巻六 深き闇の中で
一、
黄泉に続く闇が広がる真夜中。
あかね姫はふっと気配を感じて起き上がった。
「誰?」
春とはいえまだ夜風は冷たい。ひんやりとした空気と共に流れ込む気配にあかね姫は神経を研ぎ澄ます。
「俺だよ・・・。」
闇から返事があった。女性の声だ。聞き覚えがあった。
「乱馬?乱馬なの?」
あかね姫の表情がぱっと明るくなった。
燭台に火を入れようとして声が遮った。
「いい、明かりはいらねえ・・・。」
「心配しなくても、ここには人など来やしないわ。ここのところ人はとんと尋ねもしてこないのよ。それより、乱馬。生きていたのね。あたしはてっきり・・・。」
それ以上言葉が続かなかった。
「おめえの泣いた顔なんか見たくねえからな・・・。俺は。だから明かりなんてない方がいいんだよ。」
乱馬は柔らかく言い含めた。
「ねえ、こっちへ降りてきてよ。天井に潜んでいるんでしょ?」
あかね姫は目を凝らして声のする方へと視線を手繰る。
「・・・・・・。いや。そっちへ降りる訳にもいかねえんだ。それが。」
「何故?」
あかね姫は不思議そうな声で尋ねた。
「気取られたくないんでな・・・。」
「気取られる?」
「ああ・・・。おめえ、斎宮の修業してるんだろ?邪悪な気の流れを感じたことはねえか?そのくらいの気配くらい読めても良さそうなもんだがな。」
乱馬は静かに言った。
「邪悪な気・・・。わかるわ。なんとなくいつも或る気配を感じてる。邪悪かどうかは分からないけれど、あたしの上に常に渦巻いている。でも、それがどうしたの?」
「たく・・・。お姫さま育ちはこれだからな・・・。その気がおめえに向けられていることを何にも感じねえか・・・。」
「あたしに?」
「いいか良く聴け。おまえの周りには物凄く邪悪で増大な気が渦巻いている。この俺ですらびんびんに感じるんだ。そいつはおまえに喰らいつく瞬間を虎視眈々と狙っている。そいつが事に及ぶことを目論むのは明晩だ。」
「満月だから?」
あかね姫はさっと答えた。
「ああ・・・。勘が良いな。その通りだ。」
「明日にはお父さま、いえ、天皇がじきじきこちらへ御幸されることが決まっています。そして、私に玉串を捧げてくださるのよ。」
「知ってる・・・。奴らはその気に乗じるつもりなんだ。」
「その気?」
「ああ・・・。天皇がここへ御幸されることも全部計算の上でということだよ。」
「まさか・・・。その邪悪な気って・・・。」
「そうさ。都を転覆させようと狙ってやがるんだ。天皇を呪詛し血祭りにあげたあと、狙うのはおまえだ。」
「あたし?」
「ああ・・・。おまえは今や斎宮としての器量を充分に兼ね備えている。斎宮といえば、この都、いやこの豊秋津島の聖なる巫女だ。男と交わることを避け、隠遁生活を送りながら霊力を身につけてゆく。その聖なる力を取り込もうとしている邪心があるんだ。何分、久々の本格的な才色兼備の清き乙女巫女だからな。おまえは。」
乱馬はゆっくりとあかね姫に語り続けた。
「考えても見ろ。先の斎宮は婆さんだった。前皇の治世が長き世に渡ったからな。元々斎宮になったのも行き遅れたからだと訊いている。その前の斎宮はガキだった。まだ女にもなっていない不完全な巫女だったんだ。ばばあやガキの斎宮を喰らっても霊力は殆ど得られないそうだ。それから数えて流れた年月。奴がおまえを選んだのも、時が満ちたと思ったからだろう。奴はおまえを狙っている。」
「何故そう言えるの?」
あかね姫は恐る恐る声をあげて、姿の見えない乱馬へと問い掛けた。
「俺の傍に侍る「修験者」がそう言った。魔が来ると。この世を全て手中に収めるために蠢いていると。だから俺は都を一旦捨てて出たんだ。その邪気と戦う術を身につけるために・・・。」
「それで、乱馬は?」
「ああ・・・。俺はこうやって都へ帰って来た。奴を倒すために。」
乱馬はきっぱりと言い放った。
あかね姫の胸が一瞬、きゅんと締め付けられた。
何かわからないが乱馬の心の奥底に、燃える大きな気を感じたからだ。
「それで、あかね姫に一つだけ頼みたいことがある。」
乱馬は一呼吸置いて、言い直した。
「頼み?」
何だろうかとあかね姫はきびすを返した。
「俺におまえの身体や心、全てを預けてくれ。喩え何が傍で起ころうと、俺の正体を知ろうと・・・。決して疑わずに、俺を信じて欲しい。」
「乱馬の正体?」
「ああ・・・。今はまだ言えねえ・・・。おまえは謀られたと思うかも知れねえ・・・。でも・・・。俺は・・・。俺はたった一つの真実のために奴と戦いたいんだ。」
「真実?」
「そう・・・。愛する者を守りたいというたった一つの真実。」
乱馬の声は不思議なくらい澄み渡って聞こえた。
あかね姫の脳裏に別れたあの日の記憶が鮮やかに甦った。
死の淵を彷徨いかけたとき、乱馬が口移しで薬草を飲ませてくれた情景だ。
「だから、何が起ころうと・・・。俺を信じて欲しい。奴を倒すまでは・・・。」
あかね姫はじっと沈黙した。
乱馬の決意は強固そうだ。何者にも引っ張られない固い意志がビンビンにあかね姫に伝わってくる。彼女の言の葉は、戯言などではなく、心から己を愛している、そんな鮮やかな自信に満ち溢れていた。
女同士の危険な欲情と他人は言うかもしれない。
だが、決してそれは不快ではなかった。
こうやって話をしている間中、闇の向こう側から、乱馬の悲愴な決意と、柔らかな慈愛に満ち溢れた視線と気をずっと感じ続けていた。
今宵始めてあかね姫は乱馬の気が誰に似ていたのか、わかった。そう、ずっと追い求めてきた初恋の君の気に似ていたことに、ようやく気がついたのである。
「早乙女の君・・・。」
虚空へ何故か口を吐いて出た名前。
その囁きを耳にして乱馬の心臓がドクンと波打った。
「あかね姫・・・。早乙女の君は死んではいない・・・。」
ぽつんと一言だけ放り投げた。
「え?」
あかね姫は乱馬の真意を図りかねて訊き返した。
「俺と一緒に生きている・・・。」
「それは本当なの?乱馬?早乙女の君は今何処に居るの?」
「今はまだ言えない。でも、事が全て済んだとき、改めておまえに真実を語ろう。だから、俺を信じろ。いいな。くれぐれも忘れるな。あかね姫っ!」
闇夜から気配が遠のいた。
「乱馬?」
蒲団から思わず跳ね起きて辺りを伺ったが、もう気配はなかった。
夢だったのか。それとも幻だったのか。
屋敷が焼け落ちた日、早乙女の君は脱出して、もしかすると乱馬たちと合流したのかもしれない。微かだがあかね姫に人心地が戻ってきたような気がした。
「わかった・・・。われはそなたを信じます。乱馬・・・。そして・・・。早乙女の君を。」
あかね姫はそう闇に向かって微笑みかけた。
「いいのですかな?早乙女の君・・・。いや、乱馬。」
東風が乱馬をちらっとみて笑った。
「うるせえ・・・。仕方ねえだろう?これ以上あの汚れなき聖域に近づくなって言ったのはおまえだろうが・・・。」
乱馬は東風を攻め立てるように流し目で見た。
これ以上聖域に近づけば、彼女の周りに張り巡らされた八方翁の結界に触れる。
それは相手にこちらのことを悟らせることになる。
奇襲としては失敗に終わるだろう。
勿論奴も一介の陰陽術師。こちらの気配は感じ取っていても不思議ではない。だが、相手に手の内を見せるわけにはいかなかった。
見下ろすあかね姫の蔀屋の周りには、どす黒い色をした結界が張り巡らされている。乱馬にも東風にも手に取るようにその不気味な気が分かった。あかね姫はおそらく、その結界には気がついていないだろう。彼女はあまりにも無垢で気高い。いや、彼女の周りから出る清廉な気は元々邪悪とは掛け離れたものなのだ。
其の増大なエネルギーを放出させまいと清き聖域の結界が自己主張しているようにも見えた。
「畜生・・・。奴め。絶対に俺が阻止してやる。この命に代えても・・・。」
乱馬はあかね姫の居る屋形を見上げて苦々しく吐き出した。
「どちらにしても明日・・・。くれぐれも気取られませぬように・・・。早乙女の君・・・。いや、乱馬。」
東風はそう言いおくと静かに闇に溶け出していった。
二、
次の日は穏やかでのどかな春の一日だった。
桜の花がたわわに枝葉を揺らしていて、薄ピンクが空の淡い青に光り輝いていた。
あれから乱馬はずっとあかね姫の屋形の奥に息を殺して潜んでいた。手には兵糧を抱え、腰には竹の水筒。暇をぬっては渇きと空腹を満たした。
「体力、温存しとかねえとな・・・。」
東風はこれ以上中に踏みとどまれないので、昨夜のうちに別れた。
勿論、彼なりに重要な役割を果たしてくれるだろう。
どうしてここまで彼が八方翁の陰謀に執心するかは乱馬も本当のところは知りえなかった。だが、彼は八方翁を憎んでいる。それだけは確かだった。
下にあるあかね姫の柔らかい気は心地いい。
このまま彼女をさらって東国へ逃げられればどんなにいいか。
乱馬はふうっと溜息を投じた。
(あかね姫のことだ・・・。きっとそれには応じまい。彼女はきっと斎宮としての任務を全うしようとするだろう。そういう奴だからな・・・。)
乱馬は腕枕をしながらぼんやりと考えた。
あかね姫を守り抜くこと。
それが彼に与えられた最大の課題だ。
いつしか太陽は西へ傾き、闇が迫り来る。
決戦の夜。
今夜は満月。まん丸な月は煌々と輝く。
太陽が沈んでしまうと、星が美しく輝き始めた。
春とはいえ、日が沈むと心底から冷えてくる。息が白みがかる。
乱馬は夕方まで少し仮眠した。元気は有り余る方が良いに決まっている。最後に物を言うのは気力と体力だ。
乱馬は迫り来る闇を睨み付けながら、其の時をじっと待った。
カタンと音がした。
ざわざわと人の気配が其処ここで上がり始める。
俄かに下の様子も賑やかになった。
きっと天皇が御幸してきたのだろう。天皇は清められた斎宮と共に、この満月の夜を過ごす。勿論、男と女の仲としてではない。あくまで最高司祭としての天皇とその巫女との関係である。
天皇は容易(たやす)く結界を越えて入って来た。
並みの人間には見えない、どす黒い結界を踏み越えてだ。
これで八方翁の計略の第一段階は制覇したことになる。
あかね姫はその結界には触れていなかった。いや、結界の方が触れられないといった方が正確だったかもしれない。結界が潜入を拒むほど、それほど清廉な斎宮の清き魂があかね姫の胎内に宿り始めていた。
人々は天皇の御幸を慌ただしく迎え入れ、結界へと踏み込み始める。
あかね姫を冒すことが出来ぬその聖域が少しずつではあったが、八方翁の張り巡らせた穢れた気に侵食され始めていた。
「どうかなされたかな?」
あかね姫はその気に触れたのか、少し、胸が苦しくなった。が、気のせいだと思って気を取り直した。
「いえ・・・。ちょっと軽い目眩がしただけです。何しろ、もう何ヶ月もこの屋形から出ず、じっとここで身を清めて参りましたから。久しぶりにこうしてお父さま、いえ天皇さまにお会いして、胸が騒いでいるのでありましょう。」
あかね姫はそう答えた。
「では、これを・・・。玉串じゃ・・・。」
天皇は持ってきた玉串を仰々しく差し出した。緑の美しい葉が燭台の明かりにも関わらず、光るように輝いている。
あかね姫は深々と一礼してそれを受け取った。
天皇から受け継がれた新しい玉串。これをまた野宮へと捧げ、夏の伊勢下向へと向けて修練を積む。
それが斎宮としての第一歩だった。
「あかね姫・・・。そなた、美しくなったのう・・・。花の盛りは短いというのに、すまぬ・・・。」
天皇は静かに娘に言葉を継いだ。そう、年頃のこの姫は、本当なら、宮殿の華となり、艶やかに輝いていたに違いない。類稀なその美貌は、このまま伊勢へと下向させるには勿体無さすぎる。男であれば誰しもがそう思うものだった。
「ならば、そのまま、下向せずにすむ方法をとらせていただこうかのう・・・。」
部屋の向こう側から不気味な男の低い声が響いた。
「誰じゃっ?ここを斎宮の野宮と知っての狼藉かっ!」
あかね姫はきつく言い放った。
ここは男子禁制の空間。天皇以外の男は忍び寄れない聖域の筈だ。
『くくっ!ワシはおまえをこの息苦しい空間から解放しに来てやったのだぞ・・・。』
声は愉しそうに唸り始めた。
「何をっ!出会えっ!ここに狼藉者がっ!!」
あかね姫は大きな声で叫んだ。
『無駄だ・・・。ここは最早、おまえの居た世界とは違うでな・・・。』
声と共に、蝋燭は妖しく揺らぎ始めた。
「うっ!」
傍に居た天皇が一言唸ると、苦しそうに咽喉を抑えた。
「お父さまっ!」
あかね姫は父皇の様子が俄かに急変したのを見て思わず駆け寄る。
『ふふふ・・・。利き始めたようじゃな・・・。』
声の主は面白おかしそうにそうほくそえんだ。
「う・・・うわあ・・・。」
天皇は激しくのた打ち回る。
顔色がみるみるどす黒くなってゆく。
『苦しめ・・・。ふふふ。その命、我の呪いの炎で焼き尽くされるがいい・・・。』
「そうはさせるものですかっ!」
あかねは玉串を掲げた。
「悪霊、退散なさいっ!」
長い髪を揺らめかせて、あかねは声のする方へと向き直った。
玉串はあかねの目先でかさっと音を発てて揺らめいた。
『無駄な抵抗を・・・。』
一瞬、邪気が緩んだような気がした。
「やっぱりね・・・。邪悪の妖気は聖気に弱いのね・・・。」
あかね姫は凛と闇を睨んだ。その先に気配を感じるからだ。
と、何者かがあかね姫の後ろから回りこんで玉串を払った。玉串はあかね姫の手を離れて畳へと転がった。
「えっ?」
あかね姫は侵入者を見た。
「く、九能皇子・・・。」
あかね姫は手足をバタバタと動かしてその呪縛から逃れようと足掻いたが、所詮、女の微力では、男の腕力には叶わない。
「抵抗はおやめなされませ・・・。姫さま。」
九能皇子はにやっと笑って捉えたあかね姫を見た。
「なぜ、そなたがっ!ここは男子禁制のはず。私は斎宮。そなた気でもふれられましたか?」
あかね姫はぐっと睨みつけた。
「斎宮・・・。確かにそうかもしれませぬが、父上が亡くなればあなたは放免。そうでしょう?」
九能皇子は耳元で囁くように吐き出した。
「な、何を?そなた、まさか・・・。」
あかね姫は動かない身体をそれでも懸命に動かそうと足掻き続ける。
「ふふ・・・。父君が亡くなれば、次の天皇はこの私。そうなれば、そなたの斎宮という地位は不要になるではありませぬか・・・。」
「九能皇子!放しませっ!この手を。そのようなこと、許されると思われるか?」
あかね姫は懸命に声を張り上げ力を振り絞った。
「私が権力者になれば、何事もこの意のままに・・・。」
九能皇子は妖しくあかね姫を見詰めた。
「そうら・・・。八方翁。さあ、早く、呪詛してしまえ・・・。そして、早くこの姫を私の物に・・・。」
九能皇子は闇を見据えた。
ぐっと禍々しい力がその空間を歪める。いつしか赤い炎のような硝煙が立ち上がり、どす黒い修羅場へと変貌を遂げる。
『よくやったぞ・・・。九能皇子。斎宮を絡め取り、忌々しい玉串を弾き出してくれるとは・・・。ふふふ、ご苦労であったっ!』
ピシュンっと何かが空間から飛び出して、九能皇子の脳天を貫いた。
「うわあ・・・。おのれぇ、八方翁。そなた、何を・・・。」
九能皇子は叫ぶと、あかね姫の腕を放した。
「しめたっ!」
あかね姫はその気に乗じて、足元へ転がっていた玉串を手に取ろうと前へ飛び出した。
『おっと・・・。そうはさせぬっ!』
闇から黒い気があかね姫を捕らえた。
「う・・・。」
あかね姫は寸でのところで玉串まで手が届かず、その黒い気に身体を押し戻される。
『全てが終わるまで大人しくしておれっ!』
闇の声はそう言いながら空間を震わせた。
『全てが終わったとき、おまえを喰らってやる・・・。その聖なる力を闇の力に変換するのだ・・・。そして、我らはこの世界に君臨する。』
「うおおおっ!」
傍で苦しんでいた九能皇子が雄叫びを上げた。押さえ込んでいた顔から手を離すと、身体が青黒く変化し始めた。
「ふふ・・・。変化し始めたか。惨めよのう・・・。己のその欲望に耐えられず、聖なる巫女を手に入れようとした。哀れな奴の末路。さあ、その手でそなたの父を倒せ・・・。心の臓をえぐり出して、我に捧げよ。九能皇子、いや、わが僕(しもべ)よ。」
「九能皇子っ!」
あかね姫の叫び声が重なると、九能は、があっと一伸びした。と、彼の身体が闇に一瞬捕らわれ、何かが身体から弾け出した。
みるみる空間へ伸び上がる異様な肉片は、ぎょろりと目を剥いた。魚のような鱗が身体を埋め尽くす。最早九能皇子の面影など何処にもない怪物に成り下がっていった。
三、
九能皇子は最早人間の言葉を解さぬ妖怪へと変化してしまった。
おどろおどろしい、生臭い妖気があたり一面に満ちてくる。
普通の人間なら、おそらくその瘴気に当てられ、この場で平常心を保つことすら出来ないかも知れない。だが、あかね姫はまだ正気を保っていた。
目の前に繰り広げられる、信じられない光景を己の心中に必死で捉えようとしていた。
あかね姫を捕らえる闇の魔手は頑として動かない。
動くことも叶わず、金縛りにあっているように、あかね姫はその空間の中へ捉えられていた。
額からは流れる汗。ぽたっと下に滴り落ちる。空間は赤黒く爛(ただ)れ、灼熱地獄の様相を呈していた。
「父上っ!」
あかね姫は自由になる声だけを腹の底から絞り出した。
色を失って倒れたままの天皇。手にしていた笏(しゃく)は彼方へと飛ばされていった。
「くっ!」
あかね姫は懸命に手を動かそうと闇の中で足掻いた。
九能皇子だった怪物は呻き声を上げながら空間を蠢いた。まるで芋虫のような節のある手足。そして灼熱の炎で焼かれた後のようなおどろおどろしい顔。目だけがぎょろりとこちらを見据える。
うぉーーーっ!がるるるる・・・。
言葉にもならない叫び声、いや、吠え声がこだまする。
あかね姫はそれでも必死で動こうと身体をくねらせた。
と、何かがあかね姫の目の前にひらっと落ちてきた。
(こ、これは?紙切れ?)
あかね姫は落ちてきた物を必死で掌で掬い受けた。
(護符・・・。)
あかね姫はたっと目を輝かせた。
それは紛れもない、白い純白の護符であった。
(何故こんなものが・・・。)
天井を見上げたが、どこから落ちてきたのかわからなかった。
護符を握った手に力が入るのを感じた。
(力が湧いてくる・・・。しめたわっ!もしかするとこの護符の力で呪縛が解けるかもしれない!)
あかね姫は僅かな望みにかけようと咄嗟に思い立った。天井は赤黒く揺らめく亜空間になっていて、その上に何があるかあかね姫にはわからなかった。だが、微かに何か大きな力を感じ始めた。
これも護符の利益なのだろうか。
あかね姫は護符をぎゅっと深く握り締めた。そして身体中の気をそこへと導き始める。
「さあ、九能皇子よ、天皇を喰らえ。その心の臓を抉り出して我に捧げよ!」
八方翁は怪物と化した九能へと命令をした。
「おおうおおおっ!」
九能皇子はその声に反応して、ぎょろりと視線を床に転がる父皇へと向けた。
そして大きく裂けた口をくわっと開いた。唾液がだらりと牙から滴り落ちる。手を大きく振り上げて父皇へとにじり寄り、爪を切りたてようとした瞬間、あかね姫は全身から精気を放った。
「そうはさせないわっ!九能皇子っ!!」
あかね姫の右手から一筋の光が九能皇子の前に弾け飛んだ。
「な、なに?」
八方翁ははっとした表情をあかね姫に手向けた。
あかね姫はにこっと笑って八方翁を見据えた。闇の魔手はあかね姫の身体から発せられる閃光に恐れをなし後ろへと引いてゆく。
「おぬし、何故動ける!くっ!それは破魔の護符っ!」
八方翁はあかね姫の手に握られた護符を見てそう叫んだ。
「九能皇子、いえ、怪物よ、お父さまから離れなさいっ!!」
あかね姫は続けて叫んだ。そして、勇猛にも九能皇子の怪物の懐へと飛び込んだ。
うがあああああっ!!
九能皇子は大きな叫び声を上げて両手で頭を抱え始めた。
あかね姫が手にしていた護符が怪物の額へと張り付く。九能皇子は護符の力に抵抗しながら、苦しそうにもがき始めた。
「くそうっ!どこにそんな護符を仕込んでいたのだ。斎宮っ!!」
八方翁はあかね姫をきっと睨みつけた。
「悪は滅びるのよっ!」
あかね姫はそう言いながら静かに八方翁と対峙した。
「何を小癪な。」
「見ろっ、九能皇子を。」
あかね姫の指差す方で九能皇子が人間の姿へと立ち戻り始めた。さっきまでの異形はすっかり元へと立ち戻っていた。そして、九能皇子はそのまま前へとつんのめり、どおっと倒れこむ。
「使えない奴だったな・・・。」
八方翁はそう言うと、唾を吐きかけた。
「観念なさいっ!八方翁。」
あかね姫は翁へと言葉を投げつけた。
「観念?ふっ!このような小細工如きで我が降参するとでも思うたか・・・。はっはっは、面妖な。」
八方翁はそう言うと高らかに笑った。
「えいっ!!」
そして返す言葉でそう発すると、手を前に差し出した。すると、再び闇が激しく動き始める。
「きゃあっ!」
闇は再びあかね姫の動きを封じ込めた。今度は四方八方からどろどろした長い根っこのような触手が伸びてきて、あかね姫の身体を包み込んだ。
「破魔の護符とて一枚切りじゃろう。それが切り札だった、そうだな?それが証拠に、今度こそ動けまい。」
八方翁はあかね姫をじっと見据えてそう言い放った。
「無駄な抵抗じゃ!」
にやりと笑って八方翁はあかね姫を見やった。
「人間とはかくも諦めが悪いものかのう・・・。」
身体中に伸びた触手は容赦なくあかね姫を締め付ける。
「ぐっ!」
あかね姫の顔がその圧力に唸り声を上げた。
「苦しかろう?ふふふ。その呪縛は護符如きの弱い念では解けぬ。いまいましい斎宮め。先におまえを血祭りに上げてやろう。」
そう言いながら、ちらりとあかね姫の方を向きやると、八方翁は数珠を前に差し出した。
「これが何かわかるか?斎宮。ふふ、これは血水晶(けっすいしょう)で作られた念珠じゃ。この珠におまえの血を浴びせてやろう。斎宮の清き血で洗われた水晶は最高の妖力を得るからな。そらっ!」
そう言うと八方翁は伸びてきた触手の太い一本に息を吹きかけた。
触手は八方翁の息を感じ取ると、みるみるうちに先に人面が現れた。それも八方翁と同じ形をした面だ。
「ふふ・・・。ワシの息で変化したこの闇の触手に身体中の血を吸い取られてしまうがいい。どうら・・・。斎宮の血はさぞかし美味じゃろうて・・・。」
そう言うとしわがれた手をあかね姫の捕らわれた顔へと差し向けた。
「外道・・・。」
あかね姫は気丈にもそう言葉を吐きかけた。
「ふふん、何とでも言うがよい。おまえの身体はこのワシと、邪神さまに捧げられるのだ。そして、この平安の都は全て我の手に落ちるのだ。これからは闇の世界の都として、末世まで栄える。妖気に溢れた世界。ははは、面白いではないか。・・・もう、抵抗はしないのか?斎宮よ・・・。はは、したくても出来ないよなあ・・・。」
あかね姫の身体を捕らえた触手がじわじわと締め付けはじめる。その力に身がぎしぎしと音をたてて崩れてゆくような力にあかね姫は歯を食いしばった。
「苦しいか・・・。ふふん。どうだ。ワシの女にならぬか?そうすればこの呪縛解いてやってもよいぞ・・・。斎宮を娶る、これもまた一興じゃて・・・。」
八方翁はちろっとあかね姫を見た。
「喩えこの身が朽ち果てようと、おまえのような邪な悪鬼にこの清き身体、与えはせぬ。」
あかね姫は苦しい息の下からそうはっきりと言い放った。
「ふん、良かろう・・・。ならば、ここで朽ち果てるがよいっ!いけっ!斎宮の血を吸い尽くせ・・・。我が闇の触手よ。」
八方翁はにやっと笑って触手に命令した。
しゅるしゅると鈍い音を立てながら触手が一斉にぞわっと動き出した。
あかね姫は観念して、目を閉じた。
「乱馬っ!」
彼女の名前を呼びながら。
つづく
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