱馬はにやりと八方翁を見返した。
「ふん、このくたばり損ないが。合い分かった、斎宮と共に我が闇の生贄として血祭りに上げてやろう。」
「さあて、それはどうかな?」
 乱馬はあかね姫の前に立ち塞がって八方翁を睨んだ。
 八方翁は手を前に組むとなにやら呪文を唱えた。
「あぶねえっ!こっちだ!」
 乱馬は危険をいち早く察知してあかね姫を抱えて後ろへと飛んだ。

 どおん!

 目の前で地面が爆裂した。
「ふっ!少しは出来るようだな。ではこれはどうだ?」
 八方翁は再び何かを唱えると、手を前に差し出した。
「けっ、しゃらくせえっ!」
 乱馬はあかね姫を脇に立たせると、返す掌で気砲を打った。
 
 ダン、ドン!

 続けて音がして闇の空間が一瞬歪んだ。
「おぬし、気砲を扱えるのか?」
 八方翁が目を細めて乱馬を見返した。
「けっ!あったりめえだっ。てめえを倒すために、血を吐くような修業を続けてきたんてぃっ!気砲くらい軽く使える。」
 乱馬はにやりと切り返した。
「ふっ!所詮は付け焼刃、これならどうだ?」
 八方翁は着物の中から黒護符を取り出した。
「身の髄まで焼かれるがよい!」
 そう言って扇子を出してそれを仰いだ。
 ごおっと音がして炎が揺らめいた。それも天井まで燃え上がろうというくらいの火柱が一瞬あがったのである。普通の人間なら一溜まりもあるまい。
「乱馬っ!」
 目の前を火で包まれてあかね姫は思わず彼女の名前を呼んだ。
 ごおごおと音を立てながら、乱馬が居た辺りは勢い良く燃え上がっていった。
「ふふ・・・。我が黒炎に焼き尽くされて溶けたか・・・。」
 八方翁はそう言って火を見て笑った。
「誰が、くたばったって?」
 火の中から声がしてにゅっと現れた人影。
「お、おぬし・・・。何故焼かれぬ?」
 八方翁は驚いて振り返った。
「乱馬っ!!」
 あかね姫は確かに無事な乱馬を見て思わず名前を叫んでいた。
「へっ!心頭滅すれば火もまた涼しってな・・・。」
 乱馬はにっと笑って仁王立ちしていた。
「おぬし・・・。そうか・・・。背後に術者が居るのか!」
 八方翁は乱馬を睨みつけた。
「術者?」
 あかね姫はきょとんと乱馬を見上げた。
「へへっ!そうだ。おめえと因縁の深い術者が俺の後ろに控えているのさ。流石に見抜きやがったか。」
 乱馬はそう言いながら笑った。
「術者とな・・・。なかなか面白い真似をする。だが所詮、わが身に叶う陰陽師は居らぬわ。」
「それはどうかな?」
 乱馬はふふんと鼻先で笑って身構えた。
「こんなことも出来るんだぜっ!」
 そう言うと乱馬は短剣を前に差し出した。
「でやあっ!!」
 乱馬が気合を入れるとその短剣はにゅっと先へ伸びた。
「ふん、闘気の刃を出せると言うのか。面白い。」
 八方翁は乱馬に向かって血水晶を差し出した。

 びびびびっと空気が振動する。闇の空間が大きく揺らぐ。
 二人の対決はいっそう激しさを増す。

(凄い・・・。)

 あかね姫は空間の傍らで二人の闘いを見ていた。
 どちらも譲らない。乱馬が引けば八方翁が攻め、八方翁が引けば乱馬が攻め立てる。気と気のぶつかり合いであった。
「そら、人間め。おまえらの力ではこの辺りが限界であろう。」
 体力が底なしの分、八方翁の方に分があるのかもしれない。
 どおんっと激しく空間が音を立てて乱馬が床へと投げ出された。
「乱馬っ!」
 思わず駆け寄るあかね姫に
「大丈夫だ。まだまだ負けはしない・・・。」
 そう言って乱馬が立ち上がる。額から汗と共に赤い血が垂れていた。
「ふっ!その程度か?おまえの力は。まだまだワシを倒すには役不足じゃな。」
 八方翁は余裕の笑みを浮かべて前へと立ちはだかる。
「おまえを援護している術者もなかなかやりおるが、まだまだワシにはかなうまいて。ほら見よ。おぬしらを守っていた結界が解け始めておる。」 
 八方翁は二人の足元を指差した。
 あかね姫は己の足元に浮かぶ真っ白い気の渦をこのとき初めて感じた。
「結界・・・。そうか。この結界のおかげであたしたち、この闇の中を自由自在に動き回れるのね。」
 乱馬はこくんと頷いた。
「大丈夫、東風はそんなに柔じゃねえ。」
 乱馬は嘯くようにあかね姫に囁いた。

「そうか・・・。おぬしの後ろにいる術者は小乃東風か。確か奴は小野氏の亜流の家系だったな。このような小賢しい術が使えてあたりまえか。」
「小乃東風・・・。」
 あかね姫はその名を訊いてはっとした。
「本当に東風さまが後ろについているの?」
 あかねは乱馬を顧みた。
 小乃東風。確かに有能な陰陽師として名高い術者のひとりである。何故彼が乱馬を行動を共にしているのかあかね姫は不思議に思った。
「ああ・・・。確かに俺を助けてくれているのは東風だ。」
 乱馬は真っ直ぐに八方翁を見据えながらそう言い放った。
「やはりそうか・・・。ふん、奴はあくまでこのワシに盾突くつもりか。ならばこちらも考えがあろうて・・・。」
 八方翁はにやっと笑った。


二、

 結界を取り巻く闇が激しく動き始めた。
 八方翁は血水晶を前へ高く差し上げると、指で印を作った。そして何やら妖しい呪文を唱えると、カッと目を見開いた。

「あっ!!」

 あかね姫は前を見上げて驚いた。
 人影がさあっと闇の中から浮かび上がる。良く目を凝らすと、長い黒髪を後ろに靡かせた女性が静かに立っていた。
「かすみお姉さま・・・。」
 あかね姫はそのまま絶句してしまった。

「ふふ、闇の巫女じゃ。斎宮には見覚えがあろうがな。」
 八方翁はそう言って笑った。
 闇に浮かんだ美しい女性は無表情で立っていた。その目に生気はなく、宙を見詰めたまま空へと浮かんでいる。
「どういうことだ?」
 乱馬はあかね姫を見た。
「あれは、霞子お姉さま、そうかすみ姫君。今から七年程前に宮廷から忽然と姿を消した・・・。まさか、こんなところで。」
 あかね姫の声は打ち震えている。
「俺も聞いたことがある。神隠しにあった姫君が居ると。そうか・・・。そいつが。」
「この姫だ。ふふ、ワシが宮廷のお抱え陰陽師になったときに拝借してやった。この闇空間を育てるためにな・・・。」
 ふてぶてしく八方翁は笑い始めた。
「お姉さまっ!あかね姫です。気を確かにっ!」
「あぶねえっ!」
 あかねが前に飛び出しそうになったのを慌てて乱馬が制した。

 びゅっ!

 かすみ姫の方向から鋭い気が発せられた。さっきまであかねを翻弄していた闇の触手はかすみ姫の背中から飛び出してうぞうぞと空間を漂っていた。
「お姉さまっ!」
 あかね姫の声が闇へとこだまする。
「無駄だ。あの巫女の目を見ろ。尋常じゃねえ。おそらく八方翁の野郎に心身とも操られているんだろうよ・・・。」
 乱馬はあかね姫を抱え込んで叫んだ。
「でも・・・。」
「バカッ!一時の感情に流されるな。おめえは斎宮だ。気を確かに持てっ!じゃねえと天皇も都もあいつの思う壺にはまっちまうだろうがっ!」
 乱馬は激しくあかね姫を叱咤した。
 あかね姫ははっと我に返った。
「そうね・・・。乱馬、あなたの言う通りね。こんなところで己の感情の起伏に流されているようでは斎宮として失格だわ。ありがとう。もう大丈夫。」
 あかね姫は紅潮しながら乱馬を顧みた。
「そうだ。それでいい。」
 乱馬はにっと笑った。
「乱馬、あれ。」
 あかね姫はかすみ姫の背後を指差した。
 その背後にはさっきまで映っていなかった闇の正体が見え隠れしていた。大口を開けた闇の魔人がぎろりとこちらを見据えていた。おそらくそれがこの闇を支配している本体に違いない。
「ああ・・・。結界が溶け出しているようだな。闇の魔王を封じた古来からの結界が・・・。こいつはやばいぞ・・・。このままだとこっちがやられることは確かだ。」
 乱馬はコクンと頷いた。
 あかね姫はごくんと唾を飲み込んだ。
 この世にはいくつかある彼岸を結ぶ結界がいくつか張り巡らされていることを斎宮になるために学んだ。闇の世界や聖者の世界、死人の世界、仏の世界、鬼神の世界・・・。この世はいくつもの世界と結ばれている。それぞれの世界は独立していて、他との交流は殆どない。いや、それぞれの世界の秩序を守るため侵してはならない領域を守るために巫女が居る。
 遥か昔から連綿と続く斎宮の役目の一つに、結界を守るという大きな役目があった。
 その領域を越えてこの闇の世界の邪神が入り込もうとしているのだ。

「思えば長い道のりであった。ふん、人間め。この邪神(わたし)を闇の奥へと追い遣って、ぬくぬくと安穏を貪りおって・・・。永年の恨みが今晴らされるのだ。結界を破り、人間どもの世界を我が物に・・・。」
 八方翁の背後で低い唸り声が響く。
「邪神さま自らのお出ましか・・・。結界が歪んでおる。最早おまえたちに残された道は一つ。その清き身を邪神さまへ捧げ、結界を破るための生贄となることじゃ・・・。はははは・・・。役者は揃った。ぼちぼち儀式を始めようではないか。」

「八方翁てえめ・・・。人間を裏切るのか。」
 乱馬は鋭い視線を投げた。
「裏切るも何も、ワシは邪神さまの使い魔、八鬼じゃ・・・。」
 そう言ってはじけ飛ぶ翁の身。みるみる化け物へと変化し始める。

「やはりな・・・。おまえも鬼神そのものだったのか・・・。」

 天井から声がした。
「東風か・・・。」
 八鬼はぎろっと天井を見上げた。
「ああ・・・。そうだ。外からこの結界を守っている。」
 東風の姿が天井に白く浮かんだ。白装束に身を包んだ彼が念を送りながら印を結んでいる姿がそこへと浮かび上がった。
「ふん・・・。久しぶりだな。とうの昔にくたばったと思っておったが・・・。そうか、おまえがこの乱馬とかいう小娘を抱え込んでおったのか。」
 八鬼は角と牙をおどろおどろしく向けながら東風を睨んだ。
「ああ・・・。かすみ姫をおまえにさらわれたときから、ずっと捜し求めてきた。」
 東風は静かに言った。
「小乃東風・・・。そう、かすみお姉さまに求愛していた若き公達・・・。」
 あかね姫の頭の中で、点と点が繋がり始める。
「まだ諦めておらなかったとはな・・・。東風。そうやって陰陽師に身をやつし、かすみ姫と我を求めておったのか・・・。執念深い奴じゃな。」
 八鬼はふふっと鼻を鳴らした。
「そっか・・・。そういう裏があったのか・・・。東風の奴。」
 乱馬は口元をほころばせて東風を見た。
「悪かったな・・・。肝心なところを隠していて・・・。」
 東風は乱馬を見据えた。
「いや・・・。人を思い続けるってことは悪いことじゃねえ・・・。愛する者がこんな下衆な鬼にさらわれたんじゃ当然だ。」
「結果的におまえたちまで巻き込んでしまったがな・・・。」
 東風は寂しげに笑った。
「ふん、人間の分際で。我らが倒せるとでも思ったか?おまえにはワシらは倒せぬ。特に甘ちゃんの東風、おまえにはな。かすみ姫もろとも我を打つ勇気など持ち合わせはせぬ。あの時と同じように・・・。ははははは・・・。」
 八鬼は勝ち誇ったように笑った。
「確かに、あの時はかすみ姫を抱えたおまえを打つ事はできなんだ。だが、あの時の私と今の私は違う。かすみ姫をこの手にかけることになろうとも・・・。このままおまえの思うがままに世を操らせはせぬ。」
 東風は静かに言い放った。

「良かろう・・・。ならばその決意、試してくれん。ふん、どう足掻いてもおまえらにワシを倒せるとは思えぬがな・・・。」
 それからかすみ姫を見やりながら一言声を放った。
「いけっ!」
 八方翁はにっと笑った。あかね姫の同母姉であるかすみ姫を盾に持ってくるつもりらしい。卑怯なやり口だった。
「闇の巫女よ。おまえの妹の斎宮の心臓を抉り出せ。そしてその生き血を邪神さまに捧げよ。そして、結界を崩すのだ。邪神さまが人間界へ出るために。」
 その声に反応してかすみ姫が動き出す。
「そうら・・・。飛べっ!」
 八鬼の気合でかすみ姫が自在に動く。姉姫の魂はここにあらず、八鬼の傀儡人形(くぐつ)と成り果てているようだ。
「あぶねえっ!」
 乱馬はあかね姫を抱えて脇へと飛んだ。
 びしゅっとかすみ姫から触手が伸びて二人を捕らえようと追い縋る。
「くっ!」
 乱馬はたっと短剣を投げた。
 しゅんしゅんっと姉の背中から伸びた何本かの触手がどおっと床下へと落ちて果てた。
 赤い血がどくどくと床下へ流れる。
 だが、かすみ姫は攻撃を緩めようとはしない。いや、かえって動きに機敏さが加わる。
「逃げ惑うだけでは我を倒せぬぞ!」
 八鬼が背後で笑いながら憎々しげに言い放つ。
 
 と、乱馬が投げた短剣を拾いあげ、かすみ姫が振りかぶってあかね姫に向かって投げた。
「あかね姫っ!」
 次の瞬間、乱馬が飛んだ。
「乱馬っ!」
 あかね姫の悲鳴が上がった。
 短剣が乱馬の左腕を掠って地面へと刺さる。乱馬の腕から血が吹き上げた。
「大丈夫・・・。これくらい・・・。」
 乱馬は腕を抑えてあかね姫を見た。
「ふん、やせ我慢か・・・。そら、もっと攻めよ。」
 八鬼はかすみ姫をたきつける。
 無表情のままにかすみ姫は二人の前に立ちはだかる。
 また触手がびゅっと伸びてくる。
 今度はあかね姫と乱馬のの身体を触手が捉えた。
「きゃあっ!」
 悲鳴と共に上空へとあかね姫は身体ごと押し上げられる。身体に巻きついた触手はあかね姫と乱馬ををしっかと抱え込み締め付ける。
「そのまま締め上げて絶命させるも良し。」
 八鬼が笑った。
 ぎりぎりとあかね姫と乱馬の身体を締め付ける。
 乱馬の傷ついた腕から赤き血が滴り落ちる。苦しさで顔は歪み始める。
「苦しいか?ふふ・・・。すぐに楽にしてやる。」
 八鬼の顔は乱馬の滴る鮮血を浴びて嬉々と輝きを増す。
 うおおっと背後で邪神が反応した。

 と天井から数枚の札が飛んできた。

 びしゅびしゅっと乱馬とあかね姫を捉えていた触手を切り落としながら地面へと落ちた。鋭い刃物のように触手を切っては地面へと突き刺さりふっと消える。東風が送り込んだ術だ。
「ありがてえっ!」
 乱馬は地面へたっと立った。そして、次に上から落ちてきたあかね姫を寸でで抱きかかえた。
「私が居ることを忘れてもらってはこまるな・・・。」
 闇の向こう側で東風の声が響く。
「ちっ!小賢しい術で。」
 八鬼はぺっと唾を吐いて悔しがった。
「だが、まだ触手はいくらでも伸びる。闇の力は増大だ。闇の巫女よっ!」
 八鬼はまた何かを命令した。だが、かすみ姫の動きはピタリと止んだ。そう。何かに捕らわれたようにかすみ姫はその場に動かなくなっていた。
「しまったっ!結界か!」 
 八鬼はきっと地面を見据えた。
 先ほど点から振ってきた札が地面へと刺さり、それが六芒星を描いていた。魔を封じる結界であった。


三、

「畜生!結界をはりやがったのか。忌々しい術師め!」
 八鬼はぎろっと天井を見上げた。
 かすみ姫はピタリとその動きを止めた。氷のように冷たい目と固くなった手足とを空間に留めて、気配を完全に断っていた。
「しめたっ!」
 乱馬は咄嗟に気砲を打った。
「無駄な事をっ!こんな屁のような気砲ではこの闇は破れぬ!」
 周りの空間が激震した。そして視界が揺らいだ。
 乱馬はその気に乗じてあかね姫の下へとたっと駆け込んだ。
「あかね姫、良く聴けっ!八鬼を倒しても恐らくあの闇がそのままこの世へと結界を破って突き出してくるだろう。その闇を塞ぐにはおまえの力が必要だ。おまえはあそこに転がっている玉串を手に取れ。そして、あの六芒星の結界の中心に突き立てろ。そうすれば、この世界は崩壊する。元の世界へ立ち戻る筈だ。」
「乱馬は?」
「俺は囮になる。あいつの目をこっちへ向けておく。その隙を突くんだ。いいなっ!」
「でも・・・。」
 躊躇するあかね姫に乱馬はりんと言い放った。
「俺なら大丈夫だ。こんな怪我なんともねえ。このこれから先何が起ころうと己の力を信じろっ!そして俺も・・・。いいな、いけっ!」
 乱馬はそう言い残すと、開け始めた闇へと向かって身を投じた。
「八鬼、俺はこっちだ!」
 乱馬は我が物顔に八鬼の方へと身を乗り出した。
「おのれっ!手打ちにしてくれる!!」
 八鬼が蠢いた。彼はかすみ姫の脇から短剣を抜き取ると、乱馬目掛けて突き出した。
「おっと・・・。へっ!そんなへなちょこ刃、俺様に当たるもんかっ!」
 乱馬は日頃鍛えた盗賊の身軽さを盾に、ちょこまかと避けながら動いた。
 あかね姫は乱馬に言われたとおり、影から飛び出して、持っていた玉串目掛けて走り出す。

「謀りよったかっ!」
 あかね姫の動きに気がついた八鬼がぎろっとそちらを見た。
「おまえの相手は俺様だっ!余所見するんじゃねえっ!!」
 乱馬は気を込めて八鬼目掛けて解き放つ。
「小癪なっ!」
 八鬼は乱馬の気砲を気合で撥ね退けた。
 あかね姫は玉串を手に取ると、夢中で言われたとおり、六芒星の中心へと突き立てた。
「おのれえっ!」
 八鬼があかね姫へと襲い来る。
「させるかっ!」
 乱馬は短剣をつがえて、八鬼目掛けて突進した。
「うおおおおっ!!」
 八鬼と乱馬が激突した。
 赤い血がぱっと飛び散る。
「へっ!ざまあみやがれっ!!」
 乱馬はそう言うと床へと倒れこんだ。
「この私が、人間如きに・・・。」
 そう言いながら八鬼がどおっと前へと倒れ込んだ。
「乱馬っ!」
 玉串を地に突きたてたあかね姫は無我夢中で乱馬の元へと駆け込んだ。
「大丈夫だ・・・。ちょっと刀が掠っただけだ・・・。」
 乱馬は精一杯の笑顔であかね姫を見返した。だが、腕からはかなりの血が滴り落ちる。無事な訳はない。

 あかね姫が駆け寄ると足元の闇の空間が揺らぎ始めた。ごごごと不気味な音を立てながら崩壊し始める。
「無念・・・。我はこのまま滅びる。だがしかし・・・。邪神さまは目覚めた。もう遅いわ・・・。おぬしら皆、闇の中へ飲み込まれて無へと帰するが良い。」
 胸へ短剣を突きたてられた八鬼が肩で息をしながら目を剥いた。
 その鼓動に供応するように、背後の闇がドクン、ドクンと脈打ち始めた。
「斎宮の力だけで闇を葬る事ができようかのう・・・。この闇を完全に葬り去るには益荒男の御魂が居るのじゃぞ・・・。天皇もその息子九能皇子もほれそこに気を失って転がっている。誰が闇を葬る呪文を唱えられよう・・・。ふはは・・・。これから現世へ返って天皇の血を引くものを連れて来ようにも時間はあるまい・・・。我々の勝利じゃ・・・。」
 八鬼はにっと笑って二人を見比べた。
「それはどうかな・・・。」
 あかね姫の傍で息を切らしながらじっと見返していた乱馬がふっと笑った。
「乱馬?」
 乱馬は倒れた天皇の腰の帯刀に手を差し伸べた。
「乱馬、それは・・・。」
 あかね姫ははっとして彼女を見上げた。
「破邪の剣・・・。天皇家に伝わりし由緒正しき剣だ。」
 乱馬が手にした途端、剣は俄かに光を帯びた。
「何?何故だ・・・。何故、おぬしの手の中でその破邪の剣が光る?女には光を宿せぬ筈。ま、まさか、お、おぬし、女ではないのか?」
 八鬼は地面を這いずりながら乱馬を見上げた。

「天地鬼神、諸々の精霊によって我が命じる。闇の結界を張り、全てを元へ返せ!」
 と高らかに剣を頭上へと差し上げた。
 ぱあっと光が下りてきて、乱馬を包む。
「お、おまえはっ!!」
 八鬼は声を飲んだ。
「乱馬っ!あなた・・・。」
 あかね姫もそのままそこへと絶句してしまった。
 光は神々しく輝き、剣を持っていた乱馬の姿が女から男へと変化し始めた。
「くっ!早乙女の君。生きていたのかっ!」
「ああ、そうだ。俺は早乙女乱馬。おまえに呪いを穿たれて、女に変化する体になったが、魂まで変わった訳じゃねえ。俺も、天皇家の血を確かに受け継いだ男児だからな・・・。八方翁、いや八鬼!」
 変化し終えた乱馬は凛とそこへ立って八鬼を見た。
「お、おのれえっ!」
 八鬼は地団駄を踏んで悔しがった。
「闇の者は闇へ返れっ!」
 乱馬はそう言いながら剣を一気に八鬼の身体へと振り下ろした。

 うぎゃあという、断末魔の悲鳴を残して八鬼の身体は灰塵へと消え去った。
 そう、無へと帰したのだろう。
 瞬時に黒い塵へと解し、闇の空間へと飲み込まれるように消えてゆく。

「終わった・・・。」

 あかね姫は力が抜けたようにその場へへたり込んだ。
「いや、まだ終わっちゃいねえっ!」
 乱馬は闇に消えてゆく八鬼の灰燼を見ながらそう言い放った。

 背後の闇、邪神が、乱馬の呟きに反応して一声唸り声を発したような気がした。



つづく



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